恋猫
2002年3月7日 ニチジョウのアレコレまさに、冴え返る、という感じの一日でしたね。
寒かった。
一度あったかくなると、余計にこたえます。
恋猫や人工島の夜は更けて
こんなに寒くても、外へ出て、しかも恋しい相手のためにケンカまでしようという、そのエネルギーはどこからくるのだろう。
友達の飼い猫は、この時期、戦いに敗れて大けがを負い、それが原因で命まで落とした。
人工島に住んでいる。
人が自分たちに都合よくこしらえた環境だから、買い物にも便利、食事する場所もある、それから適度な緑。
この、適度、というのが肝心である。
人がくつろげないほど少なくてもいけないが、多すぎてつぶされてもいけない。
住んでいるから言うわけではないけれど、この島は割にそのバランスがとれている。
もう少し自然に緑があってもいいかな、と思うけれど、そのあたりは、島が年をとれば解決できるだろう。
考えてみれば、ここに住み始めた頃には、激しい猫の声を聴くことも無かったように思う。
寒さの残る人工の島の夜、野生の証拠を聞いた。
ここに住み始めて、もうすぐ5年目になる。
寒かった。
一度あったかくなると、余計にこたえます。
恋猫や人工島の夜は更けて
こんなに寒くても、外へ出て、しかも恋しい相手のためにケンカまでしようという、そのエネルギーはどこからくるのだろう。
友達の飼い猫は、この時期、戦いに敗れて大けがを負い、それが原因で命まで落とした。
人工島に住んでいる。
人が自分たちに都合よくこしらえた環境だから、買い物にも便利、食事する場所もある、それから適度な緑。
この、適度、というのが肝心である。
人がくつろげないほど少なくてもいけないが、多すぎてつぶされてもいけない。
住んでいるから言うわけではないけれど、この島は割にそのバランスがとれている。
もう少し自然に緑があってもいいかな、と思うけれど、そのあたりは、島が年をとれば解決できるだろう。
考えてみれば、ここに住み始めた頃には、激しい猫の声を聴くことも無かったように思う。
寒さの残る人工の島の夜、野生の証拠を聞いた。
ここに住み始めて、もうすぐ5年目になる。
水ぬるむ
2002年3月2日 ニチジョウのアレコレ水ぬるむ触れあへる肩いよよあつく
京都で学生時代を送った。
はじめて故郷を離れて暮らした。
ちょうど短大の合格通知が届いたのが今頃である。
はじめて年上の人と恋した。
出会ったのも今頃である。
今思うと喜劇めいて思えるほど、ふたりとも青かった。今日日の若い人たちだったらバカにするかも。
何せ、この前髪を切りに行ったら、初対面の美容師さんに、
「わたし、今、彼と暮らしてるンですけどオ。」
なんて、いきなり切り出されたもんね。
そんなナマナマしいこと、初めて会う年上のお客に、それも、天気とか食べ物とかの話とおんなじ調子で繰り広げちゃってもいいんだろうか、と、どきどきしちゃったわ。
わたしの若い頃だったら、ミセスにそんなことを打ち明けたら、
「あなた、そんな不真面目なこと、だめよ。」
なんて、言われるのがオチだったもんだ。
世の中、変わった。
最早、純愛は不倫の恋にしか存在しない。
そう言い切った人までいる。
かつての恋愛に存在した倫理観がことごとく失われたから、制限が無くなり、自由にはなったものの、どきどき感も失われたとか。
それでも、やっぱり出会いのときめき、そこから始まってゆくプロセスのひとつひとつ、やっぱり恋が生まれれば必ずひとつそこにストーリーができるはずである。
京都の鴨川。
川べりに一組ずつ、肩を寄せ合いながら、等間隔に並ぶ恋人たち。長いこと京都に行っていないけれど、今でも、あの風景は見られるのだろうか。
わたしたちは、あんなふうになれるかなあ。
そんなことを思いながら、橋の上、先を歩いていく彼の後ろ姿をみつめていた、あの季節がやってくる。
京都で学生時代を送った。
はじめて故郷を離れて暮らした。
ちょうど短大の合格通知が届いたのが今頃である。
はじめて年上の人と恋した。
出会ったのも今頃である。
今思うと喜劇めいて思えるほど、ふたりとも青かった。今日日の若い人たちだったらバカにするかも。
何せ、この前髪を切りに行ったら、初対面の美容師さんに、
「わたし、今、彼と暮らしてるンですけどオ。」
