ボジョレー・ヌーボー
2004年11月18日 みじかいお話 ボジョレーを選ぶ指から酔っていく
「お酒が呑めなくても、生きていけるよ。」
そう言って慰めてはくれるものの、やはり恋人とこの季節に
ワインを楽しめないことを、彼は寂しく思っているだろう。
わたしだって、ほんとうは、呑んでみたい。
そして、いい気持ちに酔っ払って、素面のときなら絶対に言わないような言葉を、男の耳元でささやいてみたり、歩けなくなって、腕に甘えてみたりしたい・・・。
しかし、アルコールに弱いのは生まれつき。かす汁でも、チョコレートボンボンでも、赤くなるという情けなさ。
毎年、ボジョレー・ヌーボーの季節になると、未知の味覚を想像するだけで、うらやましくてめまいがしそうになる。
しかも、今年は、恋人がいる。
いや、恋人、って言っちゃっていいものか。まだ、手もつないだことが無い。
正しく言えば、二人きりで食事したことが、一度あるだけ。
そのときに彼がたずねてきたのだ。
「僕と、どうなりたい?」
少しいいな、と思っていたから、うつむいて答えられなかった。これが、まったく好みのタイプじゃなかったら、大笑いして相手の気をそらすところだ。「どう、って・・・。」小さな声でつぶやいてから、少し勇気を出して、
「逆に、あなたは、わたしとどうなりたいんですか?」
と、聞いてみた。緊張の余り、声が大きくなってしまった。
彼は、生まれつきの色白の頬を、少しだけ上気させて、でも、話し方も声もいつも通りの冷静さを失わないままで、
「少し・・・恋人、なのかな。」
と、微笑んだ。
そして、今、わたしは彼のすぐ近くにいる。
三宮から、ハーバーランド側を見ている。車の中で二人きり。
オリエンタルホテルの窓の明かりがまばゆい。神戸の冬は、乾いた空気に、やたらと光が織り込まれて始まる。クリスマスのオーナメントの似合う街。
突堤では、釣り人たちが糸を海に投げ込んでいる。
車内で言葉が途切れると、釣り人たちが、リールを巻く音がきりきり、と聞こえてくる。
暗い海は静かに、ひたひたと波立ち、陸からこぼれる灯を留まらせて、しなやかにゆらぐ。
わたしたちは、話をする。
お互いのことを何も知らないことに気が付き、今まで共有できなかった長い年月について話す。
二人の言葉は、それぞれが色の違う糸のよう、かわるがわる織り合わさって、一枚のタペストリーになる。
そして、何時間もそうしていて・・・・。
「だけど、今夜、どうして此処に連れてきたか、分かる?」
彼が優しい声でたずねる。
「・・・なぜ?」
ほんの少し緊張して、彼の横顔を見ると、ほっそりした顔に穏やかな微笑みを浮かべ、「ほら、あれ、見てよ。」と、海を指差す。
「あのね、きみとワインを楽しみたかったんだ。僕の選んだワインをね。」
まぶしいほど白くてしなやかな指の先には、ポート・タワー。確かに、ワインのボトルみたいだね。
「ありがとう。」
「気に入った?」
わたしは、笑って肯く。そして、思う。
たぶん、恋に、なる、と。
「お酒が呑めなくても、生きていけるよ。」
そう言って慰めてはくれるものの、やはり恋人とこの季節に
ワインを楽しめないことを、彼は寂しく思っているだろう。
わたしだって、ほんとうは、呑んでみたい。
そして、いい気持ちに酔っ払って、素面のときなら絶対に言わないような言葉を、男の耳元でささやいてみたり、歩けなくなって、腕に甘えてみたりしたい・・・。
しかし、アルコールに弱いのは生まれつき。かす汁でも、チョコレートボンボンでも、赤くなるという情けなさ。
毎年、ボジョレー・ヌーボーの季節になると、未知の味覚を想像するだけで、うらやましくてめまいがしそうになる。
しかも、今年は、恋人がいる。
いや、恋人、って言っちゃっていいものか。まだ、手もつないだことが無い。
正しく言えば、二人きりで食事したことが、一度あるだけ。
そのときに彼がたずねてきたのだ。
「僕と、どうなりたい?」
少しいいな、と思っていたから、うつむいて答えられなかった。これが、まったく好みのタイプじゃなかったら、大笑いして相手の気をそらすところだ。「どう、って・・・。」小さな声でつぶやいてから、少し勇気を出して、
「逆に、あなたは、わたしとどうなりたいんですか?」
と、聞いてみた。緊張の余り、声が大きくなってしまった。
彼は、生まれつきの色白の頬を、少しだけ上気させて、でも、話し方も声もいつも通りの冷静さを失わないままで、
「少し・・・恋人、なのかな。」
と、微笑んだ。
そして、今、わたしは彼のすぐ近くにいる。
三宮から、ハーバーランド側を見ている。車の中で二人きり。
オリエンタルホテルの窓の明かりがまばゆい。神戸の冬は、乾いた空気に、やたらと光が織り込まれて始まる。クリスマスのオーナメントの似合う街。
突堤では、釣り人たちが糸を海に投げ込んでいる。
車内で言葉が途切れると、釣り人たちが、リールを巻く音がきりきり、と聞こえてくる。
暗い海は静かに、ひたひたと波立ち、陸からこぼれる灯を留まらせて、しなやかにゆらぐ。
わたしたちは、話をする。
お互いのことを何も知らないことに気が付き、今まで共有できなかった長い年月について話す。
二人の言葉は、それぞれが色の違う糸のよう、かわるがわる織り合わさって、一枚のタペストリーになる。
そして、何時間もそうしていて・・・・。
「だけど、今夜、どうして此処に連れてきたか、分かる?」
彼が優しい声でたずねる。
「・・・なぜ?」
ほんの少し緊張して、彼の横顔を見ると、ほっそりした顔に穏やかな微笑みを浮かべ、「ほら、あれ、見てよ。」と、海を指差す。
「あのね、きみとワインを楽しみたかったんだ。僕の選んだワインをね。」
まぶしいほど白くてしなやかな指の先には、ポート・タワー。確かに、ワインのボトルみたいだね。
「ありがとう。」
「気に入った?」
わたしは、笑って肯く。そして、思う。
たぶん、恋に、なる、と。
思い出のやふに蜜柑の甘くなる
わたしは、クラスの中でも小柄な方で、背の高さは低い方から数えて二番目だった。
これに対して彼女は長身で、女の子の中では三番目に背が高かった。
高校生活最後の学校祭のクラスの出し物で「ロミオとジュリエット」の英語劇をすることになり、わたしと彼女が主役になった。
共学なのに女子生徒同士が選ばれたのは、その方が何かと後くされなく演技ができるという説と、担任の英語教師の中年らしい嗜好が働いているのだという説、二通りがあった。
とにかく、ロミオ役の彼女は発音がなめらかなだけではなく、素晴らしく綺麗な低音を持っていた。もちろん、英語もよくできた。その彼女が相手役にしたい、と指名したのが、このわたしだったと聞いた。
まあわたしも文系志望だけあって、英語の成績はそれほどまずくは無かった。でも、発音もよくないし、第一、記憶力が悪い。正直言えば、何度、主役を引き受けたことをうらんだだろう。だが、
「もう、わたし、降りたいよ。」
そんな泣き言を言うたびに、ロミオは優しく、
「大丈夫。放課後も休みもいっしょに練習しよ。付き合うからさ。」
と、黒いビロードの感触を思わせる美声で励ましてくれるのだった。
高校生の演劇だから、そうハードでは無いけれど、話が話だけに、少しはラブシーンがある。
身長差15センチ近くある彼女の胸に抱かれると、ハンドボールで鍛えた身体は、いろんなところが引き締まっていて、丸っこいわたしには無い清潔感があった。コロンの香は甘酸っぱくて、どこか熟しきれていない青い蜜柑を思わせる。わたしには、付き合っている男の子がいて、それなりにキスくらいは体験していたが、彼に身を任せるのとは違う種類の高揚感を感じた。もちろん、それは、人と人とが肌を寄せ合えば誰でも感じる落ち着かなさだと、解釈していたけれど。
しかし、学校祭の本番が無事に終わり、衣装から制服に着替えていたときのことだ。
不器用なわたしが、いつものように棒タイをうまく結べずにいたとき、彼女が近付いて来た。
「もう、結んでやるよ。」
その口調はいくら何でもぞんざいで、男役をした名残りが取れないんだな、とわたしは思った。そして、
「ありがと・・・。」
と、言いかけたとき、ふっ、と柔らかいものが唇に触れた。
・・・キス・・・
驚いて目を見張ったときには、胸元の棒タイはきちんと校則通りに結ばれていて、彼女も更衣室から出て行ってしまっていた。
その後、彼女は獣医になるために、北国の大学に進学し、わたしも近隣の県にある地味な短大に進んだ。
数年ほどして、彼女は夢をかなえて獣医になり、東京で結婚したと聞いた。卒業式以来、顔を見ていない。
わたしの手元に、一枚の写真がある。
謝恩会の二人を写したものだ。
彼女はふざけて学ランを着ている。わたしは、いつもの制服。そして、かたく、かたく抱き合っている。だから、二人ともちゃんと顔は見えない。
三十路を半ばも過ぎ、お互いにそれなりの容貌になったと思う。だけど、わたしは、この季節になると、毎年いつも思い出すのだ。ロミオに抱きしめられたときの、甘酸っぱい香を。
年をとるごとに、その香が、甘味を増していく気がするのは、なぜだろう。
わたしは、クラスの中でも小柄な方で、背の高さは低い方から数えて二番目だった。
これに対して彼女は長身で、女の子の中では三番目に背が高かった。
高校生活最後の学校祭のクラスの出し物で「ロミオとジュリエット」の英語劇をすることになり、わたしと彼女が主役になった。
共学なのに女子生徒同士が選ばれたのは、その方が何かと後くされなく演技ができるという説と、担任の英語教師の中年らしい嗜好が働いているのだという説、二通りがあった。
とにかく、ロミオ役の彼女は発音がなめらかなだけではなく、素晴らしく綺麗な低音を持っていた。もちろん、英語もよくできた。その彼女が相手役にしたい、と指名したのが、このわたしだったと聞いた。
まあわたしも文系志望だけあって、英語の成績はそれほどまずくは無かった。でも、発音もよくないし、第一、記憶力が悪い。正直言えば、何度、主役を引き受けたことをうらんだだろう。だが、
「もう、わたし、降りたいよ。」
そんな泣き言を言うたびに、ロミオは優しく、
「大丈夫。放課後も休みもいっしょに練習しよ。付き合うからさ。」
と、黒いビロードの感触を思わせる美声で励ましてくれるのだった。
高校生の演劇だから、そうハードでは無いけれど、話が話だけに、少しはラブシーンがある。
身長差15センチ近くある彼女の胸に抱かれると、ハンドボールで鍛えた身体は、いろんなところが引き締まっていて、丸っこいわたしには無い清潔感があった。コロンの香は甘酸っぱくて、どこか熟しきれていない青い蜜柑を思わせる。わたしには、付き合っている男の子がいて、それなりにキスくらいは体験していたが、彼に身を任せるのとは違う種類の高揚感を感じた。もちろん、それは、人と人とが肌を寄せ合えば誰でも感じる落ち着かなさだと、解釈していたけれど。
しかし、学校祭の本番が無事に終わり、衣装から制服に着替えていたときのことだ。
不器用なわたしが、いつものように棒タイをうまく結べずにいたとき、彼女が近付いて来た。
「もう、結んでやるよ。」
その口調はいくら何でもぞんざいで、男役をした名残りが取れないんだな、とわたしは思った。そして、
「ありがと・・・。」
と、言いかけたとき、ふっ、と柔らかいものが唇に触れた。
・・・キス・・・
驚いて目を見張ったときには、胸元の棒タイはきちんと校則通りに結ばれていて、彼女も更衣室から出て行ってしまっていた。
その後、彼女は獣医になるために、北国の大学に進学し、わたしも近隣の県にある地味な短大に進んだ。
数年ほどして、彼女は夢をかなえて獣医になり、東京で結婚したと聞いた。卒業式以来、顔を見ていない。
わたしの手元に、一枚の写真がある。
謝恩会の二人を写したものだ。
彼女はふざけて学ランを着ている。わたしは、いつもの制服。そして、かたく、かたく抱き合っている。だから、二人ともちゃんと顔は見えない。
三十路を半ばも過ぎ、お互いにそれなりの容貌になったと思う。だけど、わたしは、この季節になると、毎年いつも思い出すのだ。ロミオに抱きしめられたときの、甘酸っぱい香を。
年をとるごとに、その香が、甘味を増していく気がするのは、なぜだろう。
どんぐりを並べてこころ休まらず
「どうしたの?最近、なんだか変だよ。」
そう始まる文字を、さっきから何度読み返したことだろう。一週間前の午前一時に届いたメールだ。
「疲れているのかな。」
次にはそう続き、それから、
「元気出していこうね。」
こう来る。もう、暗記してしまった。
彼女は、「ありがとう。まだ暑さが残ってて疲れるけど、お互いに頑張ろうね。」などと、いそいそと返事を送ったのだが・・・それきり、メールは来ない。暑さなんか、とっくに吹き飛んでしまった。さっき、公園でどんぐりを拾ったほどだ。
そもそも、「なんだか変」になった原因は、彼からのメールが激減したことにある。
ほんの二か月ばかり前には、毎日、三回以上はケータイに着信があった。昼休みと、「今から帰ります」、それから、寝る前と。その間にも何回かやりとりがあって、いつのまにか彼女の生活のリズムは、彼とのメールの往復の中に織り込まれるような感じになってしまった。
「メールが生活に織り込まれる」では無い。
「生活がメールの中に織り込まれる」のだ。つまり、いつでも、何をしていても、ケータイを気にするような暮らしぶりになった、ということだ。
出会ってすぐから、「男と女になる」まで。
その時期、彼から送られたメールは、それこそスコール並みの量だった。「こんな月の夜には、いっしょに海で過ごしたいね」という浪漫路線から、「背中から抱きついてキスしたい!それから押し倒して・・・」というようなヒワイ路線まで、あれこれ取り揃えて、一日に数十通のやりとりがあった。
最初のうちは、あからさまに、関係を持ちたい、というようなメールには、はぐらかしたり、ごまかしたりしていたのに、いつしかすっかり口説き落とされて、つい、
「抱きたい?心の準備をしておきたいの」
などとこちらから書いてしまっていた。
あの頃、頭の中でアラームが鳴っていた。
こんな生活は、いつまでも続かないよ、こういうのに慣れると、あとでおそろしく寂しい想いをするよ、いい加減にしておきなさい。
したがえなかった。
小さな液晶の上での、刺激的なやりとりに、すっかり溺れてしまったのだ。
男と女の関係になり、確かにそれまでよりもメールの回数は減ったが、それでも、今のように、何日も何日もほっておかれるということは無かった。
ため息が出る。
こちらから、二回連続してメールを送って返事が来なければ、その日はもう止める。女はそう決めている。忙しい仕事だということが分かっているし、自分にもプライドがある。返事をねだるようなことはしたくない。自分が、相手に追いかけられると冷めるタイプだから、しつこく迫るということができないのだ。
それでも、一言くらいは何か言いたくなって、
「メールが来ないと、ケータイをトイレにでも落としたのか、あなたが何かの事故に遭ったのか、それとも女ができたのか、さっぱりわからなくて、不安でたまらないの」と書いてやった返事が、「最近、変だよ」だったのだ。
あのとき、何よ、あなたがメールくれないからじゃないの、とでも書いてやればよかった。こんなに長く返事が来ないとは、あのときには思えなかった。文面からは、優しさがにじんでいるみたいに思えた。都合のいい解釈だったのか。
ほんとに、他に、女ができたのかなあ。
ため息が、また出てしまう。
でも、最初のうちは、自分ひとりのわけが無いと思い、それはそれで納得していたのだ。長身、ソツが無い会話、下ネタをしゃべっても崩れきらない品の良さ。多忙な仕事を楽しんでいるかのような余裕。自分の他にも、そういったところに魅力を感じている女がいて不思議では無い。
だから、あの時点で、今の状況だったら、これほどには悩まなかっただろう。なまじ彼が「こう見えても不器用で、今はきみひとりだけなんだ」などと書いてきたからいけないのだ。
だから、ついついのめりこんでしまった。
「不器用な」彼が、もしかしたら新しい女に、今度は十五夜をつかって口説きのワザを繰り広げているのでは無いか、と、こうして気を揉むことになってしまったのだ。
「俺はモテるからね、きみ一人のはずが無いだろ。」
などという男は、本当は一人の女だけを愛する誠実な男で、
「俺は本当に、一度に一人の女しか愛せないようにできてるんだよ。」
などという男に限って、何人もの女と関係を持つような気がする。
これは、どうしてなのだろう。
寂しがり屋で、ひとりぼっちでは過ごせない男は、女に愛想をつかされるのが怖くて、結果、何人もに「お前一人だ」と宣言して、保険をかけてしまうのだろうか。だとすれば、女は、お前のことだけ愛しているよ、という言葉には警戒しなければならない。
逆に、いやーお前だけってわきゃ無いだろーが、と言われたら、しばらくは安心だと落ち着いていればいいのだろうか。
女は、またケータイをみつめて、その小さな流線型の身体が震えて光り、優しげな言葉が浮かび上がるのを待つ。
愛の言葉こそ用心しなければならないのに。
愛の言葉だけ待ち望んでいる。
「どうしたの?最近、なんだか変だよ。」
そう始まる文字を、さっきから何度読み返したことだろう。一週間前の午前一時に届いたメールだ。
