「確かに、彼女、一晩、オレのとこで過ごした。それは認める。でもさ、何も無かったんだ。」
わたしは電話を持って、ベランダに出る。
震災でも壊れなかったから多分頑丈なんだろうけれど、震災で周りが小奇麗になっちゃったから、やたらみすぼらしくなったマンション。すぐ下を、JRの線路が走っている。
「呑み明かしただけ。・・・きみとは、違う。」
「そうでしょうね。そりゃ。分かってますよ。」
彼はほんの少しだけ、安心した声になる。安心がほんの少しなのは、わたしの「丁寧語」が崩れていないからだ。
「別に、どっちでも、いいのよ。ちゃんと、付き合って、とか言われてないし。」
「またそんな、拗ねたようなこと言っちゃってさあ。」
機嫌を取ろうとしているのね。でも、真面目に付き合って、とは言わないんだ、こいつは。
「ま、それでも、マユミとそうなったら、わたしは降りる。もう二度と寝ないから。
マユミとは、三年間、一緒に高校に通ってたのよ。それ、知らないわけじゃないでしょ。」
「もちろん。」
「もちろん。知ってるよね、あなただって一年は同じクラスだったんだから。」
電車の来る気配がしている。まだ音は聞こえない、もちろん、姿も見えない。でも、風が機械的になる。わたしは、部屋に戻り、水をコップに注ごうとして、片手ではうまくできなくて止める。のどが、渇いたな。
「うん・・・。だからさ、彼女が、そうゆうことの対象にならないってことも、分かるだろ。」
それじゃ、あなたは、「そうゆうことの対象」になるのは、一体、どんな女だと言うのだろう。
「はっきり言えば、男の欲望の対象にならない女だってことだよ。」
それは、マユミが、いつでも大きな眼鏡をかけ、持ち物にも全く気を遣わず、脇の始末さえろくにしないで、更に学年でトップクラスの成績で、とりわけ、化学と数学は男子にも負けなくて、お茶大を蹴って、理科大を蹴って、京大に入ったから?。
「きみとは、違うんだよ。」
男の声が、湿り気を帯びる。
減速してゆく新快速の音。新快速はなぜだか、この近くの駅に停まる。隣の駅の方が、人口はずっと多いのに。
「きみは・・・違う。」
つまりあなたは、今週末、わたしと会う約束が反古になることを、恐れているのよね。
そう言えば聞こえはいいけれど、はっきり言えば、わたしを抱けなくなるのが、怖い。いや、つまり、せっかくのヤレるチャンスを失うのが、怖いのよ。
・・・と、心の中でだけ言っている。肯定されるのも、否定されるのも、つらいから。
電車が去ったから、もう一度ベランダに出る。鈍色に光った線路の上に、初夏の日差しが滑り込んでいる。
その向こう側に、萎れかけた、スミレの花の群れが見える。
スミレの花は、春の花が終わった後も実は引き続きつぼみがつくられている。そのつぼみたちは、生涯、開かないままで自家受粉をし、そうして、確実に種子を残す。
花として、どちらが幸せなんだろう。
きれいだね、と愛でられ、しかし子孫は残せないのと。
愛でられることは無くとも、確実に子孫を残せるのと。
そして。
一晩、男の部屋で過ごして、ただ呑むだけで終わるのと。
部屋に入る前にドア付近で既に押し倒されてしまうのと。
女としては、どっちが幸せなんだろう。
「イヤイヤ」の菫見ている線路端
「なあ、怒ってないよな。」
欲望いっぱいの、ハタチの男の声は、まだ続いている。
わたしは電話を持って、ベランダに出る。
震災でも壊れなかったから多分頑丈なんだろうけれど、震災で周りが小奇麗になっちゃったから、やたらみすぼらしくなったマンション。すぐ下を、JRの線路が走っている。
「呑み明かしただけ。・・・きみとは、違う。」
「そうでしょうね。そりゃ。分かってますよ。」
彼はほんの少しだけ、安心した声になる。安心がほんの少しなのは、わたしの「丁寧語」が崩れていないからだ。
「別に、どっちでも、いいのよ。ちゃんと、付き合って、とか言われてないし。」
「またそんな、拗ねたようなこと言っちゃってさあ。」
機嫌を取ろうとしているのね。でも、真面目に付き合って、とは言わないんだ、こいつは。
「ま、それでも、マユミとそうなったら、わたしは降りる。もう二度と寝ないから。
マユミとは、三年間、一緒に高校に通ってたのよ。それ、知らないわけじゃないでしょ。」
「もちろん。」
「もちろん。知ってるよね、あなただって一年は同じクラスだったんだから。」
電車の来る気配がしている。まだ音は聞こえない、もちろん、姿も見えない。でも、風が機械的になる。わたしは、部屋に戻り、水をコップに注ごうとして、片手ではうまくできなくて止める。のどが、渇いたな。
「うん・・・。だからさ、彼女が、そうゆうことの対象にならないってことも、分かるだろ。」
それじゃ、あなたは、「そうゆうことの対象」になるのは、一体、どんな女だと言うのだろう。
「はっきり言えば、男の欲望の対象にならない女だってことだよ。」
それは、マユミが、いつでも大きな眼鏡をかけ、持ち物にも全く気を遣わず、脇の始末さえろくにしないで、更に学年でトップクラスの成績で、とりわけ、化学と数学は男子にも負けなくて、お茶大を蹴って、理科大を蹴って、京大に入ったから?。
「きみとは、違うんだよ。」
男の声が、湿り気を帯びる。
減速してゆく新快速の音。新快速はなぜだか、この近くの駅に停まる。隣の駅の方が、人口はずっと多いのに。
「きみは・・・違う。」
つまりあなたは、今週末、わたしと会う約束が反古になることを、恐れているのよね。
そう言えば聞こえはいいけれど、はっきり言えば、わたしを抱けなくなるのが、怖い。いや、つまり、せっかくのヤレるチャンスを失うのが、怖いのよ。
・・・と、心の中でだけ言っている。肯定されるのも、否定されるのも、つらいから。
電車が去ったから、もう一度ベランダに出る。鈍色に光った線路の上に、初夏の日差しが滑り込んでいる。
その向こう側に、萎れかけた、スミレの花の群れが見える。
スミレの花は、春の花が終わった後も実は引き続きつぼみがつくられている。そのつぼみたちは、生涯、開かないままで自家受粉をし、そうして、確実に種子を残す。
花として、どちらが幸せなんだろう。
きれいだね、と愛でられ、しかし子孫は残せないのと。
愛でられることは無くとも、確実に子孫を残せるのと。
そして。
一晩、男の部屋で過ごして、ただ呑むだけで終わるのと。
部屋に入る前にドア付近で既に押し倒されてしまうのと。
女としては、どっちが幸せなんだろう。
「イヤイヤ」の菫見ている線路端
「なあ、怒ってないよな。」
欲望いっぱいの、ハタチの男の声は、まだ続いている。
コメント