ホテルの一室は余分な音が一切しないから、彼女は安心して、彼の腕の中で声を立てることができた。
声を立てるのも演技かもしれない。
でも、声を出すことで心が少しずつ解放され、その結果、身体にも心地よい飛翔が訪れることになるのだ。
窓の外に雨を感じたのは、彼女が何回かの飛翔を遂げ、彼の方にも静かな・・・そしていつも通りなぜか少し白けた・・・充足が訪れた時間である。
彼女は、彼の腕の中にいる。
さっき、わざとにカーテンを引かずに服を脱ぎ散らかしたから、夕まぐれの街が夜景の化粧を始めたのを、まさに目の当たりにすることができる。
三十五階。
同じような高さのビルが、瞬きを始めている。遠くの看板のネオンが滲んで見えている。赤、黒、青、黄・・・。真っ赤な点滅は、ヘリ・ポートの灯り。
「空中の、楼閣。」彼が、煙草に手を伸ばす。
「何?。」
彼女の上司でもある彼は、時々わざとにこむつかしい言葉を呟く。そして、彼女が、不思議そうに首を傾げたり、戸惑って黙り込むのを見て楽しむ。
「ここだと、地に足の付いたものは、一切、見えないんだが。」
「・・・はい。」
「何故だか、雨の気配は感じた。地面に落ちていくまでの、雨粒の気配。」
「・・・雨、ですか。」
「そう。春の、雨。・・・きみみたいに、しなやかに濡れて・・・。」男は煙草を口に加えたまま、女の部分に指を這わせる。さっきの脂ぎった欲望まみれの指とは別人みたい。でもわざと言う。
「・・・もう一度、ですか?。」
「まさか。きみの恋人みたいに若く無いよ。」
恋人。
そんな存在は無いと言っても聞き入れようとしないのは、自分が女のすべてを引き受けられないことから来る、逃げ、だ。
「わたしよりも、ひとまわり上だけで。そんなに変わらないわ。」
女は身体をよじらせ、男の中指をいったん引き抜いた後、改めてもっと奥まで滑り込ませる。
「・・・。」
男は照れたように手をシーツから出し、おもむろに煙草に火を点ける。また一層、部屋が薄暗くなったのを、はしゃいだように燃え立つ火の色で知る。
「そろそろシャワーを浴びないと。」
と言ったのは女である。
男は決してシャワーを、あのあとに浴びない。
ホテルのタオルの、旅先の朝めいた匂いで、妻が浮気に気がつくといけないから、らしい。
結婚はね、恋を殺してしまうんだよ。
男は何度も言う。
男と女は、恋を日常に連れ込んではいけない。
ときめきは、生活とは、相容れないものなんだ。
僕は、結婚が、人生の墓場、だとは言わない。
でも、恋の墓場だとは思うね。
じゃ、結婚式は、恋のお葬式なの。
そう。ふたりの恋を生活の中に埋葬します、と宣言するような儀式さ。
女はバスをつかうために、バスルームの金色の取っ手を軽く握る。なぜか、男のそれに似た感触を覚え、はっと手を退く。
雨。
暖冬予想が外れた、寒い冬が去ろうとしている。
窓の外の夜は、しのつく雨に支配され、最早、街の輪郭はぼやけてしまっている。ネオンの群れは、流れる色の洪水。
結婚が恋の墓場だとしたら、埋葬しそびれた恋たちは、一体、どこに葬られるのだろう。
女は何気ない風に目元に指を当て、景色が滲んでいるのが涙のせいでは無いことを確かめて、なぜか少しだけ自分を励ます気持ちになってから、シャワーに向かった。
摩天楼雪洞にして春の雨
声を立てるのも演技かもしれない。
でも、声を出すことで心が少しずつ解放され、その結果、身体にも心地よい飛翔が訪れることになるのだ。
窓の外に雨を感じたのは、彼女が何回かの飛翔を遂げ、彼の方にも静かな・・・そしていつも通りなぜか少し白けた・・・充足が訪れた時間である。
彼女は、彼の腕の中にいる。
さっき、わざとにカーテンを引かずに服を脱ぎ散らかしたから、夕まぐれの街が夜景の化粧を始めたのを、まさに目の当たりにすることができる。
三十五階。
同じような高さのビルが、瞬きを始めている。遠くの看板のネオンが滲んで見えている。赤、黒、青、黄・・・。真っ赤な点滅は、ヘリ・ポートの灯り。
「空中の、楼閣。」彼が、煙草に手を伸ばす。
「何?。」
彼女の上司でもある彼は、時々わざとにこむつかしい言葉を呟く。そして、彼女が、不思議そうに首を傾げたり、戸惑って黙り込むのを見て楽しむ。
「ここだと、地に足の付いたものは、一切、見えないんだが。」
「・・・はい。」
「何故だか、雨の気配は感じた。地面に落ちていくまでの、雨粒の気配。」
「・・・雨、ですか。」
「そう。春の、雨。・・・きみみたいに、しなやかに濡れて・・・。」男は煙草を口に加えたまま、女の部分に指を這わせる。さっきの脂ぎった欲望まみれの指とは別人みたい。でもわざと言う。
「・・・もう一度、ですか?。」
「まさか。きみの恋人みたいに若く無いよ。」
恋人。
そんな存在は無いと言っても聞き入れようとしないのは、自分が女のすべてを引き受けられないことから来る、逃げ、だ。
「わたしよりも、ひとまわり上だけで。そんなに変わらないわ。」
女は身体をよじらせ、男の中指をいったん引き抜いた後、改めてもっと奥まで滑り込ませる。
「・・・。」
男は照れたように手をシーツから出し、おもむろに煙草に火を点ける。また一層、部屋が薄暗くなったのを、はしゃいだように燃え立つ火の色で知る。
「そろそろシャワーを浴びないと。」
と言ったのは女である。
男は決してシャワーを、あのあとに浴びない。
ホテルのタオルの、旅先の朝めいた匂いで、妻が浮気に気がつくといけないから、らしい。
結婚はね、恋を殺してしまうんだよ。
男は何度も言う。
男と女は、恋を日常に連れ込んではいけない。
ときめきは、生活とは、相容れないものなんだ。
僕は、結婚が、人生の墓場、だとは言わない。
でも、恋の墓場だとは思うね。
じゃ、結婚式は、恋のお葬式なの。
そう。ふたりの恋を生活の中に埋葬します、と宣言するような儀式さ。
女はバスをつかうために、バスルームの金色の取っ手を軽く握る。なぜか、男のそれに似た感触を覚え、はっと手を退く。
雨。
暖冬予想が外れた、寒い冬が去ろうとしている。
窓の外の夜は、しのつく雨に支配され、最早、街の輪郭はぼやけてしまっている。ネオンの群れは、流れる色の洪水。
結婚が恋の墓場だとしたら、埋葬しそびれた恋たちは、一体、どこに葬られるのだろう。
女は何気ない風に目元に指を当て、景色が滲んでいるのが涙のせいでは無いことを確かめて、なぜか少しだけ自分を励ます気持ちになってから、シャワーに向かった。
摩天楼雪洞にして春の雨
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