「疲れているのかな。」
次にはそう続き、それから、
「元気出していこうね。」
こう来る。もう、暗記してしまった。
彼女は、「ありがとう。まだ暑さが残ってて疲れるけど、お互いに頑張ろうね。」などと、いそいそと返事を送ったのだが・・・それきり、メールは来ない。暑さなんか、とっくに吹き飛んでしまった。さっき、公園でどんぐりを拾ったほどだ。
そもそも、「なんだか変」になった原因は、彼からのメールが激減したことにある。
ほんの二か月ばかり前には、毎日、三回以上はケータイに着信があった。昼休みと、「今から帰ります」、それから、寝る前と。その間にも何回かやりとりがあって、いつのまにか彼女の生活のリズムは、彼とのメールの往復の中に織り込まれるような感じになってしまった。
「メールが生活に織り込まれる」では無い。
「生活がメールの中に織り込まれる」のだ。つまり、いつでも、何をしていても、ケータイを気にするような暮らしぶりになった、ということだ。
出会ってすぐから、「男と女になる」まで。
その時期、彼から送られたメールは、それこそスコール並みの量だった。「こんな月の夜には、いっしょに海で過ごしたいね」という浪漫路線から、「背中から抱きついてキスしたい!それから押し倒して・・・」というようなヒワイ路線まで、あれこれ取り揃えて、一日に数十通のやりとりがあった。
最初のうちは、あからさまに、関係を持ちたい、というようなメールには、はぐらかしたり、ごまかしたりしていたのに、いつしかすっかり口説き落とされて、つい、
「抱きたい?心の準備をしておきたいの」
などとこちらから書いてしまっていた。
あの頃、頭の中でアラームが鳴っていた。
こんな生活は、いつまでも続かないよ、こういうのに慣れると、あとでおそろしく寂しい想いをするよ、いい加減にしておきなさい。
したがえなかった。
小さな液晶の上での、刺激的なやりとりに、すっかり溺れてしまったのだ。
男と女の関係になり、確かにそれまでよりもメールの回数は減ったが、それでも、今のように、何日も何日もほっておかれるということは無かった。
ため息が出る。
こちらから、二回連続してメールを送って返事が来なければ、その日はもう止める。女はそう決めている。忙しい仕事だということが分かっているし、自分にもプライドがある。返事をねだるようなことはしたくない。自分が、相手に追いかけられると冷めるタイプだから、しつこく迫るということができないのだ。
それでも、一言くらいは何か言いたくなって、
「メールが来ないと、ケータイをトイレにでも落としたのか、あなたが何かの事故に遭ったのか、それとも女ができたのか、さっぱりわからなくて、不安でたまらないの」と書いてやった返事が、「最近、変だよ」だったのだ。
あのとき、何よ、あなたがメールくれないからじゃないの、とでも書いてやればよかった。こんなに長く返事が来ないとは、あのときには思えなかった。文面からは、優しさがにじんでいるみたいに思えた。都合のいい解釈だったのか。
ほんとに、他に、女ができたのかなあ。
ため息が、また出てしまう。
でも、最初のうちは、自分ひとりのわけが無いと思い、それはそれで納得していたのだ。長身、ソツが無い会話、下ネタをしゃべっても崩れきらない品の良さ。多忙な仕事を楽しんでいるかのような余裕。自分の他にも、そういったところに魅力を感じている女がいて不思議では無い。
だから、あの時点で、今の状況だったら、これほどには悩まなかっただろう。なまじ彼が「こう見えても不器用で、今はきみひとりだけなんだ」などと書いてきたからいけないのだ。
だから、ついついのめりこんでしまった。
「不器用な」彼が、もしかしたら新しい女に、今度は十五夜をつかって口説きのワザを繰り広げているのでは無いか、と、こうして気を揉むことになってしまったのだ。
「俺はモテるからね、きみ一人のはずが無いだろ。」
などという男は、本当は一人の女だけを愛する誠実な男で、
「俺は本当に、一度に一人の女しか愛せないようにできてるんだよ。」
などという男に限って、何人もの女と関係を持つような気がする。
これは、どうしてなのだろう。
寂しがり屋で、ひとりぼっちでは過ごせない男は、女に愛想をつかされるのが怖くて、結果、何人もに「お前一人だ」と宣言して、保険をかけてしまうのだろうか。だとすれば、女は、お前のことだけ愛しているよ、という言葉には警戒しなければならない。
逆に、いやーお前だけってわきゃ無いだろーが、と言われたら、しばらくは安心だと落ち着いていればいいのだろうか。
女は、またケータイをみつめて、その小さな流線型の身体が震えて光り、優しげな言葉が浮かび上がるのを待つ。
愛の言葉こそ用心しなければならないのに。
愛の言葉だけ待ち望んでいる。
うそつきの大人も吹けばシャボン玉
ギリシャのコロッセウムを思い起こさせる公園。半円の石のスペースをすり鉢状の階段が見下ろす。
子供たちが、すり鉢の一番下の部分で、ボール投げをしたり、キックボードで走ったり、思い思いに身体を動かしている。
三十を回った女が一人、その姿を見ながら、シャボン玉を吹く。
・・・後悔を抱きながら。
どうして、本当のことは、何も言えなかったのだろう。
ポットに入れたアールグレイが、カップでほどよく香るまでの時間。
砂時計の、桃色の砂が、さらさら落ちて行くだけの時間。
「返事をください」なのに「もういいんです」と言い、
「さびしいんです」なのに「だいじょうぶです」と言い、
「また会えますね」なのに「お元気で」と言った。
嘘つき。
あなたの職場の方に向け、シャボン玉を飛ばしてみよう。
本当の言葉をできるだけ閉じ込めて。
返事をください。
さびしいんです。
また会えますね。
だけど、どの言葉たちも、あなたのところまでは届かない。
いくじなし。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「シャボン玉」で、毎年、書いてますね。
で、よく考えたら、いつも同じ公園で作った句なんです。
一番最初は、ブランコで考えた。海の高層マンションを見上げて、不倫相手の住む家まで想いを飛ばす話。
二番目は、ベンチに座って。別れの話。
そして、今回は、「子供ランド」の石の上で思いついた。
どれも、なんだか儚い話。
でも、シャボン玉って、どこか心から明るくないものみたいに思えるのです。
森の中だった。
鳥がせわしなくさえずる声が辺りにちらばっていた。見上げれば、緑色の葉裏を通して、強くなりはじめた日差しが二人の上に降り注いでいた。彼の短い髪が、それで時々金色になった。
わたしたちは、絶えずおしゃべりをしていた。小鳥たちと同じように、止むことのないおしゃべりだと思った。サークルの誰それの噂話から、心理学の教授の癖の話、生協レストランの夏メニューのこと・・・。わたしは笑った。何につけおかしがる十八の娘にしても笑いすぎだった。自分でも分かっていたけれど、笑いを止めることはできなかった。
だって。
だって、彼が・・・彼の細長い、ハイカットのバスケットシューズを履いた足が、どんどん森の奥深くへ、わたしを連れて行くのだもの。
そして、彼が、ふいに口をつぐんだとき、わたしの肩の彼の大きな手がのせられたとき・・・不思議な引力が働くのを感じたとき・・・。
口つけの後新緑の濃くなりき
閉じていた目を再びあけると、なぜだろう、さっきから見ていた筈の、初夏の木々の緑が、より一層の力強さをもって目に飛び込んできた。
公園のベンチに浅く腰掛けて、下からケヤキを見ている。
十五年後のわたしは、何百枚もの若葉の下で、木漏れ日を楽しんでいる。
あのひととは、もう、遠い雨の日に別れてしまった。もう会うことは無いかもしれない。薄い唇の感覚は、今でもわたしの中に残っているのに。
そおっと、目を閉じてみる。
風が、木立をすり抜けて行く。
さわさわさわ、さわさわさわ、と水の重みを湛えた若葉たちが歌う。
小鳥たちの声、今日もせわしくあちこちから聞こえて来る。あなたたちの恋がうまくいくといいね。
目をあける。
新緑は今も目の前にある。
でも、さっきより色を増したようには思えない。
柔らかそうな、それでいて、芯がしっかり真ん中に通った若い葉たちは、また、風に揺すられて揺れている。
ただ、目の前で揺れている。揺れると光がこぼれる。そうして、家事疲れの見えるわたしの手の甲に、眠たげな縞模様をつくる。
鳥がせわしなくさえずる声が辺りにちらばっていた。見上げれば、緑色の葉裏を通して、強くなりはじめた日差しが二人の上に降り注いでいた。彼の短い髪が、それで時々金色になった。
わたしたちは、絶えずおしゃべりをしていた。小鳥たちと同じように、止むことのないおしゃべりだと思った。サークルの誰それの噂話から、心理学の教授の癖の話、生協レストランの夏メニューのこと・・・。わたしは笑った。何につけおかしがる十八の娘にしても笑いすぎだった。自分でも分かっていたけれど、笑いを止めることはできなかった。
だって。
だって、彼が・・・彼の細長い、ハイカットのバスケットシューズを履いた足が、どんどん森の奥深くへ、わたしを連れて行くのだもの。
そして、彼が、ふいに口をつぐんだとき、わたしの肩の彼の大きな手がのせられたとき・・・不思議な引力が働くのを感じたとき・・・。
口つけの後新緑の濃くなりき
閉じていた目を再びあけると、なぜだろう、さっきから見ていた筈の、初夏の木々の緑が、より一層の力強さをもって目に飛び込んできた。
公園のベンチに浅く腰掛けて、下からケヤキを見ている。
十五年後のわたしは、何百枚もの若葉の下で、木漏れ日を楽しんでいる。
あのひととは、もう、遠い雨の日に別れてしまった。もう会うことは無いかもしれない。薄い唇の感覚は、今でもわたしの中に残っているのに。
そおっと、目を閉じてみる。
風が、木立をすり抜けて行く。
さわさわさわ、さわさわさわ、と水の重みを湛えた若葉たちが歌う。
小鳥たちの声、今日もせわしくあちこちから聞こえて来る。あなたたちの恋がうまくいくといいね。
目をあける。
新緑は今も目の前にある。
でも、さっきより色を増したようには思えない。
柔らかそうな、それでいて、芯がしっかり真ん中に通った若い葉たちは、また、風に揺すられて揺れている。
ただ、目の前で揺れている。揺れると光がこぼれる。そうして、家事疲れの見えるわたしの手の甲に、眠たげな縞模様をつくる。
「どうしたの?。」
「・・・どうか、なっちゃったみたいだ。」
「どういうこと?。」
「気になるひとが、できた。ずっと、きみのことだけ、好きだったのに・・・。」
三年少し続いた遠距離恋愛にしては、あっさりしていると思う。
初夏が三つ巡る間には、何度も別れようとした時間がある。でも、それは、いつでも、あたしの方から切り出したこと。あなたはいつでも、絶対にいやだと言い張った。
「ぼくが学生なのが、そんなに嫌なの?。」
「そういうわけじゃないけど・・・。」
「あともう少しだけ、待っててくれないだろうか。絶対、きみを迎えに行くから。」
そして、二十三だったあたしは二十六になった。
あなたは、めでたく医学生からお医者サマになって、そして、あたしから離れて行こうとしている。
一般的には、多分、悲惨な話だ。
恐らく、こういう状況は、普通は、捨てられる、っていうんだよね。
でも、そんなふうには思えない。思っちゃ、いけないのだ。
近田さんは、さっきのメールに書いてくれてた。
「もしも、しっかり抱いてあげられれば、少しは楽になれるのかな。」
でも、近田さんは、妻子持ちだ。
アツキのセックスは、いつでも自分本位だ。なかなか会えないから、というのを口実にありとあらゆる気持ちイイことを、あたしの身体でやってみようとする。勿論それはアツキにとっての「気持ちイイこと」であって、あたしにとっての、では無い。だからこっちはしょっちゅう取り残される。
そのくせ、終わった後には必ず、
「良かった?。」
と、たずねられる。曖昧にうなずいてキスをするしかない。良いも悪いも無い、流されているだけ。激しく求められている自分、というのを感じるのも悪い気分では無い。
近田さんは逆だ。
キスひとつ、指先ひとつにも、あたしへの気遣いがある。彼の快感は、高まっていくあたしを見ることで初めて紡ぎだされていくかのよう。
欲望先にありき、のアツキとは、その辺が違う。勿論、良かったかどうかなんか聞かない。のぼりつめてゆくところをつぶさに見ているのだから、果ててからいちいち確認なんかしなくてもいいということだ。
そう。
あたしには、ベッドで過ごす男が二人、いる。
いや、二人いた、だな。
アツキには、勿論、近田さんのことは内緒にしていたけれど・・・。
こうなっちゃったのは、自業自得なのだ、バチが当たったのだ。多分。
短髪にまだ慣れぬ指青嵐
反省、というわけでは無いけれど、髪を切った。肩よりも長い髪をシニョンにしていたあたし。乱れると、男の上でよく髪をほどいた。それをわし掴みにしたアツキ。優しくまとめ直した近田さん。
二十六の女にとって、いったんベッドにあがると、ひたすら自分本意に振る舞う男の青臭い若さも、一歩下がったところから快感を与えてくれる年上の妻子持ちの安定感も、どちらも実はおいしいものだった。あたしは正直で、そしてイノセントだ。それは、アツキを失っても、変わらない。
近田さんから、またメールが届いた。逢い引きの約束。
初夏。
雨が過ぎる度これでもか、これでもか、とばかりに木々は若葉を茂らせる。そして、これからやがて来るであろう過酷な暑さなど思いもよらずに吹く風に身を任せ、ザワッ、ザワッ、とみずみずしい歌を日々歌う。
あたしは、正直で、そしてイノセントだ。
そして、それは、男などいなくなっても、変わらない。
ゆっくり息を吸ってから、ケイタイに向かい、あたしは最期のメールを打ち始める。
「・・・どうか、なっちゃったみたいだ。」
「どういうこと?。」
「気になるひとが、できた。ずっと、きみのことだけ、好きだったのに・・・。」
三年少し続いた遠距離恋愛にしては、あっさりしていると思う。
初夏が三つ巡る間には、何度も別れようとした時間がある。でも、それは、いつでも、あたしの方から切り出したこと。あなたはいつでも、絶対にいやだと言い張った。
「ぼくが学生なのが、そんなに嫌なの?。」
「そういうわけじゃないけど・・・。」
「あともう少しだけ、待っててくれないだろうか。絶対、きみを迎えに行くから。」
そして、二十三だったあたしは二十六になった。
あなたは、めでたく医学生からお医者サマになって、そして、あたしから離れて行こうとしている。
一般的には、多分、悲惨な話だ。
恐らく、こういう状況は、普通は、捨てられる、っていうんだよね。
でも、そんなふうには思えない。思っちゃ、いけないのだ。
近田さんは、さっきのメールに書いてくれてた。
「もしも、しっかり抱いてあげられれば、少しは楽になれるのかな。」
でも、近田さんは、妻子持ちだ。
アツキのセックスは、いつでも自分本位だ。なかなか会えないから、というのを口実にありとあらゆる気持ちイイことを、あたしの身体でやってみようとする。勿論それはアツキにとっての「気持ちイイこと」であって、あたしにとっての、では無い。だからこっちはしょっちゅう取り残される。
そのくせ、終わった後には必ず、
「良かった?。」
と、たずねられる。曖昧にうなずいてキスをするしかない。良いも悪いも無い、流されているだけ。激しく求められている自分、というのを感じるのも悪い気分では無い。
近田さんは逆だ。
キスひとつ、指先ひとつにも、あたしへの気遣いがある。彼の快感は、高まっていくあたしを見ることで初めて紡ぎだされていくかのよう。
欲望先にありき、のアツキとは、その辺が違う。勿論、良かったかどうかなんか聞かない。のぼりつめてゆくところをつぶさに見ているのだから、果ててからいちいち確認なんかしなくてもいいということだ。
そう。
あたしには、ベッドで過ごす男が二人、いる。
いや、二人いた、だな。
アツキには、勿論、近田さんのことは内緒にしていたけれど・・・。
こうなっちゃったのは、自業自得なのだ、バチが当たったのだ。多分。
短髪にまだ慣れぬ指青嵐
反省、というわけでは無いけれど、髪を切った。肩よりも長い髪をシニョンにしていたあたし。乱れると、男の上でよく髪をほどいた。それをわし掴みにしたアツキ。優しくまとめ直した近田さん。
二十六の女にとって、いったんベッドにあがると、ひたすら自分本意に振る舞う男の青臭い若さも、一歩下がったところから快感を与えてくれる年上の妻子持ちの安定感も、どちらも実はおいしいものだった。あたしは正直で、そしてイノセントだ。それは、アツキを失っても、変わらない。
近田さんから、またメールが届いた。逢い引きの約束。
初夏。
雨が過ぎる度これでもか、これでもか、とばかりに木々は若葉を茂らせる。そして、これからやがて来るであろう過酷な暑さなど思いもよらずに吹く風に身を任せ、ザワッ、ザワッ、とみずみずしい歌を日々歌う。
あたしは、正直で、そしてイノセントだ。
そして、それは、男などいなくなっても、変わらない。
ゆっくり息を吸ってから、ケイタイに向かい、あたしは最期のメールを打ち始める。
「確かに、彼女、一晩、オレのとこで過ごした。それは認める。でもさ、何も無かったんだ。」
わたしは電話を持って、ベランダに出る。