なんて、いきなり切り出されたもんね。
そんなナマナマしいこと、初めて会う年上のお客に、それも、天気とか食べ物とかの話とおんなじ調子で繰り広げちゃってもいいんだろうか、と、どきどきしちゃったわ。
わたしの若い頃だったら、ミセスにそんなことを打ち明けたら、
「あなた、そんな不真面目なこと、だめよ。」
なんて、言われるのがオチだったもんだ。
世の中、変わった。
最早、純愛は不倫の恋にしか存在しない。
そう言い切った人までいる。
かつての恋愛に存在した倫理観がことごとく失われたから、制限が無くなり、自由にはなったものの、どきどき感も失われたとか。
それでも、やっぱり出会いのときめき、そこから始まってゆくプロセスのひとつひとつ、やっぱり恋が生まれれば必ずひとつそこにストーリーができるはずである。
京都の鴨川。
川べりに一組ずつ、肩を寄せ合いながら、等間隔に並ぶ恋人たち。長いこと京都に行っていないけれど、今でも、あの風景は見られるのだろうか。
わたしたちは、あんなふうになれるかなあ。
そんなことを思いながら、橋の上、先を歩いていく彼の後ろ姿をみつめていた、あの季節がやってくる。
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お雛様
2002年3月1日 ニチジョウのアレコレお雛祭りである。
狭いマンションの我が家には、三段飾りの、ケース入りのお雛様がある。
上の娘が初節句を迎えた際、わたしの両親が贈ってくれたものだ。
お雛様を出す、と言っても、箱から出してタンスの上にしつらえるだけである。子供の頃、実家でお雛様をしつらえるときのような大騒ぎにはならない。
七段飾りのそれは、床の間にお人形を設置するスチール製の段を設置することから始めなければならないもので、毎年、お雛祭りが近づくと、両親に祖母も加わって、大変なことになっていた。
お雛様、お内裏様はもとより、家来たちの小道具のひとつひとつ、牛車やお針箱、といったお道具を一そろえならべ終ってやっと出来あがると、ぼんぼりに灯を入れて家族中で眺めた。北陸の三月はまだ雪混じりの毎日だったけれど、お雛様を飾ると、もう春かな、というほのかな実感が沸いて来た。
お雛様見ておはします過去未来
お雛様の視線がどこを向いているのか、子供の頃、不思議に思ったことがある。焦点が定まっているのかいないのか分からない上に、口もやや開き気味、怖いと思ったこともあった。
わたしの見えていないものが見えている。
そんな気がした。
人形は時として、生きている人間を追い越して、この世に在り続ける。
実家のお雛様も、ここにあるお雛様も、もしかしたら、今こうしているわたしよりはるかに長くこの世に在り続けるかもしれない。
そうして、わたしという、かつては小さな女の子だった生き物が成長し、そうしてまた小さな女の子を産んで育てている様子を黙って見つめ続けている。
狭いマンションの我が家には、三段飾りの、ケース入りのお雛様がある。
上の娘が初節句を迎えた際、わたしの両親が贈ってくれたものだ。
お雛様を出す、と言っても、箱から出してタンスの上にしつらえるだけである。子供の頃、実家でお雛様をしつらえるときのような大騒ぎにはならない。
七段飾りのそれは、床の間にお人形を設置するスチール製の段を設置することから始めなければならないもので、毎年、お雛祭りが近づくと、両親に祖母も加わって、大変なことになっていた。
お雛様、お内裏様はもとより、家来たちの小道具のひとつひとつ、牛車やお針箱、といったお道具を一そろえならべ終ってやっと出来あがると、ぼんぼりに灯を入れて家族中で眺めた。北陸の三月はまだ雪混じりの毎日だったけれど、お雛様を飾ると、もう春かな、というほのかな実感が沸いて来た。
お雛様見ておはします過去未来
お雛様の視線がどこを向いているのか、子供の頃、不思議に思ったことがある。焦点が定まっているのかいないのか分からない上に、口もやや開き気味、怖いと思ったこともあった。
わたしの見えていないものが見えている。
そんな気がした。
人形は時として、生きている人間を追い越して、この世に在り続ける。
実家のお雛様も、ここにあるお雛様も、もしかしたら、今こうしているわたしよりはるかに長くこの世に在り続けるかもしれない。
