沈丁花

2003年2月27日 みじかいお話
「腰掛け」のつもりで入社した会社に、結局八年も勤めてしまったが、その間、「あんなふうになりたい」という憧れを抱いた先輩OLはいたか、と、たずねられて、即答できるのはひとりだけ。

それが、キタハシさんだった。

百六十五センチの長身。制服のタイトスカートから長い足をすらりと見せて颯爽と歩く姿は、同性の目から見ても、くらくらしちゃう位にセクシーだった。低めの声はビロードめいた艶があり、決して感情を高ぶらせず、かと言って、私たち後輩の悩み相談にも、アルコール入りでも抜きでも付き合ってくれる優しさにあふれ、勿論、仕事もできた。
わたしは、高校が彼女と同じということもあり、とりわけ目をかけてもらえた。彼女と同じ職場でなかったならば、数字に弱くて鈍くさいわたしが、こんなに長く会社員生活を送ることはできなかっただろう。

さて、キタハシさんも、三十をいくつか過ぎてから、ついに結婚することになった。なにしろ、頭も切れてウツクシイキタハシさんのお相手である、どんなにかっこよくて高収入のミスターだろうと想像したのだが、聞いてみてびっくり。
フィアンセは、勤務先のビルの警備員をしている、まだ二十代前半の男、それも、彼女よりも二センチばかり背が低い男、だった・・・。

「慣例」に従い、退職することになった送別会が行われ、わたしたち後輩は、あるひとつのことについての質問を彼女に浴びせ掛けた。
それは、「結婚の決め手」である。
どうして、このひとだ、と決めたんですか。
どうして、このひとが運命のひとだって分かったんですか。
どうして、このひとにしよう、と誓ったんですか。
「結婚退職女の花道」という言葉がまかり通っている職場であるから、皆必死。とりわけ、美人で仕事もできるキタハシさんの、まあはっきり言って「無謀な」決断である。ココロしてきかねば、っていう気合がみなぎっている。
が、当のキタハシさんは、柔らかく微笑むだけ。
「そんなの、そのときが来れば分かるわよ。」

どうして、彼に決めたのか。

わたしたちの本音、「どうして美人で仕事もできつ貴女が、あんな冴えない男を撰んだのですか?」
に、彼女は当然、気がついていたのだろう。だから、あんなふうにはぐらかしたのだろう。

一番可愛がっていたわたしには、こんなことを話して「彼を撰んだ理由」にしてくれたのだけれど。
「駅からこのビルまで通ってくるとき、毎朝、カフェのスタンドでコーヒーを買って来るのがわたしの日課。それは知ってるでしょ?。
彼もそうだったの。
夜勤明けですれ違い、ということもあったけれど、方向が逆でも、彼もいつも、必ずコーヒーを買っていたわ。
そのうち、どちらかともなく、あいさつを交わすようになったの。
でも、ある日、いつものように出勤しようとしたら、彼の手にカップが無いのよ。
どうして?胃の調子でも悪いの?って聞いたんだ、わたし。気軽にね。
そのときの彼の返事。言ってみればこれが決め手だったんだ。」

「キタハシさん、沈丁花、咲きましたよね。
あのね、僕、あの花が余りにもいい香りがするんで、今日からしばらくコーヒー持ってこの道通るの止めようと思って。
花に失礼でしょ。せっかくいい香りしてるのに。」

「呆気にとられたわ。でもね、なーんか、いいな、って思ったの。
いいおとなが童話みたいに平和になるのも。わたしも、しばらくコーヒーを持たずに出勤してみた。代わりに、沈丁花の香りを吸い込んでみた。いつも通っている道に、こんないい香りの花が植わっていたんだ、ってことさえわたしには気が付かなかったのよね。なんだか、不思議にココロが満腹になっていくのを感じた。で、このひとと暮らしたい、って思ったの。」


そんなものかな。

分かるような、分からないような。
わたしには、物欲もあった。見栄もあった。結婚するなら、周りの女の子たちが「うらやましい」と感じるような相手がよかった。
だから、キタハシさんが、ルックスもイマイチ、お金も大してもっていない、そんな男の「沈丁花の香りを消したくないからコーヒーを持って歩かない」というような一言にぐっ、と来て、結婚を意識した、というのが・・・ピンと来なかった。

結局、惚れてる、ってことよね。

なんてことに結論付けた、そのときには。



彼女の真意(だと思う)に到達したのは、つい最近である。

わたしも、やがて結婚した。
そして、俳句を始めた。
俳句をつくるようになると、季節の移り変わりに敏感になる。何気なく見やってきた風景が、大きな意味を持ち始める。ぼーっと歩いていた並木道の、微妙な変化に気がつくようになる。そして、そういうちょっとした変化を常に探していくようになる。
夫はジョギングが好きである。
毎週走るコースには梅林があって、わたしは、毎年、梅の季節が来ると、
「ね、梅、咲いてた?。」
と尋ねるのだが、満足な答えが返ってきたためしが無い。
「さあ・・・。」
第一、そこに梅林がある、ということさえ彼は意識していない。一時間近く走りながら、うつろいゆく自然の生業にまったく注意を払っていない・・・。

それは恐らく、感性の違い、というものであろう。
別段、生活するのに不便、というものでは無い。
感性が違っても、家計に何らの影響を及ぼしはしない、ただ、物足りない。気持ちの豊かさ、というものを共有できない・・・。
なんとなく、うら淋しい気持ちにはなる。不幸、とまで重くは無いのだが。
ところで、キタハシさんの結婚であるが、結局破綻してしまった。
離婚後、彼女は、友人のつくった「イベント会社」の手伝いをして、相変わらずすらりと美しいらしい。
らしい、というのは、わたしが結婚を機に彼女の住む街から離れてしまったからだが、なんとなく話がしにくい、というのもある。

感性で選んだ結婚の破綻。
感性相違でも継続する結婚。
ここに、ふたつの結婚がある。

沈丁花の季節が今年もやってきた。



沈丁花咲きコーヒーを煎れぬ朝


・・・今のわたしはキタハシさんの「元カレ」の感性が大好きなんだけど。
かかとのお話、をします。

先日、「信頼できる女性」から得た情報に寄ると、かかとのツボというのは、ずばり

「生殖器」

なのだそうです。
ということは、かかとを美しく保つには、「生殖器」をアレすればよい、ということになるというのですね。

しかし、何事もみょーな具合に深く考え勝ちなわたし(エニアグラム4)は、ここで悩んでしまうわけです。
そのツボというのは、いわゆる「生殖器」のどのあたりなのだろうと。
それに、ツボに詳しくないので分からないのですが、ツボというのは、やはり力加減というのが大切では無いのかな、だとしたら、余り強く押しちゃってもイケナイ、いや、ここは平仮名だな、いけない、のだろうな、と。
つまり、かかとを美しく保つ為に、そのツボを利用?しようとすれば、どこをどれくらいアレしたらよいのか???。

いや別にわたしは、かかとを奇麗にしようと頑張ってる訳ではありません。
淑女の身だしなみ、としてはカサカサもどうかなと思いますので、気を遣ってはおりますが、正当派的お手入れ、「クリーム」を擦り込んでいる・・・勿論、ツボでは無くて本体の方ね・・・程度であります。

このお話をお聞きしたときの流れでは、どうも、
「かかとを美しく保つ為には、ツボをたっぷり刺激しませう」
というノリだったみたいに記憶しているのですが、ここで問題になるのはツボが「奥」にあった場合、
刺激しすぎて感じすぎては、ツボなんか押さえられないのでは無いのか・・・ということです。

大人な皆様はお分かりだと思いますので、露骨な表現は止めますが、ツボがあってもあふれるものが邪魔をして押せへん、いうことになるんとちゃうんかなあ・・・なんて(結構露骨か)考えるのであります。

ということであれば、かかとが美しいひとは満たされている、ということは証明できなくなるような・・・。


春仕度花の幹発情のいろ

桜の幹が、ぽーっ、と桃色に染まって来ました。
はじめにツボ刺激ありき、では無く、
「ふと気がついたらかかとも美しくなっておりました」
的な恋をしてみたい、です。

毛糸玉

2003年2月20日 みじかいお話
転がれば戻らずそこに毛糸玉



これ、あげる。
うちの息子とお揃い、なんて、嫌かな。千香ちゃん。

え?ペアルックで嬉しいって?。そう言ってくれると嬉しい、って言うか、助かる、うん。
だって、そうよ。あたしの手編みだから。

ううん。大したことは無かったの。昔から編み物は好きだったしさ。なんかね、ぼけっ、とテレビの前に座ってたりってできないたちなんだよね。貧乏性。
うちの有也もプレ幼稚園行くようになってさ、少し手がかからなくなったじゃない?千香ちゃんママみたいに、下に赤ちゃんがいるって訳でも無いしさ、かと言ってお仕事、なんて時間は無いしさ。だから中途半端に手が空いちゃって。
だから編んだの。久しぶり。

