星祭り
2002年7月12日 滝とのことークリの花(完結)「連載」にお付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。
自分の書いたものを毎日(というわけには参りませんでしたが)少しずつ読んでいただく、なんてことは、高校生以来でした。あの頃、ノートにお話を書いては、お友達に読んでもらっていたんです。よく考えると、小学生の高学年位からそういうことをしていました。「お話」をつくることが、本当にすきなんだと思います。
ただ、今回、一話につき、ひとつ俳句を入れていくのが思いの他しんどかったです。単に俳句が思い浮かばずに苦しむ、ということばかりでなく、季節に縛られてしまうので、たとえば、時間をひとつ先の季節まで進めてしまう、というようなことができず、この話も、結局「わたし」と「滝」が恋人同士でいられたのは、梅雨の間だけだったのか、みたいなことになってしまい、そこらへん、詰めの甘さを感じております。
いろいろわかりにくい表現もあったと思いますし、果たしてこれが毎度毎度読んでいただけるほどのもんやったんか、といろいろ考えると恥ずかしくて踊り出しそうなので、まあ、この「お話」の話は今日でおしまいにいたします。
どうも、ありがとうございました。
で、あともう少しだけ、「裏話」を秘密日記に書いておきます。
短冊に書けぬことある星祭り
あ、あと、わたしは、決してタッチが上手では無いので、しょっちゅう「滝」を「たこ」と打ってしまいました。結構、わずらわしかったです。
自分の書いたものを毎日(というわけには参りませんでしたが)少しずつ読んでいただく、なんてことは、高校生以来でした。あの頃、ノートにお話を書いては、お友達に読んでもらっていたんです。よく考えると、小学生の高学年位からそういうことをしていました。「お話」をつくることが、本当にすきなんだと思います。
ただ、今回、一話につき、ひとつ俳句を入れていくのが思いの他しんどかったです。単に俳句が思い浮かばずに苦しむ、ということばかりでなく、季節に縛られてしまうので、たとえば、時間をひとつ先の季節まで進めてしまう、というようなことができず、この話も、結局「わたし」と「滝」が恋人同士でいられたのは、梅雨の間だけだったのか、みたいなことになってしまい、そこらへん、詰めの甘さを感じております。
いろいろわかりにくい表現もあったと思いますし、果たしてこれが毎度毎度読んでいただけるほどのもんやったんか、といろいろ考えると恥ずかしくて踊り出しそうなので、まあ、この「お話」の話は今日でおしまいにいたします。
どうも、ありがとうございました。
で、あともう少しだけ、「裏話」を秘密日記に書いておきます。
短冊に書けぬことある星祭り
あ、あと、わたしは、決してタッチが上手では無いので、しょっちゅう「滝」を「たこ」と打ってしまいました。結構、わずらわしかったです。
青栗
2002年7月11日 滝とのことークリの花(完結)青栗の熟さず落ちて静かなり
結局滝の結婚式は、一年後になった。
滝の父親が郷村俊枝を気に入らなかったから、というのが、結婚が遅れた原因らしい。でもそれは、例によって「更衣室情報」だから、真相は分からない。
わたしは、窓辺に立って、栗の木を見ている。
大きな栗の木。悩ましい匂いをふりまく花の季節を終えて、若葉はいよいよつややかに、生まれたての夏の光を求めて揺れる。
風が流れると、木も流れる。ゆっさりと。
滝とは、あの日、くるまから突き落とされて以来、会っていない。
藤城とは、仕事の上でだけの関係でいる。時々何か言いたそうだけれど、わたしは鉄壁の笑顔で追い返している。
この一年のうちに、二人の人とお見合いをし、何人かの男の人とふたりだけで食事をした。でも、結局、誰ともステデイにはならずにいる。
率直に言ってしまうと、滝と別れて以来、誰とも寝ていない。
滝への未練、まあそういうこともあるだろう。
会いたくて泣いた夜もあるし、もう少しで電話してしまいそうになった夜更けもあるし、会社まで行ってしまおうかなどと、ストーカーまがいのことを考えた夕暮れもある。
だけど、何もしなかった。
愛しているから別れよう、と言ったあのときの言葉を、切りたい女へのずるい言い訳にしてしまわないために。
結納が決まったときには、さすがにつらかったけれど。
「・・・いいのか、これで。」
残業時間にぼんやりと、喫煙室の壁によりかかっていたら、大田がどこからかやって来てそう言った。
「・・・よくは、無いですけど、もう、いいんです。」
大田はいぶかしそうにわたしを見た。
「おれはあいつを見損なったよ。」
「でも、今でもくっついているらしいじゃ無いですか。」
「まあな。でも、あんなふうに誰かのものにあっさりなれるやつだと思ってなかったから。」
わたしは少し笑う。
「誰かのもの、だなんて、女の人のことを言ってるみたい。」
「そうかな。」
なぜか赤くなり、大田はうつむく。
この人は、どこまで知ったのだろう。あの別れの日、あの後、滝は大田にどう説明したのだろう。
最も、からだの関係のある男と女のことは、当事者にしかわからないのだ、真実は。
いつか、滝がわたしのことを思い出したときに、愛し合った記憶が切なくていとしければそれでいい。
いつか、女としては存在しなくなる妻とは違い、記憶の中の恋人は、色褪せることは無いのだから。
熟さなくとも、青い実はつややかに光り続ける。
結婚に至らなくて終わってしまう恋は無数にある。嵐が通り過ぎた後に庭中に散らばる青い栗の実よりもたくさん。
でも、結婚することが、本当に一番幸せな恋のかたちなのだろうか。
かつてその胸の中で爆発しそうな欲望をぶつけあい、手のひらをかさねただけで、目がくらみそうになっていた相手を、生活が変えていく。
何も感じさせない、ただの同居人に。
それが、本当に、恋の成就の最高級のかたちと言えるだろうか。
背後でふいにケイタイが鳴り出した。わたしの恋の成就についての考察はそこで打ち止めになった。
電話は披露宴に出席していた同僚からのもので、とんでもない話だったのだ。
披露宴で、大田が新郎の滝に切り付けた、という。
花嫁のお色直しのときに、ビールを注ぐためにひな壇に近付いた大田は、握手を求めて、滝の手を握った。
その中に、カッターナイフが仕込んであったのだという。
勿論、命がどうこう、というようなことではないから、滝のからだのことは心配無用だけれど、大田がそのまま会場を出て連絡がつかなくなっているから注意しろ、ということだった。
「披露宴は、どうなったの。」
「中止よ、もちろん。だって、血まみれなのよ、そこらじゅう。」
「どうして、大田さんが滝さんに、そんなこと・・・。」
「あなたにも分からない?。」
「分からない。」
栗の木ごしには、国道が見える。
走るくるまの一台が、大田の車種と同じものであることに気が付き、わたしは目をこらす。
「あんなに誰かのものに、あっさりなるなんて思わなかった。」 ・・・ まさか、わたしは思い違いをしていたのだろうか。
郷村俊枝は、わたしにとっても、大田にとっても、敵だったということ・・・。
くるまが向かってくる。
もしかしたら、新郎を略奪して来たかもしれないなんて、ばかなことを一瞬考える。
「完」
結局滝の結婚式は、一年後になった。
滝の父親が郷村俊枝を気に入らなかったから、というのが、結婚が遅れた原因らしい。でもそれは、例によって「更衣室情報」だから、真相は分からない。
わたしは、窓辺に立って、栗の木を見ている。
大きな栗の木。悩ましい匂いをふりまく花の季節を終えて、若葉はいよいよつややかに、生まれたての夏の光を求めて揺れる。
風が流れると、木も流れる。ゆっさりと。
滝とは、あの日、くるまから突き落とされて以来、会っていない。
藤城とは、仕事の上でだけの関係でいる。時々何か言いたそうだけれど、わたしは鉄壁の笑顔で追い返している。
この一年のうちに、二人の人とお見合いをし、何人かの男の人とふたりだけで食事をした。でも、結局、誰ともステデイにはならずにいる。
率直に言ってしまうと、滝と別れて以来、誰とも寝ていない。
滝への未練、まあそういうこともあるだろう。
会いたくて泣いた夜もあるし、もう少しで電話してしまいそうになった夜更けもあるし、会社まで行ってしまおうかなどと、ストーカーまがいのことを考えた夕暮れもある。
だけど、何もしなかった。
愛しているから別れよう、と言ったあのときの言葉を、切りたい女へのずるい言い訳にしてしまわないために。
結納が決まったときには、さすがにつらかったけれど。
「・・・いいのか、これで。」
残業時間にぼんやりと、喫煙室の壁によりかかっていたら、大田がどこからかやって来てそう言った。
「・・・よくは、無いですけど、もう、いいんです。」
大田はいぶかしそうにわたしを見た。
「おれはあいつを見損なったよ。」
「でも、今でもくっついているらしいじゃ無いですか。」
「まあな。でも、あんなふうに誰かのものにあっさりなれるやつだと思ってなかったから。」
わたしは少し笑う。
「誰かのもの、だなんて、女の人のことを言ってるみたい。」
「そうかな。」
なぜか赤くなり、大田はうつむく。
この人は、どこまで知ったのだろう。あの別れの日、あの後、滝は大田にどう説明したのだろう。
最も、からだの関係のある男と女のことは、当事者にしかわからないのだ、真実は。
いつか、滝がわたしのことを思い出したときに、愛し合った記憶が切なくていとしければそれでいい。
いつか、女としては存在しなくなる妻とは違い、記憶の中の恋人は、色褪せることは無いのだから。
熟さなくとも、青い実はつややかに光り続ける。
結婚に至らなくて終わってしまう恋は無数にある。嵐が通り過ぎた後に庭中に散らばる青い栗の実よりもたくさん。
でも、結婚することが、本当に一番幸せな恋のかたちなのだろうか。
かつてその胸の中で爆発しそうな欲望をぶつけあい、手のひらをかさねただけで、目がくらみそうになっていた相手を、生活が変えていく。
何も感じさせない、ただの同居人に。
それが、本当に、恋の成就の最高級のかたちと言えるだろうか。
背後でふいにケイタイが鳴り出した。わたしの恋の成就についての考察はそこで打ち止めになった。
電話は披露宴に出席していた同僚からのもので、とんでもない話だったのだ。
披露宴で、大田が新郎の滝に切り付けた、という。
花嫁のお色直しのときに、ビールを注ぐためにひな壇に近付いた大田は、握手を求めて、滝の手を握った。
その中に、カッターナイフが仕込んであったのだという。
勿論、命がどうこう、というようなことではないから、滝のからだのことは心配無用だけれど、大田がそのまま会場を出て連絡がつかなくなっているから注意しろ、ということだった。
「披露宴は、どうなったの。」
「中止よ、もちろん。だって、血まみれなのよ、そこらじゅう。」
「どうして、大田さんが滝さんに、そんなこと・・・。」
「あなたにも分からない?。」
「分からない。」
栗の木ごしには、国道が見える。
走るくるまの一台が、大田の車種と同じものであることに気が付き、わたしは目をこらす。
「あんなに誰かのものに、あっさりなるなんて思わなかった。」 ・・・ まさか、わたしは思い違いをしていたのだろうか。
郷村俊枝は、わたしにとっても、大田にとっても、敵だったということ・・・。
くるまが向かってくる。
もしかしたら、新郎を略奪して来たかもしれないなんて、ばかなことを一瞬考える。
「完」
氷の中の華
2002年7月9日 滝とのことークリの花(完結)滝は、くるまに乗り込むとすぐに、ハンドルの上にうつぶせの姿勢になる。
わたしは、気配でそれを感じる。うっすらと目を開けると、窓ごしに大田のくるまが見える。運転席を倒しているのか、大田の姿はみえない。ただ、排気口から灰色の煙と、水滴が二、三滴。エアコンをつけて、エンジンをかけて。乗っているのがそれで分かる。
大田は何を思っているのだろう。
あんなふうに待たされて。
「降りて、くれないか。」
滝の低い声がした。
うつぶせのままなので、くぐもった声。それも、どこか苦しそうなので、泣いているのかとさえ思った。
「頼む。降りてくれ。」
わたしには、「降りる」という意味が、単にこのくるまから、というのでは無く、滝の人生から、というふうに聞こえる。
降りてくれ、オレの人生から。
「どうして、わたしを抱いたの。」
そもそもそこからはじまったのだ。
「わたしを抱けば、いずれはこういうことになるのは分かっていたはずでしょう。それとも、わたしがあなたのところにお嫁にいく、と言っていれば、わたしと結婚したの。」
「あととり娘のあなたを、嫁にはできない。オレも養子にはいきたくない、とすれば、最初から近付かない方がいい。それは分かっていたよ。でも。」
滝は顔を上げる。前を向いたまま、
「抱きたかった。好きになった。」
と、つぶやいた。
「いっしょに仕事をしているうちに、次第に好きになっていった。そのうちに、抱きたくなった。そして、一度抱いたら、離れられなくなった。
あなたは、女だから分からないかもしれない、でも、たまらなく抱きたくて、欲しくて欲しくてたまらなくて、のめりこんだ。」
わたしは、滝を見た。
どうして、こんな言葉を、こんなに悲しそうに言うのだろう。
欲しくて欲しくて、たまらないから結婚しよう、という結論にどうしてつながらないのだろう。
「それは、とても怖いことだったんだ。自分がコントロールできなくなる・・・。まるで、ガキみたいにさ、いい年をして。
信じてもらわなくてもいいが、こんなことに、こんな風に女に何もかも盗っていかれそうになったのは、はじめてなんだ。
今日は、ハッキリ別れようと言おうと思った。
でも、あなたとふたりきりになったら、また自分がどうなるのか自信が無かった。だから、大田さんに来てもらった。自分が暴走しないために。」
「どうして、別れなければいけないの。」
声が震える。
「そんなにわたしを想ってくれているのに、どうしてなの。」
悲しい。そこまで自分を欲してくれている男が現れたのは初めてで、なのに、その男は今、別れを告げている。
「オレは、弱い。あなたは、そのことを分かっているか?。何もかも盗っていかれる、という意味が分かるか?。仕事が、手につかなくなりそうだったんだぞ。」
男が仕事が手に付かなくなる、ということは、女が悪いのか、女のせいなのか。
藤城が、滝と愛し合うようになる直前に言った言葉を思い出した。男にばかり罪を着せてはいけない。
ええ、わたしは、この人に罪を着せてはいない。
だけど、どうして、女に罪を着せるの。
「愛し合って・・・どうして、別れなきゃいけないのか、分からないわ。」
滝の言葉が、言い訳かもしれないという考えに、一瞬心を支配されながら、否定する。
別れの言い訳にしたくない、あなたの、愛の、言葉を。
愛の、言葉を。
初めてベッド以外で言ってくれた言葉たち。抱きしめたい。できれば拾い集めて仕舞い込みたい。貝殻のように。
ナニモカモトッテイカレルクライニアイシテイル。
わたしは、そっと滝の頬に手を当てる。
最初は、片手。
そして、もう片手。
両手で包み込む面長の顔は青ざめて、ととのった顔立ちによく似合う陰影をつくっている。
キス。
静かな、キス。
唇を合わせるだけのキス。まるで、中学生のフアーストキスのよう、舌を絡ませ合うでもなく、唇を貪り合うでもなく。
「痛っ。」
でも、その直後で男の両腕がわたしを引き離す。ものすごい力で。かつて両腿を思い切り引き寄せたのと、同じくらいの強さが、今度は引き離すのにつかわれる。
「離れてくれ。」
男はそれで終わらない。
片手でわたしを抱えたまま、もう一方の腕はドアに向けられ。
乾いた音でドアが開けられ、そしてわたしは地面に投げ出される。
「出ていってくれ、頼むから。」
絞り出すような声が聞こえた。スカートのすそを直し、打ち付けられて傷む膝を無意識になでながら、わたしは、茫然と滝を見た。
とても、結婚を控えた男とは思えない、苦悩に満ちた顔。
わたしは、滝の人生から出て行った。
ひとたびのキスは氷の中の華
わたしは、気配でそれを感じる。うっすらと目を開けると、窓ごしに大田のくるまが見える。運転席を倒しているのか、大田の姿はみえない。ただ、排気口から灰色の煙と、水滴が二、三滴。エアコンをつけて、エンジンをかけて。乗っているのがそれで分かる。
大田は何を思っているのだろう。
あんなふうに待たされて。
「降りて、くれないか。」
滝の低い声がした。
うつぶせのままなので、くぐもった声。それも、どこか苦しそうなので、泣いているのかとさえ思った。
「頼む。降りてくれ。」
わたしには、「降りる」という意味が、単にこのくるまから、というのでは無く、滝の人生から、というふうに聞こえる。
降りてくれ、オレの人生から。
「どうして、わたしを抱いたの。」
そもそもそこからはじまったのだ。
「わたしを抱けば、いずれはこういうことになるのは分かっていたはずでしょう。それとも、わたしがあなたのところにお嫁にいく、と言っていれば、わたしと結婚したの。」
「あととり娘のあなたを、嫁にはできない。オレも養子にはいきたくない、とすれば、最初から近付かない方がいい。それは分かっていたよ。でも。」
滝は顔を上げる。前を向いたまま、
「抱きたかった。好きになった。」
と、つぶやいた。
「いっしょに仕事をしているうちに、次第に好きになっていった。そのうちに、抱きたくなった。そして、一度抱いたら、離れられなくなった。
あなたは、女だから分からないかもしれない、でも、たまらなく抱きたくて、欲しくて欲しくてたまらなくて、のめりこんだ。」
