開花前夜の桜
2004年3月5日 内科医レインと人妻フィーネの物語ーツ・ナ・ガ・ルほろ酔ひの開花前夜の桜かな
春めいて、日暮れが遅くなって、お日さまはうっとりと西の空で光を舞わせながら、何かたくらんでいる?。
「夕暮れ時の空の色が、カクテルみたいだよ。
ピンクと、ヴァイオレットとが、リキュールめいて目に映る。
とろけそうに甘い色だよ。」
・・・と、メールを打つ。
「そうだね、こんな夕暮れに何か似合うカクテルがありそうだよね。でも、きみはお酒は呑めるのだった?。」
「いいえ。
体質ですから、仕方ありません。お付き合いできなくて残念だけど。」
「そう。じゃあ、ひとりで酔うことにするよ。」
・・・小さな画面の整った文字だと、とても味気なく思える返事。このまま引き下がるのは、ちょっと悔しいかな。
夕暮れに吹く風がとても甘いのは、なぜだか知っている。
冬の間、丁寧に折りたたまれていた桜の花たちを、目覚めさせるためなんだ。
だから、ほら、よくみると桜並木の木はどれも、どこか、うすく発光しているでしょう。
まるで、酔っ払い始めたかのように。
「お酒を呑ませれば、口説けるとでもいうのなら、少しは無理にでも付き合うんだけど。」
仕掛けてやった。
「うん、呑ませれば口説けるよ。」
「呑めないと口説けないってことでしょ?」
「そんなことは無いよ。・・・試してみる?。」
液晶だけで、恋を動かせるかしら。
夕暮れの甘い風の中、ほろ酔いの、桜の下の、駆け引き。
桃つぼみ
2004年3月3日 ニチジョウのアレコレ桃つぼみ切り落とす心乱れて
おひなまつりなので、桃を生ける。
久しぶりなので、緊張。
お花を習っていたことがある。
花材は、教室に着くと、それぞれ新聞紙にくるまれてバケツに漬けてある。
それを開いて、さあ、今日はどんなふうに生けようかしら、と思い悩むときの、ときめき。
あの感覚を久しぶりに思い出した。
同じ花なのに、生けるひとそれぞれがみな、全く違う空間をつくりあげるのが不思議。
自由な流派で、一応、二年ほどかけて「基本形」を教わるが、その段階を過ぎると、今度はいかに自由に、型にとらわれずに、花を生かせられるのか、が勝負になる。
「あなたは自由になってから、面白いものを生けるようになったわね。基本のときには正直、どうしようかしら、って思ったこともあったけれど・・・。」
とは、師匠の弁。
決められたことを、決められたようにするのは大の苦手なんだ。
それでも、どこかで、似てしまう作品というのがある。それは、花、という自然のものを使っていることの限界なのだが、しかし、生け方の傾向が、まったく違う、というひとがいる。
男と、女の「花」は、ほんとうに違う。
花に対する姿勢が、そもそも違うのだ。
男の「花」で、時に、この作品をつくったひとは、花がいとおしいのか、憎いのか、どちらなんだ、と思わされるものがある。
あるいは、そのどちらもか。
愛しているけど、憎い。憎いけれども、いとおしい。
・・・まるで、女を愛するように、花と向き合うのが、男の「花」なのかもしれない。
対する女の「花」。
こちらは、そういう思い入れはあまり、無い。
ただ、生かしてやりたい、という慈しみがあふれる。この花の持っている力を、美しさを、最大に引き出すにはどうすればいいのか、静かに考えながら、花と向き合う。
部屋に飾ると、桃のつぼみたちは、何かを待ちかねたように、次々に花開く。
うっかり落としてしまったつぼみたちも、なんとか開かせてやりたい、と未練がましく小皿に入れてあったりする我が家である。
冴返る
2004年3月2日 リーコとチョーコのお話 「親業」からは逃れられずや冴返る
熱く、スリリングな一夜が、過ぎた。
・・・とかなんとか書くと、またどなたかが、ここにアクセスしてこられるのかなあ。
でも、これは本当よ。
チョーコが熱を出し、未明から繰り返し、吐いた。
お子様をお持ちの方ならお分かりかと思うんだけど・・・就寝中に、子供に嘔吐される、というのは、なかなかスリリングなのである。大人のように「そこらへんを汚さないようにしよう」などとは思わない(と言うか、そういう余裕が無いみたいだ)から。どこに繰り広げられるか分からない、となったら、もうこいつは絶対に眠れないよ。
一応、3才児ともなると、会話も成立できるのではあるが、それでもまだまだ素っ頓狂である。
汚れ物を下洗いしているときに、また苦しげな声が寝室から聞こえる。
あわてて飛んで行ったら、枕元の洗面器を仰向けの姿勢のまま顔にかぶっていた・・・。
一応、主人は添い寝しているのであるが・・・役に立たない。どーして、洗面器を顔にかぶせて大泣きしているわが子を隣に、その苦しさを取り除いてやろうという気にならないのか、分からない。
と、今日もまた、主人へのグチみたいになってきたので、今回はこのへんで。
でも、いやー、可愛くないことはないんだと思うんだよね。子供が好きだし、娘たちにも構いたがるし。
しかし、なんかピントが外れているような気がして、あきれることが多い。
それにしても「アクセス元」。案外、セクシー系の日記の日には、来られてなくて、今日のみたいな、日常ネタばっかりだな。
検索されている言葉は、「セクシーな妻」とか「ミニスカート」とか何か思うところあって、という感じなんですけど。
それから、これは、案外わたしって陳腐な言葉をつかうんだなあ、という反省にもなる。
なんなんだよ、「別れの言葉」って。みたいに。
熱く、スリリングな一夜が、過ぎた。
・・・とかなんとか書くと、またどなたかが、ここにアクセスしてこられるのかなあ。
でも、これは本当よ。
チョーコが熱を出し、未明から繰り返し、吐いた。
お子様をお持ちの方ならお分かりかと思うんだけど・・・就寝中に、子供に嘔吐される、というのは、なかなかスリリングなのである。大人のように「そこらへんを汚さないようにしよう」などとは思わない(と言うか、そういう余裕が無いみたいだ)から。どこに繰り広げられるか分からない、となったら、もうこいつは絶対に眠れないよ。
一応、3才児ともなると、会話も成立できるのではあるが、それでもまだまだ素っ頓狂である。
汚れ物を下洗いしているときに、また苦しげな声が寝室から聞こえる。
あわてて飛んで行ったら、枕元の洗面器を仰向けの姿勢のまま顔にかぶっていた・・・。
一応、主人は添い寝しているのであるが・・・役に立たない。どーして、洗面器を顔にかぶせて大泣きしているわが子を隣に、その苦しさを取り除いてやろうという気にならないのか、分からない。
と、今日もまた、主人へのグチみたいになってきたので、今回はこのへんで。
でも、いやー、可愛くないことはないんだと思うんだよね。子供が好きだし、娘たちにも構いたがるし。
しかし、なんかピントが外れているような気がして、あきれることが多い。
それにしても「アクセス元」。案外、セクシー系の日記の日には、来られてなくて、今日のみたいな、日常ネタばっかりだな。
検索されている言葉は、「セクシーな妻」とか「ミニスカート」とか何か思うところあって、という感じなんですけど。
それから、これは、案外わたしって陳腐な言葉をつかうんだなあ、という反省にもなる。
なんなんだよ、「別れの言葉」って。みたいに。
桃生ける
2004年2月28日 リーコとチョーコのお話 桃生ける少女の口も半開き
このところ、艶っぽい話で来ましたが(そうでもないか)、久々の日常話です。
ついでに、ほんとうにあった話なので、できればお子さんのおられる方は、ご意見を頂戴いたしたく・・・。
と、いうほどのことでも無い気がしてきたんだが、わたしの中で整理つけたいので、書きます。
先日、年長児リーコが、やたらと落ち込んで帰宅した。
またどこかで頭をぶつけたか、それともクラスで何か失敗したか、と彼女が何か言い出すのを待っていると、ベソを書きながら、カバンの中から何かを取り出した。
