はっ、として目覚めた。
枕元の時計は、午前三時。
どこかで、風の音がする。
何かの気配がして、急き立てられるような感覚に襲われたのは、そうか、窓の外で吹き荒れる風のせいだったんだ。
間違っても、電話が鳴ったせいではない。
彼とは、唐突に終わった。
先先週、駅のホームに立っていた彼の人差し指は、列車内にいるわたしの目の前の窓に、
大きくハートを描き、口元には「あいしてるよ」の言葉が大きく浮かんでいた。
でも、それが、最後になってしまった。
まったく通じなくなってしまったメール、電話。
やっと聴いた彼の声は、戸惑いながら、
「どうか、なってしまった。」
と、震えていた。
「ずっと、君のことしか見ていなかったのに。
気になるひとが、できてしまった。」
わたしは、早々に電話を切って、そのまま駅に向かうべきだったのだろうか。
あるいは、いつかそうしたように、自分の小さな車に乗り込んで、百キロの道を飛ばすべきだったのだろうか。
風の音は続いている。
季節外れの台風が近付いていると、そう言えば夕方のニュースが告げていたっけ。
枯れ葉たちが狂ったように木からもぎとられて吹き飛ばされていくのが、目に浮かぶ。
夜の中で。
率直に言ってしまうと、彼とのセックスは余りよくなかった。
別に、へた、とかそういうんじゃない。
自分本位では無かった、いつでも優しくて暖かだった。ただ黙って抱きしめられているのなら、それでもよかったのだけれど。
もうこれは、わたしのわがままだ。
一人の男にそう何もかも望んではいけない。
あるいは、相性のようなもの、かもしれない。
何度も別れたのは、根底にそれがあったからなのだ。認めたくないけれど。
そして、いつも、彼の方から、やり直そう、と言ってきた。そういうことが、ここ数年続き、そして、ついにこの前、プロポーズされた。
彼が挨拶に持ってきた、日持ちのいいおせんべいは、今でも家の居間の押し入れにある。
でも、もういいのだ。
ここらで、いいのだ。
気になるひとができた、と聞いた時に、
ほっとしてしまったのだから。
木枯らしに弄ばれて夜更けかな
胸の中にも、風は吹いている。
愛情もさほど感じずにいて、それでも悲しみに似た想いに囚われて眠れそうに無い。
明日、朝日の中で、たくさんの枯れ木を目にすることになるだろう。
冬を前にして、何も持たずにいることになったわたし。
葉を失った木々を見て、慰められるのだろうか。
わたし、そんなわたしは嫌いなんだけれど。
枕元の時計は、午前三時。
どこかで、風の音がする。
何かの気配がして、急き立てられるような感覚に襲われたのは、そうか、窓の外で吹き荒れる風のせいだったんだ。
間違っても、電話が鳴ったせいではない。
彼とは、唐突に終わった。
先先週、駅のホームに立っていた彼の人差し指は、列車内にいるわたしの目の前の窓に、
大きくハートを描き、口元には「あいしてるよ」の言葉が大きく浮かんでいた。
でも、それが、最後になってしまった。
まったく通じなくなってしまったメール、電話。
やっと聴いた彼の声は、戸惑いながら、
「どうか、なってしまった。」
と、震えていた。
「ずっと、君のことしか見ていなかったのに。
気になるひとが、できてしまった。」
わたしは、早々に電話を切って、そのまま駅に向かうべきだったのだろうか。
あるいは、いつかそうしたように、自分の小さな車に乗り込んで、百キロの道を飛ばすべきだったのだろうか。
風の音は続いている。
季節外れの台風が近付いていると、そう言えば夕方のニュースが告げていたっけ。
枯れ葉たちが狂ったように木からもぎとられて吹き飛ばされていくのが、目に浮かぶ。
夜の中で。
率直に言ってしまうと、彼とのセックスは余りよくなかった。
別に、へた、とかそういうんじゃない。
自分本位では無かった、いつでも優しくて暖かだった。ただ黙って抱きしめられているのなら、それでもよかったのだけれど。
もうこれは、わたしのわがままだ。
一人の男にそう何もかも望んではいけない。
あるいは、相性のようなもの、かもしれない。
何度も別れたのは、根底にそれがあったからなのだ。認めたくないけれど。
そして、いつも、彼の方から、やり直そう、と言ってきた。そういうことが、ここ数年続き、そして、ついにこの前、プロポーズされた。
彼が挨拶に持ってきた、日持ちのいいおせんべいは、今でも家の居間の押し入れにある。
でも、もういいのだ。
ここらで、いいのだ。
気になるひとができた、と聞いた時に、
ほっとしてしまったのだから。
木枯らしに弄ばれて夜更けかな
胸の中にも、風は吹いている。
愛情もさほど感じずにいて、それでも悲しみに似た想いに囚われて眠れそうに無い。
明日、朝日の中で、たくさんの枯れ木を目にすることになるだろう。
冬を前にして、何も持たずにいることになったわたし。
葉を失った木々を見て、慰められるのだろうか。
わたし、そんなわたしは嫌いなんだけれど。
菊人形展は、毎年10月の初めから、一ヶ月の間開かれる。
もう30年、いや、40年近く続いている催しである。小さな頃は、遠足みたいに、学校単位で観に行った。
その年のNHK大河ドラマをテーマにして、毎年違った人形が作られる訳だけれども、物語の流れに沿うようにして場面ごとに人形が飾られている「見流館」と呼ばれる建物のつくりも、遊園地よろしくあちこちに展開している観覧車や、メリーゴーランドも、本当に、驚くほど毎年ほとんど変わらない。
「見流館」は、雰囲気つくりのためだろう、中を暗くし、場面に合った音楽や効果音を流し、照明で人形を照らす仕掛けである。
幼い頃は、お化け屋敷みたいで、とても怖かった。家族と来て大泣きしたのは勿論、わたしだけが中に入らず出口で待っていたことさえある。
そのわたしも、大泣きする子供を抱いて、ここを訪れる年齢になった。
結婚して町を離れ、久しぶりの「菊人形展」である。もの珍しくは無いものの、懐かしくもあり、レーザー光線や、CGなど、目新しい演出が興味深くもあり、子供に手をかけられながらも、楽しい時間が流れていた。
そのときまでは。
「見流館」を出たときに、ふと、見覚えのある中年、いやもう老人といった年頃の女が目に入った。
忘れもしない。
弘樹の母親である。
弘樹とは婚約直前に別れた。母親が、どうしても、わたしを気に入らなかったからである。
いや、もう少しふんばれば結婚式には漕ぎ着けられたかもしれない。
だが結婚してその後、姑とトラブルが起きたとき、この弘樹という人は嫁であるわたしの味方をしてくれるだろうか。
そう考えたとき、答えはノーだった。
だから、別れた。
美術館巡りをしたり、毎週スキーに行ったり。
ふたりの濃密でたいせつなひとときも、結婚するという段になって、母親が登場してきた時点で、何やら薄汚れた思い出になってしまった。
その母親が、目の前にいる。
しかも、家族で来ているらしい。
一瞬、弘樹の姿を探してしまった。
会いたいからでは無い。むしろ、逃げるために。
相手にみつかる前に、こちらが消えたい。
普段着に近い服を思い、そろそろカットしなければならない髪に手をやった。
彼の姿は、無い。
その代わりだった。
くたびれかけた母親に、ふたりの幼児がまとわりつく。
そして、
「おばあちゃんの手をとつなぎなさいよ。」
という若い女の声。
「いやだよー!。」
とわざとに汚い大声で返事を返した五才くらいの男の子。
弘樹そっくりだ。
わたしの両手にも、しっかり抱えられて、小さな娘がいる。
パパそっくりね、と人に言われる。
弘樹にも家庭があるのだ。
人形の見やる虚空に菊薫る
別々の時間を紡ぎながら、人は生きて行き、いつかは死ぬ。
菊もまた、毎年同じようでありながら、一つとして同じ花は、無い。
もう30年、いや、40年近く続いている催しである。小さな頃は、遠足みたいに、学校単位で観に行った。
その年のNHK大河ドラマをテーマにして、毎年違った人形が作られる訳だけれども、物語の流れに沿うようにして場面ごとに人形が飾られている「見流館」と呼ばれる建物のつくりも、遊園地よろしくあちこちに展開している観覧車や、メリーゴーランドも、本当に、驚くほど毎年ほとんど変わらない。
「見流館」は、雰囲気つくりのためだろう、中を暗くし、場面に合った音楽や効果音を流し、照明で人形を照らす仕掛けである。
幼い頃は、お化け屋敷みたいで、とても怖かった。家族と来て大泣きしたのは勿論、わたしだけが中に入らず出口で待っていたことさえある。
そのわたしも、大泣きする子供を抱いて、ここを訪れる年齢になった。
結婚して町を離れ、久しぶりの「菊人形展」である。もの珍しくは無いものの、懐かしくもあり、レーザー光線や、CGなど、目新しい演出が興味深くもあり、子供に手をかけられながらも、楽しい時間が流れていた。
そのときまでは。
「見流館」を出たときに、ふと、見覚えのある中年、いやもう老人といった年頃の女が目に入った。
忘れもしない。
弘樹の母親である。
弘樹とは婚約直前に別れた。母親が、どうしても、わたしを気に入らなかったからである。
いや、もう少しふんばれば結婚式には漕ぎ着けられたかもしれない。
だが結婚してその後、姑とトラブルが起きたとき、この弘樹という人は嫁であるわたしの味方をしてくれるだろうか。
そう考えたとき、答えはノーだった。
だから、別れた。
美術館巡りをしたり、毎週スキーに行ったり。
ふたりの濃密でたいせつなひとときも、結婚するという段になって、母親が登場してきた時点で、何やら薄汚れた思い出になってしまった。
その母親が、目の前にいる。
しかも、家族で来ているらしい。
一瞬、弘樹の姿を探してしまった。
会いたいからでは無い。むしろ、逃げるために。
相手にみつかる前に、こちらが消えたい。
普段着に近い服を思い、そろそろカットしなければならない髪に手をやった。
彼の姿は、無い。
その代わりだった。
くたびれかけた母親に、ふたりの幼児がまとわりつく。
そして、
「おばあちゃんの手をとつなぎなさいよ。」
という若い女の声。
「いやだよー!。」
とわざとに汚い大声で返事を返した五才くらいの男の子。
弘樹そっくりだ。
わたしの両手にも、しっかり抱えられて、小さな娘がいる。
パパそっくりね、と人に言われる。
弘樹にも家庭があるのだ。
人形の見やる虚空に菊薫る
別々の時間を紡ぎながら、人は生きて行き、いつかは死ぬ。
菊もまた、毎年同じようでありながら、一つとして同じ花は、無い。
暮れやすし空の丸みをいとおしむ
秋の夕暮れ。
わたしは、西の空を見ている。
どこか柿の色を思わせる空は、うっすらと雲を一面にたたえて、海に広がる。
水平線の向こうまで、やわらかく続く柿色の空は、球体。やっぱり地球って丸いんだな、などと思う。
男と女も、生まれる前、ひとつの球体だった、というのはどこで聴いた話だったか。
神様の決められた一つの球体は、半分にされて、この世に送り込まれる。
だから、男は、女を。
女は、男を。
自分のなくした半分を探して、恋をする。
ベターハーフ。
やがて、ぴたりと見事に自分の半分を探し当てたふたりは結ばれ、しあわせになるのだという。
自分にとっての「なくした半分」を探し続けていた頃、恋をするたびに、この人こそ、と思い、そして、いろんな理由で恋が消え、また違った、わたしの半分はどこなの!と、必死で探し・・・。
・・・結婚した。
ベターハーフ、が、ベター、であって、どうして、
ベストハーフ、
とは言われないのだろうか?と不思議に思ったのは、結婚してからである。
完全なる球体、ならば、ベスト、では無いのか?
ベター、というのは、わたしの思い違いなのか?
・・・いや、正解は、やはり、ベター、なのだ。
どうして、結婚する相手が「最愛」だと思うのだろう?。
最も恋した、ということと、ひとつになる、ということは、必ずしも、ぴたりと結びつかない。
ベター、くらいがちょうどいいのだ、生活していくのには。
ベスト、ではいけない。
生活というのは、ふたりだけで成り立つものではない。
ふたりが核であっても、そこに、周囲の色々な人たちの入れるゆとりが無ければならない。
ベスト、では無く、ベター、だからこそ、そこに幅が生まれて他人を受け入れる・・・子供たちだって二人以外の他人であることは違いない・・・ことができるのだから。
秋の夕暮れ。
あっと言う間に夕闇に支配され、海は、ひたひたと黒くなる。
思い出されるのは、背中ばかり。
たぶん、ベストハーフ、はどこかにあったのだ。
でも、それで、しあわせになれたかどうかは、わからない。
秋の夕暮れ。
わたしは、西の空を見ている。
どこか柿の色を思わせる空は、うっすらと雲を一面にたたえて、海に広がる。
水平線の向こうまで、やわらかく続く柿色の空は、球体。やっぱり地球って丸いんだな、などと思う。
男と女も、生まれる前、ひとつの球体だった、というのはどこで聴いた話だったか。
神様の決められた一つの球体は、半分にされて、この世に送り込まれる。
だから、男は、女を。
女は、男を。
自分のなくした半分を探して、恋をする。
ベターハーフ。
やがて、ぴたりと見事に自分の半分を探し当てたふたりは結ばれ、しあわせになるのだという。
自分にとっての「なくした半分」を探し続けていた頃、恋をするたびに、この人こそ、と思い、そして、いろんな理由で恋が消え、また違った、わたしの半分はどこなの!と、必死で探し・・・。
・・・結婚した。
ベターハーフ、が、ベター、であって、どうして、
ベストハーフ、
とは言われないのだろうか?と不思議に思ったのは、結婚してからである。
完全なる球体、ならば、ベスト、では無いのか?
ベター、というのは、わたしの思い違いなのか?
