娘に、殺された。
 
 三才児チョーコが、とことことキッチンにやってきて、寄せ鍋の準備に追われるわたしに向かって、一言、
「あのね、チョーちゃんのママ、死んじゃったの。」
 この娘、この年の割によくしゃべる方ではないか、と思うのだが(現在五才のリーコよりもうるさい)そこは生まれて三年しか経っていない女である、言っていることはむちゃくちゃ。
 しかし、妙な祭りに参加した話を始めたり、キリンに廊下で会ったことになったり、「プロ野球選手ふりかけ」ならぬ「大相撲ふりかけ」を弁当に持って行ったということになったり、となかなか面白いので、一応、話に乗ることにしている。この前は、
「お大根に乗ったら、ロケットみたいにビョーンって飛べたんだよ。」
 と、繰り広げ、こいつはなかなか聞き応えがあった。
 で、冒頭の「母殺し」。

 「チョーちゃんのママがね、自転車で走っていたらね、後ろからクルマが当たってね、死んじゃったんだよ。」
 「そ、それで?。」
 「それでね、救急車が入って来るところでパパにね、大丈夫だよ、って言われた。」
 そして、チョーコの姿はキッチンから消えた。
 
 うーむ。
 何ていうのか、リアルだ。
 少なくとも、大根が空を飛ぶ話よりは、かなりきちんと筋が通っている。
 おかしいのは、それを話しているのが「死んだはずの母」というところだけである。

 とにかく、気を付けて自転車に乗ろう、と思った。案外、予知かもしれないから。
 しかし、後ろから来られたんじゃ、ひとたまりも無いか。

 「前世の記憶じゃない?。」
 というひともいる。
 なるほど。三才位じゃ、そういうこともあるかな。
 友達の子供でやはり同じくらいの子が、体験したことの無いはずの、先の震災の話を実にリアルに語って、周りを驚かせたということも聞いたし。しかし、この場合は、母親が、自宅半壊、というかなり強いダメージを受けたから、妊娠中に何らかのメッセージを受けた、とも考えられる(と、素人が寄り集まって判断を下した)。
 
 三才と言えば、わたし自身も架空の友達と遊んでいたらしい。
 この時期の幼児は、何か、混沌とした世界を抱え、現実と折り合いをつけながら暮らしているのだろう。人間未満、妖精以上。

 十二月がやって来る。
 チョーコお気に入りの芝生も枯れて、冷たい海風が通り過ぎていく。
 だけど、芝生で遊ぶ幼児も犬も小鳥も虫も、なぜだろう、みんな跳ねて、いきいきと呼吸しているのだ。

 がんばらなくちゃ。

 枯れ芝で跳ねるものみな輝きて
       きみとぼくとの季節はじまる

 
   
 彼女が恋をした。
 相手は、娘の主治医。
 生まれつきのアレルギー体質が「ぜんそく」という形で現れた彼女の小さな娘は、生まれてすぐからしょっちゅう小児科の世話になった。症状が現れたときのみならず、定期的なケアをしていくことになり、その間に、担当医に恋をしてしまった。

 「あのね、ご近所での評判は必ずしもよくないのよ。割と大きい病院だし、何人かドクターがいる中で、どうしてあのせんせいが、って、担当が決まったときには思った。」
 噂は、「全然親身になってくれない」「アレルギーには疎そう」といったおよそ小児科医としては不適切ものだった。が、会って話すと、とてもそんな噂をたてられる医者とは思えなかった。
 「ぜんそくって言っても、そう心配することはないですよ。
 見守りながら、一緒に治していきましょう。」
 あたたかい言葉と微笑があった。咳をして苦しんでいる娘を前に、
 「ぜんそくの体質っていうのは、貴女に似たんだわ。うちは誰もそういう血じゃないから。
 かわいそうにね。」
と、冷たく言い放つ姑の前で黙ってうなずいている夫を思い出した。そして、自分にもこれでようやく「味方」ができた、という気持ちになり、心から安堵した。

 外来に通ううちに、何度か顔を合わせるうちに、感謝の気持ちが恋になった。
 ドクターの評判は、相変わらず良くなかったが、それはまるで、自分と娘だけには特別な優しさをもらえていることの証明のようにさえ感じられた。
 幼い娘をひざに乗せて、胸の音を聴いてもらう。
 そのときに、男の指なのに節くれの無い、きれいで細長い指が近付いてくると、思わずそっと触れたくなってしまう。
 ほんの十分あるかないかのひととき、できるだけ顔を見ていたいと思うのだけれど、意識してしまい、それすらできない。

 片想い。

 「こっちにしたら、ひとりきりのせんせいなわけよ。
 でも、向こうにしたら、一日に何十組も会う親子のうちの、何十分の一、でしかない。おそらく、顔と名前も一致していないと思う。それはわかってるのよ。
 だけど、自分でもバカだなあ、って思うんだけど、ときめくのよ。久しぶりなんだ、こんな気持ちは。」

 相手が小児科医だから、娘の容態が悪くなると、会う機会ができるということになる。
 もちろん、咳をして苦しむ娘であって欲しいわけが無い。
 しかし、発作が現れて、ああ、明日はお医者さんに行かなきゃね、とつぶやきながらふと鏡を見ると、そこには、看病で疲れて寝不足のはずなのに、表情が輝いている女がいるのだという。
 
 「ばかだよね。それに、娘の体力がついて、よくなってきたり、せんせいが担当医でなくなったりしたら、もうそれっきりになる恋なのに、毎日、囚われて過ごしているなんて、三十すぎた女の恋にしては情けなさすぎるよ。」

 そうかな。
 人妻だから暴走しない、できない、でも、恋をする、ときめく。
 素敵だよ、じゅうぶん。

 「そう言ってくれると嬉しいよ。確かに、ひとをすきになると、どこか華やいでくる気はする。
 これって、恋愛体質かな。」

 恋愛体質。
 誰かをすきになる、それは、花に水を与えるように、心に水を与えるようなもの。
 生きていくのに、恋を必要とする体質を、恋愛体質と呼ぶ。
・・・らしい。

