滝に転勤の辞令がおりたのは、藤城に会った十日ほどあとだった。
新しい営業所が開設されることになり、その準備委員として、ということであり、栄転であった。
滝にすれば、三十半ばを前にして「勝ち組」に入れることが見えてきたということになる。辞令がおりたときから、心なしかうきうきしているように見える。
「いろいろ世話になったな。元気で。」
あっさりとそんな風に言って、肩をポンと叩いて・・・実に普通の反応で別れの言葉をくれる。
「落ち込むなよな、おれが誘ってやるから。」
と言ったのは、大田という、例の呑み友達である。
「これからも滝とは呑むだろうからさ、そしたらまたおまえにも声かけるから。」
「そうですね、また・・・四人で。」
もう一人、女性メンバーも固定しつつあった。
わたしのふたつ上の先輩社員、郷村という。地味であまりしゃべらない方だが、酒には強かった。わたしは下戸だから、呑み会のあと、彼女を家まで送っていくこともある。郷村が誘われるのは、大田が誘うからで、わたしは内心、大田は郷村に気があるのではないかと思うことがあった。
キスの一件があって以来、滝から誘うことは無かった。
正直、滝のことを、本気で好きになっている。
だから本当は二人きりになりたい。
でも、一度、そのラインを飛び越えずに機会を逃してしまうと、もうこちらからは誘えない。
誘いをかければ、即、関係を持ちましょう、ということに受け取られるだろう。
以前の恋人であり、不倫相手だった藤城の「その気にさせる女」という言い方にもこだわりがあって、わたしは滝にどうしていいのかわからなくなっていた。
だから、なのか、しかし、なのか。
滝への想いは、わたしを包むあらゆることを制圧しつつある。
順序が逆だった・・・ある人のことが気になり出し、その人しか見なくなり、四六時中その人のことだけを考えるようになって、それから。
あの、キスがあればよかったのだ。
いくところまでいけばいい、そう強気になっても、相手がそういう気持ちならば、の話である。
ひとりで暴走しても、仕方が無い。
はじめての恋じゃ無いんだから。
「そう・・・。また、誘ってくださいね。」
大田の、アンパンを思わせる丸く太った顔にそう答えたのは、これっきりになるのが恐ろしかったからである。
会えなく、なるのが。
毎日同じ職場にいて、おなじ時間を重ねること。
それが、どんなに貴重だったか。
わたしは、今の営業所に配属されて、まだ一年も経っていない。
最初の頃、うまくなじめないでいたときから、滝は気軽に声をかけてきた。わたしの服をほめ、高いヒールをからかい、コピーとりを押し付け、顧客に出したお茶を絶賛し・・・。
そして、妹みたいだな、といったのである。
多くの女性社員はわたしよりも若い。
その中で、妹呼ばわりされるのは気恥ずかしかったけれど、滝がそういう態度をわたしにとることで、周囲も気軽に接してくれるようになった。
転勤してすぐに職場でのアイデンテイテイーができたのは、彼のおかげだった。
もうすぐ、会えなくなるんだ・・・。
言い知れぬ淋しさが、仕事の手を止める。

そして、彼が去る日は、あっという間にやってくる、何もできないうちに。
最後に、なぜか社内で二人きりになった瞬間があつたのは、なぜだろう。
しかも、エレベーターの中で。
わたしが乗り込んで「閉まる」ボタンに手を伸ばしたとき、両手にフアイルをいっぱい抱えて、滝が飛び込んできた。
彼のつけているダンヒルのコロンの香が苦しい。
「このまま・・・。」
箱が動き出し、ふいに口を開いたのは、彼の方である。
「このまま・・・屋上にでも行って、しようか。」
ドキリとして顔を見る。
彫の深い顔は微笑んでいる。
「お望みならば。」
そう言ってやり、こちらも笑う。泣き顔にならなければいいけれど。
エレベーターをさきに降りるのは彼の方だった。
フロアに着くと、背中で「開ける」ボタンを押しながら、一言。
「いい子だったな。いろいろありがとう。」
なぜか、ふいに、
「待ってください。」
と言っている。
今しかない。
わたしは、胸ポケットからメモを取り出し、ペンを走らせる。そして、
「お餞別ですから。」
と、彼のスーツの上着にメモを押し込む。


夕顔や日の移ろひをひたと受く
わたしは、ただこのままでいたくない。
「抱いて」
メモにはそう走り書きしてある。

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