わたしは、滝を見た。
どうして、こんな言葉を、こんなに悲しそうに言うのだろう。
欲しくて欲しくて、たまらないから結婚しよう、という結論にどうしてつながらないのだろう。
「それは、とても怖いことだったんだ。自分がコントロールできなくなる・・・。まるで、ガキみたいにさ、いい年をして。
信じてもらわなくてもいいが、こんなことに、こんな風に女に何もかも盗っていかれそうになったのは、はじめてなんだ。
今日は、ハッキリ別れようと言おうと思った。
でも、あなたとふたりきりになったら、また自分がどうなるのか自信が無かった。だから、大田さんに来てもらった。自分が暴走しないために。」
「どうして、別れなければいけないの。」
声が震える。
「そんなにわたしを想ってくれているのに、どうしてなの。」
悲しい。そこまで自分を欲してくれている男が現れたのは初めてで、なのに、その男は今、別れを告げている。
「オレは、弱い。あなたは、そのことを分かっているか?。何もかも盗っていかれる、という意味が分かるか?。仕事が、手につかなくなりそうだったんだぞ。」
男が仕事が手に付かなくなる、ということは、女が悪いのか、女のせいなのか。
藤城が、滝と愛し合うようになる直前に言った言葉を思い出した。男にばかり罪を着せてはいけない。
ええ、わたしは、この人に罪を着せてはいない。
だけど、どうして、女に罪を着せるの。
「愛し合って・・・どうして、別れなきゃいけないのか、分からないわ。」
滝の言葉が、言い訳かもしれないという考えに、一瞬心を支配されながら、否定する。
別れの言い訳にしたくない、あなたの、愛の、言葉を。
愛の、言葉を。
初めてベッド以外で言ってくれた言葉たち。抱きしめたい。できれば拾い集めて仕舞い込みたい。貝殻のように。
ナニモカモトッテイカレルクライニアイシテイル。
わたしは、そっと滝の頬に手を当てる。
最初は、片手。
そして、もう片手。
両手で包み込む面長の顔は青ざめて、ととのった顔立ちによく似合う陰影をつくっている。
キス。
静かな、キス。
唇を合わせるだけのキス。まるで、中学生のフアーストキスのよう、舌を絡ませ合うでもなく、唇を貪り合うでもなく。
「痛っ。」
でも、その直後で男の両腕がわたしを引き離す。ものすごい力で。かつて両腿を思い切り引き寄せたのと、同じくらいの強さが、今度は引き離すのにつかわれる。
「離れてくれ。」
男はそれで終わらない。
片手でわたしを抱えたまま、もう一方の腕はドアに向けられ。
乾いた音でドアが開けられ、そしてわたしは地面に投げ出される。
「出ていってくれ、頼むから。」
絞り出すような声が聞こえた。スカートのすそを直し、打ち付けられて傷む膝を無意識になでながら、わたしは、茫然と滝を見た。
とても、結婚を控えた男とは思えない、苦悩に満ちた顔。
わたしは、滝の人生から出て行った。
ひとたびのキスは氷の中の華
微香水
2002年7月7日 滝とのことークリの花(完結)滝とは会わないまま、梅雨が明けた。
郷村俊枝は転勤して行き、予想通り、わたしはその引継ぎ業務で忙しくなった。
仕事が忙しいのは、都合がいい。
こんな風に気持ちがふさぎがちなときには。
滝には勿論、会いたくないわけではなかった。
でも、連絡できずにいた。
こわかった。
最終結論を出すということに怯えた。
男がひとたび仕事上に上昇気流をつかんだら、もうちょっとやそっとでは退かないだろう。
もともと滝は野心家だし、負けず嫌いだ。
すべてにおいて、勝ち、に行きたいタイプの男だ。わたしは、それをよく知っている。
そういうところを愛していたから。
愛しているから、離れたくはなかった。
でも、会えば、さよならを言い渡されるだろう。
そのとき自分がどうなってしまうのか、予想がつかない。
また、全てをうやむやにして抱かれてしまうのか。
今までそうしてきたように、波のように抱かれて。
だから、大田が、
「今日、滝にお前を連れてくるように言われているんだけど。」
と、声をかけてきたときには、完全にふいをつかれたと思った。
そういう手でくるのか、と思った。
大田を使って呼び出したくせに、滝は大田に席を外させる。
しかも、そこは、藤城から「事の真相」をこの前聞かされたばかりの喫茶店だったから、わたしは最初からダークな気分だった。
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
なぜか滝は微笑んでいる、その目はわたしを見ていない。この人は怯えているのだ。
「きのう、後輩たちが噂してたわ。あなたが・・・。」
「オレが?何?。」
「あなたが、あなたの家に、郷村さんが、ごあいさつに行ったらしいって。」
わたしは、一気に言った。
沈黙。
背中合わせのテーブルから、笑い声。主婦のグループ。家庭という、自分の根城を持ち得た女たちの、落ち着いた笑い声。
「・・・本当なのね。」
「・・・いや、本当とか、そういうことより・・・オレたちが結婚してもうまくいくかどうか分からないよ。」
その慌ただしく煙草に火を付ける仕種をわたしは静かに見守る。細長い、シルバーの、ダンヒルのライター。彼からネックレスをもらったときにわたしがお返しで贈ったものだ。
「オレたち、っていうのは、わたしとあなたなの。それとも。」
わたしは郷村俊枝の名前を口にしない。
それは、この期におよんで、わたしの意地みたいなものだった。
認めたくない。
「どうして、彼女を・・・。」
それだけは、分からなかった。
でも、別にそれが分かったからと言って、どうなるというわけでもない。
むしろ、彼女を選ぶ訳を聞かされる方が嫌だ。
「結婚なんか、したくなかったよ。」
「・・・。」
「でも、仕方が無かった。外堀を埋められた。」
気弱な声だった。
「もう、会わない方が、いいのね。」
そう言ったとき、彼の表情に何とも言えない安堵の表情が浮かんだ。
自分が言わなければいけないことを、相手が言ってくれたという安心感。
つまらない、男だ。
わたしは、自分のプライドを守ろうとしただけだった。
なぜか、なりふりかまわず、ということができない。
もしも、ここで大声で泣くことができれば。
そして、捨てないで、とかなんとかわめきながらすがりつくことができれば。
そうできれば、もしかしたら男は考えを変えるかもしれない。
でも、できない。
わたしは、明日からもこの町で暮らさなければならない。
誰かに取り乱したところを見られたら、今日とは違う目を向けられることになる。
それに。
自分がほんとうに欲しいものであっても、髪振りまだして獲るのでは無く、できればさりげなさを装って獲りたかった。
「・・・さよなら。」
辛うじて言いながら
「でも、最後にもう一度だけ、キスして。」
と付け加えた。
わたしがコトンと落としたわかれの言葉に、不覚にも微笑んでしまった男の顔を見たから。
「くるまに乗って。」
言い置いて席を立つ。
ため息交じりで後に続く滝は、いつもより小さく見える。
もう決して乗らぬくるまの微香水
キーを開ける軽い音、助手席の、座りなれた感覚。
わたしは、そっと目をつむる。
郷村俊枝は転勤して行き、予想通り、わたしはその引継ぎ業務で忙しくなった。
仕事が忙しいのは、都合がいい。
こんな風に気持ちがふさぎがちなときには。
滝には勿論、会いたくないわけではなかった。
でも、連絡できずにいた。
こわかった。
最終結論を出すということに怯えた。
男がひとたび仕事上に上昇気流をつかんだら、もうちょっとやそっとでは退かないだろう。
もともと滝は野心家だし、負けず嫌いだ。
すべてにおいて、勝ち、に行きたいタイプの男だ。わたしは、それをよく知っている。
そういうところを愛していたから。
愛しているから、離れたくはなかった。
でも、会えば、さよならを言い渡されるだろう。
そのとき自分がどうなってしまうのか、予想がつかない。
また、全てをうやむやにして抱かれてしまうのか。
今までそうしてきたように、波のように抱かれて。
だから、大田が、
「今日、滝にお前を連れてくるように言われているんだけど。」
と、声をかけてきたときには、完全にふいをつかれたと思った。
そういう手でくるのか、と思った。
大田を使って呼び出したくせに、滝は大田に席を外させる。
しかも、そこは、藤城から「事の真相」をこの前聞かされたばかりの喫茶店だったから、わたしは最初からダークな気分だった。
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
なぜか滝は微笑んでいる、その目はわたしを見ていない。この人は怯えているのだ。
「きのう、後輩たちが噂してたわ。あなたが・・・。」
「オレが?何?。」
「あなたが、あなたの家に、郷村さんが、ごあいさつに行ったらしいって。」
わたしは、一気に言った。
沈黙。
背中合わせのテーブルから、笑い声。主婦のグループ。家庭という、自分の根城を持ち得た女たちの、落ち着いた笑い声。
「・・・本当なのね。」
「・・・いや、本当とか、そういうことより・・・オレたちが結婚してもうまくいくかどうか分からないよ。」
その慌ただしく煙草に火を付ける仕種をわたしは静かに見守る。細長い、シルバーの、ダンヒルのライター。彼からネックレスをもらったときにわたしがお返しで贈ったものだ。
「オレたち、っていうのは、わたしとあなたなの。それとも。」
わたしは郷村俊枝の名前を口にしない。
それは、この期におよんで、わたしの意地みたいなものだった。
認めたくない。
「どうして、彼女を・・・。」
それだけは、分からなかった。
でも、別にそれが分かったからと言って、どうなるというわけでもない。
むしろ、彼女を選ぶ訳を聞かされる方が嫌だ。
「結婚なんか、したくなかったよ。」
「・・・。」
「でも、仕方が無かった。外堀を埋められた。」
気弱な声だった。
「もう、会わない方が、いいのね。」
そう言ったとき、彼の表情に何とも言えない安堵の表情が浮かんだ。
自分が言わなければいけないことを、相手が言ってくれたという安心感。
つまらない、男だ。
わたしは、自分のプライドを守ろうとしただけだった。
なぜか、なりふりかまわず、ということができない。
もしも、ここで大声で泣くことができれば。
そして、捨てないで、とかなんとかわめきながらすがりつくことができれば。
そうできれば、もしかしたら男は考えを変えるかもしれない。
でも、できない。
わたしは、明日からもこの町で暮らさなければならない。
誰かに取り乱したところを見られたら、今日とは違う目を向けられることになる。
それに。
自分がほんとうに欲しいものであっても、髪振りまだして獲るのでは無く、できればさりげなさを装って獲りたかった。
「・・・さよなら。」
辛うじて言いながら
「でも、最後にもう一度だけ、キスして。」
と付け加えた。
わたしがコトンと落としたわかれの言葉に、不覚にも微笑んでしまった男の顔を見たから。
「くるまに乗って。」
言い置いて席を立つ。
ため息交じりで後に続く滝は、いつもより小さく見える。
もう決して乗らぬくるまの微香水
キーを開ける軽い音、助手席の、座りなれた感覚。
わたしは、そっと目をつむる。
未定
2002年7月5日 滝とのことークリの花(完結)このところ、「連載」を書いておりますが、考えてみれば、ちゃんとした名前が無いのですね。自分では、六月中に終わろうと思っていたのに、もう七月だし・・・。
どうしようかな。今更、通しタイトルをつけるってのもアレだし。
大体このところ「読み切り」ですらないし。
少し、反省・・・。
もう少しで、このお話は終わりです。
あと少しだけ、お付き合いくださいませ。
などと書きながら、今日は書く時間は無さそうですが。
メッセイジを書きますので、ちらっと見て行ってください。
どうしようかな。今更、通しタイトルをつけるってのもアレだし。
大体このところ「読み切り」ですらないし。
少し、反省・・・。
もう少しで、このお話は終わりです。
あと少しだけ、お付き合いくださいませ。
などと書きながら、今日は書く時間は無さそうですが。
メッセイジを書きますので、ちらっと見て行ってください。
熱風
2002年7月4日 滝とのことークリの花(完結)藤城からの電話をとりついでくれたのは、新人女子社員で、とても几帳面な人だった。
業界特有の略語を、略せずにきちんと発音し、そうして、会社で使われる用語の一つ一つをきちんと自分のものにしていこうと心がけているそんな人。
人は時々、自分が全く意識しないで、他人に影響を与えてしまうことがある。
彼女の几帳面さがわたしにもたらしたものも、そういうことの一つだろう。
机にもどり、その上に貼り付けられた、一枚のメモ。
「人事部 お客様相談室の藤城課長さまからお電話がありました。またかけ直す、とのことです。」
わたしは、しばらくそのメモを見ていた。
まるで、自分の知らない国の言葉で書かれたメモみたいに。
人事部。
藤城が人事部の人間だということを、どうして思いつかなかったのだろう。
わたしは、電話を取り上げ、藤城と会う約束をした。冷静な声をつくるのに少し苦心しながら。
営業開始五分前のオフイスは、郷村の机の辺りで妙に騒がしい。
そしてそれは、とても華やいでいて、入試の合格発表場で自分だけが落ちたような、そういう雰囲気をつくっていた。
「・・・きみが、そこまで分かったとは思わなかったよ。さすが、カンがいいな。」
いつかの、コンクリート打ちっぱなしの喫茶店。
藤城は、シルバーがかったネクタイをしていて、斜めに差し込む西日がそれを炎のように染めている。
「わかりますよ、それくらい。」
郷村俊枝を転勤させるように仕向けたのは藤城だった。
この二人が知り合いだったとは気付かなかった。
まったく。
だから、藤城から「愛している」というメールをもらったすぐ後にきたメール、「心配しないでください。あなたの悪いようにはいたしません。」というあの誤送信のメールが、ほんとうは郷村俊枝に宛てたものだというのにも思い当たらなかった。
更衣室でわたしと鉢合わせしたときに、郷村がメールを打っていた、あれも、相手は藤城だった。
「男が、あの営業所に転勤するとしたら、まあ栄転だろう。でも、女の子は別に、そう役に立たなくてもいいんだ。」
わたしは、黙ってアイスコーヒーに口をつけた。
ものすごく苦い。
「むしろ、郷村さんのように、まあはっきり言って長く会社にいるだけで大して貢献できない人には、はやく辞めてもらいたいんだな、会社としては。」
この会社の女子社員が、結婚したら退職するのは、不文律になっている。
「そこで、郷村さんを転勤させた・・・。」
滝のもとに、と思ったけれど、具体的に口にだすのも嫌だった。
「じゃあ、あなたは、滝さんが彼女を選ぶと思ったの。」
そんなことは、ないはずだ。
職場がまた同じになったからといって、郷村俊枝が「片想い」なのは変わらないはず。
「・・・それは、わからない。」
「わからないって・・・。」
「でも、きみは少々つらいかもそれないが、ハッキリ言っておこう。その方が後で傷つかなくてすむだろうからね。
滝は、きみを、選ばないよ。」
「どうして、そんなことが、あなたにわかるんですか。」
本気で腹を立てたので、声が低くなった。うなるように。猫のケンカがはじまる前の声だ。
「・・・彼の結婚観は、きみと結婚するようにはできていない。」
会社に骨を埋める気があるのか。
その言葉で「確認」は始まったのだそうだ。
滝の、結婚観。
そろそろ次代の幹部候補を絞りきらなくてはいけない。きみは、よくやってくれている。お客からの信頼も篤い。
ただ、きみには不安定な要素がひとつだけある。
まだ結婚していないということだ。
そしてきみは、婿養子に行くことも有り得る、ということだ。実際、そういう立場の女性と交際しているらしいじゃないか。
会社としては、きみが婿入りしてその家の家業を引き継ぐのだとしたら、そういう目できみを見るようになる。
それが、自然だろう。
ぼくは、会社に、骨を埋める覚悟です。
婿養子には行きませんし、そういう立場の女性とは交際しません。
今後、一切。
わたしは、目をつむった。
初めて滝とドライブをした、お見合いの日のことを思い出した。
わたしたちは、どこへ向かうともなく海をめざしていた。
水田が広々と続く中を海へとつながる農道。
ふいに、滝が言った。
「今、真横にものすごく大きな屋敷が見えるでしょう。」
水田越しに、長い長い松並木が見える。その奥にいかにも旧家らしい、どっしりした屋根が見える。
スピードをさほど落としていないのに、いつまでも並木が見えている。大きな家だ。
「この前、あの家の跡取り娘と見合いしたんですよ、でもね、ほんとうに一言もしゃべらない人だったんです。」
「ひとことも。」
「そう、ろくに返事もしない。」
「だから、・・・やめたんですか。」
「まあ、そういうことかな。」
「やっぱり、一緒にいて、全く話さないひととは、結婚できないかなあ。いくら条件が良くても。」
「ああ、女の人はそうかもしれませんね。でも、男は違いますよ。できます。
大切なのは、自分の生活していきたい方向に合っているかどうか。条件だけでも、まあ結婚はできますよ、男なら。」
「・・・滝さんに、会ったの。」
瞑目を解いてわたしはたずねる。
「いや。ぼくはそれほどあいつと親しくない。滝の営業所の佐伯が話してくれた。」
佐伯、というのは所長である。
そして、藤城は、佐伯と同期だった。
わたしは、席を立った。
「教えていただき、ありがとうございました。」
「おい、オレは本当のことを言ったんだよ。」
藤城のうろたえたような顔が、おかしい。