 
  ポインセチア恋愛体質ありとみて

 
 片想いでも、かまわない。
 
 近頃、服装が変わった、と言われることが多くなった。
 何のことは無い、ジーンズでほっつき歩いてばかりいるというだけのことなのだが。
 ベビーカーを押していた頃にはスカートばかり穿いていた。だから、ジーンズ姿のわたしを見て、へえ、ズボンも穿くひとなんだーという目で見られる。まあ、その気持ちはわからなくも無い。何せ、娘の運動会でさえ、スカートで行ったやつだもんな。
 しかし、きのう、友達とご飯を食べているときに言われたことが、ふと、心に引っかかった。
 「最近、辛口の女になった気がする。」

 辛口の女。
 「それ、どういう意味?。」
 「いや、最近、スカートあんまり穿いてないやん。前はいつもスカートで、女らしいな、って感じだったから・・・感じが変わったかな。
 そういう意味。」

 ふうん。
 スカートだったら甘口で、ジーンズだったら辛口なのか。
 
 でも、それがそれだけの意味ではないのかもしれない。
 そう思い当たることがある。

 最近、道を聞かれないのである。
 
 ここに書いたことがあるかどうか、記憶があやふやなのだが、わたしは、とにかくしょっちゅう、知らないひとから話しかけられる女であった。
 いわゆる「ナンパ」というのではない。
 キャッチセールスから、宗教の勧誘、銀行の自動機の使い方を教えて欲しい、百円貸してくれってのもあったな。
 で、一番多いのが、どこそこに行きたいのですがどう行ったらいいのでしょうか、っていう「道をたずねる」パターン。
 住んでいるのが人工島で完全に計画されてつくられた街というのもあるだろう。とにかく、目立つ看板が無い。「美観を損ねる」とされるものは排除されて成り立っているところなのだ。だから、当然、目的地が分からないひとが、いかにも住民らしいひとに場所をたずねることになる。
 ベビーカーを押し、さらに「スーパーのリサイクルコーナーに出すトレイの山」なんか袋いっぱいに入れて歩いていると、もう必ずと言っていいほど、道をたずねられた。

 それが、最近、まったく無い。
 
 ま、自転車で走り回っているからネ。
 
 と思うこともできるのであるが、なんか「辛口」と言われると、それだけではおさまらない気持ちが生まれてしまう。

 そう言えば、最近、イラつくことが多くないか?。
 ひとの話を聞くことが大好きだったのに、気が付くと、自分が話せないでストレスを感じていないか?。

 娘たちが少しばかり大きくなって、育児に手がかからなくなってきたのに、ものすごく忙しくて目が回りそうに感じるのは・・・。
 欲が出てきているからではないか・・・。

 スカートを穿いてうろうろすれば「甘口」というのでも無いだろう。それに、この年だ、「辛口」と呼ばれるのもワルくは無い。
 それでも。

 「あなた、よく知らないひとから話しかけられるでしょ。ゆとりがあるんだな。だから好きなんだよね。」
 
 あの告白。思い出すと、痛いゾ。

   辛口の女見て居る渡り鳥

 
 
 そのひとの夢ばかり三晩続けてみている。
 一日目には、気にしなかった。
 寝る前に「白い巨塔」なんか見たせいだろうな、と思った。
 そのひととは、彼が医学生時代に一緒に過ごした間柄だった。
 当時も、かなり人気のあった「医師もの」のテレビドラマがあった。ドラマについて、あそこは本当はどうなんだろうとか、いくらなんでもあんなことはありえない、とか色々話していた。だから、反射的に「医師・病院もの」のドラマを見れば、彼を思い出す。そういうことだ。
 しかし、また翌日の晩、というか正確には早朝、目覚める直前にまた彼が夢にいた。
 そして、また、夕べも彼を夢で見た。
 もっとも、夕べは彼の姿を捉えていたわけではない。
 ただ、探していた。
 わたしは、どこかわからないが、群集の中の一人となって、同じく群集の中のどこかにいる彼を探していたのである。
 みつからない、みつからない。
 このひとじゃない、あのひとでもない。
 探す理由はわからない、だけど、ひたすら、必死で探していた。

 どちらかというと、これは悪夢であった。
 目覚めも悪く、大汗をかいていた。

 数えてみれば、ここ十年近く話すらしていない。
 もちろん、手紙も、メールも交わしていない。
 時々、思い出すことはあるけれども、それだけの、ひと。
 今更、どうして「探す」ことがあろう。
 とは言え、気になるので、パソコン検索で、彼が十年前、初めて医師として赴任した病院のホームページを探したら、そこにはちゃんと、彼の名前が、あった。
 彼は、名古屋のひとだ。
 医者になるために入った医科大が、わたしの生まれた町の近くにあった。
 国家試験に合格して名古屋に戻った彼は、今もそのまま、同じ病院で勤務している。
 そういうことが、分かった。
 
 夢が語ることが、もしもあるのだとすれば、それは彼の方から何かを発信しているのでは無くて、わたしの中の何かが、彼という登場人物を通して何かを語っているのだろう。
 それが何なのか、分かりたいような、でも実は分かりたくないような・・・。

   探し人見つからぬまま冬木立

 
 我が家の七・五・三は、カトリック教会で行われた。
 通常も日曜日に行われるミサの中に、毎年組み込まれてあるのだ。
 だから、「七・五・三」に該当する子供たちとその家族だけでは無く、いつも通り信者たちも列席する。
 
 大昔のことになってしまったわたし自身の「七・五・三」のことは、よく覚えていない。
 近所の神社に行ったら、仲良しの子に会い、いつも通りに駆け出して二人で、境内にあるブランコに乗って、母親から叱られた。
 晴着を着ていることなんか、忘れていたのだ。
 
