台風が近付いたときには、ご飯をいつもよりも多目に炊きなさい、と、母は言っていた。
「万が一、停電しても、どこかへ逃げるようなことになっても、ご飯さえあれば、おにぎり作って子供に食べさせられるでしょう。」
だから、今夜のご飯は多い。
ジャーの中に、しゃもじを入れて思い切り力を加えて混ぜる。食べ盛りの息子がいるので、たっぷりいっぱいに炊かれた米から、景気よく湯気が舞い上がる。
今夜から明日朝にかけて、瀬戸内海を縦断するかもしれません。
テレビの東京からの天気予報が告げている。
「植木、入れといたから。」
さっきからベランダにいた夫が、キッチンをのぞきこみ、おかずをチェックする。
「ありがとう。」
「和辻くんは今日、クルーズに出るんじゃ無かったのか。」
「ええ、そうよ。」
平静を装いながら彼女は返答する。
「三時頃、西宮を出るって言ってたけれど。」
「そうか。」
「大丈夫かな。」
そうなのだ。
実は気が気ではないのだ、さっきから。
息子、タクミの家庭教師をしている大学生の和辻は、ヨット部のクルーズで、予定ではさっきハーバーを出たことになっている。
「大丈夫だよ。」
彼女に変わって、タクミが答える。
「悪天候のときには、即中止するって言ってたよ、先生。」
「そうよ、もう今頃は取りやめて家に帰っているわ、きっと。」
そうであって欲しい。
いや、絶対にそうだ。
今日は午後から雨こそ降らなかったものの、風はものすごく強く、海沿いに住む者として強風に慣れているはずの彼女にも、異常なものを感じさせた。
海も、まだそれほど荒れてはいなかったが、いつもならば薄い水色に柔らかな波とうをレースのように従えている海面が、一面灰色がかった濃紺に染まっていて、波はところどころ、からまったレース糸のように渦を巻いて盛り上がっていた。
「まあ、取りやめたんやろうけどな。」
夫が手を洗って冷蔵庫を開ける。
「無謀なところがあったからな、あの子には。」
彼女はその言葉につまずく。
・・・あった、なんて、過去形で言わないでよ。
無謀なところが、ある、でしょう。
でも口には出さない。
金切り声になりそうで。
不安だ。
若さは無謀だ。
いくらなんでも、大学生なのだ。地元の海だし、そう無理をするはずがない。
そうは思っても、力強さを増してサッシ窓を叩き始めた風が、不安を煽り立てる。
ついこの前も台風はやって来た。直撃されることは無かったが、こうして夜が更けていくのに合わせるように、風は強まり、雨は屋根の無いマンションにも関わらず大きな音を立てて降り落ちて来た。
でも、今夜ほどの不安は感じなかった。
彼が、海に出るなんて言ってたから。
どこか、安全な場所にいるのに違いないのだ。
でも、どうしても無事を知るまでは眠れない。
何度も寝返りを打つ彼女に夫は、
「大丈夫、この位の台風でどうにかなるようなマンションやないで。」
と、そんなことを言い、
「それとも、お前、まだ和辻くんのこの気になるんかいな。」
と続けてくる。胸がドキン、と打つのが分かる。
「・・・そんなんやったら、タクミは絶対ヨットやら登山やらはさせられへんな。」
「そうね。」
そういうこと、にしておこう。
息子を気遣うように、和辻を気遣っている。
そういう、ことに。
夫の大あくびが聞こえて、なぜだか泣きたくなる。
そして、三日後。
和辻は、いつもどうりにやって来た。
「ええ、もう、朝から中止が決まっちゃいました。仕方ないですよ。そういうものだから。」
「そうね、またこれからも機会はいっぱいあるんだから。夏休みは長いし。」
「ええ、そうです、またチャレンジです。」
日に焼けた顔が大きく笑った。そして、
「おおい、タクミ、お前もチャレンジやぞ。勝負の夏休みなんやから。」
冗談めかして大きな声を出し、息子の部屋に消える。
猫じゃらしおいで、おいでの夏休み
なぜか、うっすら湧き出た涙を、エプロンのすそでやわらかくぬぐった。