・・・いや、正解は、やはり、ベター、なのだ。
どうして、結婚する相手が「最愛」だと思うのだろう?。
最も恋した、ということと、ひとつになる、ということは、必ずしも、ぴたりと結びつかない。
ベター、くらいがちょうどいいのだ、生活していくのには。
ベスト、ではいけない。
生活というのは、ふたりだけで成り立つものではない。
ふたりが核であっても、そこに、周囲の色々な人たちの入れるゆとりが無ければならない。
ベスト、では無く、ベター、だからこそ、そこに幅が生まれて他人を受け入れる・・・子供たちだって二人以外の他人であることは違いない・・・ことができるのだから。
秋の夕暮れ。
あっと言う間に夕闇に支配され、海は、ひたひたと黒くなる。
思い出されるのは、背中ばかり。
たぶん、ベストハーフ、はどこかにあったのだ。
でも、それで、しあわせになれたかどうかは、わからない。
湖に着いたのは、正午頃だった。
どこからか、サイレンの音が聞こえてきた。
正午を告げる音。
目の前に広がる水面が、一斉にさざなみ立っているのを、しばらく黙ってみつめている。
先にバイクを停めたのは、あたしだった。
エンジンの音が止み、メットを外す気配がして、足音が近付く。
彼の足音。
あたしの後ろでピタリと止んで、そして、ポケットから煙草を出す、くしゃくしゃっ、とした動作を感じる。見なくても、分かる。
ジッポの匂いがする。
こんな冬のひなたに似合う、懐かしくて穏やかな匂い。皮ジャンのどこにライターが入っているのかまで、知っている、あたしの男が真後ろに立っている。
でも、 もうすぐ、さよならを言われるのだ。
心が、軋む。
電話を通じなくされ、メールは送り返され、そしてついに、他の女と呑み屋にいた、という噂が耳に入った。
あたしにとって重要なことは、この男を失うということでは無い。
かわいそうね、と言われることが何よりも嫌いなあたしには、「棄てられた女」という評判が立つことが耐えられない。
できれば、「他の女と呑み屋にいた」時点で、あたしとはもう、何の関わりも無い男、ということにしておきたかった。
事実、気の毒そうに、そして、こっちの反応を窺い見る目に、一抹の期待感を隠せずにいる同僚には、こう言い放った。
もう、終わったのよ。知らなかった?。
だから、今日、ここにこうして呼び出したのは・・・そう、儀式のようなもの。
初めてこの湖に来たとき、あたしは、リョウという男のバイクに乗って来た。
リョウは幼なじみの男とのツーリングに、恋人のあたしを伴ったのだ。
リョウの幼なじみとあたしは、一瞬で恋に落ちた。
その日の夕暮れに、もう、リョウの目を盗んでキスをした。
帰り道では、タンデムシートが、彼のものであればどんなにいいかと気が狂いそうだった。
リョウは、あたしにバイクの免許を取らせなかった。
俺がお前を守るからいいだろ。
というのが理由だった。
もしも、あのときここに来なければ、あたしは今でも守ってもらえたのだろうか。
もう。分からない。あたしはリョウの胸から逃げ出して、今ここにいる男を愛した。
そして、リョウは、先月、誰かと結婚した。
空の色は青い。
でも、どうしてだろう、色が薄い。青を塗ってから、白く和紙をかぶせたみたいに、見える。
そして、はるか彼方の山並みをめがけて、一群れの鳥が飛んで行く。直線に飛んでいるように見えて実は旋回している。何かしら合図でもあるのだろうか、三角形に似たフォーメーションを崩さずに、大 きく、大きく。右に、左に。
あの鳥たちには、この湖は、どんなふうに見えるのだろう。
湖面には冬日のビーズ一面に
冬日が煌き、波頭に泊まって遊んでいる。
目を細めると、もっと輝く日の光たち。
涙が浮かべば、もっともっとキラキラして見えるのだろうけれど。
あたしは、泣かない。
振り向いて、男をみつめる。
さよなら、はあたしから、言うのだ。
どこからか、サイレンの音が聞こえてきた。
正午を告げる音。
目の前に広がる水面が、一斉にさざなみ立っているのを、しばらく黙ってみつめている。
先にバイクを停めたのは、あたしだった。
エンジンの音が止み、メットを外す気配がして、足音が近付く。
彼の足音。
あたしの後ろでピタリと止んで、そして、ポケットから煙草を出す、くしゃくしゃっ、とした動作を感じる。見なくても、分かる。
ジッポの匂いがする。
こんな冬のひなたに似合う、懐かしくて穏やかな匂い。皮ジャンのどこにライターが入っているのかまで、知っている、あたしの男が真後ろに立っている。
でも、 もうすぐ、さよならを言われるのだ。
心が、軋む。
電話を通じなくされ、メールは送り返され、そしてついに、他の女と呑み屋にいた、という噂が耳に入った。
あたしにとって重要なことは、この男を失うということでは無い。
かわいそうね、と言われることが何よりも嫌いなあたしには、「棄てられた女」という評判が立つことが耐えられない。
できれば、「他の女と呑み屋にいた」時点で、あたしとはもう、何の関わりも無い男、ということにしておきたかった。
事実、気の毒そうに、そして、こっちの反応を窺い見る目に、一抹の期待感を隠せずにいる同僚には、こう言い放った。
もう、終わったのよ。知らなかった?。
だから、今日、ここにこうして呼び出したのは・・・そう、儀式のようなもの。
初めてこの湖に来たとき、あたしは、リョウという男のバイクに乗って来た。
リョウは幼なじみの男とのツーリングに、恋人のあたしを伴ったのだ。
リョウの幼なじみとあたしは、一瞬で恋に落ちた。
その日の夕暮れに、もう、リョウの目を盗んでキスをした。
帰り道では、タンデムシートが、彼のものであればどんなにいいかと気が狂いそうだった。
リョウは、あたしにバイクの免許を取らせなかった。
俺がお前を守るからいいだろ。
というのが理由だった。
もしも、あのときここに来なければ、あたしは今でも守ってもらえたのだろうか。
もう。分からない。あたしはリョウの胸から逃げ出して、今ここにいる男を愛した。
そして、リョウは、先月、誰かと結婚した。
空の色は青い。
でも、どうしてだろう、色が薄い。青を塗ってから、白く和紙をかぶせたみたいに、見える。
そして、はるか彼方の山並みをめがけて、一群れの鳥が飛んで行く。直線に飛んでいるように見えて実は旋回している。何かしら合図でもあるのだろうか、三角形に似たフォーメーションを崩さずに、大 きく、大きく。右に、左に。
あの鳥たちには、この湖は、どんなふうに見えるのだろう。
湖面には冬日のビーズ一面に
冬日が煌き、波頭に泊まって遊んでいる。
目を細めると、もっと輝く日の光たち。
涙が浮かべば、もっともっとキラキラして見えるのだろうけれど。
あたしは、泣かない。
振り向いて、男をみつめる。
さよなら、はあたしから、言うのだ。
結婚しよう。
と、言われたあと、初めてのデート。
きっと返事を心待ちにしているであろう相手に、実はまだちゃんとした答えを準備できていない。
それでも約束は守る。プロポーズされる前からの約束だったから。今日、会うのは。
別に特別な場所へ行くというわけではない。
ただの、映画デート。
でも、まあその映画は前からずっと観たかったし、それに、朝起きたらとてもいい天気だったし。
雲ひとつ無い青空、である。
まさに。
じっと見ていると、ぐんぐん舞い上がって行けそうな、眩しい青さ、である。
目を思い切りパチパチやって、うーん、と大きく深呼吸をして。
「何してるの。」
映画館を出た彼の第一声。
暗さに慣れた目に、大空が痛い。
「ううん、別に。きれいだなあって。」
彼も空を見上げて息を大きく吸い込んでいる。
少し出始めたお腹に、ビリジアン色のカーデイガンがぽこん、と乗っかっている。そこらへんから、パパ、という子供の声がしそう。実際、そういう年頃でもある。
わたしも、人のことは言えない。
ふたりで、ぶらぶら歩いていく。
川べりの公園では、収穫祭の真っ最中。仮設テントが並び、野菜や草花がいっぱい売られている。風船を手にした子供たちや、手押し車を押したおばあさん、たくさんの人々で、にぎわっている。
芋煮、と大きく書かれたのぼりの下で、彼が立ち止まる。確かに、いい匂い。
「並んで来るね。」
わたしの意向も確かめずに、芋煮の列に並んでしまう。
そういうところが、やっぱり三十半ばの男女、なんだなあ。
昔は、こんなことなんか無かった。
わたしの、世代。
バブル時代に女子大生だったから、就職にも困らず、「いい会社」に勤めることができたけれど、それは決して、今、こうして自分自身を養って行く為では無かったんだよなあ。
「いい会社」に入ったのは、エリートな男を見つけて、その妻におさまり、一生、いい暮らしをさせてもらう為、であったのだ。他力本願の、幸せ。
実際、そうして「幸せな人妻」の地位を確保した友達もいるけれど、途中で路線が変わった、という例もある。捕まえた男のリストラ、会社そのものが無くなった、ってのもあった。
そういう例をいっぱい見てきたから、余計に結婚に二の足を踏むようになり。
現在、ぱっとしない男と、ぱっとしない休日を過ごしているという次第。
それでも、芋煮、は、ほくほくあったかくて、とてもおいしかった。
へたに甘いだけのケーキなんかよりも、ずっと感動的な味だった。
「おいしいね。」
「そうだねえ。」
お腹が適度に膨れて、いい感じで身体が動く。
二人並んでテントをひやかして歩く。
「何か買っていきます?。」
「うーん。」しばし、辺りを見回して、
「やめとく。なんか、どれも重そうだから。」
みかん、さつまいも、とうもろこし、新米。
どれもおいしそうだけれど、とてつもなく重そう。持てないよ。
「大丈夫、大丈夫。」
彼はそう言って、みかんと、さつまいも、それに、しいたけを買った。両手に下げると、やっぱり大変そう。
「おっとっと。」
「ひとつ、持つよ。」
わたしは、みかんを抱える。
秋の日のぬくみが、あまずっぱい香りに溶け込んでいる。
両腕に収穫の荷のあたたかさ
「お米も、欲しいな。」
「無理でしょ、電車で来てるのに。」
「そっか。」
それにしても、重い。
収穫、というのは、こんなに重いものなのだ。
ありがたきもあり、めでたくもあり。
されど。
何かを抱える幸せ、というのはこういうことなのかも。
彼は新米二キロ入りを一つ、買った。
「あとで、ぼくの部屋で、これ、炊きましょう。」
その笑顔につられて、わたしも思わず笑いかえしていた。
「じゃあ、そのお米、一緒に持つよ。」
と、言われたあと、初めてのデート。
きっと返事を心待ちにしているであろう相手に、実はまだちゃんとした答えを準備できていない。
それでも約束は守る。プロポーズされる前からの約束だったから。今日、会うのは。
別に特別な場所へ行くというわけではない。
ただの、映画デート。
でも、まあその映画は前からずっと観たかったし、それに、朝起きたらとてもいい天気だったし。
雲ひとつ無い青空、である。
まさに。
じっと見ていると、ぐんぐん舞い上がって行けそうな、眩しい青さ、である。
目を思い切りパチパチやって、うーん、と大きく深呼吸をして。
「何してるの。」
映画館を出た彼の第一声。
暗さに慣れた目に、大空が痛い。
「ううん、別に。きれいだなあって。」
彼も空を見上げて息を大きく吸い込んでいる。
少し出始めたお腹に、ビリジアン色のカーデイガンがぽこん、と乗っかっている。そこらへんから、パパ、という子供の声がしそう。実際、そういう年頃でもある。
わたしも、人のことは言えない。
ふたりで、ぶらぶら歩いていく。
川べりの公園では、収穫祭の真っ最中。仮設テントが並び、野菜や草花がいっぱい売られている。風船を手にした子供たちや、手押し車を押したおばあさん、たくさんの人々で、にぎわっている。
芋煮、と大きく書かれたのぼりの下で、彼が立ち止まる。確かに、いい匂い。
「並んで来るね。」
わたしの意向も確かめずに、芋煮の列に並んでしまう。
そういうところが、やっぱり三十半ばの男女、なんだなあ。
昔は、こんなことなんか無かった。
わたしの、世代。
バブル時代に女子大生だったから、就職にも困らず、「いい会社」に勤めることができたけれど、それは決して、今、こうして自分自身を養って行く為では無かったんだよなあ。
「いい会社」に入ったのは、エリートな男を見つけて、その妻におさまり、一生、いい暮らしをさせてもらう為、であったのだ。他力本願の、幸せ。
実際、そうして「幸せな人妻」の地位を確保した友達もいるけれど、途中で路線が変わった、という例もある。捕まえた男のリストラ、会社そのものが無くなった、ってのもあった。
そういう例をいっぱい見てきたから、余計に結婚に二の足を踏むようになり。
現在、ぱっとしない男と、ぱっとしない休日を過ごしているという次第。
それでも、芋煮、は、ほくほくあったかくて、とてもおいしかった。
へたに甘いだけのケーキなんかよりも、ずっと感動的な味だった。
「おいしいね。」
「そうだねえ。」
お腹が適度に膨れて、いい感じで身体が動く。
二人並んでテントをひやかして歩く。
「何か買っていきます?。」
「うーん。」しばし、辺りを見回して、
「やめとく。なんか、どれも重そうだから。」
みかん、さつまいも、とうもろこし、新米。
どれもおいしそうだけれど、とてつもなく重そう。持てないよ。
「大丈夫、大丈夫。」
彼はそう言って、みかんと、さつまいも、それに、しいたけを買った。両手に下げると、やっぱり大変そう。
「おっとっと。」
「ひとつ、持つよ。」
わたしは、みかんを抱える。
秋の日のぬくみが、あまずっぱい香りに溶け込んでいる。
両腕に収穫の荷のあたたかさ
「お米も、欲しいな。」
「無理でしょ、電車で来てるのに。」
「そっか。」
それにしても、重い。
収穫、というのは、こんなに重いものなのだ。
ありがたきもあり、めでたくもあり。
されど。
何かを抱える幸せ、というのはこういうことなのかも。
彼は新米二キロ入りを一つ、買った。
「あとで、ぼくの部屋で、これ、炊きましょう。」
その笑顔につられて、わたしも思わず笑いかえしていた。
「じゃあ、そのお米、一緒に持つよ。」
ふいに、
「乗れよ。」
と言われてまたがったタンデムシート。エンジンがかけられると、振動が下腹に響いて、わたしは思わず右手をお腹にあてた。
命が、ここにある。
きゅう、っと胸が傷んだ。
もう、泣かないって決めたのに、また涙が出て来た。
彼は、そんなわたしの様子を気にしているのか、静かに、静かにバイクを発進させた。
下鴨本通りを北へ向けて走り、やがて北山通りにぶつかった。京都の市街地を抜けて、250のバイクは山へ向かっていた。
振り向けば、きっと町の灯が見えただろう。
でも、わたしは唇を引きむすんで、ただ彼の背中の体温を感じていた。この背中に、ずっと付いていきたいのだ。だから、このひとの夢を邪魔することはしてはいけないのだ。
何一つ。
後ろに乗ったのは、初めてだった。でも、kawasaki KR250は、黙々と山道を滑っていた。やがてカーブし、きつね坂を超え、宝が池の辺りに出た。きつね坂のカーブは、かなりきつそうだった。こんな夜で無かったら、怖かったかも、しれない。
怖いことなんて、もう無い。
明日の手術だけが、怖い。
あるいは、手術を受けずに逃げ出してしまうかもしれない自分が、怖い。
あるいは、平然と命をひとつ壊してしまえる自分が、怖い。
ほんとうのことを言えば、今ここで、わたし自身の命がふっ飛んでしまうことの方が平気だ。
バイクは、岩倉から大原に続く道を走り出した。
やがて、すれ違う車もほとんど無くなり、夜の山道に、ひとつのエンジン音だけが、うなりをあげていた。
両脇には、北山杉の林。漆黒の闇に溶け込み、黒々とせり出している。
生みたかった。
いや、まだ今なら間に合うのだ。
わたしの意識は、お腹の中の小さな生きものに集中している。こうして、絶えずこのいのちに対して心配りを欠かさないなら、もうそれは、母というものではないだろうか。
そして、母という生きものの心境には、彼といえども踏み込めない。
このまま、山の一部になって。
そうして、静かに命をつないでいくことができるなら、どんなにいいだろう。
へたに、人間なんかに生まれてこなければよかった。
わたしの目に、また涙があふれる。
そのとき、突然視界が明るくなった。
月だ。
大きな、大きなお月様。
山が一瞬途切れたところへ、大きな月がのぼっていたのだった。月に見られているのだった。
かといって、停まる気配も無い。
どちらかというと、速度は増している。
まるで、逃げるみたいだね。
泣き虫になつてしまつた十三夜
こんなに大きな月は見たことが無い。
こんなに大きな罪は犯したことが無い。
月に、飛び込んでしまいたい位よ。
「乗れよ。」
と言われてまたがったタンデムシート。エンジンがかけられると、振動が下腹に響いて、わたしは思わず右手をお腹にあてた。
命が、ここにある。
きゅう、っと胸が傷んだ。
もう、泣かないって決めたのに、また涙が出て来た。
彼は、そんなわたしの様子を気にしているのか、静かに、静かにバイクを発進させた。
下鴨本通りを北へ向けて走り、やがて北山通りにぶつかった。京都の市街地を抜けて、250のバイクは山へ向かっていた。
振り向けば、きっと町の灯が見えただろう。
でも、わたしは唇を引きむすんで、ただ彼の背中の体温を感じていた。この背中に、ずっと付いていきたいのだ。だから、このひとの夢を邪魔することはしてはいけないのだ。
何一つ。
後ろに乗ったのは、初めてだった。でも、kawasaki KR250は、黙々と山道を滑っていた。やがてカーブし、きつね坂を超え、宝が池の辺りに出た。きつね坂のカーブは、かなりきつそうだった。こんな夜で無かったら、怖かったかも、しれない。
怖いことなんて、もう無い。
明日の手術だけが、怖い。
あるいは、手術を受けずに逃げ出してしまうかもしれない自分が、怖い。
あるいは、平然と命をひとつ壊してしまえる自分が、怖い。
ほんとうのことを言えば、今ここで、わたし自身の命がふっ飛んでしまうことの方が平気だ。
バイクは、岩倉から大原に続く道を走り出した。
やがて、すれ違う車もほとんど無くなり、夜の山道に、ひとつのエンジン音だけが、うなりをあげていた。
両脇には、北山杉の林。漆黒の闇に溶け込み、黒々とせり出している。
生みたかった。
いや、まだ今なら間に合うのだ。
わたしの意識は、お腹の中の小さな生きものに集中している。こうして、絶えずこのいのちに対して心配りを欠かさないなら、もうそれは、母というものではないだろうか。
そして、母という生きものの心境には、彼といえども踏み込めない。
このまま、山の一部になって。
そうして、静かに命をつないでいくことができるなら、どんなにいいだろう。
へたに、人間なんかに生まれてこなければよかった。
わたしの目に、また涙があふれる。
そのとき、突然視界が明るくなった。
月だ。
大きな、大きなお月様。
山が一瞬途切れたところへ、大きな月がのぼっていたのだった。月に見られているのだった。
かといって、停まる気配も無い。
どちらかというと、速度は増している。
まるで、逃げるみたいだね。
泣き虫になつてしまつた十三夜
こんなに大きな月は見たことが無い。
こんなに大きな罪は犯したことが無い。
月に、飛び込んでしまいたい位よ。
午後から雨になるという天気予報は知っていた。
それでも図書館へ自転車を走らせたのは、二週間後に迫った公開模試の為。
と、いうのは表向きの理由。
本当は、彼も来ると思っていたから。
あなた、自分が何って呼ばれているのか知ってるの?
何?
プリンス・オブ・ライブラリー。
え?
学校帰りに自転車を並べて走りながら、そんなことを話した、あれは昨日。
秋の夕暮れは早くて、無灯火運転はキケンだな、と思った。
だけど、もっとキケンだったのは、その後だったのだ、多分。
自分の家がもう見えていたのに、
送っていくよ。
と言い出したのは、彼の方だった。
そして、いや別に何が起きたとか、そういったことは無い、ただ、意味も無く、ふらふらと走ってから帰った、というだけのこと。
意味も無く?。
嘘をついている。
最終的に、二人きりになり、何かあってもおかしくないという事態になったときに、手を伸ばしてきたのが男の方だったとしても。
そして、もしも後から考えて、男の方が、自分に「下ごころ」があった、と認めても。
やはり、そういった状況に持ち込んでいるのは、実は女の方なのかもしれない。
十七才のわたしは、うすうすそういうからくり・・・男に手を出されたふりをして、実は女が手を出させている、というマジック・・・に気が付いている。
そうして、この真面目そうな、自分がとても整った顔立ちをしているということに気が付いていなさそうな、志望校は京大、な男に対して、マジックをつかおう、と目論んでいるのだ。
でも、無意識に。
あるいは、無意識な、ふりをして。
まさか、雷雨がやって来ることまでは計算していなかったけれど。
日曜日。
図書館は午前中で終わり、である。
全館を流れる「蛍の光」に送られて、わたしたちは自転車に乗る。
同じ町内に住んでいるから、どうしても同じ道になる。
わたしたちは、ついこの前の席替えで、前と後ろの席になり、急速に親しくなった。
きっかけは、国語の古典の授業で、古語の解釈を巡って、彼と先生が対立したときに、わたしが彼の味方をしたから、ということだった。
進学校のトップクラスにいた彼が、みそっかすのわたしに注目したのは、恐らくそのときが初めてだったろう。国語だけは成績が良かったのだ。
でも、わたしの方では、もっとずっと以前から、彼のことは気にしていた。
親友の、思い人、としての彼のことを。
そう。親友の、片想いの相手だったから。
派手な彼女にしては不思議な位、もの静かな男だと思った。
そして、やがて、あの男は彼女には向かない、と確信する。
あのひとは、わたしの世界に住むべき人なのよ。
彼女はいつもわたしを従えるようにしていた。
服装も、雑誌も、音楽もいちいちチェックを入れて、何かと「アドバイス」をしてくれた。
だけど。
別に嫌いだったわけでは無い。
だから、彼を奪おう、などと思ったわけでは無い。
大体、彼女は告白して「玉砕」していたから、別に彼は誰のものでもないのだ。
わたしたち。
そう。もう、図書館を出て微笑ましく自転車を走らせていた、その時点で、わたしたちは共犯だ。
そして、天気予報が想像以上に当たって、にわかに空がかき曇り、やがて大きな稲光が走り、わたしたちが、人気の無い、小学校の自転車置き場に逃げ込んだとき。
雨が、ものすごい大きな音を立てていた。
金属の屋根に、打ち付けられる雨粒の音。
耳はそれだけを捉えていた。
遠くで誰かが大声で何か叫んでいるのも聞こえた。
突然の、雨。
そして、手は。
手は、彼の、大きな手のひらを感じていた。その、あたたかで、ごつごつした手が、少しずつ、少しずつ、力を加えていくのを。
感じた。
寝ても覚めても野分立ちたる恋のあり
はじめての、キス。
友達の、思い人。
いいえ、ただの、クラスメイト。
十月になると今でも思い出す、あの日の苦々しい記憶。小ずるくて、でもなぜか同時にイノセントな・・・。
もしかしたら、あのとき、わたしは、女、になったのかもしれない。
それでも図書館へ自転車を走らせたのは、二週間後に迫った公開模試の為。
と、いうのは表向きの理由。
本当は、彼も来ると思っていたから。
あなた、自分が何って呼ばれているのか知ってるの?
何?
プリンス・オブ・ライブラリー。
え?
