ほら、と言う間に水に 雪結晶 

 めずらしく雪がちゃんと降っていたので、ベランダに飛び出した。
 片手に虫眼鏡。

 幼稚園の年長くらいだったと思う。
 虫眼鏡で、雪の結晶を見た。
 万華鏡の中をのぞいたみたいに、六角形や、星型の白いかたまりを、見た記憶があるのだ。
 先生は、
「神様のおつくりになったものは、すべてひとつひとつ違うんです。
 どれも、たいせつにおつくりになったのですよ。」
 と、おっしゃった。
 ぼたん雪の降りしきる真っ白な空。
 和紙のように、秘めやかな眩しさをたたえた大空から、静かに、静かに、絶え間なく降りてくる雪たち。そのひとかけらずつが、全部形が違うなんて。小さなわたしの心は大きく揺さぶられた。
 
 しかし、今よく考えると、果たして、そこら辺にあった虫眼鏡で、雪の結晶はとらえられるものなのだろうか、疑問に思う。
 あれはほぼ同時期に見かけた百科事典か何かの「雪の結晶」の写真では無いか。
 
 気になる。
 
 雪が無い以上、確かめようがないから、首を傾げながら過ごしてきたわけであるが、ようやく待望の降雪である。
 やった!。
 急がなくちゃ、すぐ止んじゃうよ、きっと。
 
 つくりかけの朝食のお味噌汁の鍋もほったらかしで、ベランダに飛び出し、気まぐれに落ちてくる雪を狙って右往左往。片手には虫眼鏡。
 故郷で雪除けに追われているであろう両親にこの姿を見られたら、ぶっ飛ばされるかもなー、と思いつつ。格闘?すること五分。

 ・・・やはり、きちんと「結晶」を見ることはできなかった。

 それでも、確認できた。
 雪たちは、決して同じかたちをしていない、ということを。ほんとうにひとつとして、同じかたちのものはない。
 風に乗り、ふわふわと、わたしをからかうように舞い降りてくる雪たち。しっかり見ようとするとあっけなく消えてしまう雪たち。
 でも、消える直前まで、それぞれは確かに別のものである。

 元旦に教会へ行った際、神父さまが、世界の平和と、すべての家族の平和とをお祈りされてから、
「皆様おひとりおひとりの願いをささげてください。」
と、特別に時間を下さった。
 祈りのための沈黙の中、意外にも、わたしが祈ったことの多くは、ネットで知り合ったひとたちのこと、であった。
 大きな試験を控えたひとには、合格を。
 病気のあるひとは、回復を。
 悩みのあるひとは、解決を。
 本名も、顔も知らないひとのことを、真面目に祈っている自分が不思議であった。でも、名前その他いっさいの情報が無いからこそ、その祈りは純粋なものになったのかもしれない。

 わたしに降りそそぐ、パソコンからの語りかけ。
 それは、雪のように、静かに心に積もっていく。
 そしてそれは、ひとつとして同じものは無く、捕らえた、と思うと消えてしまう。
 それでも、その残像は、この先何年もわたしの中でこだわり続けていくのだろう。
 

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