ううん。有也が生まれる前にあの子の物は編まなかった。

忙しかった・・・って訳でも無いんだけれど。

あ、せっかく来てくれたんだから、お茶煎れるよ。悪いけど、ちょっと有也たち見てて。千香ちゃんに何かしたら遠慮無く怒っていいからさ。
ん?有也なあに。そう。仲良しできるのね。よしよし、いい子だね。じゃ、あんたたちにも何かおやつの用意をしてあげる。

赤ちゃん、よく眠ってるね。

ああ、そうなの。にぎやかな方がよく眠れるのね、安心するのかな。それ、なんか分かるよ。
きっと、つながってる、って確信しながらうつらうつらしているんだよね?。ひとりじゃない、って。バタバタいろんな音の中で・・・。

それにしても、セーターの季節、もうそろそろ終わりかもしれへんね。

来年?あはは、まだいけそうかな。有也も千香ちゃんもミニサイズだもんね。

あ、その虹色はね、もともと毛糸がそういう色なんだ。

まさか。そう細かく色替えなんかしてないしてない。ただザクザク編んだだけだよ。ほんとだってば。

・・・だからね、そんなにお礼言ってもらわなくっていいのよ、ほんまに。
どっちかって言うと、もらってもらうんだから。

それね・・・うん。実は、ほんとのこと言うと、ずっと仕舞ってあった毛糸なの。実家の机の引き出しに入れっぱなしになってたやつなの。
かれこれ八年ばかり。

そう。八年だよ。

分かったかな。そうだよね。やっぱり神戸市民ってさ、少し前の昔を思い出すとき、必ず震災を基準点にするからさ。一種の癖だよね。「あれは震災より前だったから」とか「あれは震災よりは後だったから」とか。

ああ、そうなの。震災のときには神戸に住んでた訳じゃないのね。それは良かったよ。あんな思い、しない方がいいもの・・・できればね・・・そうよ。

ごめんね。

本当のこと言うとね、そのセーター、ほんとはそのとき付き合ってた彼氏にあげる筈だったんだ。でもね。
でも・・・。彼、家が全壊して・・・。
あれが三連休の翌日だったの覚えてる?。わたしたち、前の前の日に会ったの。三宮で映画観て。お茶して、センター街をぶらついた。で、別れ際に、わたし言ったんだ。
バレンタインは期待しててね。
・・って。手編みのセーターを編んでたからね。でも、そのことは内緒にしてたの。彼、すっごく聞きたがってさ、何を期待させてくれるのか、って。もしかして、君でももらえるの、なんてこと言って笑ってた。付き合って三ヶ月だった。まだ、つまりそういうカンケイでは無かったのよ。でもね、わたしも、セーターにあたしをつけてもいいかな、なんて少し思ってたんだ。
好きだったから、ほんとに。
でも・・・終わったの。恋、では無くて彼の命が・・・。

ごめんね。すごくしめっぽくなっちゃった。「アンパンマン」のビデオをバックにまっ昼間に語る話じゃないわね。
でもね。そういういわれのある毛糸だから・・・。いっそ、棄ててしまおうかな、とも思ったのよ。でも、簡単にごみ箱につっ込むのことはできなかった。かと言って、主人のものを編むのも嫌だった。自分のものも嫌だった。そこら辺りの気持ち、分かってもらえるかなあ。
でも、息子になら編めそうな気がしたのよ。
でも、三才児ひとり分では毛糸が余っちゃって・・・だからなの。千香ちゃんのも編んでしまった。
亡くなったひとが着ていたものでは無いのよ、でも、着る筈のひとは亡くなった。それでもいいのなら・・・もらって。

ありがとうね。いやだ、泣かないでよ。子供らがびっくりして・・・違うよ、有也。おばちゃんをいじめたりしてないってば。
あ、でも、変なこと言って泣かせたわけだから・・・。

・・・着せてみてくれるの?。
じゃあ、わたしも着せてみるね。
あはは、ぴったり。まさに恋人どうし。「小さな恋のメロデイ」のテーマなんか浮かんできちゃったよ。

ありがと。
千香ちゃんママなら、きっとこういう気持ち、分かってくれるとは思ったんだけれど・・・いざもらってくれるかって思うと不安はあったよ。だから・・・ありがとう、ほんとに。
そうだね、あの子たちは震災なんか知らない。できればあんな目に遭って欲しくはないし・・・。まっさらの人生、幸せになって欲しいよ。どの子も。

あのさ、気障ついでに言っちゃうと、子育てって命のリレーだと思うんだよね。ひとつの命が消えても、またどこかで生まれて、育って。バトンを渡すみたいに続いてく・・・。
わたしたちさ、今、走ってんだよ。誰かにバトン、渡されてんだよ。
親になるってきっとそういうことだと思うんだけど・・・違うかな。
「バレンタインデイいまどき園児バージョン」に、コメントを寄せていただいた皆様、ありがとうございます。
しかし。
ここで、わたしは、お詫びをしなければなりません。
なんと、バレンタインデイ当日に、肝心の娘が高熱を出してしまったために、もー何が何だか分からない一日になってしまったので・・・。続編としては、まったくつまらないものをお届け・・・というほどのもんかい!という気もいたしますが・・・しなければなりません。
たまたま14日は「発表会」だったので、チョコは前日に渡していたのですが・・・。渡した相手の反応、というのが何かすごく間抜けで・・・。
と言うのも、彼女の病気が、
「インフルエンザB型」
だったから・・・。
先日、チョコを渡した子のお母さまから、
「どうもありがとうございました。」
と、一応、お礼を言われちゃったりはしたのですが・・・。
なんか、チョコと一緒にウイルスも渡した、みたいなことを思われていたらどうしよー、なんて弱気になったりして・・・。
娘の病名が判明した時点で、チョコは焼却処分されていたりして・・・なんて、想像力タクマシイ母は考えてしまうわけです。
しかも。
今日、病院へ娘を連れて行ったらなんとそこには大本命「タクヤくん」のカルテが・・・。
もしかして・・・。

ちなみに、タクヤくんのお母さまとはお話する機会はありませんでした。
しかし。幼女のココロというのは、しょせん気まぐれでして、バレンタイン直前になって、やはりどーしてもあげたいオトコの子、というのが、
「ゴローくん」
に変化。しかも、なぜか、
「マサヒロくんにもあげていい?。」
と、来た。
「ゴローくん」というのは、まあ、ちょっと元気が良すぎる子で、娘とはとても気が合うらしい、時々、二人して先生に立たされたり、「お椅子とられた」りするらしい男の子。彼を外すことは考えられない、という結論らしい。それは納得。
しかしなぜマサヒロくん???。

と思っていたら、「マサヒロくん」と「ゴローくん」はとても仲がいいから、どっちかだけにあげるのはバランスを欠く、という判断らしい。
幼女とは言え、この気配り。女はこわいよん。
しかし、気配り、だけでは無くて、ウイルスまで配ってしまってはどーしよーも無いのだよ。
最も、彼女もどっかからいただいたのでしょうが。
「発表会」出られませんでした。

そして、今日、下の娘も熱を出しました。こっちは「インフルエンザ」とは違うらしいのですが、この「単なる風邪」にインフルエンザ治りたての上の娘も感染したらしく、我が家はただいま、動物病院のような騒ぎです。

街の春

2003年2月11日 みじかいお話
チョコレートを準備する為に、今日の祝日は存在する。

と、思うほど混雑したデパートのチョコレート売り場だった。
いわゆる「義理」をいくつか買い、「本命」には手作り用の材料を整え、冷蔵庫に仕舞い込んでから、待ち合せ場所に向かった。
ケイタイを持つようになってからの待ち合せは、いちいち人混みを気にしなくて良い。遅れそうなら手元で着メロがヒラヒラ鳴り、今、相手が置かれている状況はすぐに把握できる。
そして、いつも通り「ごめん。後、十分。」というメールが届く。
また、か・・・。
夕方近く、駅のロータリー。人混みと騒音に取り巻かれ、退屈が疲労に化けそうだった。で、何気無く「受信メール」を読み返してみて、「あっ」と思った。

おかしい・・・。

彼からの、メール。
「もうすぐバレンタイン。男としては期待しちゃうけれど、無理するなよ。オレは、君のあったかい気持ちだけあれば満足なんだから。チョコなんか無くてもいい。手紙でも、カードでもいい。君の右手が、オレへの恋心を綴ってくれるなら、それだけでいいんだ。」

