「腰掛け」のつもりで入社した会社に、結局八年も勤めてしまったが、その間、「あんなふうになりたい」という憧れを抱いた先輩OLはいたか、と、たずねられて、即答できるのはひとりだけ。
それが、キタハシさんだった。
百六十五センチの長身。制服のタイトスカートから長い足をすらりと見せて颯爽と歩く姿は、同性の目から見ても、くらくらしちゃう位にセクシーだった。低めの声はビロードめいた艶があり、決して感情を高ぶらせず、かと言って、私たち後輩の悩み相談にも、アルコール入りでも抜きでも付き合ってくれる優しさにあふれ、勿論、仕事もできた。
わたしは、高校が彼女と同じということもあり、とりわけ目をかけてもらえた。彼女と同じ職場でなかったならば、数字に弱くて鈍くさいわたしが、こんなに長く会社員生活を送ることはできなかっただろう。
さて、キタハシさんも、三十をいくつか過ぎてから、ついに結婚することになった。なにしろ、頭も切れてウツクシイキタハシさんのお相手である、どんなにかっこよくて高収入のミスターだろうと想像したのだが、聞いてみてびっくり。
フィアンセは、勤務先のビルの警備員をしている、まだ二十代前半の男、それも、彼女よりも二センチばかり背が低い男、だった・・・。
「慣例」に従い、退職することになった送別会が行われ、わたしたち後輩は、あるひとつのことについての質問を彼女に浴びせ掛けた。
それは、「結婚の決め手」である。
どうして、このひとだ、と決めたんですか。
どうして、このひとが運命のひとだって分かったんですか。
どうして、このひとにしよう、と誓ったんですか。
「結婚退職女の花道」という言葉がまかり通っている職場であるから、皆必死。とりわけ、美人で仕事もできるキタハシさんの、まあはっきり言って「無謀な」決断である。ココロしてきかねば、っていう気合がみなぎっている。
が、当のキタハシさんは、柔らかく微笑むだけ。
「そんなの、そのときが来れば分かるわよ。」
どうして、彼に決めたのか。
わたしたちの本音、「どうして美人で仕事もできつ貴女が、あんな冴えない男を撰んだのですか?」
に、彼女は当然、気がついていたのだろう。だから、あんなふうにはぐらかしたのだろう。
一番可愛がっていたわたしには、こんなことを話して「彼を撰んだ理由」にしてくれたのだけれど。
「駅からこのビルまで通ってくるとき、毎朝、カフェのスタンドでコーヒーを買って来るのがわたしの日課。それは知ってるでしょ?。
彼もそうだったの。
夜勤明けですれ違い、ということもあったけれど、方向が逆でも、彼もいつも、必ずコーヒーを買っていたわ。
そのうち、どちらかともなく、あいさつを交わすようになったの。
でも、ある日、いつものように出勤しようとしたら、彼の手にカップが無いのよ。
どうして?胃の調子でも悪いの?って聞いたんだ、わたし。気軽にね。
そのときの彼の返事。言ってみればこれが決め手だったんだ。」
「キタハシさん、沈丁花、咲きましたよね。
あのね、僕、あの花が余りにもいい香りがするんで、今日からしばらくコーヒー持ってこの道通るの止めようと思って。
花に失礼でしょ。せっかくいい香りしてるのに。」
「呆気にとられたわ。でもね、なーんか、いいな、って思ったの。
いいおとなが童話みたいに平和になるのも。わたしも、しばらくコーヒーを持たずに出勤してみた。代わりに、沈丁花の香りを吸い込んでみた。いつも通っている道に、こんないい香りの花が植わっていたんだ、ってことさえわたしには気が付かなかったのよね。なんだか、不思議にココロが満腹になっていくのを感じた。で、このひとと暮らしたい、って思ったの。」
そんなものかな。
分かるような、分からないような。
わたしには、物欲もあった。見栄もあった。結婚するなら、周りの女の子たちが「うらやましい」と感じるような相手がよかった。