学校帰りに自転車を並べて走りながら、そんなことを話した、あれは昨日。
秋の夕暮れは早くて、無灯火運転はキケンだな、と思った。
だけど、もっとキケンだったのは、その後だったのだ、多分。
自分の家がもう見えていたのに、
送っていくよ。
と言い出したのは、彼の方だった。
そして、いや別に何が起きたとか、そういったことは無い、ただ、意味も無く、ふらふらと走ってから帰った、というだけのこと。
意味も無く?。
嘘をついている。
最終的に、二人きりになり、何かあってもおかしくないという事態になったときに、手を伸ばしてきたのが男の方だったとしても。
そして、もしも後から考えて、男の方が、自分に「下ごころ」があった、と認めても。
やはり、そういった状況に持ち込んでいるのは、実は女の方なのかもしれない。
十七才のわたしは、うすうすそういうからくり・・・男に手を出されたふりをして、実は女が手を出させている、というマジック・・・に気が付いている。
そうして、この真面目そうな、自分がとても整った顔立ちをしているということに気が付いていなさそうな、志望校は京大、な男に対して、マジックをつかおう、と目論んでいるのだ。
でも、無意識に。
あるいは、無意識な、ふりをして。
まさか、雷雨がやって来ることまでは計算していなかったけれど。
日曜日。
図書館は午前中で終わり、である。
全館を流れる「蛍の光」に送られて、わたしたちは自転車に乗る。
同じ町内に住んでいるから、どうしても同じ道になる。
わたしたちは、ついこの前の席替えで、前と後ろの席になり、急速に親しくなった。
きっかけは、国語の古典の授業で、古語の解釈を巡って、彼と先生が対立したときに、わたしが彼の味方をしたから、ということだった。
進学校のトップクラスにいた彼が、みそっかすのわたしに注目したのは、恐らくそのときが初めてだったろう。国語だけは成績が良かったのだ。
でも、わたしの方では、もっとずっと以前から、彼のことは気にしていた。
親友の、思い人、としての彼のことを。
そう。親友の、片想いの相手だったから。
派手な彼女にしては不思議な位、もの静かな男だと思った。
そして、やがて、あの男は彼女には向かない、と確信する。
あのひとは、わたしの世界に住むべき人なのよ。
彼女はいつもわたしを従えるようにしていた。
服装も、雑誌も、音楽もいちいちチェックを入れて、何かと「アドバイス」をしてくれた。
だけど。
別に嫌いだったわけでは無い。
だから、彼を奪おう、などと思ったわけでは無い。
大体、彼女は告白して「玉砕」していたから、別に彼は誰のものでもないのだ。
わたしたち。
そう。もう、図書館を出て微笑ましく自転車を走らせていた、その時点で、わたしたちは共犯だ。
そして、天気予報が想像以上に当たって、にわかに空がかき曇り、やがて大きな稲光が走り、わたしたちが、人気の無い、小学校の自転車置き場に逃げ込んだとき。
雨が、ものすごい大きな音を立てていた。
金属の屋根に、打ち付けられる雨粒の音。
耳はそれだけを捉えていた。
遠くで誰かが大声で何か叫んでいるのも聞こえた。
突然の、雨。
そして、手は。
手は、彼の、大きな手のひらを感じていた。その、あたたかで、ごつごつした手が、少しずつ、少しずつ、力を加えていくのを。
感じた。
寝ても覚めても野分立ちたる恋のあり
はじめての、キス。
友達の、思い人。
いいえ、ただの、クラスメイト。
十月になると今でも思い出す、あの日の苦々しい記憶。小ずるくて、でもなぜか同時にイノセントな・・・。
もしかしたら、あのとき、わたしは、女、になったのかもしれない。
それは、ちょっとした悪戯、で片がつくことなのかもしれない。
でも、それだけで終わるだろうか。
彼がドアから消えたとき、はじめて後悔の気持ちが胸の奥から沸いてきた。
もしも、これで、何もかも終わりになってしまったならば・・・。
わたしが、一番怖いのは、多分、彼を失う事なのだ。
そのことに気が付くと、もう居ても立ってもいられなくなり、わたしはオフイスを飛び出した、デスクの上に、やりかけの仕事を残したままで。
彼の妻は、よく会社に電話をかけてくる。
それも、大した用事では無い。
隣りの席だから、大体のことは分かる。
「帰りに、小鳥の餌を忘れないでね。」
あれは、決算の書類を作っていて、数字が合わなくて皆で頭を抱えていたときの、電話。
「さっき、○○君(息子)がクローゼットに入って、なかなか出てきてくれなかったの。」
あれは、月末の締めの作業に追われていたときの、電話。
いちいち丁寧に出てやる男の方も男の方だ、といういらだちを感じたとき、気持ちに気が付いた。
恋をしていると。
隣りの席の、上司にして、十才年上の男。
確か、大学時代に「合コン」で知り合ったという、二つばかり年下の妻がいて。
息子が、二人。
郊外に買った一戸建てのローンに追われ、昼食は毎日「愛妻弁当」。
仕事の出来はまあまあ。
三十六で課長、は悪くない。でも、それほどの大企業ではないから、収入の方は今一つかも。
だから、ホテル代は、いつもわたしが持っている。
お金のかかる愛人、なんて魅力無いじゃん。
と、人妻の友人は言う。
でも、恋愛、だから。
好きな男と、するから気持ちいいの。いくらお金をくれる、って言っても、気持ち悪いのは嫌だもの。
そう、とっても気持ちがいい。
妻のいる男と、そういうことになるのは初めてだから、結婚しているということと、「そういうこと」が上手、ということが関係があるのかどうかは、分からないけれど。
でも、例えば、マウスを動かす指先を目にしただけで、ドキン、とする位。
その位、感じる。
妻のことは、そもそもが嫌いだから・・・夫の会社に、大した用事も無いのに気軽に電話をかけてくる女なんか大嫌い・・・抱かれているとき、ざまあみろ、と思ったことはあっても、申し訳無いとは思ったことは無い。
むしろ、ケイタイでは無く、デスクのダイヤルインにかけてくる心境に、無関心を装った計算を感じて、いらいらする。
そして、さっきも。
「○○君がね、熱があるのよ。」
と、どうやらそういうことらしかった。
立ち聞きしているのも悪いと思い、(それにこっちの精神状態も悪くなりそうだったし)来客が帰った後の応接室を片付けに行ったのだが、戻って来てもまだ電話中。
猛烈に、腹が立った。
夫の留守中に、いちいち子供の病気の処置もできない女。そして、ご丁寧に指示をしてやっている男。いい加減にして、とわたしは部屋を出た。
行き先は、男子ロッカー室。
そして、目指すは、「愛妻弁当」の箱。
食べ終わって、軽いその包みの、紫色の古典模様の風呂敷きに、髪に留めてあったバレッタをしのび込ませる。
弁当箱を洗おうとした妻が、包みをほどくと中から落ちる、という仕掛け。
悪戯。
でも、息子の具合が良くないのか、いつもよりも早めに仕事を切り上げた彼が、部屋を出て行ったドアが閉まる音を聞いたとき、やっぱり後悔したのだ。
外に出ると、小雨が額に落ちて来た。
夕暮れの駅前通りは、路面電車も、車も、人波も、うっすらと雨に煙っている。
もう、電車に乗っただろうか。
わたしは、走る。
軽くカーブした線路の上を、黄色いランプが近付いて来る。
あの電車だろうか。
乗り場は横断歩道の中ほど、中央付近に安全地帯が設けられているそこである。
目を凝らすと、彼の姿が、乗客の中にある。
そして電車がゆっくりと止まり、乗客たちが、どことなくほっとした表情で、次々と乗り込んで行く。
わたしは、走る。
点滅している信号を無視して、乗り場に飛び込む。
「やっぱりお前、来たか。」
彼は笑う。笑うと、下がり気味の目元がますます下がる。
「来ると思ったよ、ほれ。」
わたしの手にバレッタが渡されたとき、電車が出て行く。発車のベルを聞きながら、その温みを感じる。
「・・・こんなことしちゃ、駄目だよ。」
静かな声だった。
「どうして。」
「前に言っただろ?お前のことは、大体分かるんだ。」
秋雨に包まれビルも不確かに
夜の色が空を覆い始め、雨は少しひどくなっていた。
「お前の気持ちは、分からなくもないけれど・・・こういうことをしても、いいことは無いな。」
「・・・はい。」
わたしは、彼が欲しかった。
その手がわたしの顎に伸びて来て、唇が降りて来て欲しい、と切なく願った。
でも。
彼はきっぱりと言ったのだ。
「ごめん。今日は、どうしても帰らなければならないんだ。あいつ一人じゃ、だめなんだよ。」
「どうして!。」
そこが夕方の電車乗り場で無ければ、きっと、もっと思いをぶちまけていただろう。
だけど。
できなかった。
会社の近くの、見慣れた町並み。
その中にあって、何ができるというのだろう?
制服姿で。
「じゃあ。」
やがて来た次の電車に、彼は黙々と乗り込み、わたしはその電車の赤い尾灯が消えるのを黙って見送ってから、デスクに残した書類を片付けに戻った。
それから一年ばかり、わたしたちの関係は続き、やがて彼が転勤し、恋は自然に消えた。
彼の妻が足に障害を持っている、ということを知ったのは、わたしに新しい恋人ができてからだった。
でも、それだけで終わるだろうか。
彼がドアから消えたとき、はじめて後悔の気持ちが胸の奥から沸いてきた。
もしも、これで、何もかも終わりになってしまったならば・・・。
わたしが、一番怖いのは、多分、彼を失う事なのだ。
そのことに気が付くと、もう居ても立ってもいられなくなり、わたしはオフイスを飛び出した、デスクの上に、やりかけの仕事を残したままで。
彼の妻は、よく会社に電話をかけてくる。
それも、大した用事では無い。
隣りの席だから、大体のことは分かる。
「帰りに、小鳥の餌を忘れないでね。」
あれは、決算の書類を作っていて、数字が合わなくて皆で頭を抱えていたときの、電話。
「さっき、○○君(息子)がクローゼットに入って、なかなか出てきてくれなかったの。」
あれは、月末の締めの作業に追われていたときの、電話。
いちいち丁寧に出てやる男の方も男の方だ、といういらだちを感じたとき、気持ちに気が付いた。
恋をしていると。
隣りの席の、上司にして、十才年上の男。
確か、大学時代に「合コン」で知り合ったという、二つばかり年下の妻がいて。
息子が、二人。
郊外に買った一戸建てのローンに追われ、昼食は毎日「愛妻弁当」。
仕事の出来はまあまあ。
三十六で課長、は悪くない。でも、それほどの大企業ではないから、収入の方は今一つかも。
だから、ホテル代は、いつもわたしが持っている。
お金のかかる愛人、なんて魅力無いじゃん。
と、人妻の友人は言う。
でも、恋愛、だから。
好きな男と、するから気持ちいいの。いくらお金をくれる、って言っても、気持ち悪いのは嫌だもの。
そう、とっても気持ちがいい。
妻のいる男と、そういうことになるのは初めてだから、結婚しているということと、「そういうこと」が上手、ということが関係があるのかどうかは、分からないけれど。
でも、例えば、マウスを動かす指先を目にしただけで、ドキン、とする位。
その位、感じる。
妻のことは、そもそもが嫌いだから・・・夫の会社に、大した用事も無いのに気軽に電話をかけてくる女なんか大嫌い・・・抱かれているとき、ざまあみろ、と思ったことはあっても、申し訳無いとは思ったことは無い。
むしろ、ケイタイでは無く、デスクのダイヤルインにかけてくる心境に、無関心を装った計算を感じて、いらいらする。
そして、さっきも。
「○○君がね、熱があるのよ。」
と、どうやらそういうことらしかった。
立ち聞きしているのも悪いと思い、(それにこっちの精神状態も悪くなりそうだったし)来客が帰った後の応接室を片付けに行ったのだが、戻って来てもまだ電話中。
猛烈に、腹が立った。
夫の留守中に、いちいち子供の病気の処置もできない女。そして、ご丁寧に指示をしてやっている男。いい加減にして、とわたしは部屋を出た。
行き先は、男子ロッカー室。
そして、目指すは、「愛妻弁当」の箱。
食べ終わって、軽いその包みの、紫色の古典模様の風呂敷きに、髪に留めてあったバレッタをしのび込ませる。
弁当箱を洗おうとした妻が、包みをほどくと中から落ちる、という仕掛け。
悪戯。
でも、息子の具合が良くないのか、いつもよりも早めに仕事を切り上げた彼が、部屋を出て行ったドアが閉まる音を聞いたとき、やっぱり後悔したのだ。
外に出ると、小雨が額に落ちて来た。
夕暮れの駅前通りは、路面電車も、車も、人波も、うっすらと雨に煙っている。
もう、電車に乗っただろうか。
わたしは、走る。
軽くカーブした線路の上を、黄色いランプが近付いて来る。
あの電車だろうか。
乗り場は横断歩道の中ほど、中央付近に安全地帯が設けられているそこである。
目を凝らすと、彼の姿が、乗客の中にある。
そして電車がゆっくりと止まり、乗客たちが、どことなくほっとした表情で、次々と乗り込んで行く。
わたしは、走る。
点滅している信号を無視して、乗り場に飛び込む。
「やっぱりお前、来たか。」
彼は笑う。笑うと、下がり気味の目元がますます下がる。
「来ると思ったよ、ほれ。」
わたしの手にバレッタが渡されたとき、電車が出て行く。発車のベルを聞きながら、その温みを感じる。
「・・・こんなことしちゃ、駄目だよ。」
静かな声だった。
「どうして。」
「前に言っただろ?お前のことは、大体分かるんだ。」
秋雨に包まれビルも不確かに
夜の色が空を覆い始め、雨は少しひどくなっていた。
「お前の気持ちは、分からなくもないけれど・・・こういうことをしても、いいことは無いな。」
「・・・はい。」
わたしは、彼が欲しかった。
その手がわたしの顎に伸びて来て、唇が降りて来て欲しい、と切なく願った。
でも。
彼はきっぱりと言ったのだ。
「ごめん。今日は、どうしても帰らなければならないんだ。あいつ一人じゃ、だめなんだよ。」
「どうして!。」
そこが夕方の電車乗り場で無ければ、きっと、もっと思いをぶちまけていただろう。
だけど。
できなかった。
会社の近くの、見慣れた町並み。
その中にあって、何ができるというのだろう?
制服姿で。
「じゃあ。」
やがて来た次の電車に、彼は黙々と乗り込み、わたしはその電車の赤い尾灯が消えるのを黙って見送ってから、デスクに残した書類を片付けに戻った。
それから一年ばかり、わたしたちの関係は続き、やがて彼が転勤し、恋は自然に消えた。
彼の妻が足に障害を持っている、ということを知ったのは、わたしに新しい恋人ができてからだった。
ロープ一本のことなのだから、入ろうと思えば簡単に入れるのだけれど。
入らない。
その女の人は、わたしに、
「もしも、あなたがやましいことをお考えでないなら、明日からあそこには入らないでください。
それでいいでしょう。」
と、きっぱりと言った。
「はい、分かりました。」
そう答えながら、この人、年上女房かしら、などと、ぼんやり考えていた。
長年、というほどのものでも無いけれど、足掛け五年、ハーブの世話をしてきたわたしに、お礼の一言も無いのかな、とは思った。
そもそも、「女」の夫の両親から頼まれて始めたことであるから、「若夫婦」とは直接関係は無い筈だけど。
かつてそこには、小さな、イタリアの家庭料理を出してくれるお店があった。
近所だったし、何よりもとても居心地のよい店だったので、わたしはとてもよくその店に出入りし、だから店を切り盛りしている老夫婦は、わたしの歴代ボーイフレンドをほとんどすべて知っているだろう。
結婚する前のだんなともよく来たし、結婚式の二次会もそのお店だったし、何よりも新居がまたも近くだった。そして、老夫婦はわたしをとても可愛がってくれ、やがて店を畳むことが決まったとき、店の隣りの庭の一角にある「ハーブ園」の世話をして欲しいと頼まれたのである。
そういういきさつを思うと、きのう突然感情的になった「嫁」が押しかけて来て、いきなりこちらに「立ち入り禁止」を申し付けるのは、やはりどこか間違っているような気もするのだが。
でも、仕方が、無い。
老夫婦の「息子」とのことを思うと。
やはり、仕方が、無いのだろう。
とは言っても、その妻が心配したりキレたりするような何事も、二人の間には無かったのだけれども。
「いつもお世話ばかりでは何ですから。」
そう言って、時々摘み取ったハーブを届けてくれた。
おばあさんからは、世話をしてくれるのなら、もう好きなだけ取っていいから、と言われてはいたのだが、あのおいしいお料理に使われてこそのハーブたち、という気がして手を出せないでいたのだ。
「ぼくら若夫婦が、店を継いでいれば・・・或いは、もう少し近くにいればいいのですが・・・。」
あるとき、ミントがあまりにもみずみずしかったので、ミントテイーを煎れたとき、彼はふとそんなことを口にした。
「妻も働いているし、おやじたちも、特養つきマンションに入っちゃったから・・・。なかなかここまで来られなくて・・・。
ついついご好意にあまえさせてもらってます。」
童顔に丸い眼鏡のせいか、随分と若く見える。
「いいえ、こちらも、お世話が楽しくてしているのですから。」
わたしが答えると、
「いやそんな・・・枯らさないように、ってお心遣いいただいてるの、よく分かりますから。」
笑顔の後、少しまじめな表情になる。
そこが、おじいさんに似ていると思った。
わたしは、そんなふうに親しくしては、いけなかったのだろうか。
二才の娘がいるから、まあいいかなと思ったのだが、やはり夫のいないときに、おとこのひとを家に上げたりしてはいけなかったのだろうか。
「彼」から、どのようにして妻に、わたしのことが伝わったのかは知りようもないけれど、とにかく何となく腑に落ちない感じで、わたしは住み慣れた、ならず、世話慣れた、土地からいきなり締め出されたかたちになった。
霧の中ハーブの香り手繰り寄す
さよなら、セージ、ミント、イタリアンパセリ、レモンバームにカモミール・・・。
妻に、あの「子」たちの行く末をもっとハッキリ聞くべきだった。
これから寒くなるのに、大丈夫だろうか。
あそこまで強気に出たのだから、しっかりやってよね。
でも、余りひどいことは許さない。
いざとなったら、乗り越えるから、とわたしは妻の代わりにロープを一発殴り、ハーブたちに背を向ける。
入らない。
その女の人は、わたしに、
「もしも、あなたがやましいことをお考えでないなら、明日からあそこには入らないでください。
それでいいでしょう。」
と、きっぱりと言った。
「はい、分かりました。」
そう答えながら、この人、年上女房かしら、などと、ぼんやり考えていた。
長年、というほどのものでも無いけれど、足掛け五年、ハーブの世話をしてきたわたしに、お礼の一言も無いのかな、とは思った。
そもそも、「女」の夫の両親から頼まれて始めたことであるから、「若夫婦」とは直接関係は無い筈だけど。
かつてそこには、小さな、イタリアの家庭料理を出してくれるお店があった。
近所だったし、何よりもとても居心地のよい店だったので、わたしはとてもよくその店に出入りし、だから店を切り盛りしている老夫婦は、わたしの歴代ボーイフレンドをほとんどすべて知っているだろう。
結婚する前のだんなともよく来たし、結婚式の二次会もそのお店だったし、何よりも新居がまたも近くだった。そして、老夫婦はわたしをとても可愛がってくれ、やがて店を畳むことが決まったとき、店の隣りの庭の一角にある「ハーブ園」の世話をして欲しいと頼まれたのである。
そういういきさつを思うと、きのう突然感情的になった「嫁」が押しかけて来て、いきなりこちらに「立ち入り禁止」を申し付けるのは、やはりどこか間違っているような気もするのだが。
でも、仕方が、無い。
老夫婦の「息子」とのことを思うと。
やはり、仕方が、無いのだろう。
とは言っても、その妻が心配したりキレたりするような何事も、二人の間には無かったのだけれども。
「いつもお世話ばかりでは何ですから。」
そう言って、時々摘み取ったハーブを届けてくれた。
おばあさんからは、世話をしてくれるのなら、もう好きなだけ取っていいから、と言われてはいたのだが、あのおいしいお料理に使われてこそのハーブたち、という気がして手を出せないでいたのだ。
「ぼくら若夫婦が、店を継いでいれば・・・或いは、もう少し近くにいればいいのですが・・・。」
あるとき、ミントがあまりにもみずみずしかったので、ミントテイーを煎れたとき、彼はふとそんなことを口にした。
「妻も働いているし、おやじたちも、特養つきマンションに入っちゃったから・・・。なかなかここまで来られなくて・・・。
ついついご好意にあまえさせてもらってます。」
童顔に丸い眼鏡のせいか、随分と若く見える。
「いいえ、こちらも、お世話が楽しくてしているのですから。」
わたしが答えると、
「いやそんな・・・枯らさないように、ってお心遣いいただいてるの、よく分かりますから。」
笑顔の後、少しまじめな表情になる。
そこが、おじいさんに似ていると思った。
わたしは、そんなふうに親しくしては、いけなかったのだろうか。
二才の娘がいるから、まあいいかなと思ったのだが、やはり夫のいないときに、おとこのひとを家に上げたりしてはいけなかったのだろうか。
「彼」から、どのようにして妻に、わたしのことが伝わったのかは知りようもないけれど、とにかく何となく腑に落ちない感じで、わたしは住み慣れた、ならず、世話慣れた、土地からいきなり締め出されたかたちになった。
霧の中ハーブの香り手繰り寄す
さよなら、セージ、ミント、イタリアンパセリ、レモンバームにカモミール・・・。
妻に、あの「子」たちの行く末をもっとハッキリ聞くべきだった。
これから寒くなるのに、大丈夫だろうか。
あそこまで強気に出たのだから、しっかりやってよね。
でも、余りひどいことは許さない。
いざとなったら、乗り越えるから、とわたしは妻の代わりにロープを一発殴り、ハーブたちに背を向ける。
幼稚園に子供を送ったあと、海の見える丘に上がる。
すすきの群れがふっさりと豊かで、季節の深まりを感じさせる。
暑い、暑い、と騒いでいたのは、ほんの少し前では無かったか。今朝は、海風が北寄りで冷たくて、わたしは自分で自分の肩を抱くようにして歩く。黒いカットソーの綿の感触が寒々しい。男の腕に守られながら歩いていた頃が懐かしい。
港では、さかんに荷おろしが行われているようだ。
男たちの声や、クレーンの動く音、その他機械のブザー音みたいなものが、風に乗って切れ切れに耳に届く。そして、わたしは、はっとして、小さなバッグに神経を集中させる。
・・・違う。
着信音が聞こえた気がしたのだけれど。
空耳の着メロの乗る秋の風
分かっている。
今日もまた、こんなふうに過ごすのだと。
「彼」とメールを交わすようになってから、ここしばらくずっとこんな調子だもの。
携帯電話の着信音が聞こえた気がして、動きが止まり、全部が耳になり、そしてメールが届いていれば、そうじゃないかとときめき、違っていれば、小さく落胆する。
そう、小さく、落胆。
していればよかったのだが、日々、それが大きくなっているようで、こわい。
「彼」の存在の大きさが、メールの届かないときの淋しさと比例しているのだから。
恋、というのでも無いだろうに。
丘の上に木製のベンチをみつけ、ささくれを気にしながら座る。沈黙している手元をみつめて苦笑する。
会ったことも、無い。
実は、声すら聞いたことの無い、若い男。
いや、ほんとうは、若いかどうかもわからないのだ。相手の伝えてきたことを、そのまま信じれば、の話だ。液晶だけの付き合いだから、虚構があってもわからない。わたしにしても、「あなたよりお姉さん」としか相手に伝えていないもの。
小さなマンションの一室から夫と子供を送り出し、家事の合間に繰り出されるメールたち。
それは、ほとんど女友達との他愛無いもの。
その中に「彼」のものが混じりだしたのは二ヶ月ばかり前の、蝉が鳴き出した頃のことだった。
最初はただの「メル友のメル友」だった。今まで出会った男たちの持っていなかった、繊細な言葉遊びをするひとだ、というのが初期の印象だったが、わたしが恋愛していた頃には、まだ今ほどメールのやりとりがさかんでは無かったから、本当のところはわからない。もしかしたら、自分の想いを打ってかたちにすれば、案外、男たちはもっとデリケートだったのかもしれない。
ケイタイを取り出し、「彼」からのものを読み返す。
その表面に書かれているものの中から、感情を拾おうとする。
相手への気持ちがつよければつよいほど、必死で拾おうとする。
ワタシノコト、ドウオモッテイマスカ?。
まさか、恋でもないだろうに。
一日を報告している、といっただけの話に、何を求めているのだろう。
「風邪をひかないでください」
といった言葉から、気遣いを読み取る?