キザったらしいのは、いつものこととして、引っ掛かるのは、その文面。

「君の右手が・・・」のところだ。

なんで?
わたしは、左効きだよ。

わたしが左効きなのを、知らない筈は無い。
バーのカウンターで、ふたりきりの乾杯をするとき、わたしを左側に座らせ、大きくのしかかるようにして、グラスを重ねるのが好きだと言った。ついでに、唇も重ねることがある。

いやだ、ホントに、テキトーなんだから。

抜け目が無いようでいて、かなりおっちょこちょいだから、またいい加減なこと書いて・・・と、思いたかった。
でも。
やはり、気になる。

彼のシャワー中に、ケイタイをチェックさせてもらったのときにも、まさか、との思いが強かった。
自分を安心させたいだけ・・・。
「送信メール」のリストを開けたときには、指が震えた。
でも、その内容を見て、もっと、今度は指だけでは無く、身体全体が震えた。

何、これは。

彼は、わたしだけでは無く、三人の女に同じメールを送りつけていたのだった。

たまたまバレンタインが近いからだ、と思おうとしたけれど・・・。
他に、他の女だけに送られた「愛メール」まで発見して、愕然とした。

ヨツマタ、ってやつですか・・・。

いったいどうしたらよいのか分からなかった。帰ってしまおうかとも思ったけれど、肌を重ねれば、やっぱり本命はわたし、ってことが確かめられるかな、と考え直して、抱かれた。もちろん、そんなことは判然とするはずも無かったのだが・・・。



砂糖菓子ほどの軽さや街の春

悲しみと、戸惑いとで押しつぶされそうな数日が過ぎた。
今日は、バレンタインデイ。
わたしは、待ち合せ場所のオープンカフェを見下ろせる、モノレールの駅のホームにいる。
行こうか、止めようか。時間的に考えて、わたしは彼女たちの中の一番手だ。超多忙なヨツマタ男の、今夜最初の女である。

さて・・・。
この数日、ほんと、色々考えた。
で、やっぱり、一気に解決させようと決めた。ぐずぐず引きずるのは性に合わない。
わたしは、今夜、最初の女。
そして、やがて次の女がもう現れる。そして、その次もひとり。更に、もうひとり。
日暮れ時のカフェという舞台。バラバラに登場した女たちは、互いに怪訝な表情を浮かべる。どうして「一番大きな銀杏の木の下」のテーブルにばかり座りたがる女がいるのだろうか、と・・・。

さて。そろそろ行かなくちゃ。
仕組んだのは、わたしだもの。
彼のケイタイから拾った彼女たちのアドに、おんなじメールを彼から送ったことにした。そして、彼にも、彼女たちのそれぞれから、同じ場所を指定して、待ち合せを仕掛けた。
今日が、恋人たちにとって、スペシャルな日、だからこそできた芸当。でも、彼はこの偶然に、不気味なものを感じてはいるに違いない。

かすかに丸みをおびたレールをたどり、モノレールが、入って来るのが見える。
彼は、多分、あの箱の中だ・・・。怖じ気ついて無ければの話だが。

バッグの中をそっと探り、一粒のチョコレートを取り出す。
昨夜、頑張って手作りしたのだ。自分の為に。

さあ、勝負!。
娘が五才の誕生日を迎えた。

幼稚園から帰宅して、まず見せに来たのは、担任の先生からいただいたバースデイカード。色画用紙で作られた立体式のカードで、子ひつじが、にっこり微笑んでいるデザイン。これは、受け持ちの子供が誕生日を迎える度に、先生が一人一人に宛てて手作りして下さる。

「いつも元気いっぱいの、リーコちゃん。お誕生日おめでとう。」

なんと、去年と全く同じ文句、一字一句違わない。まさか、去年の担任の先生に聞いてこしらえたわけでも無いだろうに。
やっぱり、いわゆる「おてんば」の娘には「元気」というほめ言葉しか浮かばないのかなあ、と思いつつ、お弁当箱を鞄から出そうとして、びっくり。
「もう一枚、カードがあるやん。」
しかも、ピンク色の封筒入り。
「ああ、それね、ツヨシくんがくれてん。」
ツヨシくんは、これまでにも、何度も「あそびにきてね。」だの、「あそんでくれてありがとう。」だのと、「お手紙」をくれている。そして、母親としてはそのたびに「お返事」を書かせようと頑張るのだが、三度に二度は拒否される。大体、じっと座っていること自体が、ものすごく苦手なたちらしい。
「さあ、ママの大切な便箋、一枚あげるから。」
とか、
「お手紙書いてから、おやつにしようか。」
とか、作戦はいろいろあったが、結局、いやいや書いたのがバレバレの小汚い作品を、鞄に入れることになる。
ツヨシくんのお母さまというのが、また、いつお会いしても長い髪を奇麗に縦ロールにして、ロングスカートを穿いておられるような方である。パーマっ気の無い髪をひっつめているようなわたしとは、とても同じ幼稚園に子を通わせているとは思え無い、それはそれはウツクシイ女性である。
自分のひとり息子が、毎日のように、せっせと手紙をしたため、しかも、その返事がほとんど返らず、返って来ても、アラビア文字とミミズとが交配に失敗したかのような、ものすごいもので書かれているのを彼女が見たら・・・。
とても、嘆かれるに違いないワ。
見かけによらず神経質なわたしは、ツヨシくんと、そのお母さまに会うたびに、身が縮む思いなのである。
しかも、今回。
「お誕生日バージョン」には、なんと、「ポケモン定規」までもが同封されているではないか。

「あんた、ありがとうは言ったよね。」
「うーん、言ったと思う。」
「お返事、書くよね。」
「えーっ。ツヨシくんのお誕生日、九月だよ。」
「おめでとうって言ったの?。」
「言うてへん。」
「あんたねえ・・・。」

と、やっているうちに名案が浮かんだ。

「そーや。バレンタインデイに、ツヨシくんにチョコレート、あげなさい。」

幸い、バレンタインはもうすぐ、である。
娘からチョコレートを送らせて、この、心のこもったカードへの、せめてもの感謝を現したい。
しかし。

「えーっ、なんでよ?。バレンタインって、好きな男の子にチョコあげる日なんでしょ?。わたし、ツヨシくんのこと、別に好きじゃないもん。」

と、来た。
なんと残酷な・・・。かつての少女として、気持ちがわからなくもないが。

「でも、あんた、別にパパ以外にあげたい人なんかいないでしょ。」
すると、娘、生まれつきとんがり気味の唇を、更にとがらせ、

「いるもん!パパなんか、ママがあげればいいでしょ。」
ああ、ここにパパがいなくてよかった。泣いてしまうかもしれない。
「だれよ?。」
「タクヤくん。」
「タクヤくん?。」
「そ。タクヤくん。もう決めてるもん。」

娘だけでなく、娘の友達、更にママ友にもそれとなく聞いて回ったところ、「タクヤくん」というのは、クラスで一番人気の少年であるらしい。確かに、くりくりした瞳が可愛らしい、礼儀正しい少年である。正統派。

「・・・でね、リーコちゃんのこと、ツヨシくんは本当に好きみたいね。でも、リーコちゃんはうっとおしがってるみたいね。」
あるママ友は言った。彼女の娘は、うちのリーコと同じクラスだが、娘よりも百倍はしっかりしている。
「タクヤくんは、一番人気。うちの子も、タクヤくんにあげる、って言ってる。」
「じゃ、リーコとは、ライバルなんだ。」
「そーね。でも、心配いらない。だって、タクヤくんの好きな子は、サーヤちゃんなんだって。」
「なるほどね。」
サーヤちゃんは、色白の細面。チャイドルみたいな美少女である。並みの女の子はかなわないだろう。

さて。
バレンタインデイが、近付いてきた。
昨日、お風呂の中で、珍しくもの思いにふけって湯船に漬かっていた娘が一言、
「ナミちゃんも、カナちゃんも、タクヤくんが、好きみたい・・・。」
と、つぶやいた。
「で、リーコはどうするの?。」
「チョコはあげるけど・・・ラブラブには、なれへんかな。」
去年の誕生日頃には、かっこいいシンゴくんから、せっかくのアプローチを受けていた。が、バレンタインで、カナちゃんがシンゴくんに仕掛けた「手作りチョコ作戦」で、敗れたのだったっけ。でも、まだ、よっつになったばかりのリーコは、きょとんとしているばかりであった。

