秋雨

2002年10月8日 みじかいお話
それは、ちょっとした悪戯、で片がつくことなのかもしれない。
でも、それだけで終わるだろうか。
彼がドアから消えたとき、はじめて後悔の気持ちが胸の奥から沸いてきた。
もしも、これで、何もかも終わりになってしまったならば・・・。
わたしが、一番怖いのは、多分、彼を失う事なのだ。
そのことに気が付くと、もう居ても立ってもいられなくなり、わたしはオフイスを飛び出した、デスクの上に、やりかけの仕事を残したままで。

彼の妻は、よく会社に電話をかけてくる。
それも、大した用事では無い。
隣りの席だから、大体のことは分かる。
「帰りに、小鳥の餌を忘れないでね。」
あれは、決算の書類を作っていて、数字が合わなくて皆で頭を抱えていたときの、電話。
「さっき、○○君(息子)がクローゼットに入って、なかなか出てきてくれなかったの。」
あれは、月末の締めの作業に追われていたときの、電話。
いちいち丁寧に出てやる男の方も男の方だ、といういらだちを感じたとき、気持ちに気が付いた。
恋をしていると。

隣りの席の、上司にして、十才年上の男。
確か、大学時代に「合コン」で知り合ったという、二つばかり年下の妻がいて。
息子が、二人。
郊外に買った一戸建てのローンに追われ、昼食は毎日「愛妻弁当」。
仕事の出来はまあまあ。
三十六で課長、は悪くない。でも、それほどの大企業ではないから、収入の方は今一つかも。
だから、ホテル代は、いつもわたしが持っている。

お金のかかる愛人、なんて魅力無いじゃん。
と、人妻の友人は言う。
でも、恋愛、だから。
好きな男と、するから気持ちいいの。いくらお金をくれる、って言っても、気持ち悪いのは嫌だもの。
そう、とっても気持ちがいい。
妻のいる男と、そういうことになるのは初めてだから、結婚しているということと、「そういうこと」が上手、ということが関係があるのかどうかは、分からないけれど。
でも、例えば、マウスを動かす指先を目にしただけで、ドキン、とする位。
その位、感じる。

妻のことは、そもそもが嫌いだから・・・夫の会社に、大した用事も無いのに気軽に電話をかけてくる女なんか大嫌い・・・抱かれているとき、ざまあみろ、と思ったことはあっても、申し訳無いとは思ったことは無い。
むしろ、ケイタイでは無く、デスクのダイヤルインにかけてくる心境に、無関心を装った計算を感じて、いらいらする。
そして、さっきも。

「○○君がね、熱があるのよ。」
と、どうやらそういうことらしかった。
立ち聞きしているのも悪いと思い、(それにこっちの精神状態も悪くなりそうだったし)来客が帰った後の応接室を片付けに行ったのだが、戻って来てもまだ電話中。
猛烈に、腹が立った。
夫の留守中に、いちいち子供の病気の処置もできない女。そして、ご丁寧に指示をしてやっている男。いい加減にして、とわたしは部屋を出た。

行き先は、男子ロッカー室。
そして、目指すは、「愛妻弁当」の箱。
食べ終わって、軽いその包みの、紫色の古典模様の風呂敷きに、髪に留めてあったバレッタをしのび込ませる。
弁当箱を洗おうとした妻が、包みをほどくと中から落ちる、という仕掛け。

悪戯。

でも、息子の具合が良くないのか、いつもよりも早めに仕事を切り上げた彼が、部屋を出て行ったドアが閉まる音を聞いたとき、やっぱり後悔したのだ。

外に出ると、小雨が額に落ちて来た。
夕暮れの駅前通りは、路面電車も、車も、人波も、うっすらと雨に煙っている。
もう、電車に乗っただろうか。
わたしは、走る。
軽くカーブした線路の上を、黄色いランプが近付いて来る。
あの電車だろうか。
乗り場は横断歩道の中ほど、中央付近に安全地帯が設けられているそこである。
目を凝らすと、彼の姿が、乗客の中にある。
そして電車がゆっくりと止まり、乗客たちが、どことなくほっとした表情で、次々と乗り込んで行く。
わたしは、走る。
点滅している信号を無視して、乗り場に飛び込む。

「やっぱりお前、来たか。」
彼は笑う。笑うと、下がり気味の目元がますます下がる。
「来ると思ったよ、ほれ。」
わたしの手にバレッタが渡されたとき、電車が出て行く。発車のベルを聞きながら、その温みを感じる。
「・・・こんなことしちゃ、駄目だよ。」
静かな声だった。
「どうして。」
「前に言っただろ?お前のことは、大体分かるんだ。」


秋雨に包まれビルも不確かに



夜の色が空を覆い始め、雨は少しひどくなっていた。
「お前の気持ちは、分からなくもないけれど・・・こういうことをしても、いいことは無いな。」
「・・・はい。」
わたしは、彼が欲しかった。
その手がわたしの顎に伸びて来て、唇が降りて来て欲しい、と切なく願った。
でも。
彼はきっぱりと言ったのだ。
「ごめん。今日は、どうしても帰らなければならないんだ。あいつ一人じゃ、だめなんだよ。」
「どうして!。」
そこが夕方の電車乗り場で無ければ、きっと、もっと思いをぶちまけていただろう。
だけど。
できなかった。
会社の近くの、見慣れた町並み。
その中にあって、何ができるというのだろう?
制服姿で。
「じゃあ。」
やがて来た次の電車に、彼は黙々と乗り込み、わたしはその電車の赤い尾灯が消えるのを黙って見送ってから、デスクに残した書類を片付けに戻った。

それから一年ばかり、わたしたちの関係は続き、やがて彼が転勤し、恋は自然に消えた。
彼の妻が足に障害を持っている、ということを知ったのは、わたしに新しい恋人ができてからだった。

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