天高し 天に届けと 加速する

  この夏、初めて子供二人を連れて、車を駆って実家まで帰った。

  3時間ばかりの距離だから、そう大したことは無い。愛車の調子は良く、加速は、気持ちがいいほどこちらの望み通り。北陸道で先が見えないほどの集中豪雨に見舞われたくらいが計算外の出来事だった、というそれだけのことだ。
  だから、夫から「これで運転に自信がついたやろ」というメールが来たときには、首をかしげた。
  田舎出身だから、生活にクルマは欠かせなくて、通勤で毎日ハンドルを握っていたわたしに、今更「自信がついた」とか言われても・・・。

  男はどうして、女に対し、自分が「上」であると思い込むのだろう。
  運転も、仕事も、そしてセックスも。
  「男が女を開発していく」という図式になるのは、なぜ?

  ここで、いきなり話が飛ぶのだけど、「愛の流刑地」という新聞小説がある。
  「失楽園」のワタナベ先生のお書きになっているもので、日経新聞の文化欄で連載中の「話題作」である。
  ヒロインは37歳、専業主婦、北陸出身、子持ち。
  この経歴がほぼわたしと同じなので、興味深く読み始めた。ものの、あまりのリアリテイの無さについていけなくなってしまった。
  イマドキ、こんな37歳女はいないであろう。
  と、思いつつ、それでも、不倫中で夫が横暴、というところなど、ほかにも共通項があることから、なるべく好意的に読んできたつもり、なんだけど・・
  やはり、どうしても理解できなかった。
  「こんな身体にされちゃって・・」
  などという言葉が、わからない。
  男は知らないけど、女の性的快感は、気持ちの部分が大きいように思う。言うまでもなく、「愛している」という大きな心のうねりがあってこその「快感」ではないのか。
  だから、「オレがあいつを開発してやったんだ」というようなことを思っている男の方は、そうではなくて「彼女はオレを愛してくれたからこそ、あんなに燃えたんだ」と、せめてそういうように解釈して欲しい。あるいは、彼女は単に動物のメスとしてオスを求めていただけなのかもしれないけど。
  ポイントは、快感のツボは女自身が握っているのだ、ということ。
  「こんな身体になっちゃって・・。」
  であったならば、少しは理解できるんだけどな。
  それでも、「なんでこのおっさんなん?」という疑問はずっと胸にわだかまっていた。かつての憧れのひとだから?ものすごくお金をつかって逢瀬をアレンジしてくれたから?まあ、恋愛とはそういう「なんやらわからんけど、このひとでないとあかんねん」というものだから、冬香サンもそうだとしよう。
  でも、ある一言で、わたしは「これは、わからん」と思い、好意的にとらえることを放棄した。それが、

  「愛で死なずに、なんで死ぬの?・・・」
 
   だった。

  あの一言は、正直キレた。
  なぜなら、ちょうどわたしが瀬戸際でふんばっていたからである。ここですべてをあきらめて、人形みたいに、心を殺してしまおうかな、と。
  子持ちの女は、愛に溺れてしまうというわけにはいかないのである。母親が存在している意味は、子を育てることにあるのだ。わたしがいなくなれば、明日のお弁当はだれがこしらえるのだ?体操服の名札がとれたのは誰が縫うのだ?幼稚園の送迎やら学校行事のサポートやら、そういうことが一気に滞ってしまう。わたしの人生は、弁当であり、泥だらけの体操服なのだ。夜中に何をされようと、朝には起きて、台所に立たねばならない。バス停で、お迎えの先生に笑いかけなくてはならない。
だから、無理やりにでも生きなくては、自分の命をつながなくては、いけない。

 「愛で、生きずに、なんで生きるの?」
  
  愛するひとがいるのなら、その心意気でなきゃやってられない。大体、冬香サンの末子は、わが娘チョーコと同じだったと思う。だったら、菊治サンのマンションを一歩出たら、そこで、子供の翌日の弁当のおかずのことが頭をよぎらないわけがない。夫から「子は置いて出て行け」と言われて泣き崩れているほど、大切にわが子を育てている女なら。

  男女の愛なんて、破滅に向かうほうが楽なんじゃないか。

  まして、不倫関係ならば。
  わたしも、このままこのひとに殺されたらしあわせだな、と思うこともある。そういう儚さがまったく似合わない自分であり、彼であるにも関わらず。

  それを、生きることに向けることの、なんとややこしいこと。なんとエネルギーを必要とすること。不毛の土地に作物を植えようとするみたいな辛抱強さと、その愛への信頼がなくては、とても不倫の恋はつらぬけない。中途半端で終わらせる気なら、最初からしないほうがいい。本気になればなるほど、破滅に近付く。そして、火遊びなら、それは恋ではない。

  
   で、結局、冬香サンは「愛で死ぬ」ことになった。
   と、いうか、「死なせられた」。
   この意味は、菊治サンによって、という意味もあるけれど、作者によって、そうして、「男」によって、そうなってしまった、と思う。

   男の大きな胸に包まれるのは、嬉しい。
   男の分厚い手のひらに、両手を預けるのも。
   男の力にかなわないのも、その力に護られる自分を感じれば、それは限りない幸福に包まれることだ。
  
   女は、男が好き。

   だから、そこに確実に愛があるならば、多少小バカにされようが、ないがしろにされようが、構わない。ただ、女にも今日まで生きてきた時間があって、それはミルフィーユのように丹念に積み重ねられた大切な月日である、ということを、男のひとには忘れないでほしい。
 
   あなたの上に流れた時間たちは、わたしの上にも流れたのよ。

   

 

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