・・・・泊まってしまった。
わたしは一人暮らしだからまあいいとして、この人はこれから大丈夫だろうか。
「あの・・・大丈夫ですか?。」
「何が?。」
「昨日、出張帰りだって言ってたでしょう。なのに、いきなり、と、と。」
妙に恥ずかしくて言いにくい。「と、泊まっちゃったりして。」
「ああ。大丈夫です。昨日も言ったでしょ。出張先でトラブルがあったってことになってるから。
僕は九州担当だからそういうこと、実際によくあるんです。」
「そう。なら、いいけれど。」
土曜日の朝。ラブホテルの一室。ピタリと閉じられた窓からは光は全く入って来ないけれど、 男がつけたテレビのニュースは、今日も酷暑だと告げている。
「あの。帰ります。」
わたしは立ち上がる。
「はあ、僕も出ますよ。」
男は少し慌てた様子で受話器を取るとフロントを呼び出す。
外に出ると、一斉に蝉が鳴いている。
二人は駅までの道を一緒に歩く。
昨日、わたしは何でこの人に誘われてここまで付き合ったのだろう?。
TOMOが悪いんだわ。
あの人が、いつまでも元カノのことを引きずってたりするから。
だから二人はケンカになって、約束していた映画に行けなくなって、わたしは一人でスタバに行って、そこでこの人と、会ったのだ。
会ってお茶して、それで終わらなかったのは、この人がとても嬉しいことを言ってくれたからだった。
「手練手管を尽くした女が退いてやったんですよ。年下の男に棄てられた、なんてあなたのような美人が言うセリフじゃない。」
だったかな。
自分に自身がなくなりつつあったわたしにとって、そういうセリフは何よりも欲しいものだったから・・・つい、映画にも一緒に行っちゃったし、ホテルのバーにも行っちゃったし、ついでに終電が無くなったのをいいことに、駅の近くのラブホにも行っちゃった・・・ベッドではイケなかったんだけれど。
女ってこういうときすごく哀しいな、って思う。
基本的にこの人は、いわゆる「ヘタ」では無いと思うんだけれど・・・いろいろ尽くしてくれたし、乱暴でも無かったし。でも、感じなかった。
男はイッたあとで、よかった、って言った。
それは、よかった?では無くて、よかったよ、だったんだとは思うけれど、わたしは返事ができなかった。心の中でずっと、TOMOの名前、呼んでたし。結婚しているという男にはテクがあり、落ち着きがあったけれど、でも、かなわない。
TOMOの、不器用な、キス。
自分勝手な動き。
その瞬間には絶対に自分のことしか考えていない、力任せの腰つかい。
そういうものに、かなわない。
わたしは、やっぱりTOMOが好き。
六つも年下の、わがまま男のことが。
「じゃ、ここで。さよなら。」
「はい、さようなら。・・・楽しかったよ。」
男は何か言いかけて止める。連絡先を聞こうとしたのかも。そしてわたしに、その気は無いのだ。
蝉時雨止めば無口になるふたり
その辺りじゅうに響き渡っていた蝉の声が、なぜかピタリと止んだ。
さよなら、以外何もかける言葉が無いということが、なぜだか罪深く感じて、わたしは曖昧に微笑んでから、暑さのせいで白っぽく見える改札に向かった。
わたしは一人暮らしだからまあいいとして、この人はこれから大丈夫だろうか。
「あの・・・大丈夫ですか?。」
「何が?。」
「昨日、出張帰りだって言ってたでしょう。なのに、いきなり、と、と。」
妙に恥ずかしくて言いにくい。「と、泊まっちゃったりして。」
「ああ。大丈夫です。昨日も言ったでしょ。出張先でトラブルがあったってことになってるから。
僕は九州担当だからそういうこと、実際によくあるんです。」
「そう。なら、いいけれど。」
土曜日の朝。ラブホテルの一室。ピタリと閉じられた窓からは光は全く入って来ないけれど、 男がつけたテレビのニュースは、今日も酷暑だと告げている。
「あの。帰ります。」
わたしは立ち上がる。
「はあ、僕も出ますよ。」
男は少し慌てた様子で受話器を取るとフロントを呼び出す。
外に出ると、一斉に蝉が鳴いている。
二人は駅までの道を一緒に歩く。
昨日、わたしは何でこの人に誘われてここまで付き合ったのだろう?。
TOMOが悪いんだわ。
あの人が、いつまでも元カノのことを引きずってたりするから。
だから二人はケンカになって、約束していた映画に行けなくなって、わたしは一人でスタバに行って、そこでこの人と、会ったのだ。
会ってお茶して、それで終わらなかったのは、この人がとても嬉しいことを言ってくれたからだった。
「手練手管を尽くした女が退いてやったんですよ。年下の男に棄てられた、なんてあなたのような美人が言うセリフじゃない。」
だったかな。
自分に自身がなくなりつつあったわたしにとって、そういうセリフは何よりも欲しいものだったから・・・つい、映画にも一緒に行っちゃったし、ホテルのバーにも行っちゃったし、ついでに終電が無くなったのをいいことに、駅の近くのラブホにも行っちゃった・・・ベッドではイケなかったんだけれど。
女ってこういうときすごく哀しいな、って思う。
基本的にこの人は、いわゆる「ヘタ」では無いと思うんだけれど・・・いろいろ尽くしてくれたし、乱暴でも無かったし。でも、感じなかった。
男はイッたあとで、よかった、って言った。
それは、よかった?では無くて、よかったよ、だったんだとは思うけれど、わたしは返事ができなかった。心の中でずっと、TOMOの名前、呼んでたし。結婚しているという男にはテクがあり、落ち着きがあったけれど、でも、かなわない。
TOMOの、不器用な、キス。
自分勝手な動き。
その瞬間には絶対に自分のことしか考えていない、力任せの腰つかい。
そういうものに、かなわない。
わたしは、やっぱりTOMOが好き。
六つも年下の、わがまま男のことが。
「じゃ、ここで。さよなら。」
「はい、さようなら。・・・楽しかったよ。」
男は何か言いかけて止める。連絡先を聞こうとしたのかも。そしてわたしに、その気は無いのだ。
蝉時雨止めば無口になるふたり
その辺りじゅうに響き渡っていた蝉の声が、なぜかピタリと止んだ。
さよなら、以外何もかける言葉が無いということが、なぜだか罪深く感じて、わたしは曖昧に微笑んでから、暑さのせいで白っぽく見える改札に向かった。
カボテイーヌ(香水)
2002年8月2日 みじかいお話カフエの風ふとかき回すカボテイーヌ
コーヒーを受け取って店外に出たものの、あいにく席は埋まっていた。
やはりテイクアウト用にし直してもらおうか、トレイ片手に茫然としていると、
「ここ、もうすぐ空きますから・・・。」
控えめな声がした。
「あ、そうですか。ありがとう。」
声のした方にお礼を言いながら身体を向け直すと、OL風の女が一人で座っているのが目に入った。でも、冷たい飲み物用のカップの中には、まだかなりの量の飲み物が残っている。
「いいんですか。」
「ええ。・・・わたしは、相席でも構わないんですけれど。」
二十代後半から三十代といったところか。うす緑色の麻のスーツを着こなし、栗色の髪を後ろでひとつにまとめている。傍らにはベージュのアタッシュケース。
「会社帰りですか。」
「ええ。あなたも。」
「はい、そうです。」
向かい合わせに座りながら、真一は少しときめいていた。仕事以外で若い女と話をすることなど、考えてみれば随分と久しぶりである。
しかも、なかなかの美女だ・・・。
「・・・これから帰るところなんですか?。」
シロップを入れないアイスコーヒーを一口味わってから、目の前の女をもう一度さりげなく観察してみる。真一には横顔をむけ、広場の方に目をやっている。近眼なのか、やや細めた目は切れ長で格別大きさを強調した化粧が施されている風でも無いのに、印象深い力をたたえている。
「・・・わたしですか?はい。あ、いいえ、今日は早めに会社を出て、これから映画を見ようと思っていたんですけれど。」
女の顔が少し翳った。
「約束していた人が来られなくなっちゃって。」
「じゃあ、おひとりで。」
「そうですね、チケット、もったいないし。」
もう少し若ければ、そう、たとえば、あと十才若ければ、誘いをかけてみるのだがなあ、と思う。四十二にしてはスリムで髪の毛も豊富にあると思ってはいても、やはりここまで若い美女に誘いをかけるのには勇気がいる。
隣りのテーブルでガタガタと椅子を動かす音がして、ベビーカーを押した集団が出て行く。子供たちの泣き声、笑い声、母親たちのおしゃべりがいっぺんに遠のく。
見回すと、かなりの親子連れがいる。夕方になり、これから帰途に着くのだろう。夏休み中である。
「ここには、よく?。」
今度は逆に真一が聞かれる。
「いや、ほとんど。・・・近所に住んでるんですけど、いや、だから、かな。テイクアウトで持って帰ることがほとんどです。今日は出張帰りで早いから、一杯飲んで帰ろうかな、と。」
「一杯?コーヒーを?。」
「ははは、そうです。アルコールは家でゆっくりやりますよ。」
「そう、ですよね。」
なぜか女の顔が少し曇り、真一は慌てる。
「そう、ですよね。みんな普通は家庭があるんだわ。」
もしかしたら、悪いことを言ってしまったのだろうか。
「いや、家っていっても、決して居心地がいいというわけでもないんですけど・・・。息子もえらい大きいなってしもうたし・・・。」
うろたえて関西弁になった。神戸というのは他の関西の地域に比べてあまり抑揚の強い関西弁を話さない。だから、標準語と関西弁とがひとつの会話の中でちゃんと同居しているのだ。
「あ、ごめんなさい、わたし、どうかしてるんやわ。初対面の人にいらんこと言うて。
実は、映画に行く筈だったのは、付き合ってる人、だったんですけど。」
「・・・はあ。」
「夕べ、メールでケンカしてしまって。もうそれきり電話にも出えへんのです。」
メールを使用してのケンカ、というのが真一にはよく分からない。
「それで、もうなんていうか、別れてしもてもいいわ、みたいな気持ちになってて。」
うつむき加減になり、緑色のストローを細い指で弄びながら女は語った。
相手の男は六才年下で、町で出会ったのだという。
三ヶ月ばかり付き合い、それなりに楽しい時間を過ごしてきたけれど、どうしても六つの年令差を忘れることができない。しかも、女のかげがちらつくように思われて、さりげなく聞いてみたところ、やはり元の彼女が忘れられないような気がする、という答えだったのだという。
「そやからわたしね、年下の男に捨てられた、みたいなことになってるの。」
寂しげな顔だった。
男なら、こういうとき、やはり口説くことを考えてしまうものだ・・・真一は勇気を出すことにした。
「・・・何言うてるんや。あんな、そういうふうに思うたらあかんねん。
手練手管に長けた女が退いてやったんや、くらいに強気になろうや。そんなにきれいなんやし。」
「きれい?わたしが。」
「そうや。・・・もし良かったら、ぼくがその映画、ご一緒しましょうか。」
口に出してから、何の映画なのか気になったが、まあどうでもいい。
「まあ。」
「あなたみたいな人と行けるのなら本望やし。」
女の、大きく見開かれた目が、真一を捉えた。
「よろしいんですか。」
「はい、もちろん。」
こういう展開になるとは思ってもみなかった。
カップを片付け、
「さあ。」
女をうながしたとき、ふと香って来た香水。
カボテイーヌ。
なぜその名前を知っているかというと、かつて妻が愛用していたからである。まだ二人してベッドに倒れ込むのが日課であった頃・・・。
「・・・どうしたんですか?。」
「いや、なんでもない、行きましょう。」
真一は軽く頭を振るようにして、映画館へ続くエレベーターを目指す。
コーヒーを受け取って店外に出たものの、あいにく席は埋まっていた。
やはりテイクアウト用にし直してもらおうか、トレイ片手に茫然としていると、
「ここ、もうすぐ空きますから・・・。」
控えめな声がした。
「あ、そうですか。ありがとう。」
声のした方にお礼を言いながら身体を向け直すと、OL風の女が一人で座っているのが目に入った。でも、冷たい飲み物用のカップの中には、まだかなりの量の飲み物が残っている。
「いいんですか。」
「ええ。・・・わたしは、相席でも構わないんですけれど。」
二十代後半から三十代といったところか。うす緑色の麻のスーツを着こなし、栗色の髪を後ろでひとつにまとめている。傍らにはベージュのアタッシュケース。
「会社帰りですか。」
「ええ。あなたも。」
「はい、そうです。」
向かい合わせに座りながら、真一は少しときめいていた。仕事以外で若い女と話をすることなど、考えてみれば随分と久しぶりである。
しかも、なかなかの美女だ・・・。
「・・・これから帰るところなんですか?。」
シロップを入れないアイスコーヒーを一口味わってから、目の前の女をもう一度さりげなく観察してみる。真一には横顔をむけ、広場の方に目をやっている。近眼なのか、やや細めた目は切れ長で格別大きさを強調した化粧が施されている風でも無いのに、印象深い力をたたえている。
「・・・わたしですか?はい。あ、いいえ、今日は早めに会社を出て、これから映画を見ようと思っていたんですけれど。」
女の顔が少し翳った。
「約束していた人が来られなくなっちゃって。」
「じゃあ、おひとりで。」
「そうですね、チケット、もったいないし。」
もう少し若ければ、そう、たとえば、あと十才若ければ、誘いをかけてみるのだがなあ、と思う。四十二にしてはスリムで髪の毛も豊富にあると思ってはいても、やはりここまで若い美女に誘いをかけるのには勇気がいる。
