イースターエッグ
2004年4月25日 内科医レインと人妻フィーネの物語ーツ・ナ・ガ・ル イースターエッグ重くて 罪深き
十畳ほどのサンルームに、春の日がいっぱいに差し込んでいた。
壁にもたれて、窓際の花鉢を見ている。
大きなサンセベリアの鉢にもたれて眠っていた、ペルシア猫が、巨体をゆすってわたしのそばに来る。
にゃ。
小さな声。
のどからおなかにかけての柔らかさを楽しみながら、軽くもむように撫でてやる。
気持ちよさそうに、目をつむる猫。
その顔を見ていると、「レイン」の顔を思い出す。
あの最中、いつ見ても目を閉じていたレイン。
「ママ!。」
娘の声がして、わたしは「フィーネ」から、「ママ」へと引き戻される。
「なあに。」
「あのね、犬のおまわりさん、弾いて!。」
「ピアノ?。」
「うん。弾いて。」
「・・・ピアノは、パパに弾いてもらいなさい。」
わたしが、この家でピアノを弾かないのには理由がある。
婚約式の後、両家の両親ときょうだいが揃って、夫の実家であるこの家に集まったときのこと。
夫の母親が、わたしに何か弾くように勧めた。
とまどったが、簡単な座興になれば、と思って、ベートーベンの小品を一曲だけ、弾いた。
夫の家族は、おおげさなくらい拍手をしてくれた。
「すばらしいわ。ほんとうに上手なのね。」
夫の母親は言い、そうして、夫にも続けて弾いてごらんなさい、と笑った。
「えーっ、いやだよ。オレなんか、バイエルしか終わってないんだから。」
それでも、しぶしぶ、といった感じで、
「じゃ、オレもベートーベンで行きます。」
そして弾いたのは「エリーゼのために」。
夫のピアノを聴くのは初めてだったが、難なく弾いている。やはり、それなりにきちんとレッスンを積んでいるのだ、そういう家庭に育ったのだ、と思わせるのには十分な出来であった。
しかし、その後。
一同の拍手に、大げさに頭を下げてみせた後で。
ピアノの前から離れずに、数節だけ鳴らしたそれは。
ショパンの「雨だれ」。
鍵盤の上を走り回るしなやかで的確な指を、わたしは唖然として見ていた。
何が「バイエルしか終わってない」よ。
難易度Dクラスの難曲を、すらすら弾いてみせられるくせに。
あのときから、一度も、わたしはここのピアノには触れていない。
向こうの部屋から、娘たちが夫をけしかける声がしている。
猫の耳が、神経質にぴりぴり動く。
その耳の後ろをそっと掻いてやていると、ようやく「犬のおまわりさん」の前奏が聞こえてきて、娘たちの大きな歌声が響いてくる。
もうじき、夫の母親が帰って来る。
日曜日のミサの後、母親だけが、神父さまに用事があると言って教会に残ったのだ。
カトリック信者である夫とその家族。
そうして、このわたしは信者では無い。
もしかしたら、娘たちの「幼児洗礼」の話がまた出るのかもしれない。
先日のイースターのミサのときも、その話が出た。
ひとつの宗教を、それがその家庭の宗教だからといって、小さな子供に押し付けるのは、わたしは反対だ。
けれど、そんなことはそうはっきりとは言えない。
結婚のときにも、わたしが信者ではないことを、あれほど気にしていたひとたちなのだ。
くどくど同じところを巡り始めた姑の話に、相槌だけは打ちながら、わたしは手のひらの上のイースターエッグを弄んでいた。
ゆでて彩色された玉子は、ひやりと冷たくて、手になじまない。
案外重く感じるのは、わたしが神の前で罪深い女だからなのかもしれない。
夕べ、初めて、「姦通」の罪を犯しました。
しかも、わたしは、その記憶と、まだたわむれています。
「レイン」。今日は日曜だけど、仕事だと言っていた。
彼が仕事をするところは、うまく想像できない。
わたしの中の「レイン」は、わたしを抱く、というよりも、わたしに抱かれて、静かに目を閉じている、ひとりの男。
それだけのこと。
罪が、始まってしまった。