そうして、わたしという、かつては小さな女の子だった生き物が成長し、そうしてまた小さな女の子を産んで育てている様子を黙って見つめ続けている。
春隣
2002年2月28日 ニチジョウのアレコレ雨が降った。
春雨、といった感じの、あたたかくてやさしく煙るような雨である。
雨や雪の多い土地で育ったので、今住んでいる街で暮らし始めた頃は、雨の少なさに戸惑った。
出掛けに曇っていると、出先で必ず雨になるような気がしたから、必ず傘を持って出た。
電車に乗ると、傘をブラ下げているのはわたしだけ。この街の近くで育った主人も、よほどの悪天候で無ければ傘は持って行かない。育ち、というのは何もゴハンの食べかたや、立ち居振舞いだけに現れるものではないようだ。天候はじめ自然に対する心構えのようなものにも現れるようである。
ところで、わたしは雨が好き、である。
コドモふたり抱えていると、育ち盛りのあふれんばかりのエネルギーを室内で消費させることにほとほとくたびれて、外に出られない雨の日なんか大嫌い、ということになってしまうのであるが、コドモのことなんかどうでもいいということになれば、雨はいい。
ぼんやりしていても許される気がする。
とりわけ今日のように、降っているのか、止んでいるのか、どっちか分からないようなたおやかな雨の日には、バタバタと掃除なんかしないで、熱い紅茶をすすりながら、じっくりと読書などしていたら最高である。
お気に入りの映画をみるのもいい。
ま、花粉症が少しラクってのもありなんだけど。
実際の今日一日は、コドモ二人と小雨の振る中、自転車をブッ飛ばして図書館へ行くなど、とてもバタバタした一日であったのだが。
ももいろの雲の咲く朝春隣
明日は晴れるみたい。今日の雨に洗われて、街はきっときれいな姿を見せてくれるだろうな。
春雨、といった感じの、あたたかくてやさしく煙るような雨である。
雨や雪の多い土地で育ったので、今住んでいる街で暮らし始めた頃は、雨の少なさに戸惑った。
出掛けに曇っていると、出先で必ず雨になるような気がしたから、必ず傘を持って出た。
電車に乗ると、傘をブラ下げているのはわたしだけ。この街の近くで育った主人も、よほどの悪天候で無ければ傘は持って行かない。育ち、というのは何もゴハンの食べかたや、立ち居振舞いだけに現れるものではないようだ。天候はじめ自然に対する心構えのようなものにも現れるようである。
ところで、わたしは雨が好き、である。
コドモふたり抱えていると、育ち盛りのあふれんばかりのエネルギーを室内で消費させることにほとほとくたびれて、外に出られない雨の日なんか大嫌い、ということになってしまうのであるが、コドモのことなんかどうでもいいということになれば、雨はいい。
ぼんやりしていても許される気がする。
とりわけ今日のように、降っているのか、止んでいるのか、どっちか分からないようなたおやかな雨の日には、バタバタと掃除なんかしないで、熱い紅茶をすすりながら、じっくりと読書などしていたら最高である。
お気に入りの映画をみるのもいい。
ま、花粉症が少しラクってのもありなんだけど。
実際の今日一日は、コドモ二人と小雨の振る中、自転車をブッ飛ばして図書館へ行くなど、とてもバタバタした一日であったのだが。
ももいろの雲の咲く朝春隣
明日は晴れるみたい。今日の雨に洗われて、街はきっときれいな姿を見せてくれるだろうな。
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花粉症
2002年2月27日 ニチジョウのアレコレ花粉の季節がやってきました。
というコトバをよく耳にする。
花粉症、という単語が季語なのかどうか、実は知らないのであるが、普通に日本で暮らしている大人なら、多分ほとんどの人が知っている症状だから、春の季語なんじゃ無いかと勝手に思った次第。
勝ち組も負け組も無し花粉症
わたしが初めて発症した十四、五年前には余り知られたビョーキでは無くて、
「それって、うつるの?。」
と、真顔で聞かれることもあった。
今ではテレビの気象情報コーナーの枕詞である。
花粉症も市民権を得たものだなあ。
勝ち組、負け組というコトバも昨年あたりからよく耳にするようになった。
正直言うと、このコトバはよく意味が分からない。
