・・・・泊まってしまった。
わたしは一人暮らしだからまあいいとして、この人はこれから大丈夫だろうか。
「あの・・・大丈夫ですか?。」
「何が?。」
「昨日、出張帰りだって言ってたでしょう。なのに、いきなり、と、と。」
妙に恥ずかしくて言いにくい。「と、泊まっちゃったりして。」
「ああ。大丈夫です。昨日も言ったでしょ。出張先でトラブルがあったってことになってるから。
僕は九州担当だからそういうこと、実際によくあるんです。」
「そう。なら、いいけれど。」
土曜日の朝。ラブホテルの一室。ピタリと閉じられた窓からは光は全く入って来ないけれど、 男がつけたテレビのニュースは、今日も酷暑だと告げている。
「あの。帰ります。」
わたしは立ち上がる。
「はあ、僕も出ますよ。」
男は少し慌てた様子で受話器を取るとフロントを呼び出す。
外に出ると、一斉に蝉が鳴いている。
二人は駅までの道を一緒に歩く。
昨日、わたしは何でこの人に誘われてここまで付き合ったのだろう?。
TOMOが悪いんだわ。
あの人が、いつまでも元カノのことを引きずってたりするから。
だから二人はケンカになって、約束していた映画に行けなくなって、わたしは一人でスタバに行って、そこでこの人と、会ったのだ。
会ってお茶して、それで終わらなかったのは、この人がとても嬉しいことを言ってくれたからだった。
「手練手管を尽くした女が退いてやったんですよ。年下の男に棄てられた、なんてあなたのような美人が言うセリフじゃない。」
だったかな。
自分に自身がなくなりつつあったわたしにとって、そういうセリフは何よりも欲しいものだったから・・・つい、映画にも一緒に行っちゃったし、ホテルのバーにも行っちゃったし、ついでに終電が無くなったのをいいことに、駅の近くのラブホにも行っちゃった・・・ベッドではイケなかったんだけれど。
女ってこういうときすごく哀しいな、って思う。
基本的にこの人は、いわゆる「ヘタ」では無いと思うんだけれど・・・いろいろ尽くしてくれたし、乱暴でも無かったし。でも、感じなかった。
男はイッたあとで、よかった、って言った。
それは、よかった?では無くて、よかったよ、だったんだとは思うけれど、わたしは返事ができなかった。心の中でずっと、TOMOの名前、呼んでたし。結婚しているという男にはテクがあり、落ち着きがあったけれど、でも、かなわない。
TOMOの、不器用な、キス。
自分勝手な動き。
その瞬間には絶対に自分のことしか考えていない、力任せの腰つかい。
そういうものに、かなわない。
わたしは、やっぱりTOMOが好き。
六つも年下の、わがまま男のことが。
「じゃ、ここで。さよなら。」
「はい、さようなら。・・・楽しかったよ。」
男は何か言いかけて止める。連絡先を聞こうとしたのかも。そしてわたしに、その気は無いのだ。
蝉時雨止めば無口になるふたり
その辺りじゅうに響き渡っていた蝉の声が、なぜかピタリと止んだ。
さよなら、以外何もかける言葉が無いということが、なぜだか罪深く感じて、わたしは曖昧に微笑んでから、暑さのせいで白っぽく見える改札に向かった。
わたしは一人暮らしだからまあいいとして、この人はこれから大丈夫だろうか。
「あの・・・大丈夫ですか?。」
「何が?。」
「昨日、出張帰りだって言ってたでしょう。なのに、いきなり、と、と。」
妙に恥ずかしくて言いにくい。「と、泊まっちゃったりして。」
「ああ。大丈夫です。昨日も言ったでしょ。出張先でトラブルがあったってことになってるから。
僕は九州担当だからそういうこと、実際によくあるんです。」
「そう。なら、いいけれど。」
土曜日の朝。ラブホテルの一室。ピタリと閉じられた窓からは光は全く入って来ないけれど、 男がつけたテレビのニュースは、今日も酷暑だと告げている。
「あの。帰ります。」
わたしは立ち上がる。
「はあ、僕も出ますよ。」
男は少し慌てた様子で受話器を取るとフロントを呼び出す。
外に出ると、一斉に蝉が鳴いている。
二人は駅までの道を一緒に歩く。
昨日、わたしは何でこの人に誘われてここまで付き合ったのだろう?。
TOMOが悪いんだわ。
あの人が、いつまでも元カノのことを引きずってたりするから。
だから二人はケンカになって、約束していた映画に行けなくなって、わたしは一人でスタバに行って、そこでこの人と、会ったのだ。
会ってお茶して、それで終わらなかったのは、この人がとても嬉しいことを言ってくれたからだった。
「手練手管を尽くした女が退いてやったんですよ。年下の男に棄てられた、なんてあなたのような美人が言うセリフじゃない。」
だったかな。
自分に自身がなくなりつつあったわたしにとって、そういうセリフは何よりも欲しいものだったから・・・つい、映画にも一緒に行っちゃったし、ホテルのバーにも行っちゃったし、ついでに終電が無くなったのをいいことに、駅の近くのラブホにも行っちゃった・・・ベッドではイケなかったんだけれど。
女ってこういうときすごく哀しいな、って思う。
基本的にこの人は、いわゆる「ヘタ」では無いと思うんだけれど・・・いろいろ尽くしてくれたし、乱暴でも無かったし。でも、感じなかった。
男はイッたあとで、よかった、って言った。
それは、よかった?では無くて、よかったよ、だったんだとは思うけれど、わたしは返事ができなかった。心の中でずっと、TOMOの名前、呼んでたし。結婚しているという男にはテクがあり、落ち着きがあったけれど、でも、かなわない。
TOMOの、不器用な、キス。
自分勝手な動き。
その瞬間には絶対に自分のことしか考えていない、力任せの腰つかい。
そういうものに、かなわない。
わたしは、やっぱりTOMOが好き。
六つも年下の、わがまま男のことが。
「じゃ、ここで。さよなら。」
「はい、さようなら。・・・楽しかったよ。」
男は何か言いかけて止める。連絡先を聞こうとしたのかも。そしてわたしに、その気は無いのだ。
蝉時雨止めば無口になるふたり
その辺りじゅうに響き渡っていた蝉の声が、なぜかピタリと止んだ。
さよなら、以外何もかける言葉が無いということが、なぜだか罪深く感じて、わたしは曖昧に微笑んでから、暑さのせいで白っぽく見える改札に向かった。
カボテイーヌ(香水)
2002年8月2日 みじかいお話カフエの風ふとかき回すカボテイーヌ
コーヒーを受け取って店外に出たものの、あいにく席は埋まっていた。
やはりテイクアウト用にし直してもらおうか、トレイ片手に茫然としていると、
「ここ、もうすぐ空きますから・・・。」
控えめな声がした。
「あ、そうですか。ありがとう。」
声のした方にお礼を言いながら身体を向け直すと、OL風の女が一人で座っているのが目に入った。でも、冷たい飲み物用のカップの中には、まだかなりの量の飲み物が残っている。
「いいんですか。」
「ええ。・・・わたしは、相席でも構わないんですけれど。」
二十代後半から三十代といったところか。うす緑色の麻のスーツを着こなし、栗色の髪を後ろでひとつにまとめている。傍らにはベージュのアタッシュケース。
「会社帰りですか。」
「ええ。あなたも。」
「はい、そうです。」
向かい合わせに座りながら、真一は少しときめいていた。仕事以外で若い女と話をすることなど、考えてみれば随分と久しぶりである。
しかも、なかなかの美女だ・・・。
「・・・これから帰るところなんですか?。」
シロップを入れないアイスコーヒーを一口味わってから、目の前の女をもう一度さりげなく観察してみる。真一には横顔をむけ、広場の方に目をやっている。近眼なのか、やや細めた目は切れ長で格別大きさを強調した化粧が施されている風でも無いのに、印象深い力をたたえている。
「・・・わたしですか?はい。あ、いいえ、今日は早めに会社を出て、これから映画を見ようと思っていたんですけれど。」
女の顔が少し翳った。
「約束していた人が来られなくなっちゃって。」
「じゃあ、おひとりで。」
「そうですね、チケット、もったいないし。」
もう少し若ければ、そう、たとえば、あと十才若ければ、誘いをかけてみるのだがなあ、と思う。四十二にしてはスリムで髪の毛も豊富にあると思ってはいても、やはりここまで若い美女に誘いをかけるのには勇気がいる。
隣りのテーブルでガタガタと椅子を動かす音がして、ベビーカーを押した集団が出て行く。子供たちの泣き声、笑い声、母親たちのおしゃべりがいっぺんに遠のく。
見回すと、かなりの親子連れがいる。夕方になり、これから帰途に着くのだろう。夏休み中である。
「ここには、よく?。」
今度は逆に真一が聞かれる。
「いや、ほとんど。・・・近所に住んでるんですけど、いや、だから、かな。テイクアウトで持って帰ることがほとんどです。今日は出張帰りで早いから、一杯飲んで帰ろうかな、と。」
「一杯?コーヒーを?。」
「ははは、そうです。アルコールは家でゆっくりやりますよ。」
「そう、ですよね。」
なぜか女の顔が少し曇り、真一は慌てる。
「そう、ですよね。みんな普通は家庭があるんだわ。」
もしかしたら、悪いことを言ってしまったのだろうか。
「いや、家っていっても、決して居心地がいいというわけでもないんですけど・・・。息子もえらい大きいなってしもうたし・・・。」
うろたえて関西弁になった。神戸というのは他の関西の地域に比べてあまり抑揚の強い関西弁を話さない。だから、標準語と関西弁とがひとつの会話の中でちゃんと同居しているのだ。
「あ、ごめんなさい、わたし、どうかしてるんやわ。初対面の人にいらんこと言うて。
実は、映画に行く筈だったのは、付き合ってる人、だったんですけど。」
「・・・はあ。」
「夕べ、メールでケンカしてしまって。もうそれきり電話にも出えへんのです。」
メールを使用してのケンカ、というのが真一にはよく分からない。
「それで、もうなんていうか、別れてしもてもいいわ、みたいな気持ちになってて。」
うつむき加減になり、緑色のストローを細い指で弄びながら女は語った。
相手の男は六才年下で、町で出会ったのだという。
三ヶ月ばかり付き合い、それなりに楽しい時間を過ごしてきたけれど、どうしても六つの年令差を忘れることができない。しかも、女のかげがちらつくように思われて、さりげなく聞いてみたところ、やはり元の彼女が忘れられないような気がする、という答えだったのだという。
「そやからわたしね、年下の男に捨てられた、みたいなことになってるの。」
寂しげな顔だった。
男なら、こういうとき、やはり口説くことを考えてしまうものだ・・・真一は勇気を出すことにした。
「・・・何言うてるんや。あんな、そういうふうに思うたらあかんねん。