震災でも壊れなかったから多分頑丈なんだろうけれど、震災で周りが小奇麗になっちゃったから、やたらみすぼらしくなったマンション。すぐ下を、JRの線路が走っている。
「呑み明かしただけ。・・・きみとは、違う。」
「そうでしょうね。そりゃ。分かってますよ。」
彼はほんの少しだけ、安心した声になる。安心がほんの少しなのは、わたしの「丁寧語」が崩れていないからだ。
「別に、どっちでも、いいのよ。ちゃんと、付き合って、とか言われてないし。」
「またそんな、拗ねたようなこと言っちゃってさあ。」
機嫌を取ろうとしているのね。でも、真面目に付き合って、とは言わないんだ、こいつは。
「ま、それでも、マユミとそうなったら、わたしは降りる。もう二度と寝ないから。
マユミとは、三年間、一緒に高校に通ってたのよ。それ、知らないわけじゃないでしょ。」
「もちろん。」
「もちろん。知ってるよね、あなただって一年は同じクラスだったんだから。」
電車の来る気配がしている。まだ音は聞こえない、もちろん、姿も見えない。でも、風が機械的になる。わたしは、部屋に戻り、水をコップに注ごうとして、片手ではうまくできなくて止める。のどが、渇いたな。
「うん・・・。だからさ、彼女が、そうゆうことの対象にならないってことも、分かるだろ。」
それじゃ、あなたは、「そうゆうことの対象」になるのは、一体、どんな女だと言うのだろう。
「はっきり言えば、男の欲望の対象にならない女だってことだよ。」
それは、マユミが、いつでも大きな眼鏡をかけ、持ち物にも全く気を遣わず、脇の始末さえろくにしないで、更に学年でトップクラスの成績で、とりわけ、化学と数学は男子にも負けなくて、お茶大を蹴って、理科大を蹴って、京大に入ったから?。
「きみとは、違うんだよ。」
男の声が、湿り気を帯びる。
減速してゆく新快速の音。新快速はなぜだか、この近くの駅に停まる。隣の駅の方が、人口はずっと多いのに。
「きみは・・・違う。」
つまりあなたは、今週末、わたしと会う約束が反古になることを、恐れているのよね。
そう言えば聞こえはいいけれど、はっきり言えば、わたしを抱けなくなるのが、怖い。いや、つまり、せっかくのヤレるチャンスを失うのが、怖いのよ。
・・・と、心の中でだけ言っている。肯定されるのも、否定されるのも、つらいから。
電車が去ったから、もう一度ベランダに出る。鈍色に光った線路の上に、初夏の日差しが滑り込んでいる。
その向こう側に、萎れかけた、スミレの花の群れが見える。
スミレの花は、春の花が終わった後も実は引き続きつぼみがつくられている。そのつぼみたちは、生涯、開かないままで自家受粉をし、そうして、確実に種子を残す。
花として、どちらが幸せなんだろう。
きれいだね、と愛でられ、しかし子孫は残せないのと。
愛でられることは無くとも、確実に子孫を残せるのと。
そして。
一晩、男の部屋で過ごして、ただ呑むだけで終わるのと。
部屋に入る前にドア付近で既に押し倒されてしまうのと。
女としては、どっちが幸せなんだろう。
「イヤイヤ」の菫見ている線路端
「なあ、怒ってないよな。」
欲望いっぱいの、ハタチの男の声は、まだ続いている。
わたしは電話を持って、ベランダに出る。
震災でも壊れなかったから多分頑丈なんだろうけれど、震災で周りが小奇麗になっちゃったから、やたらみすぼらしくなったマンション。すぐ下を、JRの線路が走っている。
「呑み明かしただけ。・・・きみとは、違う。」
「そうでしょうね。そりゃ。分かってますよ。」
彼はほんの少しだけ、安心した声になる。安心がほんの少しなのは、わたしの「丁寧語」が崩れていないからだ。
「別に、どっちでも、いいのよ。ちゃんと、付き合って、とか言われてないし。」
「またそんな、拗ねたようなこと言っちゃってさあ。」
機嫌を取ろうとしているのね。でも、真面目に付き合って、とは言わないんだ、こいつは。
「ま、それでも、マユミとそうなったら、わたしは降りる。もう二度と寝ないから。
マユミとは、三年間、一緒に高校に通ってたのよ。それ、知らないわけじゃないでしょ。」
「もちろん。」
「もちろん。知ってるよね、あなただって一年は同じクラスだったんだから。」
電車の来る気配がしている。まだ音は聞こえない、もちろん、姿も見えない。でも、風が機械的になる。わたしは、部屋に戻り、水をコップに注ごうとして、片手ではうまくできなくて止める。のどが、渇いたな。
「うん・・・。だからさ、彼女が、そうゆうことの対象にならないってことも、分かるだろ。」
それじゃ、あなたは、「そうゆうことの対象」になるのは、一体、どんな女だと言うのだろう。
「はっきり言えば、男の欲望の対象にならない女だってことだよ。」
それは、マユミが、いつでも大きな眼鏡をかけ、持ち物にも全く気を遣わず、脇の始末さえろくにしないで、更に学年でトップクラスの成績で、とりわけ、化学と数学は男子にも負けなくて、お茶大を蹴って、理科大を蹴って、京大に入ったから?。
「きみとは、違うんだよ。」
男の声が、湿り気を帯びる。
減速してゆく新快速の音。新快速はなぜだか、この近くの駅に停まる。隣の駅の方が、人口はずっと多いのに。
「きみは・・・違う。」
つまりあなたは、今週末、わたしと会う約束が反古になることを、恐れているのよね。
そう言えば聞こえはいいけれど、はっきり言えば、わたしを抱けなくなるのが、怖い。いや、つまり、せっかくのヤレるチャンスを失うのが、怖いのよ。
・・・と、心の中でだけ言っている。肯定されるのも、否定されるのも、つらいから。
電車が去ったから、もう一度ベランダに出る。鈍色に光った線路の上に、初夏の日差しが滑り込んでいる。
その向こう側に、萎れかけた、スミレの花の群れが見える。
スミレの花は、春の花が終わった後も実は引き続きつぼみがつくられている。そのつぼみたちは、生涯、開かないままで自家受粉をし、そうして、確実に種子を残す。
花として、どちらが幸せなんだろう。
きれいだね、と愛でられ、しかし子孫は残せないのと。
愛でられることは無くとも、確実に子孫を残せるのと。
そして。
一晩、男の部屋で過ごして、ただ呑むだけで終わるのと。
部屋に入る前にドア付近で既に押し倒されてしまうのと。
女としては、どっちが幸せなんだろう。
「イヤイヤ」の菫見ている線路端
「なあ、怒ってないよな。」
欲望いっぱいの、ハタチの男の声は、まだ続いている。
あたしは多分、桜の花の生まれ変わりなのよ。
そんなことを話したのは、とてもどきどきしていたから。
桜の花のくせに、恋した相手は人間の男だったの。ふんわり開いたあたしの下を「彼」が通りかかって、たちまち好きになって・・・。
でも、もちろん、「彼」はあたしの想いなんか、気付きもしない。あたしが必死の想いでみつめているのに、涼しげに一瞥をくれるだけ、さっさと行ってしまって・・・。
春の嵐が来て、あたしが散る時、だから精いっぱい神様にお祈りしたのよ。次は、人間にして下さい!。
観覧車の中だった。
遊園地の桜は満開で、どこを見下ろしても、そこここに、白い綿菓子みたいな、花の集まりがあるのが見えた。
風は強くて、高所恐怖症では無くても、小さな箱が揺れるたびに、胸が泡立った。
いいえ、もちろん、あたしの、薄っぺらな胸が鳴り続けていたのは、あなたがいたからだったのだけれど。
憧れていた、あなたとの、初めての二人きりの時間。
仲間たちと一緒に並んだのに、順番はなぜか、あなたと二人になった。
鈴蘭の花の形をした、クリーム色の密室。
ひらりと上がり、どんどん空に近付くうちに、ぎこちなく微笑むことしかできなくなったあたしは、なぜだか自分でも分からないままに口にしていたの
だ。
あたしは、桜の花の生まれ変わりなのよ。
俯瞰の記憶もあるの。
どこか空中から、地面を見ていた記憶。鳥みたいに動かないで、それでもただ浮いていた、そんなことを覚えているのよ・・・。
それじゃあ、桜だったきみが恋していた男は、今どうしているのかな。
向かい側に座っていたあなたは、優しくそう口にした。二つ年上だけで、随分と大人に感じられたっけ。
・・・どこかで、きっとあたしを見つけてくれると思う。別の姿で生きていても。
そうだね。
そして、 あなたの薄い唇が、ほとんどかたちを変えずに、
それは、もしかしたら、今の俺だよ。
と、動いたかと思うと、一瞬ののちには、ひらりと、あたしの唇に降りて来た。
初めてのキスが、そうやってもたらされ、それから何回も、何回も桜の季節が巡り・・・。
観覧車は、ゆっくりと回り続けた。
春めぐるキスのカプセル観覧車
その遊園地が、昨日、閉園した。
すずらんの形の観覧車は、思い出を封印したまま、もう動くことは無い。
今日は、朝から春の嵐が街を駆けている。
遊園地の至るところで、柔らかく咲いていた桜の花々は、強い風に揺さぶられるまま、少女の小指の爪のような花片になって、もう動くことは無いメリーゴーランドの白馬についた金の房飾りや、空を飛ぶ象の大きな耳に留まっていることだろう。
「彼」とはもうずっと会っていない。どこでどうしているのか、元気でいるのかも、分からない。
あの春の日は、桜だった頃と同じ、封印された箱の中。
そんなことを話したのは、とてもどきどきしていたから。
桜の花のくせに、恋した相手は人間の男だったの。ふんわり開いたあたしの下を「彼」が通りかかって、たちまち好きになって・・・。
でも、もちろん、「彼」はあたしの想いなんか、気付きもしない。あたしが必死の想いでみつめているのに、涼しげに一瞥をくれるだけ、さっさと行ってしまって・・・。
春の嵐が来て、あたしが散る時、だから精いっぱい神様にお祈りしたのよ。次は、人間にして下さい!。
観覧車の中だった。
遊園地の桜は満開で、どこを見下ろしても、そこここに、白い綿菓子みたいな、花の集まりがあるのが見えた。
風は強くて、高所恐怖症では無くても、小さな箱が揺れるたびに、胸が泡立った。
いいえ、もちろん、あたしの、薄っぺらな胸が鳴り続けていたのは、あなたがいたからだったのだけれど。
憧れていた、あなたとの、初めての二人きりの時間。
仲間たちと一緒に並んだのに、順番はなぜか、あなたと二人になった。
鈴蘭の花の形をした、クリーム色の密室。
ひらりと上がり、どんどん空に近付くうちに、ぎこちなく微笑むことしかできなくなったあたしは、なぜだか自分でも分からないままに口にしていたの
だ。
あたしは、桜の花の生まれ変わりなのよ。
俯瞰の記憶もあるの。
どこか空中から、地面を見ていた記憶。鳥みたいに動かないで、それでもただ浮いていた、そんなことを覚えているのよ・・・。
それじゃあ、桜だったきみが恋していた男は、今どうしているのかな。
向かい側に座っていたあなたは、優しくそう口にした。二つ年上だけで、随分と大人に感じられたっけ。
・・・どこかで、きっとあたしを見つけてくれると思う。別の姿で生きていても。
そうだね。
そして、 あなたの薄い唇が、ほとんどかたちを変えずに、
それは、もしかしたら、今の俺だよ。
と、動いたかと思うと、一瞬ののちには、ひらりと、あたしの唇に降りて来た。
初めてのキスが、そうやってもたらされ、それから何回も、何回も桜の季節が巡り・・・。
観覧車は、ゆっくりと回り続けた。
春めぐるキスのカプセル観覧車
その遊園地が、昨日、閉園した。
すずらんの形の観覧車は、思い出を封印したまま、もう動くことは無い。
今日は、朝から春の嵐が街を駆けている。
遊園地の至るところで、柔らかく咲いていた桜の花々は、強い風に揺さぶられるまま、少女の小指の爪のような花片になって、もう動くことは無いメリーゴーランドの白馬についた金の房飾りや、空を飛ぶ象の大きな耳に留まっていることだろう。
「彼」とはもうずっと会っていない。どこでどうしているのか、元気でいるのかも、分からない。
あの春の日は、桜だった頃と同じ、封印された箱の中。
いつか二人で買ったしゃぼん玉を持って来た。
三月の終わりともなれば、日の光は、いよいよ優しく、午前中の公園には子供たちが走り回っている。
花粉症の彼は、ベンチに座って、何度もくしゃみを繰り返す。
そして、ハナをかむときには、小さく「失礼」と、言う。
だけど、言葉はそれだけ。
そもそも「話し合い」が必要になって来たこと自体、先の見えている恋なのだ。
分かっている。
でも、そう相手にはっきり言ってしまえば・・・それこそ「それを言っちゃあおしまいよ」、である。
あたしは、胸に下げたペンダント状の小さなボトルを開けて、先の開いたストローを突っ込み、シャボン液の量を注意深く調整してから、優しく息を吹き入れる。
多少乱暴な「突っ込み」と、その後の優しい「息つかい」は、何かを思い起こさせる。
でも、それはきっと、もう済んだことなのだ。
そう思うと、胸が締め付けられる。
これから、必ず失うことになる、ぬくもりたち。
天空に息を吹き出す前に、そういう暖かみでできている筈の隣の男を、そっと窺い見る。
放心したように、遊ぶ子供たちに目をやっている男。なあんだ、全然セクシーじゃ無い。
あたしの息が優しかったから、シャボン玉は、大きくなった。重たげに緩い風に乗り、すべり台の足元辺りで、パチンとおおげさに消える。
今度は、強く吹く。
すると、細かい玉が、何十も連なり合い、もつれ合いながら、空中をすべって行く。
あたしがシャボン玉なら、こっちだな。
男のくしゃみ。
外で会おうとメールしたのは、こっちだ。
メールにしたのは、有無を言わせない為だ。
一つの言葉が、男と女では、こうも違う解釈になるのか、と悲しく怒りながら続ける会話を電話でするのは、もう嫌だ。
でも、部屋で会って、最後には、大きなわだかまりといっしょくたになって、ベッドに押し倒されるのも、嫌。
しかも、あたしが、そうゆうことに持ち込むのだと、あなたは言うから。
腕を肩に回すのも男なら、唇を押し付けるのも男。でも、そうゆうことになったのは、女のあたしが悪いんだって。
「そもそも、初めっから、そうだったんだよな・・・。」
あなたは、この恋を初めから否定した。
あたしは、違うよ。
今みたいに、何も言葉が無く、それでも満たされていた時間。それが存在していたことも、認める。
恋していたんだよ。
恋、だったんだよ。
日が射せば、シャボン玉たちに、一層の煌きが加わる。景色を、一枚の絵に変える力を持つ輝きたちなのに・・・一瞬だけで、跡形も無くなる。
高みまで昇っていく姿を見つめていると、頑張れ、と言いたくなるのは何故だろう。
頑張れ、もう少し。
もう少し頑張れ。
もう少しだけ、消えないで。
男が、くしゃみでは無く、ため息をついた。
あたしは、無視して、また息を吹いた。
そのおおげさなため息だって、ストローを通せば、立派な虹色の玉になれるよ。
しゃぼん玉想いどこまで生きるやら
あの、きらきらした、薄い球体たちの中には、息が一粒ずつ詰め込まれていて、言えなくなった言葉たちは、ああしてひとつずつ消えて行くんだよ。
だけどすき。
もっとそばにいたい。
あたしをなかったことにしないで。
パチン。
「・・・もう、会わないよ。」
ストローを離して、あたしが、言葉をつくった。
三月の終わりともなれば、日の光は、いよいよ優しく、午前中の公園には子供たちが走り回っている。
花粉症の彼は、ベンチに座って、何度もくしゃみを繰り返す。
そして、ハナをかむときには、小さく「失礼」と、言う。
だけど、言葉はそれだけ。
そもそも「話し合い」が必要になって来たこと自体、先の見えている恋なのだ。
分かっている。
でも、そう相手にはっきり言ってしまえば・・・それこそ「それを言っちゃあおしまいよ」、である。
あたしは、胸に下げたペンダント状の小さなボトルを開けて、先の開いたストローを突っ込み、シャボン液の量を注意深く調整してから、優しく息を吹き入れる。
多少乱暴な「突っ込み」と、その後の優しい「息つかい」は、何かを思い起こさせる。
でも、それはきっと、もう済んだことなのだ。
そう思うと、胸が締め付けられる。
これから、必ず失うことになる、ぬくもりたち。
天空に息を吹き出す前に、そういう暖かみでできている筈の隣の男を、そっと窺い見る。
放心したように、遊ぶ子供たちに目をやっている男。なあんだ、全然セクシーじゃ無い。
あたしの息が優しかったから、シャボン玉は、大きくなった。重たげに緩い風に乗り、すべり台の足元辺りで、パチンとおおげさに消える。
今度は、強く吹く。
すると、細かい玉が、何十も連なり合い、もつれ合いながら、空中をすべって行く。
あたしがシャボン玉なら、こっちだな。
男のくしゃみ。
外で会おうとメールしたのは、こっちだ。
メールにしたのは、有無を言わせない為だ。
一つの言葉が、男と女では、こうも違う解釈になるのか、と悲しく怒りながら続ける会話を電話でするのは、もう嫌だ。
でも、部屋で会って、最後には、大きなわだかまりといっしょくたになって、ベッドに押し倒されるのも、嫌。
しかも、あたしが、そうゆうことに持ち込むのだと、あなたは言うから。
腕を肩に回すのも男なら、唇を押し付けるのも男。でも、そうゆうことになったのは、女のあたしが悪いんだって。
「そもそも、初めっから、そうだったんだよな・・・。」
あなたは、この恋を初めから否定した。
あたしは、違うよ。
今みたいに、何も言葉が無く、それでも満たされていた時間。それが存在していたことも、認める。
