海の手のコール・ド・バレエ ゆきやなぎ

 
 以前、友達が言っていた。
「不倫の恋は決してきれいな恋にはならないんだから、好きになったら、いちいちきれいかどうかなんか考えてないで、汚くてもとにかくぶつかるしか無いのかも、よ。」

 不倫は汚い。
 で、ひとりものの恋はキレイ。
 そうなのかな。

 とわたしがギモンに思ったのは、かつて、二十代の頃、少しでもいい条件の「結婚相手」を探そうとする同世代の女の子たちが、決して「きれいな恋」をしていない、と感じたからである。

 二年ほど前、この「日記」で「連載」を書いてみたことがある。
 あのとき、「身体の相性はいいのだが、結婚という形にはそぐわない」二人、というのを書いてみた。
 今回、その逆を書いてみようと思い立った。

 きれいな不倫を書く。

 そう考えた。

 そんなもんあるのか、と思った。結局、きれいに不倫させるにはヒロインは「片想い」でいるしかない、ということに思い当たって・・・その通りになった。

 あえて「連載」にしなかったのは、決して何も起こらないということがあらかじめわかっていたから。
 ヒロインの心象風景は、季節の中の素敵なものから拾った。
 季節の風、花、ひとがつくったアート、そういうもので、彼女の切なさを表現する。
 それだけの話。
 そうしなくては、きれいな不倫の話には、やはりならなかった。

 人工島に住み、しかもひどいときには三ヶ月に一度くらいしか、本土に行かない、そういう生活。
 俳句を作るのには問題は無かったが、ヒロインの生活がそのまま、わたしの生活と重なるのはしんどかった。
 入り過ぎて、最後の方、地面いっぱいに蜂蜜でも流してその上を歩いているみたいな、べとべとした感じになった。
 
  お読みくださった皆様、ありがとうございました。
 

  「じゅんこちゃん」。
  ここまで読みに来てくれてありがとう。
  そうですね、ご指摘の通り、この一連の「日記」を読んで、一番ブッ飛ぶのは、チョーコの主治医でしょうね。
  ただ、彼だけが「虚構」であるということも分かるはずなので、そのあたりはまあ、万が一読まれたとしても、大丈夫かな。
  そう、現実のわたしは、両側から娘たちに押し寄せられて、きゅうきゅうになって寝ています。さらにその上からダンナが降って来る、というような無茶はしていません。
  恋を通して何かを書くのが好きなんです。
  それだけのこと。
    人魚風 霞のヴェールかざしゆく

 
  きのう、娘が一枚、自分で書いた誰かの似顔絵を持って来て、
  「せんせい、だいすき、って書いて。」
  って言った。
  さすがに泣きたくなった。

  ごめんね、残念だけど、それは渡せない。こっそりごまかしておいて、後で捨てるしか無い。

  ママもね、「せんせい、だいすき。」って言いたかったんだよ。ほんとはね。だけど、言えなかった。

  最後まで、伝えられなかった。

  雨上がりの空を、うす青い色が彩り始める。
  薄墨色の雲が、風に大きく押しやられて・・・。
  シルバーカラーの人魚は、透明な瞳でわたしを見下ろしながら、大きく広げたしなやかな両腕にヴェールを掲げて高く、高く、雲を、追う。
  
  じっと見上げていると、小さな女の子になったみたいだよ。
  人魚の像の上を、流れる雲をみつめているだけで、時間が逆流するの。
  
  晩夏の黄昏時、降りてきた恋を、早春の風の中で空に返す。

  さよなら。
  わたしは、貴方を、卒業します。

  
    
      宵口に白木蓮の酒盃かな

  暮れなずみ始めた港を見ています。
  ケーソンの灯りは吐息のように点滅を繰り返し、ビルの群れはどれも煌く窓を抱えて、その輪郭を宵闇に溶け込ませ始めています。

  貴方も、この景色を見ていてくだされば、と思います。

  もう、お会いしないことでしょう。
  そんなふうに考えると、とてもつらくなります。でも、きっとその方がいいのです。
  
  貴方に出会えて、恋を感じて。
  そう、結婚して初めて、恋をしたのです。自分でも信じられないけれど。そうして、それは、何も求めない恋だったし、これからもそうです。
 