まさか。
そんなの、何でも無い相手へ、何ともなく言える言葉である。そこまでうぬぼれては、いない。
さっきから苦笑してばかりだ。
わたしは画面から目を上げて、彼方に視線を飛ばす。
空はミルク色で、そのまま海へと落ちている。
曇り。
こころも、おなじだ。
夕べも、夫の求めに応えなかった。
女の欲望は、恋と背中合わせである。
名前も知らない、顔も知らない相手。その男の方が、目の前にいる、子供たちの父親よりも、ずっとわたしを欲情させる。
もしも、ここで夫に抱かれて快楽を得たとしても、それは実は「彼」に抱かれるつもりになってはじめて包まれる快楽である。
そういうのは、裏切りとは言わないのかもしれないけれど。
分かりやすい愛の言葉など、どこからもみつからない小さな手紙の箱をバッグに仕舞い、わたしはたちあがって軽く背伸びをする。帰ったら、洗濯物を干さなければ。おでんが食べたいと言っていた夫のために、材料も仕入れて来なければ。
そうして、空耳の着メロは、今日も一日わたしを惑わす。
すすきの群れがふっさりと豊かで、季節の深まりを感じさせる。
暑い、暑い、と騒いでいたのは、ほんの少し前では無かったか。今朝は、海風が北寄りで冷たくて、わたしは自分で自分の肩を抱くようにして歩く。黒いカットソーの綿の感触が寒々しい。男の腕に守られながら歩いていた頃が懐かしい。
港では、さかんに荷おろしが行われているようだ。
男たちの声や、クレーンの動く音、その他機械のブザー音みたいなものが、風に乗って切れ切れに耳に届く。そして、わたしは、はっとして、小さなバッグに神経を集中させる。
・・・違う。
着信音が聞こえた気がしたのだけれど。
空耳の着メロの乗る秋の風
分かっている。
今日もまた、こんなふうに過ごすのだと。
「彼」とメールを交わすようになってから、ここしばらくずっとこんな調子だもの。
携帯電話の着信音が聞こえた気がして、動きが止まり、全部が耳になり、そしてメールが届いていれば、そうじゃないかとときめき、違っていれば、小さく落胆する。
そう、小さく、落胆。
していればよかったのだが、日々、それが大きくなっているようで、こわい。
「彼」の存在の大きさが、メールの届かないときの淋しさと比例しているのだから。
恋、というのでも無いだろうに。
丘の上に木製のベンチをみつけ、ささくれを気にしながら座る。沈黙している手元をみつめて苦笑する。
会ったことも、無い。
実は、声すら聞いたことの無い、若い男。
いや、ほんとうは、若いかどうかもわからないのだ。相手の伝えてきたことを、そのまま信じれば、の話だ。液晶だけの付き合いだから、虚構があってもわからない。わたしにしても、「あなたよりお姉さん」としか相手に伝えていないもの。
小さなマンションの一室から夫と子供を送り出し、家事の合間に繰り出されるメールたち。
それは、ほとんど女友達との他愛無いもの。
その中に「彼」のものが混じりだしたのは二ヶ月ばかり前の、蝉が鳴き出した頃のことだった。
最初はただの「メル友のメル友」だった。今まで出会った男たちの持っていなかった、繊細な言葉遊びをするひとだ、というのが初期の印象だったが、わたしが恋愛していた頃には、まだ今ほどメールのやりとりがさかんでは無かったから、本当のところはわからない。もしかしたら、自分の想いを打ってかたちにすれば、案外、男たちはもっとデリケートだったのかもしれない。
ケイタイを取り出し、「彼」からのものを読み返す。
その表面に書かれているものの中から、感情を拾おうとする。
相手への気持ちがつよければつよいほど、必死で拾おうとする。
ワタシノコト、ドウオモッテイマスカ?。
まさか、恋でもないだろうに。
一日を報告している、といっただけの話に、何を求めているのだろう。
「風邪をひかないでください」
といった言葉から、気遣いを読み取る?
まさか。
そんなの、何でも無い相手へ、何ともなく言える言葉である。そこまでうぬぼれては、いない。
さっきから苦笑してばかりだ。
わたしは画面から目を上げて、彼方に視線を飛ばす。
空はミルク色で、そのまま海へと落ちている。
曇り。
こころも、おなじだ。
夕べも、夫の求めに応えなかった。
女の欲望は、恋と背中合わせである。
名前も知らない、顔も知らない相手。その男の方が、目の前にいる、子供たちの父親よりも、ずっとわたしを欲情させる。
もしも、ここで夫に抱かれて快楽を得たとしても、それは実は「彼」に抱かれるつもりになってはじめて包まれる快楽である。
そういうのは、裏切りとは言わないのかもしれないけれど。
分かりやすい愛の言葉など、どこからもみつからない小さな手紙の箱をバッグに仕舞い、わたしはたちあがって軽く背伸びをする。帰ったら、洗濯物を干さなければ。おでんが食べたいと言っていた夫のために、材料も仕入れて来なければ。
そうして、空耳の着メロは、今日も一日わたしを惑わす。
妊娠したことが、わかった。
喜ぶ夫の顔が目に浮かぶ。
わたしが嬉しくないのか、というと、断じてそんなことは無い。
とても、嬉しい。もう、三十才はとうに過ぎているし。今生まなければ、生めなくなる。だから、嬉しい。
でも、手放しで喜ぶという気持ちにはならない。
欲しくなかったわけではないけれど・・・どうしてだろう。
ひとつには、この気分の悪さ。
ツワリ、ってやつである。ずううっと続く二日酔い状態。寝ても、覚めても。あるいは、絶対に降りられない航海で船酔いを体験したら、こんな感じなんだろうか。いつ果てるともしれない、むかつき。
わたしは、この気分の悪さを体調のせいにしようと、思う。
でなければ、いけない。
仕事のこともある。
今、ようやく開発した製品が市場に出る頃、この子は生まれる。
つまり、仕事の努力がようやく日の目を見、開発グループがはなやいでいるその場に、その開発グループの中心にいたわたしがいない、ということだ。
とりたてて出世欲が強い方だとは思っていなかったけれど、つまらない。こんなときにリタイヤ、なんて。
リタイヤしなくてもいい、育休取って、復帰すれば、っていう意見もあるだろう。
でも、子供がいれば、今までのように、無茶な残業・・・徹夜に近いこととか・・・は、到底できない。夕方、そそくさと帰宅の準備をし、研究に没頭している同僚たちに向かって、お先にー、なんて言っちゃって。いやだ、そんなのは、わたしの仕事の仕方では無い。
そんなテキトーな仕事をするくらいならば、もう辞める。徹底してやるか、すっぱりやめるか、それがわたしの仕事の仕方、ってもんだ。
だから夫は今夜、ふたつの「グッドニュース」を与えられることになる。
妻の、妊娠。
妻の、退職。
もう何年も彼が望んでいたことだ。
結婚したときには、家事は両立する、という話だったのに、なぜだかいつもわたしが料理をこしらえ、洗濯をしている。
最も、食事のことは仕事が立て込んでくればお互いに外食するのだし、クリーニングの利用も多いから、大きなことは言えない。だが休日の家事はすべてわたしが担当である。
彼はそれが最初から当然、といった感じだった。
稼ぎ、という点でわたしの方が劣っていれば、まあ黙っていたかもしれない。でも、二人の稼ぎはほとんど同額である。それが、どうして、二人分の家事をこっちが一人でこなさなければならないのか。
で、喧嘩になった。
そして夫は、しぶしぶ家事を分担するようになったのではあるが・・・。
これが、てんでものにならないのである。
皿を洗えば、皿しか洗わず、汚れた鍋はそのまま放置。
洗濯ものを干せばピンチの止めかたが不十分で、ベランダから干したものが無くなってしまう。
ゴミを出せば、生ゴミだけ出すのを忘れる。
そういったことの繰り返しで、いちいち注意するのもあほらしくなり、もう自分がやった方が早いし確実、ということになった。
学生時代に自炊していた、ということにだまされた。
結婚したら共働きをしようと考えている女性には、くれぐれも言いたい。
母親が専業主婦だった、という男には気を付けろ、と。
今日は、産婦人科に行くために早退した。
妊娠を「宣告」した医者は無表情で、
「どうします?生みますか。」
と、言った。
わたしはそんなに衝撃的な表情をしていたのだろうか。
それとも、わたしのような年格好の女で、妊娠を望まない、というのがそんなに多くいるのだろうか。
吐き気をこらえながら歩く。
早退したものの、やはり仕事が気になって会社の前まで来た。
二十八階建ての、細長い、ガラス張りのビル。社名が外から全く見えない本社ビル、というのが、外資系らしい。
毎朝、このビルを見上げてきた。
でも、一日の終わりのこの時刻に、外から見上げるのは、もしかしたら始めて、かもしれない。
わたしは、しばらく立ち止まる。
辺りが次第に薄暗くなっているのが分かる。
でも、空のひとところだけが、うっすらと白い。
もうじき、月が昇るのだ。
白っぽい空を見上げた後、ビルの正面、左寄りにたたずむ、一つの彫刻に気がついた。
いや、もちろん、その彫刻の存在は知っていた。
「彼女」は、ずっとそこにいたのだし、ずっと視界には入っていたのだから。
でも、こうして、じっと見たことは無かった。
頭に大きなかごを載せた女。
かごの中には、果物か花がたくさん入っている。
彼女は、物売りなのだ。
片方の腕でかごを支え、もう片方で胸元には小さな子供を抱えている、幾分、疲れた表情で。
彫刻のタイトル名には「高貴な重荷」、と、あった。
月白に抱かれしふねの二、三あり
女は海。
男は船。
わたしは、そんなにやさしくなれない。
命は尊い。
されど、重い。
喜ぶ夫の顔が目に浮かぶ。
わたしが嬉しくないのか、というと、断じてそんなことは無い。
とても、嬉しい。もう、三十才はとうに過ぎているし。今生まなければ、生めなくなる。だから、嬉しい。
でも、手放しで喜ぶという気持ちにはならない。
欲しくなかったわけではないけれど・・・どうしてだろう。
ひとつには、この気分の悪さ。
ツワリ、ってやつである。ずううっと続く二日酔い状態。寝ても、覚めても。あるいは、絶対に降りられない航海で船酔いを体験したら、こんな感じなんだろうか。いつ果てるともしれない、むかつき。
わたしは、この気分の悪さを体調のせいにしようと、思う。
でなければ、いけない。
仕事のこともある。
今、ようやく開発した製品が市場に出る頃、この子は生まれる。
つまり、仕事の努力がようやく日の目を見、開発グループがはなやいでいるその場に、その開発グループの中心にいたわたしがいない、ということだ。
とりたてて出世欲が強い方だとは思っていなかったけれど、つまらない。こんなときにリタイヤ、なんて。
リタイヤしなくてもいい、育休取って、復帰すれば、っていう意見もあるだろう。
でも、子供がいれば、今までのように、無茶な残業・・・徹夜に近いこととか・・・は、到底できない。夕方、そそくさと帰宅の準備をし、研究に没頭している同僚たちに向かって、お先にー、なんて言っちゃって。いやだ、そんなのは、わたしの仕事の仕方では無い。
そんなテキトーな仕事をするくらいならば、もう辞める。徹底してやるか、すっぱりやめるか、それがわたしの仕事の仕方、ってもんだ。
だから夫は今夜、ふたつの「グッドニュース」を与えられることになる。
妻の、妊娠。
妻の、退職。
もう何年も彼が望んでいたことだ。
結婚したときには、家事は両立する、という話だったのに、なぜだかいつもわたしが料理をこしらえ、洗濯をしている。
最も、食事のことは仕事が立て込んでくればお互いに外食するのだし、クリーニングの利用も多いから、大きなことは言えない。だが休日の家事はすべてわたしが担当である。
彼はそれが最初から当然、といった感じだった。
稼ぎ、という点でわたしの方が劣っていれば、まあ黙っていたかもしれない。でも、二人の稼ぎはほとんど同額である。それが、どうして、二人分の家事をこっちが一人でこなさなければならないのか。
で、喧嘩になった。
そして夫は、しぶしぶ家事を分担するようになったのではあるが・・・。
これが、てんでものにならないのである。
皿を洗えば、皿しか洗わず、汚れた鍋はそのまま放置。
洗濯ものを干せばピンチの止めかたが不十分で、ベランダから干したものが無くなってしまう。
ゴミを出せば、生ゴミだけ出すのを忘れる。
そういったことの繰り返しで、いちいち注意するのもあほらしくなり、もう自分がやった方が早いし確実、ということになった。
学生時代に自炊していた、ということにだまされた。
結婚したら共働きをしようと考えている女性には、くれぐれも言いたい。
母親が専業主婦だった、という男には気を付けろ、と。
今日は、産婦人科に行くために早退した。
妊娠を「宣告」した医者は無表情で、
「どうします?生みますか。」
と、言った。
わたしはそんなに衝撃的な表情をしていたのだろうか。
それとも、わたしのような年格好の女で、妊娠を望まない、というのがそんなに多くいるのだろうか。
吐き気をこらえながら歩く。
早退したものの、やはり仕事が気になって会社の前まで来た。
二十八階建ての、細長い、ガラス張りのビル。社名が外から全く見えない本社ビル、というのが、外資系らしい。
毎朝、このビルを見上げてきた。
でも、一日の終わりのこの時刻に、外から見上げるのは、もしかしたら始めて、かもしれない。
わたしは、しばらく立ち止まる。
辺りが次第に薄暗くなっているのが分かる。
でも、空のひとところだけが、うっすらと白い。
もうじき、月が昇るのだ。
白っぽい空を見上げた後、ビルの正面、左寄りにたたずむ、一つの彫刻に気がついた。
いや、もちろん、その彫刻の存在は知っていた。
「彼女」は、ずっとそこにいたのだし、ずっと視界には入っていたのだから。
でも、こうして、じっと見たことは無かった。
頭に大きなかごを載せた女。
かごの中には、果物か花がたくさん入っている。
彼女は、物売りなのだ。
片方の腕でかごを支え、もう片方で胸元には小さな子供を抱えている、幾分、疲れた表情で。
彫刻のタイトル名には「高貴な重荷」、と、あった。
月白に抱かれしふねの二、三あり
女は海。
男は船。
わたしは、そんなにやさしくなれない。
命は尊い。
されど、重い。
月今宵舞い降りて来いくちびるに
決して、愛している、とは言ってもらえなかった。
濃密なキスと、愛撫とで彩られた季節たち。
今思い出しても目眩がしてしまうほどの、甘美で、いやらしくて、熱っぽい日々。
あたしたちの、そういう相性はとても良かったのだと思う。
彼が一回り年上で、一度結婚していたということが、わたしに、そういう見知らぬ快楽をもたらすのだろう。あの真っ只中にいたときにはそう思ったけれど、違うのだ、たぶん。
あたしたちは、そういうことに、とても恵まれた一組だったのだ。
過ぎてしまわなければ、終わってしまわなければ、分からない真実というものがある。
仕事のできる男だった。
銀行員にとって、実は、「バツイチ」というのはとても不利、という時代だった。
家庭生活において、きちんとしていない人間に、人様の資産は預かれない、というのが当時の社会常識だった。今でもそれは変わらないのかもしれないが、「離婚した」ということが「きちんとしていない」ということに、ダイレクトに結びついていたという点で社会の受け止め方は、離婚経験者にとても厳しかったと思う。
彼は、自分に貼られた不利なレッテルを意地になって剥がそうともせず、かといって無意識に振る舞う、というのでもなく、飄々と業務をこなし、信頼を得ていた。
明るくて、話上手で、酒につよくて。
ほどほどに自意識過剰で、ほどほどに腰が低くて。
そして、これ、といった女に手が早かった。
あたしが「彼の女」になったのは、部下になったその日の夕方。
秋の始め。
月のきれいな夜になりそうだった。
残業が一区切りして、給湯室でコーヒーを煎れていたときに、ふいにくちびるを奪われた。
本日からお世話になります、と転勤始めのあいさつを聞いて、まだ九時間ばかり。
どうして。
驚いたあたしに、
わかってたんだろ。
と、答えた。
柔らかなまどろみと、激しい苦しみとに呑み込まれた季節の、はじまり。
愛している。
と言ったのは、あたしが先だった。
恋に勝ち負けがあるとしたら、完敗だった。
年上の上司との恋は、いつも破滅を匂わせている。
離婚歴が男の出世の妨げになるとしたら、恋愛の失敗が表沙汰になることは、女の結婚の妨げになる。そういう時代だった。
それでも、恋した。ひたすらに。
そして、まるで、乾いたのどが水を求めるように、言葉を求めてうめき続けた。
愛している、と言って。
お願い。
いつも笑って、キスと愛撫を与えられた。
すきだよ、いちばん。
完全に見返りを期待しないで相手のことを思えるようになれなければ、オレは愛している、とは言わない。
見返り。
そう。
ほんの少しでも、こんなに想っているのだから、お前も何か返してくれ、というような気持ちがあれば、駄目なんだ。そういうのは、愛じゃない。
あたしは、あなたに、見返りなんか求めない。
そう?。ほんとうに?。
ええ。
・・・ありがたいけど、違うと思うよ。
・・・じゃあ、あなたは、今まで愛しているって感じたひとはいないの?。
ひとりだけ、いるよ。
それは・・・女のひとよね?。
そう。女。たぶん、生涯であいつだけ、だよ。