それが、いっぱしに、恋の悩みらしきものを抱えおって・・・。


チョコを抱き待ち伏せている春隣

地球は、たしかに回っている。
時間は、たしかに過ぎてゆく。
娘は、平成二桁生まれである。
それが、もう、女の心をもち始めている、ってんだから・・・。

氷雨

2003年1月27日 みじかいお話
電話の中から声が聞こえたとき、
「やっぱりね。」
と、言ってしまった。
失言である。
「ねえ、何が、やっぱり、なの。ねえ。」
畳み掛けてくるのを聞きながら、心から後悔したけれど、口にした言葉は戻せない。
「いや。あの、えっと。」
ごまかそうとすると、却ってとんでもないことを言いそうな気がして、わたしは早々に降参した。
「・・・あ、あの。見たのよ、お父さんを。昨日、こっちで。だから。」
ようやく何とか自分の失態を繕う言葉をみつけて、慌てて付け加える。
「でね、で、あなたもこっちに来てるんじゃないかなあ、なんて思ったものだから。ほら、家族旅行とか、で。」
電話からは、微かなため息が漏れ聞こえた。
「そう・・・。そうね、そういう平和なもんならいいのだけれど。」
「・・・違うの?・・・。」
「うん。あのさ、親父ね、駆け落ちなんだ。」
「えっ・・・。」
「女が一緒なのよ。見なかった?。」
わたしは、絶句してしまった。

故郷の幼なじみ、ヒロの父親を見かけたのは、昨日の朝である。
駅に続くターミナルホテルの、一階から一気に三階までつながる、長いエスカレーターに乗っていた。わたしは、たまたま出勤途中に電車を乗り継ごうとして、近道であるそのエスカレーターを使い、その姿を見たのだ。
こっちは下り、向こうは、上り。
最初は他人の空似だろうと思った。
何しろ、新幹線で三時間はかかる町の、幼なじみのお父さんなのだ。小学校から高校までの長きに渡って、親友だったからと言っても、本人ならともかくその家族ともなると、そうそうはっきり顔を覚えてはいない。
でも、きちっ、と「七・三」に分けられた銀髪、そして縁無しの眼鏡にすらりとした長身、六十を過ぎた男でありながら、少年を思わせる清潔な雰囲気を漂わせているところなど、それはもう、ヒロのお父さんに間違いない特徴を幾つも見せていたのだった。
全然、老けてないわ。
この前、会ったのは、ヒロの母親の葬式だった。
誰も予想しなかったという突然の死で、遠方ゆえに、あれこれ都合をつけて何とか駆けつけたヒロの実家の冷蔵庫の扉には、亡くなった人が書いたと思われる「買い物リスト」が、そのまま磁石で留められていた。
そんな突然の悲しい出来事なのに、真っ赤な目をしてはいたものの、父親は、とても身奇麗にして、いわゆる「男やもめ」の崩れたような感じは微塵も無かった。

あれから、五年か・・・。

「駆け落ち、って・・・。」
お葬式のことなど思い出したからだろう、とても深刻な声音になった。ヒロは少し笑って、
「いや、別にね、そう切羽詰まった話では無いのよ。神戸に行く、とも聞いてたし。ただ、どうも一人じゃないってことが分かって・・・。
わたしより、弟たちが焦ってるの。父が今更、再婚でもしたらどうしよう、って。財産の取り分が減る、って、それぞれ嫁さんにドヤされてるみたいよ。どうせ、わたしは放棄、ってことになるんだろうから関係無いんだけどね。」
結構ナマナマしい話をさらっ、として、
「で、まあ、わたしはつまり、そう頭に来てないつもりだから、明日、そっちに行こうかな、と思って。神戸に行くのなら、あんたの顔も見たいじゃない。宿泊先も、どうやら、近いみたいだし。」
「泊まるホテルまで教えてるんじゃ、駆け落ち、なんて言わないじゃない。もう、びっくりさせるなあ。」
「あはは、ごめんね。だって、あんたが、いきなり、やっぱり、なんて言うからさ、何か見たのかなあって、勘ぐっちゃうじゃない。それに、父は弟と大喧嘩して、しばらく家には帰らない、って。えらい剣幕だったらしいし。」

わたしは考える。
言うべきかしら。
言わないべきかしら。


エスカレーターの階段には、確かに女のひとがいた。
幾つぐらいだろう、やっぱり銀髪だった。

「ヒロは、お父さんの再婚には、反対なの。」
「ううん。子供も全員結婚したのよ。もう、好きにしたらいいと思う。でも、確かに、弟たちの言うことも、分かるのよ。今更、父やわたしたちのことを引っ掻き回すようなひとは、嫌。どんな女かによるわね。」

昨日は朝から雨だった。
今にも雪に変わりそうな、冷たい雨が、港にも、山にも静かに降り注いでいた。
ヒロのお父さんたちは、傘を持ってはいなかった。黒っぽいコートが、濡れて重そうに見えた。


「別れろ、なんて言わないから、きちんと、実家で話し合いたい、って。そう言いたくて。わたし、その女、知らないし。あんた、見てないよね?。」

「・・・見たよ。」

やっぱり、言おう。

「そのひとね、白い杖を持ってた。」
「それって、もしかして・・・。」
「・・・そうかもね。でもね。」

片方の手には白い杖。
不安定な、動く階段の上で、身体を支えている。
そして、もう一方の手で、ハンカチらしいものを持ち、一心に、連れの男の人・・・ヒロの父親・・・の、濡れたコートを拭いていた。拭っても、拭っても、染み込んだ冬の雨の冷たさは拭いきれないだろうに、その女の人は、ただひたすら、手を動かし続けていたのだった。

「それって・・・。」
「うん。わたしにはね、ヒロ、とても微笑ましく見えたの。愛情深く、見えた。」

少しだけ黙ってから、ありがと、とヒロは言った。
「・・・明日、行くから。着いたら電話する。」
「うん。待ってる。」
「・・・で、ね。もしも良かったら、あ、でもやっぱりあんたに悪いかな。」
「何よ。」
「・・・いや、何でも無い。」
わたしは微笑んだ。
「いいよ、一緒に会うよ、お父さんと、その女の人に。」
また少し黙り、そして、何故だろう、やや涙声の「ありがとう」が、耳元に届いた。

氷雨降る街に笑顔を添へたくて

雪女

2003年1月21日 みじかいお話
「ここで、お願いします。」

そう言って、先に服を脱ぎはじめた。

車の中は、暖かかった。
外は、雪。夕方からずっと降り続いている。
雪国で暮らしていれば、この位の雪でたじろいだりは、しないけれども。


婚約者のいる男だと、最近知った。
訳ありの婚約らしい。男の商売は、彼女を得ることで有利になる。
このひとの、長い人生を食い尽くそうとしているのは、平凡で、何の取り柄も無い女なのだということに、耐えられない、そう思って。

恋に気が付いた。

あたしは、何だって気が付くのが遅い。
本当に欲しいものは、「欲しい」と思った時には、いつでももう手遅れ。

いいえ、もしかしたら、手に入らないと分かるものしか、心から欲しくならないのかもしれない。
不幸せ体質。

男が手を伸ばして、胸を掴む。
冷たい、てのひら。
こんなに冷たいてのひらの持ち主に初めて出会った。
身体をよじったのは、ヒヤッとしたからなのに、男は意味を取り違える。
のしかかる、大きな肉体・・・。

車窓は、ほの白く曇っている。
時々、はたはたはたっ、という音と共に、雪と風が車を包む。

山の中腹にある、真夜中の公園。展望台がある広場に続く小さな坂道。この辺りは確か、桜の並木道だ。目を閉じて、唇を遊ばせながら、満開の桜を瞼の裏に降らせる。

今は、真冬。訪れる人は誰もいない。恐らく朝になっても誰も来ないだろう。
桜みたいに散るのはただ、あたしのこのきもちだけ。
空から一斉に落ちる雪片たちのように、落ちれば消える。

落ちれば、きえる。

男は果ててから、窓の外の白さに驚く。
タイヤを通して押し付けていた新雪は、かなり積もってこの空間を取り囲んでいるだろう。
雪の夜、闇は、雪の白さに負ける。一晩中、暗くならない空は、藍いろから浅葱色へ、静かに変わる。どちらの青にも、白が勝って、それは、おとなしい女の無言の勝利を思わせる。