恋していたんだよ。
恋、だったんだよ。
日が射せば、シャボン玉たちに、一層の煌きが加わる。景色を、一枚の絵に変える力を持つ輝きたちなのに・・・一瞬だけで、跡形も無くなる。
高みまで昇っていく姿を見つめていると、頑張れ、と言いたくなるのは何故だろう。
頑張れ、もう少し。
もう少し頑張れ。
もう少しだけ、消えないで。
男が、くしゃみでは無く、ため息をついた。
あたしは、無視して、また息を吹いた。
そのおおげさなため息だって、ストローを通せば、立派な虹色の玉になれるよ。
しゃぼん玉想いどこまで生きるやら
あの、きらきらした、薄い球体たちの中には、息が一粒ずつ詰め込まれていて、言えなくなった言葉たちは、ああしてひとつずつ消えて行くんだよ。
だけどすき。
もっとそばにいたい。
あたしをなかったことにしないで。
パチン。
「・・・もう、会わないよ。」
ストローを離して、あたしが、言葉をつくった。
ホテルの一室は余分な音が一切しないから、彼女は安心して、彼の腕の中で声を立てることができた。
声を立てるのも演技かもしれない。
でも、声を出すことで心が少しずつ解放され、その結果、身体にも心地よい飛翔が訪れることになるのだ。
窓の外に雨を感じたのは、彼女が何回かの飛翔を遂げ、彼の方にも静かな・・・そしていつも通りなぜか少し白けた・・・充足が訪れた時間である。
彼女は、彼の腕の中にいる。
さっき、わざとにカーテンを引かずに服を脱ぎ散らかしたから、夕まぐれの街が夜景の化粧を始めたのを、まさに目の当たりにすることができる。
三十五階。
同じような高さのビルが、瞬きを始めている。遠くの看板のネオンが滲んで見えている。赤、黒、青、黄・・・。真っ赤な点滅は、ヘリ・ポートの灯り。
「空中の、楼閣。」彼が、煙草に手を伸ばす。
「何?。」
彼女の上司でもある彼は、時々わざとにこむつかしい言葉を呟く。そして、彼女が、不思議そうに首を傾げたり、戸惑って黙り込むのを見て楽しむ。
「ここだと、地に足の付いたものは、一切、見えないんだが。」
「・・・はい。」
「何故だか、雨の気配は感じた。地面に落ちていくまでの、雨粒の気配。」
「・・・雨、ですか。」
「そう。春の、雨。・・・きみみたいに、しなやかに濡れて・・・。」男は煙草を口に加えたまま、女の部分に指を這わせる。さっきの脂ぎった欲望まみれの指とは別人みたい。でもわざと言う。
「・・・もう一度、ですか?。」
「まさか。きみの恋人みたいに若く無いよ。」
恋人。
そんな存在は無いと言っても聞き入れようとしないのは、自分が女のすべてを引き受けられないことから来る、逃げ、だ。
「わたしよりも、ひとまわり上だけで。そんなに変わらないわ。」
女は身体をよじらせ、男の中指をいったん引き抜いた後、改めてもっと奥まで滑り込ませる。
「・・・。」
男は照れたように手をシーツから出し、おもむろに煙草に火を点ける。また一層、部屋が薄暗くなったのを、はしゃいだように燃え立つ火の色で知る。
「そろそろシャワーを浴びないと。」
と言ったのは女である。
男は決してシャワーを、あのあとに浴びない。
ホテルのタオルの、旅先の朝めいた匂いで、妻が浮気に気がつくといけないから、らしい。
結婚はね、恋を殺してしまうんだよ。
男は何度も言う。
男と女は、恋を日常に連れ込んではいけない。
ときめきは、生活とは、相容れないものなんだ。
僕は、結婚が、人生の墓場、だとは言わない。
でも、恋の墓場だとは思うね。
じゃ、結婚式は、恋のお葬式なの。
そう。ふたりの恋を生活の中に埋葬します、と宣言するような儀式さ。
女はバスをつかうために、バスルームの金色の取っ手を軽く握る。なぜか、男のそれに似た感触を覚え、はっと手を退く。
雨。
暖冬予想が外れた、寒い冬が去ろうとしている。
窓の外の夜は、しのつく雨に支配され、最早、街の輪郭はぼやけてしまっている。ネオンの群れは、流れる色の洪水。
結婚が恋の墓場だとしたら、埋葬しそびれた恋たちは、一体、どこに葬られるのだろう。
女は何気ない風に目元に指を当て、景色が滲んでいるのが涙のせいでは無いことを確かめて、なぜか少しだけ自分を励ます気持ちになってから、シャワーに向かった。
摩天楼雪洞にして春の雨
声を立てるのも演技かもしれない。
でも、声を出すことで心が少しずつ解放され、その結果、身体にも心地よい飛翔が訪れることになるのだ。
窓の外に雨を感じたのは、彼女が何回かの飛翔を遂げ、彼の方にも静かな・・・そしていつも通りなぜか少し白けた・・・充足が訪れた時間である。
彼女は、彼の腕の中にいる。
さっき、わざとにカーテンを引かずに服を脱ぎ散らかしたから、夕まぐれの街が夜景の化粧を始めたのを、まさに目の当たりにすることができる。
三十五階。
同じような高さのビルが、瞬きを始めている。遠くの看板のネオンが滲んで見えている。赤、黒、青、黄・・・。真っ赤な点滅は、ヘリ・ポートの灯り。
「空中の、楼閣。」彼が、煙草に手を伸ばす。
「何?。」
彼女の上司でもある彼は、時々わざとにこむつかしい言葉を呟く。そして、彼女が、不思議そうに首を傾げたり、戸惑って黙り込むのを見て楽しむ。
「ここだと、地に足の付いたものは、一切、見えないんだが。」
「・・・はい。」
「何故だか、雨の気配は感じた。地面に落ちていくまでの、雨粒の気配。」
「・・・雨、ですか。」
「そう。春の、雨。・・・きみみたいに、しなやかに濡れて・・・。」男は煙草を口に加えたまま、女の部分に指を這わせる。さっきの脂ぎった欲望まみれの指とは別人みたい。でもわざと言う。
「・・・もう一度、ですか?。」
「まさか。きみの恋人みたいに若く無いよ。」
恋人。
そんな存在は無いと言っても聞き入れようとしないのは、自分が女のすべてを引き受けられないことから来る、逃げ、だ。
「わたしよりも、ひとまわり上だけで。そんなに変わらないわ。」
女は身体をよじらせ、男の中指をいったん引き抜いた後、改めてもっと奥まで滑り込ませる。
「・・・。」
男は照れたように手をシーツから出し、おもむろに煙草に火を点ける。また一層、部屋が薄暗くなったのを、はしゃいだように燃え立つ火の色で知る。
「そろそろシャワーを浴びないと。」
と言ったのは女である。
男は決してシャワーを、あのあとに浴びない。
ホテルのタオルの、旅先の朝めいた匂いで、妻が浮気に気がつくといけないから、らしい。
結婚はね、恋を殺してしまうんだよ。
男は何度も言う。
男と女は、恋を日常に連れ込んではいけない。
ときめきは、生活とは、相容れないものなんだ。
僕は、結婚が、人生の墓場、だとは言わない。
でも、恋の墓場だとは思うね。
じゃ、結婚式は、恋のお葬式なの。
そう。ふたりの恋を生活の中に埋葬します、と宣言するような儀式さ。
女はバスをつかうために、バスルームの金色の取っ手を軽く握る。なぜか、男のそれに似た感触を覚え、はっと手を退く。
雨。
暖冬予想が外れた、寒い冬が去ろうとしている。
窓の外の夜は、しのつく雨に支配され、最早、街の輪郭はぼやけてしまっている。ネオンの群れは、流れる色の洪水。
結婚が恋の墓場だとしたら、埋葬しそびれた恋たちは、一体、どこに葬られるのだろう。
女は何気ない風に目元に指を当て、景色が滲んでいるのが涙のせいでは無いことを確かめて、なぜか少しだけ自分を励ます気持ちになってから、シャワーに向かった。
摩天楼雪洞にして春の雨
「腰掛け」のつもりで入社した会社に、結局八年も勤めてしまったが、その間、「あんなふうになりたい」という憧れを抱いた先輩OLはいたか、と、たずねられて、即答できるのはひとりだけ。
それが、キタハシさんだった。
百六十五センチの長身。制服のタイトスカートから長い足をすらりと見せて颯爽と歩く姿は、同性の目から見ても、くらくらしちゃう位にセクシーだった。低めの声はビロードめいた艶があり、決して感情を高ぶらせず、かと言って、私たち後輩の悩み相談にも、アルコール入りでも抜きでも付き合ってくれる優しさにあふれ、勿論、仕事もできた。
わたしは、高校が彼女と同じということもあり、とりわけ目をかけてもらえた。彼女と同じ職場でなかったならば、数字に弱くて鈍くさいわたしが、こんなに長く会社員生活を送ることはできなかっただろう。
さて、キタハシさんも、三十をいくつか過ぎてから、ついに結婚することになった。なにしろ、頭も切れてウツクシイキタハシさんのお相手である、どんなにかっこよくて高収入のミスターだろうと想像したのだが、聞いてみてびっくり。
フィアンセは、勤務先のビルの警備員をしている、まだ二十代前半の男、それも、彼女よりも二センチばかり背が低い男、だった・・・。
「慣例」に従い、退職することになった送別会が行われ、わたしたち後輩は、あるひとつのことについての質問を彼女に浴びせ掛けた。
それは、「結婚の決め手」である。
どうして、このひとだ、と決めたんですか。
どうして、このひとが運命のひとだって分かったんですか。
どうして、このひとにしよう、と誓ったんですか。
「結婚退職女の花道」という言葉がまかり通っている職場であるから、皆必死。とりわけ、美人で仕事もできるキタハシさんの、まあはっきり言って「無謀な」決断である。ココロしてきかねば、っていう気合がみなぎっている。
が、当のキタハシさんは、柔らかく微笑むだけ。
「そんなの、そのときが来れば分かるわよ。」
どうして、彼に決めたのか。
わたしたちの本音、「どうして美人で仕事もできつ貴女が、あんな冴えない男を撰んだのですか?」
に、彼女は当然、気がついていたのだろう。だから、あんなふうにはぐらかしたのだろう。
一番可愛がっていたわたしには、こんなことを話して「彼を撰んだ理由」にしてくれたのだけれど。
「駅からこのビルまで通ってくるとき、毎朝、カフェのスタンドでコーヒーを買って来るのがわたしの日課。それは知ってるでしょ?。
彼もそうだったの。
夜勤明けですれ違い、ということもあったけれど、方向が逆でも、彼もいつも、必ずコーヒーを買っていたわ。
そのうち、どちらかともなく、あいさつを交わすようになったの。
でも、ある日、いつものように出勤しようとしたら、彼の手にカップが無いのよ。
どうして?胃の調子でも悪いの?って聞いたんだ、わたし。気軽にね。
そのときの彼の返事。言ってみればこれが決め手だったんだ。」
「キタハシさん、沈丁花、咲きましたよね。
あのね、僕、あの花が余りにもいい香りがするんで、今日からしばらくコーヒー持ってこの道通るの止めようと思って。
花に失礼でしょ。せっかくいい香りしてるのに。」
「呆気にとられたわ。でもね、なーんか、いいな、って思ったの。
いいおとなが童話みたいに平和になるのも。わたしも、しばらくコーヒーを持たずに出勤してみた。代わりに、沈丁花の香りを吸い込んでみた。いつも通っている道に、こんないい香りの花が植わっていたんだ、ってことさえわたしには気が付かなかったのよね。なんだか、不思議にココロが満腹になっていくのを感じた。で、このひとと暮らしたい、って思ったの。」
そんなものかな。
分かるような、分からないような。
わたしには、物欲もあった。見栄もあった。結婚するなら、周りの女の子たちが「うらやましい」と感じるような相手がよかった。
だから、キタハシさんが、ルックスもイマイチ、お金も大してもっていない、そんな男の「沈丁花の香りを消したくないからコーヒーを持って歩かない」というような一言にぐっ、と来て、結婚を意識した、というのが・・・ピンと来なかった。
結局、惚れてる、ってことよね。
なんてことに結論付けた、そのときには。
彼女の真意(だと思う)に到達したのは、つい最近である。
わたしも、やがて結婚した。
そして、俳句を始めた。
俳句をつくるようになると、季節の移り変わりに敏感になる。何気なく見やってきた風景が、大きな意味を持ち始める。ぼーっと歩いていた並木道の、微妙な変化に気がつくようになる。そして、そういうちょっとした変化を常に探していくようになる。
夫はジョギングが好きである。
毎週走るコースには梅林があって、わたしは、毎年、梅の季節が来ると、
「ね、梅、咲いてた?。」
と尋ねるのだが、満足な答えが返ってきたためしが無い。
「さあ・・・。」
第一、そこに梅林がある、ということさえ彼は意識していない。一時間近く走りながら、うつろいゆく自然の生業にまったく注意を払っていない・・・。
それは恐らく、感性の違い、というものであろう。
別段、生活するのに不便、というものでは無い。
感性が違っても、家計に何らの影響を及ぼしはしない、ただ、物足りない。気持ちの豊かさ、というものを共有できない・・・。
なんとなく、うら淋しい気持ちにはなる。不幸、とまで重くは無いのだが。
ところで、キタハシさんの結婚であるが、結局破綻してしまった。
離婚後、彼女は、友人のつくった「イベント会社」の手伝いをして、相変わらずすらりと美しいらしい。
らしい、というのは、わたしが結婚を機に彼女の住む街から離れてしまったからだが、なんとなく話がしにくい、というのもある。
感性で選んだ結婚の破綻。
感性相違でも継続する結婚。
ここに、ふたつの結婚がある。
沈丁花の季節が今年もやってきた。
沈丁花咲きコーヒーを煎れぬ朝
・・・今のわたしはキタハシさんの「元カレ」の感性が大好きなんだけど。
それが、キタハシさんだった。
百六十五センチの長身。制服のタイトスカートから長い足をすらりと見せて颯爽と歩く姿は、同性の目から見ても、くらくらしちゃう位にセクシーだった。低めの声はビロードめいた艶があり、決して感情を高ぶらせず、かと言って、私たち後輩の悩み相談にも、アルコール入りでも抜きでも付き合ってくれる優しさにあふれ、勿論、仕事もできた。
わたしは、高校が彼女と同じということもあり、とりわけ目をかけてもらえた。彼女と同じ職場でなかったならば、数字に弱くて鈍くさいわたしが、こんなに長く会社員生活を送ることはできなかっただろう。
さて、キタハシさんも、三十をいくつか過ぎてから、ついに結婚することになった。なにしろ、頭も切れてウツクシイキタハシさんのお相手である、どんなにかっこよくて高収入のミスターだろうと想像したのだが、聞いてみてびっくり。
フィアンセは、勤務先のビルの警備員をしている、まだ二十代前半の男、それも、彼女よりも二センチばかり背が低い男、だった・・・。
「慣例」に従い、退職することになった送別会が行われ、わたしたち後輩は、あるひとつのことについての質問を彼女に浴びせ掛けた。
それは、「結婚の決め手」である。
どうして、このひとだ、と決めたんですか。
どうして、このひとが運命のひとだって分かったんですか。
どうして、このひとにしよう、と誓ったんですか。
「結婚退職女の花道」という言葉がまかり通っている職場であるから、皆必死。とりわけ、美人で仕事もできるキタハシさんの、まあはっきり言って「無謀な」決断である。ココロしてきかねば、っていう気合がみなぎっている。
が、当のキタハシさんは、柔らかく微笑むだけ。
「そんなの、そのときが来れば分かるわよ。」
どうして、彼に決めたのか。
わたしたちの本音、「どうして美人で仕事もできつ貴女が、あんな冴えない男を撰んだのですか?」
に、彼女は当然、気がついていたのだろう。だから、あんなふうにはぐらかしたのだろう。
一番可愛がっていたわたしには、こんなことを話して「彼を撰んだ理由」にしてくれたのだけれど。
「駅からこのビルまで通ってくるとき、毎朝、カフェのスタンドでコーヒーを買って来るのがわたしの日課。それは知ってるでしょ?。
彼もそうだったの。
夜勤明けですれ違い、ということもあったけれど、方向が逆でも、彼もいつも、必ずコーヒーを買っていたわ。
そのうち、どちらかともなく、あいさつを交わすようになったの。
でも、ある日、いつものように出勤しようとしたら、彼の手にカップが無いのよ。
どうして?胃の調子でも悪いの?って聞いたんだ、わたし。気軽にね。
そのときの彼の返事。言ってみればこれが決め手だったんだ。」
「キタハシさん、沈丁花、咲きましたよね。
あのね、僕、あの花が余りにもいい香りがするんで、今日からしばらくコーヒー持ってこの道通るの止めようと思って。
花に失礼でしょ。せっかくいい香りしてるのに。」
「呆気にとられたわ。でもね、なーんか、いいな、って思ったの。
いいおとなが童話みたいに平和になるのも。わたしも、しばらくコーヒーを持たずに出勤してみた。代わりに、沈丁花の香りを吸い込んでみた。いつも通っている道に、こんないい香りの花が植わっていたんだ、ってことさえわたしには気が付かなかったのよね。なんだか、不思議にココロが満腹になっていくのを感じた。で、このひとと暮らしたい、って思ったの。」
そんなものかな。
分かるような、分からないような。
わたしには、物欲もあった。見栄もあった。結婚するなら、周りの女の子たちが「うらやましい」と感じるような相手がよかった。
だから、キタハシさんが、ルックスもイマイチ、お金も大してもっていない、そんな男の「沈丁花の香りを消したくないからコーヒーを持って歩かない」というような一言にぐっ、と来て、結婚を意識した、というのが・・・ピンと来なかった。
結局、惚れてる、ってことよね。
なんてことに結論付けた、そのときには。
