顧客からのかなり複雑な問い合わせに答え、ようやく相手を納得させて受話器をおくと、出し抜けにまたベルが鳴った。
「もしもし、・・・藤城です。」
ほんとうは、もしもし、の第一声だけでわかって、次の瞬間切ってしまおうかと思ったのだけど、ついさっきの顧客とのやりとりで疲れた耳には、聞きなれたその声が心地よくもある。
「今日、ひさしぶりにお茶しないか。」
職場の電話なので、周囲が気になってすぐに返事できないのをいいことに、
「じゃ、待ってるから。」
一方的に切られる。

約束の場所までは自分の車で向かう。
でも、店の前までは乗り付けない。
国道沿いのその店の裏手の畑の脇に駐車する。
妻子持ちと逢い引きするのには、多少の心配りが必要なのである。
藤城と出会った頃は、そういう「妻子持ちならでは」の心配りが哀しくもあり、また少し自虐的な快感もあり、といった感じだったのだが、今はもうそういうひりひりしたものは無い。

相手はもういつもの隅の席に座り、業界紙をめくっている。文字を追うのなら、まだ夕暮れのかすかに残る窓際の席を選べばいいのに、そうはしない。
「で、今度の彼氏は、滝、か。」
アイスコーヒーが来てすぐに、そう切り出される。
「どうして。」
「きのう、彼が本部に来た時、少し話した・・・そう心配しなくても、仕事の話だよ。きみのことは、ほかの社員の話と一緒に少し話題にのぼっただけだから。それとも。」
そこで彼は、いたずらっぽい目つきをする。
「きみには近付くなよ、とでも言っておいた方がよかったかな。」
「でも、どうして。」
言いかけてからしまった、と思う。
「どうして、きみの今度の相手が彼だとわかったかって・・・。なんとなく、かな。彼の、きみのことを話したときの目、とか。」
彼がこのひとの前で、わたしをどんなふうに話したのだろう。
知りたい。
その言い方、口振りで、彼のわたしへの想いがどんなものかわかるのではないだろうか。
知りたい、彼の気持ちを。
でも、さすがに、かつて夢中だった男に、そんなことは聞き出せない。
相手もそれが分かっている。かつての上司であり、恋人。こちらの性格も身体も隅々まで分かった気でいる。
「でも、わたしたちは、別にお付き合いしましょうね、と言ったわけではないし。」
ただ、キスをしただけで。
邪魔な電話が入ったから、それ以上にはならなかった。
「・・・言葉で、交際宣言しないまま始めなければ、お付き合いにはならないってことか。」
藤城とは、残業時間にコーヒーを煎れているとき、給湯室でふいに抱きしめられてはじまった。
考えてみれば、滝とのことと、はじまりはよく似ている。
「きみは彼に恋しているんだな。ともかく。」
「そんなこと・・・。」
「それをまだ自覚していないということかな。でも、オレは淋しいよ。きみの心がよそへ行っている。」
わたしは黙った。
妻と子がいて、こういうことをサラリと口に出せることが改めて不思議だった。
「きみはなぜか、男をそそるものがある。きれいだし・・・スキがある。
だから、ふいに食べたくなるんだ。男にばかり罪を着せてはいけない。」
「だから・・・彼のことも、許してやれよ。」
「それは・・・。」
それは、彼が気まぐれでわたしとそういうことになったということ、なの。
恋、ではなくて。
「彼は、あなたとは、ちが・・・。」
あなたとはちがう、と言いかけてやめたのは、もしかしたら同じかも、という気がしたからだ。
それは、はじまりかたが似ているということだけでは無い。何か、その、わたしに男をそういうことに駆り立てるものがある、という意味合いにおいて。
「ともかく、彼には、余り期待しない方がいいと思った。何を期待するかって・・・将来のことなど、さ。きみたちがどういう出会い方をしていても、結果的には家庭の匂いをつくれないと思うよ。
・・・ヤキモチだと思ってもらっていいけど。」
出会い方。
このひとは、滝とわたしが、職場ではじめて出会ったのではないことも知っているんだ。
「・・・わたしは、あんなふうに出会ったから、素直になれないんだとおもうのだけれど。彼はわたしのことを、妹だと言い続けていたし。」
藤城は微笑んだ。
「まあ、なにか悲しいことがあったら、オレの胸においで、ってとこか。」

藤城とは、キスもなく別れた。
呼び出されたときは、身体が目的かと多少身構えていたが、考えてみれば、藤城には妻がいる。妻を抱けばいい。
滝のことを想う。
藤城とのことは、いくら隠しても社内で多少噂になったのだろう。滝も知っているのだ。
軽く見られているのかもしれない。
だも、品行方正な女に見られるよりも、その方が素敵なことに思えた。
少なくとも、滝から見たら。


芥子乱るるいかがわしさを愛すべし

いくところまで、いってやろうか。
傷を感じながら思う。

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