そして、この言葉が、あたしをこの恋から引き下がらせた。
かつて、愛している、と言った相手。
それが、かつて妻だった女だと、何の疑いもなく思い込んでしまった・・・。
あたしを奥さんに選んでくれたのは、全身人畜無害、といった風情の、ちょっと太めの同い年の男だった。
すぐに子供が生まれ、一人では無くて、もう一人、と子供が増えて、あたしは恋する女では無くなった。肩までの髪を一つにまとめて、童謡を口ずさみながら子供のお弁当をこしらえる、いいおかあちゃんになった、と思う。
夕べ。
洗濯ものを取り込もうとして空を何気なくみあげたとき、ふいに、あの頃のことが胸をよぎった。そして、小さな息子のシャツを手にしたとたん、思い当たった。
彼が。
決して、愛していると口にしなかった男が生涯、たったひとりだけ愛している、と思ったという女。
それは・・・もしかしたら・・・。
もしかしたら、それは、彼の娘、ではなかっただろうか。
別れた妻とのあいだにできた女の子は、妻のもとで育てられている、と聞いていた。
何ひとつ見返りを求めず、与えることしか考えない、そんな気持ち。
愛している、という言葉は、永遠に彼の娘だけに捧げられた言葉、だったのかもしれない。
「おかあさあん、お月様、出た?。」
「うさぎさん、いる?。」
子供たちの声がして、あたしは半分、現実に戻る。
決して、愛している、とは言ってもらえなかった。
濃密なキスと、愛撫とで彩られた季節たち。
今思い出しても目眩がしてしまうほどの、甘美で、いやらしくて、熱っぽい日々。
あたしたちの、そういう相性はとても良かったのだと思う。
彼が一回り年上で、一度結婚していたということが、わたしに、そういう見知らぬ快楽をもたらすのだろう。あの真っ只中にいたときにはそう思ったけれど、違うのだ、たぶん。
あたしたちは、そういうことに、とても恵まれた一組だったのだ。
過ぎてしまわなければ、終わってしまわなければ、分からない真実というものがある。
仕事のできる男だった。
銀行員にとって、実は、「バツイチ」というのはとても不利、という時代だった。
家庭生活において、きちんとしていない人間に、人様の資産は預かれない、というのが当時の社会常識だった。今でもそれは変わらないのかもしれないが、「離婚した」ということが「きちんとしていない」ということに、ダイレクトに結びついていたという点で社会の受け止め方は、離婚経験者にとても厳しかったと思う。
彼は、自分に貼られた不利なレッテルを意地になって剥がそうともせず、かといって無意識に振る舞う、というのでもなく、飄々と業務をこなし、信頼を得ていた。
明るくて、話上手で、酒につよくて。
ほどほどに自意識過剰で、ほどほどに腰が低くて。
そして、これ、といった女に手が早かった。
あたしが「彼の女」になったのは、部下になったその日の夕方。
秋の始め。
月のきれいな夜になりそうだった。
残業が一区切りして、給湯室でコーヒーを煎れていたときに、ふいにくちびるを奪われた。
本日からお世話になります、と転勤始めのあいさつを聞いて、まだ九時間ばかり。
どうして。
驚いたあたしに、
わかってたんだろ。
と、答えた。
柔らかなまどろみと、激しい苦しみとに呑み込まれた季節の、はじまり。
愛している。
と言ったのは、あたしが先だった。
恋に勝ち負けがあるとしたら、完敗だった。
年上の上司との恋は、いつも破滅を匂わせている。
離婚歴が男の出世の妨げになるとしたら、恋愛の失敗が表沙汰になることは、女の結婚の妨げになる。そういう時代だった。
それでも、恋した。ひたすらに。
そして、まるで、乾いたのどが水を求めるように、言葉を求めてうめき続けた。
愛している、と言って。
お願い。
いつも笑って、キスと愛撫を与えられた。
すきだよ、いちばん。
完全に見返りを期待しないで相手のことを思えるようになれなければ、オレは愛している、とは言わない。
見返り。
そう。
ほんの少しでも、こんなに想っているのだから、お前も何か返してくれ、というような気持ちがあれば、駄目なんだ。そういうのは、愛じゃない。
あたしは、あなたに、見返りなんか求めない。
そう?。ほんとうに?。
ええ。
・・・ありがたいけど、違うと思うよ。
・・・じゃあ、あなたは、今まで愛しているって感じたひとはいないの?。
ひとりだけ、いるよ。
それは・・・女のひとよね?。
そう。女。たぶん、生涯であいつだけ、だよ。
そして、この言葉が、あたしをこの恋から引き下がらせた。
かつて、愛している、と言った相手。
それが、かつて妻だった女だと、何の疑いもなく思い込んでしまった・・・。
あたしを奥さんに選んでくれたのは、全身人畜無害、といった風情の、ちょっと太めの同い年の男だった。
すぐに子供が生まれ、一人では無くて、もう一人、と子供が増えて、あたしは恋する女では無くなった。肩までの髪を一つにまとめて、童謡を口ずさみながら子供のお弁当をこしらえる、いいおかあちゃんになった、と思う。
夕べ。
洗濯ものを取り込もうとして空を何気なくみあげたとき、ふいに、あの頃のことが胸をよぎった。そして、小さな息子のシャツを手にしたとたん、思い当たった。
彼が。
決して、愛していると口にしなかった男が生涯、たったひとりだけ愛している、と思ったという女。
それは・・・もしかしたら・・・。
もしかしたら、それは、彼の娘、ではなかっただろうか。
別れた妻とのあいだにできた女の子は、妻のもとで育てられている、と聞いていた。
何ひとつ見返りを求めず、与えることしか考えない、そんな気持ち。
愛している、という言葉は、永遠に彼の娘だけに捧げられた言葉、だったのかもしれない。
「おかあさあん、お月様、出た?。」
「うさぎさん、いる?。」
子供たちの声がして、あたしは半分、現実に戻る。
出て行ってよ。
と言ったのはこっちだから仕方の無いこととは言え、ひとりきりのベッドが二週間も続くとさすがに辛い。
しかも、季節はむし暑い夏から秋へと移り始めている。そろそろ人の肌のぬくもりがいとおしく感じられるようになる季節の到来。
でも、彼は、いない。
いや、こういう場合、「彼」とは言いたくないな。
ここは「あいつ」と呼びたい。
あいつ。
年下の、予備校講師。
わたしのワンルームになんとなく居着いてしまった、ちゃっかり者。
しかも、半年と三日暮らした挙げ句に浮気、で、それもうまくかくしたらいいのに、かくしきれずにわたしを怒らせて、で、
出て行ってよ。
と言ったら出ていった。
わたしとしては、本音は、あいつが浮気をした、ということよりも、浮気をかくさなかった、ということの方がキツかった。
堂々と女をつくった、ということは、ある意味、わたしのことなど、どうなってもいい、ばれたらばれたで別れてやろう、というふてぶてしさの表れである。
実際、あっさり出てっちゃったし。
わたしも、そんなとき、棄てないで、とか行かないで、とか、すがりつけないタイプなんだよね。
出て行くよ。
どうぞどうぞ。
ってなもんよ。
で、男の気配が消えてしまってから、改めて、泣き出すの。
淋しいって。
最低。
結構、ハデな喧嘩だったと思うんだけれど、あいつは意外に冷静だったらしい。
見回すと、いつのまにか増えていたあいつの荷物がほとんど消えている。
もともと衣類は大した量無かったけれど、例えば、落合信彦の本だとか、誰だかわたしは名前も知らない(と言うよりも何度聞いても忘れる)外人レスラーのポスターだとか、電動歯ブラシだとか。そういった小物(と言っていいのかな)の類いは、見事に持って出た。CDも、ビデオも。
たったひとつ、ボンジョヴィのCD一枚残して。
デッキの中に入ったままだったから忘れたのだろう。
頃合いを見て、言ってやろうと思ってはいる。
でも、わたしはいまだに、あいつのケイタイに連絡できないでいる。
メールで一方的に、という手が一番手っ取り早いだろう、とは思う。でも、なんだか・・・淋しいのだ。やっぱり、せっかくだから声のひとつも聞きたい。
じゃあ、電話しちゃおうか。でも、ものすごくツメタイ声で返事されるのも、哀しい。
案外、どっちにしても、もう番号なんか変えられちゃってるかもしれないし。
実は、それこそ一番恐れていることだったりする。
そう、わたしは、今でも、恋人は、あいつしか考えられないんだよ・・・。
洋楽はジャズ以外、ほとんど聴いたことがなかった。
だけど、こうしてボンジョヴィを流していると、気持ちがいい。
なんだか、安心する。
安心、と言っても何かに包まれるような安心感とは違って・・・そうね、台風のとき、建てつけの優れた家にいるみたいな感じ。何があろうと壊れない、というような安定感。最も、あいつはわたしのそういうコメントに首をかしげていたけれども。
女にはわからねえよ。
なんて顔だった。
男と女はからだも違えば、感覚も違うのだ。
同じ音を聴いていても、捕まえ方が違うのだ。
心地よさが違うのだ、快感の質が違うのだ。
あいつに教わったのは、そこらへんのこと。
別に教えてもらおうとしたわけじゃないけれど。
鍵穴に最初の秋の忍び入る
早朝、冷気を感じた。
玄関から、そっと入ってくる、外の冷たさ。
帰ってくるんじゃないか、と気にしているから余計に感じる、冷たい空気。
ある朝、あいつは秋を全身にまとって、ドアミラーのちいさなレンズにおさまるかもしれない、そしてわたしは、お帰りなさいと首に抱き付く代わりに、
CD取りにきたの?
と、硬い声でたずねるのだ。
そんなことを想像しながら、またひとりきりの一日が始まる。
と言ったのはこっちだから仕方の無いこととは言え、ひとりきりのベッドが二週間も続くとさすがに辛い。
しかも、季節はむし暑い夏から秋へと移り始めている。そろそろ人の肌のぬくもりがいとおしく感じられるようになる季節の到来。
でも、彼は、いない。
いや、こういう場合、「彼」とは言いたくないな。
ここは「あいつ」と呼びたい。
あいつ。
年下の、予備校講師。
わたしのワンルームになんとなく居着いてしまった、ちゃっかり者。
しかも、半年と三日暮らした挙げ句に浮気、で、それもうまくかくしたらいいのに、かくしきれずにわたしを怒らせて、で、
出て行ってよ。
と言ったら出ていった。
わたしとしては、本音は、あいつが浮気をした、ということよりも、浮気をかくさなかった、ということの方がキツかった。
堂々と女をつくった、ということは、ある意味、わたしのことなど、どうなってもいい、ばれたらばれたで別れてやろう、というふてぶてしさの表れである。
実際、あっさり出てっちゃったし。
わたしも、そんなとき、棄てないで、とか行かないで、とか、すがりつけないタイプなんだよね。
出て行くよ。
どうぞどうぞ。
ってなもんよ。
で、男の気配が消えてしまってから、改めて、泣き出すの。
淋しいって。
最低。
結構、ハデな喧嘩だったと思うんだけれど、あいつは意外に冷静だったらしい。
見回すと、いつのまにか増えていたあいつの荷物がほとんど消えている。
もともと衣類は大した量無かったけれど、例えば、落合信彦の本だとか、誰だかわたしは名前も知らない(と言うよりも何度聞いても忘れる)外人レスラーのポスターだとか、電動歯ブラシだとか。そういった小物(と言っていいのかな)の類いは、見事に持って出た。CDも、ビデオも。
たったひとつ、ボンジョヴィのCD一枚残して。
デッキの中に入ったままだったから忘れたのだろう。
頃合いを見て、言ってやろうと思ってはいる。
でも、わたしはいまだに、あいつのケイタイに連絡できないでいる。
メールで一方的に、という手が一番手っ取り早いだろう、とは思う。でも、なんだか・・・淋しいのだ。やっぱり、せっかくだから声のひとつも聞きたい。
じゃあ、電話しちゃおうか。でも、ものすごくツメタイ声で返事されるのも、哀しい。
案外、どっちにしても、もう番号なんか変えられちゃってるかもしれないし。
実は、それこそ一番恐れていることだったりする。
そう、わたしは、今でも、恋人は、あいつしか考えられないんだよ・・・。
洋楽はジャズ以外、ほとんど聴いたことがなかった。
だけど、こうしてボンジョヴィを流していると、気持ちがいい。
なんだか、安心する。
安心、と言っても何かに包まれるような安心感とは違って・・・そうね、台風のとき、建てつけの優れた家にいるみたいな感じ。何があろうと壊れない、というような安定感。最も、あいつはわたしのそういうコメントに首をかしげていたけれども。
女にはわからねえよ。
なんて顔だった。
男と女はからだも違えば、感覚も違うのだ。
同じ音を聴いていても、捕まえ方が違うのだ。
心地よさが違うのだ、快感の質が違うのだ。
あいつに教わったのは、そこらへんのこと。
別に教えてもらおうとしたわけじゃないけれど。
鍵穴に最初の秋の忍び入る
早朝、冷気を感じた。
玄関から、そっと入ってくる、外の冷たさ。
帰ってくるんじゃないか、と気にしているから余計に感じる、冷たい空気。
ある朝、あいつは秋を全身にまとって、ドアミラーのちいさなレンズにおさまるかもしれない、そしてわたしは、お帰りなさいと首に抱き付く代わりに、
CD取りにきたの?
と、硬い声でたずねるのだ。
そんなことを想像しながら、またひとりきりの一日が始まる。
市が主催する盆踊り大会に出ようと言い出したのは誰だったっけ。
高校最後の夏休みだった。
半年後に入試を控え、もし受かったらほとんどがこの町を離れることになる、そういうことで多少センチメンタルなものが、皆の心中にあったのかもしれない。
出られるやつは来いよ、というだけの紙が夏休み中の補習のクラスに回され、結果、当日には三分の一ほどが待ち合せ場所の堤防下に集合した。
盆踊り大会会場は、町を蛇行して流れるH川の河川敷であった。川沿いを公園に整備して、その広場で行われる。
会場に着くと、もうあちこちから人々が集まり始めていて、傾きかけた夏の大きな夕日が最後の一瞥をギラギラと投げかけていた。
ほどなく、市長の挨拶があり、スピーカーから大音響で音楽が流されて、盆踊りが始まった。
最初は照れもあって、お互いを指差しあったり突つき合ったり、とふざけてばかりのわたしたちだったのだけれど、辺りが闇に包まれる頃には、すっかり大きな踊りの輪に溶け込んでいた。
その輪の中に、彼女もいた。
彼女とは気まずいことになっていた。
よくある話だが、彼女が片想いをしていた相手の男の子とわたしがキスをしてしまった。
実はわたしの方は、別に彼がそれほどすきでも無かったのだが、なんとなくそういうことになり、またそういうことがあると、段々、彼のことが本気ですきになってしまって・・・そういう状態で迎えた夏休みだったのだ。
彼女にしたら、自分の気持ちを知っていて、そういうことをしでかしたわたしを許せなかっただろう。
でも、わたしだって、何も彼女を困らせようとかいじめてやろうとか、そういう気持ちで彼に近付いたわけでは無い。
むしろ、彼の方がわたしをすきなのだから、わたしをうらんでも仕方が無いじゃない、そんな風に強気で過ごしていた。
最も、なんとなくキスしただけ、と言うのは男の方もそうだったのだ。今ならそれが分かる。彼にしたら、チャンスだったのだ。十七のうちにすませておきたかった、通過儀礼のようなものだったのだ。
すべてが過ぎ去ってしまった、今なら分かる。
そう、すべては終わったことなのだ。
彼とは別にきちんと付き合うこともなく卒業を迎えた。彼は一浪して東京の大学に進学し、政府系の金融機関に就職した。
わたしは京都の短大に進学したあと、また地元に帰ってきて地方銀行に勤務している。
そして、彼女は、もういない。
わたしも彼も、そしてほとんどのクラスメイトが町を出ていた時期、亡くなってしまった。
拒食症、が命を奪ったのだと聞いている。
わたしの中で、彼女のことは耐え難い傷として遺された。
地方銀行の名前が白地に青く染め抜かれた浴衣を着て、わたしは踊りの中にいる。
あの夏からずいぶんと夏が過ぎた気がする。そして、これが多分わたしの最後の盆踊りになるだろう。先日婚約式を済ませ、春には結婚する。この町から、いなくなる。
彼も結婚した。
相手は東京の女性。今年来た年賀状は花婿姿の写真であった。
市に事業所を持つ大きな会社は軒並み参加し、老人団体や子供会団体も連なって、踊りの輪はとても大きい。もちろん、かつてのわたしたちのように、面白半分で参加している地元の高校生グループもいる。
近頃、あの若さが眩しく感じられるようになった。もう、年だな。
右に、左に、手をかざし、そっと前をうかがい見るような、振り。幼稚園の運動会から躍らされているからもう板についている。
もう、こうやって踊ることもないのかも。
ふと淋しさがこみあげ、その淋しさが、あの夏・・・もう来年にはここにいない、とやはり気付いて切なくなったあの夏へとつながっていく。
そのとき。
ふいに、懐かしい人影を見た気がした。
前方斜めのグループ。浴衣姿の女子高生のグループの中。
彼女だ。
気まずい思いを抱えさせたまま、逝ってしまった彼女。
あの夏は、わたしにとっては「ここでの」最後の夏、であったが、彼女にとっては「ほんとうの」最後の夏、になってしまった。
わたしの中の後悔が彼女を呼んだのだ。
謝らなければ。
でも、何を?。
一時だけど、彼を奪ってしまったこと?
そしてそのまましらんふりを決め込んでしまったこと?
