ふるさとの海手繰り寄せソーダ水

 十年ばかり、ふるさとの海で泳いでいない。
 原発の話で話題にのぼることの多い海だけれども、その海の色の透き通った輝きと言ったら、このマンションの窓から毎日見える海とはまったく別のもののようであった。
 泳ぎは大してできないが、わずかばかり沖に泳ぎ出て、顔をつけて平泳ぎをしたとき、大きく水を蹴ってみたつま先の、ペデイキュアの桃色が、エメラルド色の波の中で、小魚みたいに揺れて見えた。どこからか舞い流れて来る、海草たち。次々生まれて消える泡たちは、日の光を取り込んで眩しく散らばる。
 そして、潮の香り。

 今、こんなに近くに海のそばにいて、船の汽笛を朝夕に聞きながら暮らしているのに、海とともにいる、ということを忘れがちなのは、潮の香りがしないからかもしれない。ひとに飼いならされた、優しい瀬戸内海は、もともと潮の香の薄い海だったのか。それとも、あちこち人の手が入ることを赦しているうちに、香りを無くしてしまったのだろうか。

 でも、このまちが海辺にあることは確かである。
 一度、心からそう思わされたことがある。
 それは、この今住んでいる人工島では無い、もうひとつの人工島へ行ったときのことだった。
 結婚前だった。本土から島へ行こうとして、当時はフィアンセだった主人と、岬にある喫茶店に入った。
 まだ震災の傷痕があちこちに残っていたその夏だが、その店は被害をまぬがれたのか、たいそう古ぼけていた。小さな店で、ドアを開けると、穏やかな、年をとった声が二つ、いらっしゃいませ、と出迎えてくれた。
 そのとき、わたしは「クリームソーダ」を頼んだ。
 ほとんどの場合、熱いコーヒーか冷たいものならアイステイーを選ぶのに、どうしてクリームソーダだったのか。理由は分からないのだが、このときのクリームソーダは、忘れられないものになった。
 その、色、である。
 それは、青い色をしていた。
 透き通った瑠璃色、というのか、見たときわたしはラピスラズリを思い出した。あるいは、一心に咲くデルフィニウム。
 それまでは、クリームソーダは緑色だと思っていた。透明なエメラルド色の、炭酸水。
 「神戸のは、青なの。」
 そうして、わたしは、ほとんど連鎖的に、海の色を思ったのだった。ふるさとにも、海はあった。そして、ここにも海はある、でもそれはきっと、全然違う海なのだと。

 ところで、先日、とあるデパートのレストランで、クリームソーダを見た。
 見た、というのは、自分が頼んだのでは無く、すぐ近くのテーブルに着いていた老夫婦らしい二人連れの、おじいさんの方が頼んだからである。
 そして、それは、見慣れた緑色だった。
 ふとわたしは、目の前で子供の口にスパゲテイを押し込んでいる主人に、あの日のクリームソーダの青い色の話をしてみた。
 「そうやったかな。」
 それは、もうそんなことは忘れている、見慣れた男の投げやりな声だった。
 あのときの、クリームソーダは幻だったのか。
 そして、もしかして、この男も。
 それから、あの日のわたしも。
 あんなに「恋がしたい」と言い続けて来た彼女なのに、久しぶりに見た顔は、とても面やつれしていた。
 恋多きひとであった。
 でも結婚し、子供が生れ、その子供たちもようやく少し手が離れ、安定してはいても、どこか退屈な日常・・・よくある話である。
 冗談半分で、恋がしたい、恋がしたい、と言い出したのはその頃である。もう一度ときめきたい、そのひとの姿を目にしただけで、胸がきゅっ、となるような感覚をもう一度味わいたい、そう言い続けてきた彼女である。
 そして、突然、恋は彼女の上に降りて来た。

 「でもね、向こうはそんな気無いのよ。出会いは子連れのときだったし。」
 「そう。」
 「片想いなの。」
 「そう。」
 「でも・・・分かるでしょ、片想いなのがつらいのでは無いのよ・・・。」

 彼女が、今、最も触れて欲しい指。
 男にしては繊細な細い指。清潔な爪にふちどられたその十本の指に触れられることがもしもあったとしても、それでどうなると言うのだ。
 恋多き女であったから、指の順番は知っていると言う。
 髪から肩へ、胸へ、そして・・・でも、そこでどうなると言うのだろう。

 どうにもなりはしない。
 それだけのことだ。
 
 
   朝顔の日に生れて日に散らされし

 朝顔は、夜明けの気配を感じて花開くけれども、その日の光によって直に身を滅ぼされる。
 人妻もまた、恋の気配を感じて想いはわきあがるけれども、その恋は必ず滅びへと向かう。
 それでも、恋へ傾いていくのは、どうにもならないのだろう、彼女の瞳は、それでも輝いていた。幾分、暗く。
 
 三才になったばかりのチョーコの手を引いて横断歩道を渡っていたら、チョーコが地面を指差し、
「あーっ、虫が、虫が!。」
と叫んだ。
 早くしないと信号が変わっちゃうよー、と言いつつ見ると、そこには一匹の、カナブン。
 が、ぱっと見ただけでは何か分からなかった。白いストライプの上にいるそれは、何かの拍子でバランスを崩したのだろうか、仰向けにひっくり返った状態で、足をばたつかせている。
 信号は変わりかけている。でも、このまま放っておいたら、青になるのを待ち構えている直進車の下敷きになってしまうだろう。
「えい。」
 しゃがみこむ時間は無かったので、乱暴だが、持っていた鞄の底に虫の足を引っかけてすくいあげるようにして体勢を立て直した。
 羽根を細かに震わせ、カナブンが飛び立つのと、信号が変わるのとはほぼ同時だった。チョーコをほとんど横抱きにひっ抱えて、無事に横断歩道を渡った。
 
 そのまま、買い物に行き、近所のショッピングセンターで行われている「ブロックフェア」なる催しに行って、娘そっちのけでブロック遊びに熱中し、マンションに戻ったのは小一時間後であった。
 雨模様だが、傘をさすほどでも無く、娘は自分の赤い傘を閉じたまま、軽く振るようにして歩いていた。人に当たったら危ないからやめなさい、と言おうとしたそのとき。
 ブーン。
 と、音が聞こえるほどに近く、一匹のカナブンがこちらに飛んできた。一直線に娘の顔スレスレに近寄り、急に向きを変えて飛び去った。
「いやーん、虫が・・・。」
 突然のことで、娘は泣き出し、わたしも戸惑い、そのときはただ唖然として、その見事な飛行を見送るだけだった。
 エレベーターに乗り込みながら、今日はよくカナブンに遭ったなあ、と思いつつ、ひとつの考えが浮かんだ。
 まさか、同じカナブンってことは無いよね。
「虫が、虫が。」 
よほど驚いたのか、繰り返すチョーコに、
「そんなにこわがらなくてもいいよ。もしかしたら、さっき、横断歩道で助けてあげた虫サンが、ありがとう、って言いに来たのかもよ。」
 と、言いながら、思わずその考えに笑ってしまったけれど。