隣りのテーブルでガタガタと椅子を動かす音がして、ベビーカーを押した集団が出て行く。子供たちの泣き声、笑い声、母親たちのおしゃべりがいっぺんに遠のく。
見回すと、かなりの親子連れがいる。夕方になり、これから帰途に着くのだろう。夏休み中である。
「ここには、よく?。」
今度は逆に真一が聞かれる。
「いや、ほとんど。・・・近所に住んでるんですけど、いや、だから、かな。テイクアウトで持って帰ることがほとんどです。今日は出張帰りで早いから、一杯飲んで帰ろうかな、と。」
「一杯?コーヒーを?。」
「ははは、そうです。アルコールは家でゆっくりやりますよ。」
「そう、ですよね。」
なぜか女の顔が少し曇り、真一は慌てる。
「そう、ですよね。みんな普通は家庭があるんだわ。」
もしかしたら、悪いことを言ってしまったのだろうか。
「いや、家っていっても、決して居心地がいいというわけでもないんですけど・・・。息子もえらい大きいなってしもうたし・・・。」
うろたえて関西弁になった。神戸というのは他の関西の地域に比べてあまり抑揚の強い関西弁を話さない。だから、標準語と関西弁とがひとつの会話の中でちゃんと同居しているのだ。
「あ、ごめんなさい、わたし、どうかしてるんやわ。初対面の人にいらんこと言うて。
実は、映画に行く筈だったのは、付き合ってる人、だったんですけど。」
「・・・はあ。」
「夕べ、メールでケンカしてしまって。もうそれきり電話にも出えへんのです。」
メールを使用してのケンカ、というのが真一にはよく分からない。
「それで、もうなんていうか、別れてしもてもいいわ、みたいな気持ちになってて。」
うつむき加減になり、緑色のストローを細い指で弄びながら女は語った。
相手の男は六才年下で、町で出会ったのだという。
三ヶ月ばかり付き合い、それなりに楽しい時間を過ごしてきたけれど、どうしても六つの年令差を忘れることができない。しかも、女のかげがちらつくように思われて、さりげなく聞いてみたところ、やはり元の彼女が忘れられないような気がする、という答えだったのだという。
「そやからわたしね、年下の男に捨てられた、みたいなことになってるの。」
寂しげな顔だった。
男なら、こういうとき、やはり口説くことを考えてしまうものだ・・・真一は勇気を出すことにした。
「・・・何言うてるんや。あんな、そういうふうに思うたらあかんねん。
手練手管に長けた女が退いてやったんや、くらいに強気になろうや。そんなにきれいなんやし。」
「きれい?わたしが。」
「そうや。・・・もし良かったら、ぼくがその映画、ご一緒しましょうか。」
口に出してから、何の映画なのか気になったが、まあどうでもいい。
「まあ。」
「あなたみたいな人と行けるのなら本望やし。」
女の、大きく見開かれた目が、真一を捉えた。
「よろしいんですか。」
「はい、もちろん。」
こういう展開になるとは思ってもみなかった。
カップを片付け、
「さあ。」
女をうながしたとき、ふと香って来た香水。
カボテイーヌ。
なぜその名前を知っているかというと、かつて妻が愛用していたからである。まだ二人してベッドに倒れ込むのが日課であった頃・・・。
「・・・どうしたんですか?。」
「いや、なんでもない、行きましょう。」
真一は軽く頭を振るようにして、映画館へ続くエレベーターを目指す。
KEIがやって来て、わたしに謝罪している。
「仲間に連れて行かれて」結果、フーゾクを「初体験」してしまったことを謝っているのだ。
「ゴメン。もう、絶対、行かない。好きなのはきみだけだし、きみの方がずっとイイ。きみしかいない、って、改めて思う。」
きみの方がずっとイイ。イイ、というのは何のことだ?。
ナニのこと、ってわけ。そんなん、プロの方が上手に決まってるじゃん。
「ゴメン。ほんと、この通り。」
なーんて言って、土下座までしちゃったよ。
部屋にはエアコンが無く、扇風機がのんびり回っている。大きな男が丸くなったから、さっきまで遮られていた生ぬるい風が、わたしの頬を静かに撫ではじめる。
「涼しい・・・。」
「えっ。」
「さっきまであなたのかげになってて、風、来なかったんだよね。」
「あっ、えっ、ごめん、気が利かなくて、スンマセン。」
がたがたと不器用に扇風機の位置をずらす。
「・・・って言うか、あなたがそこをどいたらいいんだよね。」
「あ。」
「・・・出てってよ。」
「えっ・・・。」
わたしは、絶句する恋人を冷めた目で見ている。
頭の中に浮かんだのは、将来子供をもつとしたら、絶対女の子がいいな、ということだ。
男の子はつまんないな。
自分が一生懸命に育てた愛する息子が、こんなふうにカンタンに女相手に土下座して、しかも、つまり、これからもヤらせてくれ、と懇願して・・・KEIのお母さん、これ見たら泣いちゃうよ、きっと。
最も、KEIの腕力をもってすれば、今わたしの部屋でふたりきり、という状態なんだからむりやりどうにでもできちゃうわけでは、ある。
オトコとオンナ、こういう場合、強いのはどっちだ。
「・・・ゆるしてくれよ。どうしたらいい?。」
「別に、フーゾクへ行ったことを怒ってるんじゃないよ。」
「じゃあ、なんでオレがキスしようとしたら逃げるんだよ。」
「・・・なんか、不潔、って感じかな。」
「別にそんなにヤバイ店には行かなかったよ。」
「そういうことじゃないの。つまり、うん、そういうヤラシイことしかアタマに無いのか、ってことが、不潔なの。」
「だって、仕方ないじゃん。」
高校時代のボーイフレンドに、
「抱いて。」
って言ったら、
「どっちの意味?。」
って、鼻息荒く聞かれたっけ。単に、ぎゅっ、て抱きしめて欲しかっただけなんだけど。
この年頃のオトコの、ヤリタイ願望ってのは、食欲って感じだね。とにかく入れたい、イキたい、早く早く。
こんなにものすごい爆弾を抱えて、よくもまあ、勉強したり、運動したりまじめにできるもんだなあ、とは思う。ややソンケー。女にはできないだろうな。
なーんて考えてたら、なし崩し的におおいかぶさられてしまった。
暴れてみようかな。
でも、余計に強い力でおさえこまれるだけだった。
「・・・すきだよ。」
それは、ヤリタイよ、と同義語ではないだろう か。という風にしか聞こえないよ、今日は。
でも、まあいいか、暑いからめんどくさいし。
それに、たぶんわたしは、スキなんだ。
KEIの、ことが・・・カラダが、ね。
仰向けになって服を脱がされながら、何気なく窓の外を見ると、ヒラヒラとアゲハ蝶が舞っている。一匹だけのように見えたけれど、よく見ると二匹、もつれあうように、じゃれあうように高く高く舞いあがりながら、空へ向かっていく。
高く、高く、か。
KEIの指がパンテイにかかり、隙間から入ってくる。しばらく弄んでいるのは、わたしを気持ちよくさせようということらしい。
で、そっと口が近付いてきた。
舌が、入って来た。目を閉じる。・・・あの、しびれだ、来た、来た来た・・・。
楽園の地図ひるがえりアゲハ蝶
・・・これ、かな。イクっていうのは。
恥ずかしくて、くすぐったくて、あふれそうで。
たかく、たかく、もっとたかく。
「・・・もっと・・・。」
こうなったら、楽園をさがしに行ってみよう。
わたしの中の、眠れる楽園。
オトコにとことん付き合わせるのも、今日ならゆるされるだろう。
「もう、入っていい?。」
オトコの懇願が、また聞こえるけれど、
「だめ。」
冷たく言ったつもりが、あえいでしまう。
あのアゲハたちは、愛し合いながら空のどの辺りまでのぼりつめただろう?。
「仲間に連れて行かれて」結果、フーゾクを「初体験」してしまったことを謝っているのだ。
「ゴメン。もう、絶対、行かない。好きなのはきみだけだし、きみの方がずっとイイ。きみしかいない、って、改めて思う。」
きみの方がずっとイイ。イイ、というのは何のことだ?。
ナニのこと、ってわけ。そんなん、プロの方が上手に決まってるじゃん。
「ゴメン。ほんと、この通り。」
なーんて言って、土下座までしちゃったよ。
部屋にはエアコンが無く、扇風機がのんびり回っている。大きな男が丸くなったから、さっきまで遮られていた生ぬるい風が、わたしの頬を静かに撫ではじめる。
「涼しい・・・。」
「えっ。」
「さっきまであなたのかげになってて、風、来なかったんだよね。」
「あっ、えっ、ごめん、気が利かなくて、スンマセン。」
がたがたと不器用に扇風機の位置をずらす。
「・・・って言うか、あなたがそこをどいたらいいんだよね。」
「あ。」
「・・・出てってよ。」
「えっ・・・。」
わたしは、絶句する恋人を冷めた目で見ている。
頭の中に浮かんだのは、将来子供をもつとしたら、絶対女の子がいいな、ということだ。
男の子はつまんないな。
自分が一生懸命に育てた愛する息子が、こんなふうにカンタンに女相手に土下座して、しかも、つまり、これからもヤらせてくれ、と懇願して・・・KEIのお母さん、これ見たら泣いちゃうよ、きっと。
最も、KEIの腕力をもってすれば、今わたしの部屋でふたりきり、という状態なんだからむりやりどうにでもできちゃうわけでは、ある。
オトコとオンナ、こういう場合、強いのはどっちだ。
「・・・ゆるしてくれよ。どうしたらいい?。」
「別に、フーゾクへ行ったことを怒ってるんじゃないよ。」
「じゃあ、なんでオレがキスしようとしたら逃げるんだよ。」
「・・・なんか、不潔、って感じかな。」
「別にそんなにヤバイ店には行かなかったよ。」
「そういうことじゃないの。つまり、うん、そういうヤラシイことしかアタマに無いのか、ってことが、不潔なの。」
「だって、仕方ないじゃん。」
高校時代のボーイフレンドに、
「抱いて。」
って言ったら、
「どっちの意味?。」
って、鼻息荒く聞かれたっけ。単に、ぎゅっ、て抱きしめて欲しかっただけなんだけど。
この年頃のオトコの、ヤリタイ願望ってのは、食欲って感じだね。とにかく入れたい、イキたい、早く早く。
こんなにものすごい爆弾を抱えて、よくもまあ、勉強したり、運動したりまじめにできるもんだなあ、とは思う。ややソンケー。女にはできないだろうな。
なーんて考えてたら、なし崩し的におおいかぶさられてしまった。
暴れてみようかな。
でも、余計に強い力でおさえこまれるだけだった。
「・・・すきだよ。」
それは、ヤリタイよ、と同義語ではないだろう か。という風にしか聞こえないよ、今日は。
でも、まあいいか、暑いからめんどくさいし。
それに、たぶんわたしは、スキなんだ。
KEIの、ことが・・・カラダが、ね。
仰向けになって服を脱がされながら、何気なく窓の外を見ると、ヒラヒラとアゲハ蝶が舞っている。一匹だけのように見えたけれど、よく見ると二匹、もつれあうように、じゃれあうように高く高く舞いあがりながら、空へ向かっていく。
高く、高く、か。
KEIの指がパンテイにかかり、隙間から入ってくる。しばらく弄んでいるのは、わたしを気持ちよくさせようということらしい。
で、そっと口が近付いてきた。
舌が、入って来た。目を閉じる。・・・あの、しびれだ、来た、来た来た・・・。
楽園の地図ひるがえりアゲハ蝶
・・・これ、かな。イクっていうのは。
恥ずかしくて、くすぐったくて、あふれそうで。
たかく、たかく、もっとたかく。
「・・・もっと・・・。」
こうなったら、楽園をさがしに行ってみよう。
わたしの中の、眠れる楽園。
オトコにとことん付き合わせるのも、今日ならゆるされるだろう。
「もう、入っていい?。」
オトコの懇願が、また聞こえるけれど、
「だめ。」
冷たく言ったつもりが、あえいでしまう。
あのアゲハたちは、愛し合いながら空のどの辺りまでのぼりつめただろう?。
眠れない。
扇風機が、なまぬるい風をかきまわしている夏の部屋。何度も寝返りを打ち、ついに眠るのをあきらめてベッドに座り、膝を抱いた。
狭い部屋の片隅で、蜂の羽音のような音を立てている小さな冷蔵庫が目に入る。
お水、取ってこようかな。
とてものどが渇いている。
ううん、のどだけじゃない、なんというか、身体中が、渇いているんだ。
潤いたい。
恋人が、仲間と連れ立って「フーゾク」へ行ったということを、今日の午後カフエテリアで聞いた。
同じ大学の、同じサークルに所属しているのだから、そういうことは隠し切れない。「仲間」の中にはわたしたちの関係を知っているものがほとんどなのに、そういうことはあっさり伝わってくる。
いや、知っているから、か。
だから余計にこっちの反応が見たいのかもしれない。KEIは自分たちのことをそう仲間にぺラペラしゃべるとは思えないけれど、もしかしたらしゃべっているのかもしれない、わたしたちのこと・・・つまり、最近「エッチをする仲になった」ということを。
はたちにもなっているからには、別にそういうことがあっても不思議じゃない、だから別に何を言われてもいいのだけれど、やっぱり「フーゾク」に、今この時期に行かれるのは、つらい。
いたい、すんごく。
だって・・・。
KEIは、はじめてのオトコでは無い。
でも、高校時代にそうなった初めてのときにはひたすら痛いだけだったあのことが、なんか最近、なんというか、とても「よく」なってきたの。
KEIが上手なのか、わたしが「成熟」したのか、そこまでは経験が少なすぎて分からない、でも、なんというか、最近はあのときのことを考えただけで、ココロもカラダもじわあっ、と来ちゃうんだなあ、うん。
いわゆる「発情」というやつなのかも。
この前、ついに、小さくはあったけれど、声が出ちゃった。なんか、自然に。たまらなく背中にビビっ、ってなんか走ったのよね。