学級便り、である。
近頃では先生がカラーコピー機を駆使、デジカメを多様のフルカラー、とてもきれいである。月一度の発行で、発行元はクラス担任。子供たちは、自分の姿をこの紙面でみつけることを本当に楽しみにしていて、自分の写真をみつけると、
「ねー、これ、わたしやでー。」
と、帰りの通園バスのバス停に降り立つと同時にまわりに見せる。
そういう感じのものである。
で、その一月号を手にして、リーコは泣きそうになっている。
「どうしたん?。」
と、差し出されたものをのぞきこむと、そこには、リーコとあと、二人の子の写真。
「リーちゃん、載ってるやん・・・。」言いかけて、ふと、変なことに気が付いた。
「これって・・・。」
「ね、お名前、違うやろ。」
なんと、リーコの顔写真の下に、大きく、違う子の名前が書かれてある。
つまり、担任の先生が、自分のクラスのほかの子と、リーコとを取り違えて名前を書いた、ということなのだ。
「これ、先生に言わなかったの?。」
とたずねると、そんな時間は無かった、と言う。大体、自分の感情を大爆発させるのが、やや苦手なタイプなのだ。おとなであれば、こういう性格は生きやすいのだが、幼稚園児くらいの年だと、割と不利である。
不具合を主張しなかったから、何も感じていないのか、と言うと、そんなことは無くて、便りをみつめる目からは涙がこぼれ落ちた・・・。
さて、どうするか。
ここで、まず電話して怒鳴り込む、という手もあろう。
しかし、相手を一方的に攻め立てて、その結果、相手は申し訳ないと思うだろうか。
会社勤務時代、山ほどの苦情処理を電話で受けてきた体験が、それは違う、と言う。
感情を爆発させて、謝罪の言葉を引き出しても、決して好印象は残さない。むしろ、
「あそこまで言わなくたって・・・。」
と、反論したくなる気を起こさせる、というものだ。
なので、ここはひとつ、じっくり反省させてやることにした。
クラス便りの問題写真のところに大きく矢印を書き、
「?」
と書いてやった。
あとは、謝罪待ちだ。
リーコには、きちんとママが先生に言って直してもらうから、ということで慰めた。
しかし、もうそろそろ卒園、というこの時期になって、クラスの子供の顔写真を取り違えるか?。
そう、これが四月、五月ならまだ許せるけど・・・。
子供は、せっかく自分の写真が載った、と喜んだとたん、その下に違う子の名前をみつけて、ものすごく落ち込む。
せんせい、わたしのこと、おぼえてくれてないのかなあ。
ええ、もちろん、ひらがな、カタカナは全部読めますとも。
さて、この件についての憤慨は、ここで終わらない。
なんと、帰宅した夫が、まったく怒らないのである。
「先生も、忙しいんやなあ。」
と、ひとこと。
リーコのクラスメイトのパパは、この紙面を見て大いに憤り、
「オレの娘やったら、園に怒鳴りこんだる!。」
と、息巻いたらしい。
「先生が子供の名前を間違えるって、それがプロか?。しかも、校正もろくにしないで・・・。こんなん、刷り直しやで。当然。」
実は、わたしは、そういう反応をしていただきたかったのだよ、夫に。
ポイントは、二つ。
外で仕事をしている男らしく、仕事というものの厳しさを主張して欲しかったのだよ。
娘が期待していることはどんなことか・・・たとえばクラス便りに載る、ということをどんなに心待ちにしているのか・・・を、日頃から理解していて欲しいのだよ。父親として。
しかし、なーんにも思わないらしい。
結局、先週の個人懇談の際、担任の先生は平身低頭、ものすごい謝罪ぶりでありました。
机が無ければ、土下座していたかもしれない。
こちらも、先生とは言え、ハタチそこそこのうら若い女の子をいじめるのが目的では無いので、それに父親が怒っていないのに、母親だけカッカしても・・・とか何とか、調子が狂って、リーコがものすごく落ち込んでいた、ということだけはしっかり伝えて、もうその話はおしまい。
でも、ね・・・。
どう思われます?。
こんなとき、やはり夫には怒っていただきたい・・・と思うのは、わたしだけ?。
よそのお父様の反応を聞いただけに、余計に悔しいんだけど。
こんなことで不信感を募らせても仕方が無いのだが、別に浮気していなくても、こんな男とは寝たくない。
(冒頭の句は、個人懇談のあと、廊下に生けてあった桃を見て詠んだものです。
明日にでも、ほんとうに娘たちと生けようと思っています。)
このところ、艶っぽい話で来ましたが(そうでもないか)、久々の日常話です。
ついでに、ほんとうにあった話なので、できればお子さんのおられる方は、ご意見を頂戴いたしたく・・・。
と、いうほどのことでも無い気がしてきたんだが、わたしの中で整理つけたいので、書きます。
先日、年長児リーコが、やたらと落ち込んで帰宅した。
またどこかで頭をぶつけたか、それともクラスで何か失敗したか、と彼女が何か言い出すのを待っていると、ベソを書きながら、カバンの中から何かを取り出した。
学級便り、である。
近頃では先生がカラーコピー機を駆使、デジカメを多様のフルカラー、とてもきれいである。月一度の発行で、発行元はクラス担任。子供たちは、自分の姿をこの紙面でみつけることを本当に楽しみにしていて、自分の写真をみつけると、
「ねー、これ、わたしやでー。」
と、帰りの通園バスのバス停に降り立つと同時にまわりに見せる。
そういう感じのものである。
で、その一月号を手にして、リーコは泣きそうになっている。
「どうしたん?。」
と、差し出されたものをのぞきこむと、そこには、リーコとあと、二人の子の写真。
「リーちゃん、載ってるやん・・・。」言いかけて、ふと、変なことに気が付いた。
「これって・・・。」
「ね、お名前、違うやろ。」
なんと、リーコの顔写真の下に、大きく、違う子の名前が書かれてある。
つまり、担任の先生が、自分のクラスのほかの子と、リーコとを取り違えて名前を書いた、ということなのだ。
「これ、先生に言わなかったの?。」
とたずねると、そんな時間は無かった、と言う。大体、自分の感情を大爆発させるのが、やや苦手なタイプなのだ。おとなであれば、こういう性格は生きやすいのだが、幼稚園児くらいの年だと、割と不利である。
不具合を主張しなかったから、何も感じていないのか、と言うと、そんなことは無くて、便りをみつめる目からは涙がこぼれ落ちた・・・。
さて、どうするか。
ここで、まず電話して怒鳴り込む、という手もあろう。
しかし、相手を一方的に攻め立てて、その結果、相手は申し訳ないと思うだろうか。
会社勤務時代、山ほどの苦情処理を電話で受けてきた体験が、それは違う、と言う。
感情を爆発させて、謝罪の言葉を引き出しても、決して好印象は残さない。むしろ、
「あそこまで言わなくたって・・・。」
と、反論したくなる気を起こさせる、というものだ。
なので、ここはひとつ、じっくり反省させてやることにした。
クラス便りの問題写真のところに大きく矢印を書き、
「?」
と書いてやった。
あとは、謝罪待ちだ。
リーコには、きちんとママが先生に言って直してもらうから、ということで慰めた。
しかし、もうそろそろ卒園、というこの時期になって、クラスの子供の顔写真を取り違えるか?。
そう、これが四月、五月ならまだ許せるけど・・・。
子供は、せっかく自分の写真が載った、と喜んだとたん、その下に違う子の名前をみつけて、ものすごく落ち込む。
せんせい、わたしのこと、おぼえてくれてないのかなあ。
ええ、もちろん、ひらがな、カタカナは全部読めますとも。
さて、この件についての憤慨は、ここで終わらない。
なんと、帰宅した夫が、まったく怒らないのである。
「先生も、忙しいんやなあ。」
と、ひとこと。
リーコのクラスメイトのパパは、この紙面を見て大いに憤り、
「オレの娘やったら、園に怒鳴りこんだる!。」
と、息巻いたらしい。
