香水
2002年6月22日 滝とのことークリの花(完結)真実、という言葉がこれほど空々しく思われたことは無い。
目の前にあるのは、一本の紅筆。
そして、それは、恋人の滝のくるまの中に落ちていた物である。
そして、わたしの物では無い。
誰か、他の女が滝のくるまに乗った、そして、これを落としたのだ。
滝に女装の趣味でも無ければそういうことである。
滝と女がくるまの中にいたという事実を認めるのは、嫌。
別に、ちょっと、職場の女の子を送って行ったとか、そういうことなのかもしれない。
でも、少し助手席をあたためた位で、メイク道具を落とすだろうか。
メイクの道具を落とす、ということは、メイクを直さざるを得ないような行為があった、という解釈が一番妥当である。
毎日きちんと出勤し、きちんと仕事はこなしていた。
心の乱れが出ないように細心の注意を払っていたから、むしろいい仕事をしていたかもしれない。
不倫のオフイスラブを体験しているから、こういうときの気持ちのコントロールは上手なつもりである。
でも。
笑わなくなった。
笑えなくなった。
心の中には、いつも黒い雲がたちこめている。
いつ降り出してもおかしくない雨雲を抱えて生きているのだった。
たまたま、地区連絡会議で藤城がわたしの職場に来たとき、危うくその雨が降りそうになった。
「おう、元気か。・・・・うまくいってるか。」
藤城が口にしたのは、それだけだったのに。
わたしは、会議室の片付けをしていた。
だれかに言いつけられたわけでは無かった、たまたま気が付いたから、である。
入社してすぐの頃には、会議の後の片付けなど、新人の仕事だった。わたしのような入社六年めのやることでは無かったが、人手不足でこういう誰の仕事でも無い雑用をする人間がいなくなり、わたしは特に不満も無く黙々と湯飲み茶碗を集めていた。
藤城は一人で会議室に入って来て、にっこりと笑った。
「・・・あまり、元気そうじゃ無い顔だな。」
藤城も、白髪が増えたと思った。今、四十半ばだろうか。イワキコウイチに似ていると昔から言われているようだけど、確かに白髪の感じも似てきた気がする。
「寝不足かな。」
誰かに聞かれてもいいように、明るい声を出す。
「寝られないような悩みがあるのかな。」
「・・・乙女の悩みに乗っていただけるんですか。」
「いいよ、いつでもおいで。」
一瞬、今回の紅筆のことを打ち明けてしまいたい衝動にかられた。
わたしには、こういうことを相談できるような友達はいなかった。気軽に買い物に行ったり、お茶したり、という友達はいても、こういう、恋人とゴタついた話のできるような友達はいなかった。むしろこういう「不幸」を打ち明ければ、自分のいないときに、仲間で心配顔を装ってさんざん楽しまれてしまうだろう。
だから、そのときには、藤城に甘えたくなったのだ。
性的な意味で、求めたわけでは無い。
「どうした。」
「いいえ、べつに。」
無人の会議室で、藤城は次第に大胆になって、わたしの肩に片手を置いた。
懐かしい匂いがする。
わたしは、黙って動かなかった。
無言でうつむいたままだった。
恋人を信じたいけれど、信じられないんです、と心の中で話した。
問いただしたらいいんでしょうか。
それとも、このまま黙っていた方がいいんでしょうか。
ふいに、ぎゅっ、と抱きしめられた。
「かわいそうに、何を悩んでるの。」
男の声は落ち着いている。
「僕のところに来ればよかったのに。」
あなたには、ちゃんと港があるくせに。
「なにかの力には、なってあげたのに。」
いいえ、これは、滝とわたしの問題だもの。
次第に力が加わるのを感じながら、滝に、会いたい、と心の中で叫ぶ。
違う、この胸じゃ無い、わたしの場所はあなたの胸なのよ、滝さん。
そのとき。
静かにドアが開けられた。
大田が立っていた。
しばらく沈黙があった。
でも、それはわたしには、しばらく、と思われただけのこと。
本当はほんの数秒のことだった、大田が、静かに 、
「ご苦労様、です。」
と言った。
「さっきの資料を忘れたから・・・。」
その日、大田から内線電話が入り、一度ふたりで呑まないか、という誘いがあった。
もちろんわたしは断った。残業を理由に。
会議室で時間を取られてしまったから、実際、するべき仕事は溜まってしまっていた。
黙々とパソコンに向かいながら、もしもあのとき大田が来なければどうしていただろうか、と考えた。
藤城に身を預けていたかもしれない。
一体、わたしは何をやっているんだろう。
滝に会わなければ。
会って、不安を晴らしたい。
でも。
真実をたずねることが、不安を晴らすことにつながればいいけれど。
逆に、残酷な真実が存在するかもしれないのである。
雨の日に香水と乗る昇降機
残業の後、無人のエレベーターに揺られながら、
「抱いて」と思いを滝にぶつけたことを思い出していた。