自分で仕組んだくせに、何もかも。
何もかも。
うっかりすると泣いてしまいそうだ。
そして涙につけこまれそうだ。
その手には、乗らない。
わたしは、自分の勘定だけ払うと、外へ出た。
ドアを開けたとたんに熱い風が全身を包み込む。
もう、夏になるんだな。頭の芯が焼けそうだ。
熱風を恋の女神の息を浴ぶ
業界特有の略語を、略せずにきちんと発音し、そうして、会社で使われる用語の一つ一つをきちんと自分のものにしていこうと心がけているそんな人。
人は時々、自分が全く意識しないで、他人に影響を与えてしまうことがある。
彼女の几帳面さがわたしにもたらしたものも、そういうことの一つだろう。
机にもどり、その上に貼り付けられた、一枚のメモ。
「人事部 お客様相談室の藤城課長さまからお電話がありました。またかけ直す、とのことです。」
わたしは、しばらくそのメモを見ていた。
まるで、自分の知らない国の言葉で書かれたメモみたいに。
人事部。
藤城が人事部の人間だということを、どうして思いつかなかったのだろう。
わたしは、電話を取り上げ、藤城と会う約束をした。冷静な声をつくるのに少し苦心しながら。
営業開始五分前のオフイスは、郷村の机の辺りで妙に騒がしい。
そしてそれは、とても華やいでいて、入試の合格発表場で自分だけが落ちたような、そういう雰囲気をつくっていた。
「・・・きみが、そこまで分かったとは思わなかったよ。さすが、カンがいいな。」
いつかの、コンクリート打ちっぱなしの喫茶店。
藤城は、シルバーがかったネクタイをしていて、斜めに差し込む西日がそれを炎のように染めている。
「わかりますよ、それくらい。」
郷村俊枝を転勤させるように仕向けたのは藤城だった。
この二人が知り合いだったとは気付かなかった。
まったく。
だから、藤城から「愛している」というメールをもらったすぐ後にきたメール、「心配しないでください。あなたの悪いようにはいたしません。」というあの誤送信のメールが、ほんとうは郷村俊枝に宛てたものだというのにも思い当たらなかった。
更衣室でわたしと鉢合わせしたときに、郷村がメールを打っていた、あれも、相手は藤城だった。
「男が、あの営業所に転勤するとしたら、まあ栄転だろう。でも、女の子は別に、そう役に立たなくてもいいんだ。」
わたしは、黙ってアイスコーヒーに口をつけた。
ものすごく苦い。
「むしろ、郷村さんのように、まあはっきり言って長く会社にいるだけで大して貢献できない人には、はやく辞めてもらいたいんだな、会社としては。」
この会社の女子社員が、結婚したら退職するのは、不文律になっている。
「そこで、郷村さんを転勤させた・・・。」
滝のもとに、と思ったけれど、具体的に口にだすのも嫌だった。
「じゃあ、あなたは、滝さんが彼女を選ぶと思ったの。」
そんなことは、ないはずだ。
職場がまた同じになったからといって、郷村俊枝が「片想い」なのは変わらないはず。
「・・・それは、わからない。」
「わからないって・・・。」
「でも、きみは少々つらいかもそれないが、ハッキリ言っておこう。その方が後で傷つかなくてすむだろうからね。
滝は、きみを、選ばないよ。」
「どうして、そんなことが、あなたにわかるんですか。」
本気で腹を立てたので、声が低くなった。うなるように。猫のケンカがはじまる前の声だ。
「・・・彼の結婚観は、きみと結婚するようにはできていない。」
会社に骨を埋める気があるのか。
その言葉で「確認」は始まったのだそうだ。
滝の、結婚観。
そろそろ次代の幹部候補を絞りきらなくてはいけない。きみは、よくやってくれている。お客からの信頼も篤い。
ただ、きみには不安定な要素がひとつだけある。
まだ結婚していないということだ。
そしてきみは、婿養子に行くことも有り得る、ということだ。実際、そういう立場の女性と交際しているらしいじゃないか。
会社としては、きみが婿入りしてその家の家業を引き継ぐのだとしたら、そういう目できみを見るようになる。
それが、自然だろう。
ぼくは、会社に、骨を埋める覚悟です。
婿養子には行きませんし、そういう立場の女性とは交際しません。
今後、一切。
わたしは、目をつむった。
初めて滝とドライブをした、お見合いの日のことを思い出した。
わたしたちは、どこへ向かうともなく海をめざしていた。
水田が広々と続く中を海へとつながる農道。
ふいに、滝が言った。
「今、真横にものすごく大きな屋敷が見えるでしょう。」
水田越しに、長い長い松並木が見える。その奥にいかにも旧家らしい、どっしりした屋根が見える。
スピードをさほど落としていないのに、いつまでも並木が見えている。大きな家だ。
「この前、あの家の跡取り娘と見合いしたんですよ、でもね、ほんとうに一言もしゃべらない人だったんです。」
「ひとことも。」
「そう、ろくに返事もしない。」
「だから、・・・やめたんですか。」
「まあ、そういうことかな。」
「やっぱり、一緒にいて、全く話さないひととは、結婚できないかなあ。いくら条件が良くても。」
「ああ、女の人はそうかもしれませんね。でも、男は違いますよ。できます。
大切なのは、自分の生活していきたい方向に合っているかどうか。条件だけでも、まあ結婚はできますよ、男なら。」
「・・・滝さんに、会ったの。」
瞑目を解いてわたしはたずねる。
「いや。ぼくはそれほどあいつと親しくない。滝の営業所の佐伯が話してくれた。」
佐伯、というのは所長である。
そして、藤城は、佐伯と同期だった。
わたしは、席を立った。
「教えていただき、ありがとうございました。」
「おい、オレは本当のことを言ったんだよ。」
藤城のうろたえたような顔が、おかしい。
自分で仕組んだくせに、何もかも。
何もかも。
うっかりすると泣いてしまいそうだ。
そして涙につけこまれそうだ。
その手には、乗らない。
わたしは、自分の勘定だけ払うと、外へ出た。
ドアを開けたとたんに熱い風が全身を包み込む。
もう、夏になるんだな。頭の芯が焼けそうだ。
熱風を恋の女神の息を浴ぶ
トルコ桔梗
2002年7月2日 滝とのことークリの花(完結)滝の営業所がオープンになる月曜日は朝からよく晴れていた。
わたしは、滝のために、よかった、と思った。
前日、ひさしぶりに休日デートらしいデートをして、恋人の余韻はからだのあちこちに残っている。
海を見た後のベッドの中で、勇気を出して聞いてみた。
「この前、あなたのくるまの中で、わたしのじゃない紅筆を拾ったんだけど。」
「ベニフデ?。」
「口紅をつけるときに使う筆。誰の?。」
「えっ・・・。いやあ、知らない・・・あなた以外に乗せたのはうちの義姉だけだから、たぶん義姉だろうな。」
「そう。」
それだけだった。
それだけのことなのだ。もっと早く聞いてもよかったのに。
滝のキスはその後も変わらず熱くて、彼の抱きしめる腕の力は強くて、わたしのからだを上にしたり下にしたり、いつも通りのしたたかさを持った愛しかたで、何も疑わしいことは無かった。
月曜日には、花を生ける。
毎週、近所の花屋が配達してくれるのを、きちんと花瓶に生けることになっている。火曜日から金曜日には、水を替えたり、傷んだ花を処分したりする。
女子社員が交代でこの仕事をしていて、わたしはその日の当番だった。
花束の入った新聞紙を開くと、たっぷりとトルコ桔梗が入っている。クリーム色と、ピンク色と、白地に紫が入っているものと。
そのうちの紫で縁取りされた一本を取り上げ、水を張ったバケツに茎を付けて、水切りをする。
暑くなってきたから、花を長持ちさせる工夫をしなければならない。
社員のための喫煙室がすぐ隣りにあり、男性社員たちのしゃべり声が聞こえる。ところどころ怠惰で、でも、少しずつ仕事向きの人格をつくりあげていく、月曜日の朝。
滝がいた頃は、いつも彼の声がした。
話の輪の中心にいて、よく冗談を言って、男たちの太い笑い声を、そこらじゅうに響かせていた。
今頃、開店の準備も終わり、普通にしていても引き締まった口元を一層引き締めて、営業所の入り口をみつめている・・・。
わたしは、滝のことばかり考えていた。
ともすると、昨日の記憶に溺れそうになりながら。
だから、大田が入ってきて、わたしに何か言いたげに一瞥をくれたときにも、すぐに問いかけができなかった。
大田は、そのまま、喫煙室に入った。
そして、こちらにもはっきり聞こえる大きな声で、
「辞令が下りたぞ。」
と、言った。そして、その後に続いた言葉は、わたしの、しあわせな朝を粉々にしてしまった。
「新営業所に、郷村さんが行くことになった。」
手にしていたトルコ桔梗は、花のところでパッチリと切れて水に落ちた。
花びらがゆらりと揺れるのを、息をのんで見つめる。
郷村俊枝が、滝のいる営業所へ転勤する。
二人は、また毎日顔を合わせるようになる。
滝のことを疑ってはいけない、わたしたちは恋人
なのだ、そのことに間違いはないのだ。
だから、郷村がまた滝に近付いても、何も変わらないはず・・・。
でも、嫌だ。もう誰もそばにいて欲しくない。
わたしだけの男で、あって欲しい。
あの、奥二重の少しつりあがり気味の目も、細長い指も、柔らかな髪も・・・郷村俊枝がまた毎日目にするのか。それは、嫌。
どうしても、嫌。
だが、会社の命令である。彼女がそこへ、滝のそばへ行くのは、彼女のわがままではなく、会社が決めたことなのだ。
迷宮がトルコ桔梗の中にある
「あの・・・お電話です。」
背後から声をかけられ、冷静を装ってふりかえる。
「本所の、藤城課長さんですが。」
「・・・ごめんね、お花を生けてから折り返しかけるから。」
答えながら、藤城は、この転勤のことで慰めるつもりなのかな、とぼんやり思った。
わたしは、滝のために、よかった、と思った。
前日、ひさしぶりに休日デートらしいデートをして、恋人の余韻はからだのあちこちに残っている。
海を見た後のベッドの中で、勇気を出して聞いてみた。
「この前、あなたのくるまの中で、わたしのじゃない紅筆を拾ったんだけど。」
「ベニフデ?。」
「口紅をつけるときに使う筆。誰の?。」
「えっ・・・。いやあ、知らない・・・あなた以外に乗せたのはうちの義姉だけだから、たぶん義姉だろうな。」
「そう。」
それだけだった。
それだけのことなのだ。もっと早く聞いてもよかったのに。
滝のキスはその後も変わらず熱くて、彼の抱きしめる腕の力は強くて、わたしのからだを上にしたり下にしたり、いつも通りのしたたかさを持った愛しかたで、何も疑わしいことは無かった。
月曜日には、花を生ける。
毎週、近所の花屋が配達してくれるのを、きちんと花瓶に生けることになっている。火曜日から金曜日には、水を替えたり、傷んだ花を処分したりする。
女子社員が交代でこの仕事をしていて、わたしはその日の当番だった。
花束の入った新聞紙を開くと、たっぷりとトルコ桔梗が入っている。クリーム色と、ピンク色と、白地に紫が入っているものと。
そのうちの紫で縁取りされた一本を取り上げ、水を張ったバケツに茎を付けて、水切りをする。
暑くなってきたから、花を長持ちさせる工夫をしなければならない。
社員のための喫煙室がすぐ隣りにあり、男性社員たちのしゃべり声が聞こえる。ところどころ怠惰で、でも、少しずつ仕事向きの人格をつくりあげていく、月曜日の朝。
滝がいた頃は、いつも彼の声がした。
話の輪の中心にいて、よく冗談を言って、男たちの太い笑い声を、そこらじゅうに響かせていた。
今頃、開店の準備も終わり、普通にしていても引き締まった口元を一層引き締めて、営業所の入り口をみつめている・・・。
わたしは、滝のことばかり考えていた。
ともすると、昨日の記憶に溺れそうになりながら。
だから、大田が入ってきて、わたしに何か言いたげに一瞥をくれたときにも、すぐに問いかけができなかった。
大田は、そのまま、喫煙室に入った。
そして、こちらにもはっきり聞こえる大きな声で、
「辞令が下りたぞ。」
と、言った。そして、その後に続いた言葉は、わたしの、しあわせな朝を粉々にしてしまった。
「新営業所に、郷村さんが行くことになった。」
手にしていたトルコ桔梗は、花のところでパッチリと切れて水に落ちた。
花びらがゆらりと揺れるのを、息をのんで見つめる。
郷村俊枝が、滝のいる営業所へ転勤する。
二人は、また毎日顔を合わせるようになる。
滝のことを疑ってはいけない、わたしたちは恋人
なのだ、そのことに間違いはないのだ。
だから、郷村がまた滝に近付いても、何も変わらないはず・・・。
でも、嫌だ。もう誰もそばにいて欲しくない。
わたしだけの男で、あって欲しい。
あの、奥二重の少しつりあがり気味の目も、細長い指も、柔らかな髪も・・・郷村俊枝がまた毎日目にするのか。それは、嫌。
どうしても、嫌。
だが、会社の命令である。彼女がそこへ、滝のそばへ行くのは、彼女のわがままではなく、会社が決めたことなのだ。
迷宮がトルコ桔梗の中にある
「あの・・・お電話です。」
背後から声をかけられ、冷静を装ってふりかえる。
「本所の、藤城課長さんですが。」
「・・・ごめんね、お花を生けてから折り返しかけるから。」
答えながら、藤城は、この転勤のことで慰めるつもりなのかな、とぼんやり思った。
恋猫 弐
2002年6月28日 滝とのことークリの花(完結)大田をくるまに乗せてしまった後で、もしも店に着いたときに、滝がいなければどうしようかなと思った。
或いは、郷村俊枝が同席しているということだって考えられた。
大田と話すこともそれほどは無く、店までの二十分ほどを黙々と運転した。
だからその居酒屋のカウンターに滝の姿を見たときには、嬉しかった。
「・・・ひさしぶりだな。」
あの、なつかしい香がする。
特別な関係にある男の身体の香は、ふと感じただけでめまいがしそうになる。
そして、その香をかいだときに自分がとても疲れているのに気が付いた。
さっき郷村俊枝と対決し、藤城からメールをもらった。
そのふたつの事件の後で一番会いたかった男に会えた。
もう、今日はこれでいい。
「営業所の開店日、近付きましたね。毎日、お忙しいんでしょう。」
わたしは、素直に滝をねぎらった。
「うん。雑用ばかりが次々に沸いて出て。」
そして、小さな声で、
「ずっと会たかったんだけど。」
と、ささやき、カウンターの下のわたしの太股をぎゅっ、とつかんだ。
その手を上から握り締めながら、
「わたしも。」
と答える。
目は合わせない。
滝の目をまともに見たら、絶対に言ってしまう。
どうして紅筆がくるまの中にあったの。
それは、疲れたこの人を責めることにつながる。
わたしは、ほんとうは滝を責めたいのだ。
そして、疑惑を晴らしたいのだ。
でも、怖かった。
もしもその答えが。
恋猫の渡りきれない大通り
交通量の多い道路の向こうに、恋する相手が住んでいる。でも、臆病な猫は渡れない。勇気を奮い立たせてみても、こわいのだ。ひっきりなしに走りすぎる車にふきとばされそうになって。
わたしの心は、滝の心に踏み込めない、一匹の猫だ。
「滝さん。」
「何。」
「・・・ただ、会いたかった。」
滝の手がわたしのスカートの中に入る。
そして、細長い指先が静かに核心のところへ迫ってくる。
わたしは、足を開いてゆく。
そして、腰をすこし浮かせる。
男の指が、蜜をすりつけてゆき、ふと顔を見ると、滝は静かに微笑んでいる。
やがて指がぬかれる。
男がその指を口元に持っていき、そっと舌で舐める。
「お前ってやつは。」
淫乱だな、と言いたいのか。
わたしはほとんど怒りをこめて相手の股間を愛撫する。
わたしは、この人をほとんど憎んでいるのだ。
そして、たまらなく欲しているのだ。
大田は何も見ていないふりをしていた。
いや、本当に何も見ていなかったのかもしれない。
滝はその行き付けの店のトイレが男女共有であるのをいいことに、わたしをそこへ誘い込み、そしてすぐさま、後ろから、仕掛けてきた。
今夜はこれで、いい。
ずっと、これが、いい。
だが、滝とわたしの間に転機が迫っていた。
それは、快楽の声を抑えるのに懸命だったそのときには、思いもしなかったことだった。
或いは、郷村俊枝が同席しているということだって考えられた。
大田と話すこともそれほどは無く、店までの二十分ほどを黙々と運転した。
だからその居酒屋のカウンターに滝の姿を見たときには、嬉しかった。
「・・・ひさしぶりだな。」
あの、なつかしい香がする。
特別な関係にある男の身体の香は、ふと感じただけでめまいがしそうになる。
そして、その香をかいだときに自分がとても疲れているのに気が付いた。
さっき郷村俊枝と対決し、藤城からメールをもらった。
そのふたつの事件の後で一番会いたかった男に会えた。
もう、今日はこれでいい。
「営業所の開店日、近付きましたね。毎日、お忙しいんでしょう。」
わたしは、素直に滝をねぎらった。
「うん。雑用ばかりが次々に沸いて出て。」
そして、小さな声で、
「ずっと会たかったんだけど。」
と、ささやき、カウンターの下のわたしの太股をぎゅっ、とつかんだ。
その手を上から握り締めながら、
「わたしも。」
と答える。
目は合わせない。
滝の目をまともに見たら、絶対に言ってしまう。
どうして紅筆がくるまの中にあったの。
それは、疲れたこの人を責めることにつながる。
わたしは、ほんとうは滝を責めたいのだ。
そして、疑惑を晴らしたいのだ。
でも、怖かった。
もしもその答えが。
恋猫の渡りきれない大通り
交通量の多い道路の向こうに、恋する相手が住んでいる。でも、臆病な猫は渡れない。勇気を奮い立たせてみても、こわいのだ。ひっきりなしに走りすぎる車にふきとばされそうになって。
わたしの心は、滝の心に踏み込めない、一匹の猫だ。
