五月雨に溶ける低音 医師の声

 
  入院中、一日だけ、雨の日があった。
  病室には、外の雨音など聞こえるはずも無いのだが、時折、部屋のすみの窓を見やると、若葉がしなやかに身をよじるようにして、雨に打たれているのが見えて、そうすると、雨音も聞こえるみたいな気がしてくるのだった。

 「総室」と呼ばれる六人部屋である。
 子供たちが、次々退院しては入院してくる。
 カーテン一枚で仕切られただけなので、お互いの様子は特に興味を持たなくても伝わってくる。
 隣りのベッドにいるのは1才にもならない女の子。
 M医師の声が、低く、流れてくる。

 本来、チョーコの担当は、このM医師であるはずなのだが・・・。

 現在のアレルギー担当医のM医師が主治医で付くよう、きちんと指名しなかったのは、夫の責任である。救急から小児科へ引き継がれるときに、わたしが付いててやればよかった。
 ここであいまいなことをしたので、担当がH医師になってしまった。
 
 このひと、まず、救急で診てくれたんだが、やたら眠そうであった。
 午前六時すぎ、わからなくもないが。赤いフチのめがねの奥の目も真っ赤で、吸入の間中、やたらあくびを繰り返す。
 いよいよ点滴をしなければならない、という段になった。
 この病院では、点滴や注射など、子供が痛がる処置をする際、親は部屋から退出しなければならない決まりである。
 チョーコは左利きなので、左にはしないで欲しいと希望を言って診察室を出た。
 しかし、待てど暮らせど、呼ばれない。
 ようやく呼ばれたのは何分経ってからだろう、とにかく、いったん戸外まで出て、何本かメールを打ってから戻ってさらに五分近く経ってからである。
 しかも思いっきり左手に刺さっている。
 しかも、右手に三箇所も脱脂綿。
 三回右手で失敗して、左手も一回失敗したのか・・・。 
 子供だから暴れた?しかし、呼吸も自力でできかねるほど弱っている子供がそんなに暴れられるものなのか?。

 チョーコは、このH医師が回診で見えるたびに泣いていた。指を指して嫌がるときもあった。
 よほど、「針刺し」に懲りたのであろう。

 このひとは、白衣の下に、マリンブルーのTシャツなんか着こんで、昼間はコンタクトなのか、血の色のフチのめがねは外している。子供と話すとき、しゃがんで笑うとやんちゃそうな笑顔は、まだとても幼い。こういう場合で無ければ、可愛いお兄ちゃんであろう。やや太りすぎの気もするが。
 外来では、会ったことが無い。いつからここにおられるのかも知らない。
 やたら字が汚い。
 「は」が「10」に見える。
 後日、アレルギー担当医の外来の際、引継ぎでこのひとの字を解読するのに、M医師は本当に手間取り、その沈黙に耐えられなかったのか、診察室の隅で見学していた「研修生」の名札をつけた男の子(わたしから見て)が、次第に船を漕ぎ出す始末。
 その日、隣りの診察室には院長せんせいがおられたので、ふいにこっちに来られて彼の居眠りがバレたらかわいそう、何とか起こしたいけど、刺激ったってスカートめくるわけにもいかないし、チョーコが、
「おにーちゃん、寝てる!」
 なんて叫んだらどうしよう、なんていろいろ気を揉んでしまった。
 
 H医師、しかし、なぜかやたらと入院中に顔を合わせた。
 主治医なので回診時は当然なのだが、「デイルーム」と呼ばれる面会部屋で、レデイコミを読みふけって「挿れて・・・」なんて言い方があるんやーなどと知識を深めていると、チョーコじゃない担当児の様子を診にふらっと入って来られる。
 これが「電池が切れるまで」や「プライマリケア医のための最新栄養学」なんか読んでいるときには、来ない。
 廊下で、すっぴんで歩いていると、向こうから来る。
 前のベッドの「体重が重すぎて気道が圧迫されて喘息になっちゃった赤ちゃん」のお母さんと仲良くなり、「針刺し失敗」について思いっきり悪口を言っていたら真後ろに立っていた。

 主治医との相性の良し悪し、というのはある。
 が、一般的に言うような意味とはまた別のラインで、このひととは相性が悪かったのであろう。
 
 しかし、書きかけていた話の「レイン」のキャラ設定が、実はこのひとに近かったのである・・・。こいつは痛いよ。
  

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