彼女の真意(だと思う)に到達したのは、つい最近である。
わたしも、やがて結婚した。
そして、俳句を始めた。
俳句をつくるようになると、季節の移り変わりに敏感になる。何気なく見やってきた風景が、大きな意味を持ち始める。ぼーっと歩いていた並木道の、微妙な変化に気がつくようになる。そして、そういうちょっとした変化を常に探していくようになる。
夫はジョギングが好きである。
毎週走るコースには梅林があって、わたしは、毎年、梅の季節が来ると、
「ね、梅、咲いてた?。」
と尋ねるのだが、満足な答えが返ってきたためしが無い。
「さあ・・・。」
第一、そこに梅林がある、ということさえ彼は意識していない。一時間近く走りながら、うつろいゆく自然の生業にまったく注意を払っていない・・・。
それは恐らく、感性の違い、というものであろう。
別段、生活するのに不便、というものでは無い。
感性が違っても、家計に何らの影響を及ぼしはしない、ただ、物足りない。気持ちの豊かさ、というものを共有できない・・・。
なんとなく、うら淋しい気持ちにはなる。不幸、とまで重くは無いのだが。
ところで、キタハシさんの結婚であるが、結局破綻してしまった。
離婚後、彼女は、友人のつくった「イベント会社」の手伝いをして、相変わらずすらりと美しいらしい。
らしい、というのは、わたしが結婚を機に彼女の住む街から離れてしまったからだが、なんとなく話がしにくい、というのもある。
感性で選んだ結婚の破綻。
感性相違でも継続する結婚。
ここに、ふたつの結婚がある。
沈丁花の季節が今年もやってきた。
沈丁花咲きコーヒーを煎れぬ朝
・・・今のわたしはキタハシさんの「元カレ」の感性が大好きなんだけど。
転がれば戻らずそこに毛糸玉
これ、あげる。
うちの息子とお揃い、なんて、嫌かな。千香ちゃん。
え?ペアルックで嬉しいって?。そう言ってくれると嬉しい、って言うか、助かる、うん。
だって、そうよ。あたしの手編みだから。
ううん。大したことは無かったの。昔から編み物は好きだったしさ。なんかね、ぼけっ、とテレビの前に座ってたりってできないたちなんだよね。貧乏性。
うちの有也もプレ幼稚園行くようになってさ、少し手がかからなくなったじゃない?千香ちゃんママみたいに、下に赤ちゃんがいるって訳でも無いしさ、かと言ってお仕事、なんて時間は無いしさ。だから中途半端に手が空いちゃって。
だから編んだの。久しぶり。
ううん。有也が生まれる前にあの子の物は編まなかった。
忙しかった・・・って訳でも無いんだけれど。
あ、せっかく来てくれたんだから、お茶煎れるよ。悪いけど、ちょっと有也たち見てて。千香ちゃんに何かしたら遠慮無く怒っていいからさ。
ん?有也なあに。そう。仲良しできるのね。よしよし、いい子だね。じゃ、あんたたちにも何かおやつの用意をしてあげる。
赤ちゃん、よく眠ってるね。
ああ、そうなの。にぎやかな方がよく眠れるのね、安心するのかな。それ、なんか分かるよ。
きっと、つながってる、って確信しながらうつらうつらしているんだよね?。ひとりじゃない、って。バタバタいろんな音の中で・・・。
それにしても、セーターの季節、もうそろそろ終わりかもしれへんね。
来年?あはは、まだいけそうかな。有也も千香ちゃんもミニサイズだもんね。
あ、その虹色はね、もともと毛糸がそういう色なんだ。
まさか。そう細かく色替えなんかしてないしてない。ただザクザク編んだだけだよ。ほんとだってば。
・・・だからね、そんなにお礼言ってもらわなくっていいのよ、ほんまに。
どっちかって言うと、もらってもらうんだから。
それね・・・うん。実は、ほんとのこと言うと、ずっと仕舞ってあった毛糸なの。実家の机の引き出しに入れっぱなしになってたやつなの。
かれこれ八年ばかり。
そう。八年だよ。
分かったかな。そうだよね。やっぱり神戸市民ってさ、少し前の昔を思い出すとき、必ず震災を基準点にするからさ。一種の癖だよね。「あれは震災より前だったから」とか「あれは震災よりは後だったから」とか。
ああ、そうなの。震災のときには神戸に住んでた訳じゃないのね。それは良かったよ。あんな思い、しない方がいいもの・・・できればね・・・そうよ。
ごめんね。
本当のこと言うとね、そのセーター、ほんとはそのとき付き合ってた彼氏にあげる筈だったんだ。でもね。
でも・・・。彼、家が全壊して・・・。
あれが三連休の翌日だったの覚えてる?。わたしたち、前の前の日に会ったの。三宮で映画観て。お茶して、センター街をぶらついた。で、別れ際に、わたし言ったんだ。
バレンタインは期待しててね。
・・って。手編みのセーターを編んでたからね。でも、そのことは内緒にしてたの。彼、すっごく聞きたがってさ、何を期待させてくれるのか、って。もしかして、君でももらえるの、なんてこと言って笑ってた。付き合って三ヶ月だった。まだ、つまりそういうカンケイでは無かったのよ。でもね、わたしも、セーターにあたしをつけてもいいかな、なんて少し思ってたんだ。
好きだったから、ほんとに。
でも・・・終わったの。恋、では無くて彼の命が・・・。
ごめんね。すごくしめっぽくなっちゃった。「アンパンマン」のビデオをバックにまっ昼間に語る話じゃないわね。
でもね。そういういわれのある毛糸だから・・・。いっそ、棄ててしまおうかな、とも思ったのよ。でも、簡単にごみ箱につっ込むのことはできなかった。かと言って、主人のものを編むのも嫌だった。自分のものも嫌だった。そこら辺りの気持ち、分かってもらえるかなあ。
でも、息子になら編めそうな気がしたのよ。
でも、三才児ひとり分では毛糸が余っちゃって・・・だからなの。千香ちゃんのも編んでしまった。
亡くなったひとが着ていたものでは無いのよ、でも、着る筈のひとは亡くなった。それでもいいのなら・・・もらって。
ありがとうね。いやだ、泣かないでよ。子供らがびっくりして・・・違うよ、有也。おばちゃんをいじめたりしてないってば。
あ、でも、変なこと言って泣かせたわけだから・・・。
・・・着せてみてくれるの?。
じゃあ、わたしも着せてみるね。
あはは、ぴったり。まさに恋人どうし。「小さな恋のメロデイ」のテーマなんか浮かんできちゃったよ。
ありがと。
千香ちゃんママなら、きっとこういう気持ち、分かってくれるとは思ったんだけれど・・・いざもらってくれるかって思うと不安はあったよ。だから・・・ありがとう、ほんとに。
そうだね、あの子たちは震災なんか知らない。できればあんな目に遭って欲しくはないし・・・。まっさらの人生、幸せになって欲しいよ。どの子も。
あのさ、気障ついでに言っちゃうと、子育てって命のリレーだと思うんだよね。ひとつの命が消えても、またどこかで生まれて、育って。バトンを渡すみたいに続いてく・・・。
わたしたちさ、今、走ってんだよ。誰かにバトン、渡されてんだよ。
親になるってきっとそういうことだと思うんだけど・・・違うかな。
これ、あげる。
うちの息子とお揃い、なんて、嫌かな。千香ちゃん。
え?ペアルックで嬉しいって?。そう言ってくれると嬉しい、って言うか、助かる、うん。
だって、そうよ。あたしの手編みだから。
ううん。大したことは無かったの。昔から編み物は好きだったしさ。なんかね、ぼけっ、とテレビの前に座ってたりってできないたちなんだよね。貧乏性。
うちの有也もプレ幼稚園行くようになってさ、少し手がかからなくなったじゃない?千香ちゃんママみたいに、下に赤ちゃんがいるって訳でも無いしさ、かと言ってお仕事、なんて時間は無いしさ。だから中途半端に手が空いちゃって。
だから編んだの。久しぶり。
ううん。有也が生まれる前にあの子の物は編まなかった。
忙しかった・・・って訳でも無いんだけれど。
あ、せっかく来てくれたんだから、お茶煎れるよ。悪いけど、ちょっと有也たち見てて。千香ちゃんに何かしたら遠慮無く怒っていいからさ。
ん?有也なあに。そう。仲良しできるのね。よしよし、いい子だね。じゃ、あんたたちにも何かおやつの用意をしてあげる。
赤ちゃん、よく眠ってるね。
ああ、そうなの。にぎやかな方がよく眠れるのね、安心するのかな。それ、なんか分かるよ。
きっと、つながってる、って確信しながらうつらうつらしているんだよね?。ひとりじゃない、って。バタバタいろんな音の中で・・・。
それにしても、セーターの季節、もうそろそろ終わりかもしれへんね。
来年?あはは、まだいけそうかな。有也も千香ちゃんもミニサイズだもんね。
あ、その虹色はね、もともと毛糸がそういう色なんだ。
まさか。そう細かく色替えなんかしてないしてない。ただザクザク編んだだけだよ。ほんとだってば。
・・・だからね、そんなにお礼言ってもらわなくっていいのよ、ほんまに。
どっちかって言うと、もらってもらうんだから。
それね・・・うん。実は、ほんとのこと言うと、ずっと仕舞ってあった毛糸なの。実家の机の引き出しに入れっぱなしになってたやつなの。
かれこれ八年ばかり。
そう。八年だよ。
分かったかな。そうだよね。やっぱり神戸市民ってさ、少し前の昔を思い出すとき、必ず震災を基準点にするからさ。一種の癖だよね。「あれは震災より前だったから」とか「あれは震災よりは後だったから」とか。
ああ、そうなの。震災のときには神戸に住んでた訳じゃないのね。それは良かったよ。あんな思い、しない方がいいもの・・・できればね・・・そうよ。
ごめんね。
本当のこと言うとね、そのセーター、ほんとはそのとき付き合ってた彼氏にあげる筈だったんだ。でもね。
でも・・・。彼、家が全壊して・・・。
あれが三連休の翌日だったの覚えてる?。わたしたち、前の前の日に会ったの。三宮で映画観て。お茶して、センター街をぶらついた。で、別れ際に、わたし言ったんだ。
バレンタインは期待しててね。
・・って。手編みのセーターを編んでたからね。でも、そのことは内緒にしてたの。彼、すっごく聞きたがってさ、何を期待させてくれるのか、って。もしかして、君でももらえるの、なんてこと言って笑ってた。付き合って三ヶ月だった。まだ、つまりそういうカンケイでは無かったのよ。でもね、わたしも、セーターにあたしをつけてもいいかな、なんて少し思ってたんだ。
好きだったから、ほんとに。
でも・・・終わったの。恋、では無くて彼の命が・・・。
ごめんね。すごくしめっぽくなっちゃった。「アンパンマン」のビデオをバックにまっ昼間に語る話じゃないわね。
でもね。そういういわれのある毛糸だから・・・。いっそ、棄ててしまおうかな、とも思ったのよ。でも、簡単にごみ箱につっ込むのことはできなかった。かと言って、主人のものを編むのも嫌だった。自分のものも嫌だった。そこら辺りの気持ち、分かってもらえるかなあ。
でも、息子になら編めそうな気がしたのよ。
でも、三才児ひとり分では毛糸が余っちゃって・・・だからなの。千香ちゃんのも編んでしまった。
亡くなったひとが着ていたものでは無いのよ、でも、着る筈のひとは亡くなった。それでもいいのなら・・・もらって。
ありがとうね。いやだ、泣かないでよ。子供らがびっくりして・・・違うよ、有也。おばちゃんをいじめたりしてないってば。
あ、でも、変なこと言って泣かせたわけだから・・・。
・・・着せてみてくれるの?。
じゃあ、わたしも着せてみるね。
あはは、ぴったり。まさに恋人どうし。「小さな恋のメロデイ」のテーマなんか浮かんできちゃったよ。
ありがと。
千香ちゃんママなら、きっとこういう気持ち、分かってくれるとは思ったんだけれど・・・いざもらってくれるかって思うと不安はあったよ。だから・・・ありがとう、ほんとに。
そうだね、あの子たちは震災なんか知らない。できればあんな目に遭って欲しくはないし・・・。まっさらの人生、幸せになって欲しいよ。どの子も。
あのさ、気障ついでに言っちゃうと、子育てって命のリレーだと思うんだよね。ひとつの命が消えても、またどこかで生まれて、育って。バトンを渡すみたいに続いてく・・・。
わたしたちさ、今、走ってんだよ。誰かにバトン、渡されてんだよ。
親になるってきっとそういうことだと思うんだけど・・・違うかな。
チョコレートを準備する為に、今日の祝日は存在する。
と、思うほど混雑したデパートのチョコレート売り場だった。
いわゆる「義理」をいくつか買い、「本命」には手作り用の材料を整え、冷蔵庫に仕舞い込んでから、待ち合せ場所に向かった。
ケイタイを持つようになってからの待ち合せは、いちいち人混みを気にしなくて良い。遅れそうなら手元で着メロがヒラヒラ鳴り、今、相手が置かれている状況はすぐに把握できる。
そして、いつも通り「ごめん。後、十分。」というメールが届く。
また、か・・・。
夕方近く、駅のロータリー。人混みと騒音に取り巻かれ、退屈が疲労に化けそうだった。で、何気無く「受信メール」を読み返してみて、「あっ」と思った。
おかしい・・・。
彼からの、メール。
「もうすぐバレンタイン。男としては期待しちゃうけれど、無理するなよ。オレは、君のあったかい気持ちだけあれば満足なんだから。チョコなんか無くてもいい。手紙でも、カードでもいい。君の右手が、オレへの恋心を綴ってくれるなら、それだけでいいんだ。」
キザったらしいのは、いつものこととして、引っ掛かるのは、その文面。
「君の右手が・・・」のところだ。
なんで?
わたしは、左効きだよ。
わたしが左効きなのを、知らない筈は無い。
バーのカウンターで、ふたりきりの乾杯をするとき、わたしを左側に座らせ、大きくのしかかるようにして、グラスを重ねるのが好きだと言った。ついでに、唇も重ねることがある。
いやだ、ホントに、テキトーなんだから。
抜け目が無いようでいて、かなりおっちょこちょいだから、またいい加減なこと書いて・・・と、思いたかった。
でも。
やはり、気になる。
彼のシャワー中に、ケイタイをチェックさせてもらったのときにも、まさか、との思いが強かった。
自分を安心させたいだけ・・・。
「送信メール」のリストを開けたときには、指が震えた。
でも、その内容を見て、もっと、今度は指だけでは無く、身体全体が震えた。
何、これは。
彼は、わたしだけでは無く、三人の女に同じメールを送りつけていたのだった。
たまたまバレンタインが近いからだ、と思おうとしたけれど・・・。
他に、他の女だけに送られた「愛メール」まで発見して、愕然とした。
ヨツマタ、ってやつですか・・・。
いったいどうしたらよいのか分からなかった。帰ってしまおうかとも思ったけれど、肌を重ねれば、やっぱり本命はわたし、ってことが確かめられるかな、と考え直して、抱かれた。もちろん、そんなことは判然とするはずも無かったのだが・・・。
砂糖菓子ほどの軽さや街の春
悲しみと、戸惑いとで押しつぶされそうな数日が過ぎた。
今日は、バレンタインデイ。
わたしは、待ち合せ場所のオープンカフェを見下ろせる、モノレールの駅のホームにいる。
行こうか、止めようか。時間的に考えて、わたしは彼女たちの中の一番手だ。超多忙なヨツマタ男の、今夜最初の女である。
さて・・・。
この数日、ほんと、色々考えた。
で、やっぱり、一気に解決させようと決めた。ぐずぐず引きずるのは性に合わない。
わたしは、今夜、最初の女。
そして、やがて次の女がもう現れる。そして、その次もひとり。更に、もうひとり。
日暮れ時のカフェという舞台。バラバラに登場した女たちは、互いに怪訝な表情を浮かべる。どうして「一番大きな銀杏の木の下」のテーブルにばかり座りたがる女がいるのだろうか、と・・・。
さて。そろそろ行かなくちゃ。
仕組んだのは、わたしだもの。
彼のケイタイから拾った彼女たちのアドに、おんなじメールを彼から送ったことにした。そして、彼にも、彼女たちのそれぞれから、同じ場所を指定して、待ち合せを仕掛けた。
今日が、恋人たちにとって、スペシャルな日、だからこそできた芸当。でも、彼はこの偶然に、不気味なものを感じてはいるに違いない。
かすかに丸みをおびたレールをたどり、モノレールが、入って来るのが見える。
彼は、多分、あの箱の中だ・・・。怖じ気ついて無ければの話だが。
バッグの中をそっと探り、一粒のチョコレートを取り出す。
昨夜、頑張って手作りしたのだ。自分の為に。
さあ、勝負!。
と、思うほど混雑したデパートのチョコレート売り場だった。
いわゆる「義理」をいくつか買い、「本命」には手作り用の材料を整え、冷蔵庫に仕舞い込んでから、待ち合せ場所に向かった。
ケイタイを持つようになってからの待ち合せは、いちいち人混みを気にしなくて良い。遅れそうなら手元で着メロがヒラヒラ鳴り、今、相手が置かれている状況はすぐに把握できる。
そして、いつも通り「ごめん。後、十分。」というメールが届く。
また、か・・・。
夕方近く、駅のロータリー。人混みと騒音に取り巻かれ、退屈が疲労に化けそうだった。で、何気無く「受信メール」を読み返してみて、「あっ」と思った。
おかしい・・・。
彼からの、メール。
「もうすぐバレンタイン。男としては期待しちゃうけれど、無理するなよ。オレは、君のあったかい気持ちだけあれば満足なんだから。チョコなんか無くてもいい。手紙でも、カードでもいい。君の右手が、オレへの恋心を綴ってくれるなら、それだけでいいんだ。」
キザったらしいのは、いつものこととして、引っ掛かるのは、その文面。
「君の右手が・・・」のところだ。
なんで?