「先生が子供の名前を間違えるって、それがプロか?。しかも、校正もろくにしないで・・・。こんなん、刷り直しやで。当然。」
実は、わたしは、そういう反応をしていただきたかったのだよ、夫に。
ポイントは、二つ。
外で仕事をしている男らしく、仕事というものの厳しさを主張して欲しかったのだよ。
娘が期待していることはどんなことか・・・たとえばクラス便りに載る、ということをどんなに心待ちにしているのか・・・を、日頃から理解していて欲しいのだよ。父親として。
しかし、なーんにも思わないらしい。
結局、先週の個人懇談の際、担任の先生は平身低頭、ものすごい謝罪ぶりでありました。
机が無ければ、土下座していたかもしれない。
こちらも、先生とは言え、ハタチそこそこのうら若い女の子をいじめるのが目的では無いので、それに父親が怒っていないのに、母親だけカッカしても・・・とか何とか、調子が狂って、リーコがものすごく落ち込んでいた、ということだけはしっかり伝えて、もうその話はおしまい。
でも、ね・・・。
どう思われます?。
こんなとき、やはり夫には怒っていただきたい・・・と思うのは、わたしだけ?。
よそのお父様の反応を聞いただけに、余計に悔しいんだけど。
こんなことで不信感を募らせても仕方が無いのだが、別に浮気していなくても、こんな男とは寝たくない。
(冒頭の句は、個人懇談のあと、廊下に生けてあった桃を見て詠んだものです。
明日にでも、ほんとうに娘たちと生けようと思っています。)
沈丁花
2004年2月26日 主治医に恋ーキレイなフリン(完結) 沈丁花詠い始めり夕まぐれ
春が、夕暮れに溶けていた。
どこからか、沈丁花の香りがする。
春の花には、二種類ある。踊る花と詠う花と。
たとえば、桜たちは、並木道沿いに並び、一斉に着飾って踊るように咲き、春を教えてくれる。
沈丁花は、静かに、地面の低いところから、ひそやかに香りながら、春を、詠う。
とてもあわただしい時間。
それでも、信号待ちのわずかのひとときに、ふいに聞こえてくる歌。
彼に会う。
どうして、あなたは、そんなに近付くのだろう。
そして、どうして、そんなに、じっと目を見て話すのだろう。
今日に限って。
「そんなふうに男を見たら、男は誤解する。」
かつてそう言って叱り付けた恋人がいたっけ。視力が悪くて、何もかもが少しぼんやりして見えていた頃だった。そうか、あなたも少し、目が悪いのね。
でも、だからって・・・。
あなたがそんなに近くにいるから、今日は初めて、薬指のリングをみつけてしまった。
なぜ今まで気が付かなかったのかしら。
それは、そこにあるのが自分に許された特権であり、もう絶対にそこからは、どかない、とでもいうように、自然に、かつ強力な引力でなじんでいる。
わたしの目の中に、何か見えてますか・・・?。
だから、そんなに見るの?。
春の夕暮れのアルコール密度はやや高め。うっかりしていると酔いそうになる。
だから、早く帰らなくちゃ。あなたも、わたしも。
沈丁花たちに願いをかけたら。
彼が仕事を終えて帰るとき、わたしの歌も一緒に歌って、と。
春が、夕暮れに溶けていた。
どこからか、沈丁花の香りがする。
春の花には、二種類ある。踊る花と詠う花と。
たとえば、桜たちは、並木道沿いに並び、一斉に着飾って踊るように咲き、春を教えてくれる。
沈丁花は、静かに、地面の低いところから、ひそやかに香りながら、春を、詠う。
とてもあわただしい時間。
それでも、信号待ちのわずかのひとときに、ふいに聞こえてくる歌。
彼に会う。
どうして、あなたは、そんなに近付くのだろう。
そして、どうして、そんなに、じっと目を見て話すのだろう。
今日に限って。
「そんなふうに男を見たら、男は誤解する。」
かつてそう言って叱り付けた恋人がいたっけ。視力が悪くて、何もかもが少しぼんやりして見えていた頃だった。そうか、あなたも少し、目が悪いのね。
でも、だからって・・・。
あなたがそんなに近くにいるから、今日は初めて、薬指のリングをみつけてしまった。
なぜ今まで気が付かなかったのかしら。
それは、そこにあるのが自分に許された特権であり、もう絶対にそこからは、どかない、とでもいうように、自然に、かつ強力な引力でなじんでいる。
わたしの目の中に、何か見えてますか・・・?。
だから、そんなに見るの?。
春の夕暮れのアルコール密度はやや高め。うっかりしていると酔いそうになる。
だから、早く帰らなくちゃ。あなたも、わたしも。
沈丁花たちに願いをかけたら。
彼が仕事を終えて帰るとき、わたしの歌も一緒に歌って、と。
春の日
2004年2月24日 主治医に恋ーキレイなフリン(完結) 春の日をミモザサラダに振りかけて
友達とのランチタイム。
テーブルの上には、さくら色の縁取りの施された、清潔なお皿。
フランスパンと、サラダと。
キャベツのスープ。チーズとパセリを浮かばせて。
メインデイッシュは、恋のお話。
「結婚してからの方が、いっぱい恋してるよ。」
・・・え?。
19歳で花嫁になった彼女は、事も無げに、そんなことを言って、笑う。子供たちはもう独立している。
「ダンナ、っていう、帰る場所があるから、恋ができるんじゃないの。」
ひとりきりのときには、恋をしても、失うことが怖かった。
でも、結婚してからは、落ち着いていられる。
だって、とりあえず、ひとりの男・・・夫・・・は確保してあるのだから。
・・・と彼女は微笑む。というより、哂う。
「信じられない、って顔してるね。ダンナさん、裏切ることなんか、考えたこと無いんでしょ。」
気持ちでは、裏切ってるよ。
とは、言わない。
ただ、小さく、そんなことは、これからどうなるか分からない、とつぶやきながらパンをちぎる。
「相手にのめりこんだら、どうするの。」
「それは無い。既婚者を選ぶから。相手も心得てるから。」
つまり。
家庭のある者同士が、あくまで、日常にスパイスをかけるために、恋をするのだと。
言ってみれば、昼間、愛人に抱かれても、夜は平気な顔で、夫に抱かれる、そのくらいの「心意気」がなければ、人妻は恋なんかしてはいけない、ということである。
まるで、勉強会だ。
水のグラスの向こう側に、レストランの灯り。ヴァレンタイン仕様か、ホワイトデイ仕様か、おそらくそのどちら向けでもあるのだろうが、ピンクのハート型の切り紙細工が被せかけてある。
ぼんやり眺めながら、ため息。
想うひとは、こちらの想いなど、夢にも気が付かず。
なのに、夫を拒む自分が、ほんとうにおバカな子供に思えてくる。
夫も、愛人も。
欲張りにならなければ、か・・・。
無理だ。
あるいは、すきになりすぎたかな。
彼女は、終始、嫣然と笑みを浮かべて、いかんなく食欲を発揮し、わたしは、その前でなぜだか妙に萎縮して、ランチタイムは流れて行った。
友達とのランチタイム。
テーブルの上には、さくら色の縁取りの施された、清潔なお皿。
フランスパンと、サラダと。
キャベツのスープ。チーズとパセリを浮かばせて。
メインデイッシュは、恋のお話。
「結婚してからの方が、いっぱい恋してるよ。」
・・・え?。
19歳で花嫁になった彼女は、事も無げに、そんなことを言って、笑う。子供たちはもう独立している。
「ダンナ、っていう、帰る場所があるから、恋ができるんじゃないの。」
ひとりきりのときには、恋をしても、失うことが怖かった。
でも、結婚してからは、落ち着いていられる。
だって、とりあえず、ひとりの男・・・夫・・・は確保してあるのだから。
・・・と彼女は微笑む。というより、哂う。
「信じられない、って顔してるね。ダンナさん、裏切ることなんか、考えたこと無いんでしょ。」
気持ちでは、裏切ってるよ。
とは、言わない。
ただ、小さく、そんなことは、これからどうなるか分からない、とつぶやきながらパンをちぎる。
「相手にのめりこんだら、どうするの。」
「それは無い。既婚者を選ぶから。相手も心得てるから。」
つまり。
