シャボン玉って、春の季語なんだって。
季語には時々、一年中見かけるものでも、季節が決められている言葉がある。シャボン玉がなぜ春なのかは知らないが、春、だと言われると、そうやなあ・・・と妙に納得してしまうのはどうして。
シャボン玉さへとどかないあの部屋に
男には妻子がいる。
休日には会えない。
女は時間を持て余していて、何気なく男の住む家の近くまで来てみた。
偶然、子供たちと過ごす姿でも見てしまったら最悪。
でも、そういうのも悪くないか。
彼はどう出るか。素知らぬ顔を決め込むか。
こんにちは、なんて、しらっと言うか。
少し自虐的な気持ちになる。
公園でシャボン玉を売っている。
ひとつ買って、女は、片隅のベンチに座る。
丁度、男の住むマンションの見える位置。
高層階のそこに向け、ふうっ、と息を吐く。
春の穏やかな日差しの中、そよ風に乗って、シャボン玉は、きらきらと流れ、音も無く消える。
ゆっくり。
すばやく。
愛し合うときの呼吸のよう、想いを包み込んで虹色の玉がとぶ。
でも、そのひとつとして、その部屋にはとどかない。
あの中に、やすやすと入れる女のことが、胸をよぎる。
気持ちは、あたしの方が近くにいるもん、と思ってみる。
そう、それは間違いない。そう、彼も言ってくれる。
だけど。
次々に生まれては消えるというのは、あたしたちが一緒に過ごす時とよく似ている。
かつて、「愛人向き」だと言われたことがある。
それも複数の人から。
そのうちの一人は、そう言って去った。
「妻、母としては、どうかな。」専業主婦になりたかったので、つらかった。
今、夢が叶って・・・とあまりピンと来ないのがモンダイだけど・・・専業主婦になって、家事に追われていて、そんな言葉も遠くなった。
しかし、ときどき、たとえば、掃除がうまくいかなかったり、子供をドツいてしまったりしたとき、
このセリフが、ゾンビのごとくよみがえってきて、わたしを苦しめる。
愛人に向いている、というのと、
専業主婦には向かない、というのは、
必ずしも同じとは限らないわけだけれども。
この罪深い言葉を発した男が、夕べの夢に出てきた。
くだらん踊りなんかやらずに、そこのところ、聞いたったらよかった。
季語には時々、一年中見かけるものでも、季節が決められている言葉がある。シャボン玉がなぜ春なのかは知らないが、春、だと言われると、そうやなあ・・・と妙に納得してしまうのはどうして。
シャボン玉さへとどかないあの部屋に
男には妻子がいる。
休日には会えない。
女は時間を持て余していて、何気なく男の住む家の近くまで来てみた。
偶然、子供たちと過ごす姿でも見てしまったら最悪。
でも、そういうのも悪くないか。
彼はどう出るか。素知らぬ顔を決め込むか。
こんにちは、なんて、しらっと言うか。
少し自虐的な気持ちになる。
公園でシャボン玉を売っている。
ひとつ買って、女は、片隅のベンチに座る。
丁度、男の住むマンションの見える位置。
高層階のそこに向け、ふうっ、と息を吐く。
春の穏やかな日差しの中、そよ風に乗って、シャボン玉は、きらきらと流れ、音も無く消える。
ゆっくり。
すばやく。
愛し合うときの呼吸のよう、想いを包み込んで虹色の玉がとぶ。
でも、そのひとつとして、その部屋にはとどかない。
あの中に、やすやすと入れる女のことが、胸をよぎる。
気持ちは、あたしの方が近くにいるもん、と思ってみる。
そう、それは間違いない。そう、彼も言ってくれる。
だけど。
次々に生まれては消えるというのは、あたしたちが一緒に過ごす時とよく似ている。
かつて、「愛人向き」だと言われたことがある。
それも複数の人から。
そのうちの一人は、そう言って去った。
「妻、母としては、どうかな。」専業主婦になりたかったので、つらかった。
今、夢が叶って・・・とあまりピンと来ないのがモンダイだけど・・・専業主婦になって、家事に追われていて、そんな言葉も遠くなった。
しかし、ときどき、たとえば、掃除がうまくいかなかったり、子供をドツいてしまったりしたとき、
このセリフが、ゾンビのごとくよみがえってきて、わたしを苦しめる。
愛人に向いている、というのと、
専業主婦には向かない、というのは、
必ずしも同じとは限らないわけだけれども。
この罪深い言葉を発した男が、夕べの夢に出てきた。
くだらん踊りなんかやらずに、そこのところ、聞いたったらよかった。
朝霞
2002年4月17日 ニチジョウのアレコレ夜明けの時刻がはやくなった。
東向きの窓から、カーテン越しに白い色がほんのり浮かび上がって光が届く。小鳥の声がしている。
コーヒーと煙草すなはち朝霞
恋人同士で迎える朝。別れの時刻が迫っている。
そういう場合は、この穏やかな春の夜明けが憎らしい。
居心地のいいベッドを抜け出して、ため息をつくのは、女。男の方は、女の起き出す気配で目覚め、寝転んだまま煙草に火をつける。
夕べ、この部屋で見たときとは、煙草の火の色が違う。女はそんなことをぼんやり思いながら、熱いコーヒーの仕度に取り掛かる。
よくある男と女の話。
何気なく想像を巡らせながら、煙草、という小道具について思う。
こういう場面で、煙草を手に取るのが、男でなくて女の方だったら。
男で、煙草を吸うひとには、シャイな人が多い気がする。表面、どんなに陽気に振る舞っていても、ジョークを飛ばし、プレイボーイを気取っていても、実はスゴク繊細。それなのに傷つきやすい自分のことはキライ。そういうタイプ。
女で、煙草を吸う人もいる。
だけど、こっちは、男と逆。精神的にタフな人、色々な場面で勝ちに行き、そうして、そんな自分が好き。
積極性に働くベクトルと、消極性に働くベクトルと、おとなはそのベクトルのバランスを取りながら生活していかなきゃならない。
煙草という小道具は、この両ベクトルのバランスを取るときに、結構つかえるのかも。
シャイな男が、自分を守るために。
ゲンキな女が、自分を抑えるために。
煙草は、今日も存在する。
もちろん、これはわたしの勝手な思い込みである。なんにでも、例外はあるし、ホントはこういうことって、正解なんか無いのだ。
なんでも、断定しちまうのは、よくない。
東向きの窓から、カーテン越しに白い色がほんのり浮かび上がって光が届く。小鳥の声がしている。
コーヒーと煙草すなはち朝霞
恋人同士で迎える朝。別れの時刻が迫っている。
そういう場合は、この穏やかな春の夜明けが憎らしい。
居心地のいいベッドを抜け出して、ため息をつくのは、女。男の方は、女の起き出す気配で目覚め、寝転んだまま煙草に火をつける。
夕べ、この部屋で見たときとは、煙草の火の色が違う。女はそんなことをぼんやり思いながら、熱いコーヒーの仕度に取り掛かる。
よくある男と女の話。
何気なく想像を巡らせながら、煙草、という小道具について思う。
こういう場面で、煙草を手に取るのが、男でなくて女の方だったら。
男で、煙草を吸うひとには、シャイな人が多い気がする。表面、どんなに陽気に振る舞っていても、ジョークを飛ばし、プレイボーイを気取っていても、実はスゴク繊細。それなのに傷つきやすい自分のことはキライ。そういうタイプ。
女で、煙草を吸う人もいる。
