ほら、と言う間に水に 雪結晶 

 めずらしく雪がちゃんと降っていたので、ベランダに飛び出した。
 片手に虫眼鏡。

 幼稚園の年長くらいだったと思う。
 虫眼鏡で、雪の結晶を見た。
 万華鏡の中をのぞいたみたいに、六角形や、星型の白いかたまりを、見た記憶があるのだ。
 先生は、
「神様のおつくりになったものは、すべてひとつひとつ違うんです。
 どれも、たいせつにおつくりになったのですよ。」
 と、おっしゃった。
 ぼたん雪の降りしきる真っ白な空。
 和紙のように、秘めやかな眩しさをたたえた大空から、静かに、静かに、絶え間なく降りてくる雪たち。そのひとかけらずつが、全部形が違うなんて。小さなわたしの心は大きく揺さぶられた。
 
 しかし、今よく考えると、果たして、そこら辺にあった虫眼鏡で、雪の結晶はとらえられるものなのだろうか、疑問に思う。
 あれはほぼ同時期に見かけた百科事典か何かの「雪の結晶」の写真では無いか。
 
 気になる。
 
 雪が無い以上、確かめようがないから、首を傾げながら過ごしてきたわけであるが、ようやく待望の降雪である。
 やった!。
 急がなくちゃ、すぐ止んじゃうよ、きっと。
 
 つくりかけの朝食のお味噌汁の鍋もほったらかしで、ベランダに飛び出し、気まぐれに落ちてくる雪を狙って右往左往。片手には虫眼鏡。
 故郷で雪除けに追われているであろう両親にこの姿を見られたら、ぶっ飛ばされるかもなー、と思いつつ。格闘?すること五分。

 ・・・やはり、きちんと「結晶」を見ることはできなかった。

 それでも、確認できた。
 雪たちは、決して同じかたちをしていない、ということを。ほんとうにひとつとして、同じかたちのものはない。
 風に乗り、ふわふわと、わたしをからかうように舞い降りてくる雪たち。しっかり見ようとするとあっけなく消えてしまう雪たち。
 でも、消える直前まで、それぞれは確かに別のものである。

 元旦に教会へ行った際、神父さまが、世界の平和と、すべての家族の平和とをお祈りされてから、
「皆様おひとりおひとりの願いをささげてください。」
と、特別に時間を下さった。
 祈りのための沈黙の中、意外にも、わたしが祈ったことの多くは、ネットで知り合ったひとたちのこと、であった。
 大きな試験を控えたひとには、合格を。
 病気のあるひとは、回復を。
 悩みのあるひとは、解決を。
 本名も、顔も知らないひとのことを、真面目に祈っている自分が不思議であった。でも、名前その他いっさいの情報が無いからこそ、その祈りは純粋なものになったのかもしれない。

 わたしに降りそそぐ、パソコンからの語りかけ。
 それは、雪のように、静かに心に積もっていく。
 そしてそれは、ひとつとして同じものは無く、捕らえた、と思うと消えてしまう。
 それでも、その残像は、この先何年もわたしの中でこだわり続けていくのだろう。
 
  
   夢むしり巻き込みてゆく虎落笛

 「初夢」で虎に食べられた、と本文に書いた。
 これとは別に「秘密」の方で、「ダンナが勝元サンにかぶれて坊主頭にしてしまった」話を書いた。
 この二つはまったく別々に書いたのであるが、夢占いに詳しい「お気に入り友達」サンから、その関連を言われた。
 ピンと来なかったので、一度観てみることにした。

 そう、「ラスト サムライ」。

 ・・・なるほどね、虎に食われてしまう夢、確かに分からないでもない。
 ただ、わたしには、
 「極上の、エンターテイメント」
 にしか観られなかった。なので、ダンナが、(営業職にも関わらず)坊主頭になってしまうほどなぜ「勝元サン」に心酔するのかについては、よく分からない。
 彼は現在出張中で、このことについてまだ一言も話し合ってはいないのであるが、恐らく、観ていたところが違うのであろう。
 
 大体、「武士道」を、女が本当に理解することなど、できないのではないか、という気がする。
 これは、前から思っていたことで(「男たちのソウル」についての分かりにくさについても以前書いたことがある)、今回は改めてそれを強く感じた、ということなのであるが、男たちが、男たちだけで編成している世界、というものにはやはり入り込めない。
 ましてや、そこにおける「美学」。手に負えない。
 
 男たちにとって「戦う」というのは、一体いかなることなのか?。

 酔っ払いの喧嘩から、暴走族の「決闘」(という言い方はしないのかな)、国家と国家との戦争にいたるまで、およそ様々な「戦い」があるわけで、それをいっしょくたにして語ることなどできないが、ひとつだけ共通するのは、
「なぜ戦うのか」
ということの答えを導く「美学」が、わたしにはまったく理解できない、ということである。
 
 女だからなあ。

 と言ってしまっては、女性から反論があるかもしれないが、それならば是非、その反論を聞きたい。

 なので、もしも夫婦でこの映画について語り合っても、多分、何も出ては来ないであろう。
 そういう意味でも、虎に食われるのはわたしなのだね、きっと。ダンナじゃなくて。

 しかし、こう書いているが、映画そのものは純粋に楽しみ、マスカラを付けなくてよかった、という事態になった。
 あと、ラストについては、あれでいいのではないかしら・・・。

 
 
 
 
 

 
   