「滝さん。」
「何。」
「・・・ただ、会いたかった。」
滝の手がわたしのスカートの中に入る。
そして、細長い指先が静かに核心のところへ迫ってくる。
わたしは、足を開いてゆく。
そして、腰をすこし浮かせる。
男の指が、蜜をすりつけてゆき、ふと顔を見ると、滝は静かに微笑んでいる。
やがて指がぬかれる。
男がその指を口元に持っていき、そっと舌で舐める。
「お前ってやつは。」
淫乱だな、と言いたいのか。
わたしはほとんど怒りをこめて相手の股間を愛撫する。
わたしは、この人をほとんど憎んでいるのだ。
そして、たまらなく欲しているのだ。
大田は何も見ていないふりをしていた。
いや、本当に何も見ていなかったのかもしれない。
滝はその行き付けの店のトイレが男女共有であるのをいいことに、わたしをそこへ誘い込み、そしてすぐさま、後ろから、仕掛けてきた。
今夜はこれで、いい。
ずっと、これが、いい。
だが、滝とわたしの間に転機が迫っていた。
それは、快楽の声を抑えるのに懸命だったそのときには、思いもしなかったことだった。
熱帯夜
2002年6月27日 滝とのことークリの花(完結)藤城の電話は留守電サービスに切り替わり、わたしは何もメッセージを残さずに切った。
相手が電話に出ないことが、冷静にさせた。
もう少し、落ち着こう。
滝との出会い。
藤城は、わたしの方から断った、と書いている。
でも、それは違う。
彼の方から断られた。
理由は、「婿養子には行きたくない」というものだった。
わたしは、旧家のひとり娘で、ゆくゆくは婿養子を迎える立場にある。でもそれが少女の頃からとても嫌で、あまりにもわたしが嫌がるものだから、両親とも、「長男でなければ嫁に出しても仕方がない」というところまで妥協した。
滝は次男であった。わたしが二十四、滝が二十九、のときの話である。
同じ会社でも、支所が違えば顔も知らないということはよくある。滝とは初対面だった。
お客の紹介で、見合いの場所もそのお客の応接間、ふたりでドライブでもしていらっしゃい、と送り出されてしばらく滝の運転するくるまで走った。
事前に写真の交換もなく、「釣り書」を交わしたわけでも無く、わたしも彼も結婚したいという意志がある時期でもない、というお見合い。
ただ、せっかくだから、ということで食事をして、終わりである。
もし、滝のいる支所へわたしが転勤しなければ、わたしたちはその日限りで別れ、後には何も残らなかっただろう。
「お前と、こういうことになるなんて、な。」
ベッドでわたしを上に乗せてゆすりあげ、顔をじっとみつめながら、滝はよくそう言った。
あるときは、うめくように。
あるときは、優しく。
出会いの日のことに触れてしまうのは、本当はこわかった。
わたしは、一度彼から否定されているのである。
理由はどうあれ。
わたしも、別に初めて会って恋に落ちた、という訳ではない。
見合いの前日だって、藤城に抱かれた。
薄寒い、田んぼの真ん中にあるラブホテルで。
わたしは、店を出た。
いろいろ、考えるべきことがあるような気がした。
滝との将来。
彼にいつかぶつからなくてはならないのだった。
ほんとうは、結婚するとかしないとか、そんな面倒くさいことは避けて通りたい。
そのとき、そのときに愛したい男を愛して何が悪いのだろう。
くるまに乗り込もうとしたとき、一匹の猫が目を光らせて前を横切った。わたしの愛しかたは、動物みたいだ。猫になったらちょうどいいのだ。
そのとき、その場で恋を選んで。
「どこか、行くのか。」
「えっ・・・。」
ふいに背後から声をかけられ、思わず立ち止まった。
「・・・大田さん・・・。」
「・・・別にさ、後を付けてたわけじゃないさ。国道を走ってたら、お前のくるまが停まってたから。」
大田の笑顔は善良そのものだ。とにかくわたしは微笑みかえした。
「少し、お茶しようかと思って。まっすぐ帰るのも気が向かなかったし・・・。」
「そうか。」
わたしのケイタイが鳴り出す。
「また、メールだ。」
藤城から。ドキドキする。
でも、その内容は全然考えてもいなかったものだった。
「さっきの件、了承しました。あなたの悪いようにはいたしません。」
間違いメール。これは、仕事の相手かも。
「・・・誰か、誘いか。」
「いいえ・・・出会い系です。」
「ははは、お前のケイタイ、まだそんなもの入るようになってんのか。」
「ええ。」
蒸し暑い夜だ。大田はハンカチで、短い首をさかんにふいている。
「・・・飯でも食おうぜ。」
「でも。」
「そう嫌がるなよ。・・・滝も誘ってあるから。」
「 じゃあ、行こうかな。」
「現金だなあ、お前。でも、まあいいさ。
ところで、おれは呑むから、店まではお前が乗せてってくれよ。」
「軽だから、狭いですよ。」
「かまわないさ。」
仮面ども恋に恋する熱帯夜
出会い系サイトは、こんな夜にはにぎわうだろう。
藤城に返事をどうやって返そうかと思いながら、見知らぬ男女どうしの恋に少しあこがれた。
家も、過去も無く、ただ恋に恋していられれば、どんなにしあわせだろう。
相手が電話に出ないことが、冷静にさせた。
もう少し、落ち着こう。
滝との出会い。
藤城は、わたしの方から断った、と書いている。
でも、それは違う。
彼の方から断られた。
理由は、「婿養子には行きたくない」というものだった。
わたしは、旧家のひとり娘で、ゆくゆくは婿養子を迎える立場にある。でもそれが少女の頃からとても嫌で、あまりにもわたしが嫌がるものだから、両親とも、「長男でなければ嫁に出しても仕方がない」というところまで妥協した。
滝は次男であった。わたしが二十四、滝が二十九、のときの話である。
同じ会社でも、支所が違えば顔も知らないということはよくある。滝とは初対面だった。
お客の紹介で、見合いの場所もそのお客の応接間、ふたりでドライブでもしていらっしゃい、と送り出されてしばらく滝の運転するくるまで走った。
事前に写真の交換もなく、「釣り書」を交わしたわけでも無く、わたしも彼も結婚したいという意志がある時期でもない、というお見合い。
ただ、せっかくだから、ということで食事をして、終わりである。
もし、滝のいる支所へわたしが転勤しなければ、わたしたちはその日限りで別れ、後には何も残らなかっただろう。
「お前と、こういうことになるなんて、な。」
ベッドでわたしを上に乗せてゆすりあげ、顔をじっとみつめながら、滝はよくそう言った。
あるときは、うめくように。
あるときは、優しく。
出会いの日のことに触れてしまうのは、本当はこわかった。
わたしは、一度彼から否定されているのである。
理由はどうあれ。
わたしも、別に初めて会って恋に落ちた、という訳ではない。
見合いの前日だって、藤城に抱かれた。
薄寒い、田んぼの真ん中にあるラブホテルで。
わたしは、店を出た。
いろいろ、考えるべきことがあるような気がした。
滝との将来。
彼にいつかぶつからなくてはならないのだった。
ほんとうは、結婚するとかしないとか、そんな面倒くさいことは避けて通りたい。
そのとき、そのときに愛したい男を愛して何が悪いのだろう。
くるまに乗り込もうとしたとき、一匹の猫が目を光らせて前を横切った。わたしの愛しかたは、動物みたいだ。猫になったらちょうどいいのだ。
そのとき、その場で恋を選んで。
「どこか、行くのか。」
「えっ・・・。」
ふいに背後から声をかけられ、思わず立ち止まった。
「・・・大田さん・・・。」
「・・・別にさ、後を付けてたわけじゃないさ。国道を走ってたら、お前のくるまが停まってたから。」
大田の笑顔は善良そのものだ。とにかくわたしは微笑みかえした。
「少し、お茶しようかと思って。まっすぐ帰るのも気が向かなかったし・・・。」
「そうか。」
わたしのケイタイが鳴り出す。
「また、メールだ。」
藤城から。ドキドキする。
でも、その内容は全然考えてもいなかったものだった。
「さっきの件、了承しました。あなたの悪いようにはいたしません。」
間違いメール。これは、仕事の相手かも。
「・・・誰か、誘いか。」
「いいえ・・・出会い系です。」
「ははは、お前のケイタイ、まだそんなもの入るようになってんのか。」
「ええ。」
蒸し暑い夜だ。大田はハンカチで、短い首をさかんにふいている。
「・・・飯でも食おうぜ。」
「でも。」
「そう嫌がるなよ。・・・滝も誘ってあるから。」
「 じゃあ、行こうかな。」
「現金だなあ、お前。でも、まあいいさ。
ところで、おれは呑むから、店まではお前が乗せてってくれよ。」
「軽だから、狭いですよ。」
「かまわないさ。」
仮面ども恋に恋する熱帯夜
出会い系サイトは、こんな夜にはにぎわうだろう。
藤城に返事をどうやって返そうかと思いながら、見知らぬ男女どうしの恋に少しあこがれた。
家も、過去も無く、ただ恋に恋していられれば、どんなにしあわせだろう。
夏の月
2002年6月25日 滝とのことークリの花(完結)藤城からのメールは、長かった。
そろそろ社内に社員がいなくなる時刻なので、ケイタイをかばんに仕舞い込み、残りは後で読むことにする。
駐車場に着く頃、ようやく西日は勢いを無くし始めていた。
もうすぐ夏だ。
夏の間に、この恋は決着するのか。
郷村と対決して明らかになったのは、わたしたちがふたりとも、滝を愛しているということ、だけ。
最も、郷村サイドから見れば、わたしが滝のくるまに乗った、という事実も分かったということになるが・・・。
わたしは、ゆっくりくるまを出した。
なんとなく、まっすぐ帰りたくない気分だった。
今にも落ちそうな大きな夕日と平行に、国道沿いに走る。無意識のうちに、この前藤城と会った喫茶店へ向かっていた。
夕方の店は空いていた。
どこからか、ハーブの香がした。
その香に誘われて、わたしもジャスミンテイーを頼むことにする。ウェイトレスが下がるとすぐに、ケイタイを取り出す。
「ぼくがあれこれきみの恋愛について、口を出せないということは、自分でもよくわかっている。
それでも、近頃のきみの憔悴ぶりには、元の上司としても黙ってはいられない。
きみは、滝といて、幸せなのか。
そもそもきみたちは、結婚を前提とした出会いかたをしたのでは無かったか。まだ、きみが100パーセントぼくのものだった頃、きみはお客の紹介で見合いをすることになったと言っていた。具体的に名前を聞いたわけでは無いけれど、あのときの相手は、滝だったのだろう。
そうして、きみは結局その話をことわった。でも、見合いの席には行っているわけだから、きみたちは一応そういうかたちで一度出会っているはずだ。
運命のいたずら、という陳腐な言い方をすれば、きみが彼の営業所に転勤したのは、まさに運命だったね。そこで、きみらは出会い直して、そして意識しあって、愛し合うようになった。そして、今がある。
だけど、考えてごらん。
見合いした男女が再会して、お互い憎からず思っているのに、どうしてそんなにきみは不幸な顔をしているのか。
恐らく、彼からのプロポーズが無いんだろう。
ぼくは、滝のことをそれほど良く知っているわけでは無い。でも、あの男は社内では目立つし、あれこれ噂も耳に入る。その中には、まあ、ハッキリ言ってきみの耳には入れたくないというものもあるんだ。男同士にしか分からないこともある、この前、滝ばかり責めるなとぼくが言ったのは・・・滝がきみの望むようなゴールを用意しているとは、思えなかったからだ。
きみのことは、今でも本当に愛している。
家庭があろうと無かろうと真実は、きみしか愛していない、の一言に尽きるんだ。
だから、幸せになって欲しい。
きみに、最高の笑顔を与えてくれるようでなければ、ぼくは滝を認めない。」
わたしは、ジャスミンのやわらかい香に包まれて、そのメールを読んだ。
何度も、何度も。
滝とお見合いをしたことがあるのを、やはり藤城は知っていたんだ。
そして、そういう「結婚を前提とした」交際の筈なのに、まるで結婚、という言葉を避けているかのように、ふたりの間が身体を求め合うことだけに終始しているのも。
わかったんだ。
藤城には、隠し事はできない。
そして、藤城さん、あなたなら、この、郷村とのことも、分かってもらえますか。
わたしは、ケイタイの番号を押した、懐かしい、不倫相手の番号を。
呼び出し音が耳元で零れだし、その音に耳ばかりでなく、体中を預けながら、窓の向こうにのぼる月を見た。
夏の月赤さで情を占いぬ
藤城の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
でも、泣いてみたって、かまわないだろう。
わたしのことを、こんなに愛してくれる男の胸でなら。
そろそろ社内に社員がいなくなる時刻なので、ケイタイをかばんに仕舞い込み、残りは後で読むことにする。
駐車場に着く頃、ようやく西日は勢いを無くし始めていた。
もうすぐ夏だ。
夏の間に、この恋は決着するのか。
郷村と対決して明らかになったのは、わたしたちがふたりとも、滝を愛しているということ、だけ。
最も、郷村サイドから見れば、わたしが滝のくるまに乗った、という事実も分かったということになるが・・・。
わたしは、ゆっくりくるまを出した。
なんとなく、まっすぐ帰りたくない気分だった。
今にも落ちそうな大きな夕日と平行に、国道沿いに走る。無意識のうちに、この前藤城と会った喫茶店へ向かっていた。
夕方の店は空いていた。
どこからか、ハーブの香がした。
その香に誘われて、わたしもジャスミンテイーを頼むことにする。ウェイトレスが下がるとすぐに、ケイタイを取り出す。
「ぼくがあれこれきみの恋愛について、口を出せないということは、自分でもよくわかっている。
それでも、近頃のきみの憔悴ぶりには、元の上司としても黙ってはいられない。
きみは、滝といて、幸せなのか。
そもそもきみたちは、結婚を前提とした出会いかたをしたのでは無かったか。まだ、きみが100パーセントぼくのものだった頃、きみはお客の紹介で見合いをすることになったと言っていた。具体的に名前を聞いたわけでは無いけれど、あのときの相手は、滝だったのだろう。
そうして、きみは結局その話をことわった。でも、見合いの席には行っているわけだから、きみたちは一応そういうかたちで一度出会っているはずだ。
運命のいたずら、という陳腐な言い方をすれば、きみが彼の営業所に転勤したのは、まさに運命だったね。そこで、きみらは出会い直して、そして意識しあって、愛し合うようになった。そして、今がある。
だけど、考えてごらん。
見合いした男女が再会して、お互い憎からず思っているのに、どうしてそんなにきみは不幸な顔をしているのか。
恐らく、彼からのプロポーズが無いんだろう。
ぼくは、滝のことをそれほど良く知っているわけでは無い。でも、あの男は社内では目立つし、あれこれ噂も耳に入る。その中には、まあ、ハッキリ言ってきみの耳には入れたくないというものもあるんだ。男同士にしか分からないこともある、この前、滝ばかり責めるなとぼくが言ったのは・・・滝がきみの望むようなゴールを用意しているとは、思えなかったからだ。
きみのことは、今でも本当に愛している。
家庭があろうと無かろうと真実は、きみしか愛していない、の一言に尽きるんだ。
だから、幸せになって欲しい。
きみに、最高の笑顔を与えてくれるようでなければ、ぼくは滝を認めない。」
わたしは、ジャスミンのやわらかい香に包まれて、そのメールを読んだ。
何度も、何度も。
滝とお見合いをしたことがあるのを、やはり藤城は知っていたんだ。
そして、そういう「結婚を前提とした」交際の筈なのに、まるで結婚、という言葉を避けているかのように、ふたりの間が身体を求め合うことだけに終始しているのも。
わかったんだ。
藤城には、隠し事はできない。
そして、藤城さん、あなたなら、この、郷村とのことも、分かってもらえますか。
わたしは、ケイタイの番号を押した、懐かしい、不倫相手の番号を。
呼び出し音が耳元で零れだし、その音に耳ばかりでなく、体中を預けながら、窓の向こうにのぼる月を見た。
夏の月赤さで情を占いぬ
藤城の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
でも、泣いてみたって、かまわないだろう。
わたしのことを、こんなに愛してくれる男の胸でなら。
灼く
2002年6月24日 滝とのことークリの花(完結)誰もいないと思っていたのに、更衣室には明かりがついていた。
「失礼します。」
消し忘れかな、と思ったけれど、念の為に声だけかける。
返答は無い。
が、自分のロッカーの鍵を回した時、ふいに人の気配を感じた。
「あ、郷村さん・・・お疲れ様です。」
郷村俊枝は彼女自身のロッカーの前にしゃがみこんで、どうやらケイタイでメールを打っているところらしい。
あいさつに答えが無いのは彼女ならやりかねないことだし、一応相手は先輩だから、さほど気にしない。
それより、余り気の合わない人間と二人で更衣室にいる方が息苦しい。
もう着替えは終えているのだから、早く帰ってくれないかしら、と思った。
梅雨だというのに、雨の無い日が続いている。
向かい側のビルに、西日がまともに当たってギラギラと眩しい。わたしは、西日からも、郷村からも顔を背ける位置で着替えをはじめた。
制服から黒いカットソーに着替えたとき、ふと、郷村が口紅を直しているのに目がいった。
「お出かけですかあ。」
明るい口調をつくってたずねる。
答えは無い。ただ、笑っている。
「もしかして、大田さんから誘われましたか。」
「ううん、太田さんからは今日は何も。」
「そうですか。」
口紅を見る。きついピンク色。
ピンク。
紅筆を見る。・・・新しいのか、古いのか、よく分からない。
