汗の甘味
2004年6月30日 内科医レインと人妻フィーネの物語ーツ・ナ・ガ・ル汗にやや甘味あること知るは罪
「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと
愛したことを思い出すヒトとにわかれる」
辻 仁成「サヨナライツカ」より
この前に読んだときには、どちらだろうかと迷った女である。が、今は迷わない。
愛したことを思い出す。
間違いなく。
男は、あさって、タイに向かう。
「サヨナライツカ」で、豊が沓子に出逢い、愛し合った国へ。
軽々と旅立つ男が、まぶしい。
そして、旅立つ前に、一度だけでも愛し合いたいと告げるメールをよこす男が、切ない。
ヒトは、いつ、どこで間違えたのかハッキリと自覚しないままに、あっさり禁断のラインを踏み越えてしまうことがある。
今、女は、自分たちのそれがいつであったのか、ぼんやりと考えている。おそらく、せわしなく行き交ったメールのうちのどれか、が引き金になっていることは確かであろうのに、それがどれであったのか、分からない。
自分がそうなることを望んだのか、男の「押し」に負けたのか。
だけど、気が付いたときには、もう既に、女のしなやかな腕は、男の肩に巻きついてしまっていた。
いや、こういうふうに、考えるのは間違っている。
このことを、何かの事故のように設定するのは。
望んで、いたのである。
年下の独身男、仕事が忙しくて意外に不器用な内科医が、自分を「どうにか」してくれることを。
今回のタイ行きは、バカンスだと言うが、その先にビジョンがあることは、二人のメールが、まだ艶めいたり、赤面したりというような内容に彩られていない時に語られているから、知っている。
サヨナライツカ。
あなたの厚い胸板にすべる汗に、そっと舌を這わせて、そのまま、あなたの大好きなことをしてあげる時間に。
こらえきれずに、小さく声を立てるあなたに構わずに、もっと激しく攻め立ててみたり、逆に突然、すべてを投げ出すように、あなたの上にまたがってみたり。
そういう行為だけが、愛することだとは決して思わないけれども、愛しても愛し足りないと感じるとき、その気持ちを表す方法として、肌を重ねて苛めるように慈しみあうことは、気持ちを伝える表現のひとつ、それは間違いない。
ケータイが、震える。
いつか、二人で行きたいね。
文字を見て、思わず微笑む。
人妻に言う言葉じゃないよ。
だけど、そうだね、と打って返す。
年をとるということは、果たせない約束を増やしていくということなのだと、悲しいほどに理解しながら。
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