だけど、こっちは、男と逆。精神的にタフな人、色々な場面で勝ちに行き、そうして、そんな自分が好き。
積極性に働くベクトルと、消極性に働くベクトルと、おとなはそのベクトルのバランスを取りながら生活していかなきゃならない。
煙草という小道具は、この両ベクトルのバランスを取るときに、結構つかえるのかも。
シャイな男が、自分を守るために。
ゲンキな女が、自分を抑えるために。
煙草は、今日も存在する。
もちろん、これはわたしの勝手な思い込みである。なんにでも、例外はあるし、ホントはこういうことって、正解なんか無いのだ。
なんでも、断定しちまうのは、よくない。
春衣
2002年4月14日 ニチジョウのアレコレミルフイーユ崩す貴女の春衣
お久しぶりです。
パソコンちゃん不調のため、お休みしておりましたが、ようやくこうしてまた書き込めるようになりました。
嬉しいです・・・。
というわけで、今日の句は、ご近所のショッピングセンターで、「春の洋菓子フエア」なる催しが行われたときのもの。
突然の復旧だったので、何を書いていいのかわからなくなってしまった。わたしが、日記ライフから遠ざかっている間に、桜は咲いて終わってしまうし、エイプリルフールも過ぎたし、卒業および入学の話題も落ち着き、なんかホント、うらしまたろう気分。
で、ミルフイーユ。
この洋菓子は美しくいただくのが、とってもむずかしい。フオークを入れるときに力を入れなければ切れないし、力を入れすぎてもお菓子のパイ生地がズタズタになる。パイ生地とパイ生地との間に横たわる苺も 、できることなら、余りつぶさない状態で口まで運びたい。
素敵な彼の前で気取っていただくお菓子としては、余り向かないかも。
でもそれは、おとなになってはじめて、この洋菓子に出会ったからなのかも。
たとえば、神戸の山の手育ちで、ちいさい頃から、様々なケーキに親しんできたひとならば。
多少美しい男が目の前にいたところで、ピアノで毎日のエチュードを弾いているときと同じ手つきで優雅にミルフイーユを崩すのだろう。ケーキの上の粉砂糖がはらはらっ、とこぼれると、砂糖と同じくらい白い指を軽やかに躍らせるようにして、パイ生地の全壊を防ぐ・・・・。
そうして、身に付けている、淡雪のような色の、胸元に大き目のギャザーの入った春の服は肩のあたりが少し大きめに開いていて、ケーキの一切れが、そっと口まで運ばれるとき、危うく、崩れそうにゆれる。
なーんてことを考えながら、「阪神間屈指の名店」がひしめき合う会場をうろうろしていたのであるが、一緒に行った娘も、その友達も辛党。あまい香りに包まれた会場で、
「ママー、おせんべい、無いのー。」
それに、「ボヘミアン」なブラウス。あのカッテイングは、子持ちの 、たくましい肩から二の腕を、ますます頑丈に見せる。ねらいとは別の意味でジプシーっぽくなっちゃう。
ミルフィーユを奇麗にいただくこととも、優美にドレスを纏うこととも、無縁の春である。
お久しぶりです。
パソコンちゃん不調のため、お休みしておりましたが、ようやくこうしてまた書き込めるようになりました。
嬉しいです・・・。
というわけで、今日の句は、ご近所のショッピングセンターで、「春の洋菓子フエア」なる催しが行われたときのもの。
突然の復旧だったので、何を書いていいのかわからなくなってしまった。わたしが、日記ライフから遠ざかっている間に、桜は咲いて終わってしまうし、エイプリルフールも過ぎたし、卒業および入学の話題も落ち着き、なんかホント、うらしまたろう気分。
で、ミルフイーユ。
この洋菓子は美しくいただくのが、とってもむずかしい。フオークを入れるときに力を入れなければ切れないし、力を入れすぎてもお菓子のパイ生地がズタズタになる。パイ生地とパイ生地との間に横たわる苺も 、できることなら、余りつぶさない状態で口まで運びたい。
素敵な彼の前で気取っていただくお菓子としては、余り向かないかも。
でもそれは、おとなになってはじめて、この洋菓子に出会ったからなのかも。
たとえば、神戸の山の手育ちで、ちいさい頃から、様々なケーキに親しんできたひとならば。
多少美しい男が目の前にいたところで、ピアノで毎日のエチュードを弾いているときと同じ手つきで優雅にミルフイーユを崩すのだろう。ケーキの上の粉砂糖がはらはらっ、とこぼれると、砂糖と同じくらい白い指を軽やかに躍らせるようにして、パイ生地の全壊を防ぐ・・・・。
そうして、身に付けている、淡雪のような色の、胸元に大き目のギャザーの入った春の服は肩のあたりが少し大きめに開いていて、ケーキの一切れが、そっと口まで運ばれるとき、危うく、崩れそうにゆれる。
なーんてことを考えながら、「阪神間屈指の名店」がひしめき合う会場をうろうろしていたのであるが、一緒に行った娘も、その友達も辛党。あまい香りに包まれた会場で、
「ママー、おせんべい、無いのー。」
それに、「ボヘミアン」なブラウス。あのカッテイングは、子持ちの 、たくましい肩から二の腕を、ますます頑丈に見せる。ねらいとは別の意味でジプシーっぽくなっちゃう。
ミルフィーユを奇麗にいただくこととも、優美にドレスを纏うこととも、無縁の春である。
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いかなご
2002年3月21日 ニチジョウのアレコレこの季節に、「いかなごのくぎ煮」をつくるのが、神戸のおかあちゃんになるための必須条項である。
と、決め付けてしまったけれど、そうじゃないかしら。ただ、「くぎ煮」をつくるのは、神戸だけじゃないかも。主人の母は「阪神間」で生活してきた人なのだが、毎年「くぎ煮」つくりに精を出しておられる。
嫁として、この作り方を教わっておかなくては、と思いつつ、毎年ごちそうになるだけのわたし。子育て中をいいことにして、ダメだなあ。くぎ煮をつくった事が無い、なんて、これじゃあ、いつまでたっても、正統派神戸のおかん、になれん。
くぎ煮って、むずかしいの?。
スーパーの魚売り場で、この季節、とてもよく目にするいかなご。きらきらした白銀色の鱗をまとった、ちいさなさかなたちがぎっしり詰まって売られている。
いかなごの小さき腹に小さき虹
煮てしまえば、くぎの色になる。
白魚のように、虹色をそのまま食べてしまってはいけないのだろうか・・・。
なんて書きつつ、くぎ煮の味もわたしは結構すきなんであるが。
それにしてもこの時期、誰かが必ず
「ねね、くぎ煮、いらない?」
と、声をかけてくれる。
それが、すごく多い。あちこちで、聞かれる声なんである。
こんなにあちこちでつくられても数が減らないほど、いかなごという魚はいっぱいいるの?。
かつて、わたしの故郷では、蟹をゆがいて食べるのが、子供のおやつの定番だった時代があったのだという。それこそ、たっぷり食べられたのだろう。ある一定以上の年令の人の、実に器用な蟹の食べかたを見ても分かる。
それが今では・・・。
いかなごは、大丈夫?。
と、決め付けてしまったけれど、そうじゃないかしら。ただ、「くぎ煮」をつくるのは、神戸だけじゃないかも。主人の母は「阪神間」で生活してきた人なのだが、毎年「くぎ煮」つくりに精を出しておられる。
