毛糸帽
2004年12月25日 恋はセッション。ハナとジュンの物語ーミステイ 音楽の神様に逢ふ 毛糸帽
ドアを開けてステージを見ると、グランドピアノとツリーだけがあった。仕事先で多少のトラブルがあり、気が重いところへ、
「惜しかったなあ、もう少し早く来れば、叩いてたのに。」
と、ジュンの声だ。「僕の、ジャズメン・メドレー。見せてあげるって言ったでしょ、この前。」
そうだった。
「アート・ブレイキーと、誰だっけ。」
「アート・ブレーキーから、バデイー・リッチに行って、そこからジーン・クルーパに至るという・・・。」
「すごい芸。」よく分からないなりに驚いて見せると、ジュンは屈託なく微笑む。「そう。すごい芸。」
音楽好きが音楽について語るとき、どうしてこうも無防備になってしまうのだろう、そんなことを思いながら、カウンター席に座る。
「だけど、今日はもう片付けちゃったから、また今度、だな。」
今夜のジュンは、茶色に青みがかった緑色を重ねた色の毛糸帽を被っている。だから、よけいに少年ぽくて無邪気に見えるのかもしれない。
今夜のライブは、クリスマスのミニライブ。基本的に、ピアノ・ソロで、数曲だけ、ボーカルが入る。そのボーカリストが、今のわたしのジャズボーカルの先生、ということなのだ。
「アン先生は何を歌うって?」
「ピアニストの気分次第らしくて、ちゃんと教えてもらってないけど、エラ・フィッツジェラルドのナンバーだって。」
「ハナさんは、まだ歌わないの?」
「わたしは、まだその域まで行ってないもの。」
「イキ?」
「レベル。まだ人前で歌えるようなレベルじゃないってこと。」
「ふうん、そう。」ジュンは、首をかしげて少し考え込む表情になった。「まあ、お金をもらえるかどうか、っていう意味でのレベル、ってのは分かるけど。あとは・・・よく分からないな。ま、そのうち、セッションしようよ。ピアノでもいいからさ。」
ピアノでも、ボーカルでも、セミプロ級のあなたとセッションなんて無理だわ。
そう言おうとしたけれど、言わなかった。もしかしたら、わたしのこの消極性が、音楽から遠ざかってしまっていた原因だったかもしれない。深く考えずに、もっと、のびのび演っちゃったら、案外、人前でもなんとかやれるかもしれないのだ。
せっかく歌うことを決めたのだ。前向きに行かないと。
ちょうど、飲み物が置かれたこともあって、わたしたちは口をつぐんだ。狭い店内が、少しずつにぎわい始める。ここがハネたら、ルミナリエに行くのよ。誰かが、そんなことを言っているのが聞こえる。華やいだ声。
「夕べは、どう過ごしたの。だんなさんと食事にでも行った?」ジュンの声からは、何も読み取れない。そのことに少し傷ついている自分に少しいらだちながら、わたしは答えた。
「教会に行っていたわ。ミサに出ていたの。」
「ふうん。クリスチャンなんだ。」
「そう。夫が、だけど。」なぜか、夫と自分とを分けた表現で話している。ジュンを前にすると、どうしてこうなるのだろう。「あなたは?」
「僕は、クリスチャンじゃないから、家でのんびりしてたよ。」
奥様と。
言おうとして、やめる。余計なことだ。ほんとうに、このひとの前だと、わたしってすごく不器用になってしまう。フローズン・ダイキリが、なんだか苦い。そんなふうに感じたことはないのに。
最初の曲は「もみの木」だった。ピアニストは、まるで、大切な玉子でもあたためているようなデリケートなタッチで鍵盤と戯れる。クラシックから入ったひとなのかもしれない。そういう手つき。
傍らのひとを、そっと見てみると、目をつむっている。いつのまにか帽子を取り、ウィスキーのグラスを手にするともなく手にして、穏やかにピアノに耳を傾けている。
気持ちが、動く。
このひととは、友達でいようと、決めた。だから、心を動かしては、いけない。
再び、ステージに目を向けると、曲が終わったところだった。
演奏されたクリスマスソングの何曲かは、イブの夜に教会で歌ったものだった。ジャズアレンジがほどこされていても、それは、やはり聖歌なのだった。いや、ジャズは、そもそも黒人霊歌から生まれたものだったかしら。
技術的におそろしく長けているとも思えなかったが、ひとつずつの曲を、とても丁寧に弾くピアニストだった。それは、まるで演奏する、というよりも、祈りを捧げる、といった方が似つかわしく思われるようなプレイだった。
やがて、ボーカリストが、純白に光るドレスを身に付けて現れる。歌は「荒野の果てに」。
Gloria in excelsis Deo
Gloria in excelsis Deo
伸びのある声は暖かく、狭いフロアいっぱいを包み込むみたいに思えた。
いつか、わたしも、こんなふうに歌えたら・・・。
余計なことは何も思わない。ただ、音楽が好き。それだけで、もう十分だと思った。しかも、同じ空間に、同じ音を共有できるたいせつなひとがいて・・・それが、恋人でなくても、友達でもいい・・・これ以上に、何も望むことは、無いのだ。
そして。
ボーカリストが、優雅にお辞儀をしたとき、いっぱいの拍手の中で、ジュンがそっとささやいた。
「僕は無神論者だけど、それでも思うよ。音楽の神様だけは、きっと、いるって。」
そう。音楽の神様だけは、きっといる。
ライブの熱にうかされながら、心からそう思いながら、自分が限りなく満たされていくのを感じていた。