止めて、って言いながら、あ、でも止めたらやだ、っていうあれ。
で、止めて、止めないで、のリフレインがしばらく続いて・・・あっ、てなんか走り抜けたの。
KEIはすかさず、
「イッたのか?。」
って聞いて来た。でも、それは分からなかった。
「イッた」っていうのがどんな感じなのかは、ね。
だって、声が出ちゃうほどに感じながら、まだわたしの中には快感の源流みたいなものがたっぷり残っているみたいだったし、それをいわゆる「イク」で片付けてしまうなんて、ちょっと違うなあって。
男の人みたいに、「イッた」ら終わりじゃないんだもの。
KEIにしてみたら、やっぱりわたしが満足して、
「スゴクよかった、イッちゃったかも。」
って言葉が聞きたかったんだろうな、少し納得がいかないみたいな顔をしていたわ。
でも、ともかく、これからわたしたちは、どんどんふたりだけの「快楽ランド」を開拓していくんだろうなあ、っていう期待はあったし、そういう関係をすきなひとと持てて、とってもハッピーな気分だったのに。
なのに、フーゾク、だって。
冷蔵庫からエブイアンを取り出して、ペットごと口に付ける。
何も、フーゾクに行っちゃいや、ってわけではないのよ 。
いいえ、やっぱりこんなふうにあれこれ悩むのはいや、なのかな。
このもやもやした気持ちは・・・。
一瞬でもわたし以外のオンナの肌に愛着を感じた恋人への怒り、か。
オトコは、フーゾクのオンナの子なんかに愛情を感じちゃいないって言うかも。でも、それってやっぱり違うと思う。やっぱり少しでも好き、っていう気持ちが無ければ、ああいうことはできないと思うんだよね。
愛情、までいかなくとも・・・って少し弱気だけれど・・・魅力、は感じたんだよね。
わたしとのことが、もうこれから最高地帯突入っ、てなときに。
こういう場合、次のエッチに影響はないんだろうか。
わたしは、変に冷めてしまうみたいな気がするんだけど。だって、もうあれを舐めたりできそうにない。これを、誰か他の子も舐めたのかあ、なんて考えちゃうと。
逆に、
「わたしが忘れさせちゃううっ。」
なんて燃えるのかな、まさか。それは、ないない。
KEIのことは、好き、それは全然きのうと同じだ。
それに、こういうことを考えつつ、わたしのカラダは欲しいな、って気分を盛り上げつつある。つらいよおお。
熱帯夜りっしんべんにうなされる
「情」「怯」「慎」そして、「性」。
KEI、会いたいよお。
会いたくないよお。
この矛盾は、あの、止めて、止めないで、の螺旋に似ているみたい。ぐるぐるわたしの中を走って、
・・・どうにも、眠れない。
扇風機が、なまぬるい風をかきまわしている夏の部屋。何度も寝返りを打ち、ついに眠るのをあきらめてベッドに座り、膝を抱いた。
狭い部屋の片隅で、蜂の羽音のような音を立てている小さな冷蔵庫が目に入る。
お水、取ってこようかな。
とてものどが渇いている。
ううん、のどだけじゃない、なんというか、身体中が、渇いているんだ。
潤いたい。
恋人が、仲間と連れ立って「フーゾク」へ行ったということを、今日の午後カフエテリアで聞いた。
同じ大学の、同じサークルに所属しているのだから、そういうことは隠し切れない。「仲間」の中にはわたしたちの関係を知っているものがほとんどなのに、そういうことはあっさり伝わってくる。
いや、知っているから、か。
だから余計にこっちの反応が見たいのかもしれない。KEIは自分たちのことをそう仲間にぺラペラしゃべるとは思えないけれど、もしかしたらしゃべっているのかもしれない、わたしたちのこと・・・つまり、最近「エッチをする仲になった」ということを。
はたちにもなっているからには、別にそういうことがあっても不思議じゃない、だから別に何を言われてもいいのだけれど、やっぱり「フーゾク」に、今この時期に行かれるのは、つらい。
いたい、すんごく。
だって・・・。
KEIは、はじめてのオトコでは無い。
でも、高校時代にそうなった初めてのときにはひたすら痛いだけだったあのことが、なんか最近、なんというか、とても「よく」なってきたの。
KEIが上手なのか、わたしが「成熟」したのか、そこまでは経験が少なすぎて分からない、でも、なんというか、最近はあのときのことを考えただけで、ココロもカラダもじわあっ、と来ちゃうんだなあ、うん。
いわゆる「発情」というやつなのかも。
この前、ついに、小さくはあったけれど、声が出ちゃった。なんか、自然に。たまらなく背中にビビっ、ってなんか走ったのよね。
止めて、って言いながら、あ、でも止めたらやだ、っていうあれ。
で、止めて、止めないで、のリフレインがしばらく続いて・・・あっ、てなんか走り抜けたの。
KEIはすかさず、
「イッたのか?。」
って聞いて来た。でも、それは分からなかった。
「イッた」っていうのがどんな感じなのかは、ね。
だって、声が出ちゃうほどに感じながら、まだわたしの中には快感の源流みたいなものがたっぷり残っているみたいだったし、それをいわゆる「イク」で片付けてしまうなんて、ちょっと違うなあって。
男の人みたいに、「イッた」ら終わりじゃないんだもの。
KEIにしてみたら、やっぱりわたしが満足して、
「スゴクよかった、イッちゃったかも。」
って言葉が聞きたかったんだろうな、少し納得がいかないみたいな顔をしていたわ。
でも、ともかく、これからわたしたちは、どんどんふたりだけの「快楽ランド」を開拓していくんだろうなあ、っていう期待はあったし、そういう関係をすきなひとと持てて、とってもハッピーな気分だったのに。
なのに、フーゾク、だって。
冷蔵庫からエブイアンを取り出して、ペットごと口に付ける。
何も、フーゾクに行っちゃいや、ってわけではないのよ 。
いいえ、やっぱりこんなふうにあれこれ悩むのはいや、なのかな。
このもやもやした気持ちは・・・。
一瞬でもわたし以外のオンナの肌に愛着を感じた恋人への怒り、か。
オトコは、フーゾクのオンナの子なんかに愛情を感じちゃいないって言うかも。でも、それってやっぱり違うと思う。やっぱり少しでも好き、っていう気持ちが無ければ、ああいうことはできないと思うんだよね。
愛情、までいかなくとも・・・って少し弱気だけれど・・・魅力、は感じたんだよね。
わたしとのことが、もうこれから最高地帯突入っ、てなときに。
こういう場合、次のエッチに影響はないんだろうか。
わたしは、変に冷めてしまうみたいな気がするんだけど。だって、もうあれを舐めたりできそうにない。これを、誰か他の子も舐めたのかあ、なんて考えちゃうと。
逆に、
「わたしが忘れさせちゃううっ。」
なんて燃えるのかな、まさか。それは、ないない。
KEIのことは、好き、それは全然きのうと同じだ。
それに、こういうことを考えつつ、わたしのカラダは欲しいな、って気分を盛り上げつつある。つらいよおお。
熱帯夜りっしんべんにうなされる
「情」「怯」「慎」そして、「性」。
KEI、会いたいよお。
会いたくないよお。
この矛盾は、あの、止めて、止めないで、の螺旋に似ているみたい。ぐるぐるわたしの中を走って、
・・・どうにも、眠れない。
台風が近付いたときには、ご飯をいつもよりも多目に炊きなさい、と、母は言っていた。
「万が一、停電しても、どこかへ逃げるようなことになっても、ご飯さえあれば、おにぎり作って子供に食べさせられるでしょう。」
だから、今夜のご飯は多い。
ジャーの中に、しゃもじを入れて思い切り力を加えて混ぜる。食べ盛りの息子がいるので、たっぷりいっぱいに炊かれた米から、景気よく湯気が舞い上がる。
今夜から明日朝にかけて、瀬戸内海を縦断するかもしれません。
テレビの東京からの天気予報が告げている。
「植木、入れといたから。」
さっきからベランダにいた夫が、キッチンをのぞきこみ、おかずをチェックする。
「ありがとう。」
「和辻くんは今日、クルーズに出るんじゃ無かったのか。」
「ええ、そうよ。」
平静を装いながら彼女は返答する。
「三時頃、西宮を出るって言ってたけれど。」
「そうか。」
「大丈夫かな。」
そうなのだ。
実は気が気ではないのだ、さっきから。
息子、タクミの家庭教師をしている大学生の和辻は、ヨット部のクルーズで、予定ではさっきハーバーを出たことになっている。
「大丈夫だよ。」
彼女に変わって、タクミが答える。
「悪天候のときには、即中止するって言ってたよ、先生。」
「そうよ、もう今頃は取りやめて家に帰っているわ、きっと。」
そうであって欲しい。
いや、絶対にそうだ。
今日は午後から雨こそ降らなかったものの、風はものすごく強く、海沿いに住む者として強風に慣れているはずの彼女にも、異常なものを感じさせた。
海も、まだそれほど荒れてはいなかったが、いつもならば薄い水色に柔らかな波とうをレースのように従えている海面が、一面灰色がかった濃紺に染まっていて、波はところどころ、からまったレース糸のように渦を巻いて盛り上がっていた。
「まあ、取りやめたんやろうけどな。」
夫が手を洗って冷蔵庫を開ける。
「無謀なところがあったからな、あの子には。」
彼女はその言葉につまずく。
・・・あった、なんて、過去形で言わないでよ。
無謀なところが、ある、でしょう。
でも口には出さない。
金切り声になりそうで。
不安だ。
若さは無謀だ。
いくらなんでも、大学生なのだ。地元の海だし、そう無理をするはずがない。
そうは思っても、力強さを増してサッシ窓を叩き始めた風が、不安を煽り立てる。
ついこの前も台風はやって来た。直撃されることは無かったが、こうして夜が更けていくのに合わせるように、風は強まり、雨は屋根の無いマンションにも関わらず大きな音を立てて降り落ちて来た。
でも、今夜ほどの不安は感じなかった。
彼が、海に出るなんて言ってたから。
どこか、安全な場所にいるのに違いないのだ。
でも、どうしても無事を知るまでは眠れない。
何度も寝返りを打つ彼女に夫は、
「大丈夫、この位の台風でどうにかなるようなマンションやないで。」
と、そんなことを言い、
「それとも、お前、まだ和辻くんのこの気になるんかいな。」
と続けてくる。胸がドキン、と打つのが分かる。
「・・・そんなんやったら、タクミは絶対ヨットやら登山やらはさせられへんな。」
「そうね。」
そういうこと、にしておこう。
息子を気遣うように、和辻を気遣っている。
そういう、ことに。
夫の大あくびが聞こえて、なぜだか泣きたくなる。
そして、三日後。
和辻は、いつもどうりにやって来た。
「ええ、もう、朝から中止が決まっちゃいました。仕方ないですよ。そういうものだから。」
「そうね、またこれからも機会はいっぱいあるんだから。夏休みは長いし。」
「ええ、そうです、またチャレンジです。」
日に焼けた顔が大きく笑った。そして、
「おおい、タクミ、お前もチャレンジやぞ。勝負の夏休みなんやから。」
冗談めかして大きな声を出し、息子の部屋に消える。
猫じゃらしおいで、おいでの夏休み
なぜか、うっすら湧き出た涙を、エプロンのすそでやわらかくぬぐった。
「万が一、停電しても、どこかへ逃げるようなことになっても、ご飯さえあれば、おにぎり作って子供に食べさせられるでしょう。」
だから、今夜のご飯は多い。
ジャーの中に、しゃもじを入れて思い切り力を加えて混ぜる。食べ盛りの息子がいるので、たっぷりいっぱいに炊かれた米から、景気よく湯気が舞い上がる。
今夜から明日朝にかけて、瀬戸内海を縦断するかもしれません。
テレビの東京からの天気予報が告げている。
「植木、入れといたから。」
さっきからベランダにいた夫が、キッチンをのぞきこみ、おかずをチェックする。
「ありがとう。」
「和辻くんは今日、クルーズに出るんじゃ無かったのか。」
「ええ、そうよ。」
平静を装いながら彼女は返答する。
「三時頃、西宮を出るって言ってたけれど。」
「そうか。」
「大丈夫かな。」
そうなのだ。
実は気が気ではないのだ、さっきから。
息子、タクミの家庭教師をしている大学生の和辻は、ヨット部のクルーズで、予定ではさっきハーバーを出たことになっている。
「大丈夫だよ。」
彼女に変わって、タクミが答える。
「悪天候のときには、即中止するって言ってたよ、先生。」
「そうよ、もう今頃は取りやめて家に帰っているわ、きっと。」
そうであって欲しい。
いや、絶対にそうだ。
今日は午後から雨こそ降らなかったものの、風はものすごく強く、海沿いに住む者として強風に慣れているはずの彼女にも、異常なものを感じさせた。
海も、まだそれほど荒れてはいなかったが、いつもならば薄い水色に柔らかな波とうをレースのように従えている海面が、一面灰色がかった濃紺に染まっていて、波はところどころ、からまったレース糸のように渦を巻いて盛り上がっていた。
「まあ、取りやめたんやろうけどな。」
夫が手を洗って冷蔵庫を開ける。
「無謀なところがあったからな、あの子には。」
彼女はその言葉につまずく。
・・・あった、なんて、過去形で言わないでよ。
無謀なところが、ある、でしょう。
でも口には出さない。
金切り声になりそうで。
不安だ。
若さは無謀だ。
いくらなんでも、大学生なのだ。地元の海だし、そう無理をするはずがない。
そうは思っても、力強さを増してサッシ窓を叩き始めた風が、不安を煽り立てる。
ついこの前も台風はやって来た。直撃されることは無かったが、こうして夜が更けていくのに合わせるように、風は強まり、雨は屋根の無いマンションにも関わらず大きな音を立てて降り落ちて来た。
でも、今夜ほどの不安は感じなかった。
彼が、海に出るなんて言ってたから。