手練手管に長けた女が退いてやったんや、くらいに強気になろうや。そんなにきれいなんやし。」
「きれい?わたしが。」
「そうや。・・・もし良かったら、ぼくがその映画、ご一緒しましょうか。」
口に出してから、何の映画なのか気になったが、まあどうでもいい。
「まあ。」
「あなたみたいな人と行けるのなら本望やし。」
女の、大きく見開かれた目が、真一を捉えた。
「よろしいんですか。」
「はい、もちろん。」
こういう展開になるとは思ってもみなかった。
カップを片付け、
「さあ。」
女をうながしたとき、ふと香って来た香水。
カボテイーヌ。
なぜその名前を知っているかというと、かつて妻が愛用していたからである。まだ二人してベッドに倒れ込むのが日課であった頃・・・。
「・・・どうしたんですか?。」
「いや、なんでもない、行きましょう。」
真一は軽く頭を振るようにして、映画館へ続くエレベーターを目指す。
コーヒーを受け取って店外に出たものの、あいにく席は埋まっていた。
やはりテイクアウト用にし直してもらおうか、トレイ片手に茫然としていると、
「ここ、もうすぐ空きますから・・・。」
控えめな声がした。
「あ、そうですか。ありがとう。」
声のした方にお礼を言いながら身体を向け直すと、OL風の女が一人で座っているのが目に入った。でも、冷たい飲み物用のカップの中には、まだかなりの量の飲み物が残っている。
「いいんですか。」
「ええ。・・・わたしは、相席でも構わないんですけれど。」
二十代後半から三十代といったところか。うす緑色の麻のスーツを着こなし、栗色の髪を後ろでひとつにまとめている。傍らにはベージュのアタッシュケース。
「会社帰りですか。」
「ええ。あなたも。」
「はい、そうです。」
向かい合わせに座りながら、真一は少しときめいていた。仕事以外で若い女と話をすることなど、考えてみれば随分と久しぶりである。
しかも、なかなかの美女だ・・・。
「・・・これから帰るところなんですか?。」
シロップを入れないアイスコーヒーを一口味わってから、目の前の女をもう一度さりげなく観察してみる。真一には横顔をむけ、広場の方に目をやっている。近眼なのか、やや細めた目は切れ長で格別大きさを強調した化粧が施されている風でも無いのに、印象深い力をたたえている。
「・・・わたしですか?はい。あ、いいえ、今日は早めに会社を出て、これから映画を見ようと思っていたんですけれど。」
女の顔が少し翳った。
「約束していた人が来られなくなっちゃって。」
「じゃあ、おひとりで。」
「そうですね、チケット、もったいないし。」
もう少し若ければ、そう、たとえば、あと十才若ければ、誘いをかけてみるのだがなあ、と思う。四十二にしてはスリムで髪の毛も豊富にあると思ってはいても、やはりここまで若い美女に誘いをかけるのには勇気がいる。
隣りのテーブルでガタガタと椅子を動かす音がして、ベビーカーを押した集団が出て行く。子供たちの泣き声、笑い声、母親たちのおしゃべりがいっぺんに遠のく。
見回すと、かなりの親子連れがいる。夕方になり、これから帰途に着くのだろう。夏休み中である。
「ここには、よく?。」
今度は逆に真一が聞かれる。
「いや、ほとんど。・・・近所に住んでるんですけど、いや、だから、かな。テイクアウトで持って帰ることがほとんどです。今日は出張帰りで早いから、一杯飲んで帰ろうかな、と。」
「一杯?コーヒーを?。」
「ははは、そうです。アルコールは家でゆっくりやりますよ。」
「そう、ですよね。」
なぜか女の顔が少し曇り、真一は慌てる。
「そう、ですよね。みんな普通は家庭があるんだわ。」
もしかしたら、悪いことを言ってしまったのだろうか。
「いや、家っていっても、決して居心地がいいというわけでもないんですけど・・・。息子もえらい大きいなってしもうたし・・・。」
うろたえて関西弁になった。神戸というのは他の関西の地域に比べてあまり抑揚の強い関西弁を話さない。だから、標準語と関西弁とがひとつの会話の中でちゃんと同居しているのだ。
「あ、ごめんなさい、わたし、どうかしてるんやわ。初対面の人にいらんこと言うて。
実は、映画に行く筈だったのは、付き合ってる人、だったんですけど。」
「・・・はあ。」
「夕べ、メールでケンカしてしまって。もうそれきり電話にも出えへんのです。」
メールを使用してのケンカ、というのが真一にはよく分からない。
「それで、もうなんていうか、別れてしもてもいいわ、みたいな気持ちになってて。」
うつむき加減になり、緑色のストローを細い指で弄びながら女は語った。
相手の男は六才年下で、町で出会ったのだという。
三ヶ月ばかり付き合い、それなりに楽しい時間を過ごしてきたけれど、どうしても六つの年令差を忘れることができない。しかも、女のかげがちらつくように思われて、さりげなく聞いてみたところ、やはり元の彼女が忘れられないような気がする、という答えだったのだという。
「そやからわたしね、年下の男に捨てられた、みたいなことになってるの。」
寂しげな顔だった。
男なら、こういうとき、やはり口説くことを考えてしまうものだ・・・真一は勇気を出すことにした。
「・・・何言うてるんや。あんな、そういうふうに思うたらあかんねん。
手練手管に長けた女が退いてやったんや、くらいに強気になろうや。そんなにきれいなんやし。」
「きれい?わたしが。」
「そうや。・・・もし良かったら、ぼくがその映画、ご一緒しましょうか。」
口に出してから、何の映画なのか気になったが、まあどうでもいい。
「まあ。」
「あなたみたいな人と行けるのなら本望やし。」
女の、大きく見開かれた目が、真一を捉えた。
「よろしいんですか。」
「はい、もちろん。」
こういう展開になるとは思ってもみなかった。
カップを片付け、
「さあ。」
女をうながしたとき、ふと香って来た香水。
カボテイーヌ。
なぜその名前を知っているかというと、かつて妻が愛用していたからである。まだ二人してベッドに倒れ込むのが日課であった頃・・・。
「・・・どうしたんですか?。」
「いや、なんでもない、行きましょう。」
真一は軽く頭を振るようにして、映画館へ続くエレベーターを目指す。
KEIがやって来て、わたしに謝罪している。
「仲間に連れて行かれて」結果、フーゾクを「初体験」してしまったことを謝っているのだ。
「ゴメン。もう、絶対、行かない。好きなのはきみだけだし、きみの方がずっとイイ。きみしかいない、って、改めて思う。」
きみの方がずっとイイ。イイ、というのは何のことだ?。
ナニのこと、ってわけ。そんなん、プロの方が上手に決まってるじゃん。
「ゴメン。ほんと、この通り。」
なーんて言って、土下座までしちゃったよ。
部屋にはエアコンが無く、扇風機がのんびり回っている。大きな男が丸くなったから、さっきまで遮られていた生ぬるい風が、わたしの頬を静かに撫ではじめる。
「涼しい・・・。」
「えっ。」
「さっきまであなたのかげになってて、風、来なかったんだよね。」
「あっ、えっ、ごめん、気が利かなくて、スンマセン。」
がたがたと不器用に扇風機の位置をずらす。
「・・・って言うか、あなたがそこをどいたらいいんだよね。」
「あ。」
「・・・出てってよ。」
「えっ・・・。」
わたしは、絶句する恋人を冷めた目で見ている。
頭の中に浮かんだのは、将来子供をもつとしたら、絶対女の子がいいな、ということだ。
男の子はつまんないな。
自分が一生懸命に育てた愛する息子が、こんなふうにカンタンに女相手に土下座して、しかも、つまり、これからもヤらせてくれ、と懇願して・・・KEIのお母さん、これ見たら泣いちゃうよ、きっと。
最も、KEIの腕力をもってすれば、今わたしの部屋でふたりきり、という状態なんだからむりやりどうにでもできちゃうわけでは、ある。
オトコとオンナ、こういう場合、強いのはどっちだ。
「・・・ゆるしてくれよ。どうしたらいい?。」
「別に、フーゾクへ行ったことを怒ってるんじゃないよ。」
「じゃあ、なんでオレがキスしようとしたら逃げるんだよ。」
「・・・なんか、不潔、って感じかな。」
「別にそんなにヤバイ店には行かなかったよ。」
「そういうことじゃないの。つまり、うん、そういうヤラシイことしかアタマに無いのか、ってことが、不潔なの。」
「だって、仕方ないじゃん。」
高校時代のボーイフレンドに、
「抱いて。」
って言ったら、
「どっちの意味?。」
って、鼻息荒く聞かれたっけ。単に、ぎゅっ、て抱きしめて欲しかっただけなんだけど。
この年頃のオトコの、ヤリタイ願望ってのは、食欲って感じだね。とにかく入れたい、イキたい、早く早く。
こんなにものすごい爆弾を抱えて、よくもまあ、勉強したり、運動したりまじめにできるもんだなあ、とは思う。ややソンケー。女にはできないだろうな。
なーんて考えてたら、なし崩し的におおいかぶさられてしまった。
暴れてみようかな。
でも、余計に強い力でおさえこまれるだけだった。
「・・・すきだよ。」
それは、ヤリタイよ、と同義語ではないだろう か。という風にしか聞こえないよ、今日は。
でも、まあいいか、暑いからめんどくさいし。
それに、たぶんわたしは、スキなんだ。
KEIの、ことが・・・カラダが、ね。
仰向けになって服を脱がされながら、何気なく窓の外を見ると、ヒラヒラとアゲハ蝶が舞っている。一匹だけのように見えたけれど、よく見ると二匹、もつれあうように、じゃれあうように高く高く舞いあがりながら、空へ向かっていく。
高く、高く、か。
KEIの指がパンテイにかかり、隙間から入ってくる。しばらく弄んでいるのは、わたしを気持ちよくさせようということらしい。
で、そっと口が近付いてきた。
舌が、入って来た。目を閉じる。・・・あの、しびれだ、来た、来た来た・・・。
楽園の地図ひるがえりアゲハ蝶
・・・これ、かな。イクっていうのは。
恥ずかしくて、くすぐったくて、あふれそうで。
たかく、たかく、もっとたかく。
「・・・もっと・・・。」
こうなったら、楽園をさがしに行ってみよう。
わたしの中の、眠れる楽園。
オトコにとことん付き合わせるのも、今日ならゆるされるだろう。
「もう、入っていい?。」
オトコの懇願が、また聞こえるけれど、
「だめ。」
冷たく言ったつもりが、あえいでしまう。
あのアゲハたちは、愛し合いながら空のどの辺りまでのぼりつめただろう?。
「仲間に連れて行かれて」結果、フーゾクを「初体験」してしまったことを謝っているのだ。
「ゴメン。もう、絶対、行かない。好きなのはきみだけだし、きみの方がずっとイイ。きみしかいない、って、改めて思う。」