家庭のある者同士が、あくまで、日常にスパイスをかけるために、恋をするのだと。
言ってみれば、昼間、愛人に抱かれても、夜は平気な顔で、夫に抱かれる、そのくらいの「心意気」がなければ、人妻は恋なんかしてはいけない、ということである。
まるで、勉強会だ。
水のグラスの向こう側に、レストランの灯り。ヴァレンタイン仕様か、ホワイトデイ仕様か、おそらくそのどちら向けでもあるのだろうが、ピンクのハート型の切り紙細工が被せかけてある。
ぼんやり眺めながら、ため息。
想うひとは、こちらの想いなど、夢にも気が付かず。
なのに、夫を拒む自分が、ほんとうにおバカな子供に思えてくる。
夫も、愛人も。
欲張りにならなければ、か・・・。
無理だ。
あるいは、すきになりすぎたかな。
彼女は、終始、嫣然と笑みを浮かべて、いかんなく食欲を発揮し、わたしは、その前でなぜだか妙に萎縮して、ランチタイムは流れて行った。
狐雨
2004年2月23日 ニチジョウのアレコレ狐雨 女神の涙かも知れず
気まぐれな天気のせいで、一日に二回も雨に濡れた。
強風のせいで、自転車も、二回倒れた。
でも、寒くないから、そう惨めな気持ちにはならない。
これは、事実。
時々、考える。事実を書く、ということと、真実を書く、ということの違いを。これは決して同じことでは無い。
友達からの電話やメール、あるいは、誰かの「だいありい」、そういうものを聞いたり、読んだりしていると、自然に「お話」が生まれてくる。
たとえば、これを、そのまま、「こういう話を聞きました」とか「こういう話を読みました」とかいうふうに書くこともできるのだけれど。
話を聞いた、とか読んだ、とかそのまま書くのは、事実の記録。
でも、なぜだろう、事実から、エッセンスを抽出しようとすると、どこかで嘘をついた方が、伝えられる気がするのは。
書く、ということは。
他人様に読んでもらうことを前提に書く、ということになるが、これは、自分の中の思いを伝えたい、ということである。
事実をありのままに書きたい、というひともいるだろう。
でも、わたしは、真実を書きたい。
ほんとうのことを言えば、事実をそのまま書いている、とされるものだって、一度、書き手を通っている以上、それはどこかに虚構があるという気がして仕方が無いのであるが。
ここで書いていることは。
たとえ、一人称であっても、虚構である。
そう。ここで「わたし」が何をしても、それは事実とは限らない。
でも、真実である。
誰かの話を素にしていても、そのどこかが自分の心の芯にぴったりと沿わない限り、そのことは書かない。
たとえ、こういう場所であっても、誰かが読んでくれるものを書く以上、そのくらいの気骨は持っていなくては、と思っている。
春暁
2004年2月22日 主治医に恋ーキレイなフリン(完結) 春暁の水はゆっくり飲みなさい
そのお寺に行って、どうしてもお参りしなければならない。
でも、一歩、境内に足を踏み入れたとき、足元に水が押し寄せてくるのを感じた。
それは、なま暖かくて、ゆっくり、たっぷりした温泉みたいな水で、よく見ると少しずつ嵩が増えているのだった。
日暮れが迫っている。
暗くなるまでに、本殿にたどり着けるだろうか。
不安。
そんな、夢を見て目覚めた。
午前五時前。
彼に会うと、その後数日間はいつも、どことなく上の空。
片想いだから、伝えられない想いが整理つかなくてあふれる。
それは、何かのフェロモンに似ているのだろうか。
彼に会うと、なぜだかその夜はいつも、夫にのしかかられる。
夕べは、とりわけ執拗だった。
はらいのけても、はらいのけても指が追いかけてくる。
狭いベッドの上のぎりぎりまで逃げて、どうしても嫌だと思った瞬間、太い腕をひっぱたいてしまっていた。
明け方のベランダは、なぜかとても風が強くて。
それも、どうして、こんなに暖かな風なのだろうか。
ふと何気なく見たパジャマの胸元のボタンがほとんど外れている。
かなしくなるよ。
部屋に戻って、水を飲む。
ひとりきりの想いで、熱くなる胸の火を消すために。
満たされない心を、満たすために。
そのお寺に行って、どうしてもお参りしなければならない。
でも、一歩、境内に足を踏み入れたとき、足元に水が押し寄せてくるのを感じた。
それは、なま暖かくて、ゆっくり、たっぷりした温泉みたいな水で、よく見ると少しずつ嵩が増えているのだった。
日暮れが迫っている。
暗くなるまでに、本殿にたどり着けるだろうか。
不安。
そんな、夢を見て目覚めた。
午前五時前。
彼に会うと、その後数日間はいつも、どことなく上の空。
片想いだから、伝えられない想いが整理つかなくてあふれる。
それは、何かのフェロモンに似ているのだろうか。
彼に会うと、なぜだかその夜はいつも、夫にのしかかられる。
夕べは、とりわけ執拗だった。
はらいのけても、はらいのけても指が追いかけてくる。
狭いベッドの上のぎりぎりまで逃げて、どうしても嫌だと思った瞬間、太い腕をひっぱたいてしまっていた。
明け方のベランダは、なぜかとても風が強くて。
それも、どうして、こんなに暖かな風なのだろうか。
ふと何気なく見たパジャマの胸元のボタンがほとんど外れている。
かなしくなるよ。
部屋に戻って、水を飲む。
ひとりきりの想いで、熱くなる胸の火を消すために。
満たされない心を、満たすために。
いちごオーレ
2004年2月20日 主治医に恋ーキレイなフリン(完結) いちごオーレひとくち 花が欲しくなる
なぜか、話の流れがそうなって、
「あなたの恋愛の仕方は、待ち、なんですね。」
と、言われた。
と言うか、メル友なので、書かれた、んだけど。
そうかもしれない。
待ち、の反対は、攻め。
攻め、の恋愛。
そうだな、そういう恋もしてみたかった。けれど、自分に自信が持てなくて・・・それでいて、そんなに「打ち明けられずに苦しかった・・・」という思い出が無い。
案外、立ち直りが早いタイプなのだろう。
ヴァレンタイン・デイのチョコレートを、自分からでは無くて、娘の手から渡させたから、貴方は微笑んで受け取ってくれた。
本当は、そこに、わたしの想いがこめられているのに、そんなことはひとことも言わずに、わたしも微笑んでいた。
目を見られなかった。
貴方も、見なかった。
ずっと、このままで行くのだろう。
待ち、の恋。
だけど、もしも、あの、かわいらしい、いちごトリュフと一緒に、一枚のカードでも添えていれば、何か起きたというのかしら。
そんな、ささやかなことが、攻め、と言えるのかわからない、けれど。
チョコを渡してから、娘と、いちごオーレをはんぶんこした。
貴方の手が、この髪には触れていたんだな、なんて、少しだけ娘にやきもちを焼いて。
ひとり身のときよりも、人妻の今の方が、純愛してる、って気がしてなんかおかしい。
なぜか、話の流れがそうなって、
「あなたの恋愛の仕方は、待ち、なんですね。」
と、言われた。
と言うか、メル友なので、書かれた、んだけど。
そうかもしれない。
待ち、の反対は、攻め。
攻め、の恋愛。
そうだな、そういう恋もしてみたかった。けれど、自分に自信が持てなくて・・・それでいて、そんなに「打ち明けられずに苦しかった・・・」という思い出が無い。
案外、立ち直りが早いタイプなのだろう。
ヴァレンタイン・デイのチョコレートを、自分からでは無くて、娘の手から渡させたから、貴方は微笑んで受け取ってくれた。
本当は、そこに、わたしの想いがこめられているのに、そんなことはひとことも言わずに、わたしも微笑んでいた。
目を見られなかった。
貴方も、見なかった。
ずっと、このままで行くのだろう。
待ち、の恋。
だけど、もしも、あの、かわいらしい、いちごトリュフと一緒に、一枚のカードでも添えていれば、何か起きたというのかしら。
そんな、ささやかなことが、攻め、と言えるのかわからない、けれど。
チョコを渡してから、娘と、いちごオーレをはんぶんこした。