だから、キタハシさんが、ルックスもイマイチ、お金も大してもっていない、そんな男の「沈丁花の香りを消したくないからコーヒーを持って歩かない」というような一言にぐっ、と来て、結婚を意識した、というのが・・・ピンと来なかった。
結局、惚れてる、ってことよね。
なんてことに結論付けた、そのときには。
彼女の真意(だと思う)に到達したのは、つい最近である。
わたしも、やがて結婚した。
そして、俳句を始めた。
俳句をつくるようになると、季節の移り変わりに敏感になる。何気なく見やってきた風景が、大きな意味を持ち始める。ぼーっと歩いていた並木道の、微妙な変化に気がつくようになる。そして、そういうちょっとした変化を常に探していくようになる。
夫はジョギングが好きである。
毎週走るコースには梅林があって、わたしは、毎年、梅の季節が来ると、
「ね、梅、咲いてた?。」
と尋ねるのだが、満足な答えが返ってきたためしが無い。
「さあ・・・。」
第一、そこに梅林がある、ということさえ彼は意識していない。一時間近く走りながら、うつろいゆく自然の生業にまったく注意を払っていない・・・。
それは恐らく、感性の違い、というものであろう。
別段、生活するのに不便、というものでは無い。
感性が違っても、家計に何らの影響を及ぼしはしない、ただ、物足りない。気持ちの豊かさ、というものを共有できない・・・。
なんとなく、うら淋しい気持ちにはなる。不幸、とまで重くは無いのだが。
ところで、キタハシさんの結婚であるが、結局破綻してしまった。
離婚後、彼女は、友人のつくった「イベント会社」の手伝いをして、相変わらずすらりと美しいらしい。
らしい、というのは、わたしが結婚を機に彼女の住む街から離れてしまったからだが、なんとなく話がしにくい、というのもある。
感性で選んだ結婚の破綻。
感性相違でも継続する結婚。
ここに、ふたつの結婚がある。
沈丁花の季節が今年もやってきた。
沈丁花咲きコーヒーを煎れぬ朝
・・・今のわたしはキタハシさんの「元カレ」の感性が大好きなんだけど。
それが、キタハシさんだった。
百六十五センチの長身。制服のタイトスカートから長い足をすらりと見せて颯爽と歩く姿は、同性の目から見ても、くらくらしちゃう位にセクシーだった。低めの声はビロードめいた艶があり、決して感情を高ぶらせず、かと言って、私たち後輩の悩み相談にも、アルコール入りでも抜きでも付き合ってくれる優しさにあふれ、勿論、仕事もできた。
わたしは、高校が彼女と同じということもあり、とりわけ目をかけてもらえた。彼女と同じ職場でなかったならば、数字に弱くて鈍くさいわたしが、こんなに長く会社員生活を送ることはできなかっただろう。
さて、キタハシさんも、三十をいくつか過ぎてから、ついに結婚することになった。なにしろ、頭も切れてウツクシイキタハシさんのお相手である、どんなにかっこよくて高収入のミスターだろうと想像したのだが、聞いてみてびっくり。
フィアンセは、勤務先のビルの警備員をしている、まだ二十代前半の男、それも、彼女よりも二センチばかり背が低い男、だった・・・。
「慣例」に従い、退職することになった送別会が行われ、わたしたち後輩は、あるひとつのことについての質問を彼女に浴びせ掛けた。
それは、「結婚の決め手」である。
どうして、このひとだ、と決めたんですか。
どうして、このひとが運命のひとだって分かったんですか。
どうして、このひとにしよう、と誓ったんですか。
「結婚退職女の花道」という言葉がまかり通っている職場であるから、皆必死。とりわけ、美人で仕事もできるキタハシさんの、まあはっきり言って「無謀な」決断である。ココロしてきかねば、っていう気合がみなぎっている。
が、当のキタハシさんは、柔らかく微笑むだけ。
「そんなの、そのときが来れば分かるわよ。」
どうして、彼に決めたのか。
わたしたちの本音、「どうして美人で仕事もできつ貴女が、あんな冴えない男を撰んだのですか?」
