微香水
2002年7月7日 滝とのことークリの花(完結)滝とは会わないまま、梅雨が明けた。
郷村俊枝は転勤して行き、予想通り、わたしはその引継ぎ業務で忙しくなった。
仕事が忙しいのは、都合がいい。
こんな風に気持ちがふさぎがちなときには。
滝には勿論、会いたくないわけではなかった。
でも、連絡できずにいた。
こわかった。
最終結論を出すということに怯えた。
男がひとたび仕事上に上昇気流をつかんだら、もうちょっとやそっとでは退かないだろう。
もともと滝は野心家だし、負けず嫌いだ。
すべてにおいて、勝ち、に行きたいタイプの男だ。わたしは、それをよく知っている。
そういうところを愛していたから。
愛しているから、離れたくはなかった。
でも、会えば、さよならを言い渡されるだろう。
そのとき自分がどうなってしまうのか、予想がつかない。
また、全てをうやむやにして抱かれてしまうのか。
今までそうしてきたように、波のように抱かれて。
だから、大田が、
「今日、滝にお前を連れてくるように言われているんだけど。」
と、声をかけてきたときには、完全にふいをつかれたと思った。
そういう手でくるのか、と思った。
大田を使って呼び出したくせに、滝は大田に席を外させる。
しかも、そこは、藤城から「事の真相」をこの前聞かされたばかりの喫茶店だったから、わたしは最初からダークな気分だった。
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
なぜか滝は微笑んでいる、その目はわたしを見ていない。この人は怯えているのだ。
「きのう、後輩たちが噂してたわ。あなたが・・・。」
「オレが?何?。」
「あなたが、あなたの家に、郷村さんが、ごあいさつに行ったらしいって。」
わたしは、一気に言った。
沈黙。
背中合わせのテーブルから、笑い声。主婦のグループ。家庭という、自分の根城を持ち得た女たちの、落ち着いた笑い声。
「・・・本当なのね。」
「・・・いや、本当とか、そういうことより・・・オレたちが結婚してもうまくいくかどうか分からないよ。」
その慌ただしく煙草に火を付ける仕種をわたしは静かに見守る。細長い、シルバーの、ダンヒルのライター。彼からネックレスをもらったときにわたしがお返しで贈ったものだ。
「オレたち、っていうのは、わたしとあなたなの。それとも。」
わたしは郷村俊枝の名前を口にしない。
それは、この期におよんで、わたしの意地みたいなものだった。
認めたくない。
「どうして、彼女を・・・。」
それだけは、分からなかった。
でも、別にそれが分かったからと言って、どうなるというわけでもない。
むしろ、彼女を選ぶ訳を聞かされる方が嫌だ。
「結婚なんか、したくなかったよ。」
「・・・。」
「でも、仕方が無かった。外堀を埋められた。」
気弱な声だった。
「もう、会わない方が、いいのね。」
そう言ったとき、彼の表情に何とも言えない安堵の表情が浮かんだ。
自分が言わなければいけないことを、相手が言ってくれたという安心感。
つまらない、男だ。
わたしは、自分のプライドを守ろうとしただけだった。
なぜか、なりふりかまわず、ということができない。
もしも、ここで大声で泣くことができれば。
そして、捨てないで、とかなんとかわめきながらすがりつくことができれば。
そうできれば、もしかしたら男は考えを変えるかもしれない。
でも、できない。
わたしは、明日からもこの町で暮らさなければならない。
誰かに取り乱したところを見られたら、今日とは違う目を向けられることになる。
それに。
自分がほんとうに欲しいものであっても、髪振りまだして獲るのでは無く、できればさりげなさを装って獲りたかった。
「・・・さよなら。」
辛うじて言いながら
「でも、最後にもう一度だけ、キスして。」
と付け加えた。
わたしがコトンと落としたわかれの言葉に、不覚にも微笑んでしまった男の顔を見たから。
「くるまに乗って。」
言い置いて席を立つ。
ため息交じりで後に続く滝は、いつもより小さく見える。
もう決して乗らぬくるまの微香水
キーを開ける軽い音、助手席の、座りなれた感覚。
わたしは、そっと目をつむる。