貴方の手が、この髪には触れていたんだな、なんて、少しだけ娘にやきもちを焼いて。
ひとり身のときよりも、人妻の今の方が、純愛してる、って気がしてなんかおかしい。
白き梅
2004年2月17日 リーコとチョーコのお話チョコ渡すはにかみ笑ひ白き梅
幼稚園の門の前には、大きな立て看板。「発表会」とある。
それを見て、リーコは一言。
「わー、どきどき。カンチョーする。」
・・・カンチョー?。
キンチョー?。緊張、やろ。
と思ったが、訂正しない。園児のあほな冗談にいちいち付き合ってはいられない。この手の冗談は、本当によくあることなのだ。
発表会。
園長先生いわく、「表現、ということの、一年間の集大成」だそうである。
じゃ年長組にとっては「園生活の集大成」ということなのか?。
そりゃ、緊張するよな。
リーコの通う幼稚園は、この手の「発表行事」に、えらく力を入れる。(運動会の鼓笛のときにも書きましたっけ。)
とりわけ年長は、担任がものすごいエネルギーを注ぎ込む。うまくできなくて、子供たちをののしり、泣かせ、激励する。そして子供たちはひたむきに練習し、やがて芸の完成を見たとき、子供たちは先生に駆け寄り、先生は子供たちを抱きしめ、時に涙ぐむ。
・・・いやー、青春やなあ。
と、思うのである。
で、発表会は具体的に何をするかを書き忘れた。
年少は、いわゆる、お遊戯、で、テープの音声に合わせて踊る。
年中になると、音劇、というもので、これは、音楽つきの短い劇がテープで流れて、それに合わせて踊ったり、セリフを言ったり、演技したりする。
で、年長になると、これは、ミュージカル、ということになる。
先生が生のピアノを弾く。
それに合わせて、子供たちは歌と劇を披露する。歌もセリフも踊りもすべて頭に入っていなければならない。もちろん配役もある。
リーコのクラスは「ジャックと豆の木」。
背たけのみならず、目鼻すべてがミニサイズの彼女が主役を張れるはずも無く、いわゆる「その他大勢」。しかし、たったひとつだけセリフがあり、そいつがたまらなく不安らしかった。
で、緊張する、というわけやね。
自分のだけじゃなく、他の役のもセリフから歌から踊りから全部暗記していて、「ひとりジャックと豆の木」ができるようになっていたリーコであれば(もちろん他の子もそうだろう)当然なのだが、本番はつつがなく終了。
しかし、この日はもうひとつ「緊張イベント」がある。
ヴァレンタインデイだったのだ!。
彼女は、今年は明らかに本命がいる。
ゴローくんである。三年間同じクラスで、先生も認める仲なんだとか。美少女では無いのに、本命とは両想い。まったく要領のいい女だ。
こちらも、クラス中公認、であれば、トラブルが起きるわけも無く、無事に手渡し終了。
よかったね。
ところで、その夜。
「あのね、ママ。今日ね、本番の前に、カンチョーする、って言ったらみんなに笑われちゃった。本当はね、キンチョー、って言うんだって。」
あらら。
ふざけているのかと思っていたら、マジで間違っていたのか・・・。
紅き梅
2004年2月11日 リーコとチョーコのお話乙女らの含み笑いや紅き梅
近所の梅林まで、梅の花を見に行ってきた。
今年は寒いのか、まだ時期が早いのか、桜流に言えば「四、五分咲き」といったところ。娘たちは、梅の花の香りがする、と言ったが、わたしには感じられなかった。
そう、娘たちと行ったのであるが、この子たちがまったく落ち着かない。梅の林の、ゆるやかな勾配を駆け上がり、駆け下り、道の無い坂を走り下りる。つい先年、この子らを連れて行ったときには、まだベビーカーに乗せたまま花を指差してたり、よいしょ、と抱っこでそよ風に揺れる小さな花を見せてやったりしたのだが。懐かしい。あの、穏やかで落ち着いた時間よ!
もう、戻らない。
身体を動かしているだけではなく、さかんに口も動かすので、相手をしてやらなくてはならず、俳句を考えるどころでは無い。犬の散歩をしているひとも多かったが、黙っているだけ犬の方がましである。よほど、
「犬と娘と取り替えましょうか、十分ばかり。」
と申し出ようかと思った。
しかし、母親としては、毎日何かと大騒ぎしている間に、ひとりでそこらを走り回れるくらいに大きくなっているのであるから、ここはやはり感謝すべきところではあるのだろうね。ふう。
紅色の梅が、少女たちの笑う様子に見えたのは、小さいのを二人ばかり連れていたせいであろうか。
何がおかしいのか、とにかく四六時中笑いがこみあげてくるのが、少女たちである。静かにしていなければならない場所だと自分たちも分かっているのに、ついつい気が付くと笑い出している。それが乙女たちというものなのである、だから・・・。
どうか、世界中の女の子たちが、そんなふうでいられますように。いつもいつも。
春立つ日雲は悠々海渡る
自分を赦せずに、ギリギリで生きている貴方へ。
時々は、自分を甘やかしてあげてもいいと思う。
瞬発力だけでは、やっていけないもの。
持久力をつけるために。
自分を赦せずに、ギリギリで生きている貴方へ。
時々は、自分を甘やかしてあげてもいいと思う。
瞬発力だけでは、やっていけないもの。
持久力をつけるために。
氷柱
2004年2月6日 ニチジョウのアレコレその窓の氷柱は溶けず暮れゆける
伯母の葬儀のときの出来事で、どうしてもわだかまっていることがある。
書かないでおいた方がいいのかな、といまこれを書きつつも思っているのだが、気持ちの整理をしたいので、書かせていただく。
主人の従兄弟に、「芸能人」がいる。
「お笑い集団」を十年に渡り展開。現在はグループでの活動は中止。ソロになってからは、脚本を書いたり、ドラマに出たりしている。
わたしは、このひとの「ファン」である。
もともとは「ダンナの従兄弟」だから応援しようという気持ちであった筈なのだが、そういうお義理めいた感情は、ほとんど無い。単純に「いいな」と思う。もともと「お笑い」には好き嫌いがあるではないか。わたしは、このひとのつくる世界がすきなんである。
実に不思議なことなのだが、主人はこのひとを応援する気は全く無い。
さらにそれは姑もそうである。むしろ、わたしが楽しんでいることを、評価していることをうっとおしがっているのだ。実の甥なのにね。
分からない。
幼い頃から見知っている、従兄弟、甥、である。応援するのが普通であろうに。
まだ彼が全国ネットのテレビではほとんど見かけなかった頃は、そうでもなかった。しかし、次第に、テレビで彼をみかける機会が増え、
「Yちゃんが出てる。」
といちいち騒がなくなってきてからは、わたしが「熱をあげる」ことに、あからさまに不快な表情を見せるようになった。
だから、わたしは、
「嫉妬してるんやな」
と、思う。
主人の弟が東京で結婚式を挙げることになり、もしかして、彼も出席するか、という話になったことがある。
そのとき、姑が言ったことが忘れられない。
「(もし式場で会っても)親戚として会うんだから、サインだの何だの、そういうことはダメよ。」
は?。
分かってますよ。
大体、アイドルの追っかけじゃあるまいし。たとえ路上で会ったとしても、サインペン片手に迫ったりしないさ。
しかも、「従兄弟の嫁」という立場で会うのなら尚更・・・。「応援してますよ」くらいは言いますがね。幸い(?)彼は都合がつかず、対面は無かった。
前置きが長くなった。
さて、先日の伯母の葬儀。
わたしは彼に、テレビ画面あるいはライブのステージ以外の場所ではじめて直接に会った。
しかし、葬儀、である。
しかも、親しくしていたひとの急逝であるから、わたしは相当にショックを受けていた。賛美歌の最中も、棺にお花を入れる間も、涙が止まらなかった。
ああ、来ておられるな、とは思ったが、田舎流に言えば、「本家の長男」であるから、いても全然おかしくない。話す機会があれば嬉しいとは思ったが、別に今日で無くてもいい、という感じであった。
なのに。