 その程度のレベルだったことを思うと、リーコとチョーコがどの程度まで分かっているのか、はなはだ疑問であるが、神父さまは、子供たちの未来を心から祈ってくださり、そして、お御堂に会した百人近くのひとたちが、見ず知らずの子供たちのためにお祈りをしてくださった。その、あたたかな空気だけでも、記憶のどこかにとどめておいて欲しい。

 誰かが、自分以外のひとのことを、お祈りする。
 そういうパワーの存在は、信じたい。

 
   七・五・三 お御堂包む祈り雨

 話は変わるが、友達から電話があり、とても悲しいことがあったと打ち明けられた。
 でも、なんて言っていいのか、本当に分からなかった。
 なんて言っても、彼女の悲しみには追いつかないような気がした。
 何か、力付けてあげようともがけばもがくほど逆効果になる気がして、無口になってしまった。
 「こんなこと、聞きたくなかったね。」
 という彼女の言葉を、否定はしたけれども、そんなふうに思われてしまったのかと思うと、とてもつらい。
 彼女のためにお祈りしようと思う。
 ただ、そういう、力の存在を信じよう。 
 
 小学校の音楽会に行った。
 ご近所の子供サンが多数出場されるので、なんとなく観たくなったのである。
 ・・・で、感動して帰って来た。
 わが子が出ているわけでもないのに?と言われる方もあるだろうが、なんか、「いい時間を過ごさせてもらった」と思った。
 
 誰かが、損得を考えずに、一生懸命頑張っているのを見ると、嬉しくなる。
 
 また、客席での「ビデオ撮影」が無い、これがいいのだ。
 単純に、手がふさがっていないので拍手が大きい、ということだけでは、無い。
 
 ビデオ撮りのときにつかう言葉は、
 「対象を、狙う」
 「対象を、捕らえる」
 狩猟みたい。そして、そういう目をしている人間の集団がいるということで、どこかその場は殺伐してしまうのかも。
 レンズで「獲物」を追う目の無い音楽会は、ステージを観るまなざしが、ひたすら暖かい。

   木琴のトレモロ団栗降らす雨

 それにしても、女の子の「お衣装」だけは、少し、参った。
 あそこまでのものを着せなければならないのかー、と思うとめまいがしそうになった。そう言えば去年、リーコのクラブ発表会の「衣装選び」でめまいを起こしたことのあるのだった。「前科者」としては、アタマが痛い。
 一瞬、制服のある名門小学校を受験させてみようかとさえ思ったよ。
 しかし、実は、ステージの上では、シンプルで子供らしい服が一番映えるということもなんとなく分かった。
 
 
 ・・マヌケな「激怒」三題話。

 まず、ここに何度か書いている、阪神タイガースファンの六歳児エミちゃんのお話。
 日本シリーズを、甲子園に二夜連続で応援に出向いたほどの「あつーい」家庭に育った彼女。
 が、最終戦では、思うに任せないタイガースにイラつき、涙し、テレビの前でやたら騒がしい母親に向かい、
 「まあ、アイスでも食べたら。カリカリせんと。」
 と、提案するという、意外な落ち着きを見せた。
 しかし、福岡ダイエーホークスの日本一、という結末は、さすがに悔しかったのだろう、
 「ママ、これからもー絶対にダイエーでお買い物したらアカンで!。」
 涙ながらにそう訴えたらしい。
 えーっ、せっかくの「優勝セール」やんかーと母親は思ったが、ほとぼりが冷めるまではいたしかたない、と、しばらくの間、娘連れでは(あくまでも娘連れでは)ダイエーでのお買い物は避けよう、と思ったそうである。
 なのに。

 なのに、数日後、エミちゃんは、お友達のお母さんからあることを伝え聞き、怒りが大噴火した。
 それは。

 なんと、近所に住む、タイガースの選手まさにその人自身が、
 
 ダイエーでお買い物をしていた。

 というものであった。

 その二。
 これは、わたしの話なんですが。

 幼稚園バスの母親仲間と「ハロウィン」の仮装の話をしていたときのこと。
 ハロウィン当日の朝、母親全員が何らかの仮装をして、バス停にいたら先生の反応はどうやろー、というような他愛も無い話の中で、一人の人に、
 「あなたは、セーラー服なんかでバッチリいけそう。」
 と、勧められた。
 そのときには、「まー昔はわたしもロリコン向けキャラで鳴らしたもんさ」などと、多少悦にいってしまったのであるが、帰宅してよくよく考えてみると、
 
 それって、単にセーラー服を着たというだけで「化け物」になる、
 
 という趣旨だったのかもしれないと気が付いた。

 その三。
 ・・・さっきまで覚えていたのだが、どーしても思い出せない。
 この記憶力の貧困さに、激怒。

  オパールの青溶かして十月の空

 どこかあけっぴろげに明るい、十月の空がすきだ。
 来年も、怒りながらも笑っていたい、そんな十月になっていて欲しい。
 さよなら、十月。
 
 近所の空き地が「芝生広場」になった。
 すみっこに、いくつかの木のベンチとテーブル。それだけ。
 それだけ。
 あとは、ただ、芝生。けっこうひろーい芝生。

 わーい!