どこか、安全な場所にいるのに違いないのだ。
でも、どうしても無事を知るまでは眠れない。
何度も寝返りを打つ彼女に夫は、
「大丈夫、この位の台風でどうにかなるようなマンションやないで。」
と、そんなことを言い、
「それとも、お前、まだ和辻くんのこの気になるんかいな。」
と続けてくる。胸がドキン、と打つのが分かる。
「・・・そんなんやったら、タクミは絶対ヨットやら登山やらはさせられへんな。」
「そうね。」
そういうこと、にしておこう。
息子を気遣うように、和辻を気遣っている。
そういう、ことに。
夫の大あくびが聞こえて、なぜだか泣きたくなる。
そして、三日後。
和辻は、いつもどうりにやって来た。
「ええ、もう、朝から中止が決まっちゃいました。仕方ないですよ。そういうものだから。」
「そうね、またこれからも機会はいっぱいあるんだから。夏休みは長いし。」
「ええ、そうです、またチャレンジです。」
日に焼けた顔が大きく笑った。そして、
「おおい、タクミ、お前もチャレンジやぞ。勝負の夏休みなんやから。」
冗談めかして大きな声を出し、息子の部屋に消える。
猫じゃらしおいで、おいでの夏休み
なぜか、うっすら湧き出た涙を、エプロンのすそでやわらかくぬぐった。
帆影には夏のかけらが金色に
十三階の窓からは瀬戸内の海が見える。
台風一過。
夏が、来た。
中二の息子は部活動の練習に行っていて不在である。彼女は一人で海を眺めながら洗濯物を干している。
空は照り付ける太陽のせいで直視できないほど光り、海は日差しのかけらをいっぱいに浮かべて穏やかに凪いでいる。
ヨットが一艘、沖に浮かんでいる。
「うちの子もいつか、先生みたいに海をめざすのかしらね。」
この前何気なく言ったとき、「先生」と呼ばれている彼は少し笑って、
「タクミはヨットよりも陸でしょう。だって、今も長距離の選手なんだから。」
と、息子の肩を軽く押すようにしていた。
「な、たくみ。」
「うん。」
国立大二回生の彼が家庭教師に来てくれるようになって半年が経つ。
おとなしくて、スポーツ好きな割に余り負けず嫌いでは無い息子には、大勢で競い合いながら伸びていく塾よりも、自宅でじっくりと自分のペースで学ぶことのできる家庭教師の方が向いていたようで、成績は眼にみえて良くなってきている。
息子も、週に二回、「先生」が来るのを楽しみにしている。人見知りのきつい子がなついてくれて、本当に良かった。
「先生」が来てくれるようになって、本当に良かった。母親らしく、そういう月並みな言葉をつかってみる・・・。
彼は、大学ではヨット部に入っているという。
「ここから見ると、沖に浮かぶヨットは優雅で、穏やかに見えるでしょう。」
今、洗濯物を干しているベランダで、彼は海を見つめたまま話していた。
「でも、実際に乗ると、ものすごくハードなんですよ。ぼおっとしていることなんて全然なくて。」
「疲れない?。」
「うーん。結構、からだも頭も程よく疲労して、よく眠れますよ、乗った夜には。」
「そう。」
「今度、初めて大掛かりなクルーズに出るんです。大掛かり、って言っても瀬戸内一周、って感じなんですけどね。」
「天気がいいといいわね。」
「そうなんです、心配は、それだけ。」
日に焼けた顔は充実した笑顔で、彼女は眩しさに目を逸らす。
あなたは、何でも持っているのね。
若さ、体力、時間。
わたしが、無くしてしまったものたち。
無くしたことに、ふだんは気が付かないけれど、あなたといると、思い知らされるわ。
夢、希望、情熱。
伸び盛りのタクミが春の若葉だとすれば、あなたは夏の若木ね。自分の青さを持て余し、だけど枯れる前に何かを為そうと意気込んでもいる。
わたしは・・・。
わたしは、そんなあなたが眩しくて、とても苦いわ。
あなたを想うと、苦しい。
恋、というのではないだろう。
相手は息子の家庭教師なのだ。
いくら何でもそういうのとは、違う。
彼のことを考えた時に心を過ぎる息苦しさは、多分、いつのまにか無くしてしまったものたちへの郷愁、みたいなものね、きっと。
彼が、沖へ乗り出していくのは明日。
今度家へ来る時には、また一回り大人の男の力をみなぎらせて現れるのだろう。
暑さのせいか、向こう岸の工場地帯がゆらゆらともやって見える。
こちらの埠頭を目指して近付くタンカーの影に、小さなヨットは隠れてしまった。
軽いため息をついて、部屋に入る。
十三階の窓からは瀬戸内の海が見える。
台風一過。
夏が、来た。
中二の息子は部活動の練習に行っていて不在である。彼女は一人で海を眺めながら洗濯物を干している。
空は照り付ける太陽のせいで直視できないほど光り、海は日差しのかけらをいっぱいに浮かべて穏やかに凪いでいる。
ヨットが一艘、沖に浮かんでいる。
「うちの子もいつか、先生みたいに海をめざすのかしらね。」
この前何気なく言ったとき、「先生」と呼ばれている彼は少し笑って、
「タクミはヨットよりも陸でしょう。だって、今も長距離の選手なんだから。」
と、息子の肩を軽く押すようにしていた。
「な、たくみ。」
「うん。」
国立大二回生の彼が家庭教師に来てくれるようになって半年が経つ。
おとなしくて、スポーツ好きな割に余り負けず嫌いでは無い息子には、大勢で競い合いながら伸びていく塾よりも、自宅でじっくりと自分のペースで学ぶことのできる家庭教師の方が向いていたようで、成績は眼にみえて良くなってきている。
息子も、週に二回、「先生」が来るのを楽しみにしている。人見知りのきつい子がなついてくれて、本当に良かった。
「先生」が来てくれるようになって、本当に良かった。母親らしく、そういう月並みな言葉をつかってみる・・・。
彼は、大学ではヨット部に入っているという。
「ここから見ると、沖に浮かぶヨットは優雅で、穏やかに見えるでしょう。」
今、洗濯物を干しているベランダで、彼は海を見つめたまま話していた。
「でも、実際に乗ると、ものすごくハードなんですよ。ぼおっとしていることなんて全然なくて。」
「疲れない?。」
「うーん。結構、からだも頭も程よく疲労して、よく眠れますよ、乗った夜には。」
「そう。」
「今度、初めて大掛かりなクルーズに出るんです。大掛かり、って言っても瀬戸内一周、って感じなんですけどね。」
「天気がいいといいわね。」
「そうなんです、心配は、それだけ。」
日に焼けた顔は充実した笑顔で、彼女は眩しさに目を逸らす。
あなたは、何でも持っているのね。
若さ、体力、時間。
わたしが、無くしてしまったものたち。
無くしたことに、ふだんは気が付かないけれど、あなたといると、思い知らされるわ。
夢、希望、情熱。
伸び盛りのタクミが春の若葉だとすれば、あなたは夏の若木ね。自分の青さを持て余し、だけど枯れる前に何かを為そうと意気込んでもいる。
わたしは・・・。
わたしは、そんなあなたが眩しくて、とても苦いわ。
あなたを想うと、苦しい。
恋、というのではないだろう。
相手は息子の家庭教師なのだ。
いくら何でもそういうのとは、違う。
彼のことを考えた時に心を過ぎる息苦しさは、多分、いつのまにか無くしてしまったものたちへの郷愁、みたいなものね、きっと。
彼が、沖へ乗り出していくのは明日。
今度家へ来る時には、また一回り大人の男の力をみなぎらせて現れるのだろう。
暑さのせいか、向こう岸の工場地帯がゆらゆらともやって見える。
こちらの埠頭を目指して近付くタンカーの影に、小さなヨットは隠れてしまった。
軽いため息をついて、部屋に入る。
手ひどい失恋をした。
しばらく恋なんかしたくない、と切実に思った。
もう恋なんかしたくない、と言い切れないところが二十五の夏である。何もかもあきらめてお見合いでもしようか、というほど「枯れて」はいない。
しばらく、である。
とりあえず今年の夏はひとりで過ごそうと思っていた。
なのに。
「社内報、見たんだけど一度ご飯食べに行きませんか。」
というのが、初めての誘いだった。
たまたま支店のみんなと一緒に写った社内報のわたしの写真を見て、「なんか、気にいっちゃって」というのである。
「それはどうもありがとうございます。」
答えながら、あああれを写したときにはまだ前の彼氏とラブラブだったから、肌のつやとか目の輝きとかが全然良かったんだよね、と思った。
でも、今はずいぶんとやつれてしまったんだよ。
口には出さなかったが、そう思った。
結局、最初の食事は双方共に後輩を連れての焼き鳥、となった。
「やあ、はじめまして。」
待ち合せの焼き鳥屋の前で、後輩と立っているとえらく愛想のいい声が頭の上から降って来て、それが彼だった。
百八十三センチ。
わたしとの身長差三十センチ。
最初から、嫌な感じ。
高身長が嫌いなんじゃない。
・・・前の彼氏と、ぴったり同じサイズだったから。
顔つきも、なんか似ていた。
奥二重の釣り上り気味の瞳、鷲鼻、薄い唇。
顔立ちが似ているということは、声もまた似ているんだなあ。
こっちの方がやせているなあ、なんて思いかけて、ああ、やだやだ、と思う。比べてどうする、あの人と。
あんな男はもう現れるはずが無かった。
生まれて初めて、あんなに好きになったのに、その彼をある日突然失って、毎日泣き暮らしているのだ。別の男のことなんか考えられない。
でも、話し方、それから、
「あ、オレさあ、砂肝、すきなんだよね。」
焼き鳥の好みも、
「中、高ってバレーボールやっててさ。」
高身長のわけまでも、あの彼と同じだ。
ただ。
「オレ、全くの下戸なんだ。」
それだけが、大きく違っていた。
「わたしも、全然呑めないんですよ。」
前の彼と違うところを発見してホッとすると、
「そうですか。よし、いいことを聞いた。今度はもっとうまいもん食いに行こう、呑めないの者同士で。」
と、来た。
「お酒が呑めない、っていう人は、呑める人よりもうまいもん食わなくちゃ。一生を損しちゃうからね。」
アルコールの美味さを知らないという不公平を無くすには、できるだけおいしいものを探して味わうことに尽きる、とその人は言った。
なるほど、と、呑み会の度にワリカン負けしているような気がしているわたしはうなずいてしまい、結局その後も何回か食事に付き合うことになってしまった。
高速道路の真下に掘っ建て小屋のような店を構えていた焼き肉屋の石焼きビピンバ、駅裏のガード下の中華料理屋の水餃子、ネタがシャリの倍以上の大きさの、海沿いのすし屋のお鮨。どれも本当においしかった。
でも。
やっぱり、食事の後にどうこう、ということになるとしり込みしてしまう。
てっとり早く言えば、「男と女のこと」になると、とても踏み切れないわたしなのだった。
「いや、別に急ぎません。オレはあなたのこと、まあハッキリ言ってひとめぼれしたようなもんだけど、そういうことは、いいんです。」
余りにもさわやかに言われてしまうと、余計に申し訳無く思えてくるのだった。
前の彼は、そういうことが本当にすきだったからなあ。
男の上に乗って最後までしてしまう、なんてことは前の彼氏にさせられるまで思いも付かなかった。
「身長が違うんだから、こういう方がイイだろ。」
あの、甘い声。ほら、もっと腰を使って、そう、そう、いい感じだ・・・。
なんてことを思い出しながら、そのそっくりの声を持つ男に、
「そういうことは、いいんです。」
などと言わせているのだ。
ああ、なんか、ごめんなさい。
「・・・じゃあ、まあ、アイスでも食べて帰りましょう、すっきりと。」
そして、目についたハーゲンダッツに入り、
「オレはクッキークランチ。」
と、またあの男の好きなテイストを、選ぶ。
この人のこと、決して嫌じゃない。
むしろ、好きなタイプなのだ。
出会う順序が悪かったんだ、彼よりも先に会っていれば、無邪気に恋していたかもしれないのに。
そうだ。
もしかして、一線を超えてしまえばいいのかもしれない。
男につけられた傷は、男で癒す。
そういう方法もあるに違いない。
わたしは、自分の心を覗き込み、でも、やっぱりあの人を忘れられない、と思い・・・。
だから彼が食事のあとのドライブで急ハンドルを切って国道脇のホテルに入ったときには混乱した。
これは、拒まなければ。
でも、いってしまっちゃえば。
あれこれ取り乱しているうちに部屋に入ってしまった。
だ、け、ど。
わたしの心配は取り越し苦労、だったのだ。
思いも寄らない結果が待っていたのだ。
彼が、エレクトしなかった。というか。
彼の名誉の為に言っておけば、そういうことができる状態にはなったのだけれど、わたしの中に行き着かなかった、ということに、なるのかな。
・・・こういう場合、どうすれば男は傷つかないのだろう。
わたしは笑ってしまったから、ダメかな、こういうの。
でも、安心したから笑ったの、だから分かってもらえたかな。
まだ夜も早いうちだったから、わたしたちはまたアイスクリームを食べに行った。
恋になるアイスクリーム日よりなり
この夏、この人とならそばにいられるかも。
クッキークランチ。同じアイスを選んでわたしは思う。この人は、あの彼じゃない。でも、それでいい。それが、いいんだもの。
「あのね、あなたのこと、好きよわたし。」
一気に言ってしまうと、上唇のバニラを舐めたあとで、ありがとう、と答えが返ってきた。
しばらく恋なんかしたくない、と切実に思った。
もう恋なんかしたくない、と言い切れないところが二十五の夏である。何もかもあきらめてお見合いでもしようか、というほど「枯れて」はいない。
しばらく、である。
とりあえず今年の夏はひとりで過ごそうと思っていた。
なのに。
「社内報、見たんだけど一度ご飯食べに行きませんか。」