「・・・大田さんじゃない人と、デート、ってことですか。」
「・・・。どうして。」
「なんとなく。メイクに力、入っているから。」
「そう。」
「彼氏、ですよね。」
わたしは、勝負に出る気は無かった。
ただ、心の黒雲を少しでも晴らしたかった。
もし、郷村俊枝が、滝のことを、彼氏では無いと認めれば、わたしの悩みはひとつ減らせるのだ。
「彼氏って、滝さんですか。」
「・・・。」
一瞬、口紅を塗る手が止まった。
「・・・滝さんだったら、どうなの。」
口調は平坦で、特に激したものは無い。
「・・・滝さんだったら、あなた、どうするの。・・・大田さん、最近よくあなたのこと噂しているみたいだけど、大田さんと付き合ってみる。」
カチンときた。
大田の名前を出され、大田とひとくくりにされたことに腹が立った。自分は滝と付き合っているという噂を流し、わたしは大田と付き合っているという噂を流す。許せなかった。
自分の好みでは無い男とはたとえ噂でもくっつきたくない、しかも、わたしは、現に滝と何度も寝ている関係なのに。
わたしは、自分のかばんを開けた。
そして、拾った紅筆を取り出した。
「これ、郷村さんのですか。」
沈黙が返ってきた。
また黙って、それでやり過ごすのか。
それなら、いい。
教えてあげる。
「・・・それ、滝さんのくるまの中に落ちていたんです。」
また、沈黙。
まだエアコンの入っていない更衣室は暑く、汗が首筋を伝うのを感じる。
負けるものか。
「・・・そう、滝さんの。」
「はい。」
「じゃあこれは、わたしのものだわ。滝さんのくるまの中にあったのなら。」
ゆっくりと、でも、有無を言わさぬ強さで、わたしの手の中の紅筆がもぎとられた。
「彼と、ご飯でも食べに行ったの。」
わたしは返事をしなかった。
相手の出方を見ようと思ったのだ。
これで、郷村とは、滝を巡ってライバルであるということが分かった。
二人とも、同じ男を愛している。
でも、わたしと滝との関係をまだ知られてはいない。
いや、わたしの態度から分かったか。それでも自分の負けは認めずにいるのか。
恋に不慣れな少女の頃なら、取っ組み合ってケンカをする場面である。
わたしたちは、ゴールを目指してし烈に闘う結婚したい大人の女同士だった、譲れない。だから、迂闊なことは、できない。
わたしのケイタイが鳴り出す。
滝のことがすぐに浮かんだけれど、相手は藤城だった。
メールには「無理するなよ。でもオレにできることなら、なんでもするから。」と、あった。
でも、って、何が、でも、なんだろう、と引っ掛かっている間に、お先に、のあいさつも無く敵は姿を消した。
サラダ油のごとく灼かれて窓並ぶ
西日はまだ勢いが止まらない。
ほんとうは、あの筆はだれのものだったのだろう。郷村の答えかたには、真相が無かった。
わたしの雨雲は当分晴れそうにない。
「失礼します。」
消し忘れかな、と思ったけれど、念の為に声だけかける。
返答は無い。
が、自分のロッカーの鍵を回した時、ふいに人の気配を感じた。
「あ、郷村さん・・・お疲れ様です。」
郷村俊枝は彼女自身のロッカーの前にしゃがみこんで、どうやらケイタイでメールを打っているところらしい。
あいさつに答えが無いのは彼女ならやりかねないことだし、一応相手は先輩だから、さほど気にしない。
それより、余り気の合わない人間と二人で更衣室にいる方が息苦しい。
もう着替えは終えているのだから、早く帰ってくれないかしら、と思った。
梅雨だというのに、雨の無い日が続いている。
向かい側のビルに、西日がまともに当たってギラギラと眩しい。わたしは、西日からも、郷村からも顔を背ける位置で着替えをはじめた。
制服から黒いカットソーに着替えたとき、ふと、郷村が口紅を直しているのに目がいった。
「お出かけですかあ。」
明るい口調をつくってたずねる。
答えは無い。ただ、笑っている。
「もしかして、大田さんから誘われましたか。」
「ううん、太田さんからは今日は何も。」
「そうですか。」
口紅を見る。きついピンク色。
ピンク。
紅筆を見る。・・・新しいのか、古いのか、よく分からない。
「・・・大田さんじゃない人と、デート、ってことですか。」
「・・・。どうして。」
「なんとなく。メイクに力、入っているから。」
「そう。」
「彼氏、ですよね。」
わたしは、勝負に出る気は無かった。
ただ、心の黒雲を少しでも晴らしたかった。
もし、郷村俊枝が、滝のことを、彼氏では無いと認めれば、わたしの悩みはひとつ減らせるのだ。
「彼氏って、滝さんですか。」
「・・・。」
一瞬、口紅を塗る手が止まった。
「・・・滝さんだったら、どうなの。」
口調は平坦で、特に激したものは無い。
「・・・滝さんだったら、あなた、どうするの。・・・大田さん、最近よくあなたのこと噂しているみたいだけど、大田さんと付き合ってみる。」
カチンときた。
大田の名前を出され、大田とひとくくりにされたことに腹が立った。自分は滝と付き合っているという噂を流し、わたしは大田と付き合っているという噂を流す。許せなかった。
自分の好みでは無い男とはたとえ噂でもくっつきたくない、しかも、わたしは、現に滝と何度も寝ている関係なのに。
わたしは、自分のかばんを開けた。
そして、拾った紅筆を取り出した。
「これ、郷村さんのですか。」
沈黙が返ってきた。
また黙って、それでやり過ごすのか。
それなら、いい。
教えてあげる。
「・・・それ、滝さんのくるまの中に落ちていたんです。」
また、沈黙。
まだエアコンの入っていない更衣室は暑く、汗が首筋を伝うのを感じる。
負けるものか。
「・・・そう、滝さんの。」
「はい。」
「じゃあこれは、わたしのものだわ。滝さんのくるまの中にあったのなら。」
ゆっくりと、でも、有無を言わさぬ強さで、わたしの手の中の紅筆がもぎとられた。
「彼と、ご飯でも食べに行ったの。」
わたしは返事をしなかった。
相手の出方を見ようと思ったのだ。
これで、郷村とは、滝を巡ってライバルであるということが分かった。
二人とも、同じ男を愛している。
でも、わたしと滝との関係をまだ知られてはいない。
いや、わたしの態度から分かったか。それでも自分の負けは認めずにいるのか。
恋に不慣れな少女の頃なら、取っ組み合ってケンカをする場面である。
わたしたちは、ゴールを目指してし烈に闘う結婚したい大人の女同士だった、譲れない。だから、迂闊なことは、できない。
わたしのケイタイが鳴り出す。
滝のことがすぐに浮かんだけれど、相手は藤城だった。
メールには「無理するなよ。でもオレにできることなら、なんでもするから。」と、あった。
でも、って、何が、でも、なんだろう、と引っ掛かっている間に、お先に、のあいさつも無く敵は姿を消した。
サラダ油のごとく灼かれて窓並ぶ
西日はまだ勢いが止まらない。
ほんとうは、あの筆はだれのものだったのだろう。郷村の答えかたには、真相が無かった。
わたしの雨雲は当分晴れそうにない。
香水
2002年6月22日 滝とのことークリの花(完結)真実、という言葉がこれほど空々しく思われたことは無い。
目の前にあるのは、一本の紅筆。
そして、それは、恋人の滝のくるまの中に落ちていた物である。
そして、わたしの物では無い。
誰か、他の女が滝のくるまに乗った、そして、これを落としたのだ。
滝に女装の趣味でも無ければそういうことである。
滝と女がくるまの中にいたという事実を認めるのは、嫌。
別に、ちょっと、職場の女の子を送って行ったとか、そういうことなのかもしれない。
でも、少し助手席をあたためた位で、メイク道具を落とすだろうか。
メイクの道具を落とす、ということは、メイクを直さざるを得ないような行為があった、という解釈が一番妥当である。
毎日きちんと出勤し、きちんと仕事はこなしていた。
心の乱れが出ないように細心の注意を払っていたから、むしろいい仕事をしていたかもしれない。
不倫のオフイスラブを体験しているから、こういうときの気持ちのコントロールは上手なつもりである。
でも。
笑わなくなった。
笑えなくなった。
心の中には、いつも黒い雲がたちこめている。
いつ降り出してもおかしくない雨雲を抱えて生きているのだった。
たまたま、地区連絡会議で藤城がわたしの職場に来たとき、危うくその雨が降りそうになった。
「おう、元気か。・・・・うまくいってるか。」
藤城が口にしたのは、それだけだったのに。
わたしは、会議室の片付けをしていた。
だれかに言いつけられたわけでは無かった、たまたま気が付いたから、である。
入社してすぐの頃には、会議の後の片付けなど、新人の仕事だった。わたしのような入社六年めのやることでは無かったが、人手不足でこういう誰の仕事でも無い雑用をする人間がいなくなり、わたしは特に不満も無く黙々と湯飲み茶碗を集めていた。
藤城は一人で会議室に入って来て、にっこりと笑った。
「・・・あまり、元気そうじゃ無い顔だな。」
藤城も、白髪が増えたと思った。今、四十半ばだろうか。イワキコウイチに似ていると昔から言われているようだけど、確かに白髪の感じも似てきた気がする。
「寝不足かな。」
誰かに聞かれてもいいように、明るい声を出す。
「寝られないような悩みがあるのかな。」
「・・・乙女の悩みに乗っていただけるんですか。」
「いいよ、いつでもおいで。」
一瞬、今回の紅筆のことを打ち明けてしまいたい衝動にかられた。
わたしには、こういうことを相談できるような友達はいなかった。気軽に買い物に行ったり、お茶したり、という友達はいても、こういう、恋人とゴタついた話のできるような友達はいなかった。むしろこういう「不幸」を打ち明ければ、自分のいないときに、仲間で心配顔を装ってさんざん楽しまれてしまうだろう。
だから、そのときには、藤城に甘えたくなったのだ。
性的な意味で、求めたわけでは無い。
「どうした。」
「いいえ、べつに。」
無人の会議室で、藤城は次第に大胆になって、わたしの肩に片手を置いた。
懐かしい匂いがする。
わたしは、黙って動かなかった。
無言でうつむいたままだった。
恋人を信じたいけれど、信じられないんです、と心の中で話した。
問いただしたらいいんでしょうか。
それとも、このまま黙っていた方がいいんでしょうか。
ふいに、ぎゅっ、と抱きしめられた。
「かわいそうに、何を悩んでるの。」
男の声は落ち着いている。
「僕のところに来ればよかったのに。」
あなたには、ちゃんと港があるくせに。
「なにかの力には、なってあげたのに。」
いいえ、これは、滝とわたしの問題だもの。
次第に力が加わるのを感じながら、滝に、会いたい、と心の中で叫ぶ。
違う、この胸じゃ無い、わたしの場所はあなたの胸なのよ、滝さん。
そのとき。
静かにドアが開けられた。
大田が立っていた。
しばらく沈黙があった。
でも、それはわたしには、しばらく、と思われただけのこと。
本当はほんの数秒のことだった、大田が、静かに 、
「ご苦労様、です。」
と言った。
「さっきの資料を忘れたから・・・。」
その日、大田から内線電話が入り、一度ふたりで呑まないか、という誘いがあった。
もちろんわたしは断った。残業を理由に。
会議室で時間を取られてしまったから、実際、するべき仕事は溜まってしまっていた。
黙々とパソコンに向かいながら、もしもあのとき大田が来なければどうしていただろうか、と考えた。
藤城に身を預けていたかもしれない。
一体、わたしは何をやっているんだろう。
滝に会わなければ。
会って、不安を晴らしたい。
でも。
真実をたずねることが、不安を晴らすことにつながればいいけれど。
逆に、残酷な真実が存在するかもしれないのである。
雨の日に香水と乗る昇降機
残業の後、無人のエレベーターに揺られながら、
「抱いて」と思いを滝にぶつけたことを思い出していた。
目の前にあるのは、一本の紅筆。
そして、それは、恋人の滝のくるまの中に落ちていた物である。
そして、わたしの物では無い。
誰か、他の女が滝のくるまに乗った、そして、これを落としたのだ。
滝に女装の趣味でも無ければそういうことである。
滝と女がくるまの中にいたという事実を認めるのは、嫌。
別に、ちょっと、職場の女の子を送って行ったとか、そういうことなのかもしれない。
でも、少し助手席をあたためた位で、メイク道具を落とすだろうか。
メイクの道具を落とす、ということは、メイクを直さざるを得ないような行為があった、という解釈が一番妥当である。
毎日きちんと出勤し、きちんと仕事はこなしていた。
心の乱れが出ないように細心の注意を払っていたから、むしろいい仕事をしていたかもしれない。
不倫のオフイスラブを体験しているから、こういうときの気持ちのコントロールは上手なつもりである。
でも。
笑わなくなった。
笑えなくなった。
心の中には、いつも黒い雲がたちこめている。
いつ降り出してもおかしくない雨雲を抱えて生きているのだった。
たまたま、地区連絡会議で藤城がわたしの職場に来たとき、危うくその雨が降りそうになった。
「おう、元気か。・・・・うまくいってるか。」
藤城が口にしたのは、それだけだったのに。
わたしは、会議室の片付けをしていた。
だれかに言いつけられたわけでは無かった、たまたま気が付いたから、である。
入社してすぐの頃には、会議の後の片付けなど、新人の仕事だった。わたしのような入社六年めのやることでは無かったが、人手不足でこういう誰の仕事でも無い雑用をする人間がいなくなり、わたしは特に不満も無く黙々と湯飲み茶碗を集めていた。
藤城は一人で会議室に入って来て、にっこりと笑った。
「・・・あまり、元気そうじゃ無い顔だな。」
藤城も、白髪が増えたと思った。今、四十半ばだろうか。イワキコウイチに似ていると昔から言われているようだけど、確かに白髪の感じも似てきた気がする。
「寝不足かな。」
誰かに聞かれてもいいように、明るい声を出す。
「寝られないような悩みがあるのかな。」
「・・・乙女の悩みに乗っていただけるんですか。」
「いいよ、いつでもおいで。」
一瞬、今回の紅筆のことを打ち明けてしまいたい衝動にかられた。
わたしには、こういうことを相談できるような友達はいなかった。気軽に買い物に行ったり、お茶したり、という友達はいても、こういう、恋人とゴタついた話のできるような友達はいなかった。むしろこういう「不幸」を打ち明ければ、自分のいないときに、仲間で心配顔を装ってさんざん楽しまれてしまうだろう。
だから、そのときには、藤城に甘えたくなったのだ。
性的な意味で、求めたわけでは無い。
「どうした。」
「いいえ、べつに。」
無人の会議室で、藤城は次第に大胆になって、わたしの肩に片手を置いた。
懐かしい匂いがする。
わたしは、黙って動かなかった。
無言でうつむいたままだった。
恋人を信じたいけれど、信じられないんです、と心の中で話した。
問いただしたらいいんでしょうか。
それとも、このまま黙っていた方がいいんでしょうか。
ふいに、ぎゅっ、と抱きしめられた。
「かわいそうに、何を悩んでるの。」
男の声は落ち着いている。
「僕のところに来ればよかったのに。」
あなたには、ちゃんと港があるくせに。
「なにかの力には、なってあげたのに。」
いいえ、これは、滝とわたしの問題だもの。
次第に力が加わるのを感じながら、滝に、会いたい、と心の中で叫ぶ。
違う、この胸じゃ無い、わたしの場所はあなたの胸なのよ、滝さん。
そのとき。
静かにドアが開けられた。
大田が立っていた。
しばらく沈黙があった。
でも、それはわたしには、しばらく、と思われただけのこと。
本当はほんの数秒のことだった、大田が、静かに 、
「ご苦労様、です。」
と言った。
「さっきの資料を忘れたから・・・。」
その日、大田から内線電話が入り、一度ふたりで呑まないか、という誘いがあった。
もちろんわたしは断った。残業を理由に。
会議室で時間を取られてしまったから、実際、するべき仕事は溜まってしまっていた。
黙々とパソコンに向かいながら、もしもあのとき大田が来なければどうしていただろうか、と考えた。
藤城に身を預けていたかもしれない。
一体、わたしは何をやっているんだろう。
滝に会わなければ。
会って、不安を晴らしたい。
でも。
真実をたずねることが、不安を晴らすことにつながればいいけれど。
逆に、残酷な真実が存在するかもしれないのである。
雨の日に香水と乗る昇降機
残業の後、無人のエレベーターに揺られながら、
「抱いて」と思いを滝にぶつけたことを思い出していた。
梔子
2002年6月19日 滝とのことークリの花(完結)結局、滝と逢えたのは、四人で呑んでから更に一週間後の夜になった。
誘いを入れて来たのは滝の方なのに、この日はどこか機嫌が悪かった。
わたしは、いつもと同じように、会社の誰彼の話をしてみたり、滝の仕事について聞いてみたりしてみた。
滝は、最近まで勤務していたわたしのいる支社の人間の近況を聞くのが好きそうだったから、わたしは、次々にいろいろな人物をとりあげては話をすすめた。
でも、沈黙がふたりの間を支配する時間が多くなりがちで・・・。
恋人同士の沈黙には二種類ある。
甘い沈黙。キスへつながる時間。お互い相手を求める気持ちが無口にさせて、紡ぎだされる沈黙。
そして、苦い沈黙。
話をしても長続きせず、気まずさだけが見えない堆積物となって、ふたりの間を埋めていく。
そして、今の二人の間の沈黙は・・・。
気まずいもの、なのだった。
なぜか、話をしなくとも、お互いの想いが分かる。
滝とわたしには、そういう部分があって、いいときには最高の組み合わせとなり得るけれど、悪いときには救いようが無い。