   軒下の雨粒さへも若葉色

 日常の中の、メルヘン。たまには嘘を信じるのも良い。
 自転車を漕ぎ出すとき、一瞬、ふわりと羽根を感じる。いまだに。
 曇り空の下、羽根の感覚がなんだかいとおしくて、何度も何度も強くペダルを踏み込んでみた。

   ペダル踏む爪先はただ夏へ夏へ
 
 今朝、雨上がりのエントランス付近で、確かに夏を感じた。
 夏の女神が、裸足の爪先をいたずらっぽく晒しているのを。
 実家から、大きな宅急便が届く。
 内容のところには「野菜」とある。でも、本当は「新じゃが」であるのをわたしは知っている。そういう、季節だ。
 京都で寮暮らしをしていた頃、やはり今頃こうしてじゃがいもが送られて来たのだが、伝票に大きく、
 「米、いも」
 と書いてあって、当時は花も恥じらう19才の娘には、それがとてつもなく恥ずかしかった。それで文句を言って以来、じゃがいもであっても、新米であっても、そこには「野菜」と書かれてある。
 最も、じゃがいもが十いくつも詰まった箱を片手で肩に担ぎ上げられるほどたくましくなった現在、たとえ伝票になんと書かれてあっても、もうどうでもいいのではあるが・・・。
 
 中を開けると、じゃがいもだけでは無かった。きゅうり、ミデイトマト、茄子、夏大根、そして、娘たちにチョコレート、である。それがほんの少しずつ、きちきちっと詰められている。自然に実家の畑を思い出す。
 畑、と言っても、プロの農民では無い。父親が趣味でつくっている畑であるが、そこはB型らしくこだわりがあり、わたしたち子供は、迂闊に侵入できなかった。無農薬にこだわり、草取りも自分でする。苗選びから水やりから収穫まで、そこは父の「王国」である。
 だから、当然、野菜はどれも不格好で、畑仕事に慣れない人が見たら、信じられないような形のものもある。しかし、とにかく、味はいい。
 じゃがいもは、コロッケにすることにする。
 きゅうりは、早速サラダにする。星型の黄色い花つきだ。娘に見せたら、全く驚かない。幼稚園で育てているのだそうだ。
 そう言えば、園の庭の端に、そういう夏野菜のスペースがあったような気がする。
 娘は得意げに、
 「そいでね、お茄子もあってね、お茄子はね、お花が紫のお星様みたいなんだよ。」
 と、言いながら、七夕のときにこしらえた飾りを持って来る。
 「ほらね、こんなん。」
 手にした短冊には、一面、紫のクレヨンで塗られた茄子の実、そして、花の芯に黄色い色をぽっちりと乗せた、茄子の花が描かれている。
 「ふーん。よく見てるやん。」
 感心して見せると嬉しそうにしている。

   星いくつ落ちて咲きたる茄子の花

 しかし、娘たちに、茄子料理は不評なので、翌日のカレーに細かく刻んで煮込むことにした。

 
 それにしても・・・。
 宅急便を持って来てくれるお兄さんたちは、荷物をこちらに渡すときに、必ず、
 「大丈夫ですか。重いですよ。」
 と、声をかけて下さるのだが、持ってみると、ほとんど、大して重くは無いのである。よその奥様は、そんなにかよわくていらっしゃるのであろうか。
 決して並外れた怪力とは思っていない(思いたい)ので、それはきっと、わたしの見た目が華奢で、箸より重いものなど持てそうにないみたいに見えるのだろう、ということにする。(しかし、Mサイズのシャツのぴったりスリーブがきつかったりする。)

  

汗sono

2003年7月10日
 人工島の真ん中を流れる人口川のほとりで、若者がひとり、黙々と花の植え替えをしていた。
 首の辺りまでの茶色い髪、両の耳にシルバーのピアスが光る。クリーム色のTシャツ(もしかしたら白)は背中に張り付き、その上には、梅雨の雲が晴れた昼下がりの空から、熱っぽい日差しが容赦なくふり落とされている。
 若者は、なぜかたったひとりで植え替えを続けている。
 10個ほどあるプランターからプランターへ。
 オレンジ色のマリイゴールドが、青白いデルフィニュームに取って替えられる。分厚い手の下の淋しい色の花びらの上に、汗がひとつぶ落ちた。
 すぐ近くで、少年の歓声。
 気の早いインターナショナルスクールの金髪の少年たちが、川で水遊びをしているのだった。

    ひとすじの汗その先に青い花

 今年初めて見た、したたり落ちる汗。もうじき、夏。

 いきなり話が変わるが、「ベルサイユのばら」を読み直した。
 初めて読んだのは、確か10才そこそこだった。
 11才で結婚させられそうになって母親に反発する、シャルロットという人物に妙に肩入れしたから覚えている。
 その後、高校時代に一度読んだ気もするが、なぜだか突然急に読みたくなり、文庫版を買って読んだ。
 ああ、こういう話だったのか。
 初めて、本当のストーリーをとらえられた気がする。以前、何の気無しに読み過ごしてきたところが、ものすごく心に響く。
 とりわけ「オスカル」を、ようやく本当に理解できた気がする。彼女の「享年」年齢に近くなって初めて・・・。
 再読、というのもいい。
 これは劇画だが、小説も、一度読んで分かった気にならない方がいいのだろう、たぶん。
 童話の「小さいモモちゃん」シリーズを、今、娘に読み聞かせているのだが、こちらも再読である。今、声に出して読んでみると、改めて、作者の日本語のあたたかさ、心地よさ、そして柔らかな語り口を通して、人生の真が其処此処にちりばめられているのが分かる。
 何度でも出会える本、そして、読むたびに何かが見える、そういうのを名作、というのだ、きっと。

 ところで、娘と言えば。
 リーコ5才が、「ベルサイユのばら」の表紙をしげしげと眺めていた。
 文庫版は全5冊で、いずれも表紙には薔薇の花が色違いでひとつずつ描かれているのであるが、そのうちのひとつを指差し、
 「これ何?レタス?。」
 と、聞いた。
 緑色の薔薇、だったからだが、なんか笑えた。
 ベルサイユのレタス。
 早くアンタと内容について語りたいぜ。
 
 マンションの庭の剪定が終わり、地面に散らばる夥しい樹木の切りくずの中に、それはあった。
 さっきまで降っていた雨は上がり、ひんやりした水の匂いと、苦み走った若木の切り口の匂いとが立ち込める中に転がっていた、白い花のおおきな蕾。
 くちなしの花。
 庭に植えられたたくさんのくちなしたちは、花の盛りの季節を終えて、白かった花々は、最早、クリーム色から黄ばみかけて散りかけている。しかし、どんな花にも、早咲きと遅咲きとがあり、この蕾は遅かったのだ。
 拾い上げて持って帰り、部屋に飾ってみた。
 小さな部屋の中では、外で見るよりも、ずっと大きな蕾に見えた。濃いビリジャンの葉は肉が厚く、これからの激しい季節を思わせる。でも、ここで、こうして切り取られているのだから、この葉は夏を知らずに終わるのだ。
 