  たったひとつだけ、時々、ふと思い出して下されば・・・。
  この街のこと。
  貴方の職場の窓から見える、港の灯り、街のため息。沈丁花の歌、桜のダンス。つつじたちの行進、渡り鳥の乱舞。
  水遊びをする子供たちの歓声。
  秋には、降りしきる団栗の雨。
  そこに、一ピースのパズルみたいに埋め込まれた、小さなわたしのことも。

  

  昨日が最後だったと思う。
  何事も起こさず、微笑んで、静かに会釈をして、部屋を出た。
  泣かなかったことを、誉めてやりたい。
 
  だけど、その夜、夫に求められたときには、こらえきれなくて涙があふれてしまった。
  一体、女が男の腕の中で飛翔するには、何が必要なのかしら。
  その男を愛していれば、いい。
  でも、他に愛している男がいたならば。
  どうして、その瞬間、触れている肌で飛翔することができるだろうか。目をつむって、こらえるしかない。その欲望が通り過ぎるまで。
  あるいは頭の中で違う男を想い、その存在だけを頼りに身体を開けばいいの?。
  だけど、そのひととは・・・。
  何も、無かったというのに。

  何も無かった、無かったけれども、ほんとうに、すきだった。心から、想っていた。
  

  「ごめんなさい、今夜は止めて。」

  今夜は、どうしても嫌。
  夕べそんなふうに言ったから、夫には今日、抱かれなければならない。
  二人の間に何かあれば、これは罰なのだと甘んじて受けよう。
  だけど、何一つ起こらないで終わる恋なのに、こんなに苦しい目に遭わなければいけないものなのかしら。

  白木蓮が、夜目にも白々と浮かび上がっている。
  それはまるで、酒盃のように見える。
  このままふらふらと木蓮の下にさまよい出て、そのまま白い酒を思うさま浴びて、冷たい地面に横たわって死んだように眠れたら。
  どんなに、いいかしら。

  
   貴方が、この街からいなくなるまで、もうあと一週間。
     うつむきて咲けど春蘭気付かれり

 初めて貴方に会ったときのこと、とてもよく覚えています。
 二つの診察室の左側、貴方の名前を見つけたとき、正直、どうしよう、って思いました。
 あの頃の貴方について、わたしの周りでは余り良く言うひとがいなかったから。
 無愛想だとか、ケンカを売るような話し方をする、とか。貴方のせいで、病院を変えたというひとまでいたのよ。
 だから、本当は、娘の担当が貴方なのは、困った。

 けれども、実際に話してみたら、わたしには、悪いひとには思えなかった。
 確かに、子供を相手に仕事をするには不向きだな、とは思ったけれど。
 アレルギーのことをほとんど知らない様子の母親であるわたしにも、あきれたように、ほとんど怒った口調であれこれ説明しましたね。
 ひるみました。
 だけど、その分、とても熱く語られましたね。
「喘息を完治するのは、根気がいるし、大変だけど・・・一緒に治していきましょう。」
 そう言われたときには、本当に嬉しかったのよ。

 発作が起きたとき、咳が止まらない小さな子供は、眠りの淵を抜け出せないまま、苦しんで泣く。
 泣くから余計に息苦しくなることが分からないからもっと咳はひどくなる。
 そして、うるさい、と言って夫が怒り出す。
 怒られるから、余計に子供は泣いて、だから余計に苦しくなって・・・。
 あのつらい夜明けを繰り返している母親ならば、そういうふうに「一緒に治す」と言われることが、どんなに心強いことか、分かるでしょう。

 なぜだか発作はいつも未明に起こる。
 まだうす暗い部屋の中、子供の涙にまみれて、小さな背中を抱きしめながら、いつも貴方のことを思うようになりました。
 それは、貴方にとって小児科医としての、当然の「決まり文句」であったのかもしれない。恐らくそうなのでしょう。
 それでも、いい。
 貴方は、わたしのおまもりになった。

 定期的に、特別外来に通うことになり、一月に一度は顔を合わせるようになって。
 貴方は、いつも、ゴムの抜けたソックスをはいていたり、髪が伸びているのにほったらかしだったり、逆に短く切りすぎてなんだかおかしかったり、した。
 娘は次第に貴方になじんで、いつしか診察のたびに良く笑い転げるようにさえ、なった。貴方も、自然に笑顔を見せてくれるようになった。
 発作は時々起きたけれど、もうわたしは平気だった。
 貴方が、助けてくれると分かっていたから。

