月今宵舞い降りて来いくちびるに
決して、愛している、とは言ってもらえなかった。
濃密なキスと、愛撫とで彩られた季節たち。
今思い出しても目眩がしてしまうほどの、甘美で、いやらしくて、熱っぽい日々。
あたしたちの、そういう相性はとても良かったのだと思う。
彼が一回り年上で、一度結婚していたということが、わたしに、そういう見知らぬ快楽をもたらすのだろう。あの真っ只中にいたときにはそう思ったけれど、違うのだ、たぶん。
あたしたちは、そういうことに、とても恵まれた一組だったのだ。
過ぎてしまわなければ、終わってしまわなければ、分からない真実というものがある。
仕事のできる男だった。
銀行員にとって、実は、「バツイチ」というのはとても不利、という時代だった。
家庭生活において、きちんとしていない人間に、人様の資産は預かれない、というのが当時の社会常識だった。今でもそれは変わらないのかもしれないが、「離婚した」ということが「きちんとしていない」ということに、ダイレクトに結びついていたという点で社会の受け止め方は、離婚経験者にとても厳しかったと思う。
彼は、自分に貼られた不利なレッテルを意地になって剥がそうともせず、かといって無意識に振る舞う、というのでもなく、飄々と業務をこなし、信頼を得ていた。
明るくて、話上手で、酒につよくて。
ほどほどに自意識過剰で、ほどほどに腰が低くて。
そして、これ、といった女に手が早かった。
あたしが「彼の女」になったのは、部下になったその日の夕方。
秋の始め。
月のきれいな夜になりそうだった。
残業が一区切りして、給湯室でコーヒーを煎れていたときに、ふいにくちびるを奪われた。
本日からお世話になります、と転勤始めのあいさつを聞いて、まだ九時間ばかり。
どうして。
驚いたあたしに、
わかってたんだろ。
と、答えた。
柔らかなまどろみと、激しい苦しみとに呑み込まれた季節の、はじまり。
愛している。
と言ったのは、あたしが先だった。
恋に勝ち負けがあるとしたら、完敗だった。
年上の上司との恋は、いつも破滅を匂わせている。
離婚歴が男の出世の妨げになるとしたら、恋愛の失敗が表沙汰になることは、女の結婚の妨げになる。そういう時代だった。
それでも、恋した。ひたすらに。
そして、まるで、乾いたのどが水を求めるように、言葉を求めてうめき続けた。
愛している、と言って。
お願い。
いつも笑って、キスと愛撫を与えられた。
すきだよ、いちばん。
完全に見返りを期待しないで相手のことを思えるようになれなければ、オレは愛している、とは言わない。
見返り。
そう。
ほんの少しでも、こんなに想っているのだから、お前も何か返してくれ、というような気持ちがあれば、駄目なんだ。そういうのは、愛じゃない。
あたしは、あなたに、見返りなんか求めない。
そう?。ほんとうに?。
ええ。
・・・ありがたいけど、違うと思うよ。
・・・じゃあ、あなたは、今まで愛しているって感じたひとはいないの?。
ひとりだけ、いるよ。
それは・・・女のひとよね?。
そう。女。たぶん、生涯であいつだけ、だよ。
そして、この言葉が、あたしをこの恋から引き下がらせた。
かつて、愛している、と言った相手。
それが、かつて妻だった女だと、何の疑いもなく思い込んでしまった・・・。
あたしを奥さんに選んでくれたのは、全身人畜無害、といった風情の、ちょっと太めの同い年の男だった。
すぐに子供が生まれ、一人では無くて、もう一人、と子供が増えて、あたしは恋する女では無くなった。肩までの髪を一つにまとめて、童謡を口ずさみながら子供のお弁当をこしらえる、いいおかあちゃんになった、と思う。
夕べ。
洗濯ものを取り込もうとして空を何気なくみあげたとき、ふいに、あの頃のことが胸をよぎった。そして、小さな息子のシャツを手にしたとたん、思い当たった。
彼が。
決して、愛していると口にしなかった男が生涯、たったひとりだけ愛している、と思ったという女。
それは・・・もしかしたら・・・。
もしかしたら、それは、彼の娘、ではなかっただろうか。
別れた妻とのあいだにできた女の子は、妻のもとで育てられている、と聞いていた。
何ひとつ見返りを求めず、与えることしか考えない、そんな気持ち。
愛している、という言葉は、永遠に彼の娘だけに捧げられた言葉、だったのかもしれない。
「おかあさあん、お月様、出た?。」
「うさぎさん、いる?。」
子供たちの声がして、あたしは半分、現実に戻る。
決して、愛している、とは言ってもらえなかった。