 翌朝、花は開いていた。
 雨水に打たれ、かなりくたびれているように見えた、渦巻き状の蕾の先端が、柔らかくほどけている。まるで、真っ白な肌の貴婦人がてのひらをひろげたみたいだと思った。実際には「貴婦人の手」など、見たことは無いのだが。
 そうして、辺り一面が、くちなし独特の、高貴で落ち着いた香りがする。娘のリーコを妊娠中、ちょうど、つわりと梅雨どきとが重なって苦しんでいたときに、この、マンションの庭に群れて咲くくちなしたちが助けてくれた。あらゆる匂いを拒否していた身体が、唯一受け入れたのが、この花の香りだったのだ。
 そんなことを思い出すと、なんだか、この花に借りがあるみたいな気になる。
 でも、ここに連れて来られたからといって、この花の命が救われるはずもなく、時間が経つごとに、花の力は失われてゆく。たっぷりした花の、花びらがひとつ、もう少ししたら落ちるだろう。
 
 くちなしに、くちなし、と名を付けたのは誰だろう。
 くちなし、は口無し、という意味なのか。同じ季節に咲く、紫陽花や蓮の花に比べれば、地味な花では、ある。ただそのかぐわしい香りによってのみ、居場所を知らしめているような。でも、こんなふうに、静かに匂いたちながら、ひっそりと夏を待たずに消えてしまえるのなら、こういう花になるのも、いい。

   
   くちなしの闇におさまりきれず生れ

 花になりたい、などと思うのは、今日のわたしのろくでも無い一日のせいだ、きっと。
 幼稚園の懇談会で、係決めがあった。
 激しくもめたわけでは無いが、ありがちに、後味の悪いものとなった。
 それは、まあ、いつものこととは言え。
 会が終わったあと、何人かのお母さんと話したときに、一人の人が「下の子がいる人はなるべく係をさせずにいさせてあげよう制度の撤廃」に関して、
「そんなん、生むのは、そっちの勝手で生んだんだし。」
と言い放った。
 それが、わたしの、
「下の子がまだ乳飲み子だったとき、誰かが係をしてくれたので、とても助かった。」
という言葉の直後だったので、とてもいやな気持ちになった。 
 彼女は、わたしのことが嫌いなのだろう。
 しかし、わたしも、彼女のことは嫌いだ。同じ空気を吸っているのも嫌だ。でも、毎日顔を合わせなければならない。
 せめて、くちなしの花が、朝の空気を少しでも香ばしいものにしてくれますように。

 
  阪神タイガースの調子がいいと、「気」が温かくいい感じになる気がする。阪神ファンでは無いけれど、まわりのひとたちのときめき光線を浴びているのかもしれない、野球の話がいつもより楽しい。

  マンションの目の前に高校のグラウンドがあって、練習試合でもあるのか、朝早くからやたらに気合の入った掛け声が響いているのだけれど、ふと、あのどう聞いても「おっさん集団」にしか聞こえない声の主たちが、少なくとも自分よりも半分しか生きていないことを思い、少なからずドキンとする。
  あの声を出している子たちの、倍の夏を迎えようとしているのか、わたしは・・・。

  ニュースでは今日も、ヒーローインタビューが熱い。典型的な「ら抜き言葉」だが、こういうのは気にならない。彼の興奮が伝わってきていいじゃないか。
  そしてこういうことを思いつつ、勝利の喜びを捉えている自分って、やっぱりトシとったなあ、と思う。顔を紅潮させて画面に映る彼もまた、知っている夏の数はわたしよりずっと少ない。
   

    白球が一瞬梅雨の空になる

                

新緑

2003年6月4日 みじかいお話
  森の中だった。
  鳥がせわしなくさえずる声が辺りにちらばっていた。見上げれば、緑色の葉裏を通して、強くなりはじめた日差しが二人の上に降り注いでいた。彼の短い髪が、それで時々金色になった。
  わたしたちは、絶えずおしゃべりをしていた。小鳥たちと同じように、止むことのないおしゃべりだと思った。サークルの誰それの噂話から、心理学の教授の癖の話、生協レストランの夏メニューのこと・・・。わたしは笑った。何につけおかしがる十八の娘にしても笑いすぎだった。自分でも分かっていたけれど、笑いを止めることはできなかった。
  だって。
  だって、彼が・・・彼の細長い、ハイカットのバスケットシューズを履いた足が、どんどん森の奥深くへ、わたしを連れて行くのだもの。
  そして、彼が、ふいに口をつぐんだとき、わたしの肩の彼の大きな手がのせられたとき・・・不思議な引力が働くのを感じたとき・・・。

   口つけの後新緑の濃くなりき

  閉じていた目を再びあけると、なぜだろう、さっきから見ていた筈の、初夏の木々の緑が、より一層の力強さをもって目に飛び込んできた。

  公園のベンチに浅く腰掛けて、下からケヤキを見ている。
  十五年後のわたしは、何百枚もの若葉の下で、木漏れ日を楽しんでいる。
  あのひととは、もう、遠い雨の日に別れてしまった。もう会うことは無いかもしれない。薄い唇の感覚は、今でもわたしの中に残っているのに。
  そおっと、目を閉じてみる。
  風が、木立をすり抜けて行く。
  さわさわさわ、さわさわさわ、と水の重みを湛えた若葉たちが歌う。
  小鳥たちの声、今日もせわしくあちこちから聞こえて来る。あなたたちの恋がうまくいくといいね。
  目をあける。
  新緑は今も目の前にある。
  でも、さっきより色を増したようには思えない。
  柔らかそうな、それでいて、芯がしっかり真ん中に通った若い葉たちは、また、風に揺すられて揺れている。
  ただ、目の前で揺れている。揺れると光がこぼれる。そうして、家事疲れの見えるわたしの手の甲に、眠たげな縞模様をつくる。
  幼稚園の参観日があった。
  年長ともなると、子供たちも先生に集中し、「授業」という感じになって来る。これが「年少」だと、園児同士で「メンチ」の切り合いするやつがいたり、皆が前を向いているのに、一人だけあさっての方向を向いているのがいたり、教室を脱走するのがいたりして、見ていてなかなかエキサイテイングなのだが、年長ではもうそういうことは無い。子供たちは、先生の言われるままに、歌い、踊り、スネアドラムのバチを振り回す。
  よくここまで飼いならされたもんだなあ。
  我が子を見ているだけでは退屈なので、お母さま方観察をしたり、壁に貼られた世界地図を見たりしている。新しい国をふたつみっつ覚えた。
  さて、モンダイは「保育参観」をつつがなく終え、「お弁当参観」に入ったときに起こった。

  「お弁当参観」は、文字どおり、子供たちのランチタイム風景を参観するというものである。母親同士が自分たちの「力作」お弁当にさりげなく(と言うか、あからさまに)チェックを入れ合う時間でもある。
  机を並べ、お茶のカップが配られ、当日の「お当番さん」が前に出て、「いただきます」の「お歌とごあいさつ」の音頭を取り、いよいよお弁当タイム・・・。
   ・・・の筈なのだが。