 そうして、いつしか、貴方に、恋している自分をみつけた。

 それは、どんなにわたしを戸惑わせたことでしょう。
 違う、と思いたかった。娘の具合が悪くなると、貴方に会える。そういう関係もつらかった。
 それから、貴方の指。
 節くれの無い、ほっそりした綺麗な指。
 髪も足元もめちゃくちゃなのに、指だけは、いつもきちんと手入れされていて。

 触れたくなって、困った。

 喘息を持つ子の母親が、主治医の小児科医に恋をする。
 本当は、よくあることなんじゃないか、と思う。
 喘息に限らず、難病を抱えた子を持つ母親が、そういう気持ちになるのは、よくあることじゃないかと思う。

 そう、そういう母親たちは孤独なのだ。

 でも、よくある話だから、わたしはうぬぼれたくなかった。
 貴方の優しさは、単なる職業上のもの。
 それ以上でもない、それ以下でもない。
 一ヶ月に一度の、診察室での時間。それも、たったの十分足らず。
 それだけで、いいと思っていた。
 片想い。
 
 そして、ヴァレンタイン。
 娘から手渡したのが、わたしの気持ちだと、貴方は微塵も気が付かない。
 ただ、次の外来のとき、なぜか貴方がわたしの目をのぞきこむのが、怖かった。
 そんなに近付かないで。
 いつか、取り返しのつかないことを仕出かしそうで、怖い。

 そして。
 取り返しのつかないことをついにやってしまった。

 それは、先週。
 貴方が、病院を変わることになった。
 突然知らされたこと。
 泣かないでいるのが精一杯で・・・気が付くと、貴方の手に触れていた。
 
 わたしはわたしが信じられない。
 でも、本当に、してしまったこと。

 転院治療、ということができるらしい。
 病院を変えて、主治医について行く。
 
 わたしの過ちは、もしかしたら、その可能性を自分で無くしてしまった、ということだ。
 貴方は、わたしがしたことを、知らんふりしてくれたけれど・・・付いてこられるのは迷惑、そう思っていても不思議じゃない。

 娘は、今のせんせいがいい、とハッキリ言う。
 なのに。
 
 
 次の外来が、今の病院の最終外来になります。
 そのとき、貴方は、どんなふうにこれからのことを指示なさるのでしょう。
 何を言われても、きちんと聴こうと思っています。
 貴方は、娘の主治医なのだから。

 だけど、帰り際に、一通お手紙を渡します。
 そこには、ずっと言えなかったわたしの想いがあります。
 貴方ともう会えないにしても、また違う診察室で会えるとしても、その想いが現れるのは、その手紙が最後です。
 それで、いいのです。
 
 貴方は、娘の主治医で、わたしの、おまもりなのだから。
 それだけ、なのだから。

 
  
     くちびるはニオイスミレの花びらに

  あなたが、いなくなる。
  
  いつかはこのときが来ると予想はしていたけれど、こんなに突然のこととは思えなかった。
  壁に貼られた一枚の通達。印刷されて整った、ありふれた文字。そこにあるあなたの名前が、霞みそうになって、慌てた。
  いけない。
  こんなふうに、取り乱してはいけない。

  でも、いつも通りに向き合ったとき、あなたの、男のひとの指とは思えないくらいに、白くてほっそりとした指を見たとき、この指に触れたくて、でもどうしてもだめだと自分に言い聞かせ続けていたその指が静かに目の前にあるのを見たとき・・・

  ふと、気が付いたら、あなたの手をそっと握ってしまっていた。

  ・・・イカナイデ。

  あなたの名前を、まるでお守りみたいに、たいせつに抱きしめながら、苦しい夜明けを乗り越えて来ました。
  そうして、あなたの名前が、息苦しい夜明けのときだけではなく、いつも忘れがたくわたしの心に留め置かれるようになって・・・。
  片想いしているのです。
  そうして、それは、決して、決して、あなたには知られないようにひた隠してきたというのに。

  最後の最後になって・・・抑え切れなかった。なぜ。

 「・・・さあ。」
  
  あなたは何も気が付かなかったように、そのままわたしの手を載せたまま、いつも通りの仕事をして、そして、優しく次の仕事に移った。
  密室ですら、無かった。背の高いあなたの身体に隠れるようにして、たった5秒のことだった。

 「実は、今回、転勤が決まりまして・・・。」
 「もう、ショックで、口も利けないですよー。」
  冗談めかして大きな声で笑いながら、でも、それこそが真実。

  人妻の、恋は。
  もうそれだけで完結している、さびしい物語。
  ひたむきに咲き続けても実ることの無い、ニオイスミレのように。
     沈丁花詠い始めり夕まぐれ

