滝は、くるまに乗り込むとすぐに、ハンドルの上にうつぶせの姿勢になる。
わたしは、気配でそれを感じる。うっすらと目を開けると、窓ごしに大田のくるまが見える。運転席を倒しているのか、大田の姿はみえない。ただ、排気口から灰色の煙と、水滴が二、三滴。エアコンをつけて、エンジンをかけて。乗っているのがそれで分かる。
大田は何を思っているのだろう。
あんなふうに待たされて。
「降りて、くれないか。」
滝の低い声がした。
うつぶせのままなので、くぐもった声。それも、どこか苦しそうなので、泣いているのかとさえ思った。
「頼む。降りてくれ。」
わたしには、「降りる」という意味が、単にこのくるまから、というのでは無く、滝の人生から、というふうに聞こえる。
降りてくれ、オレの人生から。
「どうして、わたしを抱いたの。」
そもそもそこからはじまったのだ。
「わたしを抱けば、いずれはこういうことになるのは分かっていたはずでしょう。それとも、わたしがあなたのところにお嫁にいく、と言っていれば、わたしと結婚したの。」
「あととり娘のあなたを、嫁にはできない。オレも養子にはいきたくない、とすれば、最初から近付かない方がいい。それは分かっていたよ。でも。」
滝は顔を上げる。前を向いたまま、
「抱きたかった。好きになった。」
と、つぶやいた。
「いっしょに仕事をしているうちに、次第に好きになっていった。そのうちに、抱きたくなった。そして、一度抱いたら、離れられなくなった。
あなたは、女だから分からないかもしれない、でも、たまらなく抱きたくて、欲しくて欲しくてたまらなくて、のめりこんだ。」
わたしは、滝を見た。
どうして、こんな言葉を、こんなに悲しそうに言うのだろう。
欲しくて欲しくて、たまらないから結婚しよう、という結論にどうしてつながらないのだろう。
「それは、とても怖いことだったんだ。自分がコントロールできなくなる・・・。まるで、ガキみたいにさ、いい年をして。
信じてもらわなくてもいいが、こんなことに、こんな風に女に何もかも盗っていかれそうになったのは、はじめてなんだ。
今日は、ハッキリ別れようと言おうと思った。
でも、あなたとふたりきりになったら、また自分がどうなるのか自信が無かった。だから、大田さんに来てもらった。自分が暴走しないために。」
「どうして、別れなければいけないの。」
声が震える。
「そんなにわたしを想ってくれているのに、どうしてなの。」
悲しい。そこまで自分を欲してくれている男が現れたのは初めてで、なのに、その男は今、別れを告げている。
「オレは、弱い。あなたは、そのことを分かっているか?。何もかも盗っていかれる、という意味が分かるか?。仕事が、手につかなくなりそうだったんだぞ。」
男が仕事が手に付かなくなる、ということは、女が悪いのか、女のせいなのか。
藤城が、滝と愛し合うようになる直前に言った言葉を思い出した。男にばかり罪を着せてはいけない。
ええ、わたしは、この人に罪を着せてはいない。
だけど、どうして、女に罪を着せるの。
「愛し合って・・・どうして、別れなきゃいけないのか、分からないわ。」
滝の言葉が、言い訳かもしれないという考えに、一瞬心を支配されながら、否定する。
別れの言い訳にしたくない、あなたの、愛の、言葉を。
愛の、言葉を。
初めてベッド以外で言ってくれた言葉たち。抱きしめたい。できれば拾い集めて仕舞い込みたい。貝殻のように。
ナニモカモトッテイカレルクライニアイシテイル。

わたしは、そっと滝の頬に手を当てる。
最初は、片手。
そして、もう片手。
両手で包み込む面長の顔は青ざめて、ととのった顔立ちによく似合う陰影をつくっている。

キス。

静かな、キス。

唇を合わせるだけのキス。まるで、中学生のフアーストキスのよう、舌を絡ませ合うでもなく、唇を貪り合うでもなく。

「痛っ。」
でも、その直後で男の両腕がわたしを引き離す。ものすごい力で。かつて両腿を思い切り引き寄せたのと、同じくらいの強さが、今度は引き離すのにつかわれる。
「離れてくれ。」
男はそれで終わらない。
片手でわたしを抱えたまま、もう一方の腕はドアに向けられ。
乾いた音でドアが開けられ、そしてわたしは地面に投げ出される。
「出ていってくれ、頼むから。」
絞り出すような声が聞こえた。スカートのすそを直し、打ち付けられて傷む膝を無意識になでながら、わたしは、茫然と滝を見た。
とても、結婚を控えた男とは思えない、苦悩に満ちた顔。

わたしは、滝の人生から出て行った。

ひとたびのキスは氷の中の華

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