 実は、こういう場所が好き。
 飾り立ててない、できるだけ自然のままの場所。最も、まるきり人の手の入っていない草むらだったら、花粉症にヤラれて「わーい」なんて言っていられないだろうが。
 
 チョーコと、ボール投げをする。
 しゃぼん玉遊びをする。
 走り回る。
 疲れたら、キャラメルを口に、ひとつずつ。

 空を見上げると、一面の鰯雲。
 「あー、雲の運動会だー。」
 「違う、お店屋さんだー。」
 「やっぱり、幼稚園だー。」
 三歳児には、いろいろなものに見えるらしい。
 
  鰯雲 指さす子らの夢あまた

 ところで、この広場、「快適にみんなが過ごせるように」ということで、いくつかの取り決めがある。
 それは、中学生以上のボール投げ禁止、だったり、ペットの入場禁止、だったり。
 ただ、ペットについては、「犬の入っていいゾーン」というのが決められていて、そこならば、愛犬といっしょに走ったり、遊んだりできる。
 チョーコと、ぼんやりのんびりしているときにも、そこには、何頭かの犬が遊んでいた。
 ・・・が、ふと見ると。
 おじさんが一人、お昼寝中。
 わざわざ、「犬ゾーン」で?。
 日よけなのか顔の上に新聞を載せて、仰向けで、気持ちよさそう・・・。その周りを、犬たちが、不思議そうに近寄っている。
 しかし、その人のペットらしい犬は見当たらない。
 そこが「犬ゾーン」ということに気が付いていないのか。
 それとも、お昼寝中に顔をなめられても嬉しいような無類の犬好きなのか。
 おじさん、どっち?。
 「お前とは結婚できない。だって、お前は妻、ってガラじゃないもんな。」
 ものすごいショックだった。
 でも、わたし、お料理もキライじゃ無いし、アイロンがけだってスキだし、子供の世話も楽しんでできると思うけど、というようなことを言いかけたわたしだが、男は聞く耳を持っていなかった。
 なぜわたしじゃダメなの?。
 悲痛な想いで取り残された。
 遠い日の出来事。

 いったんは結婚をあきらめて、「郵便局の年金」に加入するなどしていたわたしだが、ふいに結婚してくれるひとが現れて、なんとか結婚することができた。「妻」になれて、やがて娘を授かって、首尾よく「母」にもなれた。
 この時点で、わたしはかつて「お前は妻失格」と言い放った男に言ってやりたかった。
 「あんたの言ったことは間違いだよ。」
 と。
 しかし。
 それからまた数年経って、もしかしたら、あのひとの言葉は、案外、真実を突いていたのかもしれない、と思うことがある。

 最も、現在、わたしは不倫の相手がいるわけじゃなし、育児ノイローゼにかかっているわけじゃなし、日々、ごく普通に家事、育児に追われている身である。
 しかし、しんどい、と思うことがある。

 一言で言えば、「重い」のである。
 安定した生活、と言えば聞こえはいいけれども、それに、そういうものを持っているということがある意味、「女の幸福」というものなんだろうけれども、重い。

 結婚相手という相手は、すべてしょいこまなければならない相手なのである。
 その相ひと、つまり、夫、だけではなく、彼に付随するすべてのもの、たとえばその育ってきた家や家族などなど全部を抱えこまなければならない。自分が生んだ子供たちではあるが、わたしの子は相手の子であり、相手の親の孫である。逃げようが無い。
 
 家事がすき、とか子供の世話に向いている、とか、そういったことは、結婚生活の一部分では大事であるけれども、実は、もっとも大切なことは、そんなもんでは無い。それは、
 
 ひとりの男をまる抱えして生きられるか。

 その覚悟があるかどうか、にかかっている。

 重ねて言えば、妻になるということは、好きな男の「私」の部分ばかりと対峙する生活になる、ということである。
 が、わたしは、「公」の男の方が本当はすきだ。
 もしも、容姿端麗で、しかもお酒に強かったなら、夜の仕事をして、男の「公」の部分に属する女になりたかった。

 だから、くやしいけれども、かつてわたしを「妻には向いていない」と判断して捨た男は、わたし自身が今頃気が付いたわたしの姿を見抜いていた、ということになる。
 彼はわたしのことが誰よりもわかっていたからこそ、夫にはならなかった。やがて、妻から捨てられる可能性がある、と判断したのである。

 
   慣れた腕ならいらないと寝待ち月

 「ピアノを買ってやるから愛人にならないか」と言った男もいた。
 冗談でしょ、と笑って終わったけれど。
 だけど、結婚してはじめて気がつく真実。もし、愛人として生きていれば、「まる抱え」の人生を渇望していたかもしれない。
 それは、わからない。
 風邪がなかなか治らない。
 ご近所のかかりつけ医の先生に、抗生剤を処方していただいたが、その帰り道でも、自転車をこぎながら、くしゃみが止まらない。
 しつこい風邪だなー。
 ・・・と思った瞬間、目に入って来たのが、セイタカアワダチソウの黄色い群れだった。
 もしかしたら、これのせいだったりして。
 もう十年近く前ではあるが、アレルギー検査をしたときに、反応した植物のひとつが、この草だった。
 風邪と花粉症のダブルパンチ、だとすれば、この「しつこい風邪症状」にも納得がいく。
 まあ、原因が何であろうと体調不良に変化があるわけでは無い。せいぜい、真面目にマスクをしよう、位の決心をするだけのことである。
 

   アワダチソウ黄の鉾は風突きて増え

  
 そう、この草は年々増えているみたいな気がする。
 花粉症で無ければ、鮮やかな黄色は少なからず心を奮い立たせてくれるであろうに。
 
 話は突然変わるが、三人目の赤ちゃんを産む友達が、もう妊娠しなくなる手術を受ける、と話していた。
 わたしも、もう子供はいらない。
 だとしたら、そういう手術を受ける、という選択肢もあるのか、と思った直後に、
 いや、まだこれから好きなオトコができて、そのひとの子なら欲しい、って思うかも、
 −と思った。
 そんなことを思いつく自分に、自分が一番びっくりした。
 
 アワダチソウは風を突きながら、次々子供を増やしてゆく。
 人間はそう簡単に子を増やすことはできない。
 できないのだけれど、イタズラのように、時々、本能が顔を出すらしい。

 
 近所に住むタイガースのピッチャーを、スーパーで子供たちがみつけて、握手をしてもらった。
 が、3才のチョーコは恥ずかしいやら事情が分からないやらで手を出さない。
 わたしの後ろに隠れてしまったので、行きがかり上(役得、というのかな)、わたしが握手をしてもらった。
 
