その人は運転しながら、
「じゃあ、好きな絵描きは誰ですか。」
とたずねてきた。
一瞬、答えに詰まったのは、この人との未来を考えたからだった。恋に、なるのか、ならないのか。
同じ会社のメンバー十人ほどで、スキーに行く途中の車内だった。彼とは初対面で、たまたまくじ引きで同じ車に乗り合わせることになったのだ。雪の中、二時間ばかりの密室。
いかにもコンピユーター室勤務らしい硬質の横顔は、前から見るよりも整って見え、緊張するとおしゃべりが止まらなくなるわたしの癖を思い切り引き出した。だからわたしは、気が付くと、自分が絵を見るのが好きで、休日には一人で絵画展に出かけるということまで話してしまっていた。
初めて会った人に「一人で美術館に入り浸るのが好き」だなどど話さない方がいい。それは適度に男から可愛がられる女でいようという二十三のOLの処世術のようなものであった。
でも言っちゃった。
で、今度は「お気に入りの画家」なんかたずねられているのである。
わたしは、迷った。
頭の中には、二人の名前がある。
シャガールとカンデインスキー。
無難に、カワイイOL 路線を取るのであれば、それはもう、シャガール、だ。
でも、実は、本当に大好きなのは、カンデインスキーなのである。
わたしは、多分、雪道を確かな腕で運転していくこの人を好きになりかけているのだ。
ギアを握っている指に触れられても、嫌じゃない。
ここでどう出ようか。
単純な話、相手に気にいられるには、どっちの名前を出した方が良いのか、ということである。
迷った末に、
「カンデインスキー。あの、青の使い方が好きなんです。」
と、本当のことを口にした。
休みの日に一人でいる、それも美術館で、ということが知られている以上、カワイイ路線からは外れてしまっている、という事実に思い当たったから。
だから、もう仕方がない。

それから季節は、ふたつ、巡った。
スキー場でも、帰りの車でも、その後食事をした店でも、彼とは近くにならなかった。積極的に仕掛けていけるほど美人ではなかったから、その辺はわきまえているつもりだった。
だから、梅雨が明けてすぐ、彼から電話をもらったときには正直言ってびっくりした。
嬉しかったけれど、何だろうと思った。

待ち合せた喫茶店は、紅茶の専門店だった。冷房の程よく効いた場所で、あたたかいダージリンテイーを飲みながら待った。
夏服の彼が現れたのは、最初の一口をすすった瞬間で、こんにちは、と言いながら口の中の苦みに気を取られた。
彼の持っている大きな荷物に目がいかなかったのはそういう事情である。
わたしたちは、しばらく仕事の話をした。
彼は、クイーンメリーを頼んだ。そしてポットが空になる頃、おもむろにその荷物をテーブルの上に置き、そして、
「やっとできあがったんだけれど、受け取ってくれるかな。」
と、ごく普通な言い方でこちらに押し出してきた。
30センチ四方ほどの、平べったいそれは、白い布で包まれている。 両腕を交差するようにしてそっと開くと、一枚の絵が入っていた。
「これは・・・。」
濃紺からセルリアンブルーまで、様々な青で描かれた、一人の男の肖像画。
「カンデイスキーの、肖像画ね。」
わたしが言うと、彼は縁無し眼鏡の奥の眼をやわらかく微笑ませながら、
「分かってくれた。」
と、嬉しそうに言った。
「冬から今までかかったんだけれど、何とか描けたから・・・受け取ってもらえるかな。」
そのようにして、わたしは、絵を描くのが大好きな恋人を得たのだった。

カンデインスキーの青は、だから今でも・・・彼と別れて何年も経ってしまった今でも、わたしには特別ないろをしている。
夏の夜、眠れないままに空の色をぼんやり追いかけていて、唐突に、胸に一枚の絵が浮かび上がる。


夏の夜の藍、青、白と明け易し

ありとあらゆる「青」で描かれた画家の肖像。
別れたときに、返してしまって今はもう手元にない絵のことを、夏の夜明けを迎える度ごとに、きっと思い出すのだろう。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索