に、彼女は当然、気がついていたのだろう。だから、あんなふうにはぐらかしたのだろう。
一番可愛がっていたわたしには、こんなことを話して「彼を撰んだ理由」にしてくれたのだけれど。
「駅からこのビルまで通ってくるとき、毎朝、カフェのスタンドでコーヒーを買って来るのがわたしの日課。それは知ってるでしょ?。
彼もそうだったの。
夜勤明けですれ違い、ということもあったけれど、方向が逆でも、彼もいつも、必ずコーヒーを買っていたわ。
そのうち、どちらかともなく、あいさつを交わすようになったの。
でも、ある日、いつものように出勤しようとしたら、彼の手にカップが無いのよ。
どうして?胃の調子でも悪いの?って聞いたんだ、わたし。気軽にね。
そのときの彼の返事。言ってみればこれが決め手だったんだ。」
「キタハシさん、沈丁花、咲きましたよね。
あのね、僕、あの花が余りにもいい香りがするんで、今日からしばらくコーヒー持ってこの道通るの止めようと思って。
花に失礼でしょ。せっかくいい香りしてるのに。」
「呆気にとられたわ。でもね、なーんか、いいな、って思ったの。
いいおとなが童話みたいに平和になるのも。わたしも、しばらくコーヒーを持たずに出勤してみた。代わりに、沈丁花の香りを吸い込んでみた。いつも通っている道に、こんないい香りの花が植わっていたんだ、ってことさえわたしには気が付かなかったのよね。なんだか、不思議にココロが満腹になっていくのを感じた。で、このひとと暮らしたい、って思ったの。」
そんなものかな。
分かるような、分からないような。
わたしには、物欲もあった。見栄もあった。結婚するなら、周りの女の子たちが「うらやましい」と感じるような相手がよかった。
だから、キタハシさんが、ルックスもイマイチ、お金も大してもっていない、そんな男の「沈丁花の香りを消したくないからコーヒーを持って歩かない」というような一言にぐっ、と来て、結婚を意識した、というのが・・・ピンと来なかった。
結局、惚れてる、ってことよね。
なんてことに結論付けた、そのときには。
彼女の真意(だと思う)に到達したのは、つい最近である。
わたしも、やがて結婚した。
そして、俳句を始めた。
俳句をつくるようになると、季節の移り変わりに敏感になる。何気なく見やってきた風景が、大きな意味を持ち始める。ぼーっと歩いていた並木道の、微妙な変化に気がつくようになる。そして、そういうちょっとした変化を常に探していくようになる。
夫はジョギングが好きである。
毎週走るコースには梅林があって、わたしは、毎年、梅の季節が来ると、
「ね、梅、咲いてた?。」
と尋ねるのだが、満足な答えが返ってきたためしが無い。
「さあ・・・。」
第一、そこに梅林がある、ということさえ彼は意識していない。一時間近く走りながら、うつろいゆく自然の生業にまったく注意を払っていない・・・。
それは恐らく、感性の違い、というものであろう。
別段、生活するのに不便、というものでは無い。
感性が違っても、家計に何らの影響を及ぼしはしない、ただ、物足りない。気持ちの豊かさ、というものを共有できない・・・。
なんとなく、うら淋しい気持ちにはなる。不幸、とまで重くは無いのだが。
ところで、キタハシさんの結婚であるが、結局破綻してしまった。
離婚後、彼女は、友人のつくった「イベント会社」の手伝いをして、相変わらずすらりと美しいらしい。
らしい、というのは、わたしが結婚を機に彼女の住む街から離れてしまったからだが、なんとなく話がしにくい、というのもある。
感性で選んだ結婚の破綻。
感性相違でも継続する結婚。
ここに、ふたつの結婚がある。
沈丁花の季節が今年もやってきた。
沈丁花咲きコーヒーを煎れぬ朝
・・・今のわたしはキタハシさんの「元カレ」の感性が大好きなんだけど。
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