 とても、大きくて、ぶあつくて、ピッチャー、という仕事は「手職人」なんだなーと気が付いた。

   

   投手の手あつくて勝負の秋なれば

 実際に近所で選手に会うと、親しみを感じて「このひとには勝たせてあげたい!」なんて思う。だから、日本シリーズは、タイガースを応援中。
 タイガース応援、と言えば、このとき選手をみつけたエミちゃんは、甲子園で二日連続の応援である。
 なんで、「プラチナチケット」が、家族で二日分もとれたのかは「パパのお仕事」によるのだそうだ。世の中、そういうものなのらしい。
 ついで、と言ってはあれなんだけど、この家族から以前、
 「U.S.Jの、あさって限定のチケットを買わない?。」
と、持ちかけられたことがあった。
 「あさって限定?。あさってしか使えない、ってことだよね。」
 そこにいた5,6名の母親仲間は顔を見合わせた。
 「ちょっと急だね。」
 「なんで、あさってだけなの。」
 エミちゃんのお母さんは、みんなが色の良くない返事をするのを、やや困った顔で聞きながら、
 「だんなが会社で、もらってきたんだよね。でも、うちはパスがあるからもともと無料だし・・・。だから、パスをお持ちでない方に買っていただけると嬉しいんだけど・・・。」
 と、おっしゃった。
 今度は、そこにいた面々はさっきとは違う意味で、考え込んだ。
・・・それって、「タダ」でもらったものを、わたしらに「売りつけよう」としているのか?・・・。
  余りにも悪気の無い言い方だったので、誰も不快にはならなかったが、あきれたことは確かで、多分、そのチケットは、そこにいた人間は誰も「買う」とは言わなかった。
 わたしは、エミちゃんの「裏オモテの無いキャラ」がとてもスキなのだけれど、そのキャラは、どうも母親から受け継いでいるものらしい。
 そう言えば、このときの仲間のジュナちゃんが、きのう、母親数人に向かって、
「わたしね、スイミングの級、エミちゃんよりも、リーコちゃんよりも進んでるんやで。
 エミちゃんなんか、ジュナよりもずーっとお誕生日は早いのに、むちゃ進むの遅いんやで。
 わたしが一番なんやで。」
 と、声高にしゃべっていたが、あれも、家庭でそういうふうに話し合っているのだろうなあ。
 おとながウラの話としていろことも、娘はそのままオモテに持って行ってしまうから、コワイ。
 リーコも、オモテで何を言っていることやら・・・。
 
 
 

  
 雨で一週間流れた、リーコの園の運動会が行われた。
 今回は、何も言うことの無いほど晴れ上がって、暑いくらいであった。
 らしい。
 らしい、いうのは、高熱を出して、やたら悪寒がしたからである。
 半そで姿が目立つ中、ひとりだけ厚着。
 ヘンな人だったろうと、少し体調が回復してきた今は思う。
 鼻がまったく機能しない中、おべんとう作り。
 子供を生む前、母親というのは、自分がたとえしんどくても、子への愛情に支えられておべんとう作りをするのだろうな、と漠然と思っていたのだが。
 違った。
 それはもう、ほとんど、惰性である。
 ぼーっとしたまま、そう、たとえれば、歩く際にいちいち「さて、次は右か、左か」などと考えないのと同じこと。
 手が動くまま、ふにゃふにゃとこしらえた。
 空腹とはありがたいもので、そんなふうにしてつくった食事でも、きれいに食べてもらえたのではあるが・・・。

 しかし、肝心の娘リーコだけは、母が「慣性の法則」でこしらえたおべんとうに食が進まない。
 緊張しているのである。
 昼食後、午後一番のプログラムの「年長の鼓笛」に出場するのだが、この「鼓笛」、なぜか、運動会の一プログラムにしか過ぎないものであるのに、熱い。
 なにせ、七月から(もっと前だったかもしれない)毎日、練習、練習。
 ふだんは優しい先生も、この指導のときには厳しい。
 「出て行きなさい!」
 とまで言われることもあるとか。
 それから、この演目の楽器選びについては、本人たちよりも一部の(あくまで一部の)母たちが、怒って園に電話で怒鳴り込む、位にヒートアップした。
 重ねて言うが、これは運動会という一行事の「鼓笛」という一プログラムの話である。
 なんでそこまでチカラ入るかなーという気がしなくもないが、毎年、この演目を見て感動の余り、わが子が出てもいないのに、涙ぐんできたこともまた事実なんである。
 園児たちが、と言えばまだ生まれて5,6年しか経っていないやつらが、自分自分の持ち場に必死で最大限、取り組んでいるのである。それが、全員が、である。いい加減に、適当に、という顔はひとつも無い。
 あまりにも家とは違う真剣な顔をしているので、どれが自分の子供か分からなくなる、という人もいるほどなんである。

 母親としては、自分の体調管理よりも、子の体調管理。しかも延期になったその週の水曜日に風邪を引きやがった、リーコなんである。本番に送り出すだけで、おそろしくストレスがかかった。

 が、無事に終わった。
 担任の先生は涙ぐんでおられる。
 が、わたしは、ものすごい脱力感で、言葉も無い。
 よそのお子様の出ていた昨年までの涙は、今年は無かった。
 あー終わった、それだけ・・・。