 春が、夕暮れに溶けていた。
  
 どこからか、沈丁花の香りがする。

 春の花には、二種類ある。踊る花と詠う花と。

 たとえば、桜たちは、並木道沿いに並び、一斉に着飾って踊るように咲き、春を教えてくれる。
 沈丁花は、静かに、地面の低いところから、ひそやかに香りながら、春を、詠う。
 
 とてもあわただしい時間。
 それでも、信号待ちのわずかのひとときに、ふいに聞こえてくる歌。
 

  彼に会う。

  どうして、あなたは、そんなに近付くのだろう。

  そして、どうして、そんなに、じっと目を見て話すのだろう。
  今日に限って。

  「そんなふうに男を見たら、男は誤解する。」
  かつてそう言って叱り付けた恋人がいたっけ。視力が悪くて、何もかもが少しぼんやりして見えていた頃だった。そうか、あなたも少し、目が悪いのね。

  でも、だからって・・・。

  あなたがそんなに近くにいるから、今日は初めて、薬指のリングをみつけてしまった。
  なぜ今まで気が付かなかったのかしら。
  それは、そこにあるのが自分に許された特権であり、もう絶対にそこからは、どかない、とでもいうように、自然に、かつ強力な引力でなじんでいる。

  わたしの目の中に、何か見えてますか・・・?。
  だから、そんなに見るの?。
 

  春の夕暮れのアルコール密度はやや高め。うっかりしていると酔いそうになる。
  だから、早く帰らなくちゃ。あなたも、わたしも。

  沈丁花たちに願いをかけたら。
  彼が仕事を終えて帰るとき、わたしの歌も一緒に歌って、と。
 
    春の日をミモザサラダに振りかけて

 友達とのランチタイム。

 テーブルの上には、さくら色の縁取りの施された、清潔なお皿。
 フランスパンと、サラダと。
 キャベツのスープ。チーズとパセリを浮かばせて。

 メインデイッシュは、恋のお話。

「結婚してからの方が、いっぱい恋してるよ。」

 ・・・え?。

 19歳で花嫁になった彼女は、事も無げに、そんなことを言って、笑う。子供たちはもう独立している。
 「ダンナ、っていう、帰る場所があるから、恋ができるんじゃないの。」
 
 ひとりきりのときには、恋をしても、失うことが怖かった。
 でも、結婚してからは、落ち着いていられる。
 だって、とりあえず、ひとりの男・・・夫・・・は確保してあるのだから。

 ・・・と彼女は微笑む。というより、哂う。

 「信じられない、って顔してるね。ダンナさん、裏切ることなんか、考えたこと無いんでしょ。」

 気持ちでは、裏切ってるよ。

 とは、言わない。

 ただ、小さく、そんなことは、これからどうなるか分からない、とつぶやきながらパンをちぎる。

「相手にのめりこんだら、どうするの。」
「それは無い。既婚者を選ぶから。相手も心得てるから。」

 つまり。
 家庭のある者同士が、あくまで、日常にスパイスをかけるために、恋をするのだと。
 言ってみれば、昼間、愛人に抱かれても、夜は平気な顔で、夫に抱かれる、そのくらいの「心意気」がなければ、人妻は恋なんかしてはいけない、ということである。

 まるで、勉強会だ。

 水のグラスの向こう側に、レストランの灯り。ヴァレンタイン仕様か、ホワイトデイ仕様か、おそらくそのどちら向けでもあるのだろうが、ピンクのハート型の切り紙細工が被せかけてある。
 ぼんやり眺めながら、ため息。

 想うひとは、こちらの想いなど、夢にも気が付かず。
 なのに、夫を拒む自分が、ほんとうにおバカな子供に思えてくる。
 夫も、愛人も。
 欲張りにならなければ、か・・・。

 無理だ。

 あるいは、すきになりすぎたかな。

 彼女は、終始、嫣然と笑みを浮かべて、いかんなく食欲を発揮し、わたしは、その前でなぜだか妙に萎縮して、ランチタイムは流れて行った。


 
    春暁の水はゆっくり飲みなさい

 
 そのお寺に行って、どうしてもお参りしなければならない。
 でも、一歩、境内に足を踏み入れたとき、足元に水が押し寄せてくるのを感じた。
 それは、なま暖かくて、ゆっくり、たっぷりした温泉みたいな水で、よく見ると少しずつ嵩が増えているのだった。
 日暮れが迫っている。
 暗くなるまでに、本殿にたどり着けるだろうか。
 不安。