嫁として、この作り方を教わっておかなくては、と思いつつ、毎年ごちそうになるだけのわたし。子育て中をいいことにして、ダメだなあ。くぎ煮をつくった事が無い、なんて、これじゃあ、いつまでたっても、正統派神戸のおかん、になれん。
くぎ煮って、むずかしいの?。
スーパーの魚売り場で、この季節、とてもよく目にするいかなご。きらきらした白銀色の鱗をまとった、ちいさなさかなたちがぎっしり詰まって売られている。
いかなごの小さき腹に小さき虹
煮てしまえば、くぎの色になる。
白魚のように、虹色をそのまま食べてしまってはいけないのだろうか・・・。
なんて書きつつ、くぎ煮の味もわたしは結構すきなんであるが。
それにしてもこの時期、誰かが必ず
「ねね、くぎ煮、いらない?」
と、声をかけてくれる。
それが、すごく多い。あちこちで、聞かれる声なんである。
こんなにあちこちでつくられても数が減らないほど、いかなごという魚はいっぱいいるの?。
かつて、わたしの故郷では、蟹をゆがいて食べるのが、子供のおやつの定番だった時代があったのだという。それこそ、たっぷり食べられたのだろう。ある一定以上の年令の人の、実に器用な蟹の食べかたを見ても分かる。
それが今では・・・。
いかなごは、大丈夫?。
アスパラ
2002年3月20日 ニチジョウのアレコレこのところ、ランチのお誘いが続いた。
わたしにしては珍しいことである。とてもありがたくて、「ランチ祭り」とでも名付けたいほどであった。
季節は春。
しかも、まだお彼岸の入りだというのに暖かくて春爛漫の風情さえ漂わせている島の暮らしである。
そして、春風に背中を押されて入ったお店の、お皿の上にも、春がいっぱい。
春キャベツのスープに、春ポテトのサラダ、サワラのグリル、といった素材は勿論、盛り付けの色彩の淡さ、優しさ、もも色や黄緑の配色のやわらかさにうっとり。
隣で、はやく食わせろ、と騒ぎ立てる1歳児さえいなければ、フオークを片手に、しばらくみとれていただろう。
目にも口にもおいしいお料理に、楽しいおしゃべりが加わる。それは、本当に、幸せな時間が流れたのであった。
が。
アスパラのまっすぐ伸びて苦さあり
母娘ともに仲良くしてもらっていた人の、今日は送別の宴であった。
こども同士がまだあかんぼの頃、うちの娘などまだ首がようやく座ったかどうか、という頃に知り合い、本当に仲良くしてもらった人である。親元を離れて子育てをした経験のある人には分かっていただけると思うが、あかんぼを抱えた者どうしの付き合いというのは、そう大げさでなく、「戦友」という言葉が浮かぶ。お互いに子供を預け合い、ごはんを食べさせてもらい合って、子供たちはどちらも今日、年少をおわるところまで、大きくなったのである。
転勤だから仕方の無いこととは言え、子供どうしも、子供なりの友達感情が芽生えてきていた。もう少し、いっしょに島ぐらしを楽しみたかった・・。
わたしにしては珍しいことである。とてもありがたくて、「ランチ祭り」とでも名付けたいほどであった。
季節は春。
しかも、まだお彼岸の入りだというのに暖かくて春爛漫の風情さえ漂わせている島の暮らしである。
そして、春風に背中を押されて入ったお店の、お皿の上にも、春がいっぱい。
春キャベツのスープに、春ポテトのサラダ、サワラのグリル、といった素材は勿論、盛り付けの色彩の淡さ、優しさ、もも色や黄緑の配色のやわらかさにうっとり。
隣で、はやく食わせろ、と騒ぎ立てる1歳児さえいなければ、フオークを片手に、しばらくみとれていただろう。
目にも口にもおいしいお料理に、楽しいおしゃべりが加わる。それは、本当に、幸せな時間が流れたのであった。
が。
アスパラのまっすぐ伸びて苦さあり
母娘ともに仲良くしてもらっていた人の、今日は送別の宴であった。
こども同士がまだあかんぼの頃、うちの娘などまだ首がようやく座ったかどうか、という頃に知り合い、本当に仲良くしてもらった人である。親元を離れて子育てをした経験のある人には分かっていただけると思うが、あかんぼを抱えた者どうしの付き合いというのは、そう大げさでなく、「戦友」という言葉が浮かぶ。お互いに子供を預け合い、ごはんを食べさせてもらい合って、子供たちはどちらも今日、年少をおわるところまで、大きくなったのである。
転勤だから仕方の無いこととは言え、子供どうしも、子供なりの友達感情が芽生えてきていた。もう少し、いっしょに島ぐらしを楽しみたかった・・。
早春
2002年3月13日 リーコとチョーコのお話人工島の中央に広場が設けられている。
そして、ちょうど島を北から南へ、神戸流に言うと
山側から海側に向かって、川が流れている。
この川も人が造った川だから、流れて、と言うか流されている、わけだけど。
ところどころに彫刻や噴水があり、夏には子供たちの水遊び場所にもなる、島民たちの、いわゆる憩いの場。
うららかないい天気。
主人は休日出勤。
そこで子供たちと、外で食事することにした。
外で食事、というのは必ずしも外食することを意味しない。
わたしの場合、外でお弁当を広げる、という意味であることがほとんどである。
今日もそう。
次女が風邪をひいていて、昨日予防接種が受けられなかったのが気になったが、寒さを感じたら、即、帰宅、を決めて、でかけることにした。
早春の電車眠りを満載し
ちょうど人工川の上をなぞるようにして、島と「本土」を結ぶ島民の足であるモノレールが走っている。
モノレールだから、ゆっくり、のんびり走る。間違ってもブッ飛ばしたり逆走したりはしない。その、ゴトゴトン、という音を聞くともなく聞きながら、川べりの木製のベンチに座り、むすめたちとのランチタイム。
今日は、あの薬丸くんのトークショーが島のショッピングセンターで行われることもあってか、人も多目。日差しが柔らかいせいか、犬も多目。皆、ほのぼのとくつろいでいる。
じっとしているのが苦手なむすめたちは、食事も早々に、その辺りを駆け回り出す。
春立ちてポニーテールはよくはずむ
2歳半違いの姉妹が、ようやくいっしょに遊ぶ楽しみに目覚めた春である。
笑い声が響き、こちらも珍しく慈母のように微笑んで二人を見守っていた・・・・そのとき。
・・・次女が川に落ちたのであった。
幸い浅瀬だったので、わたし一人でも引き上げ可能。ずぶ濡れの服を脱がせ、人目もはばからず、わたしは一枚セーターを脱ぎ、それでグルグル巻きにして、即、帰路に就いた。
次女の風邪は、なぜかそれ以来快方に向かっている。
それは良かった、のであるが。
次女が視界から消えて、おもわず悲鳴をあげてしまったとき。
一人の青年がこちらに向かって走って来てくれた。
しかし、なぜかすぐに背を向けて立ち去ってしまったのである。
それは、次女の無事を見届けたから、であってほしい。
おもわずセーターを脱ぎ捨てたわたしの、たくましい二の腕に恐れを為したためではなく。
そして、ちょうど島を北から南へ、神戸流に言うと
山側から海側に向かって、川が流れている。
この川も人が造った川だから、流れて、と言うか流されている、わけだけど。