   スカートの中「陣取り」の北の風

 久しぶりにミニスカートをはいた。
 何か動機があったのでは無い。たまたま引っ張り出したワンピースの裾が思っていたよりもずいぶん短かったのである。恐らく、洗濯のしすぎで縮んだのであろう。
 多少、気にはなったのだが、娘二人連れて電車を二つばかり乗り継いで行く用事である。朝早いし時間が無いから、そのままで行くことにした。
 そう言えば、一昨年の暮れに「ジョビジョバ」ライブに出かけたときにこれを着たときには、ダンナは一言、
「気イ付けや。」
 って言ったんだっけ。
 セクシーな妻が、襲われないように、と言うのでは無い。
「スソの下から、股引みたいなのが見えるで。」
 ということであった。いくら何でも「股引」ははいていない。しかし、「ガードル」は止めておくことにした。
 そのせいかどうか、今回はダンナも何も言わない。もしかしたら、ツマのスカートの丈なんぞ、もう目に入っていないのだろう。いや、それでいいのだよ、あれこれ面倒だから。

 しかし、寒い。
 膝近くまであるブーツのおかげで、足全体の冷えからは免れているものの、ストッキングが露出している、膝から腿までのほんの数センチ、こいつが冷えること冷えること。
 
 昔は、こんなことは無かったなあ・・・。
 
 小柄なので、短いスカートをはいても、
「おお」
という感じにはならない。短い足には、丈の短さがかえってしっくりくるのかも。それに、「あの頃」はガードル自体、必要が無かった。チビで短足でも、それなりの体型は確保していたのであろう。だから、取り立てて、ミニスカート、と改めて意識することも無く、ごく普通にはいていた。
 しかし、今は、膝周辺にまとわりつく風の、痛いほどの冷たさで、
「ああ、今わたしはミニなんだ・・・。」
と、実感する。これが、通りすがりの、オトコの視線の熱さで実感できるものなら、ぜひ味わってみたいのであるが・・・。一度でいいから。

 という訳で、無事に用事を済ませて帰宅。
 子供たちは、早速、お腹が空いた、と騒ぐ。
 ダンナはダンナで、ジョギングに行く、帰ったらすぐにフロや、と注文しやがる。
 こうなると、主婦は忙しい。
 大慌てで、朝できなかったお風呂の掃除と、夕食の支度の同時進行!。
 
 ところで、これが妙にはかどる。
 何のことは無い、スカート丈が短いので、断然動きやすいのである。狭い家の中、あちこち飛び回るのに、ミニは最適、であった。

 ・・・主婦の皆様、家事が多忙な日には、ミニスカート。
 オススメいたしますよー。

 
  
    初夢で虎に食はれし我なりき
 

  あけましておめでとうございます。
  
 「食われた」瞬間、なぜかとても気持ちがよかった。
 こういう夢をいきなり見てしまっていいものなのだろうか。
 
    
 近頃、服装が変わった、と言われることが多くなった。
 何のことは無い、ジーンズでほっつき歩いてばかりいるというだけのことなのだが。
 ベビーカーを押していた頃にはスカートばかり穿いていた。だから、ジーンズ姿のわたしを見て、へえ、ズボンも穿くひとなんだーという目で見られる。まあ、その気持ちはわからなくも無い。何せ、娘の運動会でさえ、スカートで行ったやつだもんな。
 しかし、きのう、友達とご飯を食べているときに言われたことが、ふと、心に引っかかった。
 「最近、辛口の女になった気がする。」

 辛口の女。
 「それ、どういう意味?。」
 「いや、最近、スカートあんまり穿いてないやん。前はいつもスカートで、女らしいな、って感じだったから・・・感じが変わったかな。
 そういう意味。」

 ふうん。
 スカートだったら甘口で、ジーンズだったら辛口なのか。
 
 でも、それがそれだけの意味ではないのかもしれない。
 そう思い当たることがある。

 最近、道を聞かれないのである。
 
 ここに書いたことがあるかどうか、記憶があやふやなのだが、わたしは、とにかくしょっちゅう、知らないひとから話しかけられる女であった。
 いわゆる「ナンパ」というのではない。
 キャッチセールスから、宗教の勧誘、銀行の自動機の使い方を教えて欲しい、百円貸してくれってのもあったな。
 で、一番多いのが、どこそこに行きたいのですがどう行ったらいいのでしょうか、っていう「道をたずねる」パターン。
 住んでいるのが人工島で完全に計画されてつくられた街というのもあるだろう。とにかく、目立つ看板が無い。「美観を損ねる」とされるものは排除されて成り立っているところなのだ。だから、当然、目的地が分からないひとが、いかにも住民らしいひとに場所をたずねることになる。
 ベビーカーを押し、さらに「スーパーのリサイクルコーナーに出すトレイの山」なんか袋いっぱいに入れて歩いていると、もう必ずと言っていいほど、道をたずねられた。

 それが、最近、まったく無い。
 
 ま、自転車で走り回っているからネ。
 
 と思うこともできるのであるが、なんか「辛口」と言われると、それだけではおさまらない気持ちが生まれてしまう。

 そう言えば、最近、イラつくことが多くないか?。
 ひとの話を聞くことが大好きだったのに、気が付くと、自分が話せないでストレスを感じていないか?。

 娘たちが少しばかり大きくなって、育児に手がかからなくなってきたのに、ものすごく忙しくて目が回りそうに感じるのは・・・。
 欲が出てきているからではないか・・・。

 スカートを穿いてうろうろすれば「甘口」というのでも無いだろう。それに、この年だ、「辛口」と呼ばれるのもワルくは無い。
 それでも。

 「あなた、よく知らないひとから話しかけられるでしょ。ゆとりがあるんだな。だから好きなんだよね。」
 
 あの告白。思い出すと、痛いゾ。

   辛口の女見て居る渡り鳥

 
 