十畳ほどのサンルームに、春の日がいっぱいに差し込んでいた。
壁にもたれて、窓際の花鉢を見ている。
大きなサンセベリアの鉢にもたれて眠っていた、ペルシア猫が、巨体をゆすってわたしのそばに来る。
にゃ。
小さな声。
のどからおなかにかけての柔らかさを楽しみながら、軽くもむように撫でてやる。
気持ちよさそうに、目をつむる猫。
その顔を見ていると、「レイン」の顔を思い出す。
あの最中、いつ見ても目を閉じていたレイン。
「ママ!。」
娘の声がして、わたしは「フィーネ」から、「ママ」へと引き戻される。
「なあに。」
「あのね、犬のおまわりさん、弾いて!。」
「ピアノ?。」
「うん。弾いて。」
「・・・ピアノは、パパに弾いてもらいなさい。」
わたしが、この家でピアノを弾かないのには理由がある。
婚約式の後、両家の両親ときょうだいが揃って、夫の実家であるこの家に集まったときのこと。
夫の母親が、わたしに何か弾くように勧めた。
とまどったが、簡単な座興になれば、と思って、ベートーベンの小品を一曲だけ、弾いた。
夫の家族は、おおげさなくらい拍手をしてくれた。
「すばらしいわ。ほんとうに上手なのね。」
夫の母親は言い、そうして、夫にも続けて弾いてごらんなさい、と笑った。
「えーっ、いやだよ。オレなんか、バイエルしか終わってないんだから。」
それでも、しぶしぶ、といった感じで、
「じゃ、オレもベートーベンで行きます。」
そして弾いたのは「エリーゼのために」。
夫のピアノを聴くのは初めてだったが、難なく弾いている。やはり、それなりにきちんとレッスンを積んでいるのだ、そういう家庭に育ったのだ、と思わせるのには十分な出来であった。
しかし、その後。
一同の拍手に、大げさに頭を下げてみせた後で。
ピアノの前から離れずに、数節だけ鳴らしたそれは。
ショパンの「雨だれ」。
鍵盤の上を走り回るしなやかで的確な指を、わたしは唖然として見ていた。
何が「バイエルしか終わってない」よ。
難易度Dクラスの難曲を、すらすら弾いてみせられるくせに。
あのときから、一度も、わたしはここのピアノには触れていない。
向こうの部屋から、娘たちが夫をけしかける声がしている。
猫の耳が、神経質にぴりぴり動く。
その耳の後ろをそっと掻いてやていると、ようやく「犬のおまわりさん」の前奏が聞こえてきて、娘たちの大きな歌声が響いてくる。
もうじき、夫の母親が帰って来る。
日曜日のミサの後、母親だけが、神父さまに用事があると言って教会に残ったのだ。
カトリック信者である夫とその家族。
そうして、このわたしは信者では無い。
もしかしたら、娘たちの「幼児洗礼」の話がまた出るのかもしれない。
先日のイースターのミサのときも、その話が出た。
ひとつの宗教を、それがその家庭の宗教だからといって、小さな子供に押し付けるのは、わたしは反対だ。
けれど、そんなことはそうはっきりとは言えない。
結婚のときにも、わたしが信者ではないことを、あれほど気にしていたひとたちなのだ。
くどくど同じところを巡り始めた姑の話に、相槌だけは打ちながら、わたしは手のひらの上のイースターエッグを弄んでいた。
ゆでて彩色された玉子は、ひやりと冷たくて、手になじまない。
案外重く感じるのは、わたしが神の前で罪深い女だからなのかもしれない。
夕べ、初めて、「姦通」の罪を犯しました。
しかも、わたしは、その記憶と、まだたわむれています。
「レイン」。今日は日曜だけど、仕事だと言っていた。
彼が仕事をするところは、うまく想像できない。
わたしの中の「レイン」は、わたしを抱く、というよりも、わたしに抱かれて、静かに目を閉じている、ひとりの男。
それだけのこと。
罪が、始まってしまった。
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