火葬場から帰宅して、親戚一同が集まった席で、こともあろうに、主人と姑が、
「音子さんはYちゃんの大ファンなんだから、サインもらったら。」
と大声でわたしにけしかけるのである。
何でや?。
正直、とてつもなく戸惑った。
義弟の結婚式でサインをもらったりしてはいけない、と強く言った同じヤツが、伯母の葬儀の席でサインをもらえ、と強く勧めるのである。
葬式禁止、結婚式OK、ならまだ分かる。楽しい席でのハメはずし、と悲しい席でのタガはずれ、はどちらが罪が重いか。考えるまでも無かろう。
それに、サインをもらうということが実はわたしにはそんなに重要でもないのだ、そもそも。
彼がもしも今よりもさらにビッグになろうが、廃業しようが、主人と結婚している限り、彼とは親戚関係にあり、それはこの先もずっとそうなのである。わたしは彼の作品が大好きで、とても大切なものであるけど、それと、「彼とは親戚」というのは、まあ極端に言って関係が無い。
なので、本当にどっちでもよかったのだ。サインは。
しかし。
なんでだか知らんが、主人とその母は親子で、やたらと、サインをもらえ、もらえとけしかける。わたしの頭に
「やり手ババみたい」
という言葉が浮かんだ。
親戚中が事の行く末を見ているし、「伯父」は、
「サインちゅうても、色紙も何も無いがな。」
と、大慌てでそこらへんを引っ掻き回すし、ほんとうに、ほんとうに困ったよ。
結局、彼が機転を利かせてくれた。
「・・・お名前は何て言うの?。」
と、娘らに尋ね、娘ら宛てに、というかたちでサインを書いてくれたのである。
もちろん、色紙なんぞは無く、便箋の裏表紙に、サインペンも、インクが枯れかけてカサカサ、という、いくら親戚でもプロに向かってとんでもないものを差し出す格好になったのだが、相手が子供、ということで何とか丸くおさまった。
ほっとしていると、「やり手ババ」がまた、
「音子さん、今夜は嬉しくて眠れないわねえ。」
って、あんた。
あんたのお姉さんのお葬式だろーが、今は。
たぶん、忙しい間を縫って、東京から駆けつけてくれた甥=彼の機嫌をとりたかったのだろう。
しかし、あのときには本当に困惑した。どういう態度をとったらいいのか、さっぱり分からなかった。
サインは、手元にある。
しかし、もしこれが、こんな風でなく、たとえば、主人がこっそりと、
「あいつ、ほんとうにお前のファンなんだ。こんなときに悪いけど、サインを一枚書いてやってくれないか。」
なんて、彼に耳打ちしてその結果、わたしにもたらされた、とかいうものであったなら。
見直してやるんだけどな。
無いものねだりである。
冬の旅
2004年2月3日 ニチジョウのアレコレどこまでも笑顔持て行け冬の旅
伯母が急逝した。
病気療養中ではあった。しかし、亡くなる数時間前まで、普段通りの生活だったという。
このひとは、姑の姉であるので、血のつながりは、無い。
しかし、徒歩十分ほどの距離に住んでいたので生活圏が同じだった。よく自然に顔を合わせていた。
血のつながりは無い。なのに、
「おばさんだよ。」
と紹介すると、
「道理で似ていると思った。」
と言われることが何度かあった。小柄で大きな目をしているので、あながち無責任な発言とも言えないな、と思った。そう言われることで親しみも感じた。
世話好きで、よく動くひとだった。
若いときの写真を見たことがある。
どう見ても「スポーツカー」にしか見えないクルマの運転席に座り、不敵な微笑みを浮かべている。
バレエの発表会の、チュチュ姿のものもあった。
名門と言われる「k女学院」を卒業したが、普通の奥様ではおさまらなかったのか、自分で商売をしていた。
「家事は苦手だから。」
とよく言っていた。では身の回りのことはどうしていたのか、と言うと、「パートナー」の「伯父」がしていた。
この「伯父」は伯母のために妻子のもとを去ったのである。いわゆる「略奪愛」で、だから、ふたりはついに戸籍上で夫婦になることは無かった。
病気のはじまりは、「足が動かない」ことだった。
松葉杖をつき、足をひきずりながら、ケイタイ片手に商売を仕切っていた。
あちこちの病院を回った。総合病院、接骨院、整体・・・。
原因不明。
やがて、車椅子の生活を余儀なくされた。
車椅子の上でメモを片手に商売に余念が無かった。
そして声を失った頃、ようやく病気が何であるかが分かった。
「筋萎縮性側策症候群」。神経回路が働かなくなる難病である。脳からの指令を伝える神経が働かなくなるのであるから、その、働かなくなる箇所によっては、生命に危険をおよぼす。
伯母は、ただ車椅子に座っているばかりになった。
もう商売をすることは無かった。
「伯父」の献身的な介護に支えられ、静かに生活していた。
話はできないが、筆談の文字はわたしよりもずっときれいだった。話の内容に納得すると、ゆっくりと指を動かして「Vサイン」をした。そういうところは茶目っ気を最期まで失わなかったひとであった。
わたしは、伯母がすきだった。
もういない
ひとというのは、ほんとうに消えてしまうのだ。
ちいさなひとだった。さらにちいさなちいさなほねになってしまった。
ひとというのは、そういうものなのだ。
土曜日、妹に初めての子供が生まれた。女の子。わたしは「伯母」になった。
彼女は、わたしが消えてしまうとき、わたしのかけらを拾うのだろうか。
そのとき、できれば、笑顔をおぼえていて欲しい。
そんなひとでいたい。
伯母がそうであったように。
雪結晶
2004年1月25日 ニチジョウのアレコレほら、と言う間に水に 雪結晶
めずらしく雪がちゃんと降っていたので、ベランダに飛び出した。
片手に虫眼鏡。
幼稚園の年長くらいだったと思う。
虫眼鏡で、雪の結晶を見た。
万華鏡の中をのぞいたみたいに、六角形や、星型の白いかたまりを、見た記憶があるのだ。
先生は、
「神様のおつくりになったものは、すべてひとつひとつ違うんです。
どれも、たいせつにおつくりになったのですよ。」
と、おっしゃった。
ぼたん雪の降りしきる真っ白な空。
和紙のように、秘めやかな眩しさをたたえた大空から、静かに、静かに、絶え間なく降りてくる雪たち。そのひとかけらずつが、全部形が違うなんて。小さなわたしの心は大きく揺さぶられた。
しかし、今よく考えると、果たして、そこら辺にあった虫眼鏡で、雪の結晶はとらえられるものなのだろうか、疑問に思う。
あれはほぼ同時期に見かけた百科事典か何かの「雪の結晶」の写真では無いか。
気になる。
雪が無い以上、確かめようがないから、首を傾げながら過ごしてきたわけであるが、ようやく待望の降雪である。
やった!。
急がなくちゃ、すぐ止んじゃうよ、きっと。
つくりかけの朝食のお味噌汁の鍋もほったらかしで、ベランダに飛び出し、気まぐれに落ちてくる雪を狙って右往左往。片手には虫眼鏡。
故郷で雪除けに追われているであろう両親にこの姿を見られたら、ぶっ飛ばされるかもなー、と思いつつ。格闘?すること五分。
・・・やはり、きちんと「結晶」を見ることはできなかった。
それでも、確認できた。
雪たちは、決して同じかたちをしていない、ということを。ほんとうにひとつとして、同じかたちのものはない。
風に乗り、ふわふわと、わたしをからかうように舞い降りてくる雪たち。しっかり見ようとするとあっけなく消えてしまう雪たち。
でも、消える直前まで、それぞれは確かに別のものである。
元旦に教会へ行った際、神父さまが、世界の平和と、すべての家族の平和とをお祈りされてから、
「皆様おひとりおひとりの願いをささげてください。」
と、特別に時間を下さった。
祈りのための沈黙の中、意外にも、わたしが祈ったことの多くは、ネットで知り合ったひとたちのこと、であった。
大きな試験を控えたひとには、合格を。
病気のあるひとは、回復を。
悩みのあるひとは、解決を。