 そのひとの夢ばかり三晩続けてみている。
 一日目には、気にしなかった。
 寝る前に「白い巨塔」なんか見たせいだろうな、と思った。
 そのひととは、彼が医学生時代に一緒に過ごした間柄だった。
 当時も、かなり人気のあった「医師もの」のテレビドラマがあった。ドラマについて、あそこは本当はどうなんだろうとか、いくらなんでもあんなことはありえない、とか色々話していた。だから、反射的に「医師・病院もの」のドラマを見れば、彼を思い出す。そういうことだ。
 しかし、また翌日の晩、というか正確には早朝、目覚める直前にまた彼が夢にいた。
 そして、また、夕べも彼を夢で見た。
 もっとも、夕べは彼の姿を捉えていたわけではない。
 ただ、探していた。
 わたしは、どこかわからないが、群集の中の一人となって、同じく群集の中のどこかにいる彼を探していたのである。
 みつからない、みつからない。
 このひとじゃない、あのひとでもない。
 探す理由はわからない、だけど、ひたすら、必死で探していた。

 どちらかというと、これは悪夢であった。
 目覚めも悪く、大汗をかいていた。

 数えてみれば、ここ十年近く話すらしていない。
 もちろん、手紙も、メールも交わしていない。
 時々、思い出すことはあるけれども、それだけの、ひと。
 今更、どうして「探す」ことがあろう。
 とは言え、気になるので、パソコン検索で、彼が十年前、初めて医師として赴任した病院のホームページを探したら、そこにはちゃんと、彼の名前が、あった。
 彼は、名古屋のひとだ。
 医者になるために入った医科大が、わたしの生まれた町の近くにあった。
 国家試験に合格して名古屋に戻った彼は、今もそのまま、同じ病院で勤務している。
 そういうことが、分かった。
 
 夢が語ることが、もしもあるのだとすれば、それは彼の方から何かを発信しているのでは無くて、わたしの中の何かが、彼という登場人物を通して何かを語っているのだろう。
 それが何なのか、分かりたいような、でも実は分かりたくないような・・・。

   探し人見つからぬまま冬木立

 
 我が家の七・五・三は、カトリック教会で行われた。
 通常も日曜日に行われるミサの中に、毎年組み込まれてあるのだ。
 だから、「七・五・三」に該当する子供たちとその家族だけでは無く、いつも通り信者たちも列席する。
 
 大昔のことになってしまったわたし自身の「七・五・三」のことは、よく覚えていない。
 近所の神社に行ったら、仲良しの子に会い、いつも通りに駆け出して二人で、境内にあるブランコに乗って、母親から叱られた。
 晴着を着ていることなんか、忘れていたのだ。
 
 その程度のレベルだったことを思うと、リーコとチョーコがどの程度まで分かっているのか、はなはだ疑問であるが、神父さまは、子供たちの未来を心から祈ってくださり、そして、お御堂に会した百人近くのひとたちが、見ず知らずの子供たちのためにお祈りをしてくださった。その、あたたかな空気だけでも、記憶のどこかにとどめておいて欲しい。

 誰かが、自分以外のひとのことを、お祈りする。
 そういうパワーの存在は、信じたい。

 
   七・五・三 お御堂包む祈り雨

 話は変わるが、友達から電話があり、とても悲しいことがあったと打ち明けられた。
 でも、なんて言っていいのか、本当に分からなかった。
 なんて言っても、彼女の悲しみには追いつかないような気がした。
 何か、力付けてあげようともがけばもがくほど逆効果になる気がして、無口になってしまった。
 「こんなこと、聞きたくなかったね。」
 という彼女の言葉を、否定はしたけれども、そんなふうに思われてしまったのかと思うと、とてもつらい。
 彼女のためにお祈りしようと思う。
 ただ、そういう、力の存在を信じよう。 
 
 小学校の音楽会に行った。
 ご近所の子供サンが多数出場されるので、なんとなく観たくなったのである。
 ・・・で、感動して帰って来た。
 わが子が出ているわけでもないのに?と言われる方もあるだろうが、なんか、「いい時間を過ごさせてもらった」と思った。
 
 誰かが、損得を考えずに、一生懸命頑張っているのを見ると、嬉しくなる。
 
 また、客席での「ビデオ撮影」が無い、これがいいのだ。
 単純に、手がふさがっていないので拍手が大きい、ということだけでは、無い。
 
 ビデオ撮りのときにつかう言葉は、
 「対象を、狙う」
 「対象を、捕らえる」
 狩猟みたい。そして、そういう目をしている人間の集団がいるということで、どこかその場は殺伐してしまうのかも。
 レンズで「獲物」を追う目の無い音楽会は、ステージを観るまなざしが、ひたすら暖かい。

   木琴のトレモロ団栗降らす雨

 それにしても、女の子の「お衣装」だけは、少し、参った。
 あそこまでのものを着せなければならないのかー、と思うとめまいがしそうになった。そう言えば去年、リーコのクラブ発表会の「衣装選び」でめまいを起こしたことのあるのだった。「前科者」としては、アタマが痛い。
 一瞬、制服のある名門小学校を受験させてみようかとさえ思ったよ。
 しかし、実は、ステージの上では、シンプルで子供らしい服が一番映えるということもなんとなく分かった。
 