きみの方がずっとイイ。イイ、というのは何のことだ?。
ナニのこと、ってわけ。そんなん、プロの方が上手に決まってるじゃん。
「ゴメン。ほんと、この通り。」
なーんて言って、土下座までしちゃったよ。
部屋にはエアコンが無く、扇風機がのんびり回っている。大きな男が丸くなったから、さっきまで遮られていた生ぬるい風が、わたしの頬を静かに撫ではじめる。
「涼しい・・・。」
「えっ。」
「さっきまであなたのかげになってて、風、来なかったんだよね。」
「あっ、えっ、ごめん、気が利かなくて、スンマセン。」
がたがたと不器用に扇風機の位置をずらす。
「・・・って言うか、あなたがそこをどいたらいいんだよね。」
「あ。」
「・・・出てってよ。」
「えっ・・・。」
わたしは、絶句する恋人を冷めた目で見ている。
頭の中に浮かんだのは、将来子供をもつとしたら、絶対女の子がいいな、ということだ。
男の子はつまんないな。
自分が一生懸命に育てた愛する息子が、こんなふうにカンタンに女相手に土下座して、しかも、つまり、これからもヤらせてくれ、と懇願して・・・KEIのお母さん、これ見たら泣いちゃうよ、きっと。
最も、KEIの腕力をもってすれば、今わたしの部屋でふたりきり、という状態なんだからむりやりどうにでもできちゃうわけでは、ある。
オトコとオンナ、こういう場合、強いのはどっちだ。
「・・・ゆるしてくれよ。どうしたらいい?。」
「別に、フーゾクへ行ったことを怒ってるんじゃないよ。」
「じゃあ、なんでオレがキスしようとしたら逃げるんだよ。」
「・・・なんか、不潔、って感じかな。」
「別にそんなにヤバイ店には行かなかったよ。」
「そういうことじゃないの。つまり、うん、そういうヤラシイことしかアタマに無いのか、ってことが、不潔なの。」
「だって、仕方ないじゃん。」
高校時代のボーイフレンドに、
「抱いて。」
って言ったら、
「どっちの意味?。」
って、鼻息荒く聞かれたっけ。単に、ぎゅっ、て抱きしめて欲しかっただけなんだけど。
この年頃のオトコの、ヤリタイ願望ってのは、食欲って感じだね。とにかく入れたい、イキたい、早く早く。
こんなにものすごい爆弾を抱えて、よくもまあ、勉強したり、運動したりまじめにできるもんだなあ、とは思う。ややソンケー。女にはできないだろうな。
なーんて考えてたら、なし崩し的におおいかぶさられてしまった。
暴れてみようかな。
でも、余計に強い力でおさえこまれるだけだった。
「・・・すきだよ。」
それは、ヤリタイよ、と同義語ではないだろう か。という風にしか聞こえないよ、今日は。
でも、まあいいか、暑いからめんどくさいし。
それに、たぶんわたしは、スキなんだ。
KEIの、ことが・・・カラダが、ね。
仰向けになって服を脱がされながら、何気なく窓の外を見ると、ヒラヒラとアゲハ蝶が舞っている。一匹だけのように見えたけれど、よく見ると二匹、もつれあうように、じゃれあうように高く高く舞いあがりながら、空へ向かっていく。
高く、高く、か。
KEIの指がパンテイにかかり、隙間から入ってくる。しばらく弄んでいるのは、わたしを気持ちよくさせようということらしい。
で、そっと口が近付いてきた。
舌が、入って来た。目を閉じる。・・・あの、しびれだ、来た、来た来た・・・。
楽園の地図ひるがえりアゲハ蝶
・・・これ、かな。イクっていうのは。
恥ずかしくて、くすぐったくて、あふれそうで。
たかく、たかく、もっとたかく。
「・・・もっと・・・。」
こうなったら、楽園をさがしに行ってみよう。
わたしの中の、眠れる楽園。
オトコにとことん付き合わせるのも、今日ならゆるされるだろう。
「もう、入っていい?。」
オトコの懇願が、また聞こえるけれど、
「だめ。」
冷たく言ったつもりが、あえいでしまう。
あのアゲハたちは、愛し合いながら空のどの辺りまでのぼりつめただろう?。
眠れない。
扇風機が、なまぬるい風をかきまわしている夏の部屋。何度も寝返りを打ち、ついに眠るのをあきらめてベッドに座り、膝を抱いた。
狭い部屋の片隅で、蜂の羽音のような音を立てている小さな冷蔵庫が目に入る。
お水、取ってこようかな。
とてものどが渇いている。
ううん、のどだけじゃない、なんというか、身体中が、渇いているんだ。
潤いたい。
恋人が、仲間と連れ立って「フーゾク」へ行ったということを、今日の午後カフエテリアで聞いた。
同じ大学の、同じサークルに所属しているのだから、そういうことは隠し切れない。「仲間」の中にはわたしたちの関係を知っているものがほとんどなのに、そういうことはあっさり伝わってくる。
いや、知っているから、か。
だから余計にこっちの反応が見たいのかもしれない。KEIは自分たちのことをそう仲間にぺラペラしゃべるとは思えないけれど、もしかしたらしゃべっているのかもしれない、わたしたちのこと・・・つまり、最近「エッチをする仲になった」ということを。
はたちにもなっているからには、別にそういうことがあっても不思議じゃない、だから別に何を言われてもいいのだけれど、やっぱり「フーゾク」に、今この時期に行かれるのは、つらい。
いたい、すんごく。
だって・・・。
KEIは、はじめてのオトコでは無い。
でも、高校時代にそうなった初めてのときにはひたすら痛いだけだったあのことが、なんか最近、なんというか、とても「よく」なってきたの。
KEIが上手なのか、わたしが「成熟」したのか、そこまでは経験が少なすぎて分からない、でも、なんというか、最近はあのときのことを考えただけで、ココロもカラダもじわあっ、と来ちゃうんだなあ、うん。
いわゆる「発情」というやつなのかも。
この前、ついに、小さくはあったけれど、声が出ちゃった。なんか、自然に。たまらなく背中にビビっ、ってなんか走ったのよね。
止めて、って言いながら、あ、でも止めたらやだ、っていうあれ。
で、止めて、止めないで、のリフレインがしばらく続いて・・・あっ、てなんか走り抜けたの。
KEIはすかさず、
「イッたのか?。」
って聞いて来た。でも、それは分からなかった。
「イッた」っていうのがどんな感じなのかは、ね。
だって、声が出ちゃうほどに感じながら、まだわたしの中には快感の源流みたいなものがたっぷり残っているみたいだったし、それをいわゆる「イク」で片付けてしまうなんて、ちょっと違うなあって。
男の人みたいに、「イッた」ら終わりじゃないんだもの。
KEIにしてみたら、やっぱりわたしが満足して、
「スゴクよかった、イッちゃったかも。」
って言葉が聞きたかったんだろうな、少し納得がいかないみたいな顔をしていたわ。
でも、ともかく、これからわたしたちは、どんどんふたりだけの「快楽ランド」を開拓していくんだろうなあ、っていう期待はあったし、そういう関係をすきなひとと持てて、とってもハッピーな気分だったのに。
なのに、フーゾク、だって。
冷蔵庫からエブイアンを取り出して、ペットごと口に付ける。
何も、フーゾクに行っちゃいや、ってわけではないのよ 。
いいえ、やっぱりこんなふうにあれこれ悩むのはいや、なのかな。
このもやもやした気持ちは・・・。
一瞬でもわたし以外のオンナの肌に愛着を感じた恋人への怒り、か。
オトコは、フーゾクのオンナの子なんかに愛情を感じちゃいないって言うかも。でも、それってやっぱり違うと思う。やっぱり少しでも好き、っていう気持ちが無ければ、ああいうことはできないと思うんだよね。
愛情、までいかなくとも・・・って少し弱気だけれど・・・魅力、は感じたんだよね。
わたしとのことが、もうこれから最高地帯突入っ、てなときに。
こういう場合、次のエッチに影響はないんだろうか。
わたしは、変に冷めてしまうみたいな気がするんだけど。だって、もうあれを舐めたりできそうにない。これを、誰か他の子も舐めたのかあ、なんて考えちゃうと。
逆に、
「わたしが忘れさせちゃううっ。」
なんて燃えるのかな、まさか。それは、ないない。
KEIのことは、好き、それは全然きのうと同じだ。
それに、こういうことを考えつつ、わたしのカラダは欲しいな、って気分を盛り上げつつある。つらいよおお。
熱帯夜りっしんべんにうなされる
「情」「怯」「慎」そして、「性」。
KEI、会いたいよお。
会いたくないよお。
この矛盾は、あの、止めて、止めないで、の螺旋に似ているみたい。ぐるぐるわたしの中を走って、
・・・どうにも、眠れない。
扇風機が、なまぬるい風をかきまわしている夏の部屋。何度も寝返りを打ち、ついに眠るのをあきらめてベッドに座り、膝を抱いた。
狭い部屋の片隅で、蜂の羽音のような音を立てている小さな冷蔵庫が目に入る。
お水、取ってこようかな。
とてものどが渇いている。
ううん、のどだけじゃない、なんというか、身体中が、渇いているんだ。
潤いたい。
恋人が、仲間と連れ立って「フーゾク」へ行ったということを、今日の午後カフエテリアで聞いた。
同じ大学の、同じサークルに所属しているのだから、そういうことは隠し切れない。「仲間」の中にはわたしたちの関係を知っているものがほとんどなのに、そういうことはあっさり伝わってくる。
いや、知っているから、か。
だから余計にこっちの反応が見たいのかもしれない。KEIは自分たちのことをそう仲間にぺラペラしゃべるとは思えないけれど、もしかしたらしゃべっているのかもしれない、わたしたちのこと・・・つまり、最近「エッチをする仲になった」ということを。
はたちにもなっているからには、別にそういうことがあっても不思議じゃない、だから別に何を言われてもいいのだけれど、やっぱり「フーゾク」に、今この時期に行かれるのは、つらい。
いたい、すんごく。
だって・・・。
KEIは、はじめてのオトコでは無い。
でも、高校時代にそうなった初めてのときにはひたすら痛いだけだったあのことが、なんか最近、なんというか、とても「よく」なってきたの。
KEIが上手なのか、わたしが「成熟」したのか、そこまでは経験が少なすぎて分からない、でも、なんというか、最近はあのときのことを考えただけで、ココロもカラダもじわあっ、と来ちゃうんだなあ、うん。
いわゆる「発情」というやつなのかも。
この前、ついに、小さくはあったけれど、声が出ちゃった。なんか、自然に。たまらなく背中にビビっ、ってなんか走ったのよね。
止めて、って言いながら、あ、でも止めたらやだ、っていうあれ。
で、止めて、止めないで、のリフレインがしばらく続いて・・・あっ、てなんか走り抜けたの。
KEIはすかさず、
「イッたのか?。」
って聞いて来た。でも、それは分からなかった。
「イッた」っていうのがどんな感じなのかは、ね。