ドアを開けてステージを見ると、グランドピアノとツリーだけがあった。仕事先で多少のトラブルがあり、気が重いところへ、
「惜しかったなあ、もう少し早く来れば、叩いてたのに。」
と、ジュンの声だ。「僕の、ジャズメン・メドレー。見せてあげるって言ったでしょ、この前。」
そうだった。
「アート・ブレイキーと、誰だっけ。」
「アート・ブレーキーから、バデイー・リッチに行って、そこからジーン・クルーパに至るという・・・。」
「すごい芸。」よく分からないなりに驚いて見せると、ジュンは屈託なく微笑む。「そう。すごい芸。」
音楽好きが音楽について語るとき、どうしてこうも無防備になってしまうのだろう、そんなことを思いながら、カウンター席に座る。
「だけど、今日はもう片付けちゃったから、また今度、だな。」
今夜のジュンは、茶色に青みがかった緑色を重ねた色の毛糸帽を被っている。だから、よけいに少年ぽくて無邪気に見えるのかもしれない。
今夜のライブは、クリスマスのミニライブ。基本的に、ピアノ・ソロで、数曲だけ、ボーカルが入る。そのボーカリストが、今のわたしのジャズボーカルの先生、ということなのだ。
「アン先生は何を歌うって?」
「ピアニストの気分次第らしくて、ちゃんと教えてもらってないけど、エラ・フィッツジェラルドのナンバーだって。」
「ハナさんは、まだ歌わないの?」
「わたしは、まだその域まで行ってないもの。」
「イキ?」
「レベル。まだ人前で歌えるようなレベルじゃないってこと。」
「ふうん、そう。」ジュンは、首をかしげて少し考え込む表情になった。「まあ、お金をもらえるかどうか、っていう意味でのレベル、ってのは分かるけど。あとは・・・よく分からないな。ま、そのうち、セッションしようよ。ピアノでもいいからさ。」
ピアノでも、ボーカルでも、セミプロ級のあなたとセッションなんて無理だわ。
そう言おうとしたけれど、言わなかった。もしかしたら、わたしのこの消極性が、音楽から遠ざかってしまっていた原因だったかもしれない。深く考えずに、もっと、のびのび演っちゃったら、案外、人前でもなんとかやれるかもしれないのだ。
せっかく歌うことを決めたのだ。前向きに行かないと。
ちょうど、飲み物が置かれたこともあって、わたしたちは口をつぐんだ。狭い店内が、少しずつにぎわい始める。ここがハネたら、ルミナリエに行くのよ。誰かが、そんなことを言っているのが聞こえる。華やいだ声。
「夕べは、どう過ごしたの。だんなさんと食事にでも行った?」ジュンの声からは、何も読み取れない。そのことに少し傷ついている自分に少しいらだちながら、わたしは答えた。
「教会に行っていたわ。ミサに出ていたの。」
「ふうん。クリスチャンなんだ。」
「そう。夫が、だけど。」なぜか、夫と自分とを分けた表現で話している。ジュンを前にすると、どうしてこうなるのだろう。「あなたは?」
「僕は、クリスチャンじゃないから、家でのんびりしてたよ。」
奥様と。
言おうとして、やめる。余計なことだ。ほんとうに、このひとの前だと、わたしってすごく不器用になってしまう。フローズン・ダイキリが、なんだか苦い。そんなふうに感じたことはないのに。
最初の曲は「もみの木」だった。ピアニストは、まるで、大切な玉子でもあたためているようなデリケートなタッチで鍵盤と戯れる。クラシックから入ったひとなのかもしれない。そういう手つき。
傍らのひとを、そっと見てみると、目をつむっている。いつのまにか帽子を取り、ウィスキーのグラスを手にするともなく手にして、穏やかにピアノに耳を傾けている。
気持ちが、動く。
このひととは、友達でいようと、決めた。だから、心を動かしては、いけない。
再び、ステージに目を向けると、曲が終わったところだった。
演奏されたクリスマスソングの何曲かは、イブの夜に教会で歌ったものだった。ジャズアレンジがほどこされていても、それは、やはり聖歌なのだった。いや、ジャズは、そもそも黒人霊歌から生まれたものだったかしら。
技術的におそろしく長けているとも思えなかったが、ひとつずつの曲を、とても丁寧に弾くピアニストだった。それは、まるで演奏する、というよりも、祈りを捧げる、といった方が似つかわしく思われるようなプレイだった。
やがて、ボーカリストが、純白に光るドレスを身に付けて現れる。歌は「荒野の果てに」。
Gloria in excelsis Deo
Gloria in excelsis Deo
伸びのある声は暖かく、狭いフロアいっぱいを包み込むみたいに思えた。
いつか、わたしも、こんなふうに歌えたら・・・。
余計なことは何も思わない。ただ、音楽が好き。それだけで、もう十分だと思った。しかも、同じ空間に、同じ音を共有できるたいせつなひとがいて・・・それが、恋人でなくても、友達でもいい・・・これ以上に、何も望むことは、無いのだ。
そして。
ボーカリストが、優雅にお辞儀をしたとき、いっぱいの拍手の中で、ジュンがそっとささやいた。
「僕は無神論者だけど、それでも思うよ。音楽の神様だけは、きっと、いるって。」
そう。音楽の神様だけは、きっといる。
ライブの熱にうかされながら、心からそう思いながら、自分が限りなく満たされていくのを感じていた。
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