 そんな、夢を見て目覚めた。
 午前五時前。

 

 彼に会うと、その後数日間はいつも、どことなく上の空。
 片想いだから、伝えられない想いが整理つかなくてあふれる。
 それは、何かのフェロモンに似ているのだろうか。
 彼に会うと、なぜだかその夜はいつも、夫にのしかかられる。

 夕べは、とりわけ執拗だった。
 はらいのけても、はらいのけても指が追いかけてくる。
 狭いベッドの上のぎりぎりまで逃げて、どうしても嫌だと思った瞬間、太い腕をひっぱたいてしまっていた。

 明け方のベランダは、なぜかとても風が強くて。
 それも、どうして、こんなに暖かな風なのだろうか。
 ふと何気なく見たパジャマの胸元のボタンがほとんど外れている。
 かなしくなるよ。

 部屋に戻って、水を飲む。

 ひとりきりの想いで、熱くなる胸の火を消すために。
 満たされない心を、満たすために。
   いちごオーレひとくち 花が欲しくなる

 なぜか、話の流れがそうなって、
「あなたの恋愛の仕方は、待ち、なんですね。」
 と、言われた。
 と言うか、メル友なので、書かれた、んだけど。

 そうかもしれない。

 待ち、の反対は、攻め。
 攻め、の恋愛。
 そうだな、そういう恋もしてみたかった。けれど、自分に自信が持てなくて・・・それでいて、そんなに「打ち明けられずに苦しかった・・・」という思い出が無い。
 案外、立ち直りが早いタイプなのだろう。

 ヴァレンタイン・デイのチョコレートを、自分からでは無くて、娘の手から渡させたから、貴方は微笑んで受け取ってくれた。
 本当は、そこに、わたしの想いがこめられているのに、そんなことはひとことも言わずに、わたしも微笑んでいた。

 目を見られなかった。
 
 貴方も、見なかった。

 ずっと、このままで行くのだろう。

 
 待ち、の恋。

 だけど、もしも、あの、かわいらしい、いちごトリュフと一緒に、一枚のカードでも添えていれば、何か起きたというのかしら。
 
 そんな、ささやかなことが、攻め、と言えるのかわからない、けれど。
  
 チョコを渡してから、娘と、いちごオーレをはんぶんこした。
 貴方の手が、この髪には触れていたんだな、なんて、少しだけ娘にやきもちを焼いて。

 ひとり身のときよりも、人妻の今の方が、純愛してる、って気がしてなんかおかしい。

 
 
 あなたは、ホテルのツリーを見ましたか?。
 
 夕まぐれの川沿いには、いくつものオーナメントが、きらめいていました。
 星型もあれば、トナカイもあります。
 金色もあれば、青もあります。
 明るい昼間の時間には、ただの銀色の骨組でしか無いそういう物たちが、日が落ちるとあんなにきらきら輝くものだということを、わたしはなぜだか不思議な気持ちで実感しています。

 そうして、そういう光たちの向こう側に、あのツリーはあるのです。

 ホテルのレストランの、窓際。おそらく高い天井の二階部分まであるだろうと思われる背高のっぽのクリスマスツリー。幅も広くて、多分腕の長いあなたでも、抱きしめたら抱えきれないことでしょう。
 レストランの窓と、川沿いの小道の間には、繊細な木々や草花が植えられていて、だからそのツリーの姿全体を目でとらえることはできません。
 でも、それでも、ほっそりした竹や、しなやかなムラサキシキブ越しに、青いレーザー状の光がこぼれて来ます。しばらくすると、青は白に、そうしてシルバーに、と、その繰り返し。
 わたしは、お夕食の材料の入った重いバッグを抱えたまま、しばらくその光で遊んでいました。
 黙ってみつめてから、目を閉じてみるのです。
 そうすると、隣にあなたがいてくれる気がするのです。
 
