私に、かわれてみませんか。
2005年6月29日 ニチジョウのアレコレ「かわれて、みませんか。私に。あなたとなら、息の合った関係がつくれそうだ。」
電話の向こうから聞こえてきたのは、あくまでも冷静な声。
わたしは、「かわれる」を頭の中で漢字に変換しようとして、おろかにも沈黙してしまっていた。つまり「買われる」のか、「飼われる」のか。
「もちろん、あなたを監禁しようなんて、思っていませんよ。こういうのは信頼関係あってこそなんだ。お互いに、まずはことばから、相手を信じて初めて成り立つ関係なんだ。」
男は、30才だと言った。職業をたずねると、医者だと答えた。唐突にかかってきた電話。新手の「イタ電」だった。受話器を取ったとたんに、耳元にこぼれてきたのは、
「今から言うことを繰り返してください。」
という、少し高めのトーン。冷静な口調で、静かに、
「ご主人様。これから、わたしを思いのままにしてください。それが、わたしのよろこびです。」とゆっくり言って、
「さあ、繰り返してください。」
と、続けた。それは、「パートナー探し」をしている「S」の男性からの「イタ電」だった。よりによって、三十過ぎの、子持ちの女に引っかかったわけだ。わたしは、とっさに受話器をフックにかけようとしたのだが、怒りにかられた弾みで口走ってしまった。
「一方的に暴力をふるって快楽を得ることは、どんなタイプの趣味であれ、興味がありません。」
「SMを、勘違いしてますね。あれは、バカがやるとただの暴力になるんだ。そうじゃない。身体にも、もちろん、心にも、いっさい傷はつけない。まずは、信頼関係。ことばの積み重ねこそ、たいせつなんですよ。」
いつしか、男の話き聞き入っていた。
ことばの積み重ねによる信頼関係の構築、だって、それは、わたしが結婚生活で最も渇望していたものだったから。わたしは、パートナーからなんらことばをもらえないまま、夜毎にいたぶられてきたのだった。おそらく、「緊縛」という、その趣味があれば相当の快楽をもたらす方法で。
「でも、いためつけられて快感を得ることは、わたしには無いと思います。」
どんなに愛している相手でも、暴力的な目つきをされただけで怯えてしまう、それをわたしは身を以って知っている。でも、もちろん、そんなことは電話の向こうの男は知らない。
「それは、興奮の相乗効果を知らないからです。
あなたが興奮すると、私は興奮する。そして、双方が高まっていく。
そういうものなんですよ。」
わたしは、ため息をついた。
「興奮することで、お互いを刺激しあうことは、知っています。だけど、それは、ごく普通の恋愛でも起こりえること。あなたのいうような、主従関係とは違う気がします。」
「主従関係とも違うんです。」
結局、「S」なその男とは、20分近く話した。最後にメルアドを聞かれて、答えなかったときに言われたのが、私にかわれてみませんか、だったのだ。
「あなたは、私もを理解してくれようとしている気がする。そして、私も、そんなあなたに惹かれるものがあります。もしもあなたが金銭的に困っているなら、私はあなたをかってもいい。」
このひとさびしいのだな、と感じた。孤独な心は、無意識に孤独な心と共鳴するのだろうか。
「わたしはDVに遭いました。だから、あなたの言うことに興味を示してしまいました。でも、今、傷ついています。」
男は、メルアドを告げた。そして、電話は切られたのだが、その直前にもう一度、
「SMは、暴力とはまったく別なものです。それは高度に知的な遊びと思ってもらっていい。それを理解して、私のパートナーになってください。」
と、繰り返すのを忘れなかった。
電話を切ったあと、無性にむなしくなって、それから怖くなった。どこからか届けられた男の声に簡単に傷つけられる自分の心を嫌悪した。
蒸し暑い夜風が、薄汚れたカーテンを押し倒すようにして部屋に入り込んできていた。
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