わたしが、勝負にほとんど全く拘泥しない性質、ってのもあるだろうが。拘泥しない、という言い方もおかしいなあ。大体、勝負というものが分からないタイプなのだ。鬼ごっこにしろ、ババぬきにしろ、もう少し高度なゲーム・・・オトコ争奪戦、にしろ、とにかく勝利してもエクスタシーを感じないのである。負けず嫌いで、その性格が幸いしてどんどん自分のできることのレベルを上げていく人がいるけれども、そういう人ってやっぱり、
ああ、勝てて嬉しい・・・。
と、浸れる何かがあるのだろう。
そういう、勝利の麻薬、みたいなものに触れることができないでいる。だから、勝ち組、負け組、というコトバを聞くとなんだか落着かない。わたしの知らない世界があり、わたしの知らない価値観で動いている人たちが確実にいるのだ。
そんでもって、わたしがぜんぜん知らない間に、ほれ、アンタは勝ち組、或いは負け組、なあんて選別されちゃっていたりするのである。これはコワイ。
それに比べると花粉症はカワイイ。
抗体検査をすれば、すぐに分かっちゃう体質。
いや、抗体検査なんかしなくても、ハナ、クシャミに目のカユミ、が加われば立派に花粉症ワールドの住人である。わかりやすい。気持ちいいほどすっきりしているではありませんか。その症状がもたらすものとは裏腹に。
というコトバをよく耳にする。
花粉症、という単語が季語なのかどうか、実は知らないのであるが、普通に日本で暮らしている大人なら、多分ほとんどの人が知っている症状だから、春の季語なんじゃ無いかと勝手に思った次第。
勝ち組も負け組も無し花粉症
わたしが初めて発症した十四、五年前には余り知られたビョーキでは無くて、
「それって、うつるの?。」
と、真顔で聞かれることもあった。
今ではテレビの気象情報コーナーの枕詞である。
花粉症も市民権を得たものだなあ。
勝ち組、負け組というコトバも昨年あたりからよく耳にするようになった。
正直言うと、このコトバはよく意味が分からない。
わたしが、勝負にほとんど全く拘泥しない性質、ってのもあるだろうが。拘泥しない、という言い方もおかしいなあ。大体、勝負というものが分からないタイプなのだ。鬼ごっこにしろ、ババぬきにしろ、もう少し高度なゲーム・・・オトコ争奪戦、にしろ、とにかく勝利してもエクスタシーを感じないのである。負けず嫌いで、その性格が幸いしてどんどん自分のできることのレベルを上げていく人がいるけれども、そういう人ってやっぱり、
ああ、勝てて嬉しい・・・。
と、浸れる何かがあるのだろう。
そういう、勝利の麻薬、みたいなものに触れることができないでいる。だから、勝ち組、負け組、というコトバを聞くとなんだか落着かない。わたしの知らない世界があり、わたしの知らない価値観で動いている人たちが確実にいるのだ。
そんでもって、わたしがぜんぜん知らない間に、ほれ、アンタは勝ち組、或いは負け組、なあんて選別されちゃっていたりするのである。これはコワイ。
それに比べると花粉症はカワイイ。
抗体検査をすれば、すぐに分かっちゃう体質。
いや、抗体検査なんかしなくても、ハナ、クシャミに目のカユミ、が加われば立派に花粉症ワールドの住人である。わかりやすい。気持ちいいほどすっきりしているではありませんか。その症状がもたらすものとは裏腹に。
冴返る
2002年2月24日 ニチジョウのアレコレモーニング娘。の新曲をテレビで見た。
新曲を、聴く、では無くて、見る、というのはいささか気になる表現ではある。しかし、総勢13人という彼女たちの作り出すステージはどこかしら演劇あるいはミュージカルめいていて、じっと耳を傾けるよりも見ている方がなんだか楽しい。
わたしにも、あんな時代があったなあ・・・。
笑顔で歌う彼女たちを見ていて、しみじみ思う。
新曲の歌詞で彼女たちは、いくつになっても青春なんだよって元気に言ってくれちゃってるけど、いやあ、やっぱり、青い時代っていうのは、そういつまでも続くわけじゃあない。
そう、青春は青い時代なんだ。
彼女たちの不和説がときどき取りざたされる。
そりゃ、いろいろあるさ。
わたしもいろいろあった。女の子が集団で何かをしようということになると、そこには必ず何かしら事件が起きるものだった。