だって、声が出ちゃうほどに感じながら、まだわたしの中には快感の源流みたいなものがたっぷり残っているみたいだったし、それをいわゆる「イク」で片付けてしまうなんて、ちょっと違うなあって。
男の人みたいに、「イッた」ら終わりじゃないんだもの。
KEIにしてみたら、やっぱりわたしが満足して、
「スゴクよかった、イッちゃったかも。」
って言葉が聞きたかったんだろうな、少し納得がいかないみたいな顔をしていたわ。
でも、ともかく、これからわたしたちは、どんどんふたりだけの「快楽ランド」を開拓していくんだろうなあ、っていう期待はあったし、そういう関係をすきなひとと持てて、とってもハッピーな気分だったのに。
なのに、フーゾク、だって。
冷蔵庫からエブイアンを取り出して、ペットごと口に付ける。
何も、フーゾクに行っちゃいや、ってわけではないのよ 。
いいえ、やっぱりこんなふうにあれこれ悩むのはいや、なのかな。
このもやもやした気持ちは・・・。
一瞬でもわたし以外のオンナの肌に愛着を感じた恋人への怒り、か。
オトコは、フーゾクのオンナの子なんかに愛情を感じちゃいないって言うかも。でも、それってやっぱり違うと思う。やっぱり少しでも好き、っていう気持ちが無ければ、ああいうことはできないと思うんだよね。
愛情、までいかなくとも・・・って少し弱気だけれど・・・魅力、は感じたんだよね。
わたしとのことが、もうこれから最高地帯突入っ、てなときに。
こういう場合、次のエッチに影響はないんだろうか。
わたしは、変に冷めてしまうみたいな気がするんだけど。だって、もうあれを舐めたりできそうにない。これを、誰か他の子も舐めたのかあ、なんて考えちゃうと。
逆に、
「わたしが忘れさせちゃううっ。」
なんて燃えるのかな、まさか。それは、ないない。
KEIのことは、好き、それは全然きのうと同じだ。
それに、こういうことを考えつつ、わたしのカラダは欲しいな、って気分を盛り上げつつある。つらいよおお。
熱帯夜りっしんべんにうなされる
「情」「怯」「慎」そして、「性」。
KEI、会いたいよお。
会いたくないよお。
この矛盾は、あの、止めて、止めないで、の螺旋に似ているみたい。ぐるぐるわたしの中を走って、
・・・どうにも、眠れない。
台風が近付いたときには、ご飯をいつもよりも多目に炊きなさい、と、母は言っていた。
「万が一、停電しても、どこかへ逃げるようなことになっても、ご飯さえあれば、おにぎり作って子供に食べさせられるでしょう。」
だから、今夜のご飯は多い。
ジャーの中に、しゃもじを入れて思い切り力を加えて混ぜる。食べ盛りの息子がいるので、たっぷりいっぱいに炊かれた米から、景気よく湯気が舞い上がる。
今夜から明日朝にかけて、瀬戸内海を縦断するかもしれません。
テレビの東京からの天気予報が告げている。
「植木、入れといたから。」
さっきからベランダにいた夫が、キッチンをのぞきこみ、おかずをチェックする。
「ありがとう。」
「和辻くんは今日、クルーズに出るんじゃ無かったのか。」
「ええ、そうよ。」
平静を装いながら彼女は返答する。
「三時頃、西宮を出るって言ってたけれど。」
「そうか。」
「大丈夫かな。」
そうなのだ。
実は気が気ではないのだ、さっきから。
息子、タクミの家庭教師をしている大学生の和辻は、ヨット部のクルーズで、予定ではさっきハーバーを出たことになっている。
「大丈夫だよ。」
彼女に変わって、タクミが答える。
「悪天候のときには、即中止するって言ってたよ、先生。」
「そうよ、もう今頃は取りやめて家に帰っているわ、きっと。」
そうであって欲しい。
いや、絶対にそうだ。
今日は午後から雨こそ降らなかったものの、風はものすごく強く、海沿いに住む者として強風に慣れているはずの彼女にも、異常なものを感じさせた。
海も、まだそれほど荒れてはいなかったが、いつもならば薄い水色に柔らかな波とうをレースのように従えている海面が、一面灰色がかった濃紺に染まっていて、波はところどころ、からまったレース糸のように渦を巻いて盛り上がっていた。
「まあ、取りやめたんやろうけどな。」
夫が手を洗って冷蔵庫を開ける。
「無謀なところがあったからな、あの子には。」
彼女はその言葉につまずく。
・・・あった、なんて、過去形で言わないでよ。
無謀なところが、ある、でしょう。
でも口には出さない。
金切り声になりそうで。
不安だ。
若さは無謀だ。
いくらなんでも、大学生なのだ。地元の海だし、そう無理をするはずがない。
そうは思っても、力強さを増してサッシ窓を叩き始めた風が、不安を煽り立てる。
ついこの前も台風はやって来た。直撃されることは無かったが、こうして夜が更けていくのに合わせるように、風は強まり、雨は屋根の無いマンションにも関わらず大きな音を立てて降り落ちて来た。
でも、今夜ほどの不安は感じなかった。
彼が、海に出るなんて言ってたから。
どこか、安全な場所にいるのに違いないのだ。
でも、どうしても無事を知るまでは眠れない。
何度も寝返りを打つ彼女に夫は、
「大丈夫、この位の台風でどうにかなるようなマンションやないで。」
と、そんなことを言い、
「それとも、お前、まだ和辻くんのこの気になるんかいな。」
と続けてくる。胸がドキン、と打つのが分かる。
「・・・そんなんやったら、タクミは絶対ヨットやら登山やらはさせられへんな。」
「そうね。」
そういうこと、にしておこう。
息子を気遣うように、和辻を気遣っている。
そういう、ことに。
夫の大あくびが聞こえて、なぜだか泣きたくなる。
そして、三日後。
和辻は、いつもどうりにやって来た。
「ええ、もう、朝から中止が決まっちゃいました。仕方ないですよ。そういうものだから。」
「そうね、またこれからも機会はいっぱいあるんだから。夏休みは長いし。」
「ええ、そうです、またチャレンジです。」
日に焼けた顔が大きく笑った。そして、
「おおい、タクミ、お前もチャレンジやぞ。勝負の夏休みなんやから。」
冗談めかして大きな声を出し、息子の部屋に消える。
猫じゃらしおいで、おいでの夏休み
なぜか、うっすら湧き出た涙を、エプロンのすそでやわらかくぬぐった。
「万が一、停電しても、どこかへ逃げるようなことになっても、ご飯さえあれば、おにぎり作って子供に食べさせられるでしょう。」
だから、今夜のご飯は多い。
ジャーの中に、しゃもじを入れて思い切り力を加えて混ぜる。食べ盛りの息子がいるので、たっぷりいっぱいに炊かれた米から、景気よく湯気が舞い上がる。
今夜から明日朝にかけて、瀬戸内海を縦断するかもしれません。
テレビの東京からの天気予報が告げている。
「植木、入れといたから。」
さっきからベランダにいた夫が、キッチンをのぞきこみ、おかずをチェックする。
「ありがとう。」
「和辻くんは今日、クルーズに出るんじゃ無かったのか。」
「ええ、そうよ。」
平静を装いながら彼女は返答する。
「三時頃、西宮を出るって言ってたけれど。」
「そうか。」
「大丈夫かな。」
そうなのだ。
実は気が気ではないのだ、さっきから。
息子、タクミの家庭教師をしている大学生の和辻は、ヨット部のクルーズで、予定ではさっきハーバーを出たことになっている。
「大丈夫だよ。」
彼女に変わって、タクミが答える。
「悪天候のときには、即中止するって言ってたよ、先生。」
「そうよ、もう今頃は取りやめて家に帰っているわ、きっと。」
そうであって欲しい。
いや、絶対にそうだ。
今日は午後から雨こそ降らなかったものの、風はものすごく強く、海沿いに住む者として強風に慣れているはずの彼女にも、異常なものを感じさせた。
海も、まだそれほど荒れてはいなかったが、いつもならば薄い水色に柔らかな波とうをレースのように従えている海面が、一面灰色がかった濃紺に染まっていて、波はところどころ、からまったレース糸のように渦を巻いて盛り上がっていた。
「まあ、取りやめたんやろうけどな。」
夫が手を洗って冷蔵庫を開ける。
「無謀なところがあったからな、あの子には。」
彼女はその言葉につまずく。
・・・あった、なんて、過去形で言わないでよ。
無謀なところが、ある、でしょう。
でも口には出さない。
金切り声になりそうで。
不安だ。
若さは無謀だ。
いくらなんでも、大学生なのだ。地元の海だし、そう無理をするはずがない。
そうは思っても、力強さを増してサッシ窓を叩き始めた風が、不安を煽り立てる。
ついこの前も台風はやって来た。直撃されることは無かったが、こうして夜が更けていくのに合わせるように、風は強まり、雨は屋根の無いマンションにも関わらず大きな音を立てて降り落ちて来た。
でも、今夜ほどの不安は感じなかった。
彼が、海に出るなんて言ってたから。
どこか、安全な場所にいるのに違いないのだ。
でも、どうしても無事を知るまでは眠れない。
何度も寝返りを打つ彼女に夫は、
「大丈夫、この位の台風でどうにかなるようなマンションやないで。」
と、そんなことを言い、
「それとも、お前、まだ和辻くんのこの気になるんかいな。」
と続けてくる。胸がドキン、と打つのが分かる。
「・・・そんなんやったら、タクミは絶対ヨットやら登山やらはさせられへんな。」
「そうね。」
そういうこと、にしておこう。
息子を気遣うように、和辻を気遣っている。
そういう、ことに。
夫の大あくびが聞こえて、なぜだか泣きたくなる。
そして、三日後。
和辻は、いつもどうりにやって来た。
「ええ、もう、朝から中止が決まっちゃいました。仕方ないですよ。そういうものだから。」
「そうね、またこれからも機会はいっぱいあるんだから。夏休みは長いし。」
「ええ、そうです、またチャレンジです。」
日に焼けた顔が大きく笑った。そして、
「おおい、タクミ、お前もチャレンジやぞ。勝負の夏休みなんやから。」
冗談めかして大きな声を出し、息子の部屋に消える。
猫じゃらしおいで、おいでの夏休み
なぜか、うっすら湧き出た涙を、エプロンのすそでやわらかくぬぐった。
帆影には夏のかけらが金色に
十三階の窓からは瀬戸内の海が見える。
台風一過。
夏が、来た。
中二の息子は部活動の練習に行っていて不在である。彼女は一人で海を眺めながら洗濯物を干している。
空は照り付ける太陽のせいで直視できないほど光り、海は日差しのかけらをいっぱいに浮かべて穏やかに凪いでいる。
ヨットが一艘、沖に浮かんでいる。
「うちの子もいつか、先生みたいに海をめざすのかしらね。」
この前何気なく言ったとき、「先生」と呼ばれている彼は少し笑って、
「タクミはヨットよりも陸でしょう。だって、今も長距離の選手なんだから。」