 
 ・・マヌケな「激怒」三題話。

 まず、ここに何度か書いている、阪神タイガースファンの六歳児エミちゃんのお話。
 日本シリーズを、甲子園に二夜連続で応援に出向いたほどの「あつーい」家庭に育った彼女。
 が、最終戦では、思うに任せないタイガースにイラつき、涙し、テレビの前でやたら騒がしい母親に向かい、
 「まあ、アイスでも食べたら。カリカリせんと。」
 と、提案するという、意外な落ち着きを見せた。
 しかし、福岡ダイエーホークスの日本一、という結末は、さすがに悔しかったのだろう、
 「ママ、これからもー絶対にダイエーでお買い物したらアカンで!。」
 涙ながらにそう訴えたらしい。
 えーっ、せっかくの「優勝セール」やんかーと母親は思ったが、ほとぼりが冷めるまではいたしかたない、と、しばらくの間、娘連れでは(あくまでも娘連れでは)ダイエーでのお買い物は避けよう、と思ったそうである。
 なのに。

 なのに、数日後、エミちゃんは、お友達のお母さんからあることを伝え聞き、怒りが大噴火した。
 それは。

 なんと、近所に住む、タイガースの選手まさにその人自身が、
 
 ダイエーでお買い物をしていた。

 というものであった。

 その二。
 これは、わたしの話なんですが。

 幼稚園バスの母親仲間と「ハロウィン」の仮装の話をしていたときのこと。
 ハロウィン当日の朝、母親全員が何らかの仮装をして、バス停にいたら先生の反応はどうやろー、というような他愛も無い話の中で、一人の人に、
 「あなたは、セーラー服なんかでバッチリいけそう。」
 と、勧められた。
 そのときには、「まー昔はわたしもロリコン向けキャラで鳴らしたもんさ」などと、多少悦にいってしまったのであるが、帰宅してよくよく考えてみると、
 
 それって、単にセーラー服を着たというだけで「化け物」になる、
 
 という趣旨だったのかもしれないと気が付いた。

 その三。
 ・・・さっきまで覚えていたのだが、どーしても思い出せない。
 この記憶力の貧困さに、激怒。

  オパールの青溶かして十月の空

 どこかあけっぴろげに明るい、十月の空がすきだ。
 来年も、怒りながらも笑っていたい、そんな十月になっていて欲しい。
 さよなら、十月。
 
 近所の空き地が「芝生広場」になった。
 すみっこに、いくつかの木のベンチとテーブル。それだけ。
 それだけ。
 あとは、ただ、芝生。けっこうひろーい芝生。

 わーい!

 実は、こういう場所が好き。
 飾り立ててない、できるだけ自然のままの場所。最も、まるきり人の手の入っていない草むらだったら、花粉症にヤラれて「わーい」なんて言っていられないだろうが。
 
 チョーコと、ボール投げをする。
 しゃぼん玉遊びをする。
 走り回る。
 疲れたら、キャラメルを口に、ひとつずつ。

 空を見上げると、一面の鰯雲。
 「あー、雲の運動会だー。」
 「違う、お店屋さんだー。」
 「やっぱり、幼稚園だー。」
 三歳児には、いろいろなものに見えるらしい。
 
  鰯雲 指さす子らの夢あまた

 ところで、この広場、「快適にみんなが過ごせるように」ということで、いくつかの取り決めがある。
 それは、中学生以上のボール投げ禁止、だったり、ペットの入場禁止、だったり。
 ただ、ペットについては、「犬の入っていいゾーン」というのが決められていて、そこならば、愛犬といっしょに走ったり、遊んだりできる。
 チョーコと、ぼんやりのんびりしているときにも、そこには、何頭かの犬が遊んでいた。
 ・・・が、ふと見ると。
 おじさんが一人、お昼寝中。
 わざわざ、「犬ゾーン」で?。
 日よけなのか顔の上に新聞を載せて、仰向けで、気持ちよさそう・・・。その周りを、犬たちが、不思議そうに近寄っている。
 しかし、その人のペットらしい犬は見当たらない。
 そこが「犬ゾーン」ということに気が付いていないのか。
 それとも、お昼寝中に顔をなめられても嬉しいような無類の犬好きなのか。
 おじさん、どっち?。
 「お前とは結婚できない。だって、お前は妻、ってガラじゃないもんな。」
 ものすごいショックだった。
 でも、わたし、お料理もキライじゃ無いし、アイロンがけだってスキだし、子供の世話も楽しんでできると思うけど、というようなことを言いかけたわたしだが、男は聞く耳を持っていなかった。
 なぜわたしじゃダメなの?。
 悲痛な想いで取り残された。
 遠い日の出来事。

 いったんは結婚をあきらめて、「郵便局の年金」に加入するなどしていたわたしだが、ふいに結婚してくれるひとが現れて、なんとか結婚することができた。「妻」になれて、やがて娘を授かって、首尾よく「母」にもなれた。
 この時点で、わたしはかつて「お前は妻失格」と言い放った男に言ってやりたかった。
 「あんたの言ったことは間違いだよ。」
 と。
 しかし。
 それからまた数年経って、もしかしたら、あのひとの言葉は、案外、真実を突いていたのかもしれない、と思うことがある。

 最も、現在、わたしは不倫の相手がいるわけじゃなし、育児ノイローゼにかかっているわけじゃなし、日々、ごく普通に家事、育児に追われている身である。
 しかし、しんどい、と思うことがある。

 一言で言えば、「重い」のである。
 安定した生活、と言えば聞こえはいいけれども、それに、そういうものを持っているということがある意味、「女の幸福」というものなんだろうけれども、重い。