わたしは、左効きだよ。
わたしが左効きなのを、知らない筈は無い。
バーのカウンターで、ふたりきりの乾杯をするとき、わたしを左側に座らせ、大きくのしかかるようにして、グラスを重ねるのが好きだと言った。ついでに、唇も重ねることがある。
いやだ、ホントに、テキトーなんだから。
抜け目が無いようでいて、かなりおっちょこちょいだから、またいい加減なこと書いて・・・と、思いたかった。
でも。
やはり、気になる。
彼のシャワー中に、ケイタイをチェックさせてもらったのときにも、まさか、との思いが強かった。
自分を安心させたいだけ・・・。
「送信メール」のリストを開けたときには、指が震えた。
でも、その内容を見て、もっと、今度は指だけでは無く、身体全体が震えた。
何、これは。
彼は、わたしだけでは無く、三人の女に同じメールを送りつけていたのだった。
たまたまバレンタインが近いからだ、と思おうとしたけれど・・・。
他に、他の女だけに送られた「愛メール」まで発見して、愕然とした。
ヨツマタ、ってやつですか・・・。
いったいどうしたらよいのか分からなかった。帰ってしまおうかとも思ったけれど、肌を重ねれば、やっぱり本命はわたし、ってことが確かめられるかな、と考え直して、抱かれた。もちろん、そんなことは判然とするはずも無かったのだが・・・。
砂糖菓子ほどの軽さや街の春
悲しみと、戸惑いとで押しつぶされそうな数日が過ぎた。
今日は、バレンタインデイ。
わたしは、待ち合せ場所のオープンカフェを見下ろせる、モノレールの駅のホームにいる。
行こうか、止めようか。時間的に考えて、わたしは彼女たちの中の一番手だ。超多忙なヨツマタ男の、今夜最初の女である。
さて・・・。
この数日、ほんと、色々考えた。
で、やっぱり、一気に解決させようと決めた。ぐずぐず引きずるのは性に合わない。
わたしは、今夜、最初の女。
そして、やがて次の女がもう現れる。そして、その次もひとり。更に、もうひとり。
日暮れ時のカフェという舞台。バラバラに登場した女たちは、互いに怪訝な表情を浮かべる。どうして「一番大きな銀杏の木の下」のテーブルにばかり座りたがる女がいるのだろうか、と・・・。
さて。そろそろ行かなくちゃ。
仕組んだのは、わたしだもの。
彼のケイタイから拾った彼女たちのアドに、おんなじメールを彼から送ったことにした。そして、彼にも、彼女たちのそれぞれから、同じ場所を指定して、待ち合せを仕掛けた。
今日が、恋人たちにとって、スペシャルな日、だからこそできた芸当。でも、彼はこの偶然に、不気味なものを感じてはいるに違いない。
かすかに丸みをおびたレールをたどり、モノレールが、入って来るのが見える。
彼は、多分、あの箱の中だ・・・。怖じ気ついて無ければの話だが。
バッグの中をそっと探り、一粒のチョコレートを取り出す。
昨夜、頑張って手作りしたのだ。自分の為に。
さあ、勝負!。
電話の中から声が聞こえたとき、
「やっぱりね。」
と、言ってしまった。
失言である。
「ねえ、何が、やっぱり、なの。ねえ。」
畳み掛けてくるのを聞きながら、心から後悔したけれど、口にした言葉は戻せない。
「いや。あの、えっと。」
ごまかそうとすると、却ってとんでもないことを言いそうな気がして、わたしは早々に降参した。
「・・・あ、あの。見たのよ、お父さんを。昨日、こっちで。だから。」
ようやく何とか自分の失態を繕う言葉をみつけて、慌てて付け加える。
「でね、で、あなたもこっちに来てるんじゃないかなあ、なんて思ったものだから。ほら、家族旅行とか、で。」
電話からは、微かなため息が漏れ聞こえた。
「そう・・・。そうね、そういう平和なもんならいいのだけれど。」
「・・・違うの?・・・。」
「うん。あのさ、親父ね、駆け落ちなんだ。」
「えっ・・・。」
「女が一緒なのよ。見なかった?。」
わたしは、絶句してしまった。
故郷の幼なじみ、ヒロの父親を見かけたのは、昨日の朝である。
駅に続くターミナルホテルの、一階から一気に三階までつながる、長いエスカレーターに乗っていた。わたしは、たまたま出勤途中に電車を乗り継ごうとして、近道であるそのエスカレーターを使い、その姿を見たのだ。
こっちは下り、向こうは、上り。
最初は他人の空似だろうと思った。
何しろ、新幹線で三時間はかかる町の、幼なじみのお父さんなのだ。小学校から高校までの長きに渡って、親友だったからと言っても、本人ならともかくその家族ともなると、そうそうはっきり顔を覚えてはいない。
でも、きちっ、と「七・三」に分けられた銀髪、そして縁無しの眼鏡にすらりとした長身、六十を過ぎた男でありながら、少年を思わせる清潔な雰囲気を漂わせているところなど、それはもう、ヒロのお父さんに間違いない特徴を幾つも見せていたのだった。
全然、老けてないわ。
この前、会ったのは、ヒロの母親の葬式だった。
誰も予想しなかったという突然の死で、遠方ゆえに、あれこれ都合をつけて何とか駆けつけたヒロの実家の冷蔵庫の扉には、亡くなった人が書いたと思われる「買い物リスト」が、そのまま磁石で留められていた。
そんな突然の悲しい出来事なのに、真っ赤な目をしてはいたものの、父親は、とても身奇麗にして、いわゆる「男やもめ」の崩れたような感じは微塵も無かった。
あれから、五年か・・・。
「駆け落ち、って・・・。」
お葬式のことなど思い出したからだろう、とても深刻な声音になった。ヒロは少し笑って、
「いや、別にね、そう切羽詰まった話では無いのよ。神戸に行く、とも聞いてたし。ただ、どうも一人じゃないってことが分かって・・・。
わたしより、弟たちが焦ってるの。父が今更、再婚でもしたらどうしよう、って。財産の取り分が減る、って、それぞれ嫁さんにドヤされてるみたいよ。どうせ、わたしは放棄、ってことになるんだろうから関係無いんだけどね。」
結構ナマナマしい話をさらっ、として、
「で、まあ、わたしはつまり、そう頭に来てないつもりだから、明日、そっちに行こうかな、と思って。神戸に行くのなら、あんたの顔も見たいじゃない。宿泊先も、どうやら、近いみたいだし。」
「泊まるホテルまで教えてるんじゃ、駆け落ち、なんて言わないじゃない。もう、びっくりさせるなあ。」
「あはは、ごめんね。だって、あんたが、いきなり、やっぱり、なんて言うからさ、何か見たのかなあって、勘ぐっちゃうじゃない。それに、父は弟と大喧嘩して、しばらく家には帰らない、って。えらい剣幕だったらしいし。」
わたしは考える。
言うべきかしら。
言わないべきかしら。
エスカレーターの階段には、確かに女のひとがいた。
幾つぐらいだろう、やっぱり銀髪だった。
「ヒロは、お父さんの再婚には、反対なの。」
「ううん。子供も全員結婚したのよ。もう、好きにしたらいいと思う。でも、確かに、弟たちの言うことも、分かるのよ。今更、父やわたしたちのことを引っ掻き回すようなひとは、嫌。どんな女かによるわね。」
昨日は朝から雨だった。
今にも雪に変わりそうな、冷たい雨が、港にも、山にも静かに降り注いでいた。
ヒロのお父さんたちは、傘を持ってはいなかった。黒っぽいコートが、濡れて重そうに見えた。
「別れろ、なんて言わないから、きちんと、実家で話し合いたい、って。そう言いたくて。わたし、その女、知らないし。あんた、見てないよね?。」
「・・・見たよ。」
やっぱり、言おう。
「そのひとね、白い杖を持ってた。」
「それって、もしかして・・・。」
「・・・そうかもね。でもね。」
片方の手には白い杖。
不安定な、動く階段の上で、身体を支えている。
そして、もう一方の手で、ハンカチらしいものを持ち、一心に、連れの男の人・・・ヒロの父親・・・の、濡れたコートを拭いていた。拭っても、拭っても、染み込んだ冬の雨の冷たさは拭いきれないだろうに、その女の人は、ただひたすら、手を動かし続けていたのだった。
「それって・・・。」
「うん。わたしにはね、ヒロ、とても微笑ましく見えたの。愛情深く、見えた。」
少しだけ黙ってから、ありがと、とヒロは言った。
「・・・明日、行くから。着いたら電話する。」
「うん。待ってる。」
「・・・で、ね。もしも良かったら、あ、でもやっぱりあんたに悪いかな。」
「何よ。」
「・・・いや、何でも無い。」
わたしは微笑んだ。
「いいよ、一緒に会うよ、お父さんと、その女の人に。」
また少し黙り、そして、何故だろう、やや涙声の「ありがとう」が、耳元に届いた。
氷雨降る街に笑顔を添へたくて
「やっぱりね。」
と、言ってしまった。
失言である。
「ねえ、何が、やっぱり、なの。ねえ。」
畳み掛けてくるのを聞きながら、心から後悔したけれど、口にした言葉は戻せない。
「いや。あの、えっと。」
ごまかそうとすると、却ってとんでもないことを言いそうな気がして、わたしは早々に降参した。
「・・・あ、あの。見たのよ、お父さんを。昨日、こっちで。だから。」
ようやく何とか自分の失態を繕う言葉をみつけて、慌てて付け加える。
「でね、で、あなたもこっちに来てるんじゃないかなあ、なんて思ったものだから。ほら、家族旅行とか、で。」
電話からは、微かなため息が漏れ聞こえた。
「そう・・・。そうね、そういう平和なもんならいいのだけれど。」
「・・・違うの?・・・。」
「うん。あのさ、親父ね、駆け落ちなんだ。」
「えっ・・・。」
「女が一緒なのよ。見なかった?。」
わたしは、絶句してしまった。
故郷の幼なじみ、ヒロの父親を見かけたのは、昨日の朝である。
駅に続くターミナルホテルの、一階から一気に三階までつながる、長いエスカレーターに乗っていた。わたしは、たまたま出勤途中に電車を乗り継ごうとして、近道であるそのエスカレーターを使い、その姿を見たのだ。
こっちは下り、向こうは、上り。
最初は他人の空似だろうと思った。
何しろ、新幹線で三時間はかかる町の、幼なじみのお父さんなのだ。小学校から高校までの長きに渡って、親友だったからと言っても、本人ならともかくその家族ともなると、そうそうはっきり顔を覚えてはいない。
でも、きちっ、と「七・三」に分けられた銀髪、そして縁無しの眼鏡にすらりとした長身、六十を過ぎた男でありながら、少年を思わせる清潔な雰囲気を漂わせているところなど、それはもう、ヒロのお父さんに間違いない特徴を幾つも見せていたのだった。
全然、老けてないわ。
この前、会ったのは、ヒロの母親の葬式だった。
誰も予想しなかったという突然の死で、遠方ゆえに、あれこれ都合をつけて何とか駆けつけたヒロの実家の冷蔵庫の扉には、亡くなった人が書いたと思われる「買い物リスト」が、そのまま磁石で留められていた。
そんな突然の悲しい出来事なのに、真っ赤な目をしてはいたものの、父親は、とても身奇麗にして、いわゆる「男やもめ」の崩れたような感じは微塵も無かった。
あれから、五年か・・・。
「駆け落ち、って・・・。」
お葬式のことなど思い出したからだろう、とても深刻な声音になった。ヒロは少し笑って、
「いや、別にね、そう切羽詰まった話では無いのよ。神戸に行く、とも聞いてたし。ただ、どうも一人じゃないってことが分かって・・・。
わたしより、弟たちが焦ってるの。父が今更、再婚でもしたらどうしよう、って。財産の取り分が減る、って、それぞれ嫁さんにドヤされてるみたいよ。どうせ、わたしは放棄、ってことになるんだろうから関係無いんだけどね。」
結構ナマナマしい話をさらっ、として、
「で、まあ、わたしはつまり、そう頭に来てないつもりだから、明日、そっちに行こうかな、と思って。神戸に行くのなら、あんたの顔も見たいじゃない。宿泊先も、どうやら、近いみたいだし。」
「泊まるホテルまで教えてるんじゃ、駆け落ち、なんて言わないじゃない。もう、びっくりさせるなあ。」
「あはは、ごめんね。だって、あんたが、いきなり、やっぱり、なんて言うからさ、何か見たのかなあって、勘ぐっちゃうじゃない。それに、父は弟と大喧嘩して、しばらく家には帰らない、って。えらい剣幕だったらしいし。」
わたしは考える。
言うべきかしら。
言わないべきかしら。
エスカレーターの階段には、確かに女のひとがいた。
幾つぐらいだろう、やっぱり銀髪だった。
「ヒロは、お父さんの再婚には、反対なの。」
「ううん。子供も全員結婚したのよ。もう、好きにしたらいいと思う。でも、確かに、弟たちの言うことも、分かるのよ。今更、父やわたしたちのことを引っ掻き回すようなひとは、嫌。どんな女かによるわね。」
昨日は朝から雨だった。
今にも雪に変わりそうな、冷たい雨が、港にも、山にも静かに降り注いでいた。
ヒロのお父さんたちは、傘を持ってはいなかった。黒っぽいコートが、濡れて重そうに見えた。
「別れろ、なんて言わないから、きちんと、実家で話し合いたい、って。そう言いたくて。わたし、その女、知らないし。あんた、見てないよね?。」
「・・・見たよ。」
やっぱり、言おう。
「そのひとね、白い杖を持ってた。」
「それって、もしかして・・・。」
「・・・そうかもね。でもね。」
片方の手には白い杖。
不安定な、動く階段の上で、身体を支えている。
そして、もう一方の手で、ハンカチらしいものを持ち、一心に、連れの男の人・・・ヒロの父親・・・の、濡れたコートを拭いていた。拭っても、拭っても、染み込んだ冬の雨の冷たさは拭いきれないだろうに、その女の人は、ただひたすら、手を動かし続けていたのだった。
「それって・・・。」
「うん。わたしにはね、ヒロ、とても微笑ましく見えたの。愛情深く、見えた。」
少しだけ黙ってから、ありがと、とヒロは言った。
「・・・明日、行くから。着いたら電話する。」
「うん。待ってる。」
「・・・で、ね。もしも良かったら、あ、でもやっぱりあんたに悪いかな。」
「何よ。」
「・・・いや、何でも無い。」
わたしは微笑んだ。
「いいよ、一緒に会うよ、お父さんと、その女の人に。」
また少し黙り、そして、何故だろう、やや涙声の「ありがとう」が、耳元に届いた。
氷雨降る街に笑顔を添へたくて
「ここで、お願いします。」
そう言って、先に服を脱ぎはじめた。
車の中は、暖かかった。
外は、雪。夕方からずっと降り続いている。
雪国で暮らしていれば、この位の雪でたじろいだりは、しないけれども。
婚約者のいる男だと、最近知った。
訳ありの婚約らしい。男の商売は、彼女を得ることで有利になる。
このひとの、長い人生を食い尽くそうとしているのは、平凡で、何の取り柄も無い女なのだということに、耐えられない、そう思って。
恋に気が付いた。
あたしは、何だって気が付くのが遅い。
本当に欲しいものは、「欲しい」と思った時には、いつでももう手遅れ。
いいえ、もしかしたら、手に入らないと分かるものしか、心から欲しくならないのかもしれない。
不幸せ体質。
男が手を伸ばして、胸を掴む。
冷たい、てのひら。
こんなに冷たいてのひらの持ち主に初めて出会った。
身体をよじったのは、ヒヤッとしたからなのに、男は意味を取り違える。
のしかかる、大きな肉体・・・。
車窓は、ほの白く曇っている。
時々、はたはたはたっ、という音と共に、雪と風が車を包む。
山の中腹にある、真夜中の公園。展望台がある広場に続く小さな坂道。この辺りは確か、桜の並木道だ。目を閉じて、唇を遊ばせながら、満開の桜を瞼の裏に降らせる。
今は、真冬。訪れる人は誰もいない。恐らく朝になっても誰も来ないだろう。
桜みたいに散るのはただ、あたしのこのきもちだけ。
空から一斉に落ちる雪片たちのように、落ちれば消える。
落ちれば、きえる。
男は果ててから、窓の外の白さに驚く。
タイヤを通して押し付けていた新雪は、かなり積もってこの空間を取り囲んでいるだろう。
雪の夜、闇は、雪の白さに負ける。一晩中、暗くならない空は、藍いろから浅葱色へ、静かに変わる。どちらの青にも、白が勝って、それは、おとなしい女の無言の勝利を思わせる。
雪女だましだましの朝ぼらけ
「送るよ。」
男が言った。
「はい。」
うなずきながら、雪がどこかで、この空間を凍らせてしまいますようにと、願いをかける。
そして、その願いがかなうように、ここに来る前にあたしが仕掛けをしたことに、男はまだ気が付かない。
ふいに、エンジン音が途切れ、ふっ、とエアコンが止まり、ヘッドライトが、消えた。
はたはたはた。後にはただ、風の音。
そう言って、先に服を脱ぎはじめた。
車の中は、暖かかった。
外は、雪。夕方からずっと降り続いている。
雪国で暮らしていれば、この位の雪でたじろいだりは、しないけれども。
婚約者のいる男だと、最近知った。
訳ありの婚約らしい。男の商売は、彼女を得ることで有利になる。
このひとの、長い人生を食い尽くそうとしているのは、平凡で、何の取り柄も無い女なのだということに、耐えられない、そう思って。
恋に気が付いた。
あたしは、何だって気が付くのが遅い。
本当に欲しいものは、「欲しい」と思った時には、いつでももう手遅れ。
いいえ、もしかしたら、手に入らないと分かるものしか、心から欲しくならないのかもしれない。
不幸せ体質。
男が手を伸ばして、胸を掴む。
冷たい、てのひら。
こんなに冷たいてのひらの持ち主に初めて出会った。
身体をよじったのは、ヒヤッとしたからなのに、男は意味を取り違える。
のしかかる、大きな肉体・・・。
車窓は、ほの白く曇っている。
時々、はたはたはたっ、という音と共に、雪と風が車を包む。
山の中腹にある、真夜中の公園。展望台がある広場に続く小さな坂道。この辺りは確か、桜の並木道だ。目を閉じて、唇を遊ばせながら、満開の桜を瞼の裏に降らせる。
今は、真冬。訪れる人は誰もいない。恐らく朝になっても誰も来ないだろう。
