帆影には夏のかけらが金色に
十三階の窓からは瀬戸内の海が見える。
台風一過。
夏が、来た。
中二の息子は部活動の練習に行っていて不在である。彼女は一人で海を眺めながら洗濯物を干している。
空は照り付ける太陽のせいで直視できないほど光り、海は日差しのかけらをいっぱいに浮かべて穏やかに凪いでいる。
ヨットが一艘、沖に浮かんでいる。
「うちの子もいつか、先生みたいに海をめざすのかしらね。」
この前何気なく言ったとき、「先生」と呼ばれている彼は少し笑って、
「タクミはヨットよりも陸でしょう。だって、今も長距離の選手なんだから。」
と、息子の肩を軽く押すようにしていた。
「な、たくみ。」
「うん。」
国立大二回生の彼が家庭教師に来てくれるようになって半年が経つ。
おとなしくて、スポーツ好きな割に余り負けず嫌いでは無い息子には、大勢で競い合いながら伸びていく塾よりも、自宅でじっくりと自分のペースで学ぶことのできる家庭教師の方が向いていたようで、成績は眼にみえて良くなってきている。
息子も、週に二回、「先生」が来るのを楽しみにしている。人見知りのきつい子がなついてくれて、本当に良かった。
「先生」が来てくれるようになって、本当に良かった。母親らしく、そういう月並みな言葉をつかってみる・・・。
彼は、大学ではヨット部に入っているという。
「ここから見ると、沖に浮かぶヨットは優雅で、穏やかに見えるでしょう。」
今、洗濯物を干しているベランダで、彼は海を見つめたまま話していた。
「でも、実際に乗ると、ものすごくハードなんですよ。ぼおっとしていることなんて全然なくて。」
「疲れない?。」
「うーん。結構、からだも頭も程よく疲労して、よく眠れますよ、乗った夜には。」
「そう。」
「今度、初めて大掛かりなクルーズに出るんです。大掛かり、って言っても瀬戸内一周、って感じなんですけどね。」
「天気がいいといいわね。」
「そうなんです、心配は、それだけ。」
日に焼けた顔は充実した笑顔で、彼女は眩しさに目を逸らす。
あなたは、何でも持っているのね。
若さ、体力、時間。
わたしが、無くしてしまったものたち。
無くしたことに、ふだんは気が付かないけれど、あなたといると、思い知らされるわ。
夢、希望、情熱。
伸び盛りのタクミが春の若葉だとすれば、あなたは夏の若木ね。自分の青さを持て余し、だけど枯れる前に何かを為そうと意気込んでもいる。
わたしは・・・。
わたしは、そんなあなたが眩しくて、とても苦いわ。
あなたを想うと、苦しい。
恋、というのではないだろう。
相手は息子の家庭教師なのだ。
いくら何でもそういうのとは、違う。
彼のことを考えた時に心を過ぎる息苦しさは、多分、いつのまにか無くしてしまったものたちへの郷愁、みたいなものね、きっと。
彼が、沖へ乗り出していくのは明日。
今度家へ来る時には、また一回り大人の男の力をみなぎらせて現れるのだろう。
暑さのせいか、向こう岸の工場地帯がゆらゆらともやって見える。
こちらの埠頭を目指して近付くタンカーの影に、小さなヨットは隠れてしまった。
軽いため息をついて、部屋に入る。
十三階の窓からは瀬戸内の海が見える。
台風一過。
夏が、来た。
中二の息子は部活動の練習に行っていて不在である。彼女は一人で海を眺めながら洗濯物を干している。
空は照り付ける太陽のせいで直視できないほど光り、海は日差しのかけらをいっぱいに浮かべて穏やかに凪いでいる。
ヨットが一艘、沖に浮かんでいる。
「うちの子もいつか、先生みたいに海をめざすのかしらね。」
この前何気なく言ったとき、「先生」と呼ばれている彼は少し笑って、
「タクミはヨットよりも陸でしょう。だって、今も長距離の選手なんだから。」
と、息子の肩を軽く押すようにしていた。
「な、たくみ。」
「うん。」
国立大二回生の彼が家庭教師に来てくれるようになって半年が経つ。
おとなしくて、スポーツ好きな割に余り負けず嫌いでは無い息子には、大勢で競い合いながら伸びていく塾よりも、自宅でじっくりと自分のペースで学ぶことのできる家庭教師の方が向いていたようで、成績は眼にみえて良くなってきている。
息子も、週に二回、「先生」が来るのを楽しみにしている。人見知りのきつい子がなついてくれて、本当に良かった。
「先生」が来てくれるようになって、本当に良かった。母親らしく、そういう月並みな言葉をつかってみる・・・。
彼は、大学ではヨット部に入っているという。
「ここから見ると、沖に浮かぶヨットは優雅で、穏やかに見えるでしょう。」
今、洗濯物を干しているベランダで、彼は海を見つめたまま話していた。
「でも、実際に乗ると、ものすごくハードなんですよ。ぼおっとしていることなんて全然なくて。」
「疲れない?。」
「うーん。結構、からだも頭も程よく疲労して、よく眠れますよ、乗った夜には。」
「そう。」
「今度、初めて大掛かりなクルーズに出るんです。大掛かり、って言っても瀬戸内一周、って感じなんですけどね。」
「天気がいいといいわね。」
「そうなんです、心配は、それだけ。」
日に焼けた顔は充実した笑顔で、彼女は眩しさに目を逸らす。
あなたは、何でも持っているのね。
若さ、体力、時間。
わたしが、無くしてしまったものたち。
無くしたことに、ふだんは気が付かないけれど、あなたといると、思い知らされるわ。
夢、希望、情熱。
伸び盛りのタクミが春の若葉だとすれば、あなたは夏の若木ね。自分の青さを持て余し、だけど枯れる前に何かを為そうと意気込んでもいる。
わたしは・・・。
わたしは、そんなあなたが眩しくて、とても苦いわ。
あなたを想うと、苦しい。
恋、というのではないだろう。
相手は息子の家庭教師なのだ。
いくら何でもそういうのとは、違う。
彼のことを考えた時に心を過ぎる息苦しさは、多分、いつのまにか無くしてしまったものたちへの郷愁、みたいなものね、きっと。
彼が、沖へ乗り出していくのは明日。
今度家へ来る時には、また一回り大人の男の力をみなぎらせて現れるのだろう。
暑さのせいか、向こう岸の工場地帯がゆらゆらともやって見える。
こちらの埠頭を目指して近付くタンカーの影に、小さなヨットは隠れてしまった。
軽いため息をついて、部屋に入る。
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