と、息子の肩を軽く押すようにしていた。
「な、たくみ。」
「うん。」
国立大二回生の彼が家庭教師に来てくれるようになって半年が経つ。
おとなしくて、スポーツ好きな割に余り負けず嫌いでは無い息子には、大勢で競い合いながら伸びていく塾よりも、自宅でじっくりと自分のペースで学ぶことのできる家庭教師の方が向いていたようで、成績は眼にみえて良くなってきている。
息子も、週に二回、「先生」が来るのを楽しみにしている。人見知りのきつい子がなついてくれて、本当に良かった。
「先生」が来てくれるようになって、本当に良かった。母親らしく、そういう月並みな言葉をつかってみる・・・。
彼は、大学ではヨット部に入っているという。
「ここから見ると、沖に浮かぶヨットは優雅で、穏やかに見えるでしょう。」
今、洗濯物を干しているベランダで、彼は海を見つめたまま話していた。
「でも、実際に乗ると、ものすごくハードなんですよ。ぼおっとしていることなんて全然なくて。」
「疲れない?。」
「うーん。結構、からだも頭も程よく疲労して、よく眠れますよ、乗った夜には。」
「そう。」
「今度、初めて大掛かりなクルーズに出るんです。大掛かり、って言っても瀬戸内一周、って感じなんですけどね。」
「天気がいいといいわね。」
「そうなんです、心配は、それだけ。」
日に焼けた顔は充実した笑顔で、彼女は眩しさに目を逸らす。
あなたは、何でも持っているのね。
若さ、体力、時間。
わたしが、無くしてしまったものたち。
無くしたことに、ふだんは気が付かないけれど、あなたといると、思い知らされるわ。
夢、希望、情熱。
伸び盛りのタクミが春の若葉だとすれば、あなたは夏の若木ね。自分の青さを持て余し、だけど枯れる前に何かを為そうと意気込んでもいる。
わたしは・・・。
わたしは、そんなあなたが眩しくて、とても苦いわ。
あなたを想うと、苦しい。
恋、というのではないだろう。
相手は息子の家庭教師なのだ。
いくら何でもそういうのとは、違う。
彼のことを考えた時に心を過ぎる息苦しさは、多分、いつのまにか無くしてしまったものたちへの郷愁、みたいなものね、きっと。
彼が、沖へ乗り出していくのは明日。
今度家へ来る時には、また一回り大人の男の力をみなぎらせて現れるのだろう。
暑さのせいか、向こう岸の工場地帯がゆらゆらともやって見える。
こちらの埠頭を目指して近付くタンカーの影に、小さなヨットは隠れてしまった。
軽いため息をついて、部屋に入る。
十三階の窓からは瀬戸内の海が見える。
台風一過。
夏が、来た。
中二の息子は部活動の練習に行っていて不在である。彼女は一人で海を眺めながら洗濯物を干している。
空は照り付ける太陽のせいで直視できないほど光り、海は日差しのかけらをいっぱいに浮かべて穏やかに凪いでいる。
ヨットが一艘、沖に浮かんでいる。
「うちの子もいつか、先生みたいに海をめざすのかしらね。」
この前何気なく言ったとき、「先生」と呼ばれている彼は少し笑って、
「タクミはヨットよりも陸でしょう。だって、今も長距離の選手なんだから。」
と、息子の肩を軽く押すようにしていた。
「な、たくみ。」
「うん。」
国立大二回生の彼が家庭教師に来てくれるようになって半年が経つ。
おとなしくて、スポーツ好きな割に余り負けず嫌いでは無い息子には、大勢で競い合いながら伸びていく塾よりも、自宅でじっくりと自分のペースで学ぶことのできる家庭教師の方が向いていたようで、成績は眼にみえて良くなってきている。
息子も、週に二回、「先生」が来るのを楽しみにしている。人見知りのきつい子がなついてくれて、本当に良かった。
「先生」が来てくれるようになって、本当に良かった。母親らしく、そういう月並みな言葉をつかってみる・・・。
彼は、大学ではヨット部に入っているという。
「ここから見ると、沖に浮かぶヨットは優雅で、穏やかに見えるでしょう。」
今、洗濯物を干しているベランダで、彼は海を見つめたまま話していた。
「でも、実際に乗ると、ものすごくハードなんですよ。ぼおっとしていることなんて全然なくて。」
「疲れない?。」
「うーん。結構、からだも頭も程よく疲労して、よく眠れますよ、乗った夜には。」
「そう。」
「今度、初めて大掛かりなクルーズに出るんです。大掛かり、って言っても瀬戸内一周、って感じなんですけどね。」
「天気がいいといいわね。」
「そうなんです、心配は、それだけ。」
日に焼けた顔は充実した笑顔で、彼女は眩しさに目を逸らす。
あなたは、何でも持っているのね。
若さ、体力、時間。
わたしが、無くしてしまったものたち。
無くしたことに、ふだんは気が付かないけれど、あなたといると、思い知らされるわ。
夢、希望、情熱。
伸び盛りのタクミが春の若葉だとすれば、あなたは夏の若木ね。自分の青さを持て余し、だけど枯れる前に何かを為そうと意気込んでもいる。
わたしは・・・。
わたしは、そんなあなたが眩しくて、とても苦いわ。
あなたを想うと、苦しい。
恋、というのではないだろう。
相手は息子の家庭教師なのだ。
いくら何でもそういうのとは、違う。
彼のことを考えた時に心を過ぎる息苦しさは、多分、いつのまにか無くしてしまったものたちへの郷愁、みたいなものね、きっと。
彼が、沖へ乗り出していくのは明日。
今度家へ来る時には、また一回り大人の男の力をみなぎらせて現れるのだろう。
暑さのせいか、向こう岸の工場地帯がゆらゆらともやって見える。
こちらの埠頭を目指して近付くタンカーの影に、小さなヨットは隠れてしまった。
軽いため息をついて、部屋に入る。
手ひどい失恋をした。
しばらく恋なんかしたくない、と切実に思った。
もう恋なんかしたくない、と言い切れないところが二十五の夏である。何もかもあきらめてお見合いでもしようか、というほど「枯れて」はいない。
しばらく、である。
とりあえず今年の夏はひとりで過ごそうと思っていた。
なのに。
「社内報、見たんだけど一度ご飯食べに行きませんか。」
というのが、初めての誘いだった。
たまたま支店のみんなと一緒に写った社内報のわたしの写真を見て、「なんか、気にいっちゃって」というのである。
「それはどうもありがとうございます。」
答えながら、あああれを写したときにはまだ前の彼氏とラブラブだったから、肌のつやとか目の輝きとかが全然良かったんだよね、と思った。
でも、今はずいぶんとやつれてしまったんだよ。
口には出さなかったが、そう思った。
結局、最初の食事は双方共に後輩を連れての焼き鳥、となった。
「やあ、はじめまして。」
待ち合せの焼き鳥屋の前で、後輩と立っているとえらく愛想のいい声が頭の上から降って来て、それが彼だった。
百八十三センチ。
わたしとの身長差三十センチ。
最初から、嫌な感じ。
高身長が嫌いなんじゃない。
・・・前の彼氏と、ぴったり同じサイズだったから。
顔つきも、なんか似ていた。
奥二重の釣り上り気味の瞳、鷲鼻、薄い唇。
顔立ちが似ているということは、声もまた似ているんだなあ。
こっちの方がやせているなあ、なんて思いかけて、ああ、やだやだ、と思う。比べてどうする、あの人と。
あんな男はもう現れるはずが無かった。
生まれて初めて、あんなに好きになったのに、その彼をある日突然失って、毎日泣き暮らしているのだ。別の男のことなんか考えられない。
でも、話し方、それから、
「あ、オレさあ、砂肝、すきなんだよね。」
焼き鳥の好みも、
「中、高ってバレーボールやっててさ。」
高身長のわけまでも、あの彼と同じだ。
ただ。
「オレ、全くの下戸なんだ。」
それだけが、大きく違っていた。
「わたしも、全然呑めないんですよ。」
前の彼と違うところを発見してホッとすると、
「そうですか。よし、いいことを聞いた。今度はもっとうまいもん食いに行こう、呑めないの者同士で。」
と、来た。
「お酒が呑めない、っていう人は、呑める人よりもうまいもん食わなくちゃ。一生を損しちゃうからね。」
アルコールの美味さを知らないという不公平を無くすには、できるだけおいしいものを探して味わうことに尽きる、とその人は言った。
なるほど、と、呑み会の度にワリカン負けしているような気がしているわたしはうなずいてしまい、結局その後も何回か食事に付き合うことになってしまった。
高速道路の真下に掘っ建て小屋のような店を構えていた焼き肉屋の石焼きビピンバ、駅裏のガード下の中華料理屋の水餃子、ネタがシャリの倍以上の大きさの、海沿いのすし屋のお鮨。どれも本当においしかった。
でも。
やっぱり、食事の後にどうこう、ということになるとしり込みしてしまう。
てっとり早く言えば、「男と女のこと」になると、とても踏み切れないわたしなのだった。
「いや、別に急ぎません。オレはあなたのこと、まあハッキリ言ってひとめぼれしたようなもんだけど、そういうことは、いいんです。」
余りにもさわやかに言われてしまうと、余計に申し訳無く思えてくるのだった。
前の彼は、そういうことが本当にすきだったからなあ。
男の上に乗って最後までしてしまう、なんてことは前の彼氏にさせられるまで思いも付かなかった。
「身長が違うんだから、こういう方がイイだろ。」
あの、甘い声。ほら、もっと腰を使って、そう、そう、いい感じだ・・・。
なんてことを思い出しながら、そのそっくりの声を持つ男に、
「そういうことは、いいんです。」
などと言わせているのだ。
ああ、なんか、ごめんなさい。
「・・・じゃあ、まあ、アイスでも食べて帰りましょう、すっきりと。」
そして、目についたハーゲンダッツに入り、
「オレはクッキークランチ。」
と、またあの男の好きなテイストを、選ぶ。
この人のこと、決して嫌じゃない。
むしろ、好きなタイプなのだ。
出会う順序が悪かったんだ、彼よりも先に会っていれば、無邪気に恋していたかもしれないのに。
そうだ。
もしかして、一線を超えてしまえばいいのかもしれない。
男につけられた傷は、男で癒す。
そういう方法もあるに違いない。
わたしは、自分の心を覗き込み、でも、やっぱりあの人を忘れられない、と思い・・・。
だから彼が食事のあとのドライブで急ハンドルを切って国道脇のホテルに入ったときには混乱した。
これは、拒まなければ。
でも、いってしまっちゃえば。
あれこれ取り乱しているうちに部屋に入ってしまった。
だ、け、ど。
わたしの心配は取り越し苦労、だったのだ。
思いも寄らない結果が待っていたのだ。
彼が、エレクトしなかった。というか。
彼の名誉の為に言っておけば、そういうことができる状態にはなったのだけれど、わたしの中に行き着かなかった、ということに、なるのかな。