  「お当番さん」は男女ひとくみのペアである。
  が、教室一番前の定位置には、男の子が一人立っているだけで、相方の女の子、みおちゃんの姿は無い。
  「どこ行ったん?。」
  「どうしたん?。」
  園児たちのみならず、母親たちからもざわめきが起こり、姿を探すと、教室を出た戸口付近でうずくまっている。
  担任の先生が何やらさかんに話し掛けている。当然、みおちゃんのお母さんは何とか我が子を「定位置」まで行かせようと必死である。が、彼女はさかんに首を横に振り、動こうとしない。
  「お当番のお仕事を、先生が盗っちゃったから、なんだってさ。」
  どこからともなく、そんな理由が聞こえてくる。
  「いつもなら、お茶のカップを配ったり、お盆を並べたりするのは、お当番さんのお仕事なんだってさ。でも、今日は参観日で時間が余り無いから、先生がさっさとやっちゃったでしょ。だから、みおちゃん、怒っちゃったんだって。」
  「お当番」は、子供たちにとって、かなり晴れがましいものらしい。うちのリーコも先日水疱瘡で登園できないのが分かったとき、一番に口にしたのが、
  「えーっ、あさってはお当番なのに。」
  だった。さほど世話好きでも、マメでも無いリーコでさえそうなのだ。しっかり者で世話好きで、リーコの妹のチョーコともよく遊んでくれるみおちゃんなら尚のこと、今日は朝から張り切って、「お当番さんとしての使命」に燃えていたのに違い無い。
  みおちゃんのお母さんは、怒り口調が哀願になって来た。アメリカ人の園児を「お前」呼ばわりしたことさえあるという担任も、今日は並み居る母集団の前で威勢良く子供を叱り飛ばす訳にはいかないのだろう、ひたすら、静かに言葉での説得に終始している。
  よく躾られているらしく、子供たちは、自分の席から動かない。もちろん、お箸を叩くやつ、カップを頭に被るやつ、それぞれ騒いではいるのだが。
  
  しかし。
  みおちゃんがぐずり出し、五分以上が過ぎ、子供たちのお行儀も目に見えて悪くなり始めると、母親の間から、不安の声が上がり始めた。何しろ、子供たちは、お弁当を前にしているのに、一口も食べられないのである。常日頃、暴力的は食欲と接しているので、エサを前にしたやつらが暴動でも起こさないか、心配になってきたのだ・・・。
  「どうにかならへんかなあ、食べられへんやんか。」
  と、ついにどっかの母が言った。
  そして、ふざけて席を立つやつやら、踊り出すのやら、子供たちも動き出し、母たちは緊張し始めた、そのとき。

  「みおちゃん、頑張れ!。」

  どこからともなく、声が上がった。

  「みおちゃん、頑張れ!頑張れ!、みおちゃん。」
  声はいくつも上がり、それは、男子お当番さんのヒロくんの音頭で、教室中に広がった。
  母たちは顔を見合わせた。
  お弁当が食べられないのは、みおちゃんのせいだ。
  早くしてくれ、いい加減にしてくれ。
  そういう声が上がるのかと思った。
  けど、実際には、そういう声は母たちにあった。
  子供たちは。
  子供たちは、責めるどころか、原因をつくっているみおちゃんを「応援」したのである。

    

    涼風の歓声を乗せ沖へ沖へ

  

  みおちゃんは、結局、子供たちの応援に押されるかたちで前に立った。ふてくされた顔は、なかなか元に戻らなかったけれど、何とか「ごあいさつ」までやり遂げ、子供たちは何事も無かったかのように、それぞれのお弁当をものすごい勢いで食べ始めた。

青嵐

2003年5月19日 みじかいお話
 「どうしたの?。」
 「・・・どうか、なっちゃったみたいだ。」
 「どういうこと?。」
 「気になるひとが、できた。ずっと、きみのことだけ、好きだったのに・・・。」  

   三年少し続いた遠距離恋愛にしては、あっさりしていると思う。
   初夏が三つ巡る間には、何度も別れようとした時間がある。でも、それは、いつでも、あたしの方から切り出したこと。あなたはいつでも、絶対にいやだと言い張った。  
 「ぼくが学生なのが、そんなに嫌なの?。」
 「そういうわけじゃないけど・・・。」
 「あともう少しだけ、待っててくれないだろうか。絶対、きみを迎えに行くから。」
  そして、二十三だったあたしは二十六になった。
  あなたは、めでたく医学生からお医者サマになって、そして、あたしから離れて行こうとしている。

  一般的には、多分、悲惨な話だ。

  恐らく、こういう状況は、普通は、捨てられる、っていうんだよね。
  でも、そんなふうには思えない。思っちゃ、いけないのだ。

  近田さんは、さっきのメールに書いてくれてた。
  「もしも、しっかり抱いてあげられれば、少しは楽になれるのかな。」
  でも、近田さんは、妻子持ちだ。

  アツキのセックスは、いつでも自分本位だ。なかなか会えないから、というのを口実にありとあらゆる気持ちイイことを、あたしの身体でやってみようとする。勿論それはアツキにとっての「気持ちイイこと」であって、あたしにとっての、では無い。だからこっちはしょっちゅう取り残される。
  そのくせ、終わった後には必ず、
  「良かった?。」
  と、たずねられる。曖昧にうなずいてキスをするしかない。良いも悪いも無い、流されているだけ。激しく求められている自分、というのを感じるのも悪い気分では無い。

  近田さんは逆だ。
  キスひとつ、指先ひとつにも、あたしへの気遣いがある。彼の快感は、高まっていくあたしを見ることで初めて紡ぎだされていくかのよう。
  欲望先にありき、のアツキとは、その辺が違う。勿論、良かったかどうかなんか聞かない。のぼりつめてゆくところをつぶさに見ているのだから、果ててからいちいち確認なんかしなくてもいいということだ。

  
   そう。
   あたしには、ベッドで過ごす男が二人、いる。
   いや、二人いた、だな。
  
   アツキには、勿論、近田さんのことは内緒にしていたけれど・・・。
   こうなっちゃったのは、自業自得なのだ、バチが当たったのだ。多分。
   

   短髪にまだ慣れぬ指青嵐

   
  
  
   反省、というわけでは無いけれど、髪を切った。肩よりも長い髪をシニョンにしていたあたし。乱れると、男の上でよく髪をほどいた。それをわし掴みにしたアツキ。優しくまとめ直した近田さん。
   二十六の女にとって、いったんベッドにあがると、ひたすら自分本意に振る舞う男の青臭い若さも、一歩下がったところから快感を与えてくれる年上の妻子持ちの安定感も、どちらも実はおいしいものだった。あたしは正直で、そしてイノセントだ。それは、アツキを失っても、変わらない。
 
  近田さんから、またメールが届いた。逢い引きの約束。

  初夏。
  雨が過ぎる度これでもか、これでもか、とばかりに木々は若葉を茂らせる。そして、これからやがて来るであろう過酷な暑さなど思いもよらずに吹く風に身を任せ、ザワッ、ザワッ、とみずみずしい歌を日々歌う。
  

