カボテイーヌ(香水)
2002年8月2日 みじかいお話カフエの風ふとかき回すカボテイーヌ
コーヒーを受け取って店外に出たものの、あいにく席は埋まっていた。
やはりテイクアウト用にし直してもらおうか、トレイ片手に茫然としていると、
「ここ、もうすぐ空きますから・・・。」
控えめな声がした。
「あ、そうですか。ありがとう。」
声のした方にお礼を言いながら身体を向け直すと、OL風の女が一人で座っているのが目に入った。でも、冷たい飲み物用のカップの中には、まだかなりの量の飲み物が残っている。
「いいんですか。」
「ええ。・・・わたしは、相席でも構わないんですけれど。」
二十代後半から三十代といったところか。うす緑色の麻のスーツを着こなし、栗色の髪を後ろでひとつにまとめている。傍らにはベージュのアタッシュケース。
「会社帰りですか。」
「ええ。あなたも。」
「はい、そうです。」
向かい合わせに座りながら、真一は少しときめいていた。仕事以外で若い女と話をすることなど、考えてみれば随分と久しぶりである。
しかも、なかなかの美女だ・・・。
「・・・これから帰るところなんですか?。」
シロップを入れないアイスコーヒーを一口味わってから、目の前の女をもう一度さりげなく観察してみる。真一には横顔をむけ、広場の方に目をやっている。近眼なのか、やや細めた目は切れ長で格別大きさを強調した化粧が施されている風でも無いのに、印象深い力をたたえている。
「・・・わたしですか?はい。あ、いいえ、今日は早めに会社を出て、これから映画を見ようと思っていたんですけれど。」
女の顔が少し翳った。
「約束していた人が来られなくなっちゃって。」
「じゃあ、おひとりで。」
「そうですね、チケット、もったいないし。」
もう少し若ければ、そう、たとえば、あと十才若ければ、誘いをかけてみるのだがなあ、と思う。四十二にしてはスリムで髪の毛も豊富にあると思ってはいても、やはりここまで若い美女に誘いをかけるのには勇気がいる。
隣りのテーブルでガタガタと椅子を動かす音がして、ベビーカーを押した集団が出て行く。子供たちの泣き声、笑い声、母親たちのおしゃべりがいっぺんに遠のく。
見回すと、かなりの親子連れがいる。夕方になり、これから帰途に着くのだろう。夏休み中である。
「ここには、よく?。」
今度は逆に真一が聞かれる。
「いや、ほとんど。・・・近所に住んでるんですけど、いや、だから、かな。テイクアウトで持って帰ることがほとんどです。今日は出張帰りで早いから、一杯飲んで帰ろうかな、と。」
「一杯?コーヒーを?。」
「ははは、そうです。アルコールは家でゆっくりやりますよ。」
「そう、ですよね。」
なぜか女の顔が少し曇り、真一は慌てる。
「そう、ですよね。みんな普通は家庭があるんだわ。」
もしかしたら、悪いことを言ってしまったのだろうか。
「いや、家っていっても、決して居心地がいいというわけでもないんですけど・・・。息子もえらい大きいなってしもうたし・・・。」
うろたえて関西弁になった。神戸というのは他の関西の地域に比べてあまり抑揚の強い関西弁を話さない。だから、標準語と関西弁とがひとつの会話の中でちゃんと同居しているのだ。
「あ、ごめんなさい、わたし、どうかしてるんやわ。初対面の人にいらんこと言うて。
実は、映画に行く筈だったのは、付き合ってる人、だったんですけど。」
「・・・はあ。」
「夕べ、メールでケンカしてしまって。もうそれきり電話にも出えへんのです。」
メールを使用してのケンカ、というのが真一にはよく分からない。
「それで、もうなんていうか、別れてしもてもいいわ、みたいな気持ちになってて。」
うつむき加減になり、緑色のストローを細い指で弄びながら女は語った。
相手の男は六才年下で、町で出会ったのだという。
三ヶ月ばかり付き合い、それなりに楽しい時間を過ごしてきたけれど、どうしても六つの年令差を忘れることができない。しかも、女のかげがちらつくように思われて、さりげなく聞いてみたところ、やはり元の彼女が忘れられないような気がする、という答えだったのだという。
「そやからわたしね、年下の男に捨てられた、みたいなことになってるの。」
寂しげな顔だった。
男なら、こういうとき、やはり口説くことを考えてしまうものだ・・・真一は勇気を出すことにした。
「・・・何言うてるんや。あんな、そういうふうに思うたらあかんねん。
手練手管に長けた女が退いてやったんや、くらいに強気になろうや。そんなにきれいなんやし。」
「きれい?わたしが。」
「そうや。・・・もし良かったら、ぼくがその映画、ご一緒しましょうか。」
口に出してから、何の映画なのか気になったが、まあどうでもいい。
「まあ。」
「あなたみたいな人と行けるのなら本望やし。」
女の、大きく見開かれた目が、真一を捉えた。
「よろしいんですか。」
「はい、もちろん。」
こういう展開になるとは思ってもみなかった。
カップを片付け、
「さあ。」
女をうながしたとき、ふと香って来た香水。
カボテイーヌ。
なぜその名前を知っているかというと、かつて妻が愛用していたからである。まだ二人してベッドに倒れ込むのが日課であった頃・・・。
「・・・どうしたんですか?。」
「いや、なんでもない、行きましょう。」
真一は軽く頭を振るようにして、映画館へ続くエレベーターを目指す。
