藤城からの電話をとりついでくれたのは、新人女子社員で、とても几帳面な人だった。
業界特有の略語を、略せずにきちんと発音し、そうして、会社で使われる用語の一つ一つをきちんと自分のものにしていこうと心がけているそんな人。
人は時々、自分が全く意識しないで、他人に影響を与えてしまうことがある。
彼女の几帳面さがわたしにもたらしたものも、そういうことの一つだろう。
机にもどり、その上に貼り付けられた、一枚のメモ。
「人事部 お客様相談室の藤城課長さまからお電話がありました。またかけ直す、とのことです。」

わたしは、しばらくそのメモを見ていた。
まるで、自分の知らない国の言葉で書かれたメモみたいに。

人事部。

藤城が人事部の人間だということを、どうして思いつかなかったのだろう。
わたしは、電話を取り上げ、藤城と会う約束をした。冷静な声をつくるのに少し苦心しながら。
営業開始五分前のオフイスは、郷村の机の辺りで妙に騒がしい。
そしてそれは、とても華やいでいて、入試の合格発表場で自分だけが落ちたような、そういう雰囲気をつくっていた。

「・・・きみが、そこまで分かったとは思わなかったよ。さすが、カンがいいな。」
いつかの、コンクリート打ちっぱなしの喫茶店。
藤城は、シルバーがかったネクタイをしていて、斜めに差し込む西日がそれを炎のように染めている。
「わかりますよ、それくらい。」
郷村俊枝を転勤させるように仕向けたのは藤城だった。
この二人が知り合いだったとは気付かなかった。
まったく。
だから、藤城から「愛している」というメールをもらったすぐ後にきたメール、「心配しないでください。あなたの悪いようにはいたしません。」というあの誤送信のメールが、ほんとうは郷村俊枝に宛てたものだというのにも思い当たらなかった。
更衣室でわたしと鉢合わせしたときに、郷村がメールを打っていた、あれも、相手は藤城だった。
「男が、あの営業所に転勤するとしたら、まあ栄転だろう。でも、女の子は別に、そう役に立たなくてもいいんだ。」
わたしは、黙ってアイスコーヒーに口をつけた。
ものすごく苦い。
「むしろ、郷村さんのように、まあはっきり言って長く会社にいるだけで大して貢献できない人には、はやく辞めてもらいたいんだな、会社としては。」
この会社の女子社員が、結婚したら退職するのは、不文律になっている。
「そこで、郷村さんを転勤させた・・・。」
滝のもとに、と思ったけれど、具体的に口にだすのも嫌だった。
「じゃあ、あなたは、滝さんが彼女を選ぶと思ったの。」
そんなことは、ないはずだ。
職場がまた同じになったからといって、郷村俊枝が「片想い」なのは変わらないはず。
「・・・それは、わからない。」
「わからないって・・・。」
「でも、きみは少々つらいかもそれないが、ハッキリ言っておこう。その方が後で傷つかなくてすむだろうからね。
滝は、きみを、選ばないよ。」
「どうして、そんなことが、あなたにわかるんですか。」
本気で腹を立てたので、声が低くなった。うなるように。猫のケンカがはじまる前の声だ。
「・・・彼の結婚観は、きみと結婚するようにはできていない。」

会社に骨を埋める気があるのか。

その言葉で「確認」は始まったのだそうだ。
滝の、結婚観。


そろそろ次代の幹部候補を絞りきらなくてはいけない。きみは、よくやってくれている。お客からの信頼も篤い。
ただ、きみには不安定な要素がひとつだけある。
まだ結婚していないということだ。
そしてきみは、婿養子に行くことも有り得る、ということだ。実際、そういう立場の女性と交際しているらしいじゃないか。
会社としては、きみが婿入りしてその家の家業を引き継ぐのだとしたら、そういう目できみを見るようになる。
それが、自然だろう。

ぼくは、会社に、骨を埋める覚悟です。
婿養子には行きませんし、そういう立場の女性とは交際しません。
今後、一切。

わたしは、目をつむった。
初めて滝とドライブをした、お見合いの日のことを思い出した。
わたしたちは、どこへ向かうともなく海をめざしていた。
水田が広々と続く中を海へとつながる農道。
ふいに、滝が言った。
「今、真横にものすごく大きな屋敷が見えるでしょう。」
水田越しに、長い長い松並木が見える。その奥にいかにも旧家らしい、どっしりした屋根が見える。
スピードをさほど落としていないのに、いつまでも並木が見えている。大きな家だ。
「この前、あの家の跡取り娘と見合いしたんですよ、でもね、ほんとうに一言もしゃべらない人だったんです。」
「ひとことも。」
「そう、ろくに返事もしない。」
「だから、・・・やめたんですか。」
「まあ、そういうことかな。」
「やっぱり、一緒にいて、全く話さないひととは、結婚できないかなあ。いくら条件が良くても。」
「ああ、女の人はそうかもしれませんね。でも、男は違いますよ。できます。
大切なのは、自分の生活していきたい方向に合っているかどうか。条件だけでも、まあ結婚はできますよ、男なら。」

「・・・滝さんに、会ったの。」
瞑目を解いてわたしはたずねる。
「いや。ぼくはそれほどあいつと親しくない。滝の営業所の佐伯が話してくれた。」
佐伯、というのは所長である。
そして、藤城は、佐伯と同期だった。

わたしは、席を立った。
「教えていただき、ありがとうございました。」
「おい、オレは本当のことを言ったんだよ。」
藤城のうろたえたような顔が、おかしい。
自分で仕組んだくせに、何もかも。
何もかも。
うっかりすると泣いてしまいそうだ。
そして涙につけこまれそうだ。
その手には、乗らない。
わたしは、自分の勘定だけ払うと、外へ出た。
ドアを開けたとたんに熱い風が全身を包み込む。
もう、夏になるんだな。頭の芯が焼けそうだ。

熱風を恋の女神の息を浴ぶ

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