桜みたいに散るのはただ、あたしのこのきもちだけ。
空から一斉に落ちる雪片たちのように、落ちれば消える。
落ちれば、きえる。
男は果ててから、窓の外の白さに驚く。
タイヤを通して押し付けていた新雪は、かなり積もってこの空間を取り囲んでいるだろう。
雪の夜、闇は、雪の白さに負ける。一晩中、暗くならない空は、藍いろから浅葱色へ、静かに変わる。どちらの青にも、白が勝って、それは、おとなしい女の無言の勝利を思わせる。
雪女だましだましの朝ぼらけ
「送るよ。」
男が言った。
「はい。」
うなずきながら、雪がどこかで、この空間を凍らせてしまいますようにと、願いをかける。
そして、その願いがかなうように、ここに来る前にあたしが仕掛けをしたことに、男はまだ気が付かない。
ふいに、エンジン音が途切れ、ふっ、とエアコンが止まり、ヘッドライトが、消えた。
はたはたはた。後にはただ、風の音。
こぽこぽと心地よいリズムで音と湯気があがる。
悠子の好きなアール・グレイの香が、暖かいサンルームにも広がる。サンルームの中で誇らしく咲いている、色とりどりのシクラメンを見つめていたまみ子は、お茶の香で我に帰る。
テイータイムの始まりなのだ。
「皆様、どうぞこちらに。」
悠子の声は、低いけれど、柔らかで、今日身に付けているベルベッドみたいだ。いかにもこういう館の女主人らしい、黒いロングドレス。
「はい、おかあさま。」
まみ子は小さく返事をすると、香水の香と紅茶の香とで、いささか息苦しくなり始めた、リビングに向かう。
サンルームを出るときについた、小さなため息は、誰にも聞かれなかっただろうか。
自分がこういう、悠子に言わせれば「お付き合いの時間」を何よりも苦手としていることを、このお茶会の面々に知られたくは無い。
「まみ子さん、新年、明けましておめでとう。」
真っ先に声をかけて来たのは、何代も前からお付き合いがあるという、近衛家の夫人。
「おめでとうございます。」
「ますますお奇麗になられたのね、今年から、上にお進みになるのでしょう。」
「はい。」
まみ子の通っている私学の女子校は、エスカレート式に大学まで行ける。この次に桜を見れば、高等部に進学である。
「・・・亡くなられたおじいさまも、お母さまも、これで一安心されるわね。」
言葉の中には、後妻としてこの家に入った悠子への、あてこすりとも言える響きが込められていたが、ここにいる夫人たちの誰も、勿論、悠子も、気にしない風を装う。
ただ、まみ子には、どこか、近衛夫人の言い方に共鳴するものがある。
繊細なテイカップを優雅に掲げて、完璧な微笑みを浮かべてお茶の席に連なる悠子を、まみ子は決して嫌っているわけでは無いけれど、どこかでやはり、なじめなかった。
母を幼くして亡くした後、悠子がやって来た時にも、まみ子の世話をしてくれたのは、その前からずっと家で雇われていた「ゆりさん」という女の人だったから、その時点で新しい母に反抗心が芽生えたわけでは無い。
だけど、いつからか、ひとり娘として、悠子はこの家にはふさわしくないと、そんなふうに思いはじめている。
この年頃ならば、誰でもが感じるものなのかもしれないのだが・・・。
いや、まみ子には、本当は分かっている。
義母への反発がいつから芽生えたものなのか。
八年前の、あの、震災からだ。
芦屋の高台にあるこの館だって、被害を全く被らなかったわけでは無い。
祖父が好んでいたという、リビングの窓にはめ込まれたステンドグラスは、一瞬でガラスの山になった。ヨーロッパで直接、父が買い付けて来たという陶器類も、大きな痛手を被った。
けれども、家族には怪我人も出ず、家も、相当古い割には、その後の居住に障りはしなかったのである。
まみ子はまだ幼かったから、眠る場所と、食べるものが、とにかくあれば、その後のことに思いを煩わせることなど、無かった。いや、そうでは無い、二階の寝室から見た、震災の日の町の記憶が、自分の生活の執着など、吹き飛ばしたのである。
町が、燃えていた。
あちこちで煙が上がっていた。
市街地が、燃えている。そのことも、もちろん、怖かった。
だが、もっと怖かったのは、夜。
夕べまでは、海へとなだらかに落ちていく坂に沿って建てられた、数々の家の明かりが、宝石箱のような夜景を形つくっていた。
それが、何もかも、失われている。
ぽっかりと、大きく穴の開いた闇が、山と海との狭い地形に、うつろに出現していた。
それは、うつろであるだけに、余計に何もかもを吸い込みそうに感じさせた。
言い知れぬ悲しみが、その闇に息付いているような気がした。いや、多分、本当に、息付いていたのだ、あの時。
突然、明日へと難なく続く筈の未来を、大きな鋏でぶち切られた人々の、悲しみ。
それが、突如出現した大きな暗闇の穴となって、そこに、あった。
少女のまみ子には、自分がその悲しみの渦に巻き込まれそうな気がした。
そして、町の被害を聞かされる度、その闇から離れて、安心しているちいさな自分のことが、なぜだか悲しかった。
でも、悠子は。
震災が起きた日から一月ばかりして、どこかのラジオ局が、インタビュウを申し込んできた。
なぜ、悠子が撰ばれたのかは、知らない。
「・・・下町の火災の様子は、お宅からも、よくご覧になれたでしょうね。そのとき、どう思われましたか。」
という、質問があった。
悠子は答えた。
「ええ。よく見えました。そしてね、とても、複雑な気持ちになりましたのよ。」
「複雑・・・ですか。」
「ええ。とっても、複雑。」
あれから、八年。
悠子の、複雑、という心根が、まみ子には分からない。これからも、多分、分からないだろう。
自分を生んだ母ならば、どう答えたであろう、とは考える。
このようなときに「下町」という言葉をつかった相手を咎めるだろうか。
いや、恐らくインタビュウ自体、受けなかったに違いない。
「まみ子さん、今日は、ガトウ・ショコラを作らせましたのよ、いかが。」
誰かの声がする。
「はい、いただきます。」
青いドレスの裾を直しながら、まみ子はお菓子のお皿を受け取るために立ち上がる。
自分は、ずっと、この社会で生きていくのだろうか。
そうなのか。
シクラメン淑女の紅の色とりどり
シクラメンの花の蕾は、静かに、おとなしく、うつむいている。
けれども、花開くとそれは、同じ花とは思えないほど、毅然と胸を張り、きりりと自己主張する。
わたしも、いつか。
まみ子は、まだ何も付けていない唇を結ぶ。
悠子の好きなアール・グレイの香が、暖かいサンルームにも広がる。サンルームの中で誇らしく咲いている、色とりどりのシクラメンを見つめていたまみ子は、お茶の香で我に帰る。
テイータイムの始まりなのだ。
「皆様、どうぞこちらに。」
悠子の声は、低いけれど、柔らかで、今日身に付けているベルベッドみたいだ。いかにもこういう館の女主人らしい、黒いロングドレス。
「はい、おかあさま。」
まみ子は小さく返事をすると、香水の香と紅茶の香とで、いささか息苦しくなり始めた、リビングに向かう。
サンルームを出るときについた、小さなため息は、誰にも聞かれなかっただろうか。
自分がこういう、悠子に言わせれば「お付き合いの時間」を何よりも苦手としていることを、このお茶会の面々に知られたくは無い。
「まみ子さん、新年、明けましておめでとう。」
真っ先に声をかけて来たのは、何代も前からお付き合いがあるという、近衛家の夫人。
「おめでとうございます。」
「ますますお奇麗になられたのね、今年から、上にお進みになるのでしょう。」
「はい。」
まみ子の通っている私学の女子校は、エスカレート式に大学まで行ける。この次に桜を見れば、高等部に進学である。
「・・・亡くなられたおじいさまも、お母さまも、これで一安心されるわね。」
言葉の中には、後妻としてこの家に入った悠子への、あてこすりとも言える響きが込められていたが、ここにいる夫人たちの誰も、勿論、悠子も、気にしない風を装う。
ただ、まみ子には、どこか、近衛夫人の言い方に共鳴するものがある。
繊細なテイカップを優雅に掲げて、完璧な微笑みを浮かべてお茶の席に連なる悠子を、まみ子は決して嫌っているわけでは無いけれど、どこかでやはり、なじめなかった。
母を幼くして亡くした後、悠子がやって来た時にも、まみ子の世話をしてくれたのは、その前からずっと家で雇われていた「ゆりさん」という女の人だったから、その時点で新しい母に反抗心が芽生えたわけでは無い。
だけど、いつからか、ひとり娘として、悠子はこの家にはふさわしくないと、そんなふうに思いはじめている。
この年頃ならば、誰でもが感じるものなのかもしれないのだが・・・。
いや、まみ子には、本当は分かっている。
義母への反発がいつから芽生えたものなのか。
八年前の、あの、震災からだ。
芦屋の高台にあるこの館だって、被害を全く被らなかったわけでは無い。
祖父が好んでいたという、リビングの窓にはめ込まれたステンドグラスは、一瞬でガラスの山になった。ヨーロッパで直接、父が買い付けて来たという陶器類も、大きな痛手を被った。
けれども、家族には怪我人も出ず、家も、相当古い割には、その後の居住に障りはしなかったのである。
まみ子はまだ幼かったから、眠る場所と、食べるものが、とにかくあれば、その後のことに思いを煩わせることなど、無かった。いや、そうでは無い、二階の寝室から見た、震災の日の町の記憶が、自分の生活の執着など、吹き飛ばしたのである。
町が、燃えていた。
あちこちで煙が上がっていた。
市街地が、燃えている。そのことも、もちろん、怖かった。
だが、もっと怖かったのは、夜。
夕べまでは、海へとなだらかに落ちていく坂に沿って建てられた、数々の家の明かりが、宝石箱のような夜景を形つくっていた。
それが、何もかも、失われている。
ぽっかりと、大きく穴の開いた闇が、山と海との狭い地形に、うつろに出現していた。
それは、うつろであるだけに、余計に何もかもを吸い込みそうに感じさせた。
言い知れぬ悲しみが、その闇に息付いているような気がした。いや、多分、本当に、息付いていたのだ、あの時。
突然、明日へと難なく続く筈の未来を、大きな鋏でぶち切られた人々の、悲しみ。
それが、突如出現した大きな暗闇の穴となって、そこに、あった。
少女のまみ子には、自分がその悲しみの渦に巻き込まれそうな気がした。
そして、町の被害を聞かされる度、その闇から離れて、安心しているちいさな自分のことが、なぜだか悲しかった。
でも、悠子は。
震災が起きた日から一月ばかりして、どこかのラジオ局が、インタビュウを申し込んできた。
なぜ、悠子が撰ばれたのかは、知らない。
「・・・下町の火災の様子は、お宅からも、よくご覧になれたでしょうね。そのとき、どう思われましたか。」
という、質問があった。
悠子は答えた。
「ええ。よく見えました。そしてね、とても、複雑な気持ちになりましたのよ。」
「複雑・・・ですか。」
「ええ。とっても、複雑。」
あれから、八年。
悠子の、複雑、という心根が、まみ子には分からない。これからも、多分、分からないだろう。
自分を生んだ母ならば、どう答えたであろう、とは考える。
このようなときに「下町」という言葉をつかった相手を咎めるだろうか。
いや、恐らくインタビュウ自体、受けなかったに違いない。
「まみ子さん、今日は、ガトウ・ショコラを作らせましたのよ、いかが。」
誰かの声がする。
「はい、いただきます。」
青いドレスの裾を直しながら、まみ子はお菓子のお皿を受け取るために立ち上がる。
自分は、ずっと、この社会で生きていくのだろうか。
そうなのか。
シクラメン淑女の紅の色とりどり
シクラメンの花の蕾は、静かに、おとなしく、うつむいている。
けれども、花開くとそれは、同じ花とは思えないほど、毅然と胸を張り、きりりと自己主張する。
わたしも、いつか。
まみ子は、まだ何も付けていない唇を結ぶ。
うす暗くなり始めた頃から、急速に天候は悪化してきた。
どうど、どうど、と北風が吹く。空の色が灰色に染まる。午後四時を回ったばかりだというのに、もう街灯が灯り、それが全く不自然では無い。
部屋のカーテンを閉めようと、窓際に立ったとき、男の車が入って来るのが見えた。わざとにマンションの駐車場には入れないで、路上に駐車する。そういうところ、本当に抜かりが無い、と思う。憎らしいくらい。
「タイヤ、換えたんだ。だから、少し遅くなった。」
部屋に着くなり、そう言って、静かにコートを脱ぐ。車からこの部屋までのわずかな距離を歩いただけなのに、長いコートからは、ひんやりと冷気がこぼれ落ちる。
タイヤなんか、換えなくてもよかったのに。
口には出さずにそう思う。
今夜辺りから、雪になるだろう。普通タイヤでは走れなくなるだろう。
だから、男は、雪道でも走れるように、スタッドレスタイヤに履き替えた、と言う。
わたしは、雪で車が走れなくなった方が、いい。
あなたを、「奥様」の元には帰したくないから。
でも、わたしは何も言わずに、黙って寄せ鍋の用意をする。
今夜は彼が泊まれる夜。
何も、あんな女のことを言い出して、楽しみを台無しにすることは、無い。
夜が更けて行く。
テレビの音が、流れている。
男は、仕事の話をしている。
でも、巧妙にリモコンを操作して、バラエテイ番組をハシゴする。ホームドラマを避け、不倫を扱かった恋愛ドラマを避け。
そういうところ、実に、抜かりが無い。
そして、テレビが消え、鍋の火が消え、ベッドの明かりも消えた時間・・・。
どんなにあたしの身体で夢中に遊んでも最期は、抜かりが無い。あたしの中に、自分の残骸を残すことは、無い。そして、その「残骸」を、自分で始末することも、忘れない。
男が、トイレに消えると、あたしはいつでも、少し、呆ける。
あの、最高潮の時間では無く、男が果ててから、呆けられるのでなければ、妻子持ちは、愛せない。
そして、ぼんやりしたまま、眠れるのでなければ。
せめて、汗くらいはとどめておきたいから、あのあとで、シャワーは浴びない。あたしは、男が朝、去って行っても、しばらく男の残り香で遊ぶ。時々、そのままで一日過ごすことも、ある。「奥様」と一緒に働く職場で、そのまま一緒にランチをすることも、ある。
男は、そんなこと、夢にも思わないだろう。
万事、抜かり無く過ごしていても、女の心までは、管理できない。あたしを愛人向きの女だと言った男は、誰だったっけ・・・。
いや、深く考えるのはいけない。
眠るのだ、夢に落ちよう。
やがてどこかで、遠く雷の音がして、わたしは、唸るように目覚めた。
夜明け前である。
低い、遠雷を感じる。
ここから数十キロ離れた海の、逆巻く波を、あたしは感じる。
どこか野犬の唸り声に似た、不吉で、だけど、ドラマテイックな、低い音。それが、次第に高くなると。
やがて、光がやって来る。
部屋に、一筋、一瞬の閃光。
一瞬の後、今度は大きく、部屋を揺るがすどおん、という音。
冬の嵐。
男が、ううん、と言って、寝返りを打つ。無意識なのか、計算して、なのか、あたしをぐうっと引き寄せる。
鰤起こし暴れたる夜の腕枕
この雷が去って行く頃、ここは、一面、雪になるだろう。
男と、雷と、どちらが先にここを去るのだろう。
雪と、哀しみと、どちらが先にここに訪れるのだろう。
どうど、どうど、と北風が吹く。空の色が灰色に染まる。午後四時を回ったばかりだというのに、もう街灯が灯り、それが全く不自然では無い。
部屋のカーテンを閉めようと、窓際に立ったとき、男の車が入って来るのが見えた。わざとにマンションの駐車場には入れないで、路上に駐車する。そういうところ、本当に抜かりが無い、と思う。憎らしいくらい。
「タイヤ、換えたんだ。だから、少し遅くなった。」
部屋に着くなり、そう言って、静かにコートを脱ぐ。車からこの部屋までのわずかな距離を歩いただけなのに、長いコートからは、ひんやりと冷気がこぼれ落ちる。
タイヤなんか、換えなくてもよかったのに。
口には出さずにそう思う。
今夜辺りから、雪になるだろう。普通タイヤでは走れなくなるだろう。
だから、男は、雪道でも走れるように、スタッドレスタイヤに履き替えた、と言う。
わたしは、雪で車が走れなくなった方が、いい。
あなたを、「奥様」の元には帰したくないから。
でも、わたしは何も言わずに、黙って寄せ鍋の用意をする。
今夜は彼が泊まれる夜。
何も、あんな女のことを言い出して、楽しみを台無しにすることは、無い。
夜が更けて行く。
テレビの音が、流れている。
男は、仕事の話をしている。
でも、巧妙にリモコンを操作して、バラエテイ番組をハシゴする。ホームドラマを避け、不倫を扱かった恋愛ドラマを避け。
そういうところ、実に、抜かりが無い。
そして、テレビが消え、鍋の火が消え、ベッドの明かりも消えた時間・・・。
どんなにあたしの身体で夢中に遊んでも最期は、抜かりが無い。あたしの中に、自分の残骸を残すことは、無い。そして、その「残骸」を、自分で始末することも、忘れない。
男が、トイレに消えると、あたしはいつでも、少し、呆ける。
あの、最高潮の時間では無く、男が果ててから、呆けられるのでなければ、妻子持ちは、愛せない。
そして、ぼんやりしたまま、眠れるのでなければ。
せめて、汗くらいはとどめておきたいから、あのあとで、シャワーは浴びない。あたしは、男が朝、去って行っても、しばらく男の残り香で遊ぶ。時々、そのままで一日過ごすことも、ある。「奥様」と一緒に働く職場で、そのまま一緒にランチをすることも、ある。
男は、そんなこと、夢にも思わないだろう。
万事、抜かり無く過ごしていても、女の心までは、管理できない。あたしを愛人向きの女だと言った男は、誰だったっけ・・・。
いや、深く考えるのはいけない。