本名も、顔も知らないひとのことを、真面目に祈っている自分が不思議であった。でも、名前その他いっさいの情報が無いからこそ、その祈りは純粋なものになったのかもしれない。
わたしに降りそそぐ、パソコンからの語りかけ。
それは、雪のように、静かに心に積もっていく。
そしてそれは、ひとつとして同じものは無く、捕らえた、と思うと消えてしまう。
それでも、その残像は、この先何年もわたしの中でこだわり続けていくのだろう。
虎落笛
2004年1月20日 ニチジョウのアレコレ夢むしり巻き込みてゆく虎落笛
「初夢」で虎に食べられた、と本文に書いた。
これとは別に「秘密」の方で、「ダンナが勝元サンにかぶれて坊主頭にしてしまった」話を書いた。
この二つはまったく別々に書いたのであるが、夢占いに詳しい「お気に入り友達」サンから、その関連を言われた。
ピンと来なかったので、一度観てみることにした。
そう、「ラスト サムライ」。
・・・なるほどね、虎に食われてしまう夢、確かに分からないでもない。
ただ、わたしには、
「極上の、エンターテイメント」
にしか観られなかった。なので、ダンナが、(営業職にも関わらず)坊主頭になってしまうほどなぜ「勝元サン」に心酔するのかについては、よく分からない。
彼は現在出張中で、このことについてまだ一言も話し合ってはいないのであるが、恐らく、観ていたところが違うのであろう。
大体、「武士道」を、女が本当に理解することなど、できないのではないか、という気がする。
これは、前から思っていたことで(「男たちのソウル」についての分かりにくさについても以前書いたことがある)、今回は改めてそれを強く感じた、ということなのであるが、男たちが、男たちだけで編成している世界、というものにはやはり入り込めない。
ましてや、そこにおける「美学」。手に負えない。
男たちにとって「戦う」というのは、一体いかなることなのか?。
酔っ払いの喧嘩から、暴走族の「決闘」(という言い方はしないのかな)、国家と国家との戦争にいたるまで、およそ様々な「戦い」があるわけで、それをいっしょくたにして語ることなどできないが、ひとつだけ共通するのは、
「なぜ戦うのか」
ということの答えを導く「美学」が、わたしにはまったく理解できない、ということである。
女だからなあ。
と言ってしまっては、女性から反論があるかもしれないが、それならば是非、その反論を聞きたい。
なので、もしも夫婦でこの映画について語り合っても、多分、何も出ては来ないであろう。
そういう意味でも、虎に食われるのはわたしなのだね、きっと。ダンナじゃなくて。
しかし、こう書いているが、映画そのものは純粋に楽しみ、マスカラを付けなくてよかった、という事態になった。
あと、ラストについては、あれでいいのではないかしら・・・。
北の風
2004年1月18日 ニチジョウのアレコレスカートの中「陣取り」の北の風
久しぶりにミニスカートをはいた。
何か動機があったのでは無い。たまたま引っ張り出したワンピースの裾が思っていたよりもずいぶん短かったのである。恐らく、洗濯のしすぎで縮んだのであろう。
多少、気にはなったのだが、娘二人連れて電車を二つばかり乗り継いで行く用事である。朝早いし時間が無いから、そのままで行くことにした。
そう言えば、一昨年の暮れに「ジョビジョバ」ライブに出かけたときにこれを着たときには、ダンナは一言、
「気イ付けや。」
って言ったんだっけ。
セクシーな妻が、襲われないように、と言うのでは無い。
「スソの下から、股引みたいなのが見えるで。」
ということであった。いくら何でも「股引」ははいていない。しかし、「ガードル」は止めておくことにした。
そのせいかどうか、今回はダンナも何も言わない。もしかしたら、ツマのスカートの丈なんぞ、もう目に入っていないのだろう。いや、それでいいのだよ、あれこれ面倒だから。
しかし、寒い。
膝近くまであるブーツのおかげで、足全体の冷えからは免れているものの、ストッキングが露出している、膝から腿までのほんの数センチ、こいつが冷えること冷えること。
昔は、こんなことは無かったなあ・・・。
小柄なので、短いスカートをはいても、
「おお」
という感じにはならない。短い足には、丈の短さがかえってしっくりくるのかも。それに、「あの頃」はガードル自体、必要が無かった。チビで短足でも、それなりの体型は確保していたのであろう。だから、取り立てて、ミニスカート、と改めて意識することも無く、ごく普通にはいていた。
しかし、今は、膝周辺にまとわりつく風の、痛いほどの冷たさで、
「ああ、今わたしはミニなんだ・・・。」
と、実感する。これが、通りすがりの、オトコの視線の熱さで実感できるものなら、ぜひ味わってみたいのであるが・・・。一度でいいから。
という訳で、無事に用事を済ませて帰宅。
子供たちは、早速、お腹が空いた、と騒ぐ。
ダンナはダンナで、ジョギングに行く、帰ったらすぐにフロや、と注文しやがる。
こうなると、主婦は忙しい。
大慌てで、朝できなかったお風呂の掃除と、夕食の支度の同時進行!。
ところで、これが妙にはかどる。
何のことは無い、スカート丈が短いので、断然動きやすいのである。狭い家の中、あちこち飛び回るのに、ミニは最適、であった。
・・・主婦の皆様、家事が多忙な日には、ミニスカート。
オススメいたしますよー。
初笑ひ
2004年1月17日 リーコとチョーコのお話 三才児 抱負述べたる初笑ひ
チョーコは「ぜんそく」があるので、近所の病院に定期的に通っている。
診察をしてもらい、簡単にカウンセリングをして、毎日、朝夕飲む薬を処方される。
もう半年ばかりそういう「特殊外来ライフ」が続き、すっかり病院慣れしているチョーコである。
今回も、聴診器を身体に当てられる度、くすぐったいのかバカ笑いをし、余りにもその声が大きいので、看護士サンが様子を見に診察室に入って来た。余りにも泣くから、と入って来ることはあっても、余りにも笑うから、と入って来ることは余り無いのではないかと思う。
幸い、容態は良好で(ま、具合が悪ければ大笑いなんぞしないよな)無事に診察は終了、となったのであるが・・・。
彼女の毎日のんでいる薬、こいつをのむと、「ハイになる」
と、近所のママ友が言ったことが、どーしても気になっていたわたし。
なので、思い切って先生にたずねてみた。
「あの、○オドールって、常用すると、興奮作用がある、って聞いたんですが・・・。」
興奮作用、などという言葉があるのか知らないが、さすがに「ハイになる」とは言いにくい。
なんと、答えは、
「そういうこともあります。」
であった。
結論としては、様子を見ながら薬を続けていく、ということになったのだが、毎日二回、である。やはりどことなく不安がよぎる。これまでは、チョーコが自分でこしらえたヘンテコな歌を場所もわきまえずに放吟していたり、寝付く前に妙に興奮して布団の上で踊りまくっていたりしても、
「いやー誰に似たのか、変なコやわ。」
で、片付けていたのだが、それ以来、
「も、もしかして副作用?。」
などと考え込むことが多くなった。一体、どうすればいいのやら・・・。
症状が落ち着いているときには、いっそのませない、ということもできるのだろうか。しかし、咳の発作というのは、本当に夜中突然勃発することが多い。そのとき、薬をのませなかった自分を、わたしはひどく後悔するだろう。
「先生、正直、母親たちの間であまり評判がかんばしく無い貴方ではありますが、わたしは、副作用についてもハッキリ言って下さるような、そういうところを信じます。だから、どうか、こりゃクスリのせいでおかしいのかな、と思われたら、正直におっしゃって、それなりの治療を施してください。
先月の診察で、いきなりタメ口をきいたり、聞かれもしないのにお昼ご飯のメニューを大声で言い出したりした、ああいうことも、ん?と思われたらチェックしてください。
どうか・・・お願いします。」