「万が一、停電しても、どこかへ逃げるようなことになっても、ご飯さえあれば、おにぎり作って子供に食べさせられるでしょう。」
だから、今夜のご飯は多い。
ジャーの中に、しゃもじを入れて思い切り力を加えて混ぜる。食べ盛りの息子がいるので、たっぷりいっぱいに炊かれた米から、景気よく湯気が舞い上がる。
今夜から明日朝にかけて、瀬戸内海を縦断するかもしれません。
テレビの東京からの天気予報が告げている。
「植木、入れといたから。」
さっきからベランダにいた夫が、キッチンをのぞきこみ、おかずをチェックする。
「ありがとう。」
「和辻くんは今日、クルーズに出るんじゃ無かったのか。」
「ええ、そうよ。」
平静を装いながら彼女は返答する。
「三時頃、西宮を出るって言ってたけれど。」
「そうか。」
「大丈夫かな。」
そうなのだ。
実は気が気ではないのだ、さっきから。
息子、タクミの家庭教師をしている大学生の和辻は、ヨット部のクルーズで、予定ではさっきハーバーを出たことになっている。
「大丈夫だよ。」
彼女に変わって、タクミが答える。
「悪天候のときには、即中止するって言ってたよ、先生。」
「そうよ、もう今頃は取りやめて家に帰っているわ、きっと。」
そうであって欲しい。
いや、絶対にそうだ。
今日は午後から雨こそ降らなかったものの、風はものすごく強く、海沿いに住む者として強風に慣れているはずの彼女にも、異常なものを感じさせた。
海も、まだそれほど荒れてはいなかったが、いつもならば薄い水色に柔らかな波とうをレースのように従えている海面が、一面灰色がかった濃紺に染まっていて、波はところどころ、からまったレース糸のように渦を巻いて盛り上がっていた。
「まあ、取りやめたんやろうけどな。」
夫が手を洗って冷蔵庫を開ける。
「無謀なところがあったからな、あの子には。」
彼女はその言葉につまずく。
・・・あった、なんて、過去形で言わないでよ。
無謀なところが、ある、でしょう。
でも口には出さない。
金切り声になりそうで。
不安だ。
若さは無謀だ。
いくらなんでも、大学生なのだ。地元の海だし、そう無理をするはずがない。
そうは思っても、力強さを増してサッシ窓を叩き始めた風が、不安を煽り立てる。
ついこの前も台風はやって来た。直撃されることは無かったが、こうして夜が更けていくのに合わせるように、風は強まり、雨は屋根の無いマンションにも関わらず大きな音を立てて降り落ちて来た。
でも、今夜ほどの不安は感じなかった。
彼が、海に出るなんて言ってたから。
どこか、安全な場所にいるのに違いないのだ。
でも、どうしても無事を知るまでは眠れない。
何度も寝返りを打つ彼女に夫は、
「大丈夫、この位の台風でどうにかなるようなマンションやないで。」
と、そんなことを言い、
「それとも、お前、まだ和辻くんのこの気になるんかいな。」
と続けてくる。胸がドキン、と打つのが分かる。
「・・・そんなんやったら、タクミは絶対ヨットやら登山やらはさせられへんな。」
「そうね。」
そういうこと、にしておこう。
息子を気遣うように、和辻を気遣っている。
そういう、ことに。
夫の大あくびが聞こえて、なぜだか泣きたくなる。
そして、三日後。
和辻は、いつもどうりにやって来た。
「ええ、もう、朝から中止が決まっちゃいました。仕方ないですよ。そういうものだから。」
「そうね、またこれからも機会はいっぱいあるんだから。夏休みは長いし。」
「ええ、そうです、またチャレンジです。」
日に焼けた顔が大きく笑った。そして、
「おおい、タクミ、お前もチャレンジやぞ。勝負の夏休みなんやから。」
冗談めかして大きな声を出し、息子の部屋に消える。
猫じゃらしおいで、おいでの夏休み
なぜか、うっすら湧き出た涙を、エプロンのすそでやわらかくぬぐった。
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