男の集団というのを知らないのでそこにある世界は想像するだけだが、男たちの方が、いざ、ってときには手が出たり、足が出たりして、その手足を引っ込めたときには以前より仲良くなってたりっていうような、そういう単純な風通しのよさがあるように思う。
女の集団となると、なかなかややこしい。
表向きは何も無くても、一皮剥けばスゴイことになっていたりする。それをいちいち書いていては、このページが、どろどろ大河小説になってしまうであろう。
冴え返る女の園に静電気
冴え返るっていうのは、春の季語で、いったん暖かくなりかけたのにまた寒さが戻って来る、という様子をいう。
きのうまでボス面していたのが、今日は仲間はずれになったり、自分が仲間はずれになりたくないがために徒党を組んでみたり、と、女の園の力関係はホント、先が読めないのである。
娘をふたり持っているので、こういうことを考え出すと、ゆううつになってくる。
自ら体験したことから、何らかの処世術を教えてやりたいところなんだけども、どうやって今までやってこれたのか、振り返ってみても全く分からない。
ここらへん、まだ、青いってことかな。
いつまでも青春かあ・・・。
確かに、人と人とのことは、天国に行くその瞬間まで、理解できずに振り回されるものなのかもね。
新曲を、聴く、では無くて、見る、というのはいささか気になる表現ではある。しかし、総勢13人という彼女たちの作り出すステージはどこかしら演劇あるいはミュージカルめいていて、じっと耳を傾けるよりも見ている方がなんだか楽しい。
わたしにも、あんな時代があったなあ・・・。
笑顔で歌う彼女たちを見ていて、しみじみ思う。
新曲の歌詞で彼女たちは、いくつになっても青春なんだよって元気に言ってくれちゃってるけど、いやあ、やっぱり、青い時代っていうのは、そういつまでも続くわけじゃあない。
そう、青春は青い時代なんだ。
彼女たちの不和説がときどき取りざたされる。
そりゃ、いろいろあるさ。
わたしもいろいろあった。女の子が集団で何かをしようということになると、そこには必ず何かしら事件が起きるものだった。
男の集団というのを知らないのでそこにある世界は想像するだけだが、男たちの方が、いざ、ってときには手が出たり、足が出たりして、その手足を引っ込めたときには以前より仲良くなってたりっていうような、そういう単純な風通しのよさがあるように思う。
女の集団となると、なかなかややこしい。
表向きは何も無くても、一皮剥けばスゴイことになっていたりする。それをいちいち書いていては、このページが、どろどろ大河小説になってしまうであろう。
冴え返る女の園に静電気
冴え返るっていうのは、春の季語で、いったん暖かくなりかけたのにまた寒さが戻って来る、という様子をいう。
きのうまでボス面していたのが、今日は仲間はずれになったり、自分が仲間はずれになりたくないがために徒党を組んでみたり、と、女の園の力関係はホント、先が読めないのである。
娘をふたり持っているので、こういうことを考え出すと、ゆううつになってくる。
自ら体験したことから、何らかの処世術を教えてやりたいところなんだけども、どうやって今までやってこれたのか、振り返ってみても全く分からない。
ここらへん、まだ、青いってことかな。
いつまでも青春かあ・・・。
確かに、人と人とのことは、天国に行くその瞬間まで、理解できずに振り回されるものなのかもね。
沈丁花
2002年2月21日 ニチジョウのアレコレわたしのネームは何と読むのか。
クラリ オトコと読む。そうして、その意味するところは、いいオトコがいるとすぐにクラリ、ときてしまうから。
だったらそれも良いかなと思う。
ホントは、クラリ ネコと読むんです。すみません。
のらりくらり猫、です。
実家で猫を飼っていて、そののんびりぶり、マイペースぶり、だけど、縄張りを脅かすやつにゃあ容赦しないぜっ、て感じの姉御ぶり(女の子)、そこらへんに憧れてつけたんだよね。
もうひとつ、学生の頃にいつもそばにあった楽器、ピアノともう一つ、クラリネット、このクラリネット、の語感からも採りました、というわけなんである。
もともとは、ただの、音子、と名乗っておりました。詩でも物語でも、書くのが好きだったから、ペンネームはいろいろつけていたし。
本名はキライでした。