  あたしは、正直で、そしてイノセントだ。
  そして、それは、男などいなくなっても、変わらない。
  ゆっくり息を吸ってから、ケイタイに向かい、あたしは最期のメールを打ち始める。  

菫yure

2003年5月18日 みじかいお話
 「確かに、彼女、一晩、オレのとこで過ごした。それは認める。でもさ、何も無かったんだ。」

  わたしは電話を持って、ベランダに出る。
  震災でも壊れなかったから多分頑丈なんだろうけれど、震災で周りが小奇麗になっちゃったから、やたらみすぼらしくなったマンション。すぐ下を、JRの線路が走っている。

  「呑み明かしただけ。・・・きみとは、違う。」

  「そうでしょうね。そりゃ。分かってますよ。」

  彼はほんの少しだけ、安心した声になる。安心がほんの少しなのは、わたしの「丁寧語」が崩れていないからだ。

  「別に、どっちでも、いいのよ。ちゃんと、付き合って、とか言われてないし。」
  「またそんな、拗ねたようなこと言っちゃってさあ。」
   機嫌を取ろうとしているのね。でも、真面目に付き合って、とは言わないんだ、こいつは。
  「ま、それでも、マユミとそうなったら、わたしは降りる。もう二度と寝ないから。
   マユミとは、三年間、一緒に高校に通ってたのよ。それ、知らないわけじゃないでしょ。」
  「もちろん。」
  「もちろん。知ってるよね、あなただって一年は同じクラスだったんだから。」
   電車の来る気配がしている。まだ音は聞こえない、もちろん、姿も見えない。でも、風が機械的になる。わたしは、部屋に戻り、水をコップに注ごうとして、片手ではうまくできなくて止める。のどが、渇いたな。
  「うん・・・。だからさ、彼女が、そうゆうことの対象にならないってことも、分かるだろ。」
  
   それじゃ、あなたは、「そうゆうことの対象」になるのは、一体、どんな女だと言うのだろう。
   「はっきり言えば、男の欲望の対象にならない女だってことだよ。」

   それは、マユミが、いつでも大きな眼鏡をかけ、持ち物にも全く気を遣わず、脇の始末さえろくにしないで、更に学年でトップクラスの成績で、とりわけ、化学と数学は男子にも負けなくて、お茶大を蹴って、理科大を蹴って、京大に入ったから?。

  「きみとは、違うんだよ。」

   男の声が、湿り気を帯びる。
   減速してゆく新快速の音。新快速はなぜだか、この近くの駅に停まる。隣の駅の方が、人口はずっと多いのに。

   「きみは・・・違う。」

 
   つまりあなたは、今週末、わたしと会う約束が反古になることを、恐れているのよね。
   そう言えば聞こえはいいけれど、はっきり言えば、わたしを抱けなくなるのが、怖い。いや、つまり、せっかくのヤレるチャンスを失うのが、怖いのよ。

   ・・・と、心の中でだけ言っている。肯定されるのも、否定されるのも、つらいから。
   

   電車が去ったから、もう一度ベランダに出る。鈍色に光った線路の上に、初夏の日差しが滑り込んでいる。
   その向こう側に、萎れかけた、スミレの花の群れが見える。
   スミレの花は、春の花が終わった後も実は引き続きつぼみがつくられている。そのつぼみたちは、生涯、開かないままで自家受粉をし、そうして、確実に種子を残す。
   花として、どちらが幸せなんだろう。
   きれいだね、と愛でられ、しかし子孫は残せないのと。
   愛でられることは無くとも、確実に子孫を残せるのと。

 
   そして。 
   一晩、男の部屋で過ごして、ただ呑むだけで終わるのと。
   部屋に入る前にドア付近で既に押し倒されてしまうのと。
   女としては、どっちが幸せなんだろう。
     
 

   「イヤイヤ」の菫見ている線路端
   
   「なあ、怒ってないよな。」
   欲望いっぱいの、ハタチの男の声は、まだ続いている。
   
  

   
    半袖の腕が喜ぶ風の来て  

  ・・・お久しぶりです。
  しばらくご無沙汰しておりましたが、ようやく再開できそうです。
  何日も書けずにいると、もう自分には何も書けないのではないか、なーんて不安に陥ったりもしましたが、こうしてキーを叩いてみれば、まあ、なんとかなるのでは無いか、と。

   これから、皆様の日記にお邪魔して参ります。「お話」、これからもぼちぼち書いていきたいので、良かったらまた読んで下さいませね。
この頃、とても気になることが、ある。

マンション入り口付近の、フットライト近くに植えられている白い花たち。
マーガレットに似ている。あるいは、ひなげしにも。花弁が柔らかな白。花芯はまあるい黄色。
その花々は、夜、暗くなると、花びらを閉じ、朝、明るくなると、開かせる。
まるで、夜には眠り、朝には目覚めるみたい。

だが、早朝、まだうす暗いうちに見たら、フットライト周辺の花たちだけ、花弁が開いたままだった。

あの花たちは、「寝不足」にならないのだろうか。


花たちの息と見がまふ霞かな
春疾風洗ひし街の緑色

春の嵐が桜の花たちを大勢引き連れて、この島を駆け抜けた。
一夜明けたら、緑の季節が幕開け、である。
街路樹の真新しい葉のういういしいこと。
いつのまにか花壇を席巻してしまった「雑草」たちの背の高さが、ぐん、と伸び、常緑樹たちでさえ、雨に洗われたあとの艶めきで輝いている。

植物たちって、強いなあ。

昨日は、強風と豪雨にただ打ち据えられ、叩かれ、枝も花もひたすら揺さぶられるままになっていたのに、新しい朝日を浴びればもう、すっくとしなやかに佇んでいる。
強いな。
うらやましい。

植物が強いのは、感情が無いからだと思う。
ひとも、感情さえ無ければ、もっと強くなれるのだろうに。
何があっても、笑顔でいられるのだろうに。



今日、喧嘩を売られた。
でも、買えなかった。
「彼女」に対しては、このところ「我慢がならない」ことが多い。こっちがそんな風に感じているということは向こうもそうだろうなとは思っていたけれども、やはりそのようであった。
「彼女」が挑発的言動をするのは、何も今始まったことでは無い。もともと、そういう性格だよ、と言う人もあるかもしれない。だから今までは、適当に放って置いた。
が、本日、晴れて「宣戦布告」というわけである。

が、カナシイかな、女の、それも、子連れの主婦の「宣戦布告」というのは、皆に声高らかに、とはいかない。二人きりのときを狙い、しかも相手からは目を逸らし、しかし、確実に悪意だけはぶつける、というやつである、まあ、女性で少しでも集団生活を体験すれば、様子は分かっていただけると思う。
ここで、悪意をぶつけられたわたしが、何がしか言い返すことは、できた。
さっきも書いたが、「我慢ならない言動」はわたしの中に蓄積されている。その中のどれかを抽出することは容易い。あるいは、それを雪崩のごとくに一気に噴出させる・・・。

