ふるさとの海手繰り寄せソーダ水

 十年ばかり、ふるさとの海で泳いでいない。
 原発の話で話題にのぼることの多い海だけれども、その海の色の透き通った輝きと言ったら、このマンションの窓から毎日見える海とはまったく別のもののようであった。
 泳ぎは大してできないが、わずかばかり沖に泳ぎ出て、顔をつけて平泳ぎをしたとき、大きく水を蹴ってみたつま先の、ペデイキュアの桃色が、エメラルド色の波の中で、小魚みたいに揺れて見えた。どこからか舞い流れて来る、海草たち。次々生まれて消える泡たちは、日の光を取り込んで眩しく散らばる。
 そして、潮の香り。

 今、こんなに近くに海のそばにいて、船の汽笛を朝夕に聞きながら暮らしているのに、海とともにいる、ということを忘れがちなのは、潮の香りがしないからかもしれない。ひとに飼いならされた、優しい瀬戸内海は、もともと潮の香の薄い海だったのか。それとも、あちこち人の手が入ることを赦しているうちに、香りを無くしてしまったのだろうか。

 でも、このまちが海辺にあることは確かである。
 一度、心からそう思わされたことがある。
 それは、この今住んでいる人工島では無い、もうひとつの人工島へ行ったときのことだった。
 結婚前だった。本土から島へ行こうとして、当時はフィアンセだった主人と、岬にある喫茶店に入った。
 まだ震災の傷痕があちこちに残っていたその夏だが、その店は被害をまぬがれたのか、たいそう古ぼけていた。小さな店で、ドアを開けると、穏やかな、年をとった声が二つ、いらっしゃいませ、と出迎えてくれた。
 そのとき、わたしは「クリームソーダ」を頼んだ。
 ほとんどの場合、熱いコーヒーか冷たいものならアイステイーを選ぶのに、どうしてクリームソーダだったのか。理由は分からないのだが、このときのクリームソーダは、忘れられないものになった。
 その、色、である。
 それは、青い色をしていた。
 透き通った瑠璃色、というのか、見たときわたしはラピスラズリを思い出した。あるいは、一心に咲くデルフィニウム。
 それまでは、クリームソーダは緑色だと思っていた。透明なエメラルド色の、炭酸水。
 「神戸のは、青なの。」
 そうして、わたしは、ほとんど連鎖的に、海の色を思ったのだった。ふるさとにも、海はあった。そして、ここにも海はある、でもそれはきっと、全然違う海なのだと。

 ところで、先日、とあるデパートのレストランで、クリームソーダを見た。
 見た、というのは、自分が頼んだのでは無く、すぐ近くのテーブルに着いていた老夫婦らしい二人連れの、おじいさんの方が頼んだからである。
 そして、それは、見慣れた緑色だった。
 ふとわたしは、目の前で子供の口にスパゲテイを押し込んでいる主人に、あの日のクリームソーダの青い色の話をしてみた。
 「そうやったかな。」
 それは、もうそんなことは忘れている、見慣れた男の投げやりな声だった。
 あのときの、クリームソーダは幻だったのか。
 そして、もしかして、この男も。
 それから、あの日のわたしも。

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