 結婚相手という相手は、すべてしょいこまなければならない相手なのである。
 その相ひと、つまり、夫、だけではなく、彼に付随するすべてのもの、たとえばその育ってきた家や家族などなど全部を抱えこまなければならない。自分が生んだ子供たちではあるが、わたしの子は相手の子であり、相手の親の孫である。逃げようが無い。
 
 家事がすき、とか子供の世話に向いている、とか、そういったことは、結婚生活の一部分では大事であるけれども、実は、もっとも大切なことは、そんなもんでは無い。それは、
 
 ひとりの男をまる抱えして生きられるか。

 その覚悟があるかどうか、にかかっている。

 重ねて言えば、妻になるということは、好きな男の「私」の部分ばかりと対峙する生活になる、ということである。
 が、わたしは、「公」の男の方が本当はすきだ。
 もしも、容姿端麗で、しかもお酒に強かったなら、夜の仕事をして、男の「公」の部分に属する女になりたかった。

 だから、くやしいけれども、かつてわたしを「妻には向いていない」と判断して捨た男は、わたし自身が今頃気が付いたわたしの姿を見抜いていた、ということになる。
 彼はわたしのことが誰よりもわかっていたからこそ、夫にはならなかった。やがて、妻から捨てられる可能性がある、と判断したのである。

 
   慣れた腕ならいらないと寝待ち月

 「ピアノを買ってやるから愛人にならないか」と言った男もいた。
 冗談でしょ、と笑って終わったけれど。
 だけど、結婚してはじめて気がつく真実。もし、愛人として生きていれば、「まる抱え」の人生を渇望していたかもしれない。
 それは、わからない。
 風邪がなかなか治らない。
 ご近所のかかりつけ医の先生に、抗生剤を処方していただいたが、その帰り道でも、自転車をこぎながら、くしゃみが止まらない。
 しつこい風邪だなー。
 ・・・と思った瞬間、目に入って来たのが、セイタカアワダチソウの黄色い群れだった。
 もしかしたら、これのせいだったりして。
 もう十年近く前ではあるが、アレルギー検査をしたときに、反応した植物のひとつが、この草だった。
 風邪と花粉症のダブルパンチ、だとすれば、この「しつこい風邪症状」にも納得がいく。
 まあ、原因が何であろうと体調不良に変化があるわけでは無い。せいぜい、真面目にマスクをしよう、位の決心をするだけのことである。
 

   アワダチソウ黄の鉾は風突きて増え

  
 そう、この草は年々増えているみたいな気がする。
 花粉症で無ければ、鮮やかな黄色は少なからず心を奮い立たせてくれるであろうに。
 
 話は突然変わるが、三人目の赤ちゃんを産む友達が、もう妊娠しなくなる手術を受ける、と話していた。
 わたしも、もう子供はいらない。
 だとしたら、そういう手術を受ける、という選択肢もあるのか、と思った直後に、
 いや、まだこれから好きなオトコができて、そのひとの子なら欲しい、って思うかも、
 −と思った。
 そんなことを思いつく自分に、自分が一番びっくりした。
 
 アワダチソウは風を突きながら、次々子供を増やしてゆく。
 人間はそう簡単に子を増やすことはできない。
 できないのだけれど、イタズラのように、時々、本能が顔を出すらしい。

 
 近所に住むタイガースのピッチャーを、スーパーで子供たちがみつけて、握手をしてもらった。
 が、3才のチョーコは恥ずかしいやら事情が分からないやらで手を出さない。
 わたしの後ろに隠れてしまったので、行きがかり上(役得、というのかな)、わたしが握手をしてもらった。
 
 とても、大きくて、ぶあつくて、ピッチャー、という仕事は「手職人」なんだなーと気が付いた。

   

   投手の手あつくて勝負の秋なれば

 実際に近所で選手に会うと、親しみを感じて「このひとには勝たせてあげたい!」なんて思う。だから、日本シリーズは、タイガースを応援中。
 タイガース応援、と言えば、このとき選手をみつけたエミちゃんは、甲子園で二日連続の応援である。
 なんで、「プラチナチケット」が、家族で二日分もとれたのかは「パパのお仕事」によるのだそうだ。世の中、そういうものなのらしい。
 ついで、と言ってはあれなんだけど、この家族から以前、
 「U.S.Jの、あさって限定のチケットを買わない?。」
と、持ちかけられたことがあった。
 「あさって限定?。あさってしか使えない、ってことだよね。」
 そこにいた5,6名の母親仲間は顔を見合わせた。
 「ちょっと急だね。」
 「なんで、あさってだけなの。」
 エミちゃんのお母さんは、みんなが色の良くない返事をするのを、やや困った顔で聞きながら、
 「だんなが会社で、もらってきたんだよね。でも、うちはパスがあるからもともと無料だし・・・。だから、パスをお持ちでない方に買っていただけると嬉しいんだけど・・・。」
 と、おっしゃった。
 今度は、そこにいた面々はさっきとは違う意味で、考え込んだ。
・・・それって、「タダ」でもらったものを、わたしらに「売りつけよう」としているのか?・・・。
  余りにも悪気の無い言い方だったので、誰も不快にはならなかったが、あきれたことは確かで、多分、そのチケットは、そこにいた人間は誰も「買う」とは言わなかった。
 わたしは、エミちゃんの「裏オモテの無いキャラ」がとてもスキなのだけれど、そのキャラは、どうも母親から受け継いでいるものらしい。
 そう言えば、このときの仲間のジュナちゃんが、きのう、母親数人に向かって、
「わたしね、スイミングの級、エミちゃんよりも、リーコちゃんよりも進んでるんやで。
 エミちゃんなんか、ジュナよりもずーっとお誕生日は早いのに、むちゃ進むの遅いんやで。
 わたしが一番なんやで。」
 と、声高にしゃべっていたが、あれも、家庭でそういうふうに話し合っているのだろうなあ。
 おとながウラの話としていろことも、娘はそのままオモテに持って行ってしまうから、コワイ。
 リーコも、オモテで何を言っていることやら・・・。
 