今まで旧姓でも今の名前でも、3人ずつ、同じ名前を目にしたことがある。犯罪者もいたし、ガス爆発の犠牲者もいる。漫才師、長年ボランティアをやっていて表彰されたおばちゃん、あと何だったかな。
ガス爆発の犠牲者のときなんか、事故の第一発見者は母と同じ名前だった。
ショックだったのは、高校生のとき、密かに思いを寄せていたクラスメイトの男の子から、2学期ももう終わるかってな時期に、
名前、なんだっけ。
と聞かれたときである。
ありふれた名前というのは、印象に残らない。別にふつうに暮らしていくのに困りはしないんだが、ここ一番、じぶんをおぼえさせたいっ、というときにはつらい。ツクエ、とかヤカン、とかの身の回りの普通の名詞に埋没してしまう。
名前からして華やいだものをもらっている人がいる。華やかな名前を持っている人は、その背後にいつも華やかなオーラを背負っているような気がする。そんな女性がうらやましい。
沈丁花見送るだけの恋にかほる
想いを寄せていたひとは、卒業後、都会へ行ってしまった。地方の、ある程度の進学校ではよくあることである。卒業生は実家にとどまることはあまり無い。東京圏、関西圏の大学、または予備校へ進学し、生活の拠点自体を変えてしまう。当然、進路によってはカップルも別れ別れになってしまうし、片想いなら尚更、相手を見かけることすら無くなってしまうことになる。
今年も沈丁花が香り始めた。
普通に道を歩いていて、ふとどこからか、この花の香りがしてくると、冬も終わりである。
そうして、地方の高校生だったわたしは、進路が決まって生まれ育った町を去ってしまうひとに、サヨウナラともガンバッテネとも言い出せず、ただ黙って背中を見送るしかなかった、あの季節を思い出して切なくなるのである。
クラリ オトコと読む。そうして、その意味するところは、いいオトコがいるとすぐにクラリ、ときてしまうから。
だったらそれも良いかなと思う。
ホントは、クラリ ネコと読むんです。すみません。
のらりくらり猫、です。
実家で猫を飼っていて、そののんびりぶり、マイペースぶり、だけど、縄張りを脅かすやつにゃあ容赦しないぜっ、て感じの姉御ぶり(女の子)、そこらへんに憧れてつけたんだよね。
もうひとつ、学生の頃にいつもそばにあった楽器、ピアノともう一つ、クラリネット、このクラリネット、の語感からも採りました、というわけなんである。
もともとは、ただの、音子、と名乗っておりました。詩でも物語でも、書くのが好きだったから、ペンネームはいろいろつけていたし。
本名はキライでした。
今まで旧姓でも今の名前でも、3人ずつ、同じ名前を目にしたことがある。犯罪者もいたし、ガス爆発の犠牲者もいる。漫才師、長年ボランティアをやっていて表彰されたおばちゃん、あと何だったかな。
ガス爆発の犠牲者のときなんか、事故の第一発見者は母と同じ名前だった。
ショックだったのは、高校生のとき、密かに思いを寄せていたクラスメイトの男の子から、2学期ももう終わるかってな時期に、
名前、なんだっけ。
と聞かれたときである。
ありふれた名前というのは、印象に残らない。別にふつうに暮らしていくのに困りはしないんだが、ここ一番、じぶんをおぼえさせたいっ、というときにはつらい。ツクエ、とかヤカン、とかの身の回りの普通の名詞に埋没してしまう。
名前からして華やいだものをもらっている人がいる。華やかな名前を持っている人は、その背後にいつも華やかなオーラを背負っているような気がする。そんな女性がうらやましい。
沈丁花見送るだけの恋にかほる
想いを寄せていたひとは、卒業後、都会へ行ってしまった。地方の、ある程度の進学校ではよくあることである。卒業生は実家にとどまることはあまり無い。東京圏、関西圏の大学、または予備校へ進学し、生活の拠点自体を変えてしまう。当然、進路によってはカップルも別れ別れになってしまうし、片想いなら尚更、相手を見かけることすら無くなってしまうことになる。
今年も沈丁花が香り始めた。
普通に道を歩いていて、ふとどこからか、この花の香りがしてくると、冬も終わりである。
そうして、地方の高校生だったわたしは、進路が決まって生まれ育った町を去ってしまうひとに、サヨウナラともガンバッテネとも言い出せず、ただ黙って背中を見送るしかなかった、あの季節を思い出して切なくなるのである。