目の前の彼女は、あの日の姿のままで踊り続けている。
でも、わたしは言葉が出てこない、何を言ったらいいのかわからない。
そして、音楽が止み、踊り手たちが、ほろほろっ、とほどける。
彼女は、いない。
もちろん、それは見間違いというものなのだ。
高校生の中に、似ているひとがいた、そういうことなのだ。
浴衣の袖で、額の汗をぬぐう。
こうして、夏が巡るたびに、わたしは何をどう謝罪したらいいのか分からないまま、謝り続けていくのだろう。彼女が、本当にいる世界に行くまで。
踊りの輪放たれて魚になりぬ
また、曲が始まった。
高校最後の夏休みだった。
半年後に入試を控え、もし受かったらほとんどがこの町を離れることになる、そういうことで多少センチメンタルなものが、皆の心中にあったのかもしれない。
出られるやつは来いよ、というだけの紙が夏休み中の補習のクラスに回され、結果、当日には三分の一ほどが待ち合せ場所の堤防下に集合した。
盆踊り大会会場は、町を蛇行して流れるH川の河川敷であった。川沿いを公園に整備して、その広場で行われる。
会場に着くと、もうあちこちから人々が集まり始めていて、傾きかけた夏の大きな夕日が最後の一瞥をギラギラと投げかけていた。
ほどなく、市長の挨拶があり、スピーカーから大音響で音楽が流されて、盆踊りが始まった。
最初は照れもあって、お互いを指差しあったり突つき合ったり、とふざけてばかりのわたしたちだったのだけれど、辺りが闇に包まれる頃には、すっかり大きな踊りの輪に溶け込んでいた。
その輪の中に、彼女もいた。
彼女とは気まずいことになっていた。
よくある話だが、彼女が片想いをしていた相手の男の子とわたしがキスをしてしまった。
実はわたしの方は、別に彼がそれほどすきでも無かったのだが、なんとなくそういうことになり、またそういうことがあると、段々、彼のことが本気ですきになってしまって・・・そういう状態で迎えた夏休みだったのだ。
彼女にしたら、自分の気持ちを知っていて、そういうことをしでかしたわたしを許せなかっただろう。
でも、わたしだって、何も彼女を困らせようとかいじめてやろうとか、そういう気持ちで彼に近付いたわけでは無い。
むしろ、彼の方がわたしをすきなのだから、わたしをうらんでも仕方が無いじゃない、そんな風に強気で過ごしていた。
最も、なんとなくキスしただけ、と言うのは男の方もそうだったのだ。今ならそれが分かる。彼にしたら、チャンスだったのだ。十七のうちにすませておきたかった、通過儀礼のようなものだったのだ。
すべてが過ぎ去ってしまった、今なら分かる。
そう、すべては終わったことなのだ。
彼とは別にきちんと付き合うこともなく卒業を迎えた。彼は一浪して東京の大学に進学し、政府系の金融機関に就職した。
わたしは京都の短大に進学したあと、また地元に帰ってきて地方銀行に勤務している。
そして、彼女は、もういない。
わたしも彼も、そしてほとんどのクラスメイトが町を出ていた時期、亡くなってしまった。
拒食症、が命を奪ったのだと聞いている。
わたしの中で、彼女のことは耐え難い傷として遺された。
地方銀行の名前が白地に青く染め抜かれた浴衣を着て、わたしは踊りの中にいる。
あの夏からずいぶんと夏が過ぎた気がする。そして、これが多分わたしの最後の盆踊りになるだろう。先日婚約式を済ませ、春には結婚する。この町から、いなくなる。
彼も結婚した。
相手は東京の女性。今年来た年賀状は花婿姿の写真であった。
市に事業所を持つ大きな会社は軒並み参加し、老人団体や子供会団体も連なって、踊りの輪はとても大きい。もちろん、かつてのわたしたちのように、面白半分で参加している地元の高校生グループもいる。
近頃、あの若さが眩しく感じられるようになった。もう、年だな。
右に、左に、手をかざし、そっと前をうかがい見るような、振り。幼稚園の運動会から躍らされているからもう板についている。
もう、こうやって踊ることもないのかも。
ふと淋しさがこみあげ、その淋しさが、あの夏・・・もう来年にはここにいない、とやはり気付いて切なくなったあの夏へとつながっていく。
そのとき。
ふいに、懐かしい人影を見た気がした。
前方斜めのグループ。浴衣姿の女子高生のグループの中。
彼女だ。
気まずい思いを抱えさせたまま、逝ってしまった彼女。
あの夏は、わたしにとっては「ここでの」最後の夏、であったが、彼女にとっては「ほんとうの」最後の夏、になってしまった。
わたしの中の後悔が彼女を呼んだのだ。
謝らなければ。
でも、何を?。
一時だけど、彼を奪ってしまったこと?
そしてそのまましらんふりを決め込んでしまったこと?
目の前の彼女は、あの日の姿のままで踊り続けている。
でも、わたしは言葉が出てこない、何を言ったらいいのかわからない。
そして、音楽が止み、踊り手たちが、ほろほろっ、とほどける。
彼女は、いない。
もちろん、それは見間違いというものなのだ。
高校生の中に、似ているひとがいた、そういうことなのだ。
浴衣の袖で、額の汗をぬぐう。
こうして、夏が巡るたびに、わたしは何をどう謝罪したらいいのか分からないまま、謝り続けていくのだろう。彼女が、本当にいる世界に行くまで。
踊りの輪放たれて魚になりぬ
また、曲が始まった。
アルバイトでやっている家庭教師の生徒、マキの様子がおかしいらしい。
マキのおかあさんが、わざわざ電話をしてきた。
「なんといいますのでしょ?あの、部屋から煙草の匂いまでするようになって・・・。でも、何か話し掛けようとすると、ぷいっ、と機嫌が悪くなるものですから。」
要は「お姉ちゃんみたいに慕っている」わたしに、それとなくマキの様子を探って欲しい、とまあそういうわけなのである。
で、今日、マキはわたしの家にいる。
人工島のマンションにあるわたしの家にマキがやってきたのは夕方だった。
花火大会の日で、わたしの家族は見物に行っていて留守である。狭いマンションでもこれならゆっくり話ができるというものだ。
「さあ、勉強よ。」
「え?今日はしないって言ったじゃん。」
「するする、家庭科。」
わたしは笑ってマキを買い物に誘う。
「カレーでもつくろうよ。」
自宅マンション前にあるスーパーで材料を買って帰る。信号待ちで見上げれば、白い月がかかっている。月を横切って飛行機が飛び、チョークで描いたような一本の雲が流れる。
「ここ、飛行機いっぱい飛んでるね。」
十四才にしては幼い言い方でマキが言う。
「ちょうど真上が航路みたいよ。」
「へえ。」
わたしたちは、きゃあきゃあ騒ぎながら料理をこしらえた。
まるで本当の調理実習だ。
二人して余り料理上手ではないことが判明したが、それなりにおいしかった。
で、いったいこの子のどこかおかしいのだろうか?
一応、観察してみたけれど、さっぱり分からない。
二年前、中学受験から見てきたから多少は変化している。少女とも、おとなとも言えない、危うさをたたえ始める年頃ではある。母親が不安なのは、そういう微妙なところだろうか。
服装だって今どきの普通の子だし、髪を染めたり化粧をしたりしていないだけ、余程マトモ、って感じである。教育学部の学生として見てきている街のいろいろな子たちよりは、ずっと、スレていない。
あ、でも、煙草かあ・・・。
それは、気になるなあ。
「って言うか、先生、なんで花火行かないの?。」
「あ、花火?。」
一瞬だけ考えて、本当のことを言った。
「家族には、人ごみを避けたいモードなんだって言ってあるんだけど、ホントは違うんだ。」
「なに?。」
「・・・彼氏が、アメリカ行っちゃってるから。去年、一緒に見たの。ひとりで見たら、なんか、淋しい気持ちになっちゃいそうで、さ。」
「ふうん。先生の彼氏、アメリカなんだ。
アメリカって北米?。」
北米、という言い方に少し引っ掛かりながら、「そうだよ。カリフオルニア。」と答える。
すると、
「あたしは、南米だよ。」
という答えが返ってきた。
「え?。」
マキは笑った。笑うと、全くの子供だ、砂場でお城がうまくできて、ママ見て、と言っているような笑顔だ。
でも。
「あたしの彼氏。南米行っちゃった。」
彼氏。
それも、南米に行った。
思わず、ヤバイ世界の男を思い浮かべてしまった。
が、そういうことは少しいたずらっぽいマキの計算ずくのことであったらしい。
マキの通う中学に教育実習生としてやってきた大学生。
ギターが上手なその学生に、マキだけではなく、たくさんのフアンができた。でも、思うところあって、その学生はエクアドルに旅立ってしまった。
「青年海外協力隊なの。だからまた、帰ってきてはくれるんだけど、もうあたしのことなんか忘れて、なんてこともあり、かなあなんて。」
「そう。」
マキの中学は女子校である。クラスに男の子がいない中、ふと現れた大学生は実物以上に眩しかったのだろう。自分も大学生なので、素直じゃない考え方をしてしまう。
「でもね、すき、は、すき、なの。こんなんでも。恋のうち。」
マキはまた笑う、でもこの笑顔はさっきのとは違う。おとなの女の笑い。すきにならない方が幸せ、って頭ではわかっているのよ、でも、仕方ないでしょ、とでも言い出しそうな、そういうふてぶてしい笑顔。
ふいにわたしは、マキに聞きたくなった。
と言うよりも、確認したくなった。この子、わたしと同じことをしているんじゃないのかな。
「マキちゃん、あのさ、もしかして、そのひとって煙草、吸う?。」
「うん、吸うよ?。」
「・・・マキちゃん、彼がいなくなってから、時々煙草、買ってない?。」
煙草を買うのは自分が吸うためじゃない。
箱から一本抜き取り、そっと火をつけて。
そして、そのまま煙にしてしまう。
それは、お香を立てるのに似ている。
香のそばにいたいだけ、その香の中に身を置きたいだけのこと。
あの人の香。
懐かしい香に包まれていたくて、わたしは一人で煙草に火を点け、目を閉じる。
吸わない煙草。
香らせるために灰になる煙草。
マキもわたしと同じだった。
「気持ちわかるからさ、時々、ここにおいでよ。ここで、煙草のお香、したらいいよ。」
「先生のママはうるさくないの。」
「はたち過ぎてるのに、そうつべこべ言わせないわよ。」
顔を見合わせて微笑むわたしたちは、ふたりとも、恋する女だ。
「あっ、先生、見えたよ。」
湾岸の向こうから、花火が見える。立ち並んだマンションの影になり、殆ど、かけらではあるが、狭い夜空を染める蛍光色は華やかできらめいている。
「ほんとだね。」
わたしたちは背伸びをするようにして、対岸の花火に、しばし、見入った。
「先生、飛行機から花火を見ると、どんなふうなんだろうね。」
ふいに、マキがそう言った。
この子も、海の向こうの恋するひとのことをいつでも想っているのだ。片時も、忘れずに。
ビル街の花火つぎつぎ咲き急ぐ
マキのおかあさんが、わざわざ電話をしてきた。
「なんといいますのでしょ?あの、部屋から煙草の匂いまでするようになって・・・。でも、何か話し掛けようとすると、ぷいっ、と機嫌が悪くなるものですから。」
要は「お姉ちゃんみたいに慕っている」わたしに、それとなくマキの様子を探って欲しい、とまあそういうわけなのである。
で、今日、マキはわたしの家にいる。
人工島のマンションにあるわたしの家にマキがやってきたのは夕方だった。
花火大会の日で、わたしの家族は見物に行っていて留守である。狭いマンションでもこれならゆっくり話ができるというものだ。
「さあ、勉強よ。」
「え?今日はしないって言ったじゃん。」
「するする、家庭科。」
わたしは笑ってマキを買い物に誘う。
「カレーでもつくろうよ。」
自宅マンション前にあるスーパーで材料を買って帰る。信号待ちで見上げれば、白い月がかかっている。月を横切って飛行機が飛び、チョークで描いたような一本の雲が流れる。
「ここ、飛行機いっぱい飛んでるね。」
十四才にしては幼い言い方でマキが言う。
「ちょうど真上が航路みたいよ。」
「へえ。」
わたしたちは、きゃあきゃあ騒ぎながら料理をこしらえた。
まるで本当の調理実習だ。
二人して余り料理上手ではないことが判明したが、それなりにおいしかった。
で、いったいこの子のどこかおかしいのだろうか?
一応、観察してみたけれど、さっぱり分からない。
二年前、中学受験から見てきたから多少は変化している。少女とも、おとなとも言えない、危うさをたたえ始める年頃ではある。母親が不安なのは、そういう微妙なところだろうか。
服装だって今どきの普通の子だし、髪を染めたり化粧をしたりしていないだけ、余程マトモ、って感じである。教育学部の学生として見てきている街のいろいろな子たちよりは、ずっと、スレていない。
あ、でも、煙草かあ・・・。
それは、気になるなあ。
「って言うか、先生、なんで花火行かないの?。」
「あ、花火?。」
一瞬だけ考えて、本当のことを言った。
「家族には、人ごみを避けたいモードなんだって言ってあるんだけど、ホントは違うんだ。」
「なに?。」
「・・・彼氏が、アメリカ行っちゃってるから。去年、一緒に見たの。ひとりで見たら、なんか、淋しい気持ちになっちゃいそうで、さ。」
「ふうん。先生の彼氏、アメリカなんだ。
アメリカって北米?。」
北米、という言い方に少し引っ掛かりながら、「そうだよ。カリフオルニア。」と答える。
すると、
「あたしは、南米だよ。」
という答えが返ってきた。
「え?。」
マキは笑った。笑うと、全くの子供だ、砂場でお城がうまくできて、ママ見て、と言っているような笑顔だ。
でも。
「あたしの彼氏。南米行っちゃった。」
彼氏。
それも、南米に行った。
思わず、ヤバイ世界の男を思い浮かべてしまった。
が、そういうことは少しいたずらっぽいマキの計算ずくのことであったらしい。
マキの通う中学に教育実習生としてやってきた大学生。
ギターが上手なその学生に、マキだけではなく、たくさんのフアンができた。でも、思うところあって、その学生はエクアドルに旅立ってしまった。
「青年海外協力隊なの。だからまた、帰ってきてはくれるんだけど、もうあたしのことなんか忘れて、なんてこともあり、かなあなんて。」
「そう。」
マキの中学は女子校である。クラスに男の子がいない中、ふと現れた大学生は実物以上に眩しかったのだろう。自分も大学生なので、素直じゃない考え方をしてしまう。
「でもね、すき、は、すき、なの。こんなんでも。恋のうち。」
マキはまた笑う、でもこの笑顔はさっきのとは違う。おとなの女の笑い。すきにならない方が幸せ、って頭ではわかっているのよ、でも、仕方ないでしょ、とでも言い出しそうな、そういうふてぶてしい笑顔。
ふいにわたしは、マキに聞きたくなった。
と言うよりも、確認したくなった。この子、わたしと同じことをしているんじゃないのかな。
「マキちゃん、あのさ、もしかして、そのひとって煙草、吸う?。」
「うん、吸うよ?。」
「・・・マキちゃん、彼がいなくなってから、時々煙草、買ってない?。」
煙草を買うのは自分が吸うためじゃない。
箱から一本抜き取り、そっと火をつけて。
そして、そのまま煙にしてしまう。
それは、お香を立てるのに似ている。
香のそばにいたいだけ、その香の中に身を置きたいだけのこと。
あの人の香。
懐かしい香に包まれていたくて、わたしは一人で煙草に火を点け、目を閉じる。
吸わない煙草。
香らせるために灰になる煙草。
マキもわたしと同じだった。
「気持ちわかるからさ、時々、ここにおいでよ。ここで、煙草のお香、したらいいよ。」
「先生のママはうるさくないの。」
「はたち過ぎてるのに、そうつべこべ言わせないわよ。」
顔を見合わせて微笑むわたしたちは、ふたりとも、恋する女だ。
「あっ、先生、見えたよ。」
湾岸の向こうから、花火が見える。立ち並んだマンションの影になり、殆ど、かけらではあるが、狭い夜空を染める蛍光色は華やかできらめいている。
「ほんとだね。」
わたしたちは背伸びをするようにして、対岸の花火に、しばし、見入った。
「先生、飛行機から花火を見ると、どんなふうなんだろうね。」
ふいに、マキがそう言った。
この子も、海の向こうの恋するひとのことをいつでも想っているのだ。片時も、忘れずに。
ビル街の花火つぎつぎ咲き急ぐ
神社へと続く細い裏通りを自転車で駆ける。
顔見知りの人に会えば、元気にあいさつ。まるで、乳酸飲料のコマーシャルに出てくる配達おばちゃんみたいなノリだが、まあ、仕方がない。
だって、仕事中なんだもん。
わたしは、信用金庫の職員。仕事は集金係。店舗のある商店街を回って、売り上げ金を集金したり、両替の硬貨を運んだりするのがこの係の仕事だ。
明日は、この駅前商店街のお祭り。神社を中心に両手を広げたかたちで店が並んでいる様子は、戦前からそのまま。木造の古い家並み、文字が左から右へと書かれた看板を大きく掲げた店。
こじんまりとした小さな町は、いつもはなんとなく、うつらうつらと居眠りでもしているような、のんびりした町なのだけど、さすがに今日はお祭りの準備で沸き立っている。
彼と会ったのは、魚屋さんのおばさんに呼び止められたときだった。
「おはようございまーす。」
「あ、信金さん、後で新札持ってきてよ。」
「はい、おいくらお持ちしましょうか。」
「あ、あのね、千円札と・・・。」
「あ、じゃあ、メモします。ちょっと待って・・・。」
と、鞄を開けた時、
ガッシャーン
と、何かが倒れるようなものすごい音がした。
「ああ、またあの子や。」
見ると、飴細工、と書かれた屋台の暖簾が地面に突き刺さるようにして倒れている。
どちらかというと小柄な、まだ男の子、と言いたくなるような若い男が、あたふたしている。
暖簾、とは言え、結構重くて細長い。おまけに、彼はおそろしく細い腕をしていた。
「手伝ってあげるよ、もう。」
魚屋のおばさんがそちらに近付き、暖簾の片端を持ち上げる。
わたしがほどけかけた暖簾のひもを結わえ、完成。
「いやあ、ありがとうございます。」
少年、いや、青年は、にっこりと笑って、ジーンズのお尻でごしごしと両手を拭いた。
「だって、あんた、そんなんじゃ、いつまでたっても店開きできないよ。」
確かに、祭り向けの出店は、かなり準備がすすんでいる。できていないのは、この店位だ。
「あんたお父さんは?。」
「あ、おやじは、去年で引退しました。今年から、オレが引継ぎます。」
「ああそう、お父さんの飴は奇麗やったねえ、白鳥やら、うさぎやら。」
「オレも、一応、何でもやりますよ。」
「ほんま、頑張りや。」
励ますでもない調子でおばさんは言い、そのまま屋台を離れた。わたしも、つられるようにして、仕事に戻る。
仕事が終わって、仲間と私服で縁日をのぞいたとき、ふと青年の店をのぞいた。
どうやら、名人職人の後を継いだらしい、青年の店は意外に混んでいた。
小さな子供たちの目の前で、アニメのキャラクターをこしらえている。
「ほーら、ハム太郎。」
鋏をパチン、とさせると、一斉に歓声が上がった。
わたしは、なんとなく安心して、そのまま通り過ぎた。
夏祭りは、御神輿が出て、神主さんが神馬で町を練り歩く神事があって、三日で終わった。
夏祭り過ぎて化粧を落とす町
そして、町はいつもの、静かで平和で退屈な町に戻る。
そして、わたしはいつものように、紺の制服で自転車を駆る。
「おはようございまーす。」
あの青年に声をかけられたのは、例の魚屋さんに行く途中の、大きな桜の木の下だった。
「・・・この前は、ありがとう。これ、お礼にこしらえたんだけど、もらってくれる?。」
なんと、それは、飴でつくった女の子だった。
茶色の髪、青い服。
「これって、もしかして。」
「そう、きみ。」
「あはは、ありがとう・・・。でも、食べられないね、なんか。友食い、みたいで。」
「友食い、か。なるほど。」
二人は、一緒に大声で笑い、その後少し真顔でみつめあう。