というのが、初めての誘いだった。
たまたま支店のみんなと一緒に写った社内報のわたしの写真を見て、「なんか、気にいっちゃって」というのである。
「それはどうもありがとうございます。」
答えながら、あああれを写したときにはまだ前の彼氏とラブラブだったから、肌のつやとか目の輝きとかが全然良かったんだよね、と思った。
でも、今はずいぶんとやつれてしまったんだよ。
口には出さなかったが、そう思った。
結局、最初の食事は双方共に後輩を連れての焼き鳥、となった。
「やあ、はじめまして。」
待ち合せの焼き鳥屋の前で、後輩と立っているとえらく愛想のいい声が頭の上から降って来て、それが彼だった。
百八十三センチ。
わたしとの身長差三十センチ。
最初から、嫌な感じ。
高身長が嫌いなんじゃない。
・・・前の彼氏と、ぴったり同じサイズだったから。
顔つきも、なんか似ていた。
奥二重の釣り上り気味の瞳、鷲鼻、薄い唇。
顔立ちが似ているということは、声もまた似ているんだなあ。
こっちの方がやせているなあ、なんて思いかけて、ああ、やだやだ、と思う。比べてどうする、あの人と。
あんな男はもう現れるはずが無かった。
生まれて初めて、あんなに好きになったのに、その彼をある日突然失って、毎日泣き暮らしているのだ。別の男のことなんか考えられない。
でも、話し方、それから、
「あ、オレさあ、砂肝、すきなんだよね。」
焼き鳥の好みも、
「中、高ってバレーボールやっててさ。」
高身長のわけまでも、あの彼と同じだ。
ただ。
「オレ、全くの下戸なんだ。」
それだけが、大きく違っていた。
「わたしも、全然呑めないんですよ。」
前の彼と違うところを発見してホッとすると、
「そうですか。よし、いいことを聞いた。今度はもっとうまいもん食いに行こう、呑めないの者同士で。」
と、来た。
「お酒が呑めない、っていう人は、呑める人よりもうまいもん食わなくちゃ。一生を損しちゃうからね。」
アルコールの美味さを知らないという不公平を無くすには、できるだけおいしいものを探して味わうことに尽きる、とその人は言った。
なるほど、と、呑み会の度にワリカン負けしているような気がしているわたしはうなずいてしまい、結局その後も何回か食事に付き合うことになってしまった。
高速道路の真下に掘っ建て小屋のような店を構えていた焼き肉屋の石焼きビピンバ、駅裏のガード下の中華料理屋の水餃子、ネタがシャリの倍以上の大きさの、海沿いのすし屋のお鮨。どれも本当においしかった。
でも。
やっぱり、食事の後にどうこう、ということになるとしり込みしてしまう。
てっとり早く言えば、「男と女のこと」になると、とても踏み切れないわたしなのだった。
「いや、別に急ぎません。オレはあなたのこと、まあハッキリ言ってひとめぼれしたようなもんだけど、そういうことは、いいんです。」
余りにもさわやかに言われてしまうと、余計に申し訳無く思えてくるのだった。
前の彼は、そういうことが本当にすきだったからなあ。
男の上に乗って最後までしてしまう、なんてことは前の彼氏にさせられるまで思いも付かなかった。
「身長が違うんだから、こういう方がイイだろ。」
あの、甘い声。ほら、もっと腰を使って、そう、そう、いい感じだ・・・。
なんてことを思い出しながら、そのそっくりの声を持つ男に、
「そういうことは、いいんです。」
などと言わせているのだ。
ああ、なんか、ごめんなさい。
「・・・じゃあ、まあ、アイスでも食べて帰りましょう、すっきりと。」
そして、目についたハーゲンダッツに入り、
「オレはクッキークランチ。」
と、またあの男の好きなテイストを、選ぶ。
この人のこと、決して嫌じゃない。
むしろ、好きなタイプなのだ。
出会う順序が悪かったんだ、彼よりも先に会っていれば、無邪気に恋していたかもしれないのに。
そうだ。
もしかして、一線を超えてしまえばいいのかもしれない。
男につけられた傷は、男で癒す。
そういう方法もあるに違いない。
わたしは、自分の心を覗き込み、でも、やっぱりあの人を忘れられない、と思い・・・。
だから彼が食事のあとのドライブで急ハンドルを切って国道脇のホテルに入ったときには混乱した。
これは、拒まなければ。
でも、いってしまっちゃえば。
あれこれ取り乱しているうちに部屋に入ってしまった。
だ、け、ど。
わたしの心配は取り越し苦労、だったのだ。
思いも寄らない結果が待っていたのだ。
彼が、エレクトしなかった。というか。
彼の名誉の為に言っておけば、そういうことができる状態にはなったのだけれど、わたしの中に行き着かなかった、ということに、なるのかな。
・・・こういう場合、どうすれば男は傷つかないのだろう。
わたしは笑ってしまったから、ダメかな、こういうの。
でも、安心したから笑ったの、だから分かってもらえたかな。
まだ夜も早いうちだったから、わたしたちはまたアイスクリームを食べに行った。
恋になるアイスクリーム日よりなり
この夏、この人とならそばにいられるかも。
クッキークランチ。同じアイスを選んでわたしは思う。この人は、あの彼じゃない。でも、それでいい。それが、いいんだもの。
「あのね、あなたのこと、好きよわたし。」
一気に言ってしまうと、上唇のバニラを舐めたあとで、ありがとう、と答えが返ってきた。
その人は運転しながら、
「じゃあ、好きな絵描きは誰ですか。」
とたずねてきた。
一瞬、答えに詰まったのは、この人との未来を考えたからだった。恋に、なるのか、ならないのか。
同じ会社のメンバー十人ほどで、スキーに行く途中の車内だった。彼とは初対面で、たまたまくじ引きで同じ車に乗り合わせることになったのだ。雪の中、二時間ばかりの密室。
いかにもコンピユーター室勤務らしい硬質の横顔は、前から見るよりも整って見え、緊張するとおしゃべりが止まらなくなるわたしの癖を思い切り引き出した。だからわたしは、気が付くと、自分が絵を見るのが好きで、休日には一人で絵画展に出かけるということまで話してしまっていた。
初めて会った人に「一人で美術館に入り浸るのが好き」だなどど話さない方がいい。それは適度に男から可愛がられる女でいようという二十三のOLの処世術のようなものであった。
でも言っちゃった。
で、今度は「お気に入りの画家」なんかたずねられているのである。
わたしは、迷った。
頭の中には、二人の名前がある。
シャガールとカンデインスキー。
無難に、カワイイOL 路線を取るのであれば、それはもう、シャガール、だ。
でも、実は、本当に大好きなのは、カンデインスキーなのである。
わたしは、多分、雪道を確かな腕で運転していくこの人を好きになりかけているのだ。
ギアを握っている指に触れられても、嫌じゃない。
ここでどう出ようか。
単純な話、相手に気にいられるには、どっちの名前を出した方が良いのか、ということである。
迷った末に、
「カンデインスキー。あの、青の使い方が好きなんです。」
と、本当のことを口にした。
休みの日に一人でいる、それも美術館で、ということが知られている以上、カワイイ路線からは外れてしまっている、という事実に思い当たったから。
だから、もう仕方がない。
それから季節は、ふたつ、巡った。
スキー場でも、帰りの車でも、その後食事をした店でも、彼とは近くにならなかった。積極的に仕掛けていけるほど美人ではなかったから、その辺はわきまえているつもりだった。
だから、梅雨が明けてすぐ、彼から電話をもらったときには正直言ってびっくりした。
嬉しかったけれど、何だろうと思った。
待ち合せた喫茶店は、紅茶の専門店だった。冷房の程よく効いた場所で、あたたかいダージリンテイーを飲みながら待った。
夏服の彼が現れたのは、最初の一口をすすった瞬間で、こんにちは、と言いながら口の中の苦みに気を取られた。
彼の持っている大きな荷物に目がいかなかったのはそういう事情である。
わたしたちは、しばらく仕事の話をした。
彼は、クイーンメリーを頼んだ。そしてポットが空になる頃、おもむろにその荷物をテーブルの上に置き、そして、
「やっとできあがったんだけれど、受け取ってくれるかな。」
と、ごく普通な言い方でこちらに押し出してきた。
30センチ四方ほどの、平べったいそれは、白い布で包まれている。 両腕を交差するようにしてそっと開くと、一枚の絵が入っていた。
「これは・・・。」
濃紺からセルリアンブルーまで、様々な青で描かれた、一人の男の肖像画。
「カンデイスキーの、肖像画ね。」
わたしが言うと、彼は縁無し眼鏡の奥の眼をやわらかく微笑ませながら、
「分かってくれた。」
と、嬉しそうに言った。
「冬から今までかかったんだけれど、何とか描けたから・・・受け取ってもらえるかな。」
そのようにして、わたしは、絵を描くのが大好きな恋人を得たのだった。
カンデインスキーの青は、だから今でも・・・彼と別れて何年も経ってしまった今でも、わたしには特別ないろをしている。
夏の夜、眠れないままに空の色をぼんやり追いかけていて、唐突に、胸に一枚の絵が浮かび上がる。
夏の夜の藍、青、白と明け易し
ありとあらゆる「青」で描かれた画家の肖像。
別れたときに、返してしまって今はもう手元にない絵のことを、夏の夜明けを迎える度ごとに、きっと思い出すのだろう。
「じゃあ、好きな絵描きは誰ですか。」
とたずねてきた。
一瞬、答えに詰まったのは、この人との未来を考えたからだった。恋に、なるのか、ならないのか。
同じ会社のメンバー十人ほどで、スキーに行く途中の車内だった。彼とは初対面で、たまたまくじ引きで同じ車に乗り合わせることになったのだ。雪の中、二時間ばかりの密室。
いかにもコンピユーター室勤務らしい硬質の横顔は、前から見るよりも整って見え、緊張するとおしゃべりが止まらなくなるわたしの癖を思い切り引き出した。だからわたしは、気が付くと、自分が絵を見るのが好きで、休日には一人で絵画展に出かけるということまで話してしまっていた。
初めて会った人に「一人で美術館に入り浸るのが好き」だなどど話さない方がいい。それは適度に男から可愛がられる女でいようという二十三のOLの処世術のようなものであった。
でも言っちゃった。
で、今度は「お気に入りの画家」なんかたずねられているのである。
わたしは、迷った。
頭の中には、二人の名前がある。
シャガールとカンデインスキー。
無難に、カワイイOL 路線を取るのであれば、それはもう、シャガール、だ。
でも、実は、本当に大好きなのは、カンデインスキーなのである。
わたしは、多分、雪道を確かな腕で運転していくこの人を好きになりかけているのだ。
ギアを握っている指に触れられても、嫌じゃない。
ここでどう出ようか。
単純な話、相手に気にいられるには、どっちの名前を出した方が良いのか、ということである。
迷った末に、
「カンデインスキー。あの、青の使い方が好きなんです。」
と、本当のことを口にした。
休みの日に一人でいる、それも美術館で、ということが知られている以上、カワイイ路線からは外れてしまっている、という事実に思い当たったから。
だから、もう仕方がない。
それから季節は、ふたつ、巡った。
スキー場でも、帰りの車でも、その後食事をした店でも、彼とは近くにならなかった。積極的に仕掛けていけるほど美人ではなかったから、その辺はわきまえているつもりだった。
だから、梅雨が明けてすぐ、彼から電話をもらったときには正直言ってびっくりした。
嬉しかったけれど、何だろうと思った。
待ち合せた喫茶店は、紅茶の専門店だった。冷房の程よく効いた場所で、あたたかいダージリンテイーを飲みながら待った。
夏服の彼が現れたのは、最初の一口をすすった瞬間で、こんにちは、と言いながら口の中の苦みに気を取られた。
彼の持っている大きな荷物に目がいかなかったのはそういう事情である。
わたしたちは、しばらく仕事の話をした。
彼は、クイーンメリーを頼んだ。そしてポットが空になる頃、おもむろにその荷物をテーブルの上に置き、そして、
「やっとできあがったんだけれど、受け取ってくれるかな。」
と、ごく普通な言い方でこちらに押し出してきた。
30センチ四方ほどの、平べったいそれは、白い布で包まれている。 両腕を交差するようにしてそっと開くと、一枚の絵が入っていた。
「これは・・・。」
濃紺からセルリアンブルーまで、様々な青で描かれた、一人の男の肖像画。
「カンデイスキーの、肖像画ね。」
わたしが言うと、彼は縁無し眼鏡の奥の眼をやわらかく微笑ませながら、
「分かってくれた。」
と、嬉しそうに言った。
「冬から今までかかったんだけれど、何とか描けたから・・・受け取ってもらえるかな。」
そのようにして、わたしは、絵を描くのが大好きな恋人を得たのだった。
カンデインスキーの青は、だから今でも・・・彼と別れて何年も経ってしまった今でも、わたしには特別ないろをしている。
夏の夜、眠れないままに空の色をぼんやり追いかけていて、唐突に、胸に一枚の絵が浮かび上がる。
夏の夜の藍、青、白と明け易し
ありとあらゆる「青」で描かれた画家の肖像。
別れたときに、返してしまって今はもう手元にない絵のことを、夏の夜明けを迎える度ごとに、きっと思い出すのだろう。
夏の制服は、胸元が割に大きく開いていた。
いわゆる「開襟シャツ」というしろもので、年頃だけに、男の子たちの視線はかなり気になった。
彼女がその胸元に、大きなバンソウコウを貼り付けてきたのは、衣更えから三日ばかり経ってからだった。