チョーコは「ぜんそく」があるので、近所の病院に定期的に通っている。
診察をしてもらい、簡単にカウンセリングをして、毎日、朝夕飲む薬を処方される。
もう半年ばかりそういう「特殊外来ライフ」が続き、すっかり病院慣れしているチョーコである。
今回も、聴診器を身体に当てられる度、くすぐったいのかバカ笑いをし、余りにもその声が大きいので、看護士サンが様子を見に診察室に入って来た。余りにも泣くから、と入って来ることはあっても、余りにも笑うから、と入って来ることは余り無いのではないかと思う。
幸い、容態は良好で(ま、具合が悪ければ大笑いなんぞしないよな)無事に診察は終了、となったのであるが・・・。
彼女の毎日のんでいる薬、こいつをのむと、「ハイになる」
と、近所のママ友が言ったことが、どーしても気になっていたわたし。
なので、思い切って先生にたずねてみた。
「あの、○オドールって、常用すると、興奮作用がある、って聞いたんですが・・・。」
興奮作用、などという言葉があるのか知らないが、さすがに「ハイになる」とは言いにくい。
なんと、答えは、
「そういうこともあります。」
であった。
結論としては、様子を見ながら薬を続けていく、ということになったのだが、毎日二回、である。やはりどことなく不安がよぎる。これまでは、チョーコが自分でこしらえたヘンテコな歌を場所もわきまえずに放吟していたり、寝付く前に妙に興奮して布団の上で踊りまくっていたりしても、
「いやー誰に似たのか、変なコやわ。」
で、片付けていたのだが、それ以来、
「も、もしかして副作用?。」
などと考え込むことが多くなった。一体、どうすればいいのやら・・・。
症状が落ち着いているときには、いっそのませない、ということもできるのだろうか。しかし、咳の発作というのは、本当に夜中突然勃発することが多い。そのとき、薬をのませなかった自分を、わたしはひどく後悔するだろう。
「先生、正直、母親たちの間であまり評判がかんばしく無い貴方ではありますが、わたしは、副作用についてもハッキリ言って下さるような、そういうところを信じます。だから、どうか、こりゃクスリのせいでおかしいのかな、と思われたら、正直におっしゃって、それなりの治療を施してください。
先月の診察で、いきなりタメ口をきいたり、聞かれもしないのにお昼ご飯のメニューを大声で言い出したりした、ああいうことも、ん?と思われたらチェックしてください。
どうか・・・お願いします。」
初夢
2004年1月14日 ニチジョウのアレコレ初夢で虎に食はれし我なりき
あけましておめでとうございます。
「食われた」瞬間、なぜかとても気持ちがよかった。
こういう夢をいきなり見てしまっていいものなのだろうか。
ツリー
2003年12月11日 主治医に恋ーキレイなフリン(完結) あなたは、ホテルのツリーを見ましたか?。
夕まぐれの川沿いには、いくつものオーナメントが、きらめいていました。
星型もあれば、トナカイもあります。
金色もあれば、青もあります。
明るい昼間の時間には、ただの銀色の骨組でしか無いそういう物たちが、日が落ちるとあんなにきらきら輝くものだということを、わたしはなぜだか不思議な気持ちで実感しています。
そうして、そういう光たちの向こう側に、あのツリーはあるのです。
ホテルのレストランの、窓際。おそらく高い天井の二階部分まであるだろうと思われる背高のっぽのクリスマスツリー。幅も広くて、多分腕の長いあなたでも、抱きしめたら抱えきれないことでしょう。
レストランの窓と、川沿いの小道の間には、繊細な木々や草花が植えられていて、だからそのツリーの姿全体を目でとらえることはできません。
でも、それでも、ほっそりした竹や、しなやかなムラサキシキブ越しに、青いレーザー状の光がこぼれて来ます。しばらくすると、青は白に、そうしてシルバーに、と、その繰り返し。
わたしは、お夕食の材料の入った重いバッグを抱えたまま、しばらくその光で遊んでいました。
黙ってみつめてから、目を閉じてみるのです。
そうすると、隣にあなたがいてくれる気がするのです。
あなたは、わたしよりもずっと背が高いから、もしかしたら植物たちにじゃまをされずに、もっと上まで見えるのかもしれない。
もしかしたら、わたしに、どんなふうに見えるのかお話してくれるかもしれません。
いえ、あるいはそんなに優しくは無くて、自分なりに無口なまま、じっと光の束に目をやっているだけなのでしょうか。ホテルの中に入り、お食事をすれば、もちろん、ツリーの輝きは身体じゅうに降り注ぐことでしょう。でも、そんなことは、想像することもできません。
華やかな街で、華やぐ人たちとは、今のわたしは遠すぎますから。
着飾った姿が絵になる街で着飾ることができないのと、着飾っても仕方の無い場所で着飾っているのとでは、どちらが不幸な女なのでしょう。
あなたとは、ほとんどお話したことはないから、楽しい空想も、うらさびしい幻想も、中途半端で消えてしまいます。
きみだけのツリーになるといふ願ひ
一度だけでいいから、みつめてみてください。
ここで働いているのに、街であなたをみかけることはありませんね。
何か決まり事でもあるのか、それとも忙しすぎるのかしら。
この川の、すぐ近くで一日の大半を過ごすあなただというのに・・・。
同じ場所で、同じ光を瞳に映せるということだけでも、今のわたしには大切な願い。
夕まぐれの川沿いには、いくつものオーナメントが、きらめいていました。
星型もあれば、トナカイもあります。
金色もあれば、青もあります。
明るい昼間の時間には、ただの銀色の骨組でしか無いそういう物たちが、日が落ちるとあんなにきらきら輝くものだということを、わたしはなぜだか不思議な気持ちで実感しています。
そうして、そういう光たちの向こう側に、あのツリーはあるのです。
ホテルのレストランの、窓際。おそらく高い天井の二階部分まであるだろうと思われる背高のっぽのクリスマスツリー。幅も広くて、多分腕の長いあなたでも、抱きしめたら抱えきれないことでしょう。
レストランの窓と、川沿いの小道の間には、繊細な木々や草花が植えられていて、だからそのツリーの姿全体を目でとらえることはできません。
でも、それでも、ほっそりした竹や、しなやかなムラサキシキブ越しに、青いレーザー状の光がこぼれて来ます。しばらくすると、青は白に、そうしてシルバーに、と、その繰り返し。
わたしは、お夕食の材料の入った重いバッグを抱えたまま、しばらくその光で遊んでいました。
黙ってみつめてから、目を閉じてみるのです。
そうすると、隣にあなたがいてくれる気がするのです。
あなたは、わたしよりもずっと背が高いから、もしかしたら植物たちにじゃまをされずに、もっと上まで見えるのかもしれない。
もしかしたら、わたしに、どんなふうに見えるのかお話してくれるかもしれません。
いえ、あるいはそんなに優しくは無くて、自分なりに無口なまま、じっと光の束に目をやっているだけなのでしょうか。ホテルの中に入り、お食事をすれば、もちろん、ツリーの輝きは身体じゅうに降り注ぐことでしょう。でも、そんなことは、想像することもできません。
華やかな街で、華やぐ人たちとは、今のわたしは遠すぎますから。
着飾った姿が絵になる街で着飾ることができないのと、着飾っても仕方の無い場所で着飾っているのとでは、どちらが不幸な女なのでしょう。
あなたとは、ほとんどお話したことはないから、楽しい空想も、うらさびしい幻想も、中途半端で消えてしまいます。
きみだけのツリーになるといふ願ひ
一度だけでいいから、みつめてみてください。
ここで働いているのに、街であなたをみかけることはありませんね。
何か決まり事でもあるのか、それとも忙しすぎるのかしら。
この川の、すぐ近くで一日の大半を過ごすあなただというのに・・・。
同じ場所で、同じ光を瞳に映せるということだけでも、今のわたしには大切な願い。