わたしは、実はもうそろそろかな、という予感を感じながらやって来たのだった。
ふたりの間の決定的瞬間。
プロポーズのとき。
誘いの声が、なんとなく硬かったのは、緊張のせいではないかと思っていたのだが、今夜に限っていえばそうではなさそうである。
「今夜は、帰るね。」
わたしはなるべく気軽に聞こえるようにそう言った。
「そう、するか。」
明らかにほっとした声だった。
その、くつろいだ声がわたしを苛立たせた。
離して、あげない。瞬間、そう決める。
「おやすみなさい。」
口先ではそう言ってのけ、唇を近付けた。
そして、そのまま彼の頭を抱え込むようにして、長い長いキスをつくった。
そして彼のかたい腕を静かに胸に引き寄せてゆく。薄い夏服の上から、次第に男の力が増していくのを感じたら・・・もう、離れられない。
わたしは、哀しくほくそえみながら、彼を受け入れてゆく。
多分彼の意に反して、激しいひとときになった。
同居している両親を起こさないようにして、自分の部屋に帰り、鏡をみるとずいぶんと口紅が乱れていた。
恐らく滝の体中に、わたしの紅が移っていることだろう。
首筋、胸、そして・・・もっと、下の部分。
体中が熱い。
わたしは、窓を開けた。
夜風が、くちなしの香を運んでくる。
梔子の白陶然と夜の中
その柔らかな甘い香をしばらく楽しんでから、窓を離れる。
と。
そのとき、ことん、と乾いた音がして、フローリング式の床に何かが転がった。
紅筆である。
さっき、滝のくるまの中で落としたのだろう。
彼に押し倒されたとき、ポーチがシートから落ちたから。で、服に引っ掛かったのだ。
でも。
その小さな筆を、コスメポーチに仕舞い込もうとして、わたしは思わず息を呑んだ。
違う。わたしのじゃ、無い。
筆を夢中でテイッシュにこすり付ける。
残っていた紅の色は、わたしのとは似ても似つかない、濃いピンク色をしていた。
誰の。
滝のくるまの中に、どうして他の女の唇を彩る道具があるのか。
夜の中。
梔子は、もう甘くない。
誘いを入れて来たのは滝の方なのに、この日はどこか機嫌が悪かった。
わたしは、いつもと同じように、会社の誰彼の話をしてみたり、滝の仕事について聞いてみたりしてみた。
滝は、最近まで勤務していたわたしのいる支社の人間の近況を聞くのが好きそうだったから、わたしは、次々にいろいろな人物をとりあげては話をすすめた。
でも、沈黙がふたりの間を支配する時間が多くなりがちで・・・。
恋人同士の沈黙には二種類ある。
甘い沈黙。キスへつながる時間。お互い相手を求める気持ちが無口にさせて、紡ぎだされる沈黙。
そして、苦い沈黙。
話をしても長続きせず、気まずさだけが見えない堆積物となって、ふたりの間を埋めていく。
そして、今の二人の間の沈黙は・・・。
気まずいもの、なのだった。
なぜか、話をしなくとも、お互いの想いが分かる。
滝とわたしには、そういう部分があって、いいときには最高の組み合わせとなり得るけれど、悪いときには救いようが無い。
わたしは、実はもうそろそろかな、という予感を感じながらやって来たのだった。
ふたりの間の決定的瞬間。
プロポーズのとき。
誘いの声が、なんとなく硬かったのは、緊張のせいではないかと思っていたのだが、今夜に限っていえばそうではなさそうである。
「今夜は、帰るね。」
わたしはなるべく気軽に聞こえるようにそう言った。
「そう、するか。」
明らかにほっとした声だった。
その、くつろいだ声がわたしを苛立たせた。
離して、あげない。瞬間、そう決める。
「おやすみなさい。」
口先ではそう言ってのけ、唇を近付けた。
そして、そのまま彼の頭を抱え込むようにして、長い長いキスをつくった。
そして彼のかたい腕を静かに胸に引き寄せてゆく。薄い夏服の上から、次第に男の力が増していくのを感じたら・・・もう、離れられない。
わたしは、哀しくほくそえみながら、彼を受け入れてゆく。
多分彼の意に反して、激しいひとときになった。
同居している両親を起こさないようにして、自分の部屋に帰り、鏡をみるとずいぶんと口紅が乱れていた。
恐らく滝の体中に、わたしの紅が移っていることだろう。
首筋、胸、そして・・・もっと、下の部分。
体中が熱い。
わたしは、窓を開けた。
夜風が、くちなしの香を運んでくる。
梔子の白陶然と夜の中
その柔らかな甘い香をしばらく楽しんでから、窓を離れる。
と。
そのとき、ことん、と乾いた音がして、フローリング式の床に何かが転がった。
紅筆である。
さっき、滝のくるまの中で落としたのだろう。
彼に押し倒されたとき、ポーチがシートから落ちたから。で、服に引っ掛かったのだ。
でも。
その小さな筆を、コスメポーチに仕舞い込もうとして、わたしは思わず息を呑んだ。
違う。わたしのじゃ、無い。
筆を夢中でテイッシュにこすり付ける。
残っていた紅の色は、わたしのとは似ても似つかない、濃いピンク色をしていた。
誰の。
滝のくるまの中に、どうして他の女の唇を彩る道具があるのか。
夜の中。
梔子は、もう甘くない。
硝子
2002年6月16日 滝とのことークリの花(完結)大田から、内線電話で誘いがあった。
この頃なぜかわたし個人のケイタイ番号を知りたがっているふしがある。もちろん教えていないが、
「どうして、滝には教えて、オレには教えないんだよ。」
と言われた。
この人は、滝とわたしの関係をまだ知らない。滝は何も話していないらしい。
大田にしてみれば、以前よく呑みに行った二人の男は、わたしにとって同位置にあるということらしい。
それとも、わたしは滝に片想いをしていることになっているのだろう。なかなかその想いを言い出せないでいるみたいだから、一肌脱いでやってもいいと思っている・・・そういうところか。
全く三十五だったか、六だったかのくせに、ひとのことなど構っておらずに、自分を何とかしろ、って感じ。
でも、大田の、丸い顔や、かつらかも知れないという噂のある妙に整ったヘアスタイルの頭をみていると、こういう男に性的魅力を感じてついて行く女が現れるとは、到底思えない。
悪い男では無いのだが。
社内旅行の幹事などさせれば、ピカ一である。
よく気が付くし、飲み物、食べ物、バスの中でのゲームから音楽にいたるまで、至れり尽くせり。人当たりもいいし、論争嫌い。大声を出すのを聞いたことが無い。
その、大田からの誘いである。
勿論、ふたりきりでは無い。
そういうことなら、こちらから丁重にお断り申し上げる。
大田と呑むとしたら、滝と一緒の場合だけ。
最初に滝と抱き合ったとき水を差されたことを怨んでいるわけでは無い。でも、忘れた訳でもない。
あのとき、妙に女性的なカンの働くこの男が、わたしたちの密会をかぎつけていたとも限らないのである。
ハッキリ言えば、邪魔をするつもりで、素知らぬ顔を決めて電話をして来たのかも知れないのである。
大田が、もしかして、わたしに気があるとしたら。そういうことも考えられた。
郷村のように、勝手に付き合っているなどと言いふらされては困る。
生理的に、嫌。
待ち合せ場所に着くと、滝と大田は先にビールを飲み始めたところだった。
二人の男が間を空けたので、自然にそこへ座る。
小柄なわたしには、多少座りにくいその場所へ着き、グラスにビールが注がれる。
「お前、相変わらず呑めないんだな。」
滝は、しばらく会っていない先輩社員の声で言葉をつくる。
「ええ。・・・でも、少し、いただきます。」
「元気か。」
「はい。」
実際、十日ばかり会っていない。
郷村のことを問いただそうかとも思ったのだが、恋人を信じることを選んだ。
ふたりきりのときの、熱い息遣い、激しいキス。
甘い声が、お前、では無くて、あなた、と呼ぶのだ。
滝が欲しい。
こんな呑み会は早々に引き上げるのだ。
そして、ひさしぶりに・・・。
しかし、甘い妄想はそこで断ち切られた。
居酒屋の扉が開けられ、大田がその方に大きく手をあげる。
郷村俊枝が、立っていた。微笑んで。
わたしたちは、四人。
そのメンバーは、かつてよく遅くまで呑んでいた、仲間、のはずである。
でも、もう違う。
わたしは、滝の妹じゃない。
妹だぞ、妹なんだから、と、滝が繰り返して言うのを、郷村はいつもどんな顔をして聞いていたのか。
酒のせいでますます赤みを増した顔を、満足そうに微笑ませていたのでは無かったのか。
でも、お生憎さま。
滝は、もうわたしの男だわ。
みんな、老獪であった。
一組の恋人同士の傍らに、男の方に狙いをつけた女がいて、女の方にも、想いを寄せた男がいて。
でも、表向きは、ただの同じ会社で気の合う仲間が、呑んでいる。
笑い、他愛無い噂話を繰り出し、唄い・・・。
夜はふけていく。
水色の硝子に辛き酒光る
酔えない身体に生まれたことを、心底怨みたくなる夜が、更けていく。
この頃なぜかわたし個人のケイタイ番号を知りたがっているふしがある。もちろん教えていないが、
「どうして、滝には教えて、オレには教えないんだよ。」
と言われた。
この人は、滝とわたしの関係をまだ知らない。滝は何も話していないらしい。
大田にしてみれば、以前よく呑みに行った二人の男は、わたしにとって同位置にあるということらしい。
それとも、わたしは滝に片想いをしていることになっているのだろう。なかなかその想いを言い出せないでいるみたいだから、一肌脱いでやってもいいと思っている・・・そういうところか。
全く三十五だったか、六だったかのくせに、ひとのことなど構っておらずに、自分を何とかしろ、って感じ。
でも、大田の、丸い顔や、かつらかも知れないという噂のある妙に整ったヘアスタイルの頭をみていると、こういう男に性的魅力を感じてついて行く女が現れるとは、到底思えない。
悪い男では無いのだが。
社内旅行の幹事などさせれば、ピカ一である。
よく気が付くし、飲み物、食べ物、バスの中でのゲームから音楽にいたるまで、至れり尽くせり。人当たりもいいし、論争嫌い。大声を出すのを聞いたことが無い。
その、大田からの誘いである。
勿論、ふたりきりでは無い。
そういうことなら、こちらから丁重にお断り申し上げる。
大田と呑むとしたら、滝と一緒の場合だけ。
最初に滝と抱き合ったとき水を差されたことを怨んでいるわけでは無い。でも、忘れた訳でもない。
あのとき、妙に女性的なカンの働くこの男が、わたしたちの密会をかぎつけていたとも限らないのである。
ハッキリ言えば、邪魔をするつもりで、素知らぬ顔を決めて電話をして来たのかも知れないのである。
大田が、もしかして、わたしに気があるとしたら。そういうことも考えられた。
郷村のように、勝手に付き合っているなどと言いふらされては困る。
生理的に、嫌。
待ち合せ場所に着くと、滝と大田は先にビールを飲み始めたところだった。
二人の男が間を空けたので、自然にそこへ座る。
小柄なわたしには、多少座りにくいその場所へ着き、グラスにビールが注がれる。
「お前、相変わらず呑めないんだな。」
滝は、しばらく会っていない先輩社員の声で言葉をつくる。
「ええ。・・・でも、少し、いただきます。」
「元気か。」
「はい。」
実際、十日ばかり会っていない。
郷村のことを問いただそうかとも思ったのだが、恋人を信じることを選んだ。
ふたりきりのときの、熱い息遣い、激しいキス。
甘い声が、お前、では無くて、あなた、と呼ぶのだ。
滝が欲しい。
こんな呑み会は早々に引き上げるのだ。
そして、ひさしぶりに・・・。
しかし、甘い妄想はそこで断ち切られた。
居酒屋の扉が開けられ、大田がその方に大きく手をあげる。
郷村俊枝が、立っていた。微笑んで。
わたしたちは、四人。
そのメンバーは、かつてよく遅くまで呑んでいた、仲間、のはずである。
でも、もう違う。
わたしは、滝の妹じゃない。
妹だぞ、妹なんだから、と、滝が繰り返して言うのを、郷村はいつもどんな顔をして聞いていたのか。
酒のせいでますます赤みを増した顔を、満足そうに微笑ませていたのでは無かったのか。
でも、お生憎さま。
滝は、もうわたしの男だわ。
みんな、老獪であった。
一組の恋人同士の傍らに、男の方に狙いをつけた女がいて、女の方にも、想いを寄せた男がいて。
でも、表向きは、ただの同じ会社で気の合う仲間が、呑んでいる。
笑い、他愛無い噂話を繰り出し、唄い・・・。
夜はふけていく。
水色の硝子に辛き酒光る
酔えない身体に生まれたことを、心底怨みたくなる夜が、更けていく。
陽炎
2002年6月13日 滝とのことークリの花(完結)ずっと無視してきた藤城からの電話だが、ふいに話してみる気になった。
朝、更衣室で聞いた噂話が、気分を苛立たせていた。
その会話の環の中に入っていなくてよかった。
わたしは、その話の外にいて、横から耳に入れる形になり、顔色が変わるのを同僚たちに見られずに済んだのだった。
「滝さんって、彼女いるんだって、知ってた。」
滝の名前を聞いただけでドキリとする。
まして、彼女、云々。
最初に思い浮かんだのは、会話がこちらに向かって来るという成り行きである。
滝の彼女、は、自分なのだから。
ところが、話は、思いも寄らない方角へすすむ。
「あのひと、郷村さんとできてるらしいよ。」
話しているのは、入社して一年ばかりの社員である。
その周りにいるのも、若い社員たちばかりである。
もちろん、郷村俊枝の姿は無い。
「まさかあ。」
信じられない、というのが、大方の反応である。
郷村は、滝が転勤して来る前からこの営業所にいるから古株だし、何かと仕事上の関わりは多かったけれど、誰しも、それだけだと思っていた。
もちろん、わたしも。
その証拠に、まだ滝と今のような関係になる前、四人で呑んでいたときにも、わたしには、エッチなジョークを飛ばしてみたり、戯れに身体を触ったりしていた滝が、彼女にはそういうことを一切していなかった。
「でもねえ・・・本人が、そう認めているのよ。」
「滝さんが・・・。」誰かがたずねる。
わたしは、おもわず息を呑んだ。
「ううん。郷村さんが。」
たまたま昨日いっしょに残業になり、郷村に何気なく、「彼氏はいるんですか」とたずねてみたところ、
「いるような、いないような。付き合いは、長いんだけど・・・。」
という返答で、なおも問い詰めると、滝の名前が出たという。
寝耳に水、である。
勿論、そんな話は信じない。
自分の机に向かうときに、何気なく郷村の姿に目を留めて見たが、赤ら顔で、長い髪を後ろでひとつにまとめ髪にしているのは、ただ背が高いだけの田舎くさい三十女にしか見えない。確か、家にも田畑があり、父親と兄は中学の教師をしていると聞いている。仕事もさほどめだってできる方では無い。
ばかげている。
あんな女が、滝と並んでも、つりあわない。
大体、滝は、「いっしょに連れて歩くときには、やっぱり美人がいいよな」と常に言っていた。
ありえない、それに滝とは、二日前に愛し合ったばかりだもの。
自分に言い聞かせながら席についたとき、机の上のメモに気が付いたのである。
「本部の藤城課長まで、電話してください」
藤城の用事は純粋に仕事のものであった。
本部の「苦情受け付けセンター」という部署にいるので、要訪問と思われる顧客のところには、各営業所から担当員が出向く。
藤城が言ってきたのは、そういう相手のところへ行って欲しいということだった。
「保険を解約したくて、払い込み料を差し止めておいたのに、銀行引き落としが間に合わなかったらしい。」
生保ではよくある話である。
「ただ、どうも、その保険解約にいたるいきさつでトラブったらしい。ちょっとデリケートな相手みたいだから、君に頼みたいところなんだ。」
実は、わたしはそういうトラブルを解決するのは割に得意である。
徹底的に相手の言い分を聞いて、こちらの言い訳めいたことは一切言わない。心がけはその位のことなのだが、不思議に今までうまくいっている。
ただ、藤城の、
「で、きみのところで誰が担当して問題になったかって言うと・・・郷村、って子らしい。」
という言葉を聞いて、声色を変えてしまった。
「どうして、わたしが、あの人の後始末をしなくちゃいけないんですか。」
滝とできているなどと、嘘を後輩に広めるような女の仕事の不始末。どうしてわたしがやる必要があるのだ。
藤城は、しばらく黙った。
わたしのきつい口調に戸惑っている様子だった
が、やがて一言、
「・・・滝、がらみか。」
と、言った。
カンのいいところが、よくも悪くもわたしを悩ませる男であった。
陽炎に緋色の胸を見透かされ
朝、更衣室で聞いた噂話が、気分を苛立たせていた。
その会話の環の中に入っていなくてよかった。
わたしは、その話の外にいて、横から耳に入れる形になり、顔色が変わるのを同僚たちに見られずに済んだのだった。
「滝さんって、彼女いるんだって、知ってた。」
滝の名前を聞いただけでドキリとする。
まして、彼女、云々。
最初に思い浮かんだのは、会話がこちらに向かって来るという成り行きである。
滝の彼女、は、自分なのだから。
ところが、話は、思いも寄らない方角へすすむ。
「あのひと、郷村さんとできてるらしいよ。」
話しているのは、入社して一年ばかりの社員である。
その周りにいるのも、若い社員たちばかりである。
もちろん、郷村俊枝の姿は無い。
「まさかあ。」
信じられない、というのが、大方の反応である。
郷村は、滝が転勤して来る前からこの営業所にいるから古株だし、何かと仕事上の関わりは多かったけれど、誰しも、それだけだと思っていた。
もちろん、わたしも。
その証拠に、まだ滝と今のような関係になる前、四人で呑んでいたときにも、わたしには、エッチなジョークを飛ばしてみたり、戯れに身体を触ったりしていた滝が、彼女にはそういうことを一切していなかった。
「でもねえ・・・本人が、そう認めているのよ。」