ところどころに彫刻や噴水があり、夏には子供たちの水遊び場所にもなる、島民たちの、いわゆる憩いの場。
うららかないい天気。
主人は休日出勤。
そこで子供たちと、外で食事することにした。
外で食事、というのは必ずしも外食することを意味しない。
わたしの場合、外でお弁当を広げる、という意味であることがほとんどである。
今日もそう。
次女が風邪をひいていて、昨日予防接種が受けられなかったのが気になったが、寒さを感じたら、即、帰宅、を決めて、でかけることにした。
早春の電車眠りを満載し
ちょうど人工川の上をなぞるようにして、島と「本土」を結ぶ島民の足であるモノレールが走っている。
モノレールだから、ゆっくり、のんびり走る。間違ってもブッ飛ばしたり逆走したりはしない。その、ゴトゴトン、という音を聞くともなく聞きながら、川べりの木製のベンチに座り、むすめたちとのランチタイム。
今日は、あの薬丸くんのトークショーが島のショッピングセンターで行われることもあってか、人も多目。日差しが柔らかいせいか、犬も多目。皆、ほのぼのとくつろいでいる。
じっとしているのが苦手なむすめたちは、食事も早々に、その辺りを駆け回り出す。
春立ちてポニーテールはよくはずむ
2歳半違いの姉妹が、ようやくいっしょに遊ぶ楽しみに目覚めた春である。
笑い声が響き、こちらも珍しく慈母のように微笑んで二人を見守っていた・・・・そのとき。
・・・次女が川に落ちたのであった。
幸い浅瀬だったので、わたし一人でも引き上げ可能。ずぶ濡れの服を脱がせ、人目もはばからず、わたしは一枚セーターを脱ぎ、それでグルグル巻きにして、即、帰路に就いた。
次女の風邪は、なぜかそれ以来快方に向かっている。
それは良かった、のであるが。
次女が視界から消えて、おもわず悲鳴をあげてしまったとき。
一人の青年がこちらに向かって走って来てくれた。
しかし、なぜかすぐに背を向けて立ち去ってしまったのである。
それは、次女の無事を見届けたから、であってほしい。
おもわずセーターを脱ぎ捨てたわたしの、たくましい二の腕に恐れを為したためではなく。
恋猫
2002年3月7日 ニチジョウのアレコレまさに、冴え返る、という感じの一日でしたね。
寒かった。
一度あったかくなると、余計にこたえます。
恋猫や人工島の夜は更けて
こんなに寒くても、外へ出て、しかも恋しい相手のためにケンカまでしようという、そのエネルギーはどこからくるのだろう。
友達の飼い猫は、この時期、戦いに敗れて大けがを負い、それが原因で命まで落とした。
人工島に住んでいる。
人が自分たちに都合よくこしらえた環境だから、買い物にも便利、食事する場所もある、それから適度な緑。
この、適度、というのが肝心である。
人がくつろげないほど少なくてもいけないが、多すぎてつぶされてもいけない。
住んでいるから言うわけではないけれど、この島は割にそのバランスがとれている。
もう少し自然に緑があってもいいかな、と思うけれど、そのあたりは、島が年をとれば解決できるだろう。
考えてみれば、ここに住み始めた頃には、激しい猫の声を聴くことも無かったように思う。
寒さの残る人工の島の夜、野生の証拠を聞いた。
ここに住み始めて、もうすぐ5年目になる。
寒かった。
一度あったかくなると、余計にこたえます。
恋猫や人工島の夜は更けて
こんなに寒くても、外へ出て、しかも恋しい相手のためにケンカまでしようという、そのエネルギーはどこからくるのだろう。
友達の飼い猫は、この時期、戦いに敗れて大けがを負い、それが原因で命まで落とした。
人工島に住んでいる。
人が自分たちに都合よくこしらえた環境だから、買い物にも便利、食事する場所もある、それから適度な緑。
この、適度、というのが肝心である。
人がくつろげないほど少なくてもいけないが、多すぎてつぶされてもいけない。
住んでいるから言うわけではないけれど、この島は割にそのバランスがとれている。
もう少し自然に緑があってもいいかな、と思うけれど、そのあたりは、島が年をとれば解決できるだろう。
考えてみれば、ここに住み始めた頃には、激しい猫の声を聴くことも無かったように思う。
寒さの残る人工の島の夜、野生の証拠を聞いた。
ここに住み始めて、もうすぐ5年目になる。
水ぬるむ
2002年3月2日 ニチジョウのアレコレ水ぬるむ触れあへる肩いよよあつく
京都で学生時代を送った。
はじめて故郷を離れて暮らした。
ちょうど短大の合格通知が届いたのが今頃である。
はじめて年上の人と恋した。
出会ったのも今頃である。
今思うと喜劇めいて思えるほど、ふたりとも青かった。今日日の若い人たちだったらバカにするかも。
何せ、この前髪を切りに行ったら、初対面の美容師さんに、
「わたし、今、彼と暮らしてるンですけどオ。」
なんて、いきなり切り出されたもんね。
そんなナマナマしいこと、初めて会う年上のお客に、それも、天気とか食べ物とかの話とおんなじ調子で繰り広げちゃってもいいんだろうか、と、どきどきしちゃったわ。
わたしの若い頃だったら、ミセスにそんなことを打ち明けたら、
「あなた、そんな不真面目なこと、だめよ。」
なんて、言われるのがオチだったもんだ。
世の中、変わった。
最早、純愛は不倫の恋にしか存在しない。
そう言い切った人までいる。
かつての恋愛に存在した倫理観がことごとく失われたから、制限が無くなり、自由にはなったものの、どきどき感も失われたとか。
それでも、やっぱり出会いのときめき、そこから始まってゆくプロセスのひとつひとつ、やっぱり恋が生まれれば必ずひとつそこにストーリーができるはずである。
京都の鴨川。
川べりに一組ずつ、肩を寄せ合いながら、等間隔に並ぶ恋人たち。長いこと京都に行っていないけれど、今でも、あの風景は見られるのだろうか。
わたしたちは、あんなふうになれるかなあ。
そんなことを思いながら、橋の上、先を歩いていく彼の後ろ姿をみつめていた、あの季節がやってくる。
京都で学生時代を送った。
はじめて故郷を離れて暮らした。
ちょうど短大の合格通知が届いたのが今頃である。
はじめて年上の人と恋した。
出会ったのも今頃である。
今思うと喜劇めいて思えるほど、ふたりとも青かった。今日日の若い人たちだったらバカにするかも。
何せ、この前髪を切りに行ったら、初対面の美容師さんに、
「わたし、今、彼と暮らしてるンですけどオ。」
なんて、いきなり切り出されたもんね。
そんなナマナマしいこと、初めて会う年上のお客に、それも、天気とか食べ物とかの話とおんなじ調子で繰り広げちゃってもいいんだろうか、と、どきどきしちゃったわ。
わたしの若い頃だったら、ミセスにそんなことを打ち明けたら、
「あなた、そんな不真面目なこと、だめよ。」
なんて、言われるのがオチだったもんだ。
世の中、変わった。
最早、純愛は不倫の恋にしか存在しない。
そう言い切った人までいる。
かつての恋愛に存在した倫理観がことごとく失われたから、制限が無くなり、自由にはなったものの、どきどき感も失われたとか。
それでも、やっぱり出会いのときめき、そこから始まってゆくプロセスのひとつひとつ、やっぱり恋が生まれれば必ずひとつそこにストーリーができるはずである。