「秋祭りには、また来るよ。今度はもっと上手にきみをつくるから・・・また来て。」
「うん。」
わたしは、曖昧に微笑んで、そして、彼と別れた。
こういうのも、約束、っていうのだろうか。
約束だとすれば、わたしは、約束を破ることになった。
それは、わたしがこの町で過ごす最期の夏祭りだった。
九月。わたしは、結婚して町を出て行き、今では遠い街でおかあさんをやっている。
彼は元気に飴をつくり続けているだろうか。
顔見知りの人に会えば、元気にあいさつ。まるで、乳酸飲料のコマーシャルに出てくる配達おばちゃんみたいなノリだが、まあ、仕方がない。
だって、仕事中なんだもん。
わたしは、信用金庫の職員。仕事は集金係。店舗のある商店街を回って、売り上げ金を集金したり、両替の硬貨を運んだりするのがこの係の仕事だ。
明日は、この駅前商店街のお祭り。神社を中心に両手を広げたかたちで店が並んでいる様子は、戦前からそのまま。木造の古い家並み、文字が左から右へと書かれた看板を大きく掲げた店。
こじんまりとした小さな町は、いつもはなんとなく、うつらうつらと居眠りでもしているような、のんびりした町なのだけど、さすがに今日はお祭りの準備で沸き立っている。
彼と会ったのは、魚屋さんのおばさんに呼び止められたときだった。
「おはようございまーす。」
「あ、信金さん、後で新札持ってきてよ。」
「はい、おいくらお持ちしましょうか。」
「あ、あのね、千円札と・・・。」
「あ、じゃあ、メモします。ちょっと待って・・・。」
と、鞄を開けた時、
ガッシャーン
と、何かが倒れるようなものすごい音がした。
「ああ、またあの子や。」
見ると、飴細工、と書かれた屋台の暖簾が地面に突き刺さるようにして倒れている。
どちらかというと小柄な、まだ男の子、と言いたくなるような若い男が、あたふたしている。
暖簾、とは言え、結構重くて細長い。おまけに、彼はおそろしく細い腕をしていた。
「手伝ってあげるよ、もう。」
魚屋のおばさんがそちらに近付き、暖簾の片端を持ち上げる。
わたしがほどけかけた暖簾のひもを結わえ、完成。
「いやあ、ありがとうございます。」
少年、いや、青年は、にっこりと笑って、ジーンズのお尻でごしごしと両手を拭いた。
「だって、あんた、そんなんじゃ、いつまでたっても店開きできないよ。」
確かに、祭り向けの出店は、かなり準備がすすんでいる。できていないのは、この店位だ。
「あんたお父さんは?。」
「あ、おやじは、去年で引退しました。今年から、オレが引継ぎます。」
「ああそう、お父さんの飴は奇麗やったねえ、白鳥やら、うさぎやら。」
「オレも、一応、何でもやりますよ。」
「ほんま、頑張りや。」
励ますでもない調子でおばさんは言い、そのまま屋台を離れた。わたしも、つられるようにして、仕事に戻る。
仕事が終わって、仲間と私服で縁日をのぞいたとき、ふと青年の店をのぞいた。
どうやら、名人職人の後を継いだらしい、青年の店は意外に混んでいた。
小さな子供たちの目の前で、アニメのキャラクターをこしらえている。
「ほーら、ハム太郎。」
鋏をパチン、とさせると、一斉に歓声が上がった。
わたしは、なんとなく安心して、そのまま通り過ぎた。
夏祭りは、御神輿が出て、神主さんが神馬で町を練り歩く神事があって、三日で終わった。
夏祭り過ぎて化粧を落とす町
そして、町はいつもの、静かで平和で退屈な町に戻る。
そして、わたしはいつものように、紺の制服で自転車を駆る。
「おはようございまーす。」
あの青年に声をかけられたのは、例の魚屋さんに行く途中の、大きな桜の木の下だった。
「・・・この前は、ありがとう。これ、お礼にこしらえたんだけど、もらってくれる?。」
なんと、それは、飴でつくった女の子だった。
茶色の髪、青い服。
「これって、もしかして。」
「そう、きみ。」
「あはは、ありがとう・・・。でも、食べられないね、なんか。友食い、みたいで。」
「友食い、か。なるほど。」
二人は、一緒に大声で笑い、その後少し真顔でみつめあう。
「秋祭りには、また来るよ。今度はもっと上手にきみをつくるから・・・また来て。」
「うん。」
わたしは、曖昧に微笑んで、そして、彼と別れた。
こういうのも、約束、っていうのだろうか。
約束だとすれば、わたしは、約束を破ることになった。
それは、わたしがこの町で過ごす最期の夏祭りだった。
九月。わたしは、結婚して町を出て行き、今では遠い街でおかあさんをやっている。
彼は元気に飴をつくり続けているだろうか。
彼女、のことはとても鮮明に覚えている。
それは、地方の小さな町の、普通の高校生活を送ったわたしにとって、余りにも強烈な思い出だ。
同窓会を通知するハガキを手にして、あら、という声が出てしまったのは、幹事名のところに、彼女の名前が記載されていたからだった。
「どうかした?。」
夫に聞かれて、
「いいえ、同窓会の通知にね、あまりそういうことをしそうじゃない子が幹事をする、って書いてあるから。」
「ふうん。」
と、夫は何気なくハガキを横からのぞきこみ、
「女の子かあ。セーカク変わったんじゃない?。」
一言だけ言ってからバスルームに消えた。
彼にしたら、わたしが反応したのが女性であることだけ確かめればよいのだ。
「悪いけど、これ、出席したいから、二、三日実家に帰るね。」
実家は特急で数時間のところだ。日帰りできないこともないのだが。
「・・・いいよ。」
シャンプーでもしているのだろう、お湯の音交じりのくぐもった声が返ってきた。
美術室のとなりには、「美術準備室」という部屋があった。生徒たちは縮めて「びじゅん」と呼んでいた。絵画や造形を制作するのに必要なもの、絵の具からイーゼルからトルソーからキャンバスまでありとあらゆるものが仕舞い込まれた小さな教室だったが、美術部員たちはなぜか正当な美術室をつかわず、この「びじゅん」でデッサンを描いたり、粘土 をこねまわしたりしていた。
そして、「びじゅん」は美術部顧問にしてわたしと彼女のクラス担任、K先生の部屋でもあった。
美術部員でもないのに、どうしてわたしがあんなにしょっちゅうあの小部屋に入り浸っていたのか。今これを書きながら、どうしても思い出せないのだが、美術室近辺の掃除はわたしたちのクラスの割り当てだったから、たぶんそこら辺の事情によるものだろう。
何よりもわたしは、あの「びじゅん」の匂いや雰囲気がすきだった。
K先生は高校教師であると同時に、日本画の日展作家だったから、和絵の具がたくさん置いてあり、わたしはその「浅葱」だの「萌黄」だのという色名がとても気に入って、毎日いとしそうに眺めていた。
「そんなにすきなら、描いてみたら。」
と言ったのが先生であれば、わたしは日本画を始めていたかもしれない。が、そう言ったのは、彼女だった。
彼女。美術部の部長にして、容姿端麗、成績優秀、おまけにスポーツ万能。
当時流行していた、後ろを大胆に刈り上げたショートヘアがよく似合う、のっぽの女の子。
美大をめざして毎日、デッサンに励んでいた。
「・・・わたしは見てる方がいい、その方が楽しいもん。」
デッサンにつかう鉛筆をけずりながら、わたしは答えた。
放課後。
「びじゅん」は二階にあり、見下ろせば正門、だった。
門の脇には銀杏並木。
彼女が思いがけないことをしたのは、その銀杏たちの緑の葉が夏の勢いを無くし始めた頃だった。
学校祭が近付き、浮ついた風が校内に吹いていた。
でも、彼女はそういうんじゃなかった。
まるで、生真面目に、わたしにあることを打ち明けてきた。
「あのさ、わたしが言うこと、変だと思ってもらってかまわないんだけど。」
なに?。
あのさ、もう、ここにあんまり来ないで欲しいんだよね。
やっぱり部員でもないのに入り浸るのはよくなかったか、とそう解釈した。部員の誰かが、そう言ったのだろう。
でも。
違ったのだ。
あのね、わたし、ここにいられると駄目になりそうなんだ。
それは・・・邪魔してた、ってことなんだよね。
ごめん。
違うよ。・・・あのさ、好き、なんだ、だから意識しちゃって。
え?
これまでそういうことを言われたことが無かったというわけでは無い。
ただ、大きく違っていることがある。
今まで好きだ、と言ってくれたのは、全員が全員、男の子だった。
当惑するわたしの肩に柔らかな手が降りてきて・・・
ふいに唇が、奪われた。
トルソーの青白き影夜の秋
自然、わたしは「びじゅん」に出入りしなくなった。
彼女は皆の前ではごく普通に振る舞い、わたしも、底抜けに明るい彼女の笑顔を見ていると、あの放課後のことは夢だったのかな、とさえ思うようになっていった。
そして、彼女は見事に第一志望の美大に合格し、わたしは短大に難なく合格し、それぞれの十年余りが過ぎた。
同窓会の会場は駅前のホテル。駅前、にも関わらず、とんぼが何匹も飛んでいるところが、懐かしいふるさとである。
幹事は、受け付けのすぐ脇に立っていた。
「お帰り。よく来てくれたね。」
確かに、彼女、の声であった。
でも、まぶしい位白いシャツに、きちんとプレスされた黒いスラックスのその人は、どう見ても女では無かった。
求められるままに握手をすれば、そこにはかつての柔らかさは微塵もなく・・・。
わたしは、自分でもあきれる位、その奇麗な「彼」に見とれてしまっている。
それは、地方の小さな町の、普通の高校生活を送ったわたしにとって、余りにも強烈な思い出だ。
同窓会を通知するハガキを手にして、あら、という声が出てしまったのは、幹事名のところに、彼女の名前が記載されていたからだった。
「どうかした?。」
夫に聞かれて、
「いいえ、同窓会の通知にね、あまりそういうことをしそうじゃない子が幹事をする、って書いてあるから。」
「ふうん。」
と、夫は何気なくハガキを横からのぞきこみ、
「女の子かあ。セーカク変わったんじゃない?。」
一言だけ言ってからバスルームに消えた。
彼にしたら、わたしが反応したのが女性であることだけ確かめればよいのだ。
「悪いけど、これ、出席したいから、二、三日実家に帰るね。」
実家は特急で数時間のところだ。日帰りできないこともないのだが。
「・・・いいよ。」
シャンプーでもしているのだろう、お湯の音交じりのくぐもった声が返ってきた。
美術室のとなりには、「美術準備室」という部屋があった。生徒たちは縮めて「びじゅん」と呼んでいた。絵画や造形を制作するのに必要なもの、絵の具からイーゼルからトルソーからキャンバスまでありとあらゆるものが仕舞い込まれた小さな教室だったが、美術部員たちはなぜか正当な美術室をつかわず、この「びじゅん」でデッサンを描いたり、粘土 をこねまわしたりしていた。
そして、「びじゅん」は美術部顧問にしてわたしと彼女のクラス担任、K先生の部屋でもあった。
美術部員でもないのに、どうしてわたしがあんなにしょっちゅうあの小部屋に入り浸っていたのか。今これを書きながら、どうしても思い出せないのだが、美術室近辺の掃除はわたしたちのクラスの割り当てだったから、たぶんそこら辺の事情によるものだろう。
何よりもわたしは、あの「びじゅん」の匂いや雰囲気がすきだった。
K先生は高校教師であると同時に、日本画の日展作家だったから、和絵の具がたくさん置いてあり、わたしはその「浅葱」だの「萌黄」だのという色名がとても気に入って、毎日いとしそうに眺めていた。
「そんなにすきなら、描いてみたら。」
と言ったのが先生であれば、わたしは日本画を始めていたかもしれない。が、そう言ったのは、彼女だった。
彼女。美術部の部長にして、容姿端麗、成績優秀、おまけにスポーツ万能。
当時流行していた、後ろを大胆に刈り上げたショートヘアがよく似合う、のっぽの女の子。
美大をめざして毎日、デッサンに励んでいた。
「・・・わたしは見てる方がいい、その方が楽しいもん。」
デッサンにつかう鉛筆をけずりながら、わたしは答えた。
放課後。
「びじゅん」は二階にあり、見下ろせば正門、だった。
門の脇には銀杏並木。
彼女が思いがけないことをしたのは、その銀杏たちの緑の葉が夏の勢いを無くし始めた頃だった。
学校祭が近付き、浮ついた風が校内に吹いていた。
でも、彼女はそういうんじゃなかった。
まるで、生真面目に、わたしにあることを打ち明けてきた。
「あのさ、わたしが言うこと、変だと思ってもらってかまわないんだけど。」
なに?。
あのさ、もう、ここにあんまり来ないで欲しいんだよね。
やっぱり部員でもないのに入り浸るのはよくなかったか、とそう解釈した。部員の誰かが、そう言ったのだろう。
でも。
違ったのだ。
あのね、わたし、ここにいられると駄目になりそうなんだ。
それは・・・邪魔してた、ってことなんだよね。
ごめん。
違うよ。・・・あのさ、好き、なんだ、だから意識しちゃって。
え?
これまでそういうことを言われたことが無かったというわけでは無い。
ただ、大きく違っていることがある。
今まで好きだ、と言ってくれたのは、全員が全員、男の子だった。
当惑するわたしの肩に柔らかな手が降りてきて・・・
ふいに唇が、奪われた。
トルソーの青白き影夜の秋
自然、わたしは「びじゅん」に出入りしなくなった。
彼女は皆の前ではごく普通に振る舞い、わたしも、底抜けに明るい彼女の笑顔を見ていると、あの放課後のことは夢だったのかな、とさえ思うようになっていった。
そして、彼女は見事に第一志望の美大に合格し、わたしは短大に難なく合格し、それぞれの十年余りが過ぎた。
同窓会の会場は駅前のホテル。駅前、にも関わらず、とんぼが何匹も飛んでいるところが、懐かしいふるさとである。
幹事は、受け付けのすぐ脇に立っていた。
「お帰り。よく来てくれたね。」
確かに、彼女、の声であった。
でも、まぶしい位白いシャツに、きちんとプレスされた黒いスラックスのその人は、どう見ても女では無かった。
求められるままに握手をすれば、そこにはかつての柔らかさは微塵もなく・・・。
わたしは、自分でもあきれる位、その奇麗な「彼」に見とれてしまっている。
噴水の前で、わたしたちは無言だ。
噴水を囲むように、広い人工の泉があり、子供たちがたくさん、中に入ってあそんでいる。
歓声が静かなわたしたちを包んでいる。
お互い、相手の言葉を待ち、緊張しているのだ。
彼は「やっぱり忘れられないみたいなんだ」と言った「元カノ」に会って来たはずだ。そして何か展開があったからこそ、今日ここにわたしを呼び出したのだろう。
わたしの方は、六才も年下の男からそんなふうに言われてすっかりイヤになり、カフエで相席になった中年の男と一夜を共にしてしまった。
そしてそのことは、かえってケンカした恋人への自分の気持ちを再確認させることになってしまった。それを引きずって、ここに来ている。
目の前にはその、恋人、がいる。
柔らかな猫っ毛を風がなぶっている。風の代わりにわたしの指で撫でてみたい、もう一度。
子供たちは、自分の時間を、その瞬間、瞬間ごとにとらえて生きているみたいだ。
今泣いていた、と思った子供が、瞬く間に笑い出すのも、激しくやりあっていた二人が、あっと言う間に手をつないでまた遊び出すのも、過去にも未来にも思いを及ばせずに現在だけに関心を向けているからだ。
あの、心の底から楽しんでいる笑顔も、手放しで悔しがる泣き顔も、そこから来るのだ。
あんなふうに、与えられた自分の時間を、瞬間ごとに生きられたなら・・・。
時間たちをきれいなビーズでつなぐみたいに。
「会って来たよ。」
「元カノに?。」
「うん。」
「で?。どうするの。これから。」
心の中で、「バカ」という声がする。そんなふうに聞いてどうする。相手の答え次第でものすごく傷つけられることになるのに。
でも、声はまるで冷たい。どうしてこう、素直じゃないんだろう。
「・・・続けたいんだけど。」「え?。」
「きみと。だめ?。」
やった、と叫びたいのに、
「・・・分かったわ。」
とだけ答える。懐かしい香がして、右手がぎゅっ、と強くにぎられる。一瞬、あの中年男の顔が浮かんで、消える。
噴水のプリズムの中かくれんぼ
折りからの西日が噴水全体を包み、半月形の虹をいくつもつくった。
「あ、虹。」
わたしがみつけてそう言い、
「え?。」
彼が見たときにはもう消えている。
西日も尖らなくなった。
もう、秋が近い。
噴水を囲むように、広い人工の泉があり、子供たちがたくさん、中に入ってあそんでいる。
歓声が静かなわたしたちを包んでいる。
お互い、相手の言葉を待ち、緊張しているのだ。
彼は「やっぱり忘れられないみたいなんだ」と言った「元カノ」に会って来たはずだ。そして何か展開があったからこそ、今日ここにわたしを呼び出したのだろう。
わたしの方は、六才も年下の男からそんなふうに言われてすっかりイヤになり、カフエで相席になった中年の男と一夜を共にしてしまった。
そしてそのことは、かえってケンカした恋人への自分の気持ちを再確認させることになってしまった。それを引きずって、ここに来ている。
目の前にはその、恋人、がいる。
柔らかな猫っ毛を風がなぶっている。風の代わりにわたしの指で撫でてみたい、もう一度。
子供たちは、自分の時間を、その瞬間、瞬間ごとにとらえて生きているみたいだ。
今泣いていた、と思った子供が、瞬く間に笑い出すのも、激しくやりあっていた二人が、あっと言う間に手をつないでまた遊び出すのも、過去にも未来にも思いを及ばせずに現在だけに関心を向けているからだ。
あの、心の底から楽しんでいる笑顔も、手放しで悔しがる泣き顔も、そこから来るのだ。
あんなふうに、与えられた自分の時間を、瞬間ごとに生きられたなら・・・。
時間たちをきれいなビーズでつなぐみたいに。
「会って来たよ。」
「元カノに?。」
「うん。」
「で?。どうするの。これから。」
心の中で、「バカ」という声がする。そんなふうに聞いてどうする。相手の答え次第でものすごく傷つけられることになるのに。
でも、声はまるで冷たい。どうしてこう、素直じゃないんだろう。
「・・・続けたいんだけど。」「え?。」
「きみと。だめ?。」
やった、と叫びたいのに、
「・・・分かったわ。」
とだけ答える。懐かしい香がして、右手がぎゅっ、と強くにぎられる。一瞬、あの中年男の顔が浮かんで、消える。
噴水のプリズムの中かくれんぼ
折りからの西日が噴水全体を包み、半月形の虹をいくつもつくった。
「あ、虹。」
わたしがみつけてそう言い、
「え?。」
彼が見たときにはもう消えている。
西日も尖らなくなった。
もう、秋が近い。
もう一度、やり直さないか?。
という文字が目に入って来たときには、何言ってんだか、って感じだった。
やり直す、などという言葉を使えるほどの歴史を、あたしたち、持っていないじゃないの。
付き合った、のは確かだと思う。
でも、言葉にしつこくこだわるならば、この「付き合う」っていう言葉だって何?。何をしたら付き合った、ってことになるんだろう。ふたりきりで食事を三回以上したなら?あるいはベッドに行ったなら?。
つまり、「付き合う」の定義みたいなもの。それが今一つ分からない。
ま、メールには、一言だけ書いて返した。
とにかく、行くよ。
だから、今、あたしはTOMOの部屋にいる。
グレン・ミラーをかけてもらって。
なぜグレン・ミラーなのか?。
それは、あたしたちが「付き合っていた」時代のテーマみたいなものだから。
あ、別に気取った思い出なんかじゃないのよ。
あたしたちは同じ高校の吹奏楽部にいて、そこで一緒にやったの、グレン・ミラーを。今となってはすこし青臭い記憶たち。楽器の手入れをするときに使うオイルの匂いと唾液の匂いが混じっていたり、
メトロノームの退屈な音にTOMOの爆発的なトロンボーンの音がかぶさったり、というような。
彼女、いるって聞いてるんだけど。
誰から?