「滝さんが・・・。」誰かがたずねる。
わたしは、おもわず息を呑んだ。
「ううん。郷村さんが。」
たまたま昨日いっしょに残業になり、郷村に何気なく、「彼氏はいるんですか」とたずねてみたところ、
「いるような、いないような。付き合いは、長いんだけど・・・。」
という返答で、なおも問い詰めると、滝の名前が出たという。
寝耳に水、である。
勿論、そんな話は信じない。
自分の机に向かうときに、何気なく郷村の姿に目を留めて見たが、赤ら顔で、長い髪を後ろでひとつにまとめ髪にしているのは、ただ背が高いだけの田舎くさい三十女にしか見えない。確か、家にも田畑があり、父親と兄は中学の教師をしていると聞いている。仕事もさほどめだってできる方では無い。
ばかげている。
あんな女が、滝と並んでも、つりあわない。
大体、滝は、「いっしょに連れて歩くときには、やっぱり美人がいいよな」と常に言っていた。
ありえない、それに滝とは、二日前に愛し合ったばかりだもの。
自分に言い聞かせながら席についたとき、机の上のメモに気が付いたのである。
「本部の藤城課長まで、電話してください」
藤城の用事は純粋に仕事のものであった。
本部の「苦情受け付けセンター」という部署にいるので、要訪問と思われる顧客のところには、各営業所から担当員が出向く。
藤城が言ってきたのは、そういう相手のところへ行って欲しいということだった。
「保険を解約したくて、払い込み料を差し止めておいたのに、銀行引き落としが間に合わなかったらしい。」
生保ではよくある話である。
「ただ、どうも、その保険解約にいたるいきさつでトラブったらしい。ちょっとデリケートな相手みたいだから、君に頼みたいところなんだ。」
実は、わたしはそういうトラブルを解決するのは割に得意である。
徹底的に相手の言い分を聞いて、こちらの言い訳めいたことは一切言わない。心がけはその位のことなのだが、不思議に今までうまくいっている。
ただ、藤城の、
「で、きみのところで誰が担当して問題になったかって言うと・・・郷村、って子らしい。」
という言葉を聞いて、声色を変えてしまった。
「どうして、わたしが、あの人の後始末をしなくちゃいけないんですか。」
滝とできているなどと、嘘を後輩に広めるような女の仕事の不始末。どうしてわたしがやる必要があるのだ。
藤城は、しばらく黙った。
わたしのきつい口調に戸惑っている様子だった
が、やがて一言、
「・・・滝、がらみか。」
と、言った。
カンのいいところが、よくも悪くもわたしを悩ませる男であった。
陽炎に緋色の胸を見透かされ
裸の胸に
2002年6月12日 滝とのことークリの花(完結)職場から滝の姿は消えた。
でも、わたし個人の携帯に、滝からメールが入るようになった。
どちらかの車でドライブをした。
海を見て、映画へ行って、お茶を飲み。
そして、抱き合う。
ただ、顔を合わせている間、一体何を話していたのだろう。
あの頃の思い出はまるで無声映画のようだ。
仕事のこと。
あるいは、共通の知人の噂話。
よくよく思い出せば、何かは思い出せる。
でも、言葉を拾い集めるよりも、愛し合ったときのしぐさのひとつひとつ、キスの瞬間たち、そういった記憶を探る方がはるかにたやすい。
わたしたちは、ひたすら愛し合った。
まるで、のどの渇きを抑えるように彼はわたしを求めた。
そして、わたしは、与えられるだけの全ての身体の言葉を駆使して、彼に尽くした。
あるいは、尽くされていたのは、わたしの方だったのか。
彼はいつも、とても疲れているように見えた。
新しい仕事のせいだろうと思いながら、なぜか不安がいつも胸から離れない。
かつて、藤城を愛しすぎていた頃、藤城がわたしに見せた表情と、今の滝の消耗した顔付きが、なぜかダブって感じられる。
家庭を捨てることはできず、けれども、離れられない女がもう一方にいる。上手にバランスを取れると思っていても、ふいに、傾くことがある。傾きかけたものをまた水平にもどすのは、実は相当疲れるものなのだ・・・。
でも、滝は、違う。
彼には、わたししかいないはず。
おもわず、離さないで、と叫んでしまったとき、
どうしてあんなに苦しそうな顔をしたの。
身体同士の相性というものがあるのだとしたら、ふたりの組み合わせは最高だ。
でも、そのことさえ、なぜか不安にさせる。
遠雷を裸の胸に引き寄せる
結婚、という言葉がいつまでも出ない。
それが、不安。
あるいは、愛すれば愛するほど、不安はかさ高くなるものなのか。
恋人同士として、もっとも楽しいはずの季節を、なぜかとても苦しい思いで過ごしていた。
でも、わたし個人の携帯に、滝からメールが入るようになった。
どちらかの車でドライブをした。
海を見て、映画へ行って、お茶を飲み。
そして、抱き合う。
ただ、顔を合わせている間、一体何を話していたのだろう。
あの頃の思い出はまるで無声映画のようだ。
仕事のこと。
あるいは、共通の知人の噂話。
よくよく思い出せば、何かは思い出せる。
でも、言葉を拾い集めるよりも、愛し合ったときのしぐさのひとつひとつ、キスの瞬間たち、そういった記憶を探る方がはるかにたやすい。
わたしたちは、ひたすら愛し合った。
まるで、のどの渇きを抑えるように彼はわたしを求めた。
そして、わたしは、与えられるだけの全ての身体の言葉を駆使して、彼に尽くした。
あるいは、尽くされていたのは、わたしの方だったのか。
彼はいつも、とても疲れているように見えた。
新しい仕事のせいだろうと思いながら、なぜか不安がいつも胸から離れない。
かつて、藤城を愛しすぎていた頃、藤城がわたしに見せた表情と、今の滝の消耗した顔付きが、なぜかダブって感じられる。
家庭を捨てることはできず、けれども、離れられない女がもう一方にいる。上手にバランスを取れると思っていても、ふいに、傾くことがある。傾きかけたものをまた水平にもどすのは、実は相当疲れるものなのだ・・・。
でも、滝は、違う。
彼には、わたししかいないはず。
おもわず、離さないで、と叫んでしまったとき、
どうしてあんなに苦しそうな顔をしたの。
身体同士の相性というものがあるのだとしたら、ふたりの組み合わせは最高だ。
でも、そのことさえ、なぜか不安にさせる。
遠雷を裸の胸に引き寄せる
結婚、という言葉がいつまでも出ない。
それが、不安。
あるいは、愛すれば愛するほど、不安はかさ高くなるものなのか。
恋人同士として、もっとも楽しいはずの季節を、なぜかとても苦しい思いで過ごしていた。
水蜜
2002年6月9日 滝とのことークリの花(完結)唇を合わせた瞬間に、強いアルコールの匂いがした。
酔わなければ抱けないというわけでも無いだろうに。
それが不快というのでは無い。
むしろ、彼の酔いがこちらに移ってくればいいのにと思う。わたしも、酔いたい、力まかせに。
キスが続く。
ながいながいキス。
わたしたちは、車の中にいた。
そして、梅雨の、静かな雨に包まれていた。
濃い紫の紫陽花を思わせる夜のそらの色が、彼にきつく抱きしめられたときに目に映った。
雨は見えない。
ただ、車の窓をいくつも、いくつも、雫たちが滑る、それだけは見える。
「場所、変えようか。」
キスの途中、彼の声はかすれている。
「いいえ・・・あなたさえよければ。」
ここで、いい。
ここが、いい。
高まりを、殺したくなかった。
雫たちは、わたしの身体の中にも流れ出し、止められそうにない。
彼の指先が、まるでそのことを知っているように、ふとももをのぼってゆく。そして、キスは、首すじから胸元へおりていく。激しく打ち続く脈を確かめるように、ゆっくり。
わたしは、彼の頭の後ろの髪が、かすかに巻き毛になっているのを知る。そして、その一束を無意識に弄びながら、彼の指を迎え入れ、そして、無意識に声を立てる。
声が男に何かのゴーサインを与えたのだろうか。
ふいに、身体にからみついた腕がおそろしい力で離され・・・次の瞬間、足がむき出しになるのを感じ、間をおかずに、男を迎え入れてしまったのを覚える。
彼が、暴れている。
わたしは目を閉じている。
こういうことだったのか、と思う。
意外なことは何もない。
ずっと前から分かっていたことが、今、身の上に起きている。
そしてそれは、幾分厄介なことに、とても、とても、気持ちがいいのだった。
彼とははじめてだけど、男ははじめてでは無い。
でも、そういう、いわば「体験しているから」という理由で、こういう行為が気持ちがいいと感じるわけではないような気がした。
自分が持っていない快感のパーツは全てひとつ残らず彼にあって、今、わたしへとあらあらしい奔流になって与えられているのだ。
瞼の奥に、いくつ、稲妻が走っただろう。
水蜜の押せば崩るる恥ずかしさ
何も考えたくない。
何も考えない。
やがて、身体の汗をぬぐいながら、独り言のように彼がつぶやく。なぜか、淋しそうに。
「あなたに、惹かれていくよ・・・怖いくらいだ。」
そっと、キスを返してやる。
「わたしも・・・。」
でも、惹かれ合い、結びついたものが、かならずしもずっとそのままでは無いということに、気が付くべきだった。
少なくとも、彼の、怖い、という言葉にもう少し注意をはらうべきだったと思う。
酔わなければ抱けないというわけでも無いだろうに。
それが不快というのでは無い。
むしろ、彼の酔いがこちらに移ってくればいいのにと思う。わたしも、酔いたい、力まかせに。
キスが続く。
ながいながいキス。
わたしたちは、車の中にいた。
そして、梅雨の、静かな雨に包まれていた。
濃い紫の紫陽花を思わせる夜のそらの色が、彼にきつく抱きしめられたときに目に映った。
雨は見えない。
ただ、車の窓をいくつも、いくつも、雫たちが滑る、それだけは見える。
「場所、変えようか。」
キスの途中、彼の声はかすれている。
「いいえ・・・あなたさえよければ。」
ここで、いい。
ここが、いい。
高まりを、殺したくなかった。
雫たちは、わたしの身体の中にも流れ出し、止められそうにない。
彼の指先が、まるでそのことを知っているように、ふとももをのぼってゆく。そして、キスは、首すじから胸元へおりていく。激しく打ち続く脈を確かめるように、ゆっくり。
わたしは、彼の頭の後ろの髪が、かすかに巻き毛になっているのを知る。そして、その一束を無意識に弄びながら、彼の指を迎え入れ、そして、無意識に声を立てる。
声が男に何かのゴーサインを与えたのだろうか。
ふいに、身体にからみついた腕がおそろしい力で離され・・・次の瞬間、足がむき出しになるのを感じ、間をおかずに、男を迎え入れてしまったのを覚える。
彼が、暴れている。
わたしは目を閉じている。
こういうことだったのか、と思う。
意外なことは何もない。
ずっと前から分かっていたことが、今、身の上に起きている。
そしてそれは、幾分厄介なことに、とても、とても、気持ちがいいのだった。
彼とははじめてだけど、男ははじめてでは無い。
でも、そういう、いわば「体験しているから」という理由で、こういう行為が気持ちがいいと感じるわけではないような気がした。
自分が持っていない快感のパーツは全てひとつ残らず彼にあって、今、わたしへとあらあらしい奔流になって与えられているのだ。
瞼の奥に、いくつ、稲妻が走っただろう。
水蜜の押せば崩るる恥ずかしさ
何も考えたくない。
何も考えない。
やがて、身体の汗をぬぐいながら、独り言のように彼がつぶやく。なぜか、淋しそうに。
「あなたに、惹かれていくよ・・・怖いくらいだ。」
そっと、キスを返してやる。
「わたしも・・・。」
でも、惹かれ合い、結びついたものが、かならずしもずっとそのままでは無いということに、気が付くべきだった。
少なくとも、彼の、怖い、という言葉にもう少し注意をはらうべきだったと思う。
夕顔
2002年6月6日 滝とのことークリの花(完結)滝に転勤の辞令がおりたのは、藤城に会った十日ほどあとだった。
新しい営業所が開設されることになり、その準備委員として、ということであり、栄転であった。
滝にすれば、三十半ばを前にして「勝ち組」に入れることが見えてきたということになる。辞令がおりたときから、心なしかうきうきしているように見える。
「いろいろ世話になったな。元気で。」
あっさりとそんな風に言って、肩をポンと叩いて・・・実に普通の反応で別れの言葉をくれる。
「落ち込むなよな、おれが誘ってやるから。」
と言ったのは、大田という、例の呑み友達である。
「これからも滝とは呑むだろうからさ、そしたらまたおまえにも声かけるから。」
「そうですね、また・・・四人で。」
もう一人、女性メンバーも固定しつつあった。
わたしのふたつ上の先輩社員、郷村という。地味であまりしゃべらない方だが、酒には強かった。わたしは下戸だから、呑み会のあと、彼女を家まで送っていくこともある。郷村が誘われるのは、大田が誘うからで、わたしは内心、大田は郷村に気があるのではないかと思うことがあった。
キスの一件があって以来、滝から誘うことは無かった。
正直、滝のことを、本気で好きになっている。
だから本当は二人きりになりたい。
でも、一度、そのラインを飛び越えずに機会を逃してしまうと、もうこちらからは誘えない。
誘いをかければ、即、関係を持ちましょう、ということに受け取られるだろう。
以前の恋人であり、不倫相手だった藤城の「その気にさせる女」という言い方にもこだわりがあって、わたしは滝にどうしていいのかわからなくなっていた。
だから、なのか、しかし、なのか。
滝への想いは、わたしを包むあらゆることを制圧しつつある。
順序が逆だった・・・ある人のことが気になり出し、その人しか見なくなり、四六時中その人のことだけを考えるようになって、それから。
あの、キスがあればよかったのだ。
いくところまでいけばいい、そう強気になっても、相手がそういう気持ちならば、の話である。
ひとりで暴走しても、仕方が無い。
はじめての恋じゃ無いんだから。
「そう・・・。また、誘ってくださいね。」
大田の、アンパンを思わせる丸く太った顔にそう答えたのは、これっきりになるのが恐ろしかったからである。
会えなく、なるのが。
毎日同じ職場にいて、おなじ時間を重ねること。
それが、どんなに貴重だったか。
わたしは、今の営業所に配属されて、まだ一年も経っていない。
最初の頃、うまくなじめないでいたときから、滝は気軽に声をかけてきた。わたしの服をほめ、高いヒールをからかい、コピーとりを押し付け、顧客に出したお茶を絶賛し・・・。
そして、妹みたいだな、といったのである。
多くの女性社員はわたしよりも若い。
その中で、妹呼ばわりされるのは気恥ずかしかったけれど、滝がそういう態度をわたしにとることで、周囲も気軽に接してくれるようになった。
転勤してすぐに職場でのアイデンテイテイーができたのは、彼のおかげだった。
もうすぐ、会えなくなるんだ・・・。
言い知れぬ淋しさが、仕事の手を止める。
そして、彼が去る日は、あっという間にやってくる、何もできないうちに。
最後に、なぜか社内で二人きりになった瞬間があつたのは、なぜだろう。
しかも、エレベーターの中で。
わたしが乗り込んで「閉まる」ボタンに手を伸ばしたとき、両手にフアイルをいっぱい抱えて、滝が飛び込んできた。
彼のつけているダンヒルのコロンの香が苦しい。
「このまま・・・。」
箱が動き出し、ふいに口を開いたのは、彼の方である。
「このまま・・・屋上にでも行って、しようか。」
ドキリとして顔を見る。
彫の深い顔は微笑んでいる。
「お望みならば。」
そう言ってやり、こちらも笑う。泣き顔にならなければいいけれど。
エレベーターをさきに降りるのは彼の方だった。
フロアに着くと、背中で「開ける」ボタンを押しながら、一言。
「いい子だったな。いろいろありがとう。」
なぜか、ふいに、
「待ってください。」
と言っている。
今しかない。
わたしは、胸ポケットからメモを取り出し、ペンを走らせる。そして、
「お餞別ですから。」
と、彼のスーツの上着にメモを押し込む。
夕顔や日の移ろひをひたと受く
わたしは、ただこのままでいたくない。
「抱いて」
メモにはそう走り書きしてある。
新しい営業所が開設されることになり、その準備委員として、ということであり、栄転であった。
滝にすれば、三十半ばを前にして「勝ち組」に入れることが見えてきたということになる。辞令がおりたときから、心なしかうきうきしているように見える。
「いろいろ世話になったな。元気で。」
あっさりとそんな風に言って、肩をポンと叩いて・・・実に普通の反応で別れの言葉をくれる。
「落ち込むなよな、おれが誘ってやるから。」
と言ったのは、大田という、例の呑み友達である。
「これからも滝とは呑むだろうからさ、そしたらまたおまえにも声かけるから。」
「そうですね、また・・・四人で。」
もう一人、女性メンバーも固定しつつあった。
わたしのふたつ上の先輩社員、郷村という。地味であまりしゃべらない方だが、酒には強かった。わたしは下戸だから、呑み会のあと、彼女を家まで送っていくこともある。郷村が誘われるのは、大田が誘うからで、わたしは内心、大田は郷村に気があるのではないかと思うことがあった。
キスの一件があって以来、滝から誘うことは無かった。
正直、滝のことを、本気で好きになっている。
だから本当は二人きりになりたい。
でも、一度、そのラインを飛び越えずに機会を逃してしまうと、もうこちらからは誘えない。
誘いをかければ、即、関係を持ちましょう、ということに受け取られるだろう。
以前の恋人であり、不倫相手だった藤城の「その気にさせる女」という言い方にもこだわりがあって、わたしは滝にどうしていいのかわからなくなっていた。