 あなたは、わたしよりもずっと背が高いから、もしかしたら植物たちにじゃまをされずに、もっと上まで見えるのかもしれない。
 もしかしたら、わたしに、どんなふうに見えるのかお話してくれるかもしれません。
 いえ、あるいはそんなに優しくは無くて、自分なりに無口なまま、じっと光の束に目をやっているだけなのでしょうか。ホテルの中に入り、お食事をすれば、もちろん、ツリーの輝きは身体じゅうに降り注ぐことでしょう。でも、そんなことは、想像することもできません。
 華やかな街で、華やぐ人たちとは、今のわたしは遠すぎますから。
 着飾った姿が絵になる街で着飾ることができないのと、着飾っても仕方の無い場所で着飾っているのとでは、どちらが不幸な女なのでしょう。

 あなたとは、ほとんどお話したことはないから、楽しい空想も、うらさびしい幻想も、中途半端で消えてしまいます。

  
   きみだけのツリーになるといふ願ひ

 一度だけでいいから、みつめてみてください。

 ここで働いているのに、街であなたをみかけることはありませんね。
 何か決まり事でもあるのか、それとも忙しすぎるのかしら。
 この川の、すぐ近くで一日の大半を過ごすあなただというのに・・・。
 
 同じ場所で、同じ光を瞳に映せるということだけでも、今のわたしには大切な願い。
 彼女が恋をした。
 相手は、娘の主治医。
 生まれつきのアレルギー体質が「ぜんそく」という形で現れた彼女の小さな娘は、生まれてすぐからしょっちゅう小児科の世話になった。症状が現れたときのみならず、定期的なケアをしていくことになり、その間に、担当医に恋をしてしまった。

 「あのね、ご近所での評判は必ずしもよくないのよ。割と大きい病院だし、何人かドクターがいる中で、どうしてあのせんせいが、って、担当が決まったときには思った。」
 噂は、「全然親身になってくれない」「アレルギーには疎そう」といったおよそ小児科医としては不適切ものだった。が、会って話すと、とてもそんな噂をたてられる医者とは思えなかった。
 「ぜんそくって言っても、そう心配することはないですよ。
 見守りながら、一緒に治していきましょう。」
 あたたかい言葉と微笑があった。咳をして苦しんでいる娘を前に、
 「ぜんそくの体質っていうのは、貴女に似たんだわ。うちは誰もそういう血じゃないから。
 かわいそうにね。」
と、冷たく言い放つ姑の前で黙ってうなずいている夫を思い出した。そして、自分にもこれでようやく「味方」ができた、という気持ちになり、心から安堵した。

 外来に通ううちに、何度か顔を合わせるうちに、感謝の気持ちが恋になった。
 ドクターの評判は、相変わらず良くなかったが、それはまるで、自分と娘だけには特別な優しさをもらえていることの証明のようにさえ感じられた。
 幼い娘をひざに乗せて、胸の音を聴いてもらう。
 そのときに、男の指なのに節くれの無い、きれいで細長い指が近付いてくると、思わずそっと触れたくなってしまう。
 ほんの十分あるかないかのひととき、できるだけ顔を見ていたいと思うのだけれど、意識してしまい、それすらできない。

 片想い。

 「こっちにしたら、ひとりきりのせんせいなわけよ。
 でも、向こうにしたら、一日に何十組も会う親子のうちの、何十分の一、でしかない。おそらく、顔と名前も一致していないと思う。それはわかってるのよ。
 だけど、自分でもバカだなあ、って思うんだけど、ときめくのよ。久しぶりなんだ、こんな気持ちは。」

 相手が小児科医だから、娘の容態が悪くなると、会う機会ができるということになる。
 もちろん、咳をして苦しむ娘であって欲しいわけが無い。
 しかし、発作が現れて、ああ、明日はお医者さんに行かなきゃね、とつぶやきながらふと鏡を見ると、そこには、看病で疲れて寝不足のはずなのに、表情が輝いている女がいるのだという。
 
 「ばかだよね。それに、娘の体力がついて、よくなってきたり、せんせいが担当医でなくなったりしたら、もうそれっきりになる恋なのに、毎日、囚われて過ごしているなんて、三十すぎた女の恋にしては情けなさすぎるよ。」

 そうかな。
 人妻だから暴走しない、できない、でも、恋をする、ときめく。
 素敵だよ、じゅうぶん。

 「そう言ってくれると嬉しいよ。確かに、ひとをすきになると、どこか華やいでくる気はする。
 これって、恋愛体質かな。」

 恋愛体質。
 誰かをすきになる、それは、花に水を与えるように、心に水を与えるようなもの。
 生きていくのに、恋を必要とする体質を、恋愛体質と呼ぶ。
・・・らしい。