 
 

  
 例の「六甲おろし」エンドレスのスーパーで、ランチタイムだけの「おべんとう」を買う。
 ひとつのおべんとうを、3才の娘とはんぶんこするのである。 
 今日は、
 くりごはん
 であった。
  
 が、うちで開けたら栗が2つしか入っていなかった。
 
 いや、あの、別にそんなに栗が好き、というわけでは無いのですが・・・。
 
 ただ、ひとつ前に並んでいた、筋骨たくましいオニイサンの分には、やたら栗を入れてあげていましたね、「おべんとう詰め係」のオネエサン・・・。

 その心を知りたい・・・。

 意地汚い話になるかと思うが、敢えて書かせていただくと、幼い子供を連れていると、こういう場合、トクをすることが、実は多い。
 ま、くりごはんの中に栗が多い、という程度のことであるし、その分、おべんとうの中のお米の割合は下がるわけだから、本当にそれがオトクなことなのかどうかはわからないのであるが、なんとなく「無視された」ような気になるのである。

 たとえば、母子が、ものすごい口喧嘩をして、子供の方が、部屋にこもってしまう。
 ほどなく夕食になり、
 「ごはんできたよ。」
 母の声はまだ怒りをたっぷり含んでいる。
 ザラついた気持ちで着こうとする夕食の席。
 今夜のごはんは、くりごはんである。
 そう言えば、さっき、喧嘩する直前、母親が栗をむいていたな、と子は思う。
 ぴったりと実にまとわりついた渋皮を器用に包丁でとりのぞく様子を、なんとなく「すごいな」なんて思って見ていた。
 そのあと、大喧嘩になり、穏やかな尊敬の気持ちはフッ飛んでしまったが。
 
 甘みを含んだ空気が鼻をかすめる。
 炊きたての、くりごはんの匂い。
 ふと匂いの方に目をやると、母親が、今まさに自分の茶碗を手に取って、ごはんをもりつけたところだ。
 こちらに差し出される茶碗を持った手が、まだ怒っているのかどうか、子は少し怖い。
 
 そして運命の茶碗は、いったんこちらに差し出されようとして、また引っ込められる。
 あれ、と思っていると、母親の手に持たれたしゃもじから、幾つかの栗が、子のごはんの上に追加してのせられる。

 「・・・・。」
 「はい。」
  手渡されたごはん茶碗、家族の誰よりもたくさん盛られた栗。
 母親の顔を見ると、いたずらっぽい目配せに、柔らかな微笑みがのっかっている。
 

  栗ふたつみっつ増やして仲直り

 
 
 ・・・という感じ。
 そう、くりごはんの栗の数は、愛情の密度に連動しているのである。
 とまあ、ただの「サービスランチべんとう」に、そこまで断言はしないが、あまりそういうことでお客さんの差別化をしないでいただきたい。少なくとも、
 「あ、なんか怒らせた?。」
 程度の不安感はもたらされる。

 仮に「くりごはん」を頼んで、栗がひとつも入っていなければ、と想像すれば、そこらへんの心もとなさは分かっていただけるであろう。
 ・・・頭の中の「六甲おろし」を何とかしてくれ・・・。

 と書きつつ、気が付いたのだが、「阪神ファン」と自ら名乗る方でも、この曲を全部きちっと歌える人は案外(わたしが思っていたより、ということではあるが)少なかった。
 途中の「漢文調」のところは、テキトーだったりする。確かにこれでもかこれでもかと聴かされている割に、アタマに入らない。キチッと聴けばカッコいい歌詞であるのだが。
 
 それはともかく、18年前の優勝の際、何をしていたか、というのもよく話題に上る。
 わたしはと言えば、
 覚えが無い
 のである。
 お、幼すぎて、と言いたいのをこらえて、真実を述べれば「受験生だった」のである。
 しかも、関西在住では無い。だから、まったく記憶に無いわけでは無いが、今回ほど熱を感じなかった。
 で、今回。
 
 今回、優勝が決まった瞬間には、「能」を観ていた。
 近所の「アトリウムプラザ」で、「能」の上演があったのである。
 夕刻、9階吹き抜けのドーム型の建物には、日本人ばかりではなく、外国人も集まっていた。
 初心者向けなので、解説が入るのだが、まさにその解説中、
 「途中経過」
を、大倉源次郎サンおん自らがなさったのである。
 演目がひとつ終わったところで、
 「今、優勝が決まったそうです。」
 会場に巻き起こる拍手と歓声、って、おいおい・・・。
 
 続いての狂言では、タイガース優勝にからんだアドリブもあり、気が付いた人から、しのび笑いが広がり、なかなか楽しいものであったが。

 その時間、子供二人を押し付けられた夫は、文字通り、子供相手に格闘していたようで、下のチョーコが、何をおもったか、ハサミを持ち出して来て、夫の(少ない)てっぺんの髪をちょん、と切った瞬間、胴上げがはじまったそうである。テレビのあちらでも、こちらでも、絶叫。
 ただし、夫はドラゴンズファン・・・。星野サンの胴上げを見るのは複雑な心境であったろう。
 って、それどころではなかったみたいだが。