ちょうど襟のブイ字ラインの先端あたり、胸元ギリギリの場所である。
「どうしたの。」
とたずねると、
「蚊に食べられちゃった。」
という答えだった。
あたしには。
「あれさあ、彼氏、でしょ。」
という真相は、他のクラスメイトから聞いた。
「えっ、あたしには、蚊、だって言ったよ。」
すると、そのクラスメイトは、なぜだか少し気の毒そうな表情になった。
「うん。あんたにはそう言うかもね。刺激が強すぎるでしょ。あんたには、まだ。」
「そう、かな。」
彼氏につけられたキスマークを隠すために、バンソウコウを貼る。
それが、そんなことぐらいで、たじろぐほど子供じゃないつもりだけど。
第一、彼女の彼氏だって、同じクラスの男子である。
相手が大学生だとか、せいぜい上級生ならばともかく、付き合っている相手まで分かっている相手に「真相」を隠しても仕方が無いではないか。
なんとなく、見くびられたというか、バカにされたというか、妙につまらない気持ちだけが残った。
もし、あのとき、「彼氏」と偶然会わなかったなら、そのことは、それだけで終わったかもしれない。
でも。
その茂みから彼が現れたときはびっくりした。
放課後だった。
学校の横にある神社の森で、置いていた自転車を引っ張り出したとき、ふいに彼が出て来たのだ。
「おまえ、なんでこんなところに自転車とめてんだよ。」
「今朝、遅刻しそうになったから・・・。」
「そっかあ。自転車通学できないところに住んでんだったな。」
校則で、学校から三キロ以内に家のある者は、自転車通学はできないと決められている。あたしの家は、三キロギリギリのところにあった。
堂々と自転車置き場にとめられないから、学校の近くにとめている。
「あなたは。」
「オレもおんなじ。」
彼も同じ用事で神社の森に来ていた。
そのときには、その後の展開まで予想していたわけでは無い。
あたしは、それほど腹黒くないつもりだ。
でも、神社の森で過ごす時間が少しずつ長くなり、なぜかお互い時間を合わせるようなことになり、そして、いつしか、二人の距離が少しずつ縮まっていったとき、
「もう、やめよう。」
とは言えなかった。
いや、言ったかもしれない。
でも、そのときの彼は、その年頃の男の子には止められないほどの熱さであたしを抱いていた。
「あの子には、秘密だよ。」
そうつぶやきながら、なぜか彼の唇を胸元ギリギリのところまで導いていた。
彼のからだの下から見える神社の木立ごしの空。
大きな杉の木が黒々と影絵のように、そびえたっている。
夕日が、きれい・・・。
足首は蚊に食はれ胸元は彼に
恋は、復讐の匂いがした。
あたしは明日、胸元にバンソウコウを貼って教室に入るだろう。
いわゆる「開襟シャツ」というしろもので、年頃だけに、男の子たちの視線はかなり気になった。
彼女がその胸元に、大きなバンソウコウを貼り付けてきたのは、衣更えから三日ばかり経ってからだった。
ちょうど襟のブイ字ラインの先端あたり、胸元ギリギリの場所である。
「どうしたの。」
とたずねると、
「蚊に食べられちゃった。」
という答えだった。
あたしには。
「あれさあ、彼氏、でしょ。」
という真相は、他のクラスメイトから聞いた。
「えっ、あたしには、蚊、だって言ったよ。」
すると、そのクラスメイトは、なぜだか少し気の毒そうな表情になった。
「うん。あんたにはそう言うかもね。刺激が強すぎるでしょ。あんたには、まだ。」
「そう、かな。」
彼氏につけられたキスマークを隠すために、バンソウコウを貼る。
それが、そんなことぐらいで、たじろぐほど子供じゃないつもりだけど。
第一、彼女の彼氏だって、同じクラスの男子である。
相手が大学生だとか、せいぜい上級生ならばともかく、付き合っている相手まで分かっている相手に「真相」を隠しても仕方が無いではないか。
なんとなく、見くびられたというか、バカにされたというか、妙につまらない気持ちだけが残った。
もし、あのとき、「彼氏」と偶然会わなかったなら、そのことは、それだけで終わったかもしれない。
でも。
その茂みから彼が現れたときはびっくりした。
放課後だった。
学校の横にある神社の森で、置いていた自転車を引っ張り出したとき、ふいに彼が出て来たのだ。
「おまえ、なんでこんなところに自転車とめてんだよ。」
「今朝、遅刻しそうになったから・・・。」
「そっかあ。自転車通学できないところに住んでんだったな。」
校則で、学校から三キロ以内に家のある者は、自転車通学はできないと決められている。あたしの家は、三キロギリギリのところにあった。
堂々と自転車置き場にとめられないから、学校の近くにとめている。
「あなたは。」
「オレもおんなじ。」
彼も同じ用事で神社の森に来ていた。
そのときには、その後の展開まで予想していたわけでは無い。
あたしは、それほど腹黒くないつもりだ。
でも、神社の森で過ごす時間が少しずつ長くなり、なぜかお互い時間を合わせるようなことになり、そして、いつしか、二人の距離が少しずつ縮まっていったとき、
「もう、やめよう。」
とは言えなかった。
いや、言ったかもしれない。
でも、そのときの彼は、その年頃の男の子には止められないほどの熱さであたしを抱いていた。
「あの子には、秘密だよ。」
そうつぶやきながら、なぜか彼の唇を胸元ギリギリのところまで導いていた。
彼のからだの下から見える神社の木立ごしの空。
大きな杉の木が黒々と影絵のように、そびえたっている。
夕日が、きれい・・・。
足首は蚊に食はれ胸元は彼に
恋は、復讐の匂いがした。
あたしは明日、胸元にバンソウコウを貼って教室に入るだろう。
シャワーを浴びようとして手を止めたのは、ふっと、煙草の香がしたからだ。
彼は煙草を吸う。
新幹線に乗り込む前に吸った最後の一本が、髪に香りだけ残したのかもしれない。
彼は、行ってしまったのに。
遠距離恋愛になることは分かっていた。
それでも、彼からの申し込みにうなずいたのはなぜなんだろう。
正直言うと、それほど熱い恋にはならないような気がした、少なくともこっちは。
年令を考えれば、もう、そろそろゴールの見える恋をしたかった。ゴール、そう、結婚というゴールの見える、恋。
大恋愛をして結ばれたい、というわけでもないけれど、遠距離を乗り越えるだけのパワーは必要な気がした。
もうずっと離れたくない。
もう離したくない。
そして、あついキス。
はっきり言えば、そういう、めくるめくシーンが幾度となく繰り返されなければ「遠恋」なんて無理。無理。
だと、思っていた。
でも、彼とは、実に自然なのだ。
一緒にいれば楽しい。
時間も、早く過ぎる。
でも、新幹線のホームで、熱い抱擁を幾度と無く繰り返すようなテンションの高さは無い。
まあ、まわりで余りにもそういうことをバンバンされると、ひいちゃう、ってのもあるんだけどね。
目をつむると、そういう熱々の恋人たちに混じって、幾分ぎこちなく笑っていた彼の顔が浮かぶ。
ホームに残されるのは、なぜかほとんどが女の方で、しかも、そのほとんどが泣いていた。
わたしも、泣いた方がいいのかな。
そういうのも、相手を喜ばせるのかも。
でも、計算で出せるほど器用じゃない。
そんなことが出来るなら、今頃は女優かも。
シャワーをひねる。
煙草の香が、一瞬濃くなる。
シャンプーをつければ、一瞬で消えてしまうけど。
つむった目の裏に浮かぶ、きのうと今日、二日だけの彼。
今度はいつ会えるのか、まだよくわからない。
二週間先か、一ヶ月先か。
その間、二人はそれぞれ、お互いがまったく交わらない時間たちを生きる。
残り香を惜しみ惜しみて髪洗ふ
彼は、そのうち、迎えに来るよと笑っていた。
腕の中にすっぽり包まれて、わたしは微笑んでいた。
決して小柄な方では無いのに、彼といると自分がとてつもなく華奢なつくりになったみたいな気がする、そして、そういう時の自分がすき。
彼のことが、すき。
そして、髪を洗い終える頃、彼のいる街で彼といる、ゴールがふいにうっすら見えた。
彼は煙草を吸う。
新幹線に乗り込む前に吸った最後の一本が、髪に香りだけ残したのかもしれない。
彼は、行ってしまったのに。
遠距離恋愛になることは分かっていた。
それでも、彼からの申し込みにうなずいたのはなぜなんだろう。
正直言うと、それほど熱い恋にはならないような気がした、少なくともこっちは。
年令を考えれば、もう、そろそろゴールの見える恋をしたかった。ゴール、そう、結婚というゴールの見える、恋。
大恋愛をして結ばれたい、というわけでもないけれど、遠距離を乗り越えるだけのパワーは必要な気がした。
もうずっと離れたくない。
もう離したくない。
そして、あついキス。
はっきり言えば、そういう、めくるめくシーンが幾度となく繰り返されなければ「遠恋」なんて無理。無理。
だと、思っていた。
でも、彼とは、実に自然なのだ。
一緒にいれば楽しい。
時間も、早く過ぎる。
でも、新幹線のホームで、熱い抱擁を幾度と無く繰り返すようなテンションの高さは無い。
まあ、まわりで余りにもそういうことをバンバンされると、ひいちゃう、ってのもあるんだけどね。
目をつむると、そういう熱々の恋人たちに混じって、幾分ぎこちなく笑っていた彼の顔が浮かぶ。
ホームに残されるのは、なぜかほとんどが女の方で、しかも、そのほとんどが泣いていた。
わたしも、泣いた方がいいのかな。
そういうのも、相手を喜ばせるのかも。
でも、計算で出せるほど器用じゃない。
そんなことが出来るなら、今頃は女優かも。
シャワーをひねる。
煙草の香が、一瞬濃くなる。
シャンプーをつければ、一瞬で消えてしまうけど。
つむった目の裏に浮かぶ、きのうと今日、二日だけの彼。
今度はいつ会えるのか、まだよくわからない。
二週間先か、一ヶ月先か。
その間、二人はそれぞれ、お互いがまったく交わらない時間たちを生きる。
残り香を惜しみ惜しみて髪洗ふ
彼は、そのうち、迎えに来るよと笑っていた。
腕の中にすっぽり包まれて、わたしは微笑んでいた。
決して小柄な方では無いのに、彼といると自分がとてつもなく華奢なつくりになったみたいな気がする、そして、そういう時の自分がすき。
彼のことが、すき。
そして、髪を洗い終える頃、彼のいる街で彼といる、ゴールがふいにうっすら見えた。
あまりにもリアルな夢だった。
自分の見慣れたベッドが、目覚めてすぐは、見慣れない物のように思われたほどだ。
あのひとに、抱かれていた。
はじめて出会ったのは、光化学スモッグが発令された暑い日だった。
三才の息子を連れて児童館にいたとき、ふいに外から、街宣車の割れ気味の声が響いてきたのだ。
「ただ今、光化学スモッグが発令されました。皆様気を付けてください。」
「光化学スモッグ」という言葉を耳にしたのは、じつはそのときが生まれて始めてだった。
どうしたらいいの。
不安そうな母親の顔を見て、息子も泣きかけている。途方に暮れたときに、
「大丈夫。しばらくここから動かないでください。」
若い男が、そばに立っていた。
児童館の職員で、男性というのは、はじめて見た。
最初は戸惑ったが、まず、小学生の男の子たちがなつきはじめ、次第にフアンが増えていったらしい。
大学を出て、すぐに採用になったという。
ずっと、ハンドボールをやっていて、インターハイにも出ていたらしい。
そういうことを、小学生の子供をもつ母親友達から聞いて知った。
人見知りする方だから、児童館へ行っても自分から話し掛けるようなことはしなかったし、なによりいつも、彼のまわりには大勢の子供たちが集まっていて、息子のことは見ても、その母親の自分に彼が目を向けていたことなど、無かった。
と、思っていた。
その人に抱かれる夢を、見た。
たぶんそれは、この前、めずらしく人の少ない児童館で、彼と短い会話を交わしたから、だろう。
「この辺りのお生まれではないんですね。」
「ええ・・・。でも、どうして。」
「前、光化学スモッグのこと、知らなかったから。空気の奇麗なところで育ったんだろうなって。」
しばらく、故郷の話をした。
畑がいっぱいある、山間の村のこと。
「今ごろは、いちごの季節よ。」
そう言うと、
「そうですか。いちご、かあ。畑でつみたてのやつって、おいしんでしょうね。」
と答え、そして、いちごの話の続きみたいに、
「いちごといっしょに育ったから、そんなに、みずみずしい肌なんですね。」
そんな言葉を置いて、そして、そのまま職員室へ消えた。
ひとの妻になり、まして、母になった女に、不用意にそいうことを言うのは罪深いことである。
だけど、そういう「罪」に気が付きもしないほど、相手は若いということである。
いちご食ふ浮気ごころをつぶしつつ
あれは、夢、なのだ。
自分の見慣れたベッドが、目覚めてすぐは、見慣れない物のように思われたほどだ。
あのひとに、抱かれていた。
はじめて出会ったのは、光化学スモッグが発令された暑い日だった。
三才の息子を連れて児童館にいたとき、ふいに外から、街宣車の割れ気味の声が響いてきたのだ。
「ただ今、光化学スモッグが発令されました。皆様気を付けてください。」
「光化学スモッグ」という言葉を耳にしたのは、じつはそのときが生まれて始めてだった。
どうしたらいいの。
不安そうな母親の顔を見て、息子も泣きかけている。途方に暮れたときに、
「大丈夫。しばらくここから動かないでください。」
若い男が、そばに立っていた。
児童館の職員で、男性というのは、はじめて見た。
最初は戸惑ったが、まず、小学生の男の子たちがなつきはじめ、次第にフアンが増えていったらしい。
大学を出て、すぐに採用になったという。
