病葉
2004年9月13日 ニチジョウのアレコレ病葉の葬列のごと舞ひて行く
塩害で、紅葉は台無し。
寂しい秋になりそうである。ケータイの待ち受けを、春は桜、初夏は若葉、夏は朝顔、と替えて遊んできたのに、秋はまだ模様替えできずに、いる。葉脈の一本一本まで真っ赤なフウの葉を撮りたかったのにな。
海風にやられて、カサカサに枯れるにしても、霜の降りる中で、赤々と燃えながら散るにしても、どちらにしても、葉は落ちる。
秋が来れば、いずれは死んでいく運命なのだ。
しかし、消えて行くことが分かってはいても、できれば、フウならフウの、イチョウならイチョウの、最大に力を尽くしたと見える姿を見送ってやりたかったな、なんて思う。
死は、どんな生きものにとっても、避けられないものなのだから。
友達から借りた「ブラックジャックによろしく」の6巻に、こういう言葉が、ある。
「医者と患者は三人称であるべきだ。」
ガンの告知に関するシーンである。一人の医者が、一人のガン患者と、人間同士として真剣に向き合い、「彼・彼女」という三人称の関係を超えて(先の言葉に従うなら、それは禁断の選択ということになる)、「私・あなた」という二人称の関係へと踏み込もうとする葛藤を描いているシーンである。
死を真ん中に挟んで対峙した、二人の人間が、果たしてどこまで「三人称」でいられるのか。息詰まる場面。
教会のミサを思い出した。
神父が死を語るとき、それは、いつでも「私・あなた」の二人称である。そして、それ以外は考えられない。最も、教会では究極の「一人称で語られる死」があるのだが。それは、もちろん「人間たちの罪を負った神の子イエス・キリストの、死」(そして復活)である。
しかし、生きものにとって、あえて考えを及ぼさなければ、自分以外の生物の死は、三人称なのである。医者に限らず、そうで無くては生きられない。
だから、考えをおよぼさなくてはならない事態・・・それはつまり、自分にとって大切なひとが死に直面したとき、ということであるが・・・になったとき、どこまで「二人称」あるいは「一人称」になれるのか・・・そこでは、真の信頼関係が試される。死、に至るまでの、生、をどう過ごしてきたか、つまり、お互いがどう関わり合ってきたかということが問われる。
俳句日記を書いていると、しばしば、この「人称」の問題で頭を抱えることになる。
俳句で表現されたことは、全て一人称、つまり「わたし自身」のことと解釈される。
それは、まあ、それでいい。
問題はその後に続く「お話」の部分である。
これを、「彼女」の話として書くのか、「わたし」の話として書くのか、毎回、実は悩んでいる。架空のことであっても、ヒロインの中にどこまで入るか、話の「温度」がそこで違ってくるのだ。
なので、医療の現場を舞台にし、人の生死を扱った物語の中でも、この言葉には強い磁力を覚えた。
最も、医療関係者では無いから難しいことはわからないし、現場の感覚にも見当が付かない。
しかし、「三人称で死を語ることの限界」を、この研修医を主人公に据えたストーリーを読み進むうち、其処此処に感じた。
もしかしてそれは、「科学の限界」というものなのかも、しれない。
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