氷雨

2003年1月27日 みじかいお話
電話の中から声が聞こえたとき、
「やっぱりね。」
と、言ってしまった。
失言である。
「ねえ、何が、やっぱり、なの。ねえ。」
畳み掛けてくるのを聞きながら、心から後悔したけれど、口にした言葉は戻せない。
「いや。あの、えっと。」
ごまかそうとすると、却ってとんでもないことを言いそうな気がして、わたしは早々に降参した。
「・・・あ、あの。見たのよ、お父さんを。昨日、こっちで。だから。」
ようやく何とか自分の失態を繕う言葉をみつけて、慌てて付け加える。
「でね、で、あなたもこっちに来てるんじゃないかなあ、なんて思ったものだから。ほら、家族旅行とか、で。」
電話からは、微かなため息が漏れ聞こえた。
「そう・・・。そうね、そういう平和なもんならいいのだけれど。」
「・・・違うの?・・・。」
「うん。あのさ、親父ね、駆け落ちなんだ。」
「えっ・・・。」
「女が一緒なのよ。見なかった?。」
わたしは、絶句してしまった。

故郷の幼なじみ、ヒロの父親を見かけたのは、昨日の朝である。
駅に続くターミナルホテルの、一階から一気に三階までつながる、長いエスカレーターに乗っていた。わたしは、たまたま出勤途中に電車を乗り継ごうとして、近道であるそのエスカレーターを使い、その姿を見たのだ。
こっちは下り、向こうは、上り。
最初は他人の空似だろうと思った。
何しろ、新幹線で三時間はかかる町の、幼なじみのお父さんなのだ。小学校から高校までの長きに渡って、親友だったからと言っても、本人ならともかくその家族ともなると、そうそうはっきり顔を覚えてはいない。
でも、きちっ、と「七・三」に分けられた銀髪、そして縁無しの眼鏡にすらりとした長身、六十を過ぎた男でありながら、少年を思わせる清潔な雰囲気を漂わせているところなど、それはもう、ヒロのお父さんに間違いない特徴を幾つも見せていたのだった。
全然、老けてないわ。
この前、会ったのは、ヒロの母親の葬式だった。
誰も予想しなかったという突然の死で、遠方ゆえに、あれこれ都合をつけて何とか駆けつけたヒロの実家の冷蔵庫の扉には、亡くなった人が書いたと思われる「買い物リスト」が、そのまま磁石で留められていた。
そんな突然の悲しい出来事なのに、真っ赤な目をしてはいたものの、父親は、とても身奇麗にして、いわゆる「男やもめ」の崩れたような感じは微塵も無かった。

あれから、五年か・・・。

「駆け落ち、って・・・。」
お葬式のことなど思い出したからだろう、とても深刻な声音になった。ヒロは少し笑って、
「いや、別にね、そう切羽詰まった話では無いのよ。神戸に行く、とも聞いてたし。ただ、どうも一人じゃないってことが分かって・・・。
わたしより、弟たちが焦ってるの。父が今更、再婚でもしたらどうしよう、って。財産の取り分が減る、って、それぞれ嫁さんにドヤされてるみたいよ。どうせ、わたしは放棄、ってことになるんだろうから関係無いんだけどね。」
結構ナマナマしい話をさらっ、として、
「で、まあ、わたしはつまり、そう頭に来てないつもりだから、明日、そっちに行こうかな、と思って。神戸に行くのなら、あんたの顔も見たいじゃない。宿泊先も、どうやら、近いみたいだし。」
「泊まるホテルまで教えてるんじゃ、駆け落ち、なんて言わないじゃない。もう、びっくりさせるなあ。」
「あはは、ごめんね。だって、あんたが、いきなり、やっぱり、なんて言うからさ、何か見たのかなあって、勘ぐっちゃうじゃない。それに、父は弟と大喧嘩して、しばらく家には帰らない、って。えらい剣幕だったらしいし。」

わたしは考える。
言うべきかしら。
言わないべきかしら。


エスカレーターの階段には、確かに女のひとがいた。
幾つぐらいだろう、やっぱり銀髪だった。

「ヒロは、お父さんの再婚には、反対なの。」
「ううん。子供も全員結婚したのよ。もう、好きにしたらいいと思う。でも、確かに、弟たちの言うことも、分かるのよ。今更、父やわたしたちのことを引っ掻き回すようなひとは、嫌。どんな女かによるわね。」

昨日は朝から雨だった。
今にも雪に変わりそうな、冷たい雨が、港にも、山にも静かに降り注いでいた。
ヒロのお父さんたちは、傘を持ってはいなかった。黒っぽいコートが、濡れて重そうに見えた。


「別れろ、なんて言わないから、きちんと、実家で話し合いたい、って。そう言いたくて。わたし、その女、知らないし。あんた、見てないよね?。」

「・・・見たよ。」

やっぱり、言おう。

「そのひとね、白い杖を持ってた。」
「それって、もしかして・・・。」
「・・・そうかもね。でもね。」

片方の手には白い杖。
不安定な、動く階段の上で、身体を支えている。
そして、もう一方の手で、ハンカチらしいものを持ち、一心に、連れの男の人・・・ヒロの父親・・・の、濡れたコートを拭いていた。拭っても、拭っても、染み込んだ冬の雨の冷たさは拭いきれないだろうに、その女の人は、ただひたすら、手を動かし続けていたのだった。

「それって・・・。」
「うん。わたしにはね、ヒロ、とても微笑ましく見えたの。愛情深く、見えた。」

少しだけ黙ってから、ありがと、とヒロは言った。
「・・・明日、行くから。着いたら電話する。」
「うん。待ってる。」
「・・・で、ね。もしも良かったら、あ、でもやっぱりあんたに悪いかな。」
「何よ。」
「・・・いや、何でも無い。」
わたしは微笑んだ。
「いいよ、一緒に会うよ、お父さんと、その女の人に。」
また少し黙り、そして、何故だろう、やや涙声の「ありがとう」が、耳元に届いた。

氷雨降る街に笑顔を添へたくて

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