しかし、知らん顔を通した。

もともと競争には不向きである。
スポーツが苦手なのは、「勝つ」ということに、喜びを感じないからである。相手を打ち負かすことが、何故嬉しいのか皆目分からない。だから、子供の洋服から夫の昇進まである、数限りない競争にも関わり無く生活している。
負けず嫌いの女性の中には、こうゆう態度そのものが既に気に入らないというのがいる。
卒業して何年も経った同窓会で、「あの頃あたしはあんたをライバルだと思っていた」と言われて驚いたことが、何度かある。
わたしは勝っても楽しくないから、はじめから競争には加わらないのだ、そう思い続けていたのに。

だけど、今日、そうなのか、分からなくなってきた。

喧嘩を買わなかった理由。

その一、面倒くさい。
その二、時間が無い。
その三、勝っても嬉しく無い。
その四、相手になったら、彼女と同じレベルに落ちる。


数字が大きくなるほど、気持ちのウェイトが大きい。


つまり、あんな女と同じところまで落ちてたまるか!・・・ということで喧嘩は回避されたのである。一言の反撃もしなかったのは、子供たちの為でも無く、通行人の為でも無く、同行していた他の人たちの為でも無く、たった一つ、

プライド。

・・・なんか、ほんとうにアホくさい。
自分がなんぼのもんなのだろう。

「我慢ならない言動」があるのなら、チャンスだったかもしれない。
喧嘩して、それぞれ言い分をばら撒いた方が、透明な関係を築けたのかもしれない。大嵐の後、街が洗われるように。
でも、それができなかった。
そうゆう自分が嫌いだな。だから今日は、落ち込んでいる。
あたしは多分、桜の花の生まれ変わりなのよ。

そんなことを話したのは、とてもどきどきしていたから。

桜の花のくせに、恋した相手は人間の男だったの。ふんわり開いたあたしの下を「彼」が通りかかって、たちまち好きになって・・・。
でも、もちろん、「彼」はあたしの想いなんか、気付きもしない。あたしが必死の想いでみつめているのに、涼しげに一瞥をくれるだけ、さっさと行ってしまって・・・。

春の嵐が来て、あたしが散る時、だから精いっぱい神様にお祈りしたのよ。次は、人間にして下さい!。

観覧車の中だった。

遊園地の桜は満開で、どこを見下ろしても、そこここに、白い綿菓子みたいな、花の集まりがあるのが見えた。
風は強くて、高所恐怖症では無くても、小さな箱が揺れるたびに、胸が泡立った。

いいえ、もちろん、あたしの、薄っぺらな胸が鳴り続けていたのは、あなたがいたからだったのだけれど。
憧れていた、あなたとの、初めての二人きりの時間。
仲間たちと一緒に並んだのに、順番はなぜか、あなたと二人になった。
鈴蘭の花の形をした、クリーム色の密室。
ひらりと上がり、どんどん空に近付くうちに、ぎこちなく微笑むことしかできなくなったあたしは、なぜだか自分でも分からないままに口にしていたの
だ。
あたしは、桜の花の生まれ変わりなのよ。

俯瞰の記憶もあるの。
どこか空中から、地面を見ていた記憶。鳥みたいに動かないで、それでもただ浮いていた、そんなことを覚えているのよ・・・。

それじゃあ、桜だったきみが恋していた男は、今どうしているのかな。

向かい側に座っていたあなたは、優しくそう口にした。二つ年上だけで、随分と大人に感じられたっけ。

・・・どこかで、きっとあたしを見つけてくれると思う。別の姿で生きていても。

そうだね。

そして、 あなたの薄い唇が、ほとんどかたちを変えずに、

それは、もしかしたら、今の俺だよ。

と、動いたかと思うと、一瞬ののちには、ひらりと、あたしの唇に降りて来た。

初めてのキスが、そうやってもたらされ、それから何回も、何回も桜の季節が巡り・・・。
観覧車は、ゆっくりと回り続けた。


春めぐるキスのカプセル観覧車


その遊園地が、昨日、閉園した。


すずらんの形の観覧車は、思い出を封印したまま、もう動くことは無い。
今日は、朝から春の嵐が街を駆けている。
遊園地の至るところで、柔らかく咲いていた桜の花々は、強い風に揺さぶられるまま、少女の小指の爪のような花片になって、もう動くことは無いメリーゴーランドの白馬についた金の房飾りや、空を飛ぶ象の大きな耳に留まっていることだろう。

「彼」とはもうずっと会っていない。どこでどうしているのか、元気でいるのかも、分からない。
あの春の日は、桜だった頃と同じ、封印された箱の中。
いつか二人で買ったしゃぼん玉を持って来た。
三月の終わりともなれば、日の光は、いよいよ優しく、午前中の公園には子供たちが走り回っている。
花粉症の彼は、ベンチに座って、何度もくしゃみを繰り返す。
そして、ハナをかむときには、小さく「失礼」と、言う。
だけど、言葉はそれだけ。

そもそも「話し合い」が必要になって来たこと自体、先の見えている恋なのだ。

分かっている。

でも、そう相手にはっきり言ってしまえば・・・それこそ「それを言っちゃあおしまいよ」、である。

あたしは、胸に下げたペンダント状の小さなボトルを開けて、先の開いたストローを突っ込み、シャボン液の量を注意深く調整してから、優しく息を吹き入れる。
多少乱暴な「突っ込み」と、その後の優しい「息つかい」は、何かを思い起こさせる。
でも、それはきっと、もう済んだことなのだ。

そう思うと、胸が締め付けられる。

これから、必ず失うことになる、ぬくもりたち。
天空に息を吹き出す前に、そういう暖かみでできている筈の隣の男を、そっと窺い見る。
放心したように、遊ぶ子供たちに目をやっている男。なあんだ、全然セクシーじゃ無い。

あたしの息が優しかったから、シャボン玉は、大きくなった。重たげに緩い風に乗り、すべり台の足元辺りで、パチンとおおげさに消える。

今度は、強く吹く。
すると、細かい玉が、何十も連なり合い、もつれ合いながら、空中をすべって行く。
あたしがシャボン玉なら、こっちだな。

男のくしゃみ。

外で会おうとメールしたのは、こっちだ。
メールにしたのは、有無を言わせない為だ。
一つの言葉が、男と女では、こうも違う解釈になるのか、と悲しく怒りながら続ける会話を電話でするのは、もう嫌だ。
でも、部屋で会って、最後には、大きなわだかまりといっしょくたになって、ベッドに押し倒されるのも、嫌。
しかも、あたしが、そうゆうことに持ち込むのだと、あなたは言うから。
腕を肩に回すのも男なら、唇を押し付けるのも男。でも、そうゆうことになったのは、女のあたしが悪いんだって。
「そもそも、初めっから、そうだったんだよな・・・。」