・・・こういう場合、どうすれば男は傷つかないのだろう。
わたしは笑ってしまったから、ダメかな、こういうの。
でも、安心したから笑ったの、だから分かってもらえたかな。
まだ夜も早いうちだったから、わたしたちはまたアイスクリームを食べに行った。
恋になるアイスクリーム日よりなり
この夏、この人とならそばにいられるかも。
クッキークランチ。同じアイスを選んでわたしは思う。この人は、あの彼じゃない。でも、それでいい。それが、いいんだもの。
「あのね、あなたのこと、好きよわたし。」
一気に言ってしまうと、上唇のバニラを舐めたあとで、ありがとう、と答えが返ってきた。
しばらく恋なんかしたくない、と切実に思った。
もう恋なんかしたくない、と言い切れないところが二十五の夏である。何もかもあきらめてお見合いでもしようか、というほど「枯れて」はいない。
しばらく、である。
とりあえず今年の夏はひとりで過ごそうと思っていた。
なのに。
「社内報、見たんだけど一度ご飯食べに行きませんか。」
というのが、初めての誘いだった。
たまたま支店のみんなと一緒に写った社内報のわたしの写真を見て、「なんか、気にいっちゃって」というのである。
「それはどうもありがとうございます。」
答えながら、あああれを写したときにはまだ前の彼氏とラブラブだったから、肌のつやとか目の輝きとかが全然良かったんだよね、と思った。
でも、今はずいぶんとやつれてしまったんだよ。
口には出さなかったが、そう思った。
結局、最初の食事は双方共に後輩を連れての焼き鳥、となった。
「やあ、はじめまして。」
待ち合せの焼き鳥屋の前で、後輩と立っているとえらく愛想のいい声が頭の上から降って来て、それが彼だった。
百八十三センチ。
わたしとの身長差三十センチ。
最初から、嫌な感じ。
高身長が嫌いなんじゃない。
・・・前の彼氏と、ぴったり同じサイズだったから。
顔つきも、なんか似ていた。
奥二重の釣り上り気味の瞳、鷲鼻、薄い唇。
顔立ちが似ているということは、声もまた似ているんだなあ。
こっちの方がやせているなあ、なんて思いかけて、ああ、やだやだ、と思う。比べてどうする、あの人と。
あんな男はもう現れるはずが無かった。
生まれて初めて、あんなに好きになったのに、その彼をある日突然失って、毎日泣き暮らしているのだ。別の男のことなんか考えられない。
でも、話し方、それから、
「あ、オレさあ、砂肝、すきなんだよね。」
焼き鳥の好みも、
「中、高ってバレーボールやっててさ。」
高身長のわけまでも、あの彼と同じだ。
ただ。
「オレ、全くの下戸なんだ。」
それだけが、大きく違っていた。
「わたしも、全然呑めないんですよ。」
前の彼と違うところを発見してホッとすると、
「そうですか。よし、いいことを聞いた。今度はもっとうまいもん食いに行こう、呑めないの者同士で。」
と、来た。
「お酒が呑めない、っていう人は、呑める人よりもうまいもん食わなくちゃ。一生を損しちゃうからね。」
アルコールの美味さを知らないという不公平を無くすには、できるだけおいしいものを探して味わうことに尽きる、とその人は言った。
なるほど、と、呑み会の度にワリカン負けしているような気がしているわたしはうなずいてしまい、結局その後も何回か食事に付き合うことになってしまった。
高速道路の真下に掘っ建て小屋のような店を構えていた焼き肉屋の石焼きビピンバ、駅裏のガード下の中華料理屋の水餃子、ネタがシャリの倍以上の大きさの、海沿いのすし屋のお鮨。どれも本当においしかった。
でも。
やっぱり、食事の後にどうこう、ということになるとしり込みしてしまう。
てっとり早く言えば、「男と女のこと」になると、とても踏み切れないわたしなのだった。
「いや、別に急ぎません。オレはあなたのこと、まあハッキリ言ってひとめぼれしたようなもんだけど、そういうことは、いいんです。」
余りにもさわやかに言われてしまうと、余計に申し訳無く思えてくるのだった。
前の彼は、そういうことが本当にすきだったからなあ。
男の上に乗って最後までしてしまう、なんてことは前の彼氏にさせられるまで思いも付かなかった。
「身長が違うんだから、こういう方がイイだろ。」
あの、甘い声。ほら、もっと腰を使って、そう、そう、いい感じだ・・・。
なんてことを思い出しながら、そのそっくりの声を持つ男に、
「そういうことは、いいんです。」
などと言わせているのだ。
ああ、なんか、ごめんなさい。
「・・・じゃあ、まあ、アイスでも食べて帰りましょう、すっきりと。」
そして、目についたハーゲンダッツに入り、
「オレはクッキークランチ。」
と、またあの男の好きなテイストを、選ぶ。
この人のこと、決して嫌じゃない。
むしろ、好きなタイプなのだ。
出会う順序が悪かったんだ、彼よりも先に会っていれば、無邪気に恋していたかもしれないのに。
そうだ。
もしかして、一線を超えてしまえばいいのかもしれない。
男につけられた傷は、男で癒す。
そういう方法もあるに違いない。
わたしは、自分の心を覗き込み、でも、やっぱりあの人を忘れられない、と思い・・・。
だから彼が食事のあとのドライブで急ハンドルを切って国道脇のホテルに入ったときには混乱した。
これは、拒まなければ。
でも、いってしまっちゃえば。
あれこれ取り乱しているうちに部屋に入ってしまった。
だ、け、ど。
わたしの心配は取り越し苦労、だったのだ。
思いも寄らない結果が待っていたのだ。
彼が、エレクトしなかった。というか。
彼の名誉の為に言っておけば、そういうことができる状態にはなったのだけれど、わたしの中に行き着かなかった、ということに、なるのかな。
・・・こういう場合、どうすれば男は傷つかないのだろう。
わたしは笑ってしまったから、ダメかな、こういうの。
でも、安心したから笑ったの、だから分かってもらえたかな。
まだ夜も早いうちだったから、わたしたちはまたアイスクリームを食べに行った。
恋になるアイスクリーム日よりなり
この夏、この人とならそばにいられるかも。
クッキークランチ。同じアイスを選んでわたしは思う。この人は、あの彼じゃない。でも、それでいい。それが、いいんだもの。
「あのね、あなたのこと、好きよわたし。」
一気に言ってしまうと、上唇のバニラを舐めたあとで、ありがとう、と答えが返ってきた。
その人は運転しながら、
「じゃあ、好きな絵描きは誰ですか。」
とたずねてきた。
一瞬、答えに詰まったのは、この人との未来を考えたからだった。恋に、なるのか、ならないのか。
同じ会社のメンバー十人ほどで、スキーに行く途中の車内だった。彼とは初対面で、たまたまくじ引きで同じ車に乗り合わせることになったのだ。雪の中、二時間ばかりの密室。
いかにもコンピユーター室勤務らしい硬質の横顔は、前から見るよりも整って見え、緊張するとおしゃべりが止まらなくなるわたしの癖を思い切り引き出した。だからわたしは、気が付くと、自分が絵を見るのが好きで、休日には一人で絵画展に出かけるということまで話してしまっていた。
初めて会った人に「一人で美術館に入り浸るのが好き」だなどど話さない方がいい。それは適度に男から可愛がられる女でいようという二十三のOLの処世術のようなものであった。
でも言っちゃった。
で、今度は「お気に入りの画家」なんかたずねられているのである。
わたしは、迷った。
頭の中には、二人の名前がある。
シャガールとカンデインスキー。
無難に、カワイイOL 路線を取るのであれば、それはもう、シャガール、だ。
でも、実は、本当に大好きなのは、カンデインスキーなのである。
わたしは、多分、雪道を確かな腕で運転していくこの人を好きになりかけているのだ。
ギアを握っている指に触れられても、嫌じゃない。
ここでどう出ようか。
単純な話、相手に気にいられるには、どっちの名前を出した方が良いのか、ということである。
迷った末に、
「カンデインスキー。あの、青の使い方が好きなんです。」
と、本当のことを口にした。
休みの日に一人でいる、それも美術館で、ということが知られている以上、カワイイ路線からは外れてしまっている、という事実に思い当たったから。
だから、もう仕方がない。
それから季節は、ふたつ、巡った。
スキー場でも、帰りの車でも、その後食事をした店でも、彼とは近くにならなかった。積極的に仕掛けていけるほど美人ではなかったから、その辺はわきまえているつもりだった。
だから、梅雨が明けてすぐ、彼から電話をもらったときには正直言ってびっくりした。
嬉しかったけれど、何だろうと思った。
待ち合せた喫茶店は、紅茶の専門店だった。冷房の程よく効いた場所で、あたたかいダージリンテイーを飲みながら待った。
夏服の彼が現れたのは、最初の一口をすすった瞬間で、こんにちは、と言いながら口の中の苦みに気を取られた。
彼の持っている大きな荷物に目がいかなかったのはそういう事情である。
わたしたちは、しばらく仕事の話をした。
彼は、クイーンメリーを頼んだ。そしてポットが空になる頃、おもむろにその荷物をテーブルの上に置き、そして、
「やっとできあがったんだけれど、受け取ってくれるかな。」
と、ごく普通な言い方でこちらに押し出してきた。
30センチ四方ほどの、平べったいそれは、白い布で包まれている。 両腕を交差するようにしてそっと開くと、一枚の絵が入っていた。
「これは・・・。」
濃紺からセルリアンブルーまで、様々な青で描かれた、一人の男の肖像画。
「カンデイスキーの、肖像画ね。」
わたしが言うと、彼は縁無し眼鏡の奥の眼をやわらかく微笑ませながら、
「分かってくれた。」
と、嬉しそうに言った。
「冬から今までかかったんだけれど、何とか描けたから・・・受け取ってもらえるかな。」
そのようにして、わたしは、絵を描くのが大好きな恋人を得たのだった。
カンデインスキーの青は、だから今でも・・・彼と別れて何年も経ってしまった今でも、わたしには特別ないろをしている。
夏の夜、眠れないままに空の色をぼんやり追いかけていて、唐突に、胸に一枚の絵が浮かび上がる。
夏の夜の藍、青、白と明け易し
ありとあらゆる「青」で描かれた画家の肖像。
別れたときに、返してしまって今はもう手元にない絵のことを、夏の夜明けを迎える度ごとに、きっと思い出すのだろう。
「じゃあ、好きな絵描きは誰ですか。」
とたずねてきた。
一瞬、答えに詰まったのは、この人との未来を考えたからだった。恋に、なるのか、ならないのか。
同じ会社のメンバー十人ほどで、スキーに行く途中の車内だった。彼とは初対面で、たまたまくじ引きで同じ車に乗り合わせることになったのだ。雪の中、二時間ばかりの密室。