濃密なキスと、愛撫とで彩られた季節たち。
今思い出しても目眩がしてしまうほどの、甘美で、いやらしくて、熱っぽい日々。
あたしたちの、そういう相性はとても良かったのだと思う。
彼が一回り年上で、一度結婚していたということが、わたしに、そういう見知らぬ快楽をもたらすのだろう。あの真っ只中にいたときにはそう思ったけれど、違うのだ、たぶん。
あたしたちは、そういうことに、とても恵まれた一組だったのだ。
過ぎてしまわなければ、終わってしまわなければ、分からない真実というものがある。
仕事のできる男だった。
銀行員にとって、実は、「バツイチ」というのはとても不利、という時代だった。
家庭生活において、きちんとしていない人間に、人様の資産は預かれない、というのが当時の社会常識だった。今でもそれは変わらないのかもしれないが、「離婚した」ということが「きちんとしていない」ということに、ダイレクトに結びついていたという点で社会の受け止め方は、離婚経験者にとても厳しかったと思う。
彼は、自分に貼られた不利なレッテルを意地になって剥がそうともせず、かといって無意識に振る舞う、というのでもなく、飄々と業務をこなし、信頼を得ていた。
明るくて、話上手で、酒につよくて。
ほどほどに自意識過剰で、ほどほどに腰が低くて。
そして、これ、といった女に手が早かった。
あたしが「彼の女」になったのは、部下になったその日の夕方。
秋の始め。
月のきれいな夜になりそうだった。
残業が一区切りして、給湯室でコーヒーを煎れていたときに、ふいにくちびるを奪われた。
本日からお世話になります、と転勤始めのあいさつを聞いて、まだ九時間ばかり。
どうして。
驚いたあたしに、
わかってたんだろ。
と、答えた。
柔らかなまどろみと、激しい苦しみとに呑み込まれた季節の、はじまり。
愛している。
と言ったのは、あたしが先だった。
恋に勝ち負けがあるとしたら、完敗だった。
年上の上司との恋は、いつも破滅を匂わせている。
離婚歴が男の出世の妨げになるとしたら、恋愛の失敗が表沙汰になることは、女の結婚の妨げになる。そういう時代だった。
それでも、恋した。ひたすらに。
そして、まるで、乾いたのどが水を求めるように、言葉を求めてうめき続けた。
愛している、と言って。
お願い。
いつも笑って、キスと愛撫を与えられた。
すきだよ、いちばん。
完全に見返りを期待しないで相手のことを思えるようになれなければ、オレは愛している、とは言わない。
見返り。
そう。
ほんの少しでも、こんなに想っているのだから、お前も何か返してくれ、というような気持ちがあれば、駄目なんだ。そういうのは、愛じゃない。
あたしは、あなたに、見返りなんか求めない。
そう?。ほんとうに?。
ええ。
・・・ありがたいけど、違うと思うよ。
・・・じゃあ、あなたは、今まで愛しているって感じたひとはいないの?。
ひとりだけ、いるよ。
それは・・・女のひとよね?。
そう。女。たぶん、生涯であいつだけ、だよ。
そして、この言葉が、あたしをこの恋から引き下がらせた。
かつて、愛している、と言った相手。
それが、かつて妻だった女だと、何の疑いもなく思い込んでしまった・・・。
あたしを奥さんに選んでくれたのは、全身人畜無害、といった風情の、ちょっと太めの同い年の男だった。
すぐに子供が生まれ、一人では無くて、もう一人、と子供が増えて、あたしは恋する女では無くなった。肩までの髪を一つにまとめて、童謡を口ずさみながら子供のお弁当をこしらえる、いいおかあちゃんになった、と思う。
夕べ。
洗濯ものを取り込もうとして空を何気なくみあげたとき、ふいに、あの頃のことが胸をよぎった。そして、小さな息子のシャツを手にしたとたん、思い当たった。
彼が。
決して、愛していると口にしなかった男が生涯、たったひとりだけ愛している、と思ったという女。
それは・・・もしかしたら・・・。
もしかしたら、それは、彼の娘、ではなかっただろうか。
別れた妻とのあいだにできた女の子は、妻のもとで育てられている、と聞いていた。
何ひとつ見返りを求めず、与えることしか考えない、そんな気持ち。
愛している、という言葉は、永遠に彼の娘だけに捧げられた言葉、だったのかもしれない。
「おかあさあん、お月様、出た?。」
「うさぎさん、いる?。」
子供たちの声がして、あたしは半分、現実に戻る。
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