あなたは、この恋を初めから否定した。

あたしは、違うよ。

今みたいに、何も言葉が無く、それでも満たされていた時間。それが存在していたことも、認める。
恋していたんだよ。
恋、だったんだよ。

日が射せば、シャボン玉たちに、一層の煌きが加わる。景色を、一枚の絵に変える力を持つ輝きたちなのに・・・一瞬だけで、跡形も無くなる。
高みまで昇っていく姿を見つめていると、頑張れ、と言いたくなるのは何故だろう。
頑張れ、もう少し。
もう少し頑張れ。
もう少しだけ、消えないで。

男が、くしゃみでは無く、ため息をついた。
あたしは、無視して、また息を吹いた。
そのおおげさなため息だって、ストローを通せば、立派な虹色の玉になれるよ。

しゃぼん玉想いどこまで生きるやら

あの、きらきらした、薄い球体たちの中には、息が一粒ずつ詰め込まれていて、言えなくなった言葉たちは、ああしてひとつずつ消えて行くんだよ。
だけどすき。
もっとそばにいたい。
あたしをなかったことにしないで。

パチン。

「・・・もう、会わないよ。」

ストローを離して、あたしが、言葉をつくった。
そして、「ホワイト・デイ」がやって来た。

先立つ「バレンタイン・デイ」には「大好き」な男の子数名にチョコレートを贈った、幼稚園年中児、リーコ。
なんと、バッグに入りきらない「お返し」を抱えて帰って来た。
「なんで?。」
・・・こちらからあげたチョコレートは、すべてきちんといわゆる幼稚園鞄、の中に収まっていた。その「お返し」なのだから、同じように収まっている筈では無いのか・・・。
首を傾げながら、よく見ると、分かった。
「お返し」の箱が大きいのである。
つまり、 数は同じであるが、仕様が豪華なのである。
リボンが掛かっていたり、造花がくっついていたり。まさか、「なんでだろう」を踊り狂い、「大きくなったら仮面ライダーになる!」と張り切っている男子園児たち自らが、水色のリボンを掛けたり、桃色のお花を括り付けたりはしなかっただろうから、これはもう、そう、
「ママ」
が、ガンバッテ下さったのに違いない。

「あんた、ちゃんと、ありがとう、って言ったよね?。」
何しろ、こっちからは、「ハート型チョコ」一枚、のみである。カードは付けたものの、それは、ハハ(わたし)の私物である和紙に(つまりわざわざ買い整えたものではナイ)、娘が例の「変体幼女文字」を、へちゃへちゃ描き付けただけの、まあ、はっきり言って限りなく紙屑に近い代物である。
それなのに、こんな、ごリッパなお返しを・・・。あのチョコはインフルエンザウイルス付き、だったかもしれへんし・・・。
・・・。

夕食を整え、娘たちに食べさせて、こちらがいそいそ始めたことは、「お礼状書き」であった。
幸い、この「人工島」には、必ずそれぞれの家庭にFAXが設えられている。(と書きながら、我が幼稚園には無いことに気が付いた。なぜだろう。)
「お返し」をいただいたお礼に、今のクラスになってから仲良くしていただいたお礼を添えて、同じような文面ながら、それぞれに書き、「園児連絡網」をにらみつけて、次っ次に、送信。間違って違う子のお宅に送付してしまっては一大事、なので、ものすごく真剣である。
娘ふたりが「ハム太郎」の内容について、何やら、ごちゃごちゃ言っているが、当然、無視。
いきなりだが、娘はバス通園なので、同じバス停を利用している子供のお母さんたちとは親しくなれるが、それ以外の人とは、ほとんど面識が無い。だから、送付先の人の顔も、ほとんど明確に浮かんで来ない。
緊張する。
その上、娘しか授からなかったから、こういう「ホワイト・デイ」 における、「息子の母」の心理も分からない。相手の女の子がカワイイ子ならカワイイで、
「あの子はあちこちにチョコをばらまいたに違いないから、比べられてしまうわ」
と、気をもみ、「不細工」なら、またそれはそれで、
「あんな子になんでうちの息子がわざわざお菓子を選んであげなくてはいけないのよ!」
と、面倒くさくて逆恨みしてしまいそうである。

ともかく、無事、送信を終了。
「おくりもの」は、
「パパに見せてからね。」
と、いうことにする。
バレンタインには、母娘三人、それぞれがチョコレートをあげたのに、お返しが、「神戸名物ゴー○ル」一箱三人まとめてくれたパパに、この、娘への「お返し」の豪華さを、ぜひとも見せつけなければ・・・。

と思ったりして、片付け仕事に精を出していたら、FAXが、いずこより送信されて来た。

「本命」タクヤくんのお母さまから、であった。
文面には「何事も息子任せで・・・云々」とあり、最後に、今年一年のお礼と、来年度にむけてのご挨拶が丁寧に書かれてあった。
わたしは、思わず微笑んでしまった。
お手紙が届いたことが嬉しかったものあるが、
何だか楽しくなったのは、そこに書かれているのが、明らかに「変体少女文字」であったからである。
かつて、「おニャン子ブーム」の時代に、社会げんしょーとまで言われた、あの丸っこい書き文字が、そこに踊っている。実は、わたしも同じよー、なのである。(パソちゃん書きだからワカラナイけど)今でこそ、チョーカッコいい「スーパー園児」のお母さんであっても、このひとはたぶん、同世代だし、当たり前のことなのだが、どこかひっかかるものを、時代の空気の中で共有しつつ、ハハをやっているのである。こう書くと、アホみたいに単純に当たり前なんであるが、豪華版のお返しを前に怯えていたわたしには、なんか、とってもホッとする、その丸文字の羅列、であった。

しかしながら、わたしは、こうゆう「イベント」は、やはり、子供にさせるのが好き、である。
子供自身が参加したい、と言うのだから、メインは子供がする。で、オヤは、参考意見を述べたり、難しいことはサポートする。そういうのがすき。
今回も、大きなお菓子を、明らかに自分で包み、その上に折り紙でこしらえた、お花の切り紙を貼り付けてくれた男のコが、いる。
そういうのを見ると、我が子だけでなく、他の子の成長の一場面にも立ち会わせてもらって気がして、なんだか、うきうきしてくるのである。



早春はをとめの髪のはざ間にも



・・・さて、最終的に、モンダイがある。
実は、リーコは余りキャンデイがすきでは無い、ということ・・・はともかく、妹のチョーコ、こいつが、甘いもの大好き女であること、である。
リーコにお返しを下さった皆さん、そのほとんどがチョーコのお腹におさまってしまうであろうことを、何とぞ、お赦し下さいませ。