 
  ポインセチア恋愛体質ありとみて

 
 片想いでも、かまわない。
 
   名月に影足らざれば歌は無し
 

 いいえ、本当は、歌はたくさんあるのです。
 むしろ、ありすぎるほどです。
 想いがあふれ出て、歌の多さについていけないだけなのです。

 ふと、洗い物を干そうと出たベランダで、何気なく仰ぎ見た空の、中ほどから一面にふりそそぐ月光の、その青い柔らかな光を頬にあてて、そのとき、肩が寒いな、と思う。

 あなたが、いない。
 
 ここで、いっしょに月を浴びたいと願う自分に・・・。
 気が付いてはいけないよ。
 人妻なら。
 
  あのね、「セックスをやって、やって、やりまくりたい」って書いてあったの、読んだことある。森瑤子サンの「女ざかりの痛み」だったかなんだったか・・・。
  あの気持ち、なんとなく分かる気がするの、街を歩いていても男に誰ひとり気にされなくなる前に、女としての快楽をできるだけ味わっておきたい欲求、って言うか、味わっておかなければ、みたいな焦燥感。

  ふうん。わたしなんか、男の人にナンパされたことも無いからよく分からない・・・若いときから気にされなかったみたいな気がする。

  そういうんじゃないの。うーん、たとえばね、ガスか電気か、まあ、なんでもいいけどそういうものの調子が狂ったりしたときのサービスマンの対応とか、重いものを買ったときの、男の店員の扱いかたとか、そういうこと、考えてみてよ。
 若いときと、今とでは、あきらかに態度が変わってきてるじゃない。故障の修理なんか終わっても、えんえん説明してくれていたのが、今じゃ知らん顔して直して、お湯が出たらさっさと帰る。

  そりゃ、景気がよくないから、どこも人手不足で忙しいのかもよ。
 
  まあ、そうかもしれないし、そう思いたいけどさ。買い物なんか、ちょっと重いもの買ったら、「お車まで運びましょうか」って言ってくれていたのが、最近じゃ、おばはん、このくらい平気だろ、みたいに、お金払ったら知らん顔。

  それはあるかな。わたしもこの前、子供の幼稚園の運動会でフライドポテトを買ったとき、係の男の先生ったらさ、20代のママには紙袋ふたつあげていたのに、わたしともうひとりのママには、無し、だったんだよ。いっしょに買ったのに、すっげー屈辱的だった。

  そうそう、そういうの、そういう扱いは、これから増えることはあっても減ることは無いわけよ。

  わかっているけど・・・なんか、さびしいい。
  それに、なんで、こんな話になってんのよ。憧れの君の話に戻してよ。

  それで電話してるんだったね。うーん、でもね、そういう「おばさん度数」がどこまで自分は上がっているのかって考えると、アプローチなんかとんでもない、って話だよ。

  だから、ひたすら指をくわえて、指をみつめているというわけなんだね。

  そう。
  
  ・・・男の指は、アレに似ている。

  えっ。

  というのも、森瑤子サンにあったよ。

  あ、そういや、そうだね。やだ、なんかなまなましいよ。でも・・・言えてるかも。

  なんか、たくさん想像したな。うらやましいこと。
 
  いや、そんなことは無いけど。でも、彼のは・・・少し。

  いやだ、そっちの方がむちゃくちゃ、なまなましいよ。大体、こういうことを昼日中からしゃべっていること自体がもう、おばさん度数かなり上がるよ。
 
  そうかな、いや、そんなこと無いって。短大のときの昼練のとき、「カラダのやわらかいオトコはひとりフェ・・・ができるのかな」ってつぶやいたの、誰だった。

  ひとりフェ・・・って。いやだ、もう。

  あんたが言ったんだよ。

  あ、あのときにはまだ経験してなかったから。
 
  何を。

  何って、イロイロなアレコレ・・・もう、そういうこと畳み掛けるのも、すげえおばさん指数高め!。
 
  あははは。
     

    
   吾亦紅小指に落とす紅のいろ
  

     
  ・・・同じ自分の話でも、若いときと今とでは違うってことか。
 
  ・・・まだもう少しは現役のつもりなんだけどね。

  うん。「おばさんって呼ばれたくない」って、十分おばさんのやつらが言ってる、ってさっきも話したじゃない。

  そうだね。老け込まずに、恋しよ、恋。
 
  うん。
  
  
 目の前に、その指があるのに、ふれることなんか思いもよらないの。みつめるだけ、なんだよね。

 すぐ目の前に、あるのに?。

 そう。思い切って手を伸ばせば、もしかして何かが、想像もつかない何事かが起こるのかもしれない、でも、だめ。だってその「想像もつかない出来事」は、以前は絶対に、ときめくこと、を意味していたんだけど・・・。

 今は?