だから、なのか、しかし、なのか。
滝への想いは、わたしを包むあらゆることを制圧しつつある。
順序が逆だった・・・ある人のことが気になり出し、その人しか見なくなり、四六時中その人のことだけを考えるようになって、それから。
あの、キスがあればよかったのだ。
いくところまでいけばいい、そう強気になっても、相手がそういう気持ちならば、の話である。
ひとりで暴走しても、仕方が無い。
はじめての恋じゃ無いんだから。
「そう・・・。また、誘ってくださいね。」
大田の、アンパンを思わせる丸く太った顔にそう答えたのは、これっきりになるのが恐ろしかったからである。
会えなく、なるのが。
毎日同じ職場にいて、おなじ時間を重ねること。
それが、どんなに貴重だったか。
わたしは、今の営業所に配属されて、まだ一年も経っていない。
最初の頃、うまくなじめないでいたときから、滝は気軽に声をかけてきた。わたしの服をほめ、高いヒールをからかい、コピーとりを押し付け、顧客に出したお茶を絶賛し・・・。
そして、妹みたいだな、といったのである。
多くの女性社員はわたしよりも若い。
その中で、妹呼ばわりされるのは気恥ずかしかったけれど、滝がそういう態度をわたしにとることで、周囲も気軽に接してくれるようになった。
転勤してすぐに職場でのアイデンテイテイーができたのは、彼のおかげだった。
もうすぐ、会えなくなるんだ・・・。
言い知れぬ淋しさが、仕事の手を止める。
そして、彼が去る日は、あっという間にやってくる、何もできないうちに。
最後に、なぜか社内で二人きりになった瞬間があつたのは、なぜだろう。
しかも、エレベーターの中で。
わたしが乗り込んで「閉まる」ボタンに手を伸ばしたとき、両手にフアイルをいっぱい抱えて、滝が飛び込んできた。
彼のつけているダンヒルのコロンの香が苦しい。
「このまま・・・。」
箱が動き出し、ふいに口を開いたのは、彼の方である。
「このまま・・・屋上にでも行って、しようか。」
ドキリとして顔を見る。
彫の深い顔は微笑んでいる。
「お望みならば。」
そう言ってやり、こちらも笑う。泣き顔にならなければいいけれど。
エレベーターをさきに降りるのは彼の方だった。
フロアに着くと、背中で「開ける」ボタンを押しながら、一言。
「いい子だったな。いろいろありがとう。」
なぜか、ふいに、
「待ってください。」
と言っている。
今しかない。
わたしは、胸ポケットからメモを取り出し、ペンを走らせる。そして、
「お餞別ですから。」
と、彼のスーツの上着にメモを押し込む。
夕顔や日の移ろひをひたと受く
わたしは、ただこのままでいたくない。
「抱いて」
メモにはそう走り書きしてある。
芥子の花
2002年6月4日 滝とのことークリの花(完結)顧客からのかなり複雑な問い合わせに答え、ようやく相手を納得させて受話器をおくと、出し抜けにまたベルが鳴った。
「もしもし、・・・藤城です。」
ほんとうは、もしもし、の第一声だけでわかって、次の瞬間切ってしまおうかと思ったのだけど、ついさっきの顧客とのやりとりで疲れた耳には、聞きなれたその声が心地よくもある。
「今日、ひさしぶりにお茶しないか。」
職場の電話なので、周囲が気になってすぐに返事できないのをいいことに、
「じゃ、待ってるから。」
一方的に切られる。
約束の場所までは自分の車で向かう。
でも、店の前までは乗り付けない。
国道沿いのその店の裏手の畑の脇に駐車する。
妻子持ちと逢い引きするのには、多少の心配りが必要なのである。
藤城と出会った頃は、そういう「妻子持ちならでは」の心配りが哀しくもあり、また少し自虐的な快感もあり、といった感じだったのだが、今はもうそういうひりひりしたものは無い。
相手はもういつもの隅の席に座り、業界紙をめくっている。文字を追うのなら、まだ夕暮れのかすかに残る窓際の席を選べばいいのに、そうはしない。
「で、今度の彼氏は、滝、か。」
アイスコーヒーが来てすぐに、そう切り出される。
「どうして。」
「きのう、彼が本部に来た時、少し話した・・・そう心配しなくても、仕事の話だよ。きみのことは、ほかの社員の話と一緒に少し話題にのぼっただけだから。それとも。」
そこで彼は、いたずらっぽい目つきをする。
「きみには近付くなよ、とでも言っておいた方がよかったかな。」
「でも、どうして。」
言いかけてからしまった、と思う。
「どうして、きみの今度の相手が彼だとわかったかって・・・。なんとなく、かな。彼の、きみのことを話したときの目、とか。」
彼がこのひとの前で、わたしをどんなふうに話したのだろう。
知りたい。
その言い方、口振りで、彼のわたしへの想いがどんなものかわかるのではないだろうか。
知りたい、彼の気持ちを。
でも、さすがに、かつて夢中だった男に、そんなことは聞き出せない。
相手もそれが分かっている。かつての上司であり、恋人。こちらの性格も身体も隅々まで分かった気でいる。
「でも、わたしたちは、別にお付き合いしましょうね、と言ったわけではないし。」
ただ、キスをしただけで。
邪魔な電話が入ったから、それ以上にはならなかった。
「・・・言葉で、交際宣言しないまま始めなければ、お付き合いにはならないってことか。」
藤城とは、残業時間にコーヒーを煎れているとき、給湯室でふいに抱きしめられてはじまった。
考えてみれば、滝とのことと、はじまりはよく似ている。
「きみは彼に恋しているんだな。ともかく。」
「そんなこと・・・。」
「それをまだ自覚していないということかな。でも、オレは淋しいよ。きみの心がよそへ行っている。」
わたしは黙った。
妻と子がいて、こういうことをサラリと口に出せることが改めて不思議だった。
「きみはなぜか、男をそそるものがある。きれいだし・・・スキがある。
だから、ふいに食べたくなるんだ。男にばかり罪を着せてはいけない。」
「だから・・・彼のことも、許してやれよ。」
「それは・・・。」
それは、彼が気まぐれでわたしとそういうことになったということ、なの。
恋、ではなくて。
「彼は、あなたとは、ちが・・・。」
あなたとはちがう、と言いかけてやめたのは、もしかしたら同じかも、という気がしたからだ。
それは、はじまりかたが似ているということだけでは無い。何か、その、わたしに男をそういうことに駆り立てるものがある、という意味合いにおいて。
「ともかく、彼には、余り期待しない方がいいと思った。何を期待するかって・・・将来のことなど、さ。きみたちがどういう出会い方をしていても、結果的には家庭の匂いをつくれないと思うよ。
・・・ヤキモチだと思ってもらっていいけど。」
出会い方。
このひとは、滝とわたしが、職場ではじめて出会ったのではないことも知っているんだ。
「・・・わたしは、あんなふうに出会ったから、素直になれないんだとおもうのだけれど。彼はわたしのことを、妹だと言い続けていたし。」
藤城は微笑んだ。
「まあ、なにか悲しいことがあったら、オレの胸においで、ってとこか。」
藤城とは、キスもなく別れた。
呼び出されたときは、身体が目的かと多少身構えていたが、考えてみれば、藤城には妻がいる。妻を抱けばいい。
滝のことを想う。
藤城とのことは、いくら隠しても社内で多少噂になったのだろう。滝も知っているのだ。
軽く見られているのかもしれない。
だも、品行方正な女に見られるよりも、その方が素敵なことに思えた。
少なくとも、滝から見たら。
芥子乱るるいかがわしさを愛すべし
いくところまで、いってやろうか。
傷を感じながら思う。
「もしもし、・・・藤城です。」
ほんとうは、もしもし、の第一声だけでわかって、次の瞬間切ってしまおうかと思ったのだけど、ついさっきの顧客とのやりとりで疲れた耳には、聞きなれたその声が心地よくもある。
「今日、ひさしぶりにお茶しないか。」
職場の電話なので、周囲が気になってすぐに返事できないのをいいことに、
「じゃ、待ってるから。」
一方的に切られる。
約束の場所までは自分の車で向かう。
でも、店の前までは乗り付けない。
国道沿いのその店の裏手の畑の脇に駐車する。
妻子持ちと逢い引きするのには、多少の心配りが必要なのである。
藤城と出会った頃は、そういう「妻子持ちならでは」の心配りが哀しくもあり、また少し自虐的な快感もあり、といった感じだったのだが、今はもうそういうひりひりしたものは無い。
相手はもういつもの隅の席に座り、業界紙をめくっている。文字を追うのなら、まだ夕暮れのかすかに残る窓際の席を選べばいいのに、そうはしない。
「で、今度の彼氏は、滝、か。」
アイスコーヒーが来てすぐに、そう切り出される。
「どうして。」
「きのう、彼が本部に来た時、少し話した・・・そう心配しなくても、仕事の話だよ。きみのことは、ほかの社員の話と一緒に少し話題にのぼっただけだから。それとも。」
そこで彼は、いたずらっぽい目つきをする。
「きみには近付くなよ、とでも言っておいた方がよかったかな。」
「でも、どうして。」
言いかけてからしまった、と思う。
「どうして、きみの今度の相手が彼だとわかったかって・・・。なんとなく、かな。彼の、きみのことを話したときの目、とか。」
彼がこのひとの前で、わたしをどんなふうに話したのだろう。
知りたい。
その言い方、口振りで、彼のわたしへの想いがどんなものかわかるのではないだろうか。
知りたい、彼の気持ちを。
でも、さすがに、かつて夢中だった男に、そんなことは聞き出せない。
相手もそれが分かっている。かつての上司であり、恋人。こちらの性格も身体も隅々まで分かった気でいる。
「でも、わたしたちは、別にお付き合いしましょうね、と言ったわけではないし。」
ただ、キスをしただけで。
邪魔な電話が入ったから、それ以上にはならなかった。
「・・・言葉で、交際宣言しないまま始めなければ、お付き合いにはならないってことか。」
藤城とは、残業時間にコーヒーを煎れているとき、給湯室でふいに抱きしめられてはじまった。
考えてみれば、滝とのことと、はじまりはよく似ている。
「きみは彼に恋しているんだな。ともかく。」
「そんなこと・・・。」
「それをまだ自覚していないということかな。でも、オレは淋しいよ。きみの心がよそへ行っている。」
わたしは黙った。
妻と子がいて、こういうことをサラリと口に出せることが改めて不思議だった。
「きみはなぜか、男をそそるものがある。きれいだし・・・スキがある。
だから、ふいに食べたくなるんだ。男にばかり罪を着せてはいけない。」
「だから・・・彼のことも、許してやれよ。」
「それは・・・。」
それは、彼が気まぐれでわたしとそういうことになったということ、なの。
恋、ではなくて。
「彼は、あなたとは、ちが・・・。」
あなたとはちがう、と言いかけてやめたのは、もしかしたら同じかも、という気がしたからだ。
それは、はじまりかたが似ているということだけでは無い。何か、その、わたしに男をそういうことに駆り立てるものがある、という意味合いにおいて。
「ともかく、彼には、余り期待しない方がいいと思った。何を期待するかって・・・将来のことなど、さ。きみたちがどういう出会い方をしていても、結果的には家庭の匂いをつくれないと思うよ。
・・・ヤキモチだと思ってもらっていいけど。」
出会い方。
このひとは、滝とわたしが、職場ではじめて出会ったのではないことも知っているんだ。
「・・・わたしは、あんなふうに出会ったから、素直になれないんだとおもうのだけれど。彼はわたしのことを、妹だと言い続けていたし。」
藤城は微笑んだ。
「まあ、なにか悲しいことがあったら、オレの胸においで、ってとこか。」
藤城とは、キスもなく別れた。
呼び出されたときは、身体が目的かと多少身構えていたが、考えてみれば、藤城には妻がいる。妻を抱けばいい。
滝のことを想う。
藤城とのことは、いくら隠しても社内で多少噂になったのだろう。滝も知っているのだ。
軽く見られているのかもしれない。
だも、品行方正な女に見られるよりも、その方が素敵なことに思えた。
少なくとも、滝から見たら。
芥子乱るるいかがわしさを愛すべし
いくところまで、いってやろうか。
傷を感じながら思う。
胡瓜
2002年6月3日 滝とのことークリの花(完結)とにかく、車を移動させよう。
助手席に乗り込んだわたしに、彼はまず、そう言った。
人口十万足らずの町では、どこで誰が見ているか分からない。
ふたりとも独り身だから、別に構わないのに。
ともかく車は走り出す。
どこへ行きますか。
珍しく敬語でたずねられたので、相手も緊張しているのかなと思う。
わたしは答えない。
言葉が出ない。
さっき、この車に向かって歩いて来た時に胸に渦巻いていた渇望感が薄れている。
こういうのは、違う。
こころのどこかで、アラームが鳴っている。
そのとき、彼の携帯が鳴る。
まるで、わたしの気持ちのアラームが、現実の音になったみたいに。
「うん、また、少ししたらかけるよ。」
そして、
「昨日のあいつが、また食事に誘ってきたんだけど・・・どうする。」
わたしは迷わず、
「行きましょう。二人揃って現れたら、変に思われるかもしれないけれど。」
と、答える。
五つ年上の三十男が、なぜかほっとしているのを感じる。だから、少しつまらなくなって、
「帰りは、送ってくださいね。」
と、宿題を押し付けた。
わたしたちは、同じ会社の同僚としての何時間かを、三人でつかう。
食事して、呑んで、歌って。
ただ、彼はもう「妹」の歌は歌わない。
もう一人の男がトイレに立つと、ほかの客たちの目を盗むようにして唇を重ねてくる。
そのことが、きのうと違う。
そして、何度もキスをするうちに、また渇望感が胸の奥で生まれてくる。
キス。
口は、気持ちを伝えるための器官なのだった。
それは、言葉を生み出すという意味だけでは無いのだと、知る。
わたしたちは、唇で、幾つもの、幾重もの感情を相手に流し込み合う。
そして、口は、何かを食べるための・・・。
宿題の時間が待ち遠しい。
でも。
彼の腕が、わたしを抱きながら、リクライニングシートを倒そうとしたときに、また携帯が鳴る。
無視。
でも、止まらない音が、狭い空間を満たしていく。
彼が、ため息をついて電話をとる。
わたしたちは、そのままその日は別れた。
電話をかけてきたのは、さっきいっしょに食事をした男である。
もう少し呑みたいので、付き合わないかという誘いだった。
そこにもついて行くのは不自然過ぎるから、わたしはそっと、髪をなおし、彼の口元の口紅をぬぐって、おやすみなさい、と車をすべり出る。
おやすみなさい。
自分の車に乗り込み、エンジンをかけると、ヘッド・ライトの中に、胡瓜の花が浮かび上がった。
新興住宅地の庭先で、育てているものらしい。
発情の色は黄色の胡瓜咲く
花をつければ必ず実る、植物がうらやましい。
なんとなく、まともな恋はできない予感に襲われる。
助手席に乗り込んだわたしに、彼はまず、そう言った。
人口十万足らずの町では、どこで誰が見ているか分からない。
ふたりとも独り身だから、別に構わないのに。
ともかく車は走り出す。
どこへ行きますか。
珍しく敬語でたずねられたので、相手も緊張しているのかなと思う。
わたしは答えない。
言葉が出ない。
さっき、この車に向かって歩いて来た時に胸に渦巻いていた渇望感が薄れている。
こういうのは、違う。
こころのどこかで、アラームが鳴っている。
そのとき、彼の携帯が鳴る。
まるで、わたしの気持ちのアラームが、現実の音になったみたいに。
「うん、また、少ししたらかけるよ。」
そして、
「昨日のあいつが、また食事に誘ってきたんだけど・・・どうする。」
わたしは迷わず、
「行きましょう。二人揃って現れたら、変に思われるかもしれないけれど。」
と、答える。
五つ年上の三十男が、なぜかほっとしているのを感じる。だから、少しつまらなくなって、
「帰りは、送ってくださいね。」
と、宿題を押し付けた。
わたしたちは、同じ会社の同僚としての何時間かを、三人でつかう。
食事して、呑んで、歌って。
ただ、彼はもう「妹」の歌は歌わない。
もう一人の男がトイレに立つと、ほかの客たちの目を盗むようにして唇を重ねてくる。
そのことが、きのうと違う。
そして、何度もキスをするうちに、また渇望感が胸の奥で生まれてくる。
キス。
口は、気持ちを伝えるための器官なのだった。
それは、言葉を生み出すという意味だけでは無いのだと、知る。
わたしたちは、唇で、幾つもの、幾重もの感情を相手に流し込み合う。
そして、口は、何かを食べるための・・・。
宿題の時間が待ち遠しい。
でも。
彼の腕が、わたしを抱きながら、リクライニングシートを倒そうとしたときに、また携帯が鳴る。
無視。
でも、止まらない音が、狭い空間を満たしていく。
彼が、ため息をついて電話をとる。
わたしたちは、そのままその日は別れた。
電話をかけてきたのは、さっきいっしょに食事をした男である。
もう少し呑みたいので、付き合わないかという誘いだった。
そこにもついて行くのは不自然過ぎるから、わたしはそっと、髪をなおし、彼の口元の口紅をぬぐって、おやすみなさい、と車をすべり出る。
おやすみなさい。
自分の車に乗り込み、エンジンをかけると、ヘッド・ライトの中に、胡瓜の花が浮かび上がった。
新興住宅地の庭先で、育てているものらしい。
発情の色は黄色の胡瓜咲く
花をつければ必ず実る、植物がうらやましい。
なんとなく、まともな恋はできない予感に襲われる。
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