 能を観たのは初めてでは無かったが、ドーム型の建物で、というのは初めてである。
 「近未来と中世との融合」というネライがあったらしいが、声がワーンと広がって聞き取りにくいのが気になった。
 しかしながら、半能「石橋」での、笛の音はすばらしかった。
 息を呑むほどに。
 あの音は、わたしの中に、おそらくずっととどまり続けることだろう。
 「あの優勝のとき、何をしていた?。」
 とたずねられたなら、かならずわたしはあの笛の音を思い起こすに違いない。

  笛の音の織り込まれゆく月の秋
 
   炎昼にフライドポテトといふ惰性

  
 暑い。
 暑い。
 と言いつつ、主として経済的な事情により、エアコンをなるべく点けずに過ごす昼間である。

で、いい年をしてコミックに感動して涙をぬぐいながら汗もぬぐっていたりするのである。
 感動できる自分を喜んでいいものだろうか。

 感動、と言えば、阪神タイガースの優勝は、もう秒読みである。
 園児たちが「六甲おろし」を歌えるのは最早常識。今や、
「それでは、カタオカ行きマース!。」
選手ごとに応援歌まで歌えてなんぼ、なのである。
 暑い、じゃなかった、熱い。
 しかしながら、ジャイアンツのTシャツを着ていた子供を殴る、というのは行き過ぎである。
と言うか、それは、応援とは趣旨がまったく違う。
 タイガース快進撃の中、他球団を支持しているのが気に入らない、そういうことはあるかもしれない。
 が、気に入らないから殴る、というのは動物以下の行動であろう。
 長年、猫と付き合ってきたが、彼らは「縄張りに侵入された」とか「連れ合いにちょっかいを出された」とかで暴力沙汰になることはあっても、単に「気に入らない」でドツキ合いになるということは無かった。気に入らないやつだな、ということはあるみたいである。しかし、無用のトラブルは避けようとするかのように、お互いに目を合わせない。そういう知恵が見えた。
 気に入らないから、と暴力沙汰を起こす。
 こいつは、もうどんな理屈があろうと、通らない。
 が、人間の子供は、実はとてもしょっちゅう、こいつを理由に暴力沙汰に及ぶ。
 しかしそれは通らないよ、ときちんと言うのがオトナの責任であろう。
 ・・・と普通のオトナならそうだろうと思っていた。

 しかし。
 この「暴力事件」を聞いた阪神ファン主婦?は、
「そりゃ、わたしでも殴ったるわ。」
と、のたまわった。
 そして、そこに、笑いが起こった。

 そりゃ、ワル乗りしているだけだよ、と言うことはできるだろう。
 でも、この「熱さ」の中、そういう、わけのわからない「何でもあり」が横行しているのが気になる。

 宝塚生まれの友人は巨人ファン。
 「阪神タイガースは好きだったけど、阪神ファンが嫌い」
で、巨人ファンになったのだそうだ。
   蝉去りて蜜月終へし木々となる

 残暑が続く。
 けれども、あの蝉たちの声は、もうしない。

 雨が多かったからだろうか。
 木々の若葉はいつもの年以上に葉を茂らせて頑張っていたように思う。それは、短い夏の光を少しでも多く取り込むための作戦だったのかもしれないが、雨が上がるたびに見上げるケヤキの、うちかさなって空を覆う緑色の眩しさに圧倒されていた。そして、その若葉の生い茂った中から、夥しく降り注いでくる、蝉の声、声、声。
 

 あの蝉たちはどこに消えたのか。
 そして毎年、不思議に思うのは、夏の終わりを・・・つまり自分たちの生きていられる季節の終わりを、蝉たちはどんなかたちで知るのだろう、ということだ。
 専門のひとに聞いてみたことは無いのだが、誰かが、それはやっぱり気温の変化だろうと話していた。
 朝夕の涼しさこそ、蝉に季節の終わりを知らせるのだろうね、と。
 しかし、こうも毎晩寝苦しい夜を重ねていると、果たして蝉を納得させられるほど、気温は下がっているのだろうか、といぶかしく感じる。

 蝉の大合唱の消えた庭で耳をすますと、風の音。
 それは、夏よりも半音高い。乾いた葉っぱの群れの、奏でる風の音。木が水分を無くしていくのが日に日に分かる。風の音で。
 蝉たちのもらっていた樹液も、もしかしたら日々、薄らいでゆく、そんな気がする。
 蜜月が終わったのだ。蝉と木々との。

  
   ふるさとの海手繰り寄せソーダ水

 十年ばかり、ふるさとの海で泳いでいない。
 原発の話で話題にのぼることの多い海だけれども、その海の色の透き通った輝きと言ったら、このマンションの窓から毎日見える海とはまったく別のもののようであった。
 泳ぎは大してできないが、わずかばかり沖に泳ぎ出て、顔をつけて平泳ぎをしたとき、大きく水を蹴ってみたつま先の、ペデイキュアの桃色が、エメラルド色の波の中で、小魚みたいに揺れて見えた。どこからか舞い流れて来る、海草たち。次々生まれて消える泡たちは、日の光を取り込んで眩しく散らばる。
 そして、潮の香り。

 今、こんなに近くに海のそばにいて、船の汽笛を朝夕に聞きながら暮らしているのに、海とともにいる、ということを忘れがちなのは、潮の香りがしないからかもしれない。ひとに飼いならされた、優しい瀬戸内海は、もともと潮の香の薄い海だったのか。それとも、あちこち人の手が入ることを赦しているうちに、香りを無くしてしまったのだろうか。