雪女だましだましの朝ぼらけ



「送るよ。」
男が言った。
「はい。」
うなずきながら、雪がどこかで、この空間を凍らせてしまいますようにと、願いをかける。

そして、その願いがかなうように、ここに来る前にあたしが仕掛けをしたことに、男はまだ気が付かない。

ふいに、エンジン音が途切れ、ふっ、とエアコンが止まり、ヘッドライトが、消えた。

はたはたはた。後にはただ、風の音。
こぽこぽと心地よいリズムで音と湯気があがる。
悠子の好きなアール・グレイの香が、暖かいサンルームにも広がる。サンルームの中で誇らしく咲いている、色とりどりのシクラメンを見つめていたまみ子は、お茶の香で我に帰る。
テイータイムの始まりなのだ。
「皆様、どうぞこちらに。」
悠子の声は、低いけれど、柔らかで、今日身に付けているベルベッドみたいだ。いかにもこういう館の女主人らしい、黒いロングドレス。
「はい、おかあさま。」
まみ子は小さく返事をすると、香水の香と紅茶の香とで、いささか息苦しくなり始めた、リビングに向かう。
サンルームを出るときについた、小さなため息は、誰にも聞かれなかっただろうか。
自分がこういう、悠子に言わせれば「お付き合いの時間」を何よりも苦手としていることを、このお茶会の面々に知られたくは無い。
「まみ子さん、新年、明けましておめでとう。」
真っ先に声をかけて来たのは、何代も前からお付き合いがあるという、近衛家の夫人。
「おめでとうございます。」
「ますますお奇麗になられたのね、今年から、上にお進みになるのでしょう。」
「はい。」
まみ子の通っている私学の女子校は、エスカレート式に大学まで行ける。この次に桜を見れば、高等部に進学である。
「・・・亡くなられたおじいさまも、お母さまも、これで一安心されるわね。」
言葉の中には、後妻としてこの家に入った悠子への、あてこすりとも言える響きが込められていたが、ここにいる夫人たちの誰も、勿論、悠子も、気にしない風を装う。
ただ、まみ子には、どこか、近衛夫人の言い方に共鳴するものがある。

繊細なテイカップを優雅に掲げて、完璧な微笑みを浮かべてお茶の席に連なる悠子を、まみ子は決して嫌っているわけでは無いけれど、どこかでやはり、なじめなかった。
母を幼くして亡くした後、悠子がやって来た時にも、まみ子の世話をしてくれたのは、その前からずっと家で雇われていた「ゆりさん」という女の人だったから、その時点で新しい母に反抗心が芽生えたわけでは無い。
だけど、いつからか、ひとり娘として、悠子はこの家にはふさわしくないと、そんなふうに思いはじめている。
この年頃ならば、誰でもが感じるものなのかもしれないのだが・・・。
いや、まみ子には、本当は分かっている。
義母への反発がいつから芽生えたものなのか。

八年前の、あの、震災からだ。

芦屋の高台にあるこの館だって、被害を全く被らなかったわけでは無い。
祖父が好んでいたという、リビングの窓にはめ込まれたステンドグラスは、一瞬でガラスの山になった。ヨーロッパで直接、父が買い付けて来たという陶器類も、大きな痛手を被った。
けれども、家族には怪我人も出ず、家も、相当古い割には、その後の居住に障りはしなかったのである。
まみ子はまだ幼かったから、眠る場所と、食べるものが、とにかくあれば、その後のことに思いを煩わせることなど、無かった。いや、そうでは無い、二階の寝室から見た、震災の日の町の記憶が、自分の生活の執着など、吹き飛ばしたのである。

町が、燃えていた。


あちこちで煙が上がっていた。



市街地が、燃えている。そのことも、もちろん、怖かった。
だが、もっと怖かったのは、夜。

夕べまでは、海へとなだらかに落ちていく坂に沿って建てられた、数々の家の明かりが、宝石箱のような夜景を形つくっていた。

それが、何もかも、失われている。

ぽっかりと、大きく穴の開いた闇が、山と海との狭い地形に、うつろに出現していた。
それは、うつろであるだけに、余計に何もかもを吸い込みそうに感じさせた。
言い知れぬ悲しみが、その闇に息付いているような気がした。いや、多分、本当に、息付いていたのだ、あの時。
突然、明日へと難なく続く筈の未来を、大きな鋏でぶち切られた人々の、悲しみ。
それが、突如出現した大きな暗闇の穴となって、そこに、あった。
少女のまみ子には、自分がその悲しみの渦に巻き込まれそうな気がした。
そして、町の被害を聞かされる度、その闇から離れて、安心しているちいさな自分のことが、なぜだか悲しかった。

でも、悠子は。

震災が起きた日から一月ばかりして、どこかのラジオ局が、インタビュウを申し込んできた。
なぜ、悠子が撰ばれたのかは、知らない。
「・・・下町の火災の様子は、お宅からも、よくご覧になれたでしょうね。そのとき、どう思われましたか。」
という、質問があった。
悠子は答えた。
「ええ。よく見えました。そしてね、とても、複雑な気持ちになりましたのよ。」
「複雑・・・ですか。」
「ええ。とっても、複雑。」

あれから、八年。
悠子の、複雑、という心根が、まみ子には分からない。これからも、多分、分からないだろう。
自分を生んだ母ならば、どう答えたであろう、とは考える。
このようなときに「下町」という言葉をつかった相手を咎めるだろうか。
いや、恐らくインタビュウ自体、受けなかったに違いない。
「まみ子さん、今日は、ガトウ・ショコラを作らせましたのよ、いかが。」
誰かの声がする。
「はい、いただきます。」
青いドレスの裾を直しながら、まみ子はお菓子のお皿を受け取るために立ち上がる。
自分は、ずっと、この社会で生きていくのだろうか。
そうなのか。

シクラメン淑女の紅の色とりどり


シクラメンの花の蕾は、静かに、おとなしく、うつむいている。

けれども、花開くとそれは、同じ花とは思えないほど、毅然と胸を張り、きりりと自己主張する。

わたしも、いつか。

まみ子は、まだ何も付けていない唇を結ぶ。
あけましておめでとうございます。

今年初めて、パソちゃんを開けました。
で、皆様の日記にお邪魔して参りました。

年末の「めまい」騒動について、あたたかなお見舞いのお言葉、ありがとうございました。
あれから、耳鼻科に行き、簡単な検査をしましたが、原因は未だに分かりません。
外出時には、必ずお薬をケイタイしておりますが、幸い、今のところは大丈夫みたいです。
皆様も、気を付けて・・・。

今年も、いくつかのお話の素を抱えております。
また読みに来て下さいませねっ・・・。


「お約束」の小指の先に雪ひとひら
人並みの渦ぐるぐるとジングル・ベル


この前も、「お話」をお休みしたのに、何なんですが、またフツーの日記です。

だって、初めての体験、だったんだもん。

熟女手前の、初体験。それは、

め・ま・い。

なんて今だからふざけておりますが、めまいの発作というのは、ものすごく辛いものでありました。
それも、いきなり襲われちゃうんだから、もう。
最初、地震かな、と思ったんです。何か身体がふわふわするし、足元が浮いたみたいな感じだし・・・。
でも、そのうち、天井まで回りだして、きゃあ、これは何だ、何なの、とうろたえているうちに、強烈な吐き気までも・・・。

夜だったので、救急外来のお世話になりました。
日頃は何かと文句を付けておりますが、やはり、救急病院がごく近所にあるというのは心強いものです。

でも、担当医は「腎臓内科」がご専門だそうで。

CTまで撮っちゃったけれど、原因はまだ不明。
脳に異常は無いみたいですが。



でも、まあ、何と言うか、病名ははっきりしないけれど、心身が疲労をしてもー限界だったんだろーなーという気はします。
そっちの原因だったら分かりますもん。

めまいの発作が来たのは、娘の所属する合唱団の発表会が終わり、衣装の着替えを手伝っている最中でした。
この「衣装」がクセ者だったのよ。
この日記は、ご近所サマもお読みなので、少々書きつらいものもありますが、読んでおられる方を信頼して書いてしまうと、いやもう、この「衣装競争」が、ホント、嫌、だったのですよ、わたし。

大体、メインは合唱。
子供が練習の成果をいかんなく発揮できること、ただそれだけを願っておればよいものを・・・。

それより何より、こういう場合、多少極論ではありますが、たとえボロをまとっておっても、ステージ上で一番輝いているのは「我が子」、それはもう、すべてそれぞれ自分の子供しか眼中に無いのですから、他人が何をどう着ようと気にしなくて良い筈なのです。

それを、どーして、いちいち何を着せるか、どう着せるか、あなたのところの服のブランドは何か、気になるのだ!

