夕べかかってきた電話のことが頭から離れない。
そもそも、言いたいことがあると、こっちの都合など二の次で喋りまくる女だった。それはもう、知り合った短大時代からのことだから分かっているのだけれど。
「それでね、網戸の修理、どうしたらいいと思う?。」
彼女は甘えたような声。
わたしは、さあ、とだけ答える。時計を見るともう六時に近い。息子が帰って来るまでに夕食の仕度をしなくては。
「そろそろ、食事の仕度の時間だし・・・。」
「あら、食事の仕度は、いいの。今日、主人、いらないらしいから、晩ご飯。」
そっちはいらなくても、こっちはいるのよ。
そう言いたいけれど言えないのが自分でも嫌な自分の性格である。
いえね、わたしも、潮時かなって気はするのよ。
大体、息子の家庭教師でしょう?幾つ違うと思う?一回りよ、一回り。そういう男と、こういうことになっちゃって。
こういうこと、ってあなた、そのひとと、寝た、ってわけ?不倫なの?
え?ああ、そうね、いつのまにか・・・。そういうことになったの。若いって素晴らしいわよ。汗が背中の上で弾けるの。主人ではそうはいかないもの。
・・・あなただって弾けないでしょうに。
え?何?あなたの声、よく聞こえないわ。
とにかく、わたしたち、息子の留守中に、しのび逢うようになったの。お昼よ、お昼。え?そうね、リビングよ。あなたも一度来たことあるでしょ。あの東向きの部屋。
ところが昨日、なぜか主人が帰って来ちゃったのよ。真っ昼間に。忘れた書類を取りに戻った、なんてね。
車庫のシャッターが上がる音がしたときにはもう、生きたここちがしなかったわ。幸い、まだ服はちゃんと着てたけれど・・・もちろん、二人とも。
でも、慌てちゃって、何をどうしてよいやら分からなくなっちゃって、パニクりながらも、彼の靴を縁側にまで持って来た瞬間、玄関の鍵が開く、かちゃっ、ていう音がして・・・。
きゃあ。
声にならない叫びがのどの奥であがったわ。
そして、彼がいきなり網戸を両手で引き破ったのと、主人が靴を脱いだのとがほぼ同時。
で、彼は無事脱出できたの。
ええ。破った網戸の隙間から。
じゃ、ご主人は網戸が破れている理由をあなたに聞いたよね?。
うん。
なんて答えたの。
すべってしりもちをついて、はずみで破った、って。
彼女は色白で小太りだ。あの大きなお尻なら網戸の一枚やそこら、一突きで破るだろう。
もちろん、そう口には出さない。
表向き、その網戸の修理法・・・愛人が破ってしまった網戸をどう直したらいいでしょうか、ということで電話してきたことになっていた。
でも、本当に言いたかったのは、
あたしには愛人がいるのよ。
一回りも年下の、カワイイ大学生。
と、いうことなのだ。
和辻のことが、頭をよぎる。
自分にも息子がいて、その息子の家庭教師のこと。
ヨットに夢中の大学生。よく日に焼けている、いきいきした笑顔。あのシャツに隠されている背中だって、じゅうぶん汗を弾いてきらめかせるだろう・・・。
ただ、彼女と違うのはわたしがあのシャツを脱がせることは無い、ということだわ。
わたしには、分別があるもの。
分別。
それは、不倫をしてはいけない、というような生真面目なものではない。
最早、汗も涙も弾かないであろう自分のたるんだ肌を、若い男の目にさらしたくない、という、それだけの分別。
あの年頃の男の子なら、少しけしかけただけでベッドに持ち込めるだろうけれど。
同い年の、大してきれいでもない友人に若い恋人がいるという事実を、そういう風にとらえながら、彼女は考える。
寝たら、みじめなだけだわ。十年前のわたしならともかく。
このところ、夫とのことも途絶えているのに。
夫が今でもベッドの上のことをのぞんでいるのかも分からない。もちろん、自分にもその気は、無い。
何気なく寝室を見る。
エアコンの入っている部屋の扉は閉じられている。
夕べ、急な泊り出張が入ったから、疲れて眠っているらしい。あまり昼寝しすぎるとまた夜寝付けなくなるのに。
彼女は、無意識にため息をついて、夫が朝方脱ぎ捨てたスーツを手にとり、風をあてようと持ち上げた。
そのとき。
不思議なことに気が付く。
電車の匂いがしない。
九州から新幹線で帰って来ると、必ず電車特有の匂いがするのに・・・シートの布の匂い、しみついた煙草の匂い、乗り物くささ・・・それが感じられない。
なぜ?
