トルコ桔梗
2002年7月2日 滝とのことークリの花(完結)滝の営業所がオープンになる月曜日は朝からよく晴れていた。
わたしは、滝のために、よかった、と思った。
前日、ひさしぶりに休日デートらしいデートをして、恋人の余韻はからだのあちこちに残っている。
海を見た後のベッドの中で、勇気を出して聞いてみた。
「この前、あなたのくるまの中で、わたしのじゃない紅筆を拾ったんだけど。」
「ベニフデ?。」
「口紅をつけるときに使う筆。誰の?。」
「えっ・・・。いやあ、知らない・・・あなた以外に乗せたのはうちの義姉だけだから、たぶん義姉だろうな。」
「そう。」
それだけだった。
それだけのことなのだ。もっと早く聞いてもよかったのに。
滝のキスはその後も変わらず熱くて、彼の抱きしめる腕の力は強くて、わたしのからだを上にしたり下にしたり、いつも通りのしたたかさを持った愛しかたで、何も疑わしいことは無かった。
月曜日には、花を生ける。
毎週、近所の花屋が配達してくれるのを、きちんと花瓶に生けることになっている。火曜日から金曜日には、水を替えたり、傷んだ花を処分したりする。
女子社員が交代でこの仕事をしていて、わたしはその日の当番だった。
花束の入った新聞紙を開くと、たっぷりとトルコ桔梗が入っている。クリーム色と、ピンク色と、白地に紫が入っているものと。
そのうちの紫で縁取りされた一本を取り上げ、水を張ったバケツに茎を付けて、水切りをする。
暑くなってきたから、花を長持ちさせる工夫をしなければならない。
社員のための喫煙室がすぐ隣りにあり、男性社員たちのしゃべり声が聞こえる。ところどころ怠惰で、でも、少しずつ仕事向きの人格をつくりあげていく、月曜日の朝。
滝がいた頃は、いつも彼の声がした。
話の輪の中心にいて、よく冗談を言って、男たちの太い笑い声を、そこらじゅうに響かせていた。
今頃、開店の準備も終わり、普通にしていても引き締まった口元を一層引き締めて、営業所の入り口をみつめている・・・。
わたしは、滝のことばかり考えていた。
ともすると、昨日の記憶に溺れそうになりながら。
だから、大田が入ってきて、わたしに何か言いたげに一瞥をくれたときにも、すぐに問いかけができなかった。
大田は、そのまま、喫煙室に入った。
そして、こちらにもはっきり聞こえる大きな声で、
「辞令が下りたぞ。」
と、言った。そして、その後に続いた言葉は、わたしの、しあわせな朝を粉々にしてしまった。
「新営業所に、郷村さんが行くことになった。」
手にしていたトルコ桔梗は、花のところでパッチリと切れて水に落ちた。
花びらがゆらりと揺れるのを、息をのんで見つめる。
郷村俊枝が、滝のいる営業所へ転勤する。
二人は、また毎日顔を合わせるようになる。
滝のことを疑ってはいけない、わたしたちは恋人
なのだ、そのことに間違いはないのだ。
だから、郷村がまた滝に近付いても、何も変わらないはず・・・。
でも、嫌だ。もう誰もそばにいて欲しくない。
わたしだけの男で、あって欲しい。
あの、奥二重の少しつりあがり気味の目も、細長い指も、柔らかな髪も・・・郷村俊枝がまた毎日目にするのか。それは、嫌。
どうしても、嫌。
だが、会社の命令である。彼女がそこへ、滝のそばへ行くのは、彼女のわがままではなく、会社が決めたことなのだ。
迷宮がトルコ桔梗の中にある
「あの・・・お電話です。」
背後から声をかけられ、冷静を装ってふりかえる。
「本所の、藤城課長さんですが。」
「・・・ごめんね、お花を生けてから折り返しかけるから。」
答えながら、藤城は、この転勤のことで慰めるつもりなのかな、とぼんやり思った。
わたしは、滝のために、よかった、と思った。
前日、ひさしぶりに休日デートらしいデートをして、恋人の余韻はからだのあちこちに残っている。
海を見た後のベッドの中で、勇気を出して聞いてみた。
「この前、あなたのくるまの中で、わたしのじゃない紅筆を拾ったんだけど。」
「ベニフデ?。」
「口紅をつけるときに使う筆。誰の?。」
「えっ・・・。いやあ、知らない・・・あなた以外に乗せたのはうちの義姉だけだから、たぶん義姉だろうな。」
「そう。」
それだけだった。
それだけのことなのだ。もっと早く聞いてもよかったのに。
滝のキスはその後も変わらず熱くて、彼の抱きしめる腕の力は強くて、わたしのからだを上にしたり下にしたり、いつも通りのしたたかさを持った愛しかたで、何も疑わしいことは無かった。
月曜日には、花を生ける。
毎週、近所の花屋が配達してくれるのを、きちんと花瓶に生けることになっている。火曜日から金曜日には、水を替えたり、傷んだ花を処分したりする。
女子社員が交代でこの仕事をしていて、わたしはその日の当番だった。
花束の入った新聞紙を開くと、たっぷりとトルコ桔梗が入っている。クリーム色と、ピンク色と、白地に紫が入っているものと。
そのうちの紫で縁取りされた一本を取り上げ、水を張ったバケツに茎を付けて、水切りをする。
暑くなってきたから、花を長持ちさせる工夫をしなければならない。
社員のための喫煙室がすぐ隣りにあり、男性社員たちのしゃべり声が聞こえる。ところどころ怠惰で、でも、少しずつ仕事向きの人格をつくりあげていく、月曜日の朝。
滝がいた頃は、いつも彼の声がした。
話の輪の中心にいて、よく冗談を言って、男たちの太い笑い声を、そこらじゅうに響かせていた。
今頃、開店の準備も終わり、普通にしていても引き締まった口元を一層引き締めて、営業所の入り口をみつめている・・・。
わたしは、滝のことばかり考えていた。
ともすると、昨日の記憶に溺れそうになりながら。
だから、大田が入ってきて、わたしに何か言いたげに一瞥をくれたときにも、すぐに問いかけができなかった。
大田は、そのまま、喫煙室に入った。
そして、こちらにもはっきり聞こえる大きな声で、
「辞令が下りたぞ。」
と、言った。そして、その後に続いた言葉は、わたしの、しあわせな朝を粉々にしてしまった。
「新営業所に、郷村さんが行くことになった。」
手にしていたトルコ桔梗は、花のところでパッチリと切れて水に落ちた。
花びらがゆらりと揺れるのを、息をのんで見つめる。
郷村俊枝が、滝のいる営業所へ転勤する。
二人は、また毎日顔を合わせるようになる。
滝のことを疑ってはいけない、わたしたちは恋人
なのだ、そのことに間違いはないのだ。
だから、郷村がまた滝に近付いても、何も変わらないはず・・・。
でも、嫌だ。もう誰もそばにいて欲しくない。
わたしだけの男で、あって欲しい。
あの、奥二重の少しつりあがり気味の目も、細長い指も、柔らかな髪も・・・郷村俊枝がまた毎日目にするのか。それは、嫌。
どうしても、嫌。
だが、会社の命令である。彼女がそこへ、滝のそばへ行くのは、彼女のわがままではなく、会社が決めたことなのだ。
迷宮がトルコ桔梗の中にある
「あの・・・お電話です。」
背後から声をかけられ、冷静を装ってふりかえる。
「本所の、藤城課長さんですが。」
「・・・ごめんね、お花を生けてから折り返しかけるから。」
答えながら、藤城は、この転勤のことで慰めるつもりなのかな、とぼんやり思った。
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