まあ、気になるのは仕方が無いでしょう、わたしだって、「釣り合い」という点ではそれは気にしますよ。でもね、でも、どーして、人より一歩先に出ている、と思いたいのか。
そんなん、どんなに意地になって競い合っても、しょせん「我が子がやっぱり一番だわ」に落ち着くじゃないの。
あんたが「勝った」と思っているその子だって、その子の親にしてみれば、あんたの子よりも「勝って」いるのだ。ああ、なんて不毛な戦いなの。

幼稚園ママでいるのが、嫌、嫌、嫌だあ!、と思うのは、こういう全く意味の無い戦いに巻き込まれるときです。

だけど、何よりも腹が立つのは、

あたしはあたしよ。

と、開き直れない自分。
こと娘のこととなると、やはり、よその子に低く見られないだけのことをしてやりたくなる。また、女も、四、五才ともなると、口が減らないやつは、ほんと、減らないからね。
今まで「口喧嘩では負けたことが無い」わたしではあるが、まさか幼女をやりこめるわけにもいかない。
更に、うちの娘は、トロい、上に言葉が出ない子で、一方的に言われまくる。それも、イライラの原因。

そんなこんなで、わたしのところへめまいの嵐が飛んできたのでありましょう。
「お話」の材料、いくつもあるのに、今日は完全「毒吐き」になってしまいました。
ごめんなさい。
ルミナリエのお話、クリスマスのお話、このまま「お蔵入り」となるかもしれませんが、ごめんなさい。

皆様も、慌ただしい年の瀬、いらいらすることも多々ありますでしょうが、なんとか、リラックスして・・・めまいくらい何だ、と思われるかもしれませんが、実に苦しいものですから・・・。
お気を付けて。
この頃、なぜか、どうしても気になることがある。

犬をお散歩させている、奥様。
愛犬に、小奇麗な服を纏わせておられる。
で、自分も、毛皮のコートをお召になっていらっしゃる。

奥様が、犬ちゃんに服をお着せになるのは、犬ちゃんが「寒い」と思うから、ですね。

奥様が毛皮をお召になるのは、ご自分が「寒い」と思われたから、ですね。

つまり、毛皮を着れば、「暖かい」と。

じゃあ、生まれつき、毛皮を身につけている犬ちゃんは、「暖かい」のでは無いでしょうか。
犬ちゃんの気持ちになって考えての行動としては、ちょっと矛盾しているような、気がするのですが・・・。

「毛皮を着れば、自分は暖かい。じゃあ、犬にわざわざ服を着せることは無い。」

と、考えるのが、話の流れという気がいたしますが・・・。


犬に服着せて毛皮を纏ひたる



この際、もうひとつ気になること。

先日、何気なく点いていたテレビで「芸能ニュース」をやっていた。
モデルのSさんというコが、確か「いい女の条件」か何かそういうテーマでトークショーを行った、という話題。
このSさん、というコは、滅多にファッション雑誌を見ないわたしでも、その名を知っているような、有名モデルである。
彼女が、「いい女になるために自分が心がけていること」について、話をしていたのだが、その一言が、

「がまんをしない」

で、あった。ふむ、それは分からんでもない。

ひっかかったのは、その次に、

「にんげんかんけいに、気をつける」

と、続いたからである。

わたしの中では、人間関係に気をつける、というのと、 我慢をしない、というのは、思い切り矛盾する。

人間関係に気をつければ、必ず我慢を強いられる。
何事にも我慢をせずにいれば、必ず人間関係がどこか破綻を来たし始める。


もしかしたら、彼女の真意は全く違うところにあるのかもしれない、なにせ聴いたのは「芸能ニュース」である。でも、なんか、釈然としない。
自分の中にも、矛盾したものはたくさんあって、それで毎日、けっこうぐだぐだ考えるのだけれど、この二つの矛盾は、どうしても気になるので、文章にしてみた次第。

鰤起こし

2002年12月17日 みじかいお話
うす暗くなり始めた頃から、急速に天候は悪化してきた。
どうど、どうど、と北風が吹く。空の色が灰色に染まる。午後四時を回ったばかりだというのに、もう街灯が灯り、それが全く不自然では無い。
部屋のカーテンを閉めようと、窓際に立ったとき、男の車が入って来るのが見えた。わざとにマンションの駐車場には入れないで、路上に駐車する。そういうところ、本当に抜かりが無い、と思う。憎らしいくらい。
「タイヤ、換えたんだ。だから、少し遅くなった。」
部屋に着くなり、そう言って、静かにコートを脱ぐ。車からこの部屋までのわずかな距離を歩いただけなのに、長いコートからは、ひんやりと冷気がこぼれ落ちる。
タイヤなんか、換えなくてもよかったのに。
口には出さずにそう思う。
今夜辺りから、雪になるだろう。普通タイヤでは走れなくなるだろう。
だから、男は、雪道でも走れるように、スタッドレスタイヤに履き替えた、と言う。
わたしは、雪で車が走れなくなった方が、いい。
あなたを、「奥様」の元には帰したくないから。

でも、わたしは何も言わずに、黙って寄せ鍋の用意をする。
今夜は彼が泊まれる夜。
何も、あんな女のことを言い出して、楽しみを台無しにすることは、無い。

夜が更けて行く。
テレビの音が、流れている。
男は、仕事の話をしている。
でも、巧妙にリモコンを操作して、バラエテイ番組をハシゴする。ホームドラマを避け、不倫を扱かった恋愛ドラマを避け。
そういうところ、実に、抜かりが無い。

そして、テレビが消え、鍋の火が消え、ベッドの明かりも消えた時間・・・。
どんなにあたしの身体で夢中に遊んでも最期は、抜かりが無い。あたしの中に、自分の残骸を残すことは、無い。そして、その「残骸」を、自分で始末することも、忘れない。
男が、トイレに消えると、あたしはいつでも、少し、呆ける。
あの、最高潮の時間では無く、男が果ててから、呆けられるのでなければ、妻子持ちは、愛せない。

そして、ぼんやりしたまま、眠れるのでなければ。

せめて、汗くらいはとどめておきたいから、あのあとで、シャワーは浴びない。あたしは、男が朝、去って行っても、しばらく男の残り香で遊ぶ。時々、そのままで一日過ごすことも、ある。「奥様」と一緒に働く職場で、そのまま一緒にランチをすることも、ある。

男は、そんなこと、夢にも思わないだろう。
万事、抜かり無く過ごしていても、女の心までは、管理できない。あたしを愛人向きの女だと言った男は、誰だったっけ・・・。

いや、深く考えるのはいけない。
眠るのだ、夢に落ちよう。


やがてどこかで、遠く雷の音がして、わたしは、唸るように目覚めた。
夜明け前である。
低い、遠雷を感じる。
ここから数十キロ離れた海の、逆巻く波を、あたしは感じる。
どこか野犬の唸り声に似た、不吉で、だけど、ドラマテイックな、低い音。それが、次第に高くなると。
やがて、光がやって来る。
部屋に、一筋、一瞬の閃光。
一瞬の後、今度は大きく、部屋を揺るがすどおん、という音。
冬の嵐。
男が、ううん、と言って、寝返りを打つ。無意識なのか、計算して、なのか、あたしをぐうっと引き寄せる。


鰤起こし暴れたる夜の腕枕



この雷が去って行く頃、ここは、一面、雪になるだろう。
男と、雷と、どちらが先にここを去るのだろう。

雪と、哀しみと、どちらが先にここに訪れるのだろう。

マフラー

2002年12月13日 みじかいお話
マンションの敷地のちょうど中央に、公園がある。
公園、と書いたが、よく考えれば、滑り台やぶらんこ、といった子供の遊具は何も無い。
あるのは、バスケットコート一面と、花壇と、ベンチ。
あと、アナログ面が電光表示の大きな時計。
だから、まあ、広場、なのかな。
ともかく、わたしが住むマンションは、いくつかの棟が、この広場を囲い込むようにして建てられている。どの棟の窓にも、朝日がふり注ぎ、冬日の暖かさをベランダで感じることができるのは、このだだっ広い場所があるおかげである。
さて、昼下がりのことである。
晴れてはいるものの、冬のこと、日の光の勢いは弱く、ベランダに届く日差しも弱々しい 。部屋が東向きなので余計に日光が翳るのが早く感じられるのだろうが、さっき干したばかりというのに、もう蔭に入ってしまった洗濯物が哀しい。ため息をつきながら、室内に取り込む。
物干し竿から、夫のYシャツを外そうとしたときだった。
広場を何気なく見下ろすと、ベンチの一つに、高校生らしきカップルが座っているのが目に入った。
マンションの隣りには、高校がある。そこの生徒かもしれないが、十階のベランダからではよく分からない。
かつて、こんな風に、何となく見ていたら、いきなり(という風に感じた)キスをした「子供たち」がいて、びっくり、というか 、妙な表現だが、恐れおののいたことがあった。
なるほど、自分たちの半径数メートルには、人気は無い、が、ふと顔を上げれば、そこには自分たちを見下ろす無数の窓があるのだ。
そんな場所でキスを交わすなんて。しかも制服で。
でも、帰宅した夫に言ったら、一笑に付された。
「そんなん、今日日、電車の中でも平気でキスしよるで。」
だって。
さて、今日のふたりは、ベンチに仲良く座って、何事か楽しそうに話している。
細かい表情までは見えないが、女の子の大きな手振りや、男の子の身体を揺すって笑っている様子が分かる。
思わず微笑んでしまったのが、ふたりの首に巻かれているマフラーである。
今年のマフラーは、長い。体格のいい若い子たちが、ぐるぐる首に巻き付けて、なおかつ垂らしても腰くらいまであるのを、いっぺんどの位の長さなのか知りたいものだと思っていた。
その長い長いマフラーを、ベンチに並んで腰掛けているふたりの子は、一本をふたりで分け合うようにして巻いているのである。
一体どちらの物なのか、もしかしたら、彼女の手編みなのかもしれない。黄色と濃紺の、見様によっては「阪神タイガース!」という印象の縞模様が、仲良く、ふたりの首に巻き付けてある。
マフラーが長いからできるんやねえ。
別に感心することでも無いのだが、なんだか妙に感動して、しばらくふたりを観察してしまった。