いかにもコンピユーター室勤務らしい硬質の横顔は、前から見るよりも整って見え、緊張するとおしゃべりが止まらなくなるわたしの癖を思い切り引き出した。だからわたしは、気が付くと、自分が絵を見るのが好きで、休日には一人で絵画展に出かけるということまで話してしまっていた。
初めて会った人に「一人で美術館に入り浸るのが好き」だなどど話さない方がいい。それは適度に男から可愛がられる女でいようという二十三のOLの処世術のようなものであった。
でも言っちゃった。
で、今度は「お気に入りの画家」なんかたずねられているのである。
わたしは、迷った。
頭の中には、二人の名前がある。
シャガールとカンデインスキー。
無難に、カワイイOL 路線を取るのであれば、それはもう、シャガール、だ。
でも、実は、本当に大好きなのは、カンデインスキーなのである。
わたしは、多分、雪道を確かな腕で運転していくこの人を好きになりかけているのだ。
ギアを握っている指に触れられても、嫌じゃない。
ここでどう出ようか。
単純な話、相手に気にいられるには、どっちの名前を出した方が良いのか、ということである。
迷った末に、
「カンデインスキー。あの、青の使い方が好きなんです。」
と、本当のことを口にした。
休みの日に一人でいる、それも美術館で、ということが知られている以上、カワイイ路線からは外れてしまっている、という事実に思い当たったから。
だから、もう仕方がない。
それから季節は、ふたつ、巡った。
スキー場でも、帰りの車でも、その後食事をした店でも、彼とは近くにならなかった。積極的に仕掛けていけるほど美人ではなかったから、その辺はわきまえているつもりだった。
だから、梅雨が明けてすぐ、彼から電話をもらったときには正直言ってびっくりした。
嬉しかったけれど、何だろうと思った。
待ち合せた喫茶店は、紅茶の専門店だった。冷房の程よく効いた場所で、あたたかいダージリンテイーを飲みながら待った。
夏服の彼が現れたのは、最初の一口をすすった瞬間で、こんにちは、と言いながら口の中の苦みに気を取られた。
彼の持っている大きな荷物に目がいかなかったのはそういう事情である。
わたしたちは、しばらく仕事の話をした。
彼は、クイーンメリーを頼んだ。そしてポットが空になる頃、おもむろにその荷物をテーブルの上に置き、そして、
「やっとできあがったんだけれど、受け取ってくれるかな。」
と、ごく普通な言い方でこちらに押し出してきた。
30センチ四方ほどの、平べったいそれは、白い布で包まれている。 両腕を交差するようにしてそっと開くと、一枚の絵が入っていた。
「これは・・・。」
濃紺からセルリアンブルーまで、様々な青で描かれた、一人の男の肖像画。
「カンデイスキーの、肖像画ね。」
わたしが言うと、彼は縁無し眼鏡の奥の眼をやわらかく微笑ませながら、
「分かってくれた。」
と、嬉しそうに言った。
「冬から今までかかったんだけれど、何とか描けたから・・・受け取ってもらえるかな。」
そのようにして、わたしは、絵を描くのが大好きな恋人を得たのだった。
カンデインスキーの青は、だから今でも・・・彼と別れて何年も経ってしまった今でも、わたしには特別ないろをしている。
夏の夜、眠れないままに空の色をぼんやり追いかけていて、唐突に、胸に一枚の絵が浮かび上がる。
夏の夜の藍、青、白と明け易し
ありとあらゆる「青」で描かれた画家の肖像。
別れたときに、返してしまって今はもう手元にない絵のことを、夏の夜明けを迎える度ごとに、きっと思い出すのだろう。
暑いね。
2002年7月16日 ニチジョウのアレコレかつて、「お見合い」盛りの日々がありました。
わたしのことばかりでなくて、友達、同僚、人伝てに聞いたお話、いろいろ思い出したので、書いてみようかな、と思います。
本人たちは真剣、でも・・・。
☆ 最初のお見合い話にしては・・・
十七歳の女子高校生の跡取り娘に来たお話。
現在、地方銀行勤務、でももう働きたくないから婿にでも行こうかなと思った、という二十五歳。いくら何でも覇気が無さ過ぎる、と娘のハハが怒って、つぶれる。
☆ 彼女の相手は・・・
地方企業とは言え、名前を聞けば、あああそこの、と大体の人が分かってくれる建設業者の一人息子。有名私大卒、高身長、高級車、しかも話は面白い、と来たが。
「それだけ条件が良くて、あたしなんかとお見合いするっていうのは、きっと何かかくれた欠点があるに違いないわ。」
ということでお断り。
彼女のご両親は泣いたそうです。
☆ 高学歴、といえば・・・
コロンビア大学院卒、という。しかも、一部上場会社の課長にして、高身長。ただ、顔がお盆みたいにまんまるだったので、娘が会うのを躊躇していたら、菓子折り持参でお仲人さんが娘の家に謝りに見えた。
「いいにくいのですが、お話は無かったことにして・・・。実は、同性愛のご趣味があるのだそうで。」
☆ お仲人さんは・・・
いろいろな人がいます。大体、お年寄り。品のいい人、悪い人。
お礼に菓子折りを差し出すと、
「あたしゃこんなもんはいらんから、商品券をくれ。」と大声で叫んだおばば。
「西武(当時)の工藤」だと言うので会いに行くと、「デーブ大久保」が出て来た。お断りすると、
「男と女ってのは、結局ヤッてみなきゃ相性なんか分からんのだ。」と、怒鳴ったおっさん。嫁入り前の娘にそういう言い方は無いだろうに。
地方では婿養子というのはなり手が少ないのです。大体、この子供が少ない時代、次男、三男をさがすだけでも一苦労なのに、まして長男が家を継げば大体みんな都会へ出て行きますよ。
そういう状態を踏まえて、
「あんたたち、跡取り娘同士で情報交換して、自分に合わんかったらよそに回しなさいや。」
とおっしゃったおじいさま。
花婿リサイクル。なんかヤラシイ。
☆ 婿養子候補は少ない、だから・・・
二人姉妹で嫁に行ってしまった姉。妹が跡をとりましょうということになったのだけれど。
まず来た話は、なんとむかし姉が高校時代にフッた同級生。妹には何の罪も無いが、ことわられてしまった。
次は、「なんかデクの棒みたい」に突っ立っているだけの男。無口を通り越して不気味に静か。おことわりしたら。
姉の友人の結婚式で、花婿の席に座っていたのは、その「デク」でしたとさ。
☆地方と言えば・・・
公共交通機関が少ない。だから、くるま。
しかし、なぜかお見合いの度、くるまのトラブルが相次いだ。白状すると、これはわたしのこと。もちろん全て実話。もちろん相手は・・・あまり言いたく無いけど、別々の人だよん。
?横断歩道を右折しようとして、小学生男児を轢きそうになる。ついでに、こいつが、あの、滝です。
?海沿いのカーブで、前のくるまに追突しそうになる。あと数センチ、こわかった。
・・・これは、未遂。だが。お次は。
?待ち合せ場所に来る途中で運転を誤り、田んぼに落ちる。本人にケガは無かったらしい。壊れた眼鏡をかけて、ドロのついたズボンで、大幅に遅刻していらっしゃいました。
?雪が降っていて後ろが見えなかったのもあるが、駐車場で止めそこない、後ろの駐車車両に激突。相手の傷は相当のものだったのに、「逃げましょうか。」。この一言で、おことわりしようと決めた。
?八月十五日のお見合いだというのに、エアコンが壊れていた。来る途中で壊れたとおっしゃる。しかも、その後、「海へ行きましょう。」なんでわざわざ混んでいる道を選ぶのか。しかも、そっちもこっちもスーツだ・・・。暑うい・・・。
今からして思えば、もっと広いココロで接してあげればよかったのかもしれません。
でも、若い娘というのは傲慢なんです。みなさん、ごめんなさい。きっと、幸せになっていることと思います、そう願います。
「暑いね。」がほどくものある初対面
・・・でも、こういう話はうまくいかなかったお話の方が面白いよね。
わたしのことばかりでなくて、友達、同僚、人伝てに聞いたお話、いろいろ思い出したので、書いてみようかな、と思います。
本人たちは真剣、でも・・・。
☆ 最初のお見合い話にしては・・・
十七歳の女子高校生の跡取り娘に来たお話。
現在、地方銀行勤務、でももう働きたくないから婿にでも行こうかなと思った、という二十五歳。いくら何でも覇気が無さ過ぎる、と娘のハハが怒って、つぶれる。
☆ 彼女の相手は・・・
地方企業とは言え、名前を聞けば、あああそこの、と大体の人が分かってくれる建設業者の一人息子。有名私大卒、高身長、高級車、しかも話は面白い、と来たが。
「それだけ条件が良くて、あたしなんかとお見合いするっていうのは、きっと何かかくれた欠点があるに違いないわ。」
ということでお断り。
彼女のご両親は泣いたそうです。
☆ 高学歴、といえば・・・
コロンビア大学院卒、という。しかも、一部上場会社の課長にして、高身長。ただ、顔がお盆みたいにまんまるだったので、娘が会うのを躊躇していたら、菓子折り持参でお仲人さんが娘の家に謝りに見えた。
「いいにくいのですが、お話は無かったことにして・・・。実は、同性愛のご趣味があるのだそうで。」
☆ お仲人さんは・・・
いろいろな人がいます。大体、お年寄り。品のいい人、悪い人。
お礼に菓子折りを差し出すと、
「あたしゃこんなもんはいらんから、商品券をくれ。」と大声で叫んだおばば。
「西武(当時)の工藤」だと言うので会いに行くと、「デーブ大久保」が出て来た。お断りすると、
「男と女ってのは、結局ヤッてみなきゃ相性なんか分からんのだ。」と、怒鳴ったおっさん。嫁入り前の娘にそういう言い方は無いだろうに。
地方では婿養子というのはなり手が少ないのです。大体、この子供が少ない時代、次男、三男をさがすだけでも一苦労なのに、まして長男が家を継げば大体みんな都会へ出て行きますよ。
そういう状態を踏まえて、
「あんたたち、跡取り娘同士で情報交換して、自分に合わんかったらよそに回しなさいや。」
とおっしゃったおじいさま。
花婿リサイクル。なんかヤラシイ。
☆ 婿養子候補は少ない、だから・・・
二人姉妹で嫁に行ってしまった姉。妹が跡をとりましょうということになったのだけれど。
まず来た話は、なんとむかし姉が高校時代にフッた同級生。妹には何の罪も無いが、ことわられてしまった。
次は、「なんかデクの棒みたい」に突っ立っているだけの男。無口を通り越して不気味に静か。おことわりしたら。
姉の友人の結婚式で、花婿の席に座っていたのは、その「デク」でしたとさ。
☆地方と言えば・・・
公共交通機関が少ない。だから、くるま。
しかし、なぜかお見合いの度、くるまのトラブルが相次いだ。白状すると、これはわたしのこと。もちろん全て実話。もちろん相手は・・・あまり言いたく無いけど、別々の人だよん。