ずっと、ハンドボールをやっていて、インターハイにも出ていたらしい。
そういうことを、小学生の子供をもつ母親友達から聞いて知った。
人見知りする方だから、児童館へ行っても自分から話し掛けるようなことはしなかったし、なによりいつも、彼のまわりには大勢の子供たちが集まっていて、息子のことは見ても、その母親の自分に彼が目を向けていたことなど、無かった。
と、思っていた。
その人に抱かれる夢を、見た。
たぶんそれは、この前、めずらしく人の少ない児童館で、彼と短い会話を交わしたから、だろう。
「この辺りのお生まれではないんですね。」
「ええ・・・。でも、どうして。」
「前、光化学スモッグのこと、知らなかったから。空気の奇麗なところで育ったんだろうなって。」
しばらく、故郷の話をした。
畑がいっぱいある、山間の村のこと。
「今ごろは、いちごの季節よ。」
そう言うと、
「そうですか。いちご、かあ。畑でつみたてのやつって、おいしんでしょうね。」
と答え、そして、いちごの話の続きみたいに、
「いちごといっしょに育ったから、そんなに、みずみずしい肌なんですね。」
そんな言葉を置いて、そして、そのまま職員室へ消えた。
ひとの妻になり、まして、母になった女に、不用意にそいうことを言うのは罪深いことである。
だけど、そういう「罪」に気が付きもしないほど、相手は若いということである。
いちご食ふ浮気ごころをつぶしつつ
あれは、夢、なのだ。
結婚話の「旬」というものがあるらしい。
いわゆる「お嫁に欲しい」というようなことを、あちらこちらから言われる。
整形したとか、大金を得たとか、べつに自分の環境に変化が生じていないにも関わらず、お見合い写真は家にいくつも届くし、付き合っている彼氏もしっかりいるし、っていう時期。
今思えば、あれ、あの時期だなあ。
はたちそこそこだった。
家を離れてはじめての一人暮らし。
何も無くてもときめきあふれる、人生がいきなり花開いたかのように感じられる時期である。
「 恋多き女」。
それほど、ふしだらだったとも思わない。
一人暮らし、とは言え、女子大の寮である。門限をやぶったことも無い。ふたまたかけたことも無い。
それでも、そういう評判が立った。
そして彼とは、そういう季節に出会った。
オレさ、一番でなくていいよ。
おまえの何番でもいいよ。
決してモテない方では無いのに、彼はそんな風に言った。
でさ、もしも、おまえが三十スギても一人だったら、もらってやる。だから、そうなったら、オレのところへ来いよ。絶対、来い。
三十は、スギた。
そして、一人である。
時々思い出す話として、彼の言葉は胸にあった。
今日までは。
さっきの電話の話を聞くまでは。
学生時代の友達からであった。
「彼、離婚したって、そんで、あんたに会いたがってるらしいよ。」
何をいまさら。
そう言ってやった。
「わたしはもう、東京を離れて長いし、今、急に会って何を話すの。」
それに大体、何も無かったんだから、わたしたち。
そう。
いわゆる「男と女」というのでは無かったのだ。
幾たびか、アブナイ雰囲気が、二人の間に流れたこともあった。けれども、そこが、「旬」だったわたしには、絶えず誰か特別の男がいて、その人以外の男と、そういう関係になることは無かったのである。
でも。
三重スギて一人だったら来い。
と、かつて言った男が、今、一人になった。
そして、会いたがって、いる。
やはり、胸がさわぐのである。
ただ。
こんなふうに胸騒ぎを覚えることを、わたしは実は後ろめたく感じている。
わたしは独り者である、しかし、おととい、五つも年下の男から、
結婚を前提に、付き合ってください。
と、言われてしまっているのである。
そして、返事は、まだ、していない。
この年になると、ただでさえ臆病になるのに。
なぜか、すこし腹立たしい。
だけど、どこかで、ときめいている。
そういう自分というのにも、少しイラつく。
それでも、鏡を見ると、なぜか少し頬がピンクがかっていたりする。
意識下の湖は紫陽花のいろ
これから、どうしよう。
いわゆる「お嫁に欲しい」というようなことを、あちらこちらから言われる。
整形したとか、大金を得たとか、べつに自分の環境に変化が生じていないにも関わらず、お見合い写真は家にいくつも届くし、付き合っている彼氏もしっかりいるし、っていう時期。
今思えば、あれ、あの時期だなあ。
はたちそこそこだった。
家を離れてはじめての一人暮らし。
何も無くてもときめきあふれる、人生がいきなり花開いたかのように感じられる時期である。
「 恋多き女」。
それほど、ふしだらだったとも思わない。
一人暮らし、とは言え、女子大の寮である。門限をやぶったことも無い。ふたまたかけたことも無い。
それでも、そういう評判が立った。
そして彼とは、そういう季節に出会った。
オレさ、一番でなくていいよ。
おまえの何番でもいいよ。
決してモテない方では無いのに、彼はそんな風に言った。
でさ、もしも、おまえが三十スギても一人だったら、もらってやる。だから、そうなったら、オレのところへ来いよ。絶対、来い。
三十は、スギた。
そして、一人である。
時々思い出す話として、彼の言葉は胸にあった。
今日までは。
さっきの電話の話を聞くまでは。
学生時代の友達からであった。
「彼、離婚したって、そんで、あんたに会いたがってるらしいよ。」
何をいまさら。
そう言ってやった。
「わたしはもう、東京を離れて長いし、今、急に会って何を話すの。」
それに大体、何も無かったんだから、わたしたち。
そう。
いわゆる「男と女」というのでは無かったのだ。
幾たびか、アブナイ雰囲気が、二人の間に流れたこともあった。けれども、そこが、「旬」だったわたしには、絶えず誰か特別の男がいて、その人以外の男と、そういう関係になることは無かったのである。
でも。
三重スギて一人だったら来い。
と、かつて言った男が、今、一人になった。
そして、会いたがって、いる。
やはり、胸がさわぐのである。
ただ。
こんなふうに胸騒ぎを覚えることを、わたしは実は後ろめたく感じている。
わたしは独り者である、しかし、おととい、五つも年下の男から、
結婚を前提に、付き合ってください。
と、言われてしまっているのである。
そして、返事は、まだ、していない。
この年になると、ただでさえ臆病になるのに。
なぜか、すこし腹立たしい。
だけど、どこかで、ときめいている。
そういう自分というのにも、少しイラつく。
それでも、鏡を見ると、なぜか少し頬がピンクがかっていたりする。
意識下の湖は紫陽花のいろ
これから、どうしよう。
男が妻に選びやすいタイプの女とそうでない女。
たとえ、そういうものが存在するのだとしても、それは愛情には適わないものだと信じてきた。
つまり、この子は奥さんにはしたくないな、と思っても、愛情が深まっていくうちに、
やっぱり結婚したい
そう思うようになるのだろうと。
なのに。
好きだよ、すきだけれども、そういうんじゃないんだ。
男の言葉が、耳に付いて離れない。
できれば、結婚なんかしたくないよ。でも、外堀を埋められちまったんだ。
相手の女まで用意されてから、別れを切り出されるとは思わなかった。
最高だったよ。
いつも、会うたびに違う顔を見せてくれた。
いったい、本当の気味がどんな人なんだか、最後までわからなかった。
最後。
男の言葉に食って掛かる。
最後なんて、いや。そんなの、あたしは認めない。
ほら、そういうことも言うんだよな。
他に相手はたくさんいるのよ的なことも言う女なのに。
そんなこと、言っただろうか。
たとえ言ったとしても、相手が何人いても、最後にはあなた、そういうことだったのに。
最後には。
最後。
同じ言葉をつかいながら、あたしたちは違いすぎる結末を主張して、互いに譲らない。
男は、写真が好きだった。
主に花を撮るのが好きだと、はじめてもらった手紙に書かれていた。
雨上がりの透き通った日の光が、薄青い紫陽花の 花のかたまりをやわらかくとらえている一枚の写真が同封されていた。
きみは、この花のように、会うたびにイメイジが変わってしまいます。
いったいどんな女性なのか、もっともっと知りたい。
彼から向けられた、たくさんのレンズの目。
その中で、いったいあたしはいくつの色を見せたのだろう。
あたしの写真を、頂戴。
一枚のこらず、頂戴よ。
そうして、夥しい数のあたしを、花びらのように撒き散らした部屋で、いつまでも眠り続けたい。
紫陽花とさびしさを分け合ふてみる
たとえ、そういうものが存在するのだとしても、それは愛情には適わないものだと信じてきた。
つまり、この子は奥さんにはしたくないな、と思っても、愛情が深まっていくうちに、
やっぱり結婚したい
そう思うようになるのだろうと。
なのに。
好きだよ、すきだけれども、そういうんじゃないんだ。
男の言葉が、耳に付いて離れない。
できれば、結婚なんかしたくないよ。でも、外堀を埋められちまったんだ。
相手の女まで用意されてから、別れを切り出されるとは思わなかった。
最高だったよ。
いつも、会うたびに違う顔を見せてくれた。
いったい、本当の気味がどんな人なんだか、最後までわからなかった。
最後。
男の言葉に食って掛かる。
最後なんて、いや。そんなの、あたしは認めない。
ほら、そういうことも言うんだよな。
他に相手はたくさんいるのよ的なことも言う女なのに。
そんなこと、言っただろうか。
たとえ言ったとしても、相手が何人いても、最後にはあなた、そういうことだったのに。
最後には。
最後。
同じ言葉をつかいながら、あたしたちは違いすぎる結末を主張して、互いに譲らない。
男は、写真が好きだった。
主に花を撮るのが好きだと、はじめてもらった手紙に書かれていた。
雨上がりの透き通った日の光が、薄青い紫陽花の 花のかたまりをやわらかくとらえている一枚の写真が同封されていた。
きみは、この花のように、会うたびにイメイジが変わってしまいます。
いったいどんな女性なのか、もっともっと知りたい。
彼から向けられた、たくさんのレンズの目。
その中で、いったいあたしはいくつの色を見せたのだろう。
あたしの写真を、頂戴。
一枚のこらず、頂戴よ。
そうして、夥しい数のあたしを、花びらのように撒き散らした部屋で、いつまでも眠り続けたい。
紫陽花とさびしさを分け合ふてみる
雨に洗われる街。
ゴールデンウィーク中に、混み合う人々が汚した空気を、雨は洗い流して行く。
「傘を持って出れば良かった。」
女が、つぶやく。
映画を見た後のお茶の時間。スクリーンの中の世界から少しずつ現実の世界に戻って来るひととき。
スターバックス・ラテは、残り少なくなり、カップの底の方のすすけた苦みが舌にからみつく。
男は黙っている。
別に怒っているわけではなく、寡黙なタイプなのである。
デートも今日で四回目ともなれば、相手の機嫌位は読み取れるようになる。
女は男の顔を見つめる。眼鏡の奥の細い目が、ようやく今し方見てきた映画のパンフレットから離れて、女に向けられる。
笑いを含んだ目元に安心する女。
「これから、どうしよう。」
映画に誘い出したのは、男の方だから、何か計画があるかもしれない。
何よりもこのカフエは、男の部屋と同じ駅にあるのである。
もしかしたら、その、一人暮らしの場所を見ることになるのかもしれない。
男の薄い唇が動く。
「少し外を歩こうかなって思っていたんだけれども。」
「どこへ。」
男はただ微笑む。
その微笑みが、女の心を波立たせる。
何しろ、四回目のデートなのである。
いい大人の男女が、ランチを二度、デイナーを一度、一緒にしたのである。夜景も見た。お酒も飲んだ。でも、それだけだった。今日までは。
そろそろかな。
だから今日は、そうなってもいい下着を身につけている。だけど、見せてもいい下着だからといって、見せるかどうかは分からない。
女は時計に目をやる。
午後四時。中途半端な時間。
「どうしよう。」
と言ったのは男の方。
「歩こうかな、いい雨だし。」
「傘も無く。」
「そう。」
二人は見詰め合う。
「・・風邪を引きそう。」
「じゃ、やめよう。」
雨のせいで、街はこの時間にしては薄暗く感じられる。オープンカフエ部分の無人のいすとテーブルが、静かに濡れている。
「・・・どう、したいの、これから。」
聞きながら、どうして向かい合わせになんか座ってしまったのだろうと女は後悔を覚える。隣り合わせか、九十度の角度に座っていれば良かった。
そうすれば、無口な男の雄弁な手に、ぐっ、と引き寄せられるかもしれないのに。
「食事には早いよね。」
「うん。」
「もう少しここで雨宿りする。」
「そうしようか。」
しかし、突然の雨のせいで、店は混んでいる。元より、長居するような店でもない。
「・・とにかく、一度、出よう。本屋さんにでも、行ってみようかな。」
先に立ちあがったのは、男。
「そうね。」
本屋さん、という言葉になぜかふいを衝かれたような気がして、女は少し出遅れる。
あたふたとテーブルの上を片付けはじめた腕を、男の手がつかむ。
「・・・。」
「一緒に、やるから。」
男のカップもまとめて捨てようとしたことを言っているのだと気付くのにすこしかかった。
「ありがとう。」
「いいえ。」
少しよろけて立ち上がったのは、男の手の力に酔ったからかもしれない。
酔った・・・。なぜ。
しかし。
店を出て、ふと空をふりあおぐ。
雨は、やんでいる。
「やっぱり、少し、歩こう。」
「あても無く。」
「そう。行き先決めずに、さ。」
新緑を洗ひて雨のとどまらず