京都の鴨川。
川べりに一組ずつ、肩を寄せ合いながら、等間隔に並ぶ恋人たち。長いこと京都に行っていないけれど、今でも、あの風景は見られるのだろうか。
わたしたちは、あんなふうになれるかなあ。
そんなことを思いながら、橋の上、先を歩いていく彼の後ろ姿をみつめていた、あの季節がやってくる。
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お雛様
2002年3月1日 ニチジョウのアレコレお雛祭りである。
狭いマンションの我が家には、三段飾りの、ケース入りのお雛様がある。
上の娘が初節句を迎えた際、わたしの両親が贈ってくれたものだ。
お雛様を出す、と言っても、箱から出してタンスの上にしつらえるだけである。子供の頃、実家でお雛様をしつらえるときのような大騒ぎにはならない。
七段飾りのそれは、床の間にお人形を設置するスチール製の段を設置することから始めなければならないもので、毎年、お雛祭りが近づくと、両親に祖母も加わって、大変なことになっていた。
お雛様、お内裏様はもとより、家来たちの小道具のひとつひとつ、牛車やお針箱、といったお道具を一そろえならべ終ってやっと出来あがると、ぼんぼりに灯を入れて家族中で眺めた。北陸の三月はまだ雪混じりの毎日だったけれど、お雛様を飾ると、もう春かな、というほのかな実感が沸いて来た。
お雛様見ておはします過去未来
お雛様の視線がどこを向いているのか、子供の頃、不思議に思ったことがある。焦点が定まっているのかいないのか分からない上に、口もやや開き気味、怖いと思ったこともあった。
わたしの見えていないものが見えている。
そんな気がした。
人形は時として、生きている人間を追い越して、この世に在り続ける。
実家のお雛様も、ここにあるお雛様も、もしかしたら、今こうしているわたしよりはるかに長くこの世に在り続けるかもしれない。
そうして、わたしという、かつては小さな女の子だった生き物が成長し、そうしてまた小さな女の子を産んで育てている様子を黙って見つめ続けている。
狭いマンションの我が家には、三段飾りの、ケース入りのお雛様がある。
上の娘が初節句を迎えた際、わたしの両親が贈ってくれたものだ。
お雛様を出す、と言っても、箱から出してタンスの上にしつらえるだけである。子供の頃、実家でお雛様をしつらえるときのような大騒ぎにはならない。
七段飾りのそれは、床の間にお人形を設置するスチール製の段を設置することから始めなければならないもので、毎年、お雛祭りが近づくと、両親に祖母も加わって、大変なことになっていた。
お雛様、お内裏様はもとより、家来たちの小道具のひとつひとつ、牛車やお針箱、といったお道具を一そろえならべ終ってやっと出来あがると、ぼんぼりに灯を入れて家族中で眺めた。北陸の三月はまだ雪混じりの毎日だったけれど、お雛様を飾ると、もう春かな、というほのかな実感が沸いて来た。
お雛様見ておはします過去未来
お雛様の視線がどこを向いているのか、子供の頃、不思議に思ったことがある。焦点が定まっているのかいないのか分からない上に、口もやや開き気味、怖いと思ったこともあった。
わたしの見えていないものが見えている。
そんな気がした。
人形は時として、生きている人間を追い越して、この世に在り続ける。
実家のお雛様も、ここにあるお雛様も、もしかしたら、今こうしているわたしよりはるかに長くこの世に在り続けるかもしれない。
そうして、わたしという、かつては小さな女の子だった生き物が成長し、そうしてまた小さな女の子を産んで育てている様子を黙って見つめ続けている。
春隣
2002年2月28日 ニチジョウのアレコレ雨が降った。
春雨、といった感じの、あたたかくてやさしく煙るような雨である。
雨や雪の多い土地で育ったので、今住んでいる街で暮らし始めた頃は、雨の少なさに戸惑った。
出掛けに曇っていると、出先で必ず雨になるような気がしたから、必ず傘を持って出た。
電車に乗ると、傘をブラ下げているのはわたしだけ。この街の近くで育った主人も、よほどの悪天候で無ければ傘は持って行かない。育ち、というのは何もゴハンの食べかたや、立ち居振舞いだけに現れるものではないようだ。天候はじめ自然に対する心構えのようなものにも現れるようである。
ところで、わたしは雨が好き、である。
コドモふたり抱えていると、育ち盛りのあふれんばかりのエネルギーを室内で消費させることにほとほとくたびれて、外に出られない雨の日なんか大嫌い、ということになってしまうのであるが、コドモのことなんかどうでもいいということになれば、雨はいい。
ぼんやりしていても許される気がする。
とりわけ今日のように、降っているのか、止んでいるのか、どっちか分からないようなたおやかな雨の日には、バタバタと掃除なんかしないで、熱い紅茶をすすりながら、じっくりと読書などしていたら最高である。
お気に入りの映画をみるのもいい。
ま、花粉症が少しラクってのもありなんだけど。
実際の今日一日は、コドモ二人と小雨の振る中、自転車をブッ飛ばして図書館へ行くなど、とてもバタバタした一日であったのだが。
ももいろの雲の咲く朝春隣
明日は晴れるみたい。今日の雨に洗われて、街はきっときれいな姿を見せてくれるだろうな。
春雨、といった感じの、あたたかくてやさしく煙るような雨である。
雨や雪の多い土地で育ったので、今住んでいる街で暮らし始めた頃は、雨の少なさに戸惑った。
出掛けに曇っていると、出先で必ず雨になるような気がしたから、必ず傘を持って出た。
電車に乗ると、傘をブラ下げているのはわたしだけ。この街の近くで育った主人も、よほどの悪天候で無ければ傘は持って行かない。育ち、というのは何もゴハンの食べかたや、立ち居振舞いだけに現れるものではないようだ。天候はじめ自然に対する心構えのようなものにも現れるようである。
ところで、わたしは雨が好き、である。
コドモふたり抱えていると、育ち盛りのあふれんばかりのエネルギーを室内で消費させることにほとほとくたびれて、外に出られない雨の日なんか大嫌い、ということになってしまうのであるが、コドモのことなんかどうでもいいということになれば、雨はいい。
ぼんやりしていても許される気がする。
とりわけ今日のように、降っているのか、止んでいるのか、どっちか分からないようなたおやかな雨の日には、バタバタと掃除なんかしないで、熱い紅茶をすすりながら、じっくりと読書などしていたら最高である。
お気に入りの映画をみるのもいい。
ま、花粉症が少しラクってのもありなんだけど。
実際の今日一日は、コドモ二人と小雨の振る中、自転車をブッ飛ばして図書館へ行くなど、とてもバタバタした一日であったのだが。
ももいろの雲の咲く朝春隣
明日は晴れるみたい。今日の雨に洗われて、街はきっときれいな姿を見せてくれるだろうな。
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花粉症
2002年2月27日 ニチジョウのアレコレ花粉の季節がやってきました。
というコトバをよく耳にする。