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春野菜
2002年2月19日 ニチジョウのアレコレ冬服のバーゲンセールもそろそろ終焉。
春物の服が目に付くようになってきた。
今年の春はロマンティックなデザインのものがはやるのだろうか。ファッションに詳しいわけではないのでよく知らないが、なんだか、レースや刺繍を多めに使って仕立ててあるものが多いように思う。
4歳児はともかく、1歳児を連れていては、とてもじゃないが、ゆっくり自分の洋服選びなど楽しめない。だから、あまりじっくり売り場を見てはいないんだけど、毎年今の季節になると、やっぱり目に入るパステルカラー。
遠目にも、パッと視界に飛び込んでくる、淡い色彩。
暖色系も、寒色系も、霞を織り込んだように白々と輝く。
わたしはスリムじゃないし、チビなので、はっきり言ってパステルカラーは似合わない。わたしなんかが着たら、服に申し訳ない。だから、見るだけ。
見て、そうして、こういう服をたとえばどんな人が身につけたら、バッチリ決まるんだろうかと思ってみる。
うっとり。
次に生まれてきたら、絶対に背の高いスリム美人になるぞっ。
春野菜刻んだ色を身に纏う
洋服は見るだけ。大きな春キャベツをゲットして帰る。
キャベツも頭に、春、とついているものは優しい色合い、柔らかい黄緑色。じゃがいもだって、春、のものは皮が薄くてピンと張っている。
春色というのはある。
あちこちに。そうして、キラキラとわたしを誘う。
せめて娘たちが春色の似合う少女になってくれますように。
お腹の中に・・・・忘れて来たのかって、言われるような娘たちなんだけど。これがまた。
春物の服が目に付くようになってきた。
今年の春はロマンティックなデザインのものがはやるのだろうか。ファッションに詳しいわけではないのでよく知らないが、なんだか、レースや刺繍を多めに使って仕立ててあるものが多いように思う。
4歳児はともかく、1歳児を連れていては、とてもじゃないが、ゆっくり自分の洋服選びなど楽しめない。だから、あまりじっくり売り場を見てはいないんだけど、毎年今の季節になると、やっぱり目に入るパステルカラー。
遠目にも、パッと視界に飛び込んでくる、淡い色彩。
暖色系も、寒色系も、霞を織り込んだように白々と輝く。
わたしはスリムじゃないし、チビなので、はっきり言ってパステルカラーは似合わない。わたしなんかが着たら、服に申し訳ない。だから、見るだけ。
見て、そうして、こういう服をたとえばどんな人が身につけたら、バッチリ決まるんだろうかと思ってみる。
うっとり。
次に生まれてきたら、絶対に背の高いスリム美人になるぞっ。
春野菜刻んだ色を身に纏う
洋服は見るだけ。大きな春キャベツをゲットして帰る。
キャベツも頭に、春、とついているものは優しい色合い、柔らかい黄緑色。じゃがいもだって、春、のものは皮が薄くてピンと張っている。
春色というのはある。
あちこちに。そうして、キラキラとわたしを誘う。
せめて娘たちが春色の似合う少女になってくれますように。
お腹の中に・・・・忘れて来たのかって、言われるような娘たちなんだけど。これがまた。
初日記
2002年2月16日 ニチジョウのアレコレ日々の何気ないひとときに、ふと、はっとする瞬間、奇麗なものを見たとき、或いは不思議だな、と感じたとき、率直に言えば感動、でも、そんな大袈裟なものではなくても、なんとなく忘れてしまいたくない瞬間。
「詩が走った」とおもう。
一年ほど前から俳句をはじめた。
写真を撮るように、詩が走った瞬間をとらえて詠む遊びに少しばかり熱中している。
子育て中でしかも出不精の専業主婦が、一体どれだけ、そんな一瞬をとらえることができるのか。
これはある種、宝捜しにも似ていて、ちょっとどきどきする。
はじめての電話にも似て初日記
「詩が走った」とおもう。
一年ほど前から俳句をはじめた。
写真を撮るように、詩が走った瞬間をとらえて詠む遊びに少しばかり熱中している。
子育て中でしかも出不精の専業主婦が、一体どれだけ、そんな一瞬をとらえることができるのか。
これはある種、宝捜しにも似ていて、ちょっとどきどきする。
はじめての電話にも似て初日記