春の雨

2003年3月6日 みじかいお話
ホテルの一室は余分な音が一切しないから、彼女は安心して、彼の腕の中で声を立てることができた。

声を立てるのも演技かもしれない。
でも、声を出すことで心が少しずつ解放され、その結果、身体にも心地よい飛翔が訪れることになるのだ。

窓の外に雨を感じたのは、彼女が何回かの飛翔を遂げ、彼の方にも静かな・・・そしていつも通りなぜか少し白けた・・・充足が訪れた時間である。

彼女は、彼の腕の中にいる。
さっき、わざとにカーテンを引かずに服を脱ぎ散らかしたから、夕まぐれの街が夜景の化粧を始めたのを、まさに目の当たりにすることができる。
三十五階。
同じような高さのビルが、瞬きを始めている。遠くの看板のネオンが滲んで見えている。赤、黒、青、黄・・・。真っ赤な点滅は、ヘリ・ポートの灯り。
「空中の、楼閣。」彼が、煙草に手を伸ばす。
「何?。」
彼女の上司でもある彼は、時々わざとにこむつかしい言葉を呟く。そして、彼女が、不思議そうに首を傾げたり、戸惑って黙り込むのを見て楽しむ。
「ここだと、地に足の付いたものは、一切、見えないんだが。」
「・・・はい。」
「何故だか、雨の気配は感じた。地面に落ちていくまでの、雨粒の気配。」
「・・・雨、ですか。」
「そう。春の、雨。・・・きみみたいに、しなやかに濡れて・・・。」男は煙草を口に加えたまま、女の部分に指を這わせる。さっきの脂ぎった欲望まみれの指とは別人みたい。でもわざと言う。
「・・・もう一度、ですか?。」
「まさか。きみの恋人みたいに若く無いよ。」
恋人。
そんな存在は無いと言っても聞き入れようとしないのは、自分が女のすべてを引き受けられないことから来る、逃げ、だ。
「わたしよりも、ひとまわり上だけで。そんなに変わらないわ。」
女は身体をよじらせ、男の中指をいったん引き抜いた後、改めてもっと奥まで滑り込ませる。
「・・・。」
男は照れたように手をシーツから出し、おもむろに煙草に火を点ける。また一層、部屋が薄暗くなったのを、はしゃいだように燃え立つ火の色で知る。
「そろそろシャワーを浴びないと。」
と言ったのは女である。
男は決してシャワーを、あのあとに浴びない。
ホテルのタオルの、旅先の朝めいた匂いで、妻が浮気に気がつくといけないから、らしい。

結婚はね、恋を殺してしまうんだよ。

男は何度も言う。

男と女は、恋を日常に連れ込んではいけない。
ときめきは、生活とは、相容れないものなんだ。
僕は、結婚が、人生の墓場、だとは言わない。
でも、恋の墓場だとは思うね。

じゃ、結婚式は、恋のお葬式なの。

そう。ふたりの恋を生活の中に埋葬します、と宣言するような儀式さ。

女はバスをつかうために、バスルームの金色の取っ手を軽く握る。なぜか、男のそれに似た感触を覚え、はっと手を退く。

雨。

暖冬予想が外れた、寒い冬が去ろうとしている。
窓の外の夜は、しのつく雨に支配され、最早、街の輪郭はぼやけてしまっている。ネオンの群れは、流れる色の洪水。

結婚が恋の墓場だとしたら、埋葬しそびれた恋たちは、一体、どこに葬られるのだろう。

女は何気ない風に目元に指を当て、景色が滲んでいるのが涙のせいでは無いことを確かめて、なぜか少しだけ自分を励ます気持ちになってから、シャワーに向かった。

摩天楼雪洞にして春の雨
昨年末「ジョビジョバ」が、事実上の活動を停止した。

この「お笑い集団」について、わたしの周辺の方々は、わたしの思い入れについてよくご存知だと思う。
だから、結構、落ち込んでいるというのも分かっていただけるだろう。
この人たち、男ばかりの六人で、「自分たちにしかできない笑い」というのをずっと追求しながら活動してきたが、ここにきて、一度六人がバラバラになるという。
ホームページには「一時的に活動を停止」とあった。その後もメンバーがそれぞれ所属事務所を変えつつも「芸能人」ではあるようだったから、ファンとしては、またいつかあの「笑い」に溺れられる日を夢見て生きて行こう、と何とか落ち込み状態から抜け出ようとした矢先、ものすごい(ファンにとっては)事実が明らかになった。

なんと、ここにきてメンバーのひとりが「カタギ」になってしまうというでは無いか!。

正直「事実上の活動停止」の発表時よりも衝撃的であった。

「もうスポットライトを浴びることはありません。
それでも僕は「ジョビジョバ」のソウルを忘れずに生きていきます。」

だと。泣かせるじゃない・・・・。(ちなみにこれは彼らのホームページからの引用です。)

しかし。
ここで、わたしはハタ、と涙を止める。

そもそも「ジョビジョバのソウル」とは何なのだ?。

いや、分かるような気はするんだよ。彼らの世界には「美学」があった。彼らのしか出せないリズム、があった。
でも、それは「ソウル」というものでは無いだろう。それはあくまで、「美学」と「リズム」なのである。
「ソウル」では、無い。

そもそも「ソウル」というものは何なのだ???。
翻って、我が家のリーダー、紅一点ならぬ黒一点(つーか白、なんだけど)は、大学時代、ひじょーに濃い体育会団体に所属していたおっさんであるが、いまだに、何て言うか、心の拠り所を、その当時の自分に求めているような気がする。
ことあるごとに思い出を語るときの、夢見るようなまなざし・・・正直、うっとおしくて仕方が無いのだが、「あの頃の自分」についてのふかーい想いはやはり「ソウル」というものであろう。
最も、おっさんの場合のそれは「魂」と日本語で語った方がよりリアルであるが。

友達のところに、男の子が生まれたのだが、そのご主人も、まだヨチヨチ歩きの我が子に向かい、
「よしよし、お前もパパと同じK大へ行くんだよん。」
と、あやすのだそうだ。
子供には自分の好きな道を歩ませたい、と願う友達が、その一言、聞き捨てならん、と問い詰めた(というほど大げさでも無いだろーけど)ところ、やはり「パパと同じ」の言葉の裏には、かつての自分が熱い想いで過ごした「ソウル」というか「魂」というか、そういうものが見えたそうである。

そう言えば、宴会で、と言うか、呑むと、男たちは、いわゆる「学生歌」の類いをよく唄うが、女が唄うのは、まあ、受け狙いの芸としてはともかく、余り聞かない。

「ソウル」「魂」。そういうものに、女は心の落ち着き場所を求めない。

いや、こう言い切るのは間違っているだろう。

女にソウルが無い、というのでは無い。
しかし、女のそれは、それぞれ個人的に心の中で密かに焚き付けているものであって、男たちのように、皆で盛り上がって、というのとは質が違う。

つまり、女の「ソウル」は群れからは生まれないのである。
男たちとは、そこが、違う。

「ジョビジョバ」の、あるいは「某大学応援団」の、もしくは「新撰組」の、「海援隊」の、「ソウル」。
男たちの、あつーい魂が、もしも目に見えるとしたら、其処此処に浮遊して、この世界は連綿と続いているのに違いない。

あるいは「アメリカ軍のソウル」なんてのもあるかもしれない。女たちは、男たちの群れの「ソウル」が、間違って暴走しないように、とりあえず目を光らせよう。


ソウル無き目に映る灯や宵節句


・・・だけど、長い人生、「俺達の魂の拠り所」というプライドを抱えて生きられるなんて、うらやましい気も、するんだけどね。

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