が。
すっかり、洗濯物も取り込み終わり、何と夕食の仕度をし終わっても、ふたりはまだベンチに座っているのである。
「あんたら、カゼひくで。」
思わず声が出る。勿論、聞こえる筈は無いのだが。
もうすっかり日が落ちた。
電光の時計は、そろそろ六時だ。
ベランダは一層冷えてきて、何かもう一枚羽織っていないと、歯が鳴ってしまいそうだ。
いい加減、今日は帰るか、場所を変えるかしたらええのに・・・。
と、思ったとたん、ふいにふたりが立ち上がった。

あ。
そうか。
そういうこと。

そして、わたしは、今度は微笑んでしまった。

女の子がまず立って、マフラーをほどいた。
男の子は大げさに肩をすくめて、寒そうにしながら、ゆっくりと立って・・・。
ふたりの身長差、ここからみても、30センチ以上はある。
あれだけ身長が違うと、ふたりでひとつのマフラーを分け合って歩くのは、無理というものだ。



マフラーを分けあふている南向き


少しでも長くくっついているのには、ああして座っているしかなかったのだろう。
そう言えば、自分にも覚えが無いわけでは無い。
マフラーを半分こにしたのでは無いが、アイアイ傘ができなかった。

夫とわたしは、28センチの身長差がある。

初雪

2002年12月10日 みじかいお話
そのメールが届いたのは、彼の部屋から戻る途中だった。
正確には、バスを降りる途中、タラップの最後の段を下りたときに、着信音が鳴った。

最初の、朝。

さっきまで、同じベッドにいた、最愛のひとからの、メール。

「夕べはどうもありがとう。
とても嬉しかった。またすぐに会えるね。」

理系の男らしく、何ってことの無い文章。
それでも、嬉しい。
実験があるから、今頃は向こうだって移動中の筈だけど・・・。
返事は何て書こう。

実は、まだ少し痛い。初めてのときは、そんなものなのだろうけれど。近松の「五人女」に、そういうことが書いてある個所がある。この前のゼミ中に聞いたときには、ある予感でどきん、としながらも、首を傾げていたものだけど。今なら分かるゾ。
ヒリヒリ。

でも、嬉しい。
最初のときを、こういうかたちで、迎えられたことが嬉しい。
彼で、よかった。

顔が笑ってしまう。
もしかしたら、わたしって、スゴクえっちだったりして・・・。

ケイタイを握ったまま、返事を考える。
なんて書こう。
緊張する。
ドキドキ。

キャンパスの近く、見慣れた商店街。さすがにスキップこそしないものの、ときめきを隠し切れずに、多分、真っ赤な顔をして、立ち止まり、液晶を覗いて、
「ありがと、
とまで打ち込んだとき。

ふいに、ふわっ、と何かが舞い降りてきた。

雪だ。

初雪と後朝メール手のひらに


今、はじめて、しあわせ、って何か分かったよ。おおげさじゃなくて。

ありがとう、の後にそう打ち込みながら、このメールが彼に届くまで、この雪が止まないことを祈った。

寒林

2002年11月26日 みじかいお話
最近、家に帰って机の上に封筒が乗っかっていると、一瞬、退くようになった。
ペンフレンドとも、メールのやり取りをするようになった昨今、封筒がやって来るのは、大抵、あれに決まっている。
あれ。
結婚披露宴の、招待状、ってやつですね。

二十五を回った頃から、自分がどうやら「晩婚組」らしいぞということを感じはじめた。
でも、こうして三十になってしまうと、いちいち「早婚組」「晩婚組」などと、組分けするのもあほらしくなる。
両親も顔さえ見れば、結婚しろ、と騒ぐから、三度の飯さえまずくなるわい!という感じだったのが、最近はやたらおとなしくなった。
こうした封筒も、電気スタンドとプリンターの間に、隠すようにして置いてあるのは、母親の気使い、というものかもしれない。

でも、まあ、招待されるのは嬉しい。
高校時代の同級生で、そんなに親しい子でも無いけれど・・・多分、仲良し組が出産ラッシュだから、ほいほい出て来られそうなのは、わたし位なのだのだろう。

ええ、行かせていただきますよ。喜んで。
わたしだって、そのうちナントカなるに違いないのだ。
たくさんはいらない。
たったひとり、でよいのだから。
しかも、わたしは決してモテない訳ではない。
合コンでは、必ず誰かが「送っていくよ」と言ってくれる・・・いや、くれた、し。
会社の同僚およびお客さんからも「付き合って」だの「息子の嫁に」だの、言われる、いや、言われた。第一、彼氏はいる。
なのに、どうして決まらないのか。

多分、タイミングのせいだと思う。


彼の腕はわたしの肩に回されていた。
指先に力がこもるのを感じた、そして、ひとつ、優しいキスをもらった。
淡い雪を思わせる、プラトニック90パーセントの、キス。
そして、おそらくあのとき、何事も無ければ、絶対に「結婚しよう」という言葉も、もらえた筈なのだ!・・・と思う。
ついこの前のデート。


冬の海が目前に広がっていた。
曇り空だったけれど、うっすら日の恵みを雲の間に感じさせる午後のひととき。
わたしたちは、車の中。
ラブソングばかり集めた、洋楽のオムニバスアルバムが、フェイドアウトしたばかりの時間だった。
人影も無かった、まさに、「プロポーズ日和」。
なのに。
なのに、そのとき通りがかった一台の車のせうで、すべてが台無しになった。

いーしやーきーいもー、おいも!

・・・朗々たる声音であった。

そう、ここぞ!、という場面をなぜかものにできないたちなのである。
はじめてキスされそうになった少女時代の放課後も、みつめあった瞬間に吹奏楽部室方面から流れてきた「ぼくわらっちゃいます」で、パーになった。
はじめて最後までいっちゃいそうになったデートでは、ハンドル操作を誤って田んぼに落ちた。
そしてはじめてのプロポーズかもしれない時を、焼き芋屋にジャマされた。

寒林を駆けてジプシーヴァイオリン


いつかはきっと安住できる、と明るく信じてはいるのだけれど。
ここぞ、という瞬間を逃しては、さまよい続ける女なのである。

木枯らし

2002年11月23日 みじかいお話
はっ、として目覚めた。
枕元の時計は、午前三時。
どこかで、風の音がする。

何かの気配がして、急き立てられるような感覚に襲われたのは、そうか、窓の外で吹き荒れる風のせいだったんだ。

間違っても、電話が鳴ったせいではない。

彼とは、唐突に終わった。

先先週、駅のホームに立っていた彼の人差し指は、列車内にいるわたしの目の前の窓に、
大きくハートを描き、口元には「あいしてるよ」の言葉が大きく浮かんでいた。
でも、それが、最後になってしまった。

まったく通じなくなってしまったメール、電話。
やっと聴いた彼の声は、戸惑いながら、
「どうか、なってしまった。」
と、震えていた。
「ずっと、君のことしか見ていなかったのに。
気になるひとが、できてしまった。」

わたしは、早々に電話を切って、そのまま駅に向かうべきだったのだろうか。
あるいは、いつかそうしたように、自分の小さな車に乗り込んで、百キロの道を飛ばすべきだったのだろうか。

風の音は続いている。
季節外れの台風が近付いていると、そう言えば夕方のニュースが告げていたっけ。

枯れ葉たちが狂ったように木からもぎとられて吹き飛ばされていくのが、目に浮かぶ。
夜の中で。

率直に言ってしまうと、彼とのセックスは余りよくなかった。
別に、へた、とかそういうんじゃない。
自分本位では無かった、いつでも優しくて暖かだった。ただ黙って抱きしめられているのなら、それでもよかったのだけれど。
もうこれは、わたしのわがままだ。
一人の男にそう何もかも望んではいけない。
あるいは、相性のようなもの、かもしれない。
何度も別れたのは、根底にそれがあったからなのだ。認めたくないけれど。
そして、いつも、彼の方から、やり直そう、と言ってきた。そういうことが、ここ数年続き、そして、ついにこの前、プロポーズされた。
彼が挨拶に持ってきた、日持ちのいいおせんべいは、今でも家の居間の押し入れにある。

