誰もいないと思っていたのに、更衣室には明かりがついていた。
「失礼します。」
消し忘れかな、と思ったけれど、念の為に声だけかける。
返答は無い。
が、自分のロッカーの鍵を回した時、ふいに人の気配を感じた。
「あ、郷村さん・・・お疲れ様です。」
郷村俊枝は彼女自身のロッカーの前にしゃがみこんで、どうやらケイタイでメールを打っているところらしい。
あいさつに答えが無いのは彼女ならやりかねないことだし、一応相手は先輩だから、さほど気にしない。
それより、余り気の合わない人間と二人で更衣室にいる方が息苦しい。
もう着替えは終えているのだから、早く帰ってくれないかしら、と思った。
梅雨だというのに、雨の無い日が続いている。
向かい側のビルに、西日がまともに当たってギラギラと眩しい。わたしは、西日からも、郷村からも顔を背ける位置で着替えをはじめた。
制服から黒いカットソーに着替えたとき、ふと、郷村が口紅を直しているのに目がいった。
「お出かけですかあ。」
明るい口調をつくってたずねる。
答えは無い。ただ、笑っている。
「もしかして、大田さんから誘われましたか。」
「ううん、太田さんからは今日は何も。」
「そうですか。」
口紅を見る。きついピンク色。
ピンク。
紅筆を見る。・・・新しいのか、古いのか、よく分からない。
「・・・大田さんじゃない人と、デート、ってことですか。」
「・・・。どうして。」
「なんとなく。メイクに力、入っているから。」
「そう。」
「彼氏、ですよね。」
わたしは、勝負に出る気は無かった。
ただ、心の黒雲を少しでも晴らしたかった。
もし、郷村俊枝が、滝のことを、彼氏では無いと認めれば、わたしの悩みはひとつ減らせるのだ。
「彼氏って、滝さんですか。」
「・・・。」
一瞬、口紅を塗る手が止まった。
「・・・滝さんだったら、どうなの。」
口調は平坦で、特に激したものは無い。
「・・・滝さんだったら、あなた、どうするの。・・・大田さん、最近よくあなたのこと噂しているみたいだけど、大田さんと付き合ってみる。」

カチンときた。
大田の名前を出され、大田とひとくくりにされたことに腹が立った。自分は滝と付き合っているという噂を流し、わたしは大田と付き合っているという噂を流す。許せなかった。
自分の好みでは無い男とはたとえ噂でもくっつきたくない、しかも、わたしは、現に滝と何度も寝ている関係なのに。

わたしは、自分のかばんを開けた。
そして、拾った紅筆を取り出した。
「これ、郷村さんのですか。」
沈黙が返ってきた。
また黙って、それでやり過ごすのか。
それなら、いい。
教えてあげる。
「・・・それ、滝さんのくるまの中に落ちていたんです。」
また、沈黙。
まだエアコンの入っていない更衣室は暑く、汗が首筋を伝うのを感じる。
負けるものか。
「・・・そう、滝さんの。」
「はい。」
「じゃあこれは、わたしのものだわ。滝さんのくるまの中にあったのなら。」
ゆっくりと、でも、有無を言わさぬ強さで、わたしの手の中の紅筆がもぎとられた。
「彼と、ご飯でも食べに行ったの。」
わたしは返事をしなかった。
相手の出方を見ようと思ったのだ。
これで、郷村とは、滝を巡ってライバルであるということが分かった。
二人とも、同じ男を愛している。
でも、わたしと滝との関係をまだ知られてはいない。
いや、わたしの態度から分かったか。それでも自分の負けは認めずにいるのか。
恋に不慣れな少女の頃なら、取っ組み合ってケンカをする場面である。
わたしたちは、ゴールを目指してし烈に闘う結婚したい大人の女同士だった、譲れない。だから、迂闊なことは、できない。

わたしのケイタイが鳴り出す。
滝のことがすぐに浮かんだけれど、相手は藤城だった。
メールには「無理するなよ。でもオレにできることなら、なんでもするから。」と、あった。
でも、って、何が、でも、なんだろう、と引っ掛かっている間に、お先に、のあいさつも無く敵は姿を消した。

サラダ油のごとく灼かれて窓並ぶ

西日はまだ勢いが止まらない。
ほんとうは、あの筆はだれのものだったのだろう。郷村の答えかたには、真相が無かった。
わたしの雨雲は当分晴れそうにない。

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