?横断歩道を右折しようとして、小学生男児を轢きそうになる。ついでに、こいつが、あの、滝です。
?海沿いのカーブで、前のくるまに追突しそうになる。あと数センチ、こわかった。
・・・これは、未遂。だが。お次は。
?待ち合せ場所に来る途中で運転を誤り、田んぼに落ちる。本人にケガは無かったらしい。壊れた眼鏡をかけて、ドロのついたズボンで、大幅に遅刻していらっしゃいました。
?雪が降っていて後ろが見えなかったのもあるが、駐車場で止めそこない、後ろの駐車車両に激突。相手の傷は相当のものだったのに、「逃げましょうか。」。この一言で、おことわりしようと決めた。
?八月十五日のお見合いだというのに、エアコンが壊れていた。来る途中で壊れたとおっしゃる。しかも、その後、「海へ行きましょう。」なんでわざわざ混んでいる道を選ぶのか。しかも、そっちもこっちもスーツだ・・・。暑うい・・・。
今からして思えば、もっと広いココロで接してあげればよかったのかもしれません。
でも、若い娘というのは傲慢なんです。みなさん、ごめんなさい。きっと、幸せになっていることと思います、そう願います。
「暑いね。」がほどくものある初対面
・・・でも、こういう話はうまくいかなかったお話の方が面白いよね。
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星祭り
2002年7月12日 滝とのことークリの花(完結)「連載」にお付き合いいただいたみなさま、ありがとうございました。
自分の書いたものを毎日(というわけには参りませんでしたが)少しずつ読んでいただく、なんてことは、高校生以来でした。あの頃、ノートにお話を書いては、お友達に読んでもらっていたんです。よく考えると、小学生の高学年位からそういうことをしていました。「お話」をつくることが、本当にすきなんだと思います。
ただ、今回、一話につき、ひとつ俳句を入れていくのが思いの他しんどかったです。単に俳句が思い浮かばずに苦しむ、ということばかりでなく、季節に縛られてしまうので、たとえば、時間をひとつ先の季節まで進めてしまう、というようなことができず、この話も、結局「わたし」と「滝」が恋人同士でいられたのは、梅雨の間だけだったのか、みたいなことになってしまい、そこらへん、詰めの甘さを感じております。
いろいろわかりにくい表現もあったと思いますし、果たしてこれが毎度毎度読んでいただけるほどのもんやったんか、といろいろ考えると恥ずかしくて踊り出しそうなので、まあ、この「お話」の話は今日でおしまいにいたします。
どうも、ありがとうございました。
で、あともう少しだけ、「裏話」を秘密日記に書いておきます。
短冊に書けぬことある星祭り
あ、あと、わたしは、決してタッチが上手では無いので、しょっちゅう「滝」を「たこ」と打ってしまいました。結構、わずらわしかったです。
自分の書いたものを毎日(というわけには参りませんでしたが)少しずつ読んでいただく、なんてことは、高校生以来でした。あの頃、ノートにお話を書いては、お友達に読んでもらっていたんです。よく考えると、小学生の高学年位からそういうことをしていました。「お話」をつくることが、本当にすきなんだと思います。
ただ、今回、一話につき、ひとつ俳句を入れていくのが思いの他しんどかったです。単に俳句が思い浮かばずに苦しむ、ということばかりでなく、季節に縛られてしまうので、たとえば、時間をひとつ先の季節まで進めてしまう、というようなことができず、この話も、結局「わたし」と「滝」が恋人同士でいられたのは、梅雨の間だけだったのか、みたいなことになってしまい、そこらへん、詰めの甘さを感じております。
いろいろわかりにくい表現もあったと思いますし、果たしてこれが毎度毎度読んでいただけるほどのもんやったんか、といろいろ考えると恥ずかしくて踊り出しそうなので、まあ、この「お話」の話は今日でおしまいにいたします。
どうも、ありがとうございました。
で、あともう少しだけ、「裏話」を秘密日記に書いておきます。
短冊に書けぬことある星祭り
あ、あと、わたしは、決してタッチが上手では無いので、しょっちゅう「滝」を「たこ」と打ってしまいました。結構、わずらわしかったです。
青栗
2002年7月11日 滝とのことークリの花(完結)青栗の熟さず落ちて静かなり
結局滝の結婚式は、一年後になった。
滝の父親が郷村俊枝を気に入らなかったから、というのが、結婚が遅れた原因らしい。でもそれは、例によって「更衣室情報」だから、真相は分からない。
わたしは、窓辺に立って、栗の木を見ている。
大きな栗の木。悩ましい匂いをふりまく花の季節を終えて、若葉はいよいよつややかに、生まれたての夏の光を求めて揺れる。
風が流れると、木も流れる。ゆっさりと。
滝とは、あの日、くるまから突き落とされて以来、会っていない。
藤城とは、仕事の上でだけの関係でいる。時々何か言いたそうだけれど、わたしは鉄壁の笑顔で追い返している。
この一年のうちに、二人の人とお見合いをし、何人かの男の人とふたりだけで食事をした。でも、結局、誰ともステデイにはならずにいる。
率直に言ってしまうと、滝と別れて以来、誰とも寝ていない。
滝への未練、まあそういうこともあるだろう。
会いたくて泣いた夜もあるし、もう少しで電話してしまいそうになった夜更けもあるし、会社まで行ってしまおうかなどと、ストーカーまがいのことを考えた夕暮れもある。
だけど、何もしなかった。
愛しているから別れよう、と言ったあのときの言葉を、切りたい女へのずるい言い訳にしてしまわないために。
結納が決まったときには、さすがにつらかったけれど。
「・・・いいのか、これで。」
残業時間にぼんやりと、喫煙室の壁によりかかっていたら、大田がどこからかやって来てそう言った。
「・・・よくは、無いですけど、もう、いいんです。」
大田はいぶかしそうにわたしを見た。
「おれはあいつを見損なったよ。」
「でも、今でもくっついているらしいじゃ無いですか。」
「まあな。でも、あんなふうに誰かのものにあっさりなれるやつだと思ってなかったから。」
わたしは少し笑う。
「誰かのもの、だなんて、女の人のことを言ってるみたい。」
「そうかな。」
なぜか赤くなり、大田はうつむく。
この人は、どこまで知ったのだろう。あの別れの日、あの後、滝は大田にどう説明したのだろう。
最も、からだの関係のある男と女のことは、当事者にしかわからないのだ、真実は。
いつか、滝がわたしのことを思い出したときに、愛し合った記憶が切なくていとしければそれでいい。
いつか、女としては存在しなくなる妻とは違い、記憶の中の恋人は、色褪せることは無いのだから。
熟さなくとも、青い実はつややかに光り続ける。
結婚に至らなくて終わってしまう恋は無数にある。嵐が通り過ぎた後に庭中に散らばる青い栗の実よりもたくさん。
でも、結婚することが、本当に一番幸せな恋のかたちなのだろうか。
かつてその胸の中で爆発しそうな欲望をぶつけあい、手のひらをかさねただけで、目がくらみそうになっていた相手を、生活が変えていく。
何も感じさせない、ただの同居人に。
それが、本当に、恋の成就の最高級のかたちと言えるだろうか。
背後でふいにケイタイが鳴り出した。わたしの恋の成就についての考察はそこで打ち止めになった。
電話は披露宴に出席していた同僚からのもので、とんでもない話だったのだ。
披露宴で、大田が新郎の滝に切り付けた、という。
花嫁のお色直しのときに、ビールを注ぐためにひな壇に近付いた大田は、握手を求めて、滝の手を握った。
その中に、カッターナイフが仕込んであったのだという。
勿論、命がどうこう、というようなことではないから、滝のからだのことは心配無用だけれど、大田がそのまま会場を出て連絡がつかなくなっているから注意しろ、ということだった。
「披露宴は、どうなったの。」
「中止よ、もちろん。だって、血まみれなのよ、そこらじゅう。」
「どうして、大田さんが滝さんに、そんなこと・・・。」
「あなたにも分からない?。」
「分からない。」
栗の木ごしには、国道が見える。
走るくるまの一台が、大田の車種と同じものであることに気が付き、わたしは目をこらす。
「あんなに誰かのものに、あっさりなるなんて思わなかった。」 ・・・ まさか、わたしは思い違いをしていたのだろうか。
郷村俊枝は、わたしにとっても、大田にとっても、敵だったということ・・・。
くるまが向かってくる。
もしかしたら、新郎を略奪して来たかもしれないなんて、ばかなことを一瞬考える。
「完」
結局滝の結婚式は、一年後になった。
滝の父親が郷村俊枝を気に入らなかったから、というのが、結婚が遅れた原因らしい。でもそれは、例によって「更衣室情報」だから、真相は分からない。
わたしは、窓辺に立って、栗の木を見ている。
大きな栗の木。悩ましい匂いをふりまく花の季節を終えて、若葉はいよいよつややかに、生まれたての夏の光を求めて揺れる。
風が流れると、木も流れる。ゆっさりと。
滝とは、あの日、くるまから突き落とされて以来、会っていない。
藤城とは、仕事の上でだけの関係でいる。時々何か言いたそうだけれど、わたしは鉄壁の笑顔で追い返している。
この一年のうちに、二人の人とお見合いをし、何人かの男の人とふたりだけで食事をした。でも、結局、誰ともステデイにはならずにいる。
率直に言ってしまうと、滝と別れて以来、誰とも寝ていない。
滝への未練、まあそういうこともあるだろう。
会いたくて泣いた夜もあるし、もう少しで電話してしまいそうになった夜更けもあるし、会社まで行ってしまおうかなどと、ストーカーまがいのことを考えた夕暮れもある。
だけど、何もしなかった。
愛しているから別れよう、と言ったあのときの言葉を、切りたい女へのずるい言い訳にしてしまわないために。
結納が決まったときには、さすがにつらかったけれど。
「・・・いいのか、これで。」
残業時間にぼんやりと、喫煙室の壁によりかかっていたら、大田がどこからかやって来てそう言った。
「・・・よくは、無いですけど、もう、いいんです。」
大田はいぶかしそうにわたしを見た。
「おれはあいつを見損なったよ。」
「でも、今でもくっついているらしいじゃ無いですか。」
「まあな。でも、あんなふうに誰かのものにあっさりなれるやつだと思ってなかったから。」
わたしは少し笑う。
「誰かのもの、だなんて、女の人のことを言ってるみたい。」
「そうかな。」
なぜか赤くなり、大田はうつむく。