コーヒーを受け取って店外に出たものの、あいにく席は埋まっていた。
やはりテイクアウト用にし直してもらおうか、トレイ片手に茫然としていると、
「ここ、もうすぐ空きますから・・・。」
控えめな声がした。
「あ、そうですか。ありがとう。」
声のした方にお礼を言いながら身体を向け直すと、OL風の女が一人で座っているのが目に入った。でも、冷たい飲み物用のカップの中には、まだかなりの量の飲み物が残っている。
「いいんですか。」
「ええ。・・・わたしは、相席でも構わないんですけれど。」
二十代後半から三十代といったところか。うす緑色の麻のスーツを着こなし、栗色の髪を後ろでひとつにまとめている。傍らにはベージュのアタッシュケース。
「会社帰りですか。」
「ええ。あなたも。」
「はい、そうです。」
向かい合わせに座りながら、真一は少しときめいていた。仕事以外で若い女と話をすることなど、考えてみれば随分と久しぶりである。
しかも、なかなかの美女だ・・・。
「・・・これから帰るところなんですか?。」
シロップを入れないアイスコーヒーを一口味わってから、目の前の女をもう一度さりげなく観察してみる。真一には横顔をむけ、広場の方に目をやっている。近眼なのか、やや細めた目は切れ長で格別大きさを強調した化粧が施されている風でも無いのに、印象深い力をたたえている。
「・・・わたしですか?はい。あ、いいえ、今日は早めに会社を出て、これから映画を見ようと思っていたんですけれど。」
女の顔が少し翳った。
「約束していた人が来られなくなっちゃって。」
「じゃあ、おひとりで。」
「そうですね、チケット、もったいないし。」
もう少し若ければ、そう、たとえば、あと十才若ければ、誘いをかけてみるのだがなあ、と思う。四十二にしてはスリムで髪の毛も豊富にあると思ってはいても、やはりここまで若い美女に誘いをかけるのには勇気がいる。
隣りのテーブルでガタガタと椅子を動かす音がして、ベビーカーを押した集団が出て行く。子供たちの泣き声、笑い声、母親たちのおしゃべりがいっぺんに遠のく。
見回すと、かなりの親子連れがいる。夕方になり、これから帰途に着くのだろう。夏休み中である。
「ここには、よく?。」
今度は逆に真一が聞かれる。
「いや、ほとんど。・・・近所に住んでるんですけど、いや、だから、かな。テイクアウトで持って帰ることがほとんどです。今日は出張帰りで早いから、一杯飲んで帰ろうかな、と。」
「一杯?コーヒーを?。」
「ははは、そうです。アルコールは家でゆっくりやりますよ。」
「そう、ですよね。」
なぜか女の顔が少し曇り、真一は慌てる。
「そう、ですよね。みんな普通は家庭があるんだわ。」
もしかしたら、悪いことを言ってしまったのだろうか。
「いや、家っていっても、決して居心地がいいというわけでもないんですけど・・・。息子もえらい大きいなってしもうたし・・・。」
うろたえて関西弁になった。神戸というのは他の関西の地域に比べてあまり抑揚の強い関西弁を話さない。だから、標準語と関西弁とがひとつの会話の中でちゃんと同居しているのだ。
「あ、ごめんなさい、わたし、どうかしてるんやわ。初対面の人にいらんこと言うて。
実は、映画に行く筈だったのは、付き合ってる人、だったんですけど。」
「・・・はあ。」
「夕べ、メールでケンカしてしまって。もうそれきり電話にも出えへんのです。」
メールを使用してのケンカ、というのが真一にはよく分からない。
「それで、もうなんていうか、別れてしもてもいいわ、みたいな気持ちになってて。」
うつむき加減になり、緑色のストローを細い指で弄びながら女は語った。
相手の男は六才年下で、町で出会ったのだという。
三ヶ月ばかり付き合い、それなりに楽しい時間を過ごしてきたけれど、どうしても六つの年令差を忘れることができない。しかも、女のかげがちらつくように思われて、さりげなく聞いてみたところ、やはり元の彼女が忘れられないような気がする、という答えだったのだという。
「そやからわたしね、年下の男に捨てられた、みたいなことになってるの。」
寂しげな顔だった。
男なら、こういうとき、やはり口説くことを考えてしまうものだ・・・真一は勇気を出すことにした。
「・・・何言うてるんや。あんな、そういうふうに思うたらあかんねん。
手練手管に長けた女が退いてやったんや、くらいに強気になろうや。そんなにきれいなんやし。」
「きれい?わたしが。」
「そうや。・・・もし良かったら、ぼくがその映画、ご一緒しましょうか。」
口に出してから、何の映画なのか気になったが、まあどうでもいい。
「まあ。」
「あなたみたいな人と行けるのなら本望やし。」
女の、大きく見開かれた目が、真一を捉えた。
「よろしいんですか。」
「はい、もちろん。」
こういう展開になるとは思ってもみなかった。
カップを片付け、
「さあ。」
女をうながしたとき、ふと香って来た香水。
カボテイーヌ。
なぜその名前を知っているかというと、かつて妻が愛用していたからである。まだ二人してベッドに倒れ込むのが日課であった頃・・・。
「・・・どうしたんですか?。」
「いや、なんでもない、行きましょう。」
真一は軽く頭を振るようにして、映画館へ続くエレベーターを目指す。
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