ときに手をさしのべられて桜かな

  花の季節に生まれてしまったので、花の季節に年をとらなければならない。
  若い頃は、頬にふれる風が柔らかくなり、桜の幹が甘く発情し始めると、ああ、またひとつ年をとるんだな、という憂鬱だけを感じた。
  でも、いつの頃からだろう、この「年をとる」という感覚に加えて、もうひとつの想いが加わった。
  
  あと何回、この花を迎えられるのだろう。
 
  そんな想い。

 「誕生日プレゼントは何も買わなくていい。だから、一日、完全なお休みをください。」
  そうして得た「誕生日特別休日」に、桜を見に行った。
  山の桜は、静かに咲いていた。
  晴天に恵まれた週末の真昼、山道は人々の笑い声と、屋台の呼び込みの声であふれていたけれど、花は、ただ、咲いていた。やるべきことを、文字通り自然にこなしている生きものの自信を感じた。
  この一年、激しい雨に打たれることも、根こそぎ倒されようかという強風に煽られたこともあっただろうに。
  重い雪に枝をおしつぶされそうにもなったかもしれない。凍てつく夜には枝も幹も凍りついていただろう。
  それでも、受けたダメージを微塵にも出さずに、今はただ、花を枝先からこぼれんばかりに咲かせている。ある木は薄紅色に、またある木は鮮やかな桃色に。雪のように白い花を付けている木もある。それぞれが、それぞれに、それぞれの想いをあふれさせるように、周りの空気を自分の色で染め上げながら、小さな花々を枝いっぱいに揺らしている。
  激しくも、淡々と。

  だが止まることの無い時の流れの中で、間も無く、桜は散る。
  そして、わたしもいつしか死んでいく。生きものとして悩みながら喜びながら、なすべきことは何かをつかんだりつかみそこねたりして、それを繰り返しながら、いつかは散る。
  わたしは、命が消える年まで毎春、桜に出会い、桜にあこがれて生きるのだろう。山にあふれる桜を求めて訪れた多くの人々と同じように。そして、わたしやここにいる人のすべてが花を見送らなくなっても、繰り返し、繰り返して桜の木々は花々をあふれさせるのだ。

  それが自然というものなのだろう。
  
  ならば、年をとることを、怖がらないで生きたい。時という悠長な流れの中の、ちいさな生きものの一つとして、しなやかに生きて、死にたい。

  それでも。
  わたしは、肩に置かれている手のひらの温かさに願をかける。愛という感情を抱いて生きる生きものとして、この時間だけは永遠であってくれたら、と。
 

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年7月  >>
293012345
6789101112
13141516171819
20212223242526
272829303112

お気に入り日記の更新

最新のコメント

この日記について

日記内を検索