花粉症、という単語が季語なのかどうか、実は知らないのであるが、普通に日本で暮らしている大人なら、多分ほとんどの人が知っている症状だから、春の季語なんじゃ無いかと勝手に思った次第。
勝ち組も負け組も無し花粉症
わたしが初めて発症した十四、五年前には余り知られたビョーキでは無くて、
「それって、うつるの?。」
と、真顔で聞かれることもあった。
今ではテレビの気象情報コーナーの枕詞である。
花粉症も市民権を得たものだなあ。
勝ち組、負け組というコトバも昨年あたりからよく耳にするようになった。
正直言うと、このコトバはよく意味が分からない。
わたしが、勝負にほとんど全く拘泥しない性質、ってのもあるだろうが。拘泥しない、という言い方もおかしいなあ。大体、勝負というものが分からないタイプなのだ。鬼ごっこにしろ、ババぬきにしろ、もう少し高度なゲーム・・・オトコ争奪戦、にしろ、とにかく勝利してもエクスタシーを感じないのである。負けず嫌いで、その性格が幸いしてどんどん自分のできることのレベルを上げていく人がいるけれども、そういう人ってやっぱり、
ああ、勝てて嬉しい・・・。
と、浸れる何かがあるのだろう。
そういう、勝利の麻薬、みたいなものに触れることができないでいる。だから、勝ち組、負け組、というコトバを聞くとなんだか落着かない。わたしの知らない世界があり、わたしの知らない価値観で動いている人たちが確実にいるのだ。
そんでもって、わたしがぜんぜん知らない間に、ほれ、アンタは勝ち組、或いは負け組、なあんて選別されちゃっていたりするのである。これはコワイ。
それに比べると花粉症はカワイイ。
抗体検査をすれば、すぐに分かっちゃう体質。
いや、抗体検査なんかしなくても、ハナ、クシャミに目のカユミ、が加われば立派に花粉症ワールドの住人である。わかりやすい。気持ちいいほどすっきりしているではありませんか。その症状がもたらすものとは裏腹に。
というコトバをよく耳にする。
花粉症、という単語が季語なのかどうか、実は知らないのであるが、普通に日本で暮らしている大人なら、多分ほとんどの人が知っている症状だから、春の季語なんじゃ無いかと勝手に思った次第。
勝ち組も負け組も無し花粉症
わたしが初めて発症した十四、五年前には余り知られたビョーキでは無くて、
「それって、うつるの?。」
と、真顔で聞かれることもあった。
今ではテレビの気象情報コーナーの枕詞である。
花粉症も市民権を得たものだなあ。
勝ち組、負け組というコトバも昨年あたりからよく耳にするようになった。
正直言うと、このコトバはよく意味が分からない。
わたしが、勝負にほとんど全く拘泥しない性質、ってのもあるだろうが。拘泥しない、という言い方もおかしいなあ。大体、勝負というものが分からないタイプなのだ。鬼ごっこにしろ、ババぬきにしろ、もう少し高度なゲーム・・・オトコ争奪戦、にしろ、とにかく勝利してもエクスタシーを感じないのである。負けず嫌いで、その性格が幸いしてどんどん自分のできることのレベルを上げていく人がいるけれども、そういう人ってやっぱり、
ああ、勝てて嬉しい・・・。
と、浸れる何かがあるのだろう。
そういう、勝利の麻薬、みたいなものに触れることができないでいる。だから、勝ち組、負け組、というコトバを聞くとなんだか落着かない。わたしの知らない世界があり、わたしの知らない価値観で動いている人たちが確実にいるのだ。
そんでもって、わたしがぜんぜん知らない間に、ほれ、アンタは勝ち組、或いは負け組、なあんて選別されちゃっていたりするのである。これはコワイ。
それに比べると花粉症はカワイイ。
抗体検査をすれば、すぐに分かっちゃう体質。
いや、抗体検査なんかしなくても、ハナ、クシャミに目のカユミ、が加われば立派に花粉症ワールドの住人である。わかりやすい。気持ちいいほどすっきりしているではありませんか。その症状がもたらすものとは裏腹に。
冴返る
2002年2月24日 ニチジョウのアレコレモーニング娘。の新曲をテレビで見た。
新曲を、聴く、では無くて、見る、というのはいささか気になる表現ではある。しかし、総勢13人という彼女たちの作り出すステージはどこかしら演劇あるいはミュージカルめいていて、じっと耳を傾けるよりも見ている方がなんだか楽しい。
わたしにも、あんな時代があったなあ・・・。
笑顔で歌う彼女たちを見ていて、しみじみ思う。
新曲の歌詞で彼女たちは、いくつになっても青春なんだよって元気に言ってくれちゃってるけど、いやあ、やっぱり、青い時代っていうのは、そういつまでも続くわけじゃあない。
そう、青春は青い時代なんだ。
彼女たちの不和説がときどき取りざたされる。
そりゃ、いろいろあるさ。
わたしもいろいろあった。女の子が集団で何かをしようということになると、そこには必ず何かしら事件が起きるものだった。
男の集団というのを知らないのでそこにある世界は想像するだけだが、男たちの方が、いざ、ってときには手が出たり、足が出たりして、その手足を引っ込めたときには以前より仲良くなってたりっていうような、そういう単純な風通しのよさがあるように思う。
女の集団となると、なかなかややこしい。
表向きは何も無くても、一皮剥けばスゴイことになっていたりする。それをいちいち書いていては、このページが、どろどろ大河小説になってしまうであろう。
冴え返る女の園に静電気
冴え返るっていうのは、春の季語で、いったん暖かくなりかけたのにまた寒さが戻って来る、という様子をいう。
きのうまでボス面していたのが、今日は仲間はずれになったり、自分が仲間はずれになりたくないがために徒党を組んでみたり、と、女の園の力関係はホント、先が読めないのである。
娘をふたり持っているので、こういうことを考え出すと、ゆううつになってくる。
自ら体験したことから、何らかの処世術を教えてやりたいところなんだけども、どうやって今までやってこれたのか、振り返ってみても全く分からない。
ここらへん、まだ、青いってことかな。
いつまでも青春かあ・・・。
確かに、人と人とのことは、天国に行くその瞬間まで、理解できずに振り回されるものなのかもね。
新曲を、聴く、では無くて、見る、というのはいささか気になる表現ではある。しかし、総勢13人という彼女たちの作り出すステージはどこかしら演劇あるいはミュージカルめいていて、じっと耳を傾けるよりも見ている方がなんだか楽しい。
わたしにも、あんな時代があったなあ・・・。
笑顔で歌う彼女たちを見ていて、しみじみ思う。
新曲の歌詞で彼女たちは、いくつになっても青春なんだよって元気に言ってくれちゃってるけど、いやあ、やっぱり、青い時代っていうのは、そういつまでも続くわけじゃあない。
そう、青春は青い時代なんだ。
彼女たちの不和説がときどき取りざたされる。
そりゃ、いろいろあるさ。
わたしもいろいろあった。女の子が集団で何かをしようということになると、そこには必ず何かしら事件が起きるものだった。
男の集団というのを知らないのでそこにある世界は想像するだけだが、男たちの方が、いざ、ってときには手が出たり、足が出たりして、その手足を引っ込めたときには以前より仲良くなってたりっていうような、そういう単純な風通しのよさがあるように思う。
