青栗の熟さず落ちて静かなり

結局滝の結婚式は、一年後になった。

滝の父親が郷村俊枝を気に入らなかったから、というのが、結婚が遅れた原因らしい。でもそれは、例によって「更衣室情報」だから、真相は分からない。
わたしは、窓辺に立って、栗の木を見ている。
大きな栗の木。悩ましい匂いをふりまく花の季節を終えて、若葉はいよいよつややかに、生まれたての夏の光を求めて揺れる。
風が流れると、木も流れる。ゆっさりと。

滝とは、あの日、くるまから突き落とされて以来、会っていない。
藤城とは、仕事の上でだけの関係でいる。時々何か言いたそうだけれど、わたしは鉄壁の笑顔で追い返している。
この一年のうちに、二人の人とお見合いをし、何人かの男の人とふたりだけで食事をした。でも、結局、誰ともステデイにはならずにいる。
率直に言ってしまうと、滝と別れて以来、誰とも寝ていない。
滝への未練、まあそういうこともあるだろう。
会いたくて泣いた夜もあるし、もう少しで電話してしまいそうになった夜更けもあるし、会社まで行ってしまおうかなどと、ストーカーまがいのことを考えた夕暮れもある。
だけど、何もしなかった。
愛しているから別れよう、と言ったあのときの言葉を、切りたい女へのずるい言い訳にしてしまわないために。
結納が決まったときには、さすがにつらかったけれど。
「・・・いいのか、これで。」
残業時間にぼんやりと、喫煙室の壁によりかかっていたら、大田がどこからかやって来てそう言った。
「・・・よくは、無いですけど、もう、いいんです。」
大田はいぶかしそうにわたしを見た。
「おれはあいつを見損なったよ。」
「でも、今でもくっついているらしいじゃ無いですか。」
「まあな。でも、あんなふうに誰かのものにあっさりなれるやつだと思ってなかったから。」
わたしは少し笑う。
「誰かのもの、だなんて、女の人のことを言ってるみたい。」
「そうかな。」
なぜか赤くなり、大田はうつむく。

この人は、どこまで知ったのだろう。あの別れの日、あの後、滝は大田にどう説明したのだろう。
最も、からだの関係のある男と女のことは、当事者にしかわからないのだ、真実は。

いつか、滝がわたしのことを思い出したときに、愛し合った記憶が切なくていとしければそれでいい。
いつか、女としては存在しなくなる妻とは違い、記憶の中の恋人は、色褪せることは無いのだから。

熟さなくとも、青い実はつややかに光り続ける。
結婚に至らなくて終わってしまう恋は無数にある。嵐が通り過ぎた後に庭中に散らばる青い栗の実よりもたくさん。
でも、結婚することが、本当に一番幸せな恋のかたちなのだろうか。
かつてその胸の中で爆発しそうな欲望をぶつけあい、手のひらをかさねただけで、目がくらみそうになっていた相手を、生活が変えていく。
何も感じさせない、ただの同居人に。
それが、本当に、恋の成就の最高級のかたちと言えるだろうか。

背後でふいにケイタイが鳴り出した。わたしの恋の成就についての考察はそこで打ち止めになった。
電話は披露宴に出席していた同僚からのもので、とんでもない話だったのだ。

披露宴で、大田が新郎の滝に切り付けた、という。

花嫁のお色直しのときに、ビールを注ぐためにひな壇に近付いた大田は、握手を求めて、滝の手を握った。
その中に、カッターナイフが仕込んであったのだという。

勿論、命がどうこう、というようなことではないから、滝のからだのことは心配無用だけれど、大田がそのまま会場を出て連絡がつかなくなっているから注意しろ、ということだった。
「披露宴は、どうなったの。」
「中止よ、もちろん。だって、血まみれなのよ、そこらじゅう。」
「どうして、大田さんが滝さんに、そんなこと・・・。」
「あなたにも分からない?。」
「分からない。」

栗の木ごしには、国道が見える。
走るくるまの一台が、大田の車種と同じものであることに気が付き、わたしは目をこらす。
「あんなに誰かのものに、あっさりなるなんて思わなかった。」 ・・・ まさか、わたしは思い違いをしていたのだろうか。
郷村俊枝は、わたしにとっても、大田にとっても、敵だったということ・・・。

くるまが向かってくる。
もしかしたら、新郎を略奪して来たかもしれないなんて、ばかなことを一瞬考える。


「完」

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