 でも、このまちが海辺にあることは確かである。
 一度、心からそう思わされたことがある。
 それは、この今住んでいる人工島では無い、もうひとつの人工島へ行ったときのことだった。
 結婚前だった。本土から島へ行こうとして、当時はフィアンセだった主人と、岬にある喫茶店に入った。
 まだ震災の傷痕があちこちに残っていたその夏だが、その店は被害をまぬがれたのか、たいそう古ぼけていた。小さな店で、ドアを開けると、穏やかな、年をとった声が二つ、いらっしゃいませ、と出迎えてくれた。
 そのとき、わたしは「クリームソーダ」を頼んだ。
 ほとんどの場合、熱いコーヒーか冷たいものならアイステイーを選ぶのに、どうしてクリームソーダだったのか。理由は分からないのだが、このときのクリームソーダは、忘れられないものになった。
 その、色、である。
 それは、青い色をしていた。
 透き通った瑠璃色、というのか、見たときわたしはラピスラズリを思い出した。あるいは、一心に咲くデルフィニウム。
 それまでは、クリームソーダは緑色だと思っていた。透明なエメラルド色の、炭酸水。
 「神戸のは、青なの。」
 そうして、わたしは、ほとんど連鎖的に、海の色を思ったのだった。ふるさとにも、海はあった。そして、ここにも海はある、でもそれはきっと、全然違う海なのだと。

 ところで、先日、とあるデパートのレストランで、クリームソーダを見た。
 見た、というのは、自分が頼んだのでは無く、すぐ近くのテーブルに着いていた老夫婦らしい二人連れの、おじいさんの方が頼んだからである。
 そして、それは、見慣れた緑色だった。
 ふとわたしは、目の前で子供の口にスパゲテイを押し込んでいる主人に、あの日のクリームソーダの青い色の話をしてみた。
 「そうやったかな。」
 それは、もうそんなことは忘れている、見慣れた男の投げやりな声だった。
 あのときの、クリームソーダは幻だったのか。
 そして、もしかして、この男も。
 それから、あの日のわたしも。
 自転車を漕ぎ出すとき、一瞬、ふわりと羽根を感じる。いまだに。
 曇り空の下、羽根の感覚がなんだかいとおしくて、何度も何度も強くペダルを踏み込んでみた。

   ペダル踏む爪先はただ夏へ夏へ
 
 今朝、雨上がりのエントランス付近で、確かに夏を感じた。
 夏の女神が、裸足の爪先をいたずらっぽく晒しているのを。
 実家から、大きな宅急便が届く。
 内容のところには「野菜」とある。でも、本当は「新じゃが」であるのをわたしは知っている。そういう、季節だ。
 京都で寮暮らしをしていた頃、やはり今頃こうしてじゃがいもが送られて来たのだが、伝票に大きく、
 「米、いも」
 と書いてあって、当時は花も恥じらう19才の娘には、それがとてつもなく恥ずかしかった。それで文句を言って以来、じゃがいもであっても、新米であっても、そこには「野菜」と書かれてある。
 最も、じゃがいもが十いくつも詰まった箱を片手で肩に担ぎ上げられるほどたくましくなった現在、たとえ伝票になんと書かれてあっても、もうどうでもいいのではあるが・・・。
 
 中を開けると、じゃがいもだけでは無かった。きゅうり、ミデイトマト、茄子、夏大根、そして、娘たちにチョコレート、である。それがほんの少しずつ、きちきちっと詰められている。自然に実家の畑を思い出す。
 畑、と言っても、プロの農民では無い。父親が趣味でつくっている畑であるが、そこはB型らしくこだわりがあり、わたしたち子供は、迂闊に侵入できなかった。無農薬にこだわり、草取りも自分でする。苗選びから水やりから収穫まで、そこは父の「王国」である。
 だから、当然、野菜はどれも不格好で、畑仕事に慣れない人が見たら、信じられないような形のものもある。しかし、とにかく、味はいい。
 じゃがいもは、コロッケにすることにする。
 きゅうりは、早速サラダにする。星型の黄色い花つきだ。娘に見せたら、全く驚かない。幼稚園で育てているのだそうだ。
 そう言えば、園の庭の端に、そういう夏野菜のスペースがあったような気がする。
 娘は得意げに、
 「そいでね、お茄子もあってね、お茄子はね、お花が紫のお星様みたいなんだよ。」
 と、言いながら、七夕のときにこしらえた飾りを持って来る。
 「ほらね、こんなん。」
 手にした短冊には、一面、紫のクレヨンで塗られた茄子の実、そして、花の芯に黄色い色をぽっちりと乗せた、茄子の花が描かれている。
 「ふーん。よく見てるやん。」
 感心して見せると嬉しそうにしている。

   星いくつ落ちて咲きたる茄子の花

 しかし、娘たちに、茄子料理は不評なので、翌日のカレーに細かく刻んで煮込むことにした。

 
 それにしても・・・。
 宅急便を持って来てくれるお兄さんたちは、荷物をこちらに渡すときに、必ず、
 「大丈夫ですか。重いですよ。」
 と、声をかけて下さるのだが、持ってみると、ほとんど、大して重くは無いのである。よその奥様は、そんなにかよわくていらっしゃるのであろうか。
 決して並外れた怪力とは思っていない(思いたい)ので、それはきっと、わたしの見た目が華奢で、箸より重いものなど持てそうにないみたいに見えるのだろう、ということにする。(しかし、Mサイズのシャツのぴったりスリーブがきつかったりする。)

  

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