女の集団となると、なかなかややこしい。
表向きは何も無くても、一皮剥けばスゴイことになっていたりする。それをいちいち書いていては、このページが、どろどろ大河小説になってしまうであろう。
冴え返る女の園に静電気
冴え返るっていうのは、春の季語で、いったん暖かくなりかけたのにまた寒さが戻って来る、という様子をいう。
きのうまでボス面していたのが、今日は仲間はずれになったり、自分が仲間はずれになりたくないがために徒党を組んでみたり、と、女の園の力関係はホント、先が読めないのである。
娘をふたり持っているので、こういうことを考え出すと、ゆううつになってくる。
自ら体験したことから、何らかの処世術を教えてやりたいところなんだけども、どうやって今までやってこれたのか、振り返ってみても全く分からない。
ここらへん、まだ、青いってことかな。
いつまでも青春かあ・・・。
確かに、人と人とのことは、天国に行くその瞬間まで、理解できずに振り回されるものなのかもね。
沈丁花
2002年2月21日 ニチジョウのアレコレわたしのネームは何と読むのか。
クラリ オトコと読む。そうして、その意味するところは、いいオトコがいるとすぐにクラリ、ときてしまうから。
だったらそれも良いかなと思う。
ホントは、クラリ ネコと読むんです。すみません。
のらりくらり猫、です。
実家で猫を飼っていて、そののんびりぶり、マイペースぶり、だけど、縄張りを脅かすやつにゃあ容赦しないぜっ、て感じの姉御ぶり(女の子)、そこらへんに憧れてつけたんだよね。
もうひとつ、学生の頃にいつもそばにあった楽器、ピアノともう一つ、クラリネット、このクラリネット、の語感からも採りました、というわけなんである。
もともとは、ただの、音子、と名乗っておりました。詩でも物語でも、書くのが好きだったから、ペンネームはいろいろつけていたし。
本名はキライでした。
今まで旧姓でも今の名前でも、3人ずつ、同じ名前を目にしたことがある。犯罪者もいたし、ガス爆発の犠牲者もいる。漫才師、長年ボランティアをやっていて表彰されたおばちゃん、あと何だったかな。
ガス爆発の犠牲者のときなんか、事故の第一発見者は母と同じ名前だった。
ショックだったのは、高校生のとき、密かに思いを寄せていたクラスメイトの男の子から、2学期ももう終わるかってな時期に、
名前、なんだっけ。
と聞かれたときである。
ありふれた名前というのは、印象に残らない。別にふつうに暮らしていくのに困りはしないんだが、ここ一番、じぶんをおぼえさせたいっ、というときにはつらい。ツクエ、とかヤカン、とかの身の回りの普通の名詞に埋没してしまう。
名前からして華やいだものをもらっている人がいる。華やかな名前を持っている人は、その背後にいつも華やかなオーラを背負っているような気がする。そんな女性がうらやましい。
沈丁花見送るだけの恋にかほる
想いを寄せていたひとは、卒業後、都会へ行ってしまった。地方の、ある程度の進学校ではよくあることである。卒業生は実家にとどまることはあまり無い。東京圏、関西圏の大学、または予備校へ進学し、生活の拠点自体を変えてしまう。当然、進路によってはカップルも別れ別れになってしまうし、片想いなら尚更、相手を見かけることすら無くなってしまうことになる。
今年も沈丁花が香り始めた。
普通に道を歩いていて、ふとどこからか、この花の香りがしてくると、冬も終わりである。
そうして、地方の高校生だったわたしは、進路が決まって生まれ育った町を去ってしまうひとに、サヨウナラともガンバッテネとも言い出せず、ただ黙って背中を見送るしかなかった、あの季節を思い出して切なくなるのである。
クラリ オトコと読む。そうして、その意味するところは、いいオトコがいるとすぐにクラリ、ときてしまうから。
だったらそれも良いかなと思う。
ホントは、クラリ ネコと読むんです。すみません。
のらりくらり猫、です。
実家で猫を飼っていて、そののんびりぶり、マイペースぶり、だけど、縄張りを脅かすやつにゃあ容赦しないぜっ、て感じの姉御ぶり(女の子)、そこらへんに憧れてつけたんだよね。
もうひとつ、学生の頃にいつもそばにあった楽器、ピアノともう一つ、クラリネット、このクラリネット、の語感からも採りました、というわけなんである。
もともとは、ただの、音子、と名乗っておりました。詩でも物語でも、書くのが好きだったから、ペンネームはいろいろつけていたし。
本名はキライでした。
今まで旧姓でも今の名前でも、3人ずつ、同じ名前を目にしたことがある。犯罪者もいたし、ガス爆発の犠牲者もいる。漫才師、長年ボランティアをやっていて表彰されたおばちゃん、あと何だったかな。
ガス爆発の犠牲者のときなんか、事故の第一発見者は母と同じ名前だった。
ショックだったのは、高校生のとき、密かに思いを寄せていたクラスメイトの男の子から、2学期ももう終わるかってな時期に、
名前、なんだっけ。
と聞かれたときである。
ありふれた名前というのは、印象に残らない。別にふつうに暮らしていくのに困りはしないんだが、ここ一番、じぶんをおぼえさせたいっ、というときにはつらい。ツクエ、とかヤカン、とかの身の回りの普通の名詞に埋没してしまう。
名前からして華やいだものをもらっている人がいる。華やかな名前を持っている人は、その背後にいつも華やかなオーラを背負っているような気がする。そんな女性がうらやましい。
沈丁花見送るだけの恋にかほる
想いを寄せていたひとは、卒業後、都会へ行ってしまった。地方の、ある程度の進学校ではよくあることである。卒業生は実家にとどまることはあまり無い。東京圏、関西圏の大学、または予備校へ進学し、生活の拠点自体を変えてしまう。当然、進路によってはカップルも別れ別れになってしまうし、片想いなら尚更、相手を見かけることすら無くなってしまうことになる。
今年も沈丁花が香り始めた。
普通に道を歩いていて、ふとどこからか、この花の香りがしてくると、冬も終わりである。
そうして、地方の高校生だったわたしは、進路が決まって生まれ育った町を去ってしまうひとに、サヨウナラともガンバッテネとも言い出せず、ただ黙って背中を見送るしかなかった、あの季節を思い出して切なくなるのである。
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春野菜
2002年2月19日 ニチジョウのアレコレ冬服のバーゲンセールもそろそろ終焉。
春物の服が目に付くようになってきた。
今年の春はロマンティックなデザインのものがはやるのだろうか。ファッションに詳しいわけではないのでよく知らないが、なんだか、レースや刺繍を多めに使って仕立ててあるものが多いように思う。
4歳児はともかく、1歳児を連れていては、とてもじゃないが、ゆっくり自分の洋服選びなど楽しめない。だから、あまりじっくり売り場を見てはいないんだけど、毎年今の季節になると、やっぱり目に入るパステルカラー。
遠目にも、パッと視界に飛び込んでくる、淡い色彩。