 
   笛の音の飛び交ふ空の高きこと
 

 幼稚園のご近所の方は毎日、練習のやかましい音の中で暮らしておられたんだな。
 感謝してます。
 ・・・というのが、なぜだか、一番の気持ちであった。 
 
   名月に影足らざれば歌は無し
 

 いいえ、本当は、歌はたくさんあるのです。
 むしろ、ありすぎるほどです。
 想いがあふれ出て、歌の多さについていけないだけなのです。

 ふと、洗い物を干そうと出たベランダで、何気なく仰ぎ見た空の、中ほどから一面にふりそそぐ月光の、その青い柔らかな光を頬にあてて、そのとき、肩が寒いな、と思う。

 あなたが、いない。
 
 ここで、いっしょに月を浴びたいと願う自分に・・・。
 気が付いてはいけないよ。
 人妻なら。
 
  あのね、「セックスをやって、やって、やりまくりたい」って書いてあったの、読んだことある。森瑤子サンの「女ざかりの痛み」だったかなんだったか・・・。
  あの気持ち、なんとなく分かる気がするの、街を歩いていても男に誰ひとり気にされなくなる前に、女としての快楽をできるだけ味わっておきたい欲求、って言うか、味わっておかなければ、みたいな焦燥感。

  ふうん。わたしなんか、男の人にナンパされたことも無いからよく分からない・・・若いときから気にされなかったみたいな気がする。

  そういうんじゃないの。うーん、たとえばね、ガスか電気か、まあ、なんでもいいけどそういうものの調子が狂ったりしたときのサービスマンの対応とか、重いものを買ったときの、男の店員の扱いかたとか、そういうこと、考えてみてよ。
 若いときと、今とでは、あきらかに態度が変わってきてるじゃない。故障の修理なんか終わっても、えんえん説明してくれていたのが、今じゃ知らん顔して直して、お湯が出たらさっさと帰る。

  そりゃ、景気がよくないから、どこも人手不足で忙しいのかもよ。
 
  まあ、そうかもしれないし、そう思いたいけどさ。買い物なんか、ちょっと重いもの買ったら、「お車まで運びましょうか」って言ってくれていたのが、最近じゃ、おばはん、このくらい平気だろ、みたいに、お金払ったら知らん顔。

  それはあるかな。わたしもこの前、子供の幼稚園の運動会でフライドポテトを買ったとき、係の男の先生ったらさ、20代のママには紙袋ふたつあげていたのに、わたしともうひとりのママには、無し、だったんだよ。いっしょに買ったのに、すっげー屈辱的だった。

  そうそう、そういうの、そういう扱いは、これから増えることはあっても減ることは無いわけよ。

  わかっているけど・・・なんか、さびしいい。
  それに、なんで、こんな話になってんのよ。憧れの君の話に戻してよ。

  それで電話してるんだったね。うーん、でもね、そういう「おばさん度数」がどこまで自分は上がっているのかって考えると、アプローチなんかとんでもない、って話だよ。

  だから、ひたすら指をくわえて、指をみつめているというわけなんだね。

  そう。
  
  ・・・男の指は、アレに似ている。

  えっ。

  というのも、森瑤子サンにあったよ。

  あ、そういや、そうだね。やだ、なんかなまなましいよ。でも・・・言えてるかも。

  なんか、たくさん想像したな。うらやましいこと。
 
  いや、そんなことは無いけど。でも、彼のは・・・少し。

  いやだ、そっちの方がむちゃくちゃ、なまなましいよ。大体、こういうことを昼日中からしゃべっていること自体がもう、おばさん度数かなり上がるよ。
 
  そうかな、いや、そんなこと無いって。短大のときの昼練のとき、「カラダのやわらかいオトコはひとりフェ・・・ができるのかな」ってつぶやいたの、誰だった。

  ひとりフェ・・・って。いやだ、もう。

  あんたが言ったんだよ。

  あ、あのときにはまだ経験してなかったから。
 
  何を。

  何って、イロイロなアレコレ・・・もう、そういうこと畳み掛けるのも、すげえおばさん指数高め!。
 
  あははは。
     

    
   吾亦紅小指に落とす紅のいろ
  

     
  ・・・同じ自分の話でも、若いときと今とでは違うってことか。
 
  ・・・まだもう少しは現役のつもりなんだけどね。

  うん。「おばさんって呼ばれたくない」って、十分おばさんのやつらが言ってる、ってさっきも話したじゃない。

  そうだね。老け込まずに、恋しよ、恋。
 
  うん。
  
  
 目の前に、その指があるのに、ふれることなんか思いもよらないの。みつめるだけ、なんだよね。

 すぐ目の前に、あるのに?。

 そう。思い切って手を伸ばせば、もしかして何かが、想像もつかない何事かが起こるのかもしれない、でも、だめ。だってその「想像もつかない出来事」は、以前は絶対に、ときめくこと、を意味していたんだけど・・・。

 今は?

 今?うーん、冗談で済めばいい方ね。へたしたら逃げられるか、訴えられるか。

 まさか。

 でも、そういう位置だよね、正直。
 つらいけど。

 ・・・そこでわたしたちはしばらく黙り込む。どこかで、虫が鳴いている。小さな虫たちの、恋歌。

 そういう、位置。
 位置、って。
 位置。はっきり言えばトシよ。年齢だよ。

 あの、小さなキャンパスで毎日話したり、ランチしたりしてた頃、わたしたち、何につけても、自信が無くて。
 そうだね。
 鏡を見てはため息ついていたけれど。
 でも、それでも、片想いの相手にアクションすれば、もしかしたら物語がはじまるかもしれない、なんて夢を見ていたのだから、結構お気楽だったのかもしれない。

 今は・・・。
 
 もういいよ、やめようよ。カナシイよ。
 
 でもね、わたしたちと同じ位か、それより少し上の女が「おばさんって言われるのはいや」って言うのを聞いても、なんか聞き苦しいんだよね。
 うん。
 「おばさん」って言うのなら、そうなんだろうよ、って大きく構えてやってもいいかと。
 ふーむ。
 だけどさ、「おばさん」て言われたくない、って言うやつに限って、おばさんだったりするじゃん。
 って言うか、おばさんだからおばさんって言われたくないんじゃん。
 ははは。