夫は本当に新幹線に乗ったのだろうか?。
匂わないスーツを片手にぶらさげて、彼女は茫然と外を見る。
炎昼。
遠くには、海。でも、今、目が行くのはマンション中庭の、ぎらぎら太陽が照り付けている場所だ。
炎昼に草むら白く燃えてあり
夕べ、それではあなたはどこにいたの?。
昼寝をしている平和な顔に、聞いてみようか。
それとも。
彼女の頭に和辻の広い背中が浮かぶ。
それとも・・・。
そもそも、言いたいことがあると、こっちの都合など二の次で喋りまくる女だった。それはもう、知り合った短大時代からのことだから分かっているのだけれど。
「それでね、網戸の修理、どうしたらいいと思う?。」
彼女は甘えたような声。
わたしは、さあ、とだけ答える。時計を見るともう六時に近い。息子が帰って来るまでに夕食の仕度をしなくては。
「そろそろ、食事の仕度の時間だし・・・。」
「あら、食事の仕度は、いいの。今日、主人、いらないらしいから、晩ご飯。」
そっちはいらなくても、こっちはいるのよ。
そう言いたいけれど言えないのが自分でも嫌な自分の性格である。
いえね、わたしも、潮時かなって気はするのよ。
大体、息子の家庭教師でしょう?幾つ違うと思う?一回りよ、一回り。そういう男と、こういうことになっちゃって。
こういうこと、ってあなた、そのひとと、寝た、ってわけ?不倫なの?
え?ああ、そうね、いつのまにか・・・。そういうことになったの。若いって素晴らしいわよ。汗が背中の上で弾けるの。主人ではそうはいかないもの。
・・・あなただって弾けないでしょうに。
え?何?あなたの声、よく聞こえないわ。
とにかく、わたしたち、息子の留守中に、しのび逢うようになったの。お昼よ、お昼。え?そうね、リビングよ。あなたも一度来たことあるでしょ。あの東向きの部屋。
ところが昨日、なぜか主人が帰って来ちゃったのよ。真っ昼間に。忘れた書類を取りに戻った、なんてね。
車庫のシャッターが上がる音がしたときにはもう、生きたここちがしなかったわ。幸い、まだ服はちゃんと着てたけれど・・・もちろん、二人とも。
でも、慌てちゃって、何をどうしてよいやら分からなくなっちゃって、パニクりながらも、彼の靴を縁側にまで持って来た瞬間、玄関の鍵が開く、かちゃっ、ていう音がして・・・。
きゃあ。
声にならない叫びがのどの奥であがったわ。
そして、彼がいきなり網戸を両手で引き破ったのと、主人が靴を脱いだのとがほぼ同時。
で、彼は無事脱出できたの。
ええ。破った網戸の隙間から。
じゃ、ご主人は網戸が破れている理由をあなたに聞いたよね?。
うん。
なんて答えたの。
すべってしりもちをついて、はずみで破った、って。
彼女は色白で小太りだ。あの大きなお尻なら網戸の一枚やそこら、一突きで破るだろう。
もちろん、そう口には出さない。
表向き、その網戸の修理法・・・愛人が破ってしまった網戸をどう直したらいいでしょうか、ということで電話してきたことになっていた。
でも、本当に言いたかったのは、
あたしには愛人がいるのよ。
一回りも年下の、カワイイ大学生。
と、いうことなのだ。
和辻のことが、頭をよぎる。
自分にも息子がいて、その息子の家庭教師のこと。
ヨットに夢中の大学生。よく日に焼けている、いきいきした笑顔。あのシャツに隠されている背中だって、じゅうぶん汗を弾いてきらめかせるだろう・・・。
ただ、彼女と違うのはわたしがあのシャツを脱がせることは無い、ということだわ。
わたしには、分別があるもの。
分別。
それは、不倫をしてはいけない、というような生真面目なものではない。
最早、汗も涙も弾かないであろう自分のたるんだ肌を、若い男の目にさらしたくない、という、それだけの分別。
あの年頃の男の子なら、少しけしかけただけでベッドに持ち込めるだろうけれど。
同い年の、大してきれいでもない友人に若い恋人がいるという事実を、そういう風にとらえながら、彼女は考える。
寝たら、みじめなだけだわ。十年前のわたしならともかく。
このところ、夫とのことも途絶えているのに。
夫が今でもベッドの上のことをのぞんでいるのかも分からない。もちろん、自分にもその気は、無い。
何気なく寝室を見る。
エアコンの入っている部屋の扉は閉じられている。
夕べ、急な泊り出張が入ったから、疲れて眠っているらしい。あまり昼寝しすぎるとまた夜寝付けなくなるのに。
彼女は、無意識にため息をついて、夫が朝方脱ぎ捨てたスーツを手にとり、風をあてようと持ち上げた。
そのとき。
不思議なことに気が付く。
電車の匂いがしない。
九州から新幹線で帰って来ると、必ず電車特有の匂いがするのに・・・シートの布の匂い、しみついた煙草の匂い、乗り物くささ・・・それが感じられない。
なぜ?
夫は本当に新幹線に乗ったのだろうか?。
匂わないスーツを片手にぶらさげて、彼女は茫然と外を見る。
炎昼。
遠くには、海。でも、今、目が行くのはマンション中庭の、ぎらぎら太陽が照り付けている場所だ。
炎昼に草むら白く燃えてあり
夕べ、それではあなたはどこにいたの?。
昼寝をしている平和な顔に、聞いてみようか。
それとも。
彼女の頭に和辻の広い背中が浮かぶ。
それとも・・・。
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