眠るのだ、夢に落ちよう。
やがてどこかで、遠く雷の音がして、わたしは、唸るように目覚めた。
夜明け前である。
低い、遠雷を感じる。
ここから数十キロ離れた海の、逆巻く波を、あたしは感じる。
どこか野犬の唸り声に似た、不吉で、だけど、ドラマテイックな、低い音。それが、次第に高くなると。
やがて、光がやって来る。
部屋に、一筋、一瞬の閃光。
一瞬の後、今度は大きく、部屋を揺るがすどおん、という音。
冬の嵐。
男が、ううん、と言って、寝返りを打つ。無意識なのか、計算して、なのか、あたしをぐうっと引き寄せる。
鰤起こし暴れたる夜の腕枕
この雷が去って行く頃、ここは、一面、雪になるだろう。
男と、雷と、どちらが先にここを去るのだろう。
雪と、哀しみと、どちらが先にここに訪れるのだろう。
マンションの敷地のちょうど中央に、公園がある。
公園、と書いたが、よく考えれば、滑り台やぶらんこ、といった子供の遊具は何も無い。
あるのは、バスケットコート一面と、花壇と、ベンチ。
あと、アナログ面が電光表示の大きな時計。
だから、まあ、広場、なのかな。
ともかく、わたしが住むマンションは、いくつかの棟が、この広場を囲い込むようにして建てられている。どの棟の窓にも、朝日がふり注ぎ、冬日の暖かさをベランダで感じることができるのは、このだだっ広い場所があるおかげである。
さて、昼下がりのことである。
晴れてはいるものの、冬のこと、日の光の勢いは弱く、ベランダに届く日差しも弱々しい 。部屋が東向きなので余計に日光が翳るのが早く感じられるのだろうが、さっき干したばかりというのに、もう蔭に入ってしまった洗濯物が哀しい。ため息をつきながら、室内に取り込む。
物干し竿から、夫のYシャツを外そうとしたときだった。
広場を何気なく見下ろすと、ベンチの一つに、高校生らしきカップルが座っているのが目に入った。
マンションの隣りには、高校がある。そこの生徒かもしれないが、十階のベランダからではよく分からない。
かつて、こんな風に、何となく見ていたら、いきなり(という風に感じた)キスをした「子供たち」がいて、びっくり、というか 、妙な表現だが、恐れおののいたことがあった。
なるほど、自分たちの半径数メートルには、人気は無い、が、ふと顔を上げれば、そこには自分たちを見下ろす無数の窓があるのだ。
そんな場所でキスを交わすなんて。しかも制服で。
でも、帰宅した夫に言ったら、一笑に付された。
「そんなん、今日日、電車の中でも平気でキスしよるで。」
だって。
さて、今日のふたりは、ベンチに仲良く座って、何事か楽しそうに話している。
細かい表情までは見えないが、女の子の大きな手振りや、男の子の身体を揺すって笑っている様子が分かる。
思わず微笑んでしまったのが、ふたりの首に巻かれているマフラーである。
今年のマフラーは、長い。体格のいい若い子たちが、ぐるぐる首に巻き付けて、なおかつ垂らしても腰くらいまであるのを、いっぺんどの位の長さなのか知りたいものだと思っていた。
その長い長いマフラーを、ベンチに並んで腰掛けているふたりの子は、一本をふたりで分け合うようにして巻いているのである。
一体どちらの物なのか、もしかしたら、彼女の手編みなのかもしれない。黄色と濃紺の、見様によっては「阪神タイガース!」という印象の縞模様が、仲良く、ふたりの首に巻き付けてある。
マフラーが長いからできるんやねえ。
別に感心することでも無いのだが、なんだか妙に感動して、しばらくふたりを観察してしまった。
が。
すっかり、洗濯物も取り込み終わり、何と夕食の仕度をし終わっても、ふたりはまだベンチに座っているのである。
「あんたら、カゼひくで。」
思わず声が出る。勿論、聞こえる筈は無いのだが。
もうすっかり日が落ちた。
電光の時計は、そろそろ六時だ。
ベランダは一層冷えてきて、何かもう一枚羽織っていないと、歯が鳴ってしまいそうだ。
いい加減、今日は帰るか、場所を変えるかしたらええのに・・・。
と、思ったとたん、ふいにふたりが立ち上がった。
あ。
そうか。
そういうこと。
そして、わたしは、今度は微笑んでしまった。
女の子がまず立って、マフラーをほどいた。
男の子は大げさに肩をすくめて、寒そうにしながら、ゆっくりと立って・・・。
ふたりの身長差、ここからみても、30センチ以上はある。
あれだけ身長が違うと、ふたりでひとつのマフラーを分け合って歩くのは、無理というものだ。
マフラーを分けあふている南向き
少しでも長くくっついているのには、ああして座っているしかなかったのだろう。
そう言えば、自分にも覚えが無いわけでは無い。
マフラーを半分こにしたのでは無いが、アイアイ傘ができなかった。
夫とわたしは、28センチの身長差がある。
公園、と書いたが、よく考えれば、滑り台やぶらんこ、といった子供の遊具は何も無い。
あるのは、バスケットコート一面と、花壇と、ベンチ。
あと、アナログ面が電光表示の大きな時計。
だから、まあ、広場、なのかな。
ともかく、わたしが住むマンションは、いくつかの棟が、この広場を囲い込むようにして建てられている。どの棟の窓にも、朝日がふり注ぎ、冬日の暖かさをベランダで感じることができるのは、このだだっ広い場所があるおかげである。
さて、昼下がりのことである。
晴れてはいるものの、冬のこと、日の光の勢いは弱く、ベランダに届く日差しも弱々しい 。部屋が東向きなので余計に日光が翳るのが早く感じられるのだろうが、さっき干したばかりというのに、もう蔭に入ってしまった洗濯物が哀しい。ため息をつきながら、室内に取り込む。
物干し竿から、夫のYシャツを外そうとしたときだった。
広場を何気なく見下ろすと、ベンチの一つに、高校生らしきカップルが座っているのが目に入った。
マンションの隣りには、高校がある。そこの生徒かもしれないが、十階のベランダからではよく分からない。
かつて、こんな風に、何となく見ていたら、いきなり(という風に感じた)キスをした「子供たち」がいて、びっくり、というか 、妙な表現だが、恐れおののいたことがあった。
なるほど、自分たちの半径数メートルには、人気は無い、が、ふと顔を上げれば、そこには自分たちを見下ろす無数の窓があるのだ。
そんな場所でキスを交わすなんて。しかも制服で。
でも、帰宅した夫に言ったら、一笑に付された。
「そんなん、今日日、電車の中でも平気でキスしよるで。」
だって。
さて、今日のふたりは、ベンチに仲良く座って、何事か楽しそうに話している。
細かい表情までは見えないが、女の子の大きな手振りや、男の子の身体を揺すって笑っている様子が分かる。
思わず微笑んでしまったのが、ふたりの首に巻かれているマフラーである。
今年のマフラーは、長い。体格のいい若い子たちが、ぐるぐる首に巻き付けて、なおかつ垂らしても腰くらいまであるのを、いっぺんどの位の長さなのか知りたいものだと思っていた。
その長い長いマフラーを、ベンチに並んで腰掛けているふたりの子は、一本をふたりで分け合うようにして巻いているのである。
一体どちらの物なのか、もしかしたら、彼女の手編みなのかもしれない。黄色と濃紺の、見様によっては「阪神タイガース!」という印象の縞模様が、仲良く、ふたりの首に巻き付けてある。
マフラーが長いからできるんやねえ。
別に感心することでも無いのだが、なんだか妙に感動して、しばらくふたりを観察してしまった。
が。
すっかり、洗濯物も取り込み終わり、何と夕食の仕度をし終わっても、ふたりはまだベンチに座っているのである。
「あんたら、カゼひくで。」
思わず声が出る。勿論、聞こえる筈は無いのだが。
もうすっかり日が落ちた。
電光の時計は、そろそろ六時だ。
ベランダは一層冷えてきて、何かもう一枚羽織っていないと、歯が鳴ってしまいそうだ。
いい加減、今日は帰るか、場所を変えるかしたらええのに・・・。
と、思ったとたん、ふいにふたりが立ち上がった。
あ。
そうか。
そういうこと。
そして、わたしは、今度は微笑んでしまった。
女の子がまず立って、マフラーをほどいた。
男の子は大げさに肩をすくめて、寒そうにしながら、ゆっくりと立って・・・。
ふたりの身長差、ここからみても、30センチ以上はある。
あれだけ身長が違うと、ふたりでひとつのマフラーを分け合って歩くのは、無理というものだ。
マフラーを分けあふている南向き
少しでも長くくっついているのには、ああして座っているしかなかったのだろう。
そう言えば、自分にも覚えが無いわけでは無い。
マフラーを半分こにしたのでは無いが、アイアイ傘ができなかった。
夫とわたしは、28センチの身長差がある。
そのメールが届いたのは、彼の部屋から戻る途中だった。
正確には、バスを降りる途中、タラップの最後の段を下りたときに、着信音が鳴った。
最初の、朝。
さっきまで、同じベッドにいた、最愛のひとからの、メール。
「夕べはどうもありがとう。
とても嬉しかった。またすぐに会えるね。」
理系の男らしく、何ってことの無い文章。
それでも、嬉しい。
実験があるから、今頃は向こうだって移動中の筈だけど・・・。
返事は何て書こう。
実は、まだ少し痛い。初めてのときは、そんなものなのだろうけれど。近松の「五人女」に、そういうことが書いてある個所がある。この前のゼミ中に聞いたときには、ある予感でどきん、としながらも、首を傾げていたものだけど。今なら分かるゾ。
ヒリヒリ。
でも、嬉しい。
最初のときを、こういうかたちで、迎えられたことが嬉しい。
彼で、よかった。
顔が笑ってしまう。
もしかしたら、わたしって、スゴクえっちだったりして・・・。
ケイタイを握ったまま、返事を考える。
なんて書こう。
緊張する。
ドキドキ。
キャンパスの近く、見慣れた商店街。さすがにスキップこそしないものの、ときめきを隠し切れずに、多分、真っ赤な顔をして、立ち止まり、液晶を覗いて、
「ありがと、
とまで打ち込んだとき。
ふいに、ふわっ、と何かが舞い降りてきた。
雪だ。
初雪と後朝メール手のひらに
今、はじめて、しあわせ、って何か分かったよ。おおげさじゃなくて。
ありがとう、の後にそう打ち込みながら、このメールが彼に届くまで、この雪が止まないことを祈った。
正確には、バスを降りる途中、タラップの最後の段を下りたときに、着信音が鳴った。
最初の、朝。
さっきまで、同じベッドにいた、最愛のひとからの、メール。
「夕べはどうもありがとう。
とても嬉しかった。またすぐに会えるね。」
理系の男らしく、何ってことの無い文章。
それでも、嬉しい。
実験があるから、今頃は向こうだって移動中の筈だけど・・・。
返事は何て書こう。
実は、まだ少し痛い。初めてのときは、そんなものなのだろうけれど。近松の「五人女」に、そういうことが書いてある個所がある。この前のゼミ中に聞いたときには、ある予感でどきん、としながらも、首を傾げていたものだけど。今なら分かるゾ。
ヒリヒリ。
でも、嬉しい。
最初のときを、こういうかたちで、迎えられたことが嬉しい。
彼で、よかった。
顔が笑ってしまう。
もしかしたら、わたしって、スゴクえっちだったりして・・・。
ケイタイを握ったまま、返事を考える。
なんて書こう。
緊張する。
ドキドキ。
キャンパスの近く、見慣れた商店街。さすがにスキップこそしないものの、ときめきを隠し切れずに、多分、真っ赤な顔をして、立ち止まり、液晶を覗いて、
「ありがと、
とまで打ち込んだとき。
ふいに、ふわっ、と何かが舞い降りてきた。
雪だ。
初雪と後朝メール手のひらに
今、はじめて、しあわせ、って何か分かったよ。おおげさじゃなくて。
ありがとう、の後にそう打ち込みながら、このメールが彼に届くまで、この雪が止まないことを祈った。
最近、家に帰って机の上に封筒が乗っかっていると、一瞬、退くようになった。
ペンフレンドとも、メールのやり取りをするようになった昨今、封筒がやって来るのは、大抵、あれに決まっている。
あれ。
結婚披露宴の、招待状、ってやつですね。
二十五を回った頃から、自分がどうやら「晩婚組」らしいぞということを感じはじめた。
でも、こうして三十になってしまうと、いちいち「早婚組」「晩婚組」などと、組分けするのもあほらしくなる。
両親も顔さえ見れば、結婚しろ、と騒ぐから、三度の飯さえまずくなるわい!という感じだったのが、最近はやたらおとなしくなった。
こうした封筒も、電気スタンドとプリンターの間に、隠すようにして置いてあるのは、母親の気使い、というものかもしれない。
でも、まあ、招待されるのは嬉しい。
高校時代の同級生で、そんなに親しい子でも無いけれど・・・多分、仲良し組が出産ラッシュだから、ほいほい出て来られそうなのは、わたし位なのだのだろう。
ええ、行かせていただきますよ。喜んで。
わたしだって、そのうちナントカなるに違いないのだ。
たくさんはいらない。
たったひとり、でよいのだから。
しかも、わたしは決してモテない訳ではない。
合コンでは、必ず誰かが「送っていくよ」と言ってくれる・・・いや、くれた、し。
会社の同僚およびお客さんからも「付き合って」だの「息子の嫁に」だの、言われる、いや、言われた。第一、彼氏はいる。
なのに、どうして決まらないのか。
多分、タイミングのせいだと思う。
彼の腕はわたしの肩に回されていた。
指先に力がこもるのを感じた、そして、ひとつ、優しいキスをもらった。
淡い雪を思わせる、プラトニック90パーセントの、キス。
そして、おそらくあのとき、何事も無ければ、絶対に「結婚しよう」という言葉も、もらえた筈なのだ!・・・と思う。
ついこの前のデート。
冬の海が目前に広がっていた。
曇り空だったけれど、うっすら日の恵みを雲の間に感じさせる午後のひととき。
わたしたちは、車の中。
ラブソングばかり集めた、洋楽のオムニバスアルバムが、フェイドアウトしたばかりの時間だった。
人影も無かった、まさに、「プロポーズ日和」。
なのに。
なのに、そのとき通りがかった一台の車のせうで、すべてが台無しになった。
いーしやーきーいもー、おいも!
・・・朗々たる声音であった。
そう、ここぞ!、という場面をなぜかものにできないたちなのである。
はじめてキスされそうになった少女時代の放課後も、みつめあった瞬間に吹奏楽部室方面から流れてきた「ぼくわらっちゃいます」で、パーになった。
はじめて最後までいっちゃいそうになったデートでは、ハンドル操作を誤って田んぼに落ちた。
そしてはじめてのプロポーズかもしれない時を、焼き芋屋にジャマされた。
寒林を駆けてジプシーヴァイオリン
いつかはきっと安住できる、と明るく信じてはいるのだけれど。
ここぞ、という瞬間を逃しては、さまよい続ける女なのである。
ペンフレンドとも、メールのやり取りをするようになった昨今、封筒がやって来るのは、大抵、あれに決まっている。
あれ。
結婚披露宴の、招待状、ってやつですね。
二十五を回った頃から、自分がどうやら「晩婚組」らしいぞということを感じはじめた。
でも、こうして三十になってしまうと、いちいち「早婚組」「晩婚組」などと、組分けするのもあほらしくなる。
両親も顔さえ見れば、結婚しろ、と騒ぐから、三度の飯さえまずくなるわい!という感じだったのが、最近はやたらおとなしくなった。
こうした封筒も、電気スタンドとプリンターの間に、隠すようにして置いてあるのは、母親の気使い、というものかもしれない。
でも、まあ、招待されるのは嬉しい。
高校時代の同級生で、そんなに親しい子でも無いけれど・・・多分、仲良し組が出産ラッシュだから、ほいほい出て来られそうなのは、わたし位なのだのだろう。
ええ、行かせていただきますよ。喜んで。
わたしだって、そのうちナントカなるに違いないのだ。
たくさんはいらない。
たったひとり、でよいのだから。
しかも、わたしは決してモテない訳ではない。
合コンでは、必ず誰かが「送っていくよ」と言ってくれる・・・いや、くれた、し。
会社の同僚およびお客さんからも「付き合って」だの「息子の嫁に」だの、言われる、いや、言われた。第一、彼氏はいる。
なのに、どうして決まらないのか。
多分、タイミングのせいだと思う。
彼の腕はわたしの肩に回されていた。
指先に力がこもるのを感じた、そして、ひとつ、優しいキスをもらった。
淡い雪を思わせる、プラトニック90パーセントの、キス。
そして、おそらくあのとき、何事も無ければ、絶対に「結婚しよう」という言葉も、もらえた筈なのだ!・・・と思う。
ついこの前のデート。
冬の海が目前に広がっていた。
曇り空だったけれど、うっすら日の恵みを雲の間に感じさせる午後のひととき。
わたしたちは、車の中。
ラブソングばかり集めた、洋楽のオムニバスアルバムが、フェイドアウトしたばかりの時間だった。
人影も無かった、まさに、「プロポーズ日和」。
なのに。
なのに、そのとき通りがかった一台の車のせうで、すべてが台無しになった。
いーしやーきーいもー、おいも!
・・・朗々たる声音であった。
そう、ここぞ!、という場面をなぜかものにできないたちなのである。
はじめてキスされそうになった少女時代の放課後も、みつめあった瞬間に吹奏楽部室方面から流れてきた「ぼくわらっちゃいます」で、パーになった。
はじめて最後までいっちゃいそうになったデートでは、ハンドル操作を誤って田んぼに落ちた。
そしてはじめてのプロポーズかもしれない時を、焼き芋屋にジャマされた。
寒林を駆けてジプシーヴァイオリン
いつかはきっと安住できる、と明るく信じてはいるのだけれど。
ここぞ、という瞬間を逃しては、さまよい続ける女なのである。