 問題は、「彼」がわたしを、どう見ているかってことなのよ。同じ位の年なんだから「女」で見てくれているのか、それとも「同年齢でも、女ならこの年ならもうおばさんだよな」って思っているか。
 うん。
 あーあ、偶然を装って、手がふれて、なんてのは、もう昔話なんだしなあ。
そーだよ。第一、今の若いコなら、自分から彼の手を握っちゃうかも。
 うーん、若いうちなら、それもまた可愛いけど。
 そうだね・・・。おばさんに触られたらね・・・セクハラ・・・。
 若いコならサービスで、おばさんならセクハラか・・・。
 うん・・・なんかはじめて、若いOLの部下を抱えるおじさんの苦しさが分かった気がするよ。
 

   宵月にうつくしすぎる指が罪

 
 
 でもね、ほんとうに、きれいな指なのよ。男のくせに節くれだってなくて。あの指を自分の全身に泳がせることのできる女がうらやましいよ、本当に。
 
   

 
 
 

 
 雨が降り続いている。
 傘を差しても風に乗って吹き込んで来る雨に顔をうつむけて歩いていたら、真っ赤に染め上がった葉っぱを見つけた。
 路上に濡れて張り付いた落ち葉。いつのまにか秋になっていた。

 先日、ぶどう狩りに行った。
 山の林では、まだ、ツクツクホウシが騒がしかった。
 3歳のチョーコが、ふいに、
 「蝉サンが英語でお話している。」
 と、言った。
 「英語?。」
 「うん。wish,wish,って聞こえるでしょ。」

 チョーコの耳には、「おーし、つくつく」の「おーし」の部分が、そう聞こえたのだ。
 
  wish,wish,wish.wish,wish,wish.

 ぶどうが実る山にあの蝉の声が響いたのは、もしかしたらあの日が最後だったのかもしれない。

  今きっと、蝉のつぶやきが消えたぶどうの森にも、静かな雨は降りそそいでいるだろう。

 
  秋つ雨胸まで濡れてみるもよし

 
 
 あと何回、夏を送るのだろう。
 あと何回、秋の雨に打たれるのだろう。
 もうそろそろ、季節のひとつひとつを、心に刻み付けながら過ごす方がいい、この年になれば。そんなことを思う。
 例の「六甲おろし」エンドレスのスーパーで、ランチタイムだけの「おべんとう」を買う。
 ひとつのおべんとうを、3才の娘とはんぶんこするのである。 
 今日は、
 くりごはん
 であった。
  
 が、うちで開けたら栗が2つしか入っていなかった。
 
 いや、あの、別にそんなに栗が好き、というわけでは無いのですが・・・。
 
 ただ、ひとつ前に並んでいた、筋骨たくましいオニイサンの分には、やたら栗を入れてあげていましたね、「おべんとう詰め係」のオネエサン・・・。

 その心を知りたい・・・。

 意地汚い話になるかと思うが、敢えて書かせていただくと、幼い子供を連れていると、こういう場合、トクをすることが、実は多い。
 ま、くりごはんの中に栗が多い、という程度のことであるし、その分、おべんとうの中のお米の割合は下がるわけだから、本当にそれがオトクなことなのかどうかはわからないのであるが、なんとなく「無視された」ような気になるのである。

 たとえば、母子が、ものすごい口喧嘩をして、子供の方が、部屋にこもってしまう。
 ほどなく夕食になり、
 「ごはんできたよ。」
 母の声はまだ怒りをたっぷり含んでいる。
 ザラついた気持ちで着こうとする夕食の席。
 今夜のごはんは、くりごはんである。
 そう言えば、さっき、喧嘩する直前、母親が栗をむいていたな、と子は思う。
 ぴったりと実にまとわりついた渋皮を器用に包丁でとりのぞく様子を、なんとなく「すごいな」なんて思って見ていた。
 そのあと、大喧嘩になり、穏やかな尊敬の気持ちはフッ飛んでしまったが。
 
 甘みを含んだ空気が鼻をかすめる。
 炊きたての、くりごはんの匂い。
 ふと匂いの方に目をやると、母親が、今まさに自分の茶碗を手に取って、ごはんをもりつけたところだ。
 こちらに差し出される茶碗を持った手が、まだ怒っているのかどうか、子は少し怖い。
 
 そして運命の茶碗は、いったんこちらに差し出されようとして、また引っ込められる。
 あれ、と思っていると、母親の手に持たれたしゃもじから、幾つかの栗が、子のごはんの上に追加してのせられる。

 「・・・・。」
 「はい。」
  手渡されたごはん茶碗、家族の誰よりもたくさん盛られた栗。
 母親の顔を見ると、いたずらっぽい目配せに、柔らかな微笑みがのっかっている。
 

  栗ふたつみっつ増やして仲直り

 
 
 ・・・という感じ。
 そう、くりごはんの栗の数は、愛情の密度に連動しているのである。
 とまあ、ただの「サービスランチべんとう」に、そこまで断言はしないが、あまりそういうことでお客さんの差別化をしないでいただきたい。少なくとも、
 「あ、なんか怒らせた?。」
 程度の不安感はもたらされる。

 仮に「くりごはん」を頼んで、栗がひとつも入っていなければ、と想像すれば、そこらへんの心もとなさは分かっていただけるであろう。
 ・・・頭の中の「六甲おろし」を何とかしてくれ・・・。

 と書きつつ、気が付いたのだが、「阪神ファン」と自ら名乗る方でも、この曲を全部きちっと歌える人は案外(わたしが思っていたより、ということではあるが)少なかった。
 途中の「漢文調」のところは、テキトーだったりする。確かにこれでもかこれでもかと聴かされている割に、アタマに入らない。キチッと聴けばカッコいい歌詞であるのだが。
 
