とにかく、車を移動させよう。
助手席に乗り込んだわたしに、彼はまず、そう言った。
人口十万足らずの町では、どこで誰が見ているか分からない。
ふたりとも独り身だから、別に構わないのに。

ともかく車は走り出す。

どこへ行きますか。

珍しく敬語でたずねられたので、相手も緊張しているのかなと思う。

わたしは答えない。

言葉が出ない。
さっき、この車に向かって歩いて来た時に胸に渦巻いていた渇望感が薄れている。
こういうのは、違う。
こころのどこかで、アラームが鳴っている。

そのとき、彼の携帯が鳴る。

まるで、わたしの気持ちのアラームが、現実の音になったみたいに。
「うん、また、少ししたらかけるよ。」
そして、
「昨日のあいつが、また食事に誘ってきたんだけど・・・どうする。」
わたしは迷わず、
「行きましょう。二人揃って現れたら、変に思われるかもしれないけれど。」
と、答える。
五つ年上の三十男が、なぜかほっとしているのを感じる。だから、少しつまらなくなって、
「帰りは、送ってくださいね。」
と、宿題を押し付けた。


わたしたちは、同じ会社の同僚としての何時間かを、三人でつかう。
食事して、呑んで、歌って。
ただ、彼はもう「妹」の歌は歌わない。
もう一人の男がトイレに立つと、ほかの客たちの目を盗むようにして唇を重ねてくる。
そのことが、きのうと違う。
そして、何度もキスをするうちに、また渇望感が胸の奥で生まれてくる。
キス。
口は、気持ちを伝えるための器官なのだった。
それは、言葉を生み出すという意味だけでは無いのだと、知る。
わたしたちは、唇で、幾つもの、幾重もの感情を相手に流し込み合う。
そして、口は、何かを食べるための・・・。
宿題の時間が待ち遠しい。

でも。
彼の腕が、わたしを抱きながら、リクライニングシートを倒そうとしたときに、また携帯が鳴る。
無視。
でも、止まらない音が、狭い空間を満たしていく。

彼が、ため息をついて電話をとる。

わたしたちは、そのままその日は別れた。
電話をかけてきたのは、さっきいっしょに食事をした男である。
もう少し呑みたいので、付き合わないかという誘いだった。
そこにもついて行くのは不自然過ぎるから、わたしはそっと、髪をなおし、彼の口元の口紅をぬぐって、おやすみなさい、と車をすべり出る。

おやすみなさい。

自分の車に乗り込み、エンジンをかけると、ヘッド・ライトの中に、胡瓜の花が浮かび上がった。
新興住宅地の庭先で、育てているものらしい。



発情の色は黄色の胡瓜咲く


花をつければ必ず実る、植物がうらやましい。
なんとなく、まともな恋はできない予感に襲われる。

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