それって大切なことなの?
いや。
で、彼女、いるんでしょ。・・・年上の。
・・・うん。
じゃあ、いいじゃない?仲良くやってりゃ。
「ムーンライト・セレナーデ」が始まる。
二人が初めてキスしたときに流れていた曲。誰もいなくなった夕方の部室。やっぱり唾液の匂いがしていた。
・・・うまくいってないのね。
うん。
だからって元カノにちょっかいかけるってのもどうかと思うよ。
あたしは無意識に頭の中でクラリネットのパートを唄っている。今でも覚えているんだ。少し感激。
そういうんじゃなくて。やっぱりオレには君かなって気がしてんだけれど。
あたしたちは壁にもたれて並んでいる。
もしもTOMOがその気になれば、今すぐにでも押し倒せる位置。
でも、そんなこと・・・。
狭い部屋に、ミュートのついたトランペットの音が流れていく。金管がどうしても合わせられないところだった。今聞いてても緊張してしまう。
・・・オレのこと嫌いになった?
・・・そういうこと、聞く?普通。そっちがふったんでしょ?好きな女ができて。
しばらくジャズは一切聴けなかった。トロンボーンの音がすると、とりわけつらかった。そういうこと、何も分かってないだろうに。
・・・ごめん。
TOMOがそうつぶやくのと、曲が終わるのが同時だった。
沈黙。
どこかで、遠く雷の音がしている。
あれって?雷?。
みたいだね。
沈黙。二人が思い出したのは同じ事に違いない。あの日、部室で抱き合ったのは、夕立の中だった。あたしには彼氏がいた。その人は部長をしていて、二人にとって一つ上の先輩だった。
グランドピアノの上に置かれたカセットデッキから流れていた「ムーンライトセレナーデ」、ピアノの鍵盤側にいたあたし。後ろから近付いてきて、ふいに抱きすくめたTOMO。
好きだ、とも言わないで。
付き合って、も、無かったし、キスしていい?とたずねられもしないうちに。
でも、抵抗もしなかった十六才のあたし。
あのときと、同じ。夏の夕方。雷。
あのとき、一人、二人、と練習を終えた部員たちが帰っていくのを見送って、早くTOMOとふたりきりになりたかった。あたしの耳は遠雷をつかまえていた。そして、早く雨が、大雨がこの部室をつつみこんでしまえばいいのに、と心から願っていた。
肩越しに夕立を待つ彼の部屋
え?あたしは今も夕立を待っているのかしら?
TOMOは黙っている。
フローリングの床に置かれた手は動かなかった。でも、その手がゆっくりとあたしの方へ・・・。肩を抱き寄せる。息が荒い。
TOMO、だめだよ。
どうして?
あたし・・・彼氏がいるもの。
言い切って立ち上がる。
そしてそれきりTOMOの目は見ない。
ごめんね。でももう、だめだよ。こんなんじゃ、嫌なの。
部屋を出たわたしの耳に雷の音がかぶさる。
本当は、彼氏なんかいない。
TOMOのことが嫌いってわけでもない。
ただ、思い出をたどるようにまた始めるのが嫌なだけ。青臭い過去を愛撫しながら恋するなんて、まだそんな年じゃないつもりだから・・・。
あの夏、彼氏がいるのにキスを受け入れた唇が、今度はひとりぼっちなのに、きっぱりと拒絶した。
ちょっとばかげているかもしれない。
でも、まあ、いいじゃん。
いよいよ降り出した雨の中を、口笛でも吹きそうな足取りで歩く。
どしゃ降りの、ムーンライトセレナーデ。
という文字が目に入って来たときには、何言ってんだか、って感じだった。
やり直す、などという言葉を使えるほどの歴史を、あたしたち、持っていないじゃないの。
付き合った、のは確かだと思う。
でも、言葉にしつこくこだわるならば、この「付き合う」っていう言葉だって何?。何をしたら付き合った、ってことになるんだろう。ふたりきりで食事を三回以上したなら?あるいはベッドに行ったなら?。
つまり、「付き合う」の定義みたいなもの。それが今一つ分からない。
ま、メールには、一言だけ書いて返した。
とにかく、行くよ。
だから、今、あたしはTOMOの部屋にいる。
グレン・ミラーをかけてもらって。
なぜグレン・ミラーなのか?。
それは、あたしたちが「付き合っていた」時代のテーマみたいなものだから。
あ、別に気取った思い出なんかじゃないのよ。
あたしたちは同じ高校の吹奏楽部にいて、そこで一緒にやったの、グレン・ミラーを。今となってはすこし青臭い記憶たち。楽器の手入れをするときに使うオイルの匂いと唾液の匂いが混じっていたり、
メトロノームの退屈な音にTOMOの爆発的なトロンボーンの音がかぶさったり、というような。
彼女、いるって聞いてるんだけど。
誰から?
それって大切なことなの?
いや。
で、彼女、いるんでしょ。・・・年上の。
・・・うん。
じゃあ、いいじゃない?仲良くやってりゃ。
「ムーンライト・セレナーデ」が始まる。
二人が初めてキスしたときに流れていた曲。誰もいなくなった夕方の部室。やっぱり唾液の匂いがしていた。
・・・うまくいってないのね。
うん。
だからって元カノにちょっかいかけるってのもどうかと思うよ。
あたしは無意識に頭の中でクラリネットのパートを唄っている。今でも覚えているんだ。少し感激。
そういうんじゃなくて。やっぱりオレには君かなって気がしてんだけれど。
あたしたちは壁にもたれて並んでいる。
もしもTOMOがその気になれば、今すぐにでも押し倒せる位置。
でも、そんなこと・・・。
狭い部屋に、ミュートのついたトランペットの音が流れていく。金管がどうしても合わせられないところだった。今聞いてても緊張してしまう。
・・・オレのこと嫌いになった?
・・・そういうこと、聞く?普通。そっちがふったんでしょ?好きな女ができて。
しばらくジャズは一切聴けなかった。トロンボーンの音がすると、とりわけつらかった。そういうこと、何も分かってないだろうに。
・・・ごめん。
TOMOがそうつぶやくのと、曲が終わるのが同時だった。
沈黙。
どこかで、遠く雷の音がしている。
あれって?雷?。
みたいだね。
沈黙。二人が思い出したのは同じ事に違いない。あの日、部室で抱き合ったのは、夕立の中だった。あたしには彼氏がいた。その人は部長をしていて、二人にとって一つ上の先輩だった。
グランドピアノの上に置かれたカセットデッキから流れていた「ムーンライトセレナーデ」、ピアノの鍵盤側にいたあたし。後ろから近付いてきて、ふいに抱きすくめたTOMO。
好きだ、とも言わないで。
付き合って、も、無かったし、キスしていい?とたずねられもしないうちに。
でも、抵抗もしなかった十六才のあたし。
あのときと、同じ。夏の夕方。雷。
あのとき、一人、二人、と練習を終えた部員たちが帰っていくのを見送って、早くTOMOとふたりきりになりたかった。あたしの耳は遠雷をつかまえていた。そして、早く雨が、大雨がこの部室をつつみこんでしまえばいいのに、と心から願っていた。
肩越しに夕立を待つ彼の部屋
え?あたしは今も夕立を待っているのかしら?
TOMOは黙っている。
フローリングの床に置かれた手は動かなかった。でも、その手がゆっくりとあたしの方へ・・・。肩を抱き寄せる。息が荒い。
TOMO、だめだよ。
どうして?
あたし・・・彼氏がいるもの。
言い切って立ち上がる。
そしてそれきりTOMOの目は見ない。
ごめんね。でももう、だめだよ。こんなんじゃ、嫌なの。
部屋を出たわたしの耳に雷の音がかぶさる。
本当は、彼氏なんかいない。
TOMOのことが嫌いってわけでもない。
ただ、思い出をたどるようにまた始めるのが嫌なだけ。青臭い過去を愛撫しながら恋するなんて、まだそんな年じゃないつもりだから・・・。
あの夏、彼氏がいるのにキスを受け入れた唇が、今度はひとりぼっちなのに、きっぱりと拒絶した。
ちょっとばかげているかもしれない。
でも、まあ、いいじゃん。
いよいよ降り出した雨の中を、口笛でも吹きそうな足取りで歩く。
どしゃ降りの、ムーンライトセレナーデ。
夕べかかってきた電話のことが頭から離れない。
そもそも、言いたいことがあると、こっちの都合など二の次で喋りまくる女だった。それはもう、知り合った短大時代からのことだから分かっているのだけれど。
「それでね、網戸の修理、どうしたらいいと思う?。」
彼女は甘えたような声。
わたしは、さあ、とだけ答える。時計を見るともう六時に近い。息子が帰って来るまでに夕食の仕度をしなくては。
「そろそろ、食事の仕度の時間だし・・・。」
「あら、食事の仕度は、いいの。今日、主人、いらないらしいから、晩ご飯。」
そっちはいらなくても、こっちはいるのよ。
そう言いたいけれど言えないのが自分でも嫌な自分の性格である。
いえね、わたしも、潮時かなって気はするのよ。
大体、息子の家庭教師でしょう?幾つ違うと思う?一回りよ、一回り。そういう男と、こういうことになっちゃって。
こういうこと、ってあなた、そのひとと、寝た、ってわけ?不倫なの?
え?ああ、そうね、いつのまにか・・・。そういうことになったの。若いって素晴らしいわよ。汗が背中の上で弾けるの。主人ではそうはいかないもの。
・・・あなただって弾けないでしょうに。
え?何?あなたの声、よく聞こえないわ。
とにかく、わたしたち、息子の留守中に、しのび逢うようになったの。お昼よ、お昼。え?そうね、リビングよ。あなたも一度来たことあるでしょ。あの東向きの部屋。
ところが昨日、なぜか主人が帰って来ちゃったのよ。真っ昼間に。忘れた書類を取りに戻った、なんてね。
車庫のシャッターが上がる音がしたときにはもう、生きたここちがしなかったわ。幸い、まだ服はちゃんと着てたけれど・・・もちろん、二人とも。
でも、慌てちゃって、何をどうしてよいやら分からなくなっちゃって、パニクりながらも、彼の靴を縁側にまで持って来た瞬間、玄関の鍵が開く、かちゃっ、ていう音がして・・・。
きゃあ。
声にならない叫びがのどの奥であがったわ。
そして、彼がいきなり網戸を両手で引き破ったのと、主人が靴を脱いだのとがほぼ同時。
で、彼は無事脱出できたの。
ええ。破った網戸の隙間から。
じゃ、ご主人は網戸が破れている理由をあなたに聞いたよね?。
うん。
なんて答えたの。
すべってしりもちをついて、はずみで破った、って。
彼女は色白で小太りだ。あの大きなお尻なら網戸の一枚やそこら、一突きで破るだろう。
もちろん、そう口には出さない。
表向き、その網戸の修理法・・・愛人が破ってしまった網戸をどう直したらいいでしょうか、ということで電話してきたことになっていた。
でも、本当に言いたかったのは、
あたしには愛人がいるのよ。
一回りも年下の、カワイイ大学生。
と、いうことなのだ。
和辻のことが、頭をよぎる。
自分にも息子がいて、その息子の家庭教師のこと。
ヨットに夢中の大学生。よく日に焼けている、いきいきした笑顔。あのシャツに隠されている背中だって、じゅうぶん汗を弾いてきらめかせるだろう・・・。
ただ、彼女と違うのはわたしがあのシャツを脱がせることは無い、ということだわ。
わたしには、分別があるもの。
分別。
それは、不倫をしてはいけない、というような生真面目なものではない。
最早、汗も涙も弾かないであろう自分のたるんだ肌を、若い男の目にさらしたくない、という、それだけの分別。
あの年頃の男の子なら、少しけしかけただけでベッドに持ち込めるだろうけれど。
同い年の、大してきれいでもない友人に若い恋人がいるという事実を、そういう風にとらえながら、彼女は考える。
寝たら、みじめなだけだわ。十年前のわたしならともかく。
このところ、夫とのことも途絶えているのに。
夫が今でもベッドの上のことをのぞんでいるのかも分からない。もちろん、自分にもその気は、無い。
何気なく寝室を見る。
エアコンの入っている部屋の扉は閉じられている。
夕べ、急な泊り出張が入ったから、疲れて眠っているらしい。あまり昼寝しすぎるとまた夜寝付けなくなるのに。
彼女は、無意識にため息をついて、夫が朝方脱ぎ捨てたスーツを手にとり、風をあてようと持ち上げた。
そのとき。
不思議なことに気が付く。
電車の匂いがしない。
九州から新幹線で帰って来ると、必ず電車特有の匂いがするのに・・・シートの布の匂い、しみついた煙草の匂い、乗り物くささ・・・それが感じられない。
なぜ?
夫は本当に新幹線に乗ったのだろうか?。
匂わないスーツを片手にぶらさげて、彼女は茫然と外を見る。
炎昼。
遠くには、海。でも、今、目が行くのはマンション中庭の、ぎらぎら太陽が照り付けている場所だ。
炎昼に草むら白く燃えてあり
夕べ、それではあなたはどこにいたの?。
昼寝をしている平和な顔に、聞いてみようか。
それとも。
彼女の頭に和辻の広い背中が浮かぶ。
それとも・・・。
そもそも、言いたいことがあると、こっちの都合など二の次で喋りまくる女だった。それはもう、知り合った短大時代からのことだから分かっているのだけれど。
「それでね、網戸の修理、どうしたらいいと思う?。」
彼女は甘えたような声。
わたしは、さあ、とだけ答える。時計を見るともう六時に近い。息子が帰って来るまでに夕食の仕度をしなくては。
「そろそろ、食事の仕度の時間だし・・・。」
「あら、食事の仕度は、いいの。今日、主人、いらないらしいから、晩ご飯。」
そっちはいらなくても、こっちはいるのよ。
そう言いたいけれど言えないのが自分でも嫌な自分の性格である。
いえね、わたしも、潮時かなって気はするのよ。
大体、息子の家庭教師でしょう?幾つ違うと思う?一回りよ、一回り。そういう男と、こういうことになっちゃって。
こういうこと、ってあなた、そのひとと、寝た、ってわけ?不倫なの?
え?ああ、そうね、いつのまにか・・・。そういうことになったの。若いって素晴らしいわよ。汗が背中の上で弾けるの。主人ではそうはいかないもの。
・・・あなただって弾けないでしょうに。
え?何?あなたの声、よく聞こえないわ。
とにかく、わたしたち、息子の留守中に、しのび逢うようになったの。お昼よ、お昼。え?そうね、リビングよ。あなたも一度来たことあるでしょ。あの東向きの部屋。
ところが昨日、なぜか主人が帰って来ちゃったのよ。真っ昼間に。忘れた書類を取りに戻った、なんてね。
車庫のシャッターが上がる音がしたときにはもう、生きたここちがしなかったわ。幸い、まだ服はちゃんと着てたけれど・・・もちろん、二人とも。
でも、慌てちゃって、何をどうしてよいやら分からなくなっちゃって、パニクりながらも、彼の靴を縁側にまで持って来た瞬間、玄関の鍵が開く、かちゃっ、ていう音がして・・・。
きゃあ。
声にならない叫びがのどの奥であがったわ。
そして、彼がいきなり網戸を両手で引き破ったのと、主人が靴を脱いだのとがほぼ同時。
で、彼は無事脱出できたの。
ええ。破った網戸の隙間から。
じゃ、ご主人は網戸が破れている理由をあなたに聞いたよね?。
うん。
なんて答えたの。
すべってしりもちをついて、はずみで破った、って。
彼女は色白で小太りだ。あの大きなお尻なら網戸の一枚やそこら、一突きで破るだろう。
もちろん、そう口には出さない。
表向き、その網戸の修理法・・・愛人が破ってしまった網戸をどう直したらいいでしょうか、ということで電話してきたことになっていた。
でも、本当に言いたかったのは、
あたしには愛人がいるのよ。
一回りも年下の、カワイイ大学生。
と、いうことなのだ。
和辻のことが、頭をよぎる。
自分にも息子がいて、その息子の家庭教師のこと。
ヨットに夢中の大学生。よく日に焼けている、いきいきした笑顔。あのシャツに隠されている背中だって、じゅうぶん汗を弾いてきらめかせるだろう・・・。
ただ、彼女と違うのはわたしがあのシャツを脱がせることは無い、ということだわ。
わたしには、分別があるもの。
分別。
それは、不倫をしてはいけない、というような生真面目なものではない。
最早、汗も涙も弾かないであろう自分のたるんだ肌を、若い男の目にさらしたくない、という、それだけの分別。
あの年頃の男の子なら、少しけしかけただけでベッドに持ち込めるだろうけれど。
同い年の、大してきれいでもない友人に若い恋人がいるという事実を、そういう風にとらえながら、彼女は考える。
寝たら、みじめなだけだわ。十年前のわたしならともかく。
このところ、夫とのことも途絶えているのに。
夫が今でもベッドの上のことをのぞんでいるのかも分からない。もちろん、自分にもその気は、無い。
何気なく寝室を見る。
エアコンの入っている部屋の扉は閉じられている。
夕べ、急な泊り出張が入ったから、疲れて眠っているらしい。あまり昼寝しすぎるとまた夜寝付けなくなるのに。
彼女は、無意識にため息をついて、夫が朝方脱ぎ捨てたスーツを手にとり、風をあてようと持ち上げた。
そのとき。
不思議なことに気が付く。
電車の匂いがしない。
九州から新幹線で帰って来ると、必ず電車特有の匂いがするのに・・・シートの布の匂い、しみついた煙草の匂い、乗り物くささ・・・それが感じられない。
なぜ?
夫は本当に新幹線に乗ったのだろうか?。
匂わないスーツを片手にぶらさげて、彼女は茫然と外を見る。
炎昼。
遠くには、海。でも、今、目が行くのはマンション中庭の、ぎらぎら太陽が照り付けている場所だ。
炎昼に草むら白く燃えてあり
夕べ、それではあなたはどこにいたの?。
昼寝をしている平和な顔に、聞いてみようか。
それとも。
彼女の頭に和辻の広い背中が浮かぶ。
それとも・・・。