 それはともかく、18年前の優勝の際、何をしていたか、というのもよく話題に上る。
 わたしはと言えば、
 覚えが無い
 のである。
 お、幼すぎて、と言いたいのをこらえて、真実を述べれば「受験生だった」のである。
 しかも、関西在住では無い。だから、まったく記憶に無いわけでは無いが、今回ほど熱を感じなかった。
 で、今回。
 
 今回、優勝が決まった瞬間には、「能」を観ていた。
 近所の「アトリウムプラザ」で、「能」の上演があったのである。
 夕刻、9階吹き抜けのドーム型の建物には、日本人ばかりではなく、外国人も集まっていた。
 初心者向けなので、解説が入るのだが、まさにその解説中、
 「途中経過」
を、大倉源次郎サンおん自らがなさったのである。
 演目がひとつ終わったところで、
 「今、優勝が決まったそうです。」
 会場に巻き起こる拍手と歓声、って、おいおい・・・。
 
 続いての狂言では、タイガース優勝にからんだアドリブもあり、気が付いた人から、しのび笑いが広がり、なかなか楽しいものであったが。

 その時間、子供二人を押し付けられた夫は、文字通り、子供相手に格闘していたようで、下のチョーコが、何をおもったか、ハサミを持ち出して来て、夫の(少ない)てっぺんの髪をちょん、と切った瞬間、胴上げがはじまったそうである。テレビのあちらでも、こちらでも、絶叫。
 ただし、夫はドラゴンズファン・・・。星野サンの胴上げを見るのは複雑な心境であったろう。
 って、それどころではなかったみたいだが。

 能を観たのは初めてでは無かったが、ドーム型の建物で、というのは初めてである。
 「近未来と中世との融合」というネライがあったらしいが、声がワーンと広がって聞き取りにくいのが気になった。
 しかしながら、半能「石橋」での、笛の音はすばらしかった。
 息を呑むほどに。
 あの音は、わたしの中に、おそらくずっととどまり続けることだろう。
 「あの優勝のとき、何をしていた?。」
 とたずねられたなら、かならずわたしはあの笛の音を思い起こすに違いない。

  笛の音の織り込まれゆく月の秋
 
   炎昼にフライドポテトといふ惰性

  
 暑い。
 暑い。
 と言いつつ、主として経済的な事情により、エアコンをなるべく点けずに過ごす昼間である。

で、いい年をしてコミックに感動して涙をぬぐいながら汗もぬぐっていたりするのである。
 感動できる自分を喜んでいいものだろうか。

 感動、と言えば、阪神タイガースの優勝は、もう秒読みである。
 園児たちが「六甲おろし」を歌えるのは最早常識。今や、
「それでは、カタオカ行きマース!。」
選手ごとに応援歌まで歌えてなんぼ、なのである。
 暑い、じゃなかった、熱い。
 しかしながら、ジャイアンツのTシャツを着ていた子供を殴る、というのは行き過ぎである。
と言うか、それは、応援とは趣旨がまったく違う。
 タイガース快進撃の中、他球団を支持しているのが気に入らない、そういうことはあるかもしれない。
 が、気に入らないから殴る、というのは動物以下の行動であろう。
 長年、猫と付き合ってきたが、彼らは「縄張りに侵入された」とか「連れ合いにちょっかいを出された」とかで暴力沙汰になることはあっても、単に「気に入らない」でドツキ合いになるということは無かった。気に入らないやつだな、ということはあるみたいである。しかし、無用のトラブルは避けようとするかのように、お互いに目を合わせない。そういう知恵が見えた。
 気に入らないから、と暴力沙汰を起こす。
 こいつは、もうどんな理屈があろうと、通らない。
 が、人間の子供は、実はとてもしょっちゅう、こいつを理由に暴力沙汰に及ぶ。
 しかしそれは通らないよ、ときちんと言うのがオトナの責任であろう。
 ・・・と普通のオトナならそうだろうと思っていた。

 しかし。
 この「暴力事件」を聞いた阪神ファン主婦?は、
「そりゃ、わたしでも殴ったるわ。」
と、のたまわった。
 そして、そこに、笑いが起こった。

 そりゃ、ワル乗りしているだけだよ、と言うことはできるだろう。
 でも、この「熱さ」の中、そういう、わけのわからない「何でもあり」が横行しているのが気になる。

 宝塚生まれの友人は巨人ファン。
 「阪神タイガースは好きだったけど、阪神ファンが嫌い」
で、巨人ファンになったのだそうだ。
   蝉去りて蜜月終へし木々となる

 残暑が続く。
 けれども、あの蝉たちの声は、もうしない。

 雨が多かったからだろうか。
 木々の若葉はいつもの年以上に葉を茂らせて頑張っていたように思う。それは、短い夏の光を少しでも多く取り込むための作戦だったのかもしれないが、雨が上がるたびに見上げるケヤキの、うちかさなって空を覆う緑色の眩しさに圧倒されていた。そして、その若葉の生い茂った中から、夥しく降り注いでくる、蝉の声、声、声。
 

 あの蝉たちはどこに消えたのか。
 そして毎年、不思議に思うのは、夏の終わりを・・・つまり自分たちの生きていられる季節の終わりを、蝉たちはどんなかたちで知るのだろう、ということだ。
 専門のひとに聞いてみたことは無いのだが、誰かが、それはやっぱり気温の変化だろうと話していた。
 朝夕の涼しさこそ、蝉に季節の終わりを知らせるのだろうね、と。
 しかし、こうも毎晩寝苦しい夜を重ねていると、果たして蝉を納得させられるほど、気温は下がっているのだろうか、といぶかしく感じる。

 蝉の大合唱の消えた庭で耳をすますと、風の音。
 それは、夏よりも半音高い。乾いた葉っぱの群れの、奏でる風の音。木が水分を無くしていくのが日に日に分かる。風の音で。
 蝉たちのもらっていた樹液も、もしかしたら日々、薄らいでゆく、そんな気がする。
 蜜月が終わったのだ。蝉と木々との。

  

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