郷村俊枝は転勤して行き、予想通り、わたしはその引継ぎ業務で忙しくなった。
仕事が忙しいのは、都合がいい。
こんな風に気持ちがふさぎがちなときには。
滝には勿論、会いたくないわけではなかった。
でも、連絡できずにいた。
こわかった。
最終結論を出すということに怯えた。
男がひとたび仕事上に上昇気流をつかんだら、もうちょっとやそっとでは退かないだろう。
もともと滝は野心家だし、負けず嫌いだ。
すべてにおいて、勝ち、に行きたいタイプの男だ。わたしは、それをよく知っている。
そういうところを愛していたから。
愛しているから、離れたくはなかった。
でも、会えば、さよならを言い渡されるだろう。
そのとき自分がどうなってしまうのか、予想がつかない。
また、全てをうやむやにして抱かれてしまうのか。
今までそうしてきたように、波のように抱かれて。
だから、大田が、
「今日、滝にお前を連れてくるように言われているんだけど。」
と、声をかけてきたときには、完全にふいをつかれたと思った。
そういう手でくるのか、と思った。
大田を使って呼び出したくせに、滝は大田に席を外させる。
しかも、そこは、藤城から「事の真相」をこの前聞かされたばかりの喫茶店だったから、わたしは最初からダークな気分だった。
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
なぜか滝は微笑んでいる、その目はわたしを見ていない。この人は怯えているのだ。
「きのう、後輩たちが噂してたわ。あなたが・・・。」
「オレが?何?。」
「あなたが、あなたの家に、郷村さんが、ごあいさつに行ったらしいって。」
わたしは、一気に言った。
沈黙。
背中合わせのテーブルから、笑い声。主婦のグループ。家庭という、自分の根城を持ち得た女たちの、落ち着いた笑い声。
「・・・本当なのね。」
「・・・いや、本当とか、そういうことより・・・オレたちが結婚してもうまくいくかどうか分からないよ。」
その慌ただしく煙草に火を付ける仕種をわたしは静かに見守る。細長い、シルバーの、ダンヒルのライター。彼からネックレスをもらったときにわたしがお返しで贈ったものだ。
「オレたち、っていうのは、わたしとあなたなの。それとも。」
わたしは郷村俊枝の名前を口にしない。
それは、この期におよんで、わたしの意地みたいなものだった。
認めたくない。
「どうして、彼女を・・・。」
それだけは、分からなかった。
でも、別にそれが分かったからと言って、どうなるというわけでもない。
むしろ、彼女を選ぶ訳を聞かされる方が嫌だ。
「結婚なんか、したくなかったよ。」
「・・・。」
「でも、仕方が無かった。外堀を埋められた。」
気弱な声だった。
「もう、会わない方が、いいのね。」
そう言ったとき、彼の表情に何とも言えない安堵の表情が浮かんだ。
自分が言わなければいけないことを、相手が言ってくれたという安心感。
つまらない、男だ。
わたしは、自分のプライドを守ろうとしただけだった。
なぜか、なりふりかまわず、ということができない。
もしも、ここで大声で泣くことができれば。
そして、捨てないで、とかなんとかわめきながらすがりつくことができれば。
そうできれば、もしかしたら男は考えを変えるかもしれない。
でも、できない。
わたしは、明日からもこの町で暮らさなければならない。
誰かに取り乱したところを見られたら、今日とは違う目を向けられることになる。
それに。
自分がほんとうに欲しいものであっても、髪振りまだして獲るのでは無く、できればさりげなさを装って獲りたかった。
「・・・さよなら。」
辛うじて言いながら
「でも、最後にもう一度だけ、キスして。」
と付け加えた。
わたしがコトンと落としたわかれの言葉に、不覚にも微笑んでしまった男の顔を見たから。
「くるまに乗って。」
言い置いて席を立つ。
ため息交じりで後に続く滝は、いつもより小さく見える。
もう決して乗らぬくるまの微香水
キーを開ける軽い音、助手席の、座りなれた感覚。
わたしは、そっと目をつむる。
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