暖色系も、寒色系も、霞を織り込んだように白々と輝く。
わたしはスリムじゃないし、チビなので、はっきり言ってパステルカラーは似合わない。わたしなんかが着たら、服に申し訳ない。だから、見るだけ。
見て、そうして、こういう服をたとえばどんな人が身につけたら、バッチリ決まるんだろうかと思ってみる。
うっとり。
次に生まれてきたら、絶対に背の高いスリム美人になるぞっ。
春野菜刻んだ色を身に纏う
洋服は見るだけ。大きな春キャベツをゲットして帰る。
キャベツも頭に、春、とついているものは優しい色合い、柔らかい黄緑色。じゃがいもだって、春、のものは皮が薄くてピンと張っている。
春色というのはある。
あちこちに。そうして、キラキラとわたしを誘う。
せめて娘たちが春色の似合う少女になってくれますように。
お腹の中に・・・・忘れて来たのかって、言われるような娘たちなんだけど。これがまた。
春物の服が目に付くようになってきた。
今年の春はロマンティックなデザインのものがはやるのだろうか。ファッションに詳しいわけではないのでよく知らないが、なんだか、レースや刺繍を多めに使って仕立ててあるものが多いように思う。
4歳児はともかく、1歳児を連れていては、とてもじゃないが、ゆっくり自分の洋服選びなど楽しめない。だから、あまりじっくり売り場を見てはいないんだけど、毎年今の季節になると、やっぱり目に入るパステルカラー。
遠目にも、パッと視界に飛び込んでくる、淡い色彩。
暖色系も、寒色系も、霞を織り込んだように白々と輝く。
わたしはスリムじゃないし、チビなので、はっきり言ってパステルカラーは似合わない。わたしなんかが着たら、服に申し訳ない。だから、見るだけ。
見て、そうして、こういう服をたとえばどんな人が身につけたら、バッチリ決まるんだろうかと思ってみる。
うっとり。
次に生まれてきたら、絶対に背の高いスリム美人になるぞっ。
春野菜刻んだ色を身に纏う
洋服は見るだけ。大きな春キャベツをゲットして帰る。
キャベツも頭に、春、とついているものは優しい色合い、柔らかい黄緑色。じゃがいもだって、春、のものは皮が薄くてピンと張っている。
春色というのはある。
あちこちに。そうして、キラキラとわたしを誘う。
せめて娘たちが春色の似合う少女になってくれますように。
お腹の中に・・・・忘れて来たのかって、言われるような娘たちなんだけど。これがまた。
春が来る
2002年2月18日 リーコとチョーコのお話幼稚園の年少組に通う上の娘が、バレンタインデイの話を始めた。
さすがに、それほど大盛況というイベントではなかったようだが、それでも、いくらかはチョコレートのやりとりがあったようで、誰にもあげなかった彼女は少し物足りない気持ちになったみたいである。
パパにあげたじゃん。
わたしが言っても、なんかハッキリしない顔。
もしかしたらチョコを渡したかった相手でもいたのかとさりげなく聞いても、やっぱりはっきりしない。
大体がちょっとぼーっといたところのある子なので適当に話を切り上げてしまったところ、
あのね、チョコ、つくりたかったの。
と、きた。
ふーん、手作りしたかったということか。
手作りしてあげたい相手がいるいない、という以前の問題で、チョコを自分でつくる、ということがしたかったのだという。
この御近所のひとたちには、お料理上手が多いから、幼稚園でも、ママとイッショにつくったチョコ、が評判だったのかもしれない。
来年はじゃあ、つくろうね。
と言ってはみたものの、よく考えれば、かれこれ十何年前に妹とつくったっきり、のわたしである。
それ以後は両親にあれこれ詮索されるのがうるさくなって、やめてしまった。
果たして来年どうなるのだろうか。
バレンタインデイ前日、お散歩していたら、どこかのお家から、ふわっっ、と甘い香りがしていた。あのお家の中では、誰が、どんな人のためのチョコレートをこしらえていたのだろう。
チョコ煮れば鼻の奥から春が来る
この季節、花粉症も、そろそろ、である。
甘い香りにうっとりしていると、立て続けにくしゃみが出て、わたしを現実に引き戻す。
来年の春も、こうして鼻をむずむずさせながら、また少し成長した娘とチョコづくりの相談などしているのだろうか。
と、その前に、娘よ、アンタ、チョコレート、キライだったんじゃなかったっけ・・・・・?。
さすがに、それほど大盛況というイベントではなかったようだが、それでも、いくらかはチョコレートのやりとりがあったようで、誰にもあげなかった彼女は少し物足りない気持ちになったみたいである。
パパにあげたじゃん。
わたしが言っても、なんかハッキリしない顔。
もしかしたらチョコを渡したかった相手でもいたのかとさりげなく聞いても、やっぱりはっきりしない。
大体がちょっとぼーっといたところのある子なので適当に話を切り上げてしまったところ、
あのね、チョコ、つくりたかったの。
と、きた。
ふーん、手作りしたかったということか。
手作りしてあげたい相手がいるいない、という以前の問題で、チョコを自分でつくる、ということがしたかったのだという。
この御近所のひとたちには、お料理上手が多いから、幼稚園でも、ママとイッショにつくったチョコ、が評判だったのかもしれない。
来年はじゃあ、つくろうね。
と言ってはみたものの、よく考えれば、かれこれ十何年前に妹とつくったっきり、のわたしである。
それ以後は両親にあれこれ詮索されるのがうるさくなって、やめてしまった。
果たして来年どうなるのだろうか。
バレンタインデイ前日、お散歩していたら、どこかのお家から、ふわっっ、と甘い香りがしていた。あのお家の中では、誰が、どんな人のためのチョコレートをこしらえていたのだろう。
チョコ煮れば鼻の奥から春が来る
この季節、花粉症も、そろそろ、である。
甘い香りにうっとりしていると、立て続けにくしゃみが出て、わたしを現実に引き戻す。
来年の春も、こうして鼻をむずむずさせながら、また少し成長した娘とチョコづくりの相談などしているのだろうか。
と、その前に、娘よ、アンタ、チョコレート、キライだったんじゃなかったっけ・・・・・?。
初日記
2002年2月16日 ニチジョウのアレコレ日々の何気ないひとときに、ふと、はっとする瞬間、奇麗なものを見たとき、或いは不思議だな、と感じたとき、率直に言えば感動、でも、そんな大袈裟なものではなくても、なんとなく忘れてしまいたくない瞬間。
「詩が走った」とおもう。
一年ほど前から俳句をはじめた。
写真を撮るように、詩が走った瞬間をとらえて詠む遊びに少しばかり熱中している。
子育て中でしかも出不精の専業主婦が、一体どれだけ、そんな一瞬をとらえることができるのか。
これはある種、宝捜しにも似ていて、ちょっとどきどきする。
はじめての電話にも似て初日記
「詩が走った」とおもう。
一年ほど前から俳句をはじめた。
写真を撮るように、詩が走った瞬間をとらえて詠む遊びに少しばかり熱中している。
子育て中でしかも出不精の専業主婦が、一体どれだけ、そんな一瞬をとらえることができるのか。
これはある種、宝捜しにも似ていて、ちょっとどきどきする。
はじめての電話にも似て初日記