青草
2004年6月9日 ニチジョウのアレコレ青草の苦き悩みの多きこと
嫌いなやつの死を願ったことなら、ある。
交換日記に思い切り悪口を書いていたことも、ある。
そいつの、少しばかり短く切りすぎた前髪をあざ笑い、好きな男の子にからかわれて、ぶつ真似をするときの、にやけた表情をさんざんバカにした。
わたしの書く小説には、彼女だとあからさまに分かる悪役が登場し、周りの女の子たちは、別に彼女とうまくいっていなかったというわけでもないのに、その小説を支持してくれていた。だから、図に乗って、バシバシ書いてやっていた。
小学校六年生の頃である。
あのときのわたしと彼女を見て、担任の先生は「仲が良い」と判断していたと思う。いっしょに帰ることが多く、放課後も遊んでいた。
そして、わたしは彼女のイヤな部分をつぶさに観察し、嫌だな嫌だな、死んでくれないかなと毎日思いながら、交換日記を悪口で埋め、小説の中で彼女を失恋させていた。
長崎の事件を知って思った。
なんでわたしは殺さなかったのだろう。
そして、なんで殺されなかったのだろう。
わからない。
ただ、あのとき、彼女にケガをさせるようなことをしたり、皆の前で追い詰めたりしたら、自分に不利だと思っていた。
死んだら誰もが天使扱いされるのだ。
彼女が死んだら天使になってしまう。
あいつが天使なんて絶対に気にいらない。
悪いのはあの子なんだよ。
だけど、あたしが殺したら、あたしだけ悪い子って扱われるじゃん。
それは嫌、絶対に嫌。
そうだ、だから殺さなかったのだ。それだけの理由だ。
・・・娘が二人、いる。
命の大切さ、とやらを教えることはもちろん大事だ。
が、「殺したい」という少女期の感情を押さえ込むのには、もっと現実的な教育・・・といってわるければ、現実的な手段を教え込む必要がある。
たとえば、人殺しをして捕まったら、それほどの賠償金を支払わなくてはいけないか、だとかね。
現実に思春期を乗り越えるって、そういうことなんじゃないだろうか。
そしてそれはもちろん、それは親がするべき仕事である。
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