目の前にあるのは、一本の紅筆。
そして、それは、恋人の滝のくるまの中に落ちていた物である。
そして、わたしの物では無い。
誰か、他の女が滝のくるまに乗った、そして、これを落としたのだ。
滝に女装の趣味でも無ければそういうことである。
滝と女がくるまの中にいたという事実を認めるのは、嫌。
別に、ちょっと、職場の女の子を送って行ったとか、そういうことなのかもしれない。
でも、少し助手席をあたためた位で、メイク道具を落とすだろうか。
メイクの道具を落とす、ということは、メイクを直さざるを得ないような行為があった、という解釈が一番妥当である。
毎日きちんと出勤し、きちんと仕事はこなしていた。
心の乱れが出ないように細心の注意を払っていたから、むしろいい仕事をしていたかもしれない。
不倫のオフイスラブを体験しているから、こういうときの気持ちのコントロールは上手なつもりである。
でも。
笑わなくなった。
笑えなくなった。
心の中には、いつも黒い雲がたちこめている。
いつ降り出してもおかしくない雨雲を抱えて生きているのだった。
たまたま、地区連絡会議で藤城がわたしの職場に来たとき、危うくその雨が降りそうになった。
「おう、元気か。・・・・うまくいってるか。」
藤城が口にしたのは、それだけだったのに。
わたしは、会議室の片付けをしていた。
だれかに言いつけられたわけでは無かった、たまたま気が付いたから、である。
入社してすぐの頃には、会議の後の片付けなど、新人の仕事だった。わたしのような入社六年めのやることでは無かったが、人手不足でこういう誰の仕事でも無い雑用をする人間がいなくなり、わたしは特に不満も無く黙々と湯飲み茶碗を集めていた。
藤城は一人で会議室に入って来て、にっこりと笑った。
「・・・あまり、元気そうじゃ無い顔だな。」
藤城も、白髪が増えたと思った。今、四十半ばだろうか。イワキコウイチに似ていると昔から言われているようだけど、確かに白髪の感じも似てきた気がする。
「寝不足かな。」
誰かに聞かれてもいいように、明るい声を出す。
「寝られないような悩みがあるのかな。」
「・・・乙女の悩みに乗っていただけるんですか。」
「いいよ、いつでもおいで。」
一瞬、今回の紅筆のことを打ち明けてしまいたい衝動にかられた。
わたしには、こういうことを相談できるような友達はいなかった。気軽に買い物に行ったり、お茶したり、という友達はいても、こういう、恋人とゴタついた話のできるような友達はいなかった。むしろこういう「不幸」を打ち明ければ、自分のいないときに、仲間で心配顔を装ってさんざん楽しまれてしまうだろう。
だから、そのときには、藤城に甘えたくなったのだ。
性的な意味で、求めたわけでは無い。
「どうした。」
「いいえ、べつに。」
無人の会議室で、藤城は次第に大胆になって、わたしの肩に片手を置いた。
懐かしい匂いがする。
わたしは、黙って動かなかった。
無言でうつむいたままだった。
恋人を信じたいけれど、信じられないんです、と心の中で話した。
問いただしたらいいんでしょうか。
それとも、このまま黙っていた方がいいんでしょうか。
ふいに、ぎゅっ、と抱きしめられた。
「かわいそうに、何を悩んでるの。」
男の声は落ち着いている。
「僕のところに来ればよかったのに。」
あなたには、ちゃんと港があるくせに。
「なにかの力には、なってあげたのに。」
いいえ、これは、滝とわたしの問題だもの。
次第に力が加わるのを感じながら、滝に、会いたい、と心の中で叫ぶ。
違う、この胸じゃ無い、わたしの場所はあなたの胸なのよ、滝さん。
そのとき。
静かにドアが開けられた。
大田が立っていた。
しばらく沈黙があった。
でも、それはわたしには、しばらく、と思われただけのこと。
本当はほんの数秒のことだった、大田が、静かに 、
「ご苦労様、です。」
と言った。
「さっきの資料を忘れたから・・・。」
その日、大田から内線電話が入り、一度ふたりで呑まないか、という誘いがあった。
もちろんわたしは断った。残業を理由に。
会議室で時間を取られてしまったから、実際、するべき仕事は溜まってしまっていた。
黙々とパソコンに向かいながら、もしもあのとき大田が来なければどうしていただろうか、と考えた。
藤城に身を預けていたかもしれない。
一体、わたしは何をやっているんだろう。
滝に会わなければ。
会って、不安を晴らしたい。
でも。
真実をたずねることが、不安を晴らすことにつながればいいけれど。
逆に、残酷な真実が存在するかもしれないのである。
雨の日に香水と乗る昇降機
残業の後、無人のエレベーターに揺られながら、
「抱いて」と思いを滝にぶつけたことを思い出していた。
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