くちびるはニオイスミレの花びらに

  あなたが、いなくなる。
  
  いつかはこのときが来ると予想はしていたけれど、こんなに突然のこととは思えなかった。
  壁に貼られた一枚の通達。印刷されて整った、ありふれた文字。そこにあるあなたの名前が、霞みそうになって、慌てた。
  いけない。
  こんなふうに、取り乱してはいけない。

  でも、いつも通りに向き合ったとき、あなたの、男のひとの指とは思えないくらいに、白くてほっそりとした指を見たとき、この指に触れたくて、でもどうしてもだめだと自分に言い聞かせ続けていたその指が静かに目の前にあるのを見たとき・・・

  ふと、気が付いたら、あなたの手をそっと握ってしまっていた。

  ・・・イカナイデ。

  あなたの名前を、まるでお守りみたいに、たいせつに抱きしめながら、苦しい夜明けを乗り越えて来ました。
  そうして、あなたの名前が、息苦しい夜明けのときだけではなく、いつも忘れがたくわたしの心に留め置かれるようになって・・・。
  片想いしているのです。
  そうして、それは、決して、決して、あなたには知られないようにひた隠してきたというのに。

  最後の最後になって・・・抑え切れなかった。なぜ。

 「・・・さあ。」
  
  あなたは何も気が付かなかったように、そのままわたしの手を載せたまま、いつも通りの仕事をして、そして、優しく次の仕事に移った。
  密室ですら、無かった。背の高いあなたの身体に隠れるようにして、たった5秒のことだった。

 「実は、今回、転勤が決まりまして・・・。」
 「もう、ショックで、口も利けないですよー。」
  冗談めかして大きな声で笑いながら、でも、それこそが真実。

  人妻の、恋は。
  もうそれだけで完結している、さびしい物語。
  ひたむきに咲き続けても実ることの無い、ニオイスミレのように。

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