 今?うーん、冗談で済めばいい方ね。へたしたら逃げられるか、訴えられるか。

 まさか。

 でも、そういう位置だよね、正直。
 つらいけど。

 ・・・そこでわたしたちはしばらく黙り込む。どこかで、虫が鳴いている。小さな虫たちの、恋歌。

 そういう、位置。
 位置、って。
 位置。はっきり言えばトシよ。年齢だよ。

 あの、小さなキャンパスで毎日話したり、ランチしたりしてた頃、わたしたち、何につけても、自信が無くて。
 そうだね。
 鏡を見てはため息ついていたけれど。
 でも、それでも、片想いの相手にアクションすれば、もしかしたら物語がはじまるかもしれない、なんて夢を見ていたのだから、結構お気楽だったのかもしれない。

 今は・・・。
 
 もういいよ、やめようよ。カナシイよ。
 
 でもね、わたしたちと同じ位か、それより少し上の女が「おばさんって言われるのはいや」って言うのを聞いても、なんか聞き苦しいんだよね。
 うん。
 「おばさん」って言うのなら、そうなんだろうよ、って大きく構えてやってもいいかと。
 ふーむ。
 だけどさ、「おばさん」て言われたくない、って言うやつに限って、おばさんだったりするじゃん。
 って言うか、おばさんだからおばさんって言われたくないんじゃん。
 ははは。

 問題は、「彼」がわたしを、どう見ているかってことなのよ。同じ位の年なんだから「女」で見てくれているのか、それとも「同年齢でも、女ならこの年ならもうおばさんだよな」って思っているか。
 うん。
 あーあ、偶然を装って、手がふれて、なんてのは、もう昔話なんだしなあ。
そーだよ。第一、今の若いコなら、自分から彼の手を握っちゃうかも。
 うーん、若いうちなら、それもまた可愛いけど。
 そうだね・・・。おばさんに触られたらね・・・セクハラ・・・。
 若いコならサービスで、おばさんならセクハラか・・・。
 うん・・・なんかはじめて、若いOLの部下を抱えるおじさんの苦しさが分かった気がするよ。
 

   宵月にうつくしすぎる指が罪

 
 
 でもね、ほんとうに、きれいな指なのよ。男のくせに節くれだってなくて。あの指を自分の全身に泳がせることのできる女がうらやましいよ、本当に。
 
   

 
 
 

 
 あんなに「恋がしたい」と言い続けて来た彼女なのに、久しぶりに見た顔は、とても面やつれしていた。
 恋多きひとであった。
 でも結婚し、子供が生れ、その子供たちもようやく少し手が離れ、安定してはいても、どこか退屈な日常・・・よくある話である。
 冗談半分で、恋がしたい、恋がしたい、と言い出したのはその頃である。もう一度ときめきたい、そのひとの姿を目にしただけで、胸がきゅっ、となるような感覚をもう一度味わいたい、そう言い続けてきた彼女である。
 そして、突然、恋は彼女の上に降りて来た。

 「でもね、向こうはそんな気無いのよ。出会いは子連れのときだったし。」
 「そう。」
 「片想いなの。」
 「そう。」
 「でも・・・分かるでしょ、片想いなのがつらいのでは無いのよ・・・。」

 彼女が、今、最も触れて欲しい指。
 男にしては繊細な細い指。清潔な爪にふちどられたその十本の指に触れられることがもしもあったとしても、それでどうなると言うのだ。
 恋多き女であったから、指の順番は知っていると言う。
 髪から肩へ、胸へ、そして・・・でも、そこでどうなると言うのだろう。

 どうにもなりはしない。
 それだけのことだ。
 
 
   朝顔の日に生れて日に散らされし

 朝顔は、夜明けの気配を感じて花開くけれども、その日の光によって直に身を滅ぼされる。
 人妻もまた、恋の気配を感じて想いはわきあがるけれども、その恋は必ず滅びへと向かう。
 それでも、恋へ傾いていくのは、どうにもならないのだろう、彼女の瞳は、それでも輝いていた。幾分、暗く。
 

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