新緑

2003年6月4日 みじかいお話
  森の中だった。
  鳥がせわしなくさえずる声が辺りにちらばっていた。見上げれば、緑色の葉裏を通して、強くなりはじめた日差しが二人の上に降り注いでいた。彼の短い髪が、それで時々金色になった。
  わたしたちは、絶えずおしゃべりをしていた。小鳥たちと同じように、止むことのないおしゃべりだと思った。サークルの誰それの噂話から、心理学の教授の癖の話、生協レストランの夏メニューのこと・・・。わたしは笑った。何につけおかしがる十八の娘にしても笑いすぎだった。自分でも分かっていたけれど、笑いを止めることはできなかった。
  だって。
  だって、彼が・・・彼の細長い、ハイカットのバスケットシューズを履いた足が、どんどん森の奥深くへ、わたしを連れて行くのだもの。
  そして、彼が、ふいに口をつぐんだとき、わたしの肩の彼の大きな手がのせられたとき・・・不思議な引力が働くのを感じたとき・・・。

   口つけの後新緑の濃くなりき

  閉じていた目を再びあけると、なぜだろう、さっきから見ていた筈の、初夏の木々の緑が、より一層の力強さをもって目に飛び込んできた。

  公園のベンチに浅く腰掛けて、下からケヤキを見ている。
  十五年後のわたしは、何百枚もの若葉の下で、木漏れ日を楽しんでいる。
  あのひととは、もう、遠い雨の日に別れてしまった。もう会うことは無いかもしれない。薄い唇の感覚は、今でもわたしの中に残っているのに。
  そおっと、目を閉じてみる。
  風が、木立をすり抜けて行く。
  さわさわさわ、さわさわさわ、と水の重みを湛えた若葉たちが歌う。
  小鳥たちの声、今日もせわしくあちこちから聞こえて来る。あなたたちの恋がうまくいくといいね。
  目をあける。
  新緑は今も目の前にある。
  でも、さっきより色を増したようには思えない。
  柔らかそうな、それでいて、芯がしっかり真ん中に通った若い葉たちは、また、風に揺すられて揺れている。
  ただ、目の前で揺れている。揺れると光がこぼれる。そうして、家事疲れの見えるわたしの手の甲に、眠たげな縞模様をつくる。

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