でも、もういいのだ。
ここらで、いいのだ。

気になるひとができた、と聞いた時に、
ほっとしてしまったのだから。

木枯らしに弄ばれて夜更けかな



胸の中にも、風は吹いている。
愛情もさほど感じずにいて、それでも悲しみに似た想いに囚われて眠れそうに無い。
明日、朝日の中で、たくさんの枯れ木を目にすることになるだろう。
冬を前にして、何も持たずにいることになったわたし。
葉を失った木々を見て、慰められるのだろうか。

わたし、そんなわたしは嫌いなんだけれど。

菊薫る

2002年11月19日 みじかいお話
菊人形展は、毎年10月の初めから、一ヶ月の間開かれる。
もう30年、いや、40年近く続いている催しである。小さな頃は、遠足みたいに、学校単位で観に行った。
その年のNHK大河ドラマをテーマにして、毎年違った人形が作られる訳だけれども、物語の流れに沿うようにして場面ごとに人形が飾られている「見流館」と呼ばれる建物のつくりも、遊園地よろしくあちこちに展開している観覧車や、メリーゴーランドも、本当に、驚くほど毎年ほとんど変わらない。
「見流館」は、雰囲気つくりのためだろう、中を暗くし、場面に合った音楽や効果音を流し、照明で人形を照らす仕掛けである。
幼い頃は、お化け屋敷みたいで、とても怖かった。家族と来て大泣きしたのは勿論、わたしだけが中に入らず出口で待っていたことさえある。
そのわたしも、大泣きする子供を抱いて、ここを訪れる年齢になった。
結婚して町を離れ、久しぶりの「菊人形展」である。もの珍しくは無いものの、懐かしくもあり、レーザー光線や、CGなど、目新しい演出が興味深くもあり、子供に手をかけられながらも、楽しい時間が流れていた。

そのときまでは。

「見流館」を出たときに、ふと、見覚えのある中年、いやもう老人といった年頃の女が目に入った。
忘れもしない。
弘樹の母親である。
弘樹とは婚約直前に別れた。母親が、どうしても、わたしを気に入らなかったからである。
いや、もう少しふんばれば結婚式には漕ぎ着けられたかもしれない。
だが結婚してその後、姑とトラブルが起きたとき、この弘樹という人は嫁であるわたしの味方をしてくれるだろうか。
そう考えたとき、答えはノーだった。
だから、別れた。
美術館巡りをしたり、毎週スキーに行ったり。
ふたりの濃密でたいせつなひとときも、結婚するという段になって、母親が登場してきた時点で、何やら薄汚れた思い出になってしまった。
その母親が、目の前にいる。

しかも、家族で来ているらしい。

一瞬、弘樹の姿を探してしまった。
会いたいからでは無い。むしろ、逃げるために。
相手にみつかる前に、こちらが消えたい。
普段着に近い服を思い、そろそろカットしなければならない髪に手をやった。
彼の姿は、無い。

その代わりだった。
くたびれかけた母親に、ふたりの幼児がまとわりつく。
そして、
「おばあちゃんの手をとつなぎなさいよ。」
という若い女の声。

「いやだよー!。」
とわざとに汚い大声で返事を返した五才くらいの男の子。
弘樹そっくりだ。

わたしの両手にも、しっかり抱えられて、小さな娘がいる。
パパそっくりね、と人に言われる。

弘樹にも家庭があるのだ。

人形の見やる虚空に菊薫る

別々の時間を紡ぎながら、人は生きて行き、いつかは死ぬ。
菊もまた、毎年同じようでありながら、一つとして同じ花は、無い。
暮れやすし空の丸みをいとおしむ

秋の夕暮れ。
わたしは、西の空を見ている。
どこか柿の色を思わせる空は、うっすらと雲を一面にたたえて、海に広がる。
水平線の向こうまで、やわらかく続く柿色の空は、球体。やっぱり地球って丸いんだな、などと思う。

男と女も、生まれる前、ひとつの球体だった、というのはどこで聴いた話だったか。

神様の決められた一つの球体は、半分にされて、この世に送り込まれる。
だから、男は、女を。
女は、男を。
自分のなくした半分を探して、恋をする。

ベターハーフ。

やがて、ぴたりと見事に自分の半分を探し当てたふたりは結ばれ、しあわせになるのだという。

自分にとっての「なくした半分」を探し続けていた頃、恋をするたびに、この人こそ、と思い、そして、いろんな理由で恋が消え、また違った、わたしの半分はどこなの!と、必死で探し・・・。

・・・結婚した。

ベターハーフ、が、ベター、であって、どうして、
ベストハーフ、
とは言われないのだろうか?と不思議に思ったのは、結婚してからである。

完全なる球体、ならば、ベスト、では無いのか?
ベター、というのは、わたしの思い違いなのか?

・・・いや、正解は、やはり、ベター、なのだ。

どうして、結婚する相手が「最愛」だと思うのだろう?。
最も恋した、ということと、ひとつになる、ということは、必ずしも、ぴたりと結びつかない。
ベター、くらいがちょうどいいのだ、生活していくのには。
ベスト、ではいけない。
生活というのは、ふたりだけで成り立つものではない。
ふたりが核であっても、そこに、周囲の色々な人たちの入れるゆとりが無ければならない。
ベスト、では無く、ベター、だからこそ、そこに幅が生まれて他人を受け入れる・・・子供たちだって二人以外の他人であることは違いない・・・ことができるのだから。

秋の夕暮れ。
あっと言う間に夕闇に支配され、海は、ひたひたと黒くなる。
思い出されるのは、背中ばかり。
たぶん、ベストハーフ、はどこかにあったのだ。

でも、それで、しあわせになれたかどうかは、わからない。

冬日

2002年11月12日 みじかいお話
湖に着いたのは、正午頃だった。
どこからか、サイレンの音が聞こえてきた。
正午を告げる音。

目の前に広がる水面が、一斉にさざなみ立っているのを、しばらく黙ってみつめている。

先にバイクを停めたのは、あたしだった。

エンジンの音が止み、メットを外す気配がして、足音が近付く。
彼の足音。
あたしの後ろでピタリと止んで、そして、ポケットから煙草を出す、くしゃくしゃっ、とした動作を感じる。見なくても、分かる。

ジッポの匂いがする。
こんな冬のひなたに似合う、懐かしくて穏やかな匂い。皮ジャンのどこにライターが入っているのかまで、知っている、あたしの男が真後ろに立っている。

でも、 もうすぐ、さよならを言われるのだ。

心が、軋む。

電話を通じなくされ、メールは送り返され、そしてついに、他の女と呑み屋にいた、という噂が耳に入った。
あたしにとって重要なことは、この男を失うということでは無い。
かわいそうね、と言われることが何よりも嫌いなあたしには、「棄てられた女」という評判が立つことが耐えられない。
できれば、「他の女と呑み屋にいた」時点で、あたしとはもう、何の関わりも無い男、ということにしておきたかった。
事実、気の毒そうに、そして、こっちの反応を窺い見る目に、一抹の期待感を隠せずにいる同僚には、こう言い放った。

もう、終わったのよ。知らなかった?。

だから、今日、ここにこうして呼び出したのは・・・そう、儀式のようなもの。

初めてこの湖に来たとき、あたしは、リョウという男のバイクに乗って来た。
リョウは幼なじみの男とのツーリングに、恋人のあたしを伴ったのだ。
リョウの幼なじみとあたしは、一瞬で恋に落ちた。
その日の夕暮れに、もう、リョウの目を盗んでキスをした。
帰り道では、タンデムシートが、彼のものであればどんなにいいかと気が狂いそうだった。


リョウは、あたしにバイクの免許を取らせなかった。
俺がお前を守るからいいだろ。
というのが理由だった。
もしも、あのときここに来なければ、あたしは今でも守ってもらえたのだろうか。
もう。分からない。あたしはリョウの胸から逃げ出して、今ここにいる男を愛した。
そして、リョウは、先月、誰かと結婚した。

空の色は青い。
でも、どうしてだろう、色が薄い。青を塗ってから、白く和紙をかぶせたみたいに、見える。
そして、はるか彼方の山並みをめがけて、一群れの鳥が飛んで行く。直線に飛んでいるように見えて実は旋回している。何かしら合図でもあるのだろうか、三角形に似たフォーメーションを崩さずに、大 きく、大きく。右に、左に。
あの鳥たちには、この湖は、どんなふうに見えるのだろう。



湖面には冬日のビーズ一面に


冬日が煌き、波頭に泊まって遊んでいる。

目を細めると、もっと輝く日の光たち。

涙が浮かべば、もっともっとキラキラして見えるのだろうけれど。
あたしは、泣かない。

振り向いて、男をみつめる。
さよなら、はあたしから、言うのだ。

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