月白

2002年9月24日 みじかいお話
妊娠したことが、わかった。
喜ぶ夫の顔が目に浮かぶ。
わたしが嬉しくないのか、というと、断じてそんなことは無い。
とても、嬉しい。もう、三十才はとうに過ぎているし。今生まなければ、生めなくなる。だから、嬉しい。
でも、手放しで喜ぶという気持ちにはならない。
欲しくなかったわけではないけれど・・・どうしてだろう。
ひとつには、この気分の悪さ。
ツワリ、ってやつである。ずううっと続く二日酔い状態。寝ても、覚めても。あるいは、絶対に降りられない航海で船酔いを体験したら、こんな感じなんだろうか。いつ果てるともしれない、むかつき。
わたしは、この気分の悪さを体調のせいにしようと、思う。
でなければ、いけない。

仕事のこともある。
今、ようやく開発した製品が市場に出る頃、この子は生まれる。
つまり、仕事の努力がようやく日の目を見、開発グループがはなやいでいるその場に、その開発グループの中心にいたわたしがいない、ということだ。
とりたてて出世欲が強い方だとは思っていなかったけれど、つまらない。こんなときにリタイヤ、なんて。
リタイヤしなくてもいい、育休取って、復帰すれば、っていう意見もあるだろう。
でも、子供がいれば、今までのように、無茶な残業・・・徹夜に近いこととか・・・は、到底できない。夕方、そそくさと帰宅の準備をし、研究に没頭している同僚たちに向かって、お先にー、なんて言っちゃって。いやだ、そんなのは、わたしの仕事の仕方では無い。
そんなテキトーな仕事をするくらいならば、もう辞める。徹底してやるか、すっぱりやめるか、それがわたしの仕事の仕方、ってもんだ。
だから夫は今夜、ふたつの「グッドニュース」を与えられることになる。
妻の、妊娠。
妻の、退職。
もう何年も彼が望んでいたことだ。

結婚したときには、家事は両立する、という話だったのに、なぜだかいつもわたしが料理をこしらえ、洗濯をしている。
最も、食事のことは仕事が立て込んでくればお互いに外食するのだし、クリーニングの利用も多いから、大きなことは言えない。だが休日の家事はすべてわたしが担当である。
彼はそれが最初から当然、といった感じだった。
稼ぎ、という点でわたしの方が劣っていれば、まあ黙っていたかもしれない。でも、二人の稼ぎはほとんど同額である。それが、どうして、二人分の家事をこっちが一人でこなさなければならないのか。
で、喧嘩になった。
そして夫は、しぶしぶ家事を分担するようになったのではあるが・・・。


これが、てんでものにならないのである。
皿を洗えば、皿しか洗わず、汚れた鍋はそのまま放置。
洗濯ものを干せばピンチの止めかたが不十分で、ベランダから干したものが無くなってしまう。
ゴミを出せば、生ゴミだけ出すのを忘れる。
そういったことの繰り返しで、いちいち注意するのもあほらしくなり、もう自分がやった方が早いし確実、ということになった。
学生時代に自炊していた、ということにだまされた。
結婚したら共働きをしようと考えている女性には、くれぐれも言いたい。
母親が専業主婦だった、という男には気を付けろ、と。

今日は、産婦人科に行くために早退した。
妊娠を「宣告」した医者は無表情で、
「どうします?生みますか。」
と、言った。
わたしはそんなに衝撃的な表情をしていたのだろうか。
それとも、わたしのような年格好の女で、妊娠を望まない、というのがそんなに多くいるのだろうか。
吐き気をこらえながら歩く。
早退したものの、やはり仕事が気になって会社の前まで来た。
二十八階建ての、細長い、ガラス張りのビル。社名が外から全く見えない本社ビル、というのが、外資系らしい。
毎朝、このビルを見上げてきた。
でも、一日の終わりのこの時刻に、外から見上げるのは、もしかしたら始めて、かもしれない。
わたしは、しばらく立ち止まる。
辺りが次第に薄暗くなっているのが分かる。
でも、空のひとところだけが、うっすらと白い。
もうじき、月が昇るのだ。

白っぽい空を見上げた後、ビルの正面、左寄りにたたずむ、一つの彫刻に気がついた。
いや、もちろん、その彫刻の存在は知っていた。
「彼女」は、ずっとそこにいたのだし、ずっと視界には入っていたのだから。
でも、こうして、じっと見たことは無かった。

頭に大きなかごを載せた女。
かごの中には、果物か花がたくさん入っている。
彼女は、物売りなのだ。
片方の腕でかごを支え、もう片方で胸元には小さな子供を抱えている、幾分、疲れた表情で。
彫刻のタイトル名には「高貴な重荷」、と、あった。


月白に抱かれしふねの二、三あり


女は海。
男は船。
わたしは、そんなにやさしくなれない。
命は尊い。
されど、重い。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索