行き先、決めずに。
まるで、気まぐれな雨雲のようだと、女は思った。
ゴールデンウィーク中に、混み合う人々が汚した空気を、雨は洗い流して行く。
「傘を持って出れば良かった。」
女が、つぶやく。
映画を見た後のお茶の時間。スクリーンの中の世界から少しずつ現実の世界に戻って来るひととき。
スターバックス・ラテは、残り少なくなり、カップの底の方のすすけた苦みが舌にからみつく。
男は黙っている。
別に怒っているわけではなく、寡黙なタイプなのである。
デートも今日で四回目ともなれば、相手の機嫌位は読み取れるようになる。
女は男の顔を見つめる。眼鏡の奥の細い目が、ようやく今し方見てきた映画のパンフレットから離れて、女に向けられる。
笑いを含んだ目元に安心する女。
「これから、どうしよう。」
映画に誘い出したのは、男の方だから、何か計画があるかもしれない。
何よりもこのカフエは、男の部屋と同じ駅にあるのである。
もしかしたら、その、一人暮らしの場所を見ることになるのかもしれない。
男の薄い唇が動く。
「少し外を歩こうかなって思っていたんだけれども。」
「どこへ。」
男はただ微笑む。
その微笑みが、女の心を波立たせる。
何しろ、四回目のデートなのである。
いい大人の男女が、ランチを二度、デイナーを一度、一緒にしたのである。夜景も見た。お酒も飲んだ。でも、それだけだった。今日までは。
そろそろかな。
だから今日は、そうなってもいい下着を身につけている。だけど、見せてもいい下着だからといって、見せるかどうかは分からない。
女は時計に目をやる。
午後四時。中途半端な時間。
「どうしよう。」
と言ったのは男の方。
「歩こうかな、いい雨だし。」
「傘も無く。」
「そう。」
二人は見詰め合う。
「・・風邪を引きそう。」
「じゃ、やめよう。」
雨のせいで、街はこの時間にしては薄暗く感じられる。オープンカフエ部分の無人のいすとテーブルが、静かに濡れている。
「・・・どう、したいの、これから。」
聞きながら、どうして向かい合わせになんか座ってしまったのだろうと女は後悔を覚える。隣り合わせか、九十度の角度に座っていれば良かった。
そうすれば、無口な男の雄弁な手に、ぐっ、と引き寄せられるかもしれないのに。
「食事には早いよね。」
「うん。」
「もう少しここで雨宿りする。」
「そうしようか。」
しかし、突然の雨のせいで、店は混んでいる。元より、長居するような店でもない。
「・・とにかく、一度、出よう。本屋さんにでも、行ってみようかな。」
先に立ちあがったのは、男。
「そうね。」
本屋さん、という言葉になぜかふいを衝かれたような気がして、女は少し出遅れる。
あたふたとテーブルの上を片付けはじめた腕を、男の手がつかむ。
「・・・。」
「一緒に、やるから。」
男のカップもまとめて捨てようとしたことを言っているのだと気付くのにすこしかかった。
「ありがとう。」
「いいえ。」
少しよろけて立ち上がったのは、男の手の力に酔ったからかもしれない。
酔った・・・。なぜ。
しかし。
店を出て、ふと空をふりあおぐ。
雨は、やんでいる。
「やっぱり、少し、歩こう。」
「あても無く。」
「そう。行き先決めずに、さ。」
新緑を洗ひて雨のとどまらず
行き先、決めずに。
まるで、気まぐれな雨雲のようだと、女は思った。
結婚式の披露宴で、藤色のドレスを選んだ。
そうして彼が「奇麗だね。」と言ってくれたら、
こう答える。
「そう。あなたとはじめていっしょに見た、夜明けの空のいろなのよ。」
うす紫の色が似合う肌をつくるために、日焼け止めは欠かさなかった。腕についた日焼け止め乳液が職場の机に移り、机をふいてくれる後輩が、土色に変色したふきんを見て、びっくりして悲鳴をあげていた。
五キロの減量にも成功して、腰のラインを強調するドレスにも耐えられるかなという感じになった。
肩から腕にかけて大きく開いたデザイン。
房になった藤の花がたわわに咲き零れているみたいに、胸元を飾っている。
午前四時藤は天まで咲きのぼる
夜明けの、まだ手垢のついていない一日の始まりの色は、暗闇がやわらかくほどかれて、淡い紫の色をしていた。
ふたりのはじめての、朝。
特別の、朝。
でも、結局、その朝の思い出は語られなかった。
花婿が花嫁に、奇麗だね、と言わなかったからである。
彼は、着飾った新妻に向かって、彼の実家の風習である「饅頭撒き」をした際に饅頭のひとつと激突した隣のおじいさんのけがの具合を心配したり、自分はいつ食事をすればいいのか真剣に悩んだり、そういう調子で、まあ、ハッキリ言って、花嫁の様子なんか、見ちゃいないという風だったのである。
でも、いいのよ。
口に出さない方がいいこともあるのよ。どんな色だったっけ、なんてしらっと聞かれてもイヤだし。
美しい新婦はそう言って艶然と笑った。
お世辞抜きに彼女はとても奇麗だったのだけれど、一人の男に所属することへの淋しさが、その表情に翳を与え、それがよけいに彼女を引き立てていたのも確かである。
藤の色は、すこし淋しい。
そうして彼が「奇麗だね。」と言ってくれたら、
こう答える。
「そう。あなたとはじめていっしょに見た、夜明けの空のいろなのよ。」
うす紫の色が似合う肌をつくるために、日焼け止めは欠かさなかった。腕についた日焼け止め乳液が職場の机に移り、机をふいてくれる後輩が、土色に変色したふきんを見て、びっくりして悲鳴をあげていた。
五キロの減量にも成功して、腰のラインを強調するドレスにも耐えられるかなという感じになった。
肩から腕にかけて大きく開いたデザイン。
房になった藤の花がたわわに咲き零れているみたいに、胸元を飾っている。
午前四時藤は天まで咲きのぼる
夜明けの、まだ手垢のついていない一日の始まりの色は、暗闇がやわらかくほどかれて、淡い紫の色をしていた。
ふたりのはじめての、朝。
特別の、朝。
でも、結局、その朝の思い出は語られなかった。
花婿が花嫁に、奇麗だね、と言わなかったからである。
彼は、着飾った新妻に向かって、彼の実家の風習である「饅頭撒き」をした際に饅頭のひとつと激突した隣のおじいさんのけがの具合を心配したり、自分はいつ食事をすればいいのか真剣に悩んだり、そういう調子で、まあ、ハッキリ言って、花嫁の様子なんか、見ちゃいないという風だったのである。
でも、いいのよ。
口に出さない方がいいこともあるのよ。どんな色だったっけ、なんてしらっと聞かれてもイヤだし。
美しい新婦はそう言って艶然と笑った。
お世辞抜きに彼女はとても奇麗だったのだけれど、一人の男に所属することへの淋しさが、その表情に翳を与え、それがよけいに彼女を引き立てていたのも確かである。
藤の色は、すこし淋しい。
足早に春が過ぎて行く。
緑の季節が巡り来て、マンションの庭では、除草に草刈り、と連日草花の手入れが行われている。
窓を開けると、刈り取られた草の青くて苦い香が風に乗ってやって来る。
若草をためらわず踏む彼といた
その人は、萌え始めた若い草の上を、ためらわずに歩いた。
バスケットシューズが、白つめ草や、タンポポの上を踏みつけにするのを、黙って後ろからついて行きながら見ている。
ついて行くということは、自分も同じように若い草たちを蹂躪しているということ。
共犯、という言葉が胸をよぎる。
キャンパスの林の中は、奥へ進むたびに緑の匂いが強くなる。
息苦しいのは、緑のせい。
それとも、これから、彼の企みに引っかかってやろうとしている自分の若さのせい。
どこまで行くんですか。
声に無邪気さと、不安さを上手ににじませる。
そういう技術を持ち合わせている自分に驚く。
彼が、大きな楠の樹の下で振り向き、そっと手がさしのべられたとき、自分は絶対目を閉じることを知っている。
若さには、苦さがつきまとう。
苦さがあるから若いというのか。
字も似ている。
日増しに強くなる日差しの中で、苦しみながらも苦さに酔っていた、あの若さたちは、どこへ消えたのだろう。
緑の季節が巡り来て、マンションの庭では、除草に草刈り、と連日草花の手入れが行われている。
窓を開けると、刈り取られた草の青くて苦い香が風に乗ってやって来る。
若草をためらわず踏む彼といた
その人は、萌え始めた若い草の上を、ためらわずに歩いた。
バスケットシューズが、白つめ草や、タンポポの上を踏みつけにするのを、黙って後ろからついて行きながら見ている。
ついて行くということは、自分も同じように若い草たちを蹂躪しているということ。
共犯、という言葉が胸をよぎる。
キャンパスの林の中は、奥へ進むたびに緑の匂いが強くなる。
息苦しいのは、緑のせい。
それとも、これから、彼の企みに引っかかってやろうとしている自分の若さのせい。
どこまで行くんですか。
声に無邪気さと、不安さを上手ににじませる。
そういう技術を持ち合わせている自分に驚く。
彼が、大きな楠の樹の下で振り向き、そっと手がさしのべられたとき、自分は絶対目を閉じることを知っている。
若さには、苦さがつきまとう。
苦さがあるから若いというのか。
字も似ている。
日増しに強くなる日差しの中で、苦しみながらも苦さに酔っていた、あの若さたちは、どこへ消えたのだろう。
シャボン玉って、春の季語なんだって。
季語には時々、一年中見かけるものでも、季節が決められている言葉がある。シャボン玉がなぜ春なのかは知らないが、春、だと言われると、そうやなあ・・・と妙に納得してしまうのはどうして。
シャボン玉さへとどかないあの部屋に
男には妻子がいる。
休日には会えない。
女は時間を持て余していて、何気なく男の住む家の近くまで来てみた。
偶然、子供たちと過ごす姿でも見てしまったら最悪。
でも、そういうのも悪くないか。
彼はどう出るか。素知らぬ顔を決め込むか。
こんにちは、なんて、しらっと言うか。
少し自虐的な気持ちになる。
公園でシャボン玉を売っている。
ひとつ買って、女は、片隅のベンチに座る。
丁度、男の住むマンションの見える位置。
高層階のそこに向け、ふうっ、と息を吐く。
春の穏やかな日差しの中、そよ風に乗って、シャボン玉は、きらきらと流れ、音も無く消える。
ゆっくり。
すばやく。
愛し合うときの呼吸のよう、想いを包み込んで虹色の玉がとぶ。
でも、そのひとつとして、その部屋にはとどかない。
あの中に、やすやすと入れる女のことが、胸をよぎる。
気持ちは、あたしの方が近くにいるもん、と思ってみる。
そう、それは間違いない。そう、彼も言ってくれる。
だけど。
次々に生まれては消えるというのは、あたしたちが一緒に過ごす時とよく似ている。
かつて、「愛人向き」だと言われたことがある。
それも複数の人から。
そのうちの一人は、そう言って去った。
「妻、母としては、どうかな。」専業主婦になりたかったので、つらかった。
今、夢が叶って・・・とあまりピンと来ないのがモンダイだけど・・・専業主婦になって、家事に追われていて、そんな言葉も遠くなった。
しかし、ときどき、たとえば、掃除がうまくいかなかったり、子供をドツいてしまったりしたとき、
このセリフが、ゾンビのごとくよみがえってきて、わたしを苦しめる。
愛人に向いている、というのと、
専業主婦には向かない、というのは、
必ずしも同じとは限らないわけだけれども。
この罪深い言葉を発した男が、夕べの夢に出てきた。
くだらん踊りなんかやらずに、そこのところ、聞いたったらよかった。
季語には時々、一年中見かけるものでも、季節が決められている言葉がある。シャボン玉がなぜ春なのかは知らないが、春、だと言われると、そうやなあ・・・と妙に納得してしまうのはどうして。
シャボン玉さへとどかないあの部屋に
男には妻子がいる。
休日には会えない。
女は時間を持て余していて、何気なく男の住む家の近くまで来てみた。
偶然、子供たちと過ごす姿でも見てしまったら最悪。
でも、そういうのも悪くないか。
彼はどう出るか。素知らぬ顔を決め込むか。
こんにちは、なんて、しらっと言うか。
少し自虐的な気持ちになる。
公園でシャボン玉を売っている。
ひとつ買って、女は、片隅のベンチに座る。
丁度、男の住むマンションの見える位置。
高層階のそこに向け、ふうっ、と息を吐く。
春の穏やかな日差しの中、そよ風に乗って、シャボン玉は、きらきらと流れ、音も無く消える。
ゆっくり。
すばやく。
愛し合うときの呼吸のよう、想いを包み込んで虹色の玉がとぶ。
でも、そのひとつとして、その部屋にはとどかない。
あの中に、やすやすと入れる女のことが、胸をよぎる。
気持ちは、あたしの方が近くにいるもん、と思ってみる。
そう、それは間違いない。そう、彼も言ってくれる。
だけど。
次々に生まれては消えるというのは、あたしたちが一緒に過ごす時とよく似ている。
かつて、「愛人向き」だと言われたことがある。
それも複数の人から。
そのうちの一人は、そう言って去った。
「妻、母としては、どうかな。」専業主婦になりたかったので、つらかった。
今、夢が叶って・・・とあまりピンと来ないのがモンダイだけど・・・専業主婦になって、家事に追われていて、そんな言葉も遠くなった。
しかし、ときどき、たとえば、掃除がうまくいかなかったり、子供をドツいてしまったりしたとき、
このセリフが、ゾンビのごとくよみがえってきて、わたしを苦しめる。
愛人に向いている、というのと、
専業主婦には向かない、というのは、
必ずしも同じとは限らないわけだけれども。
この罪深い言葉を発した男が、夕べの夢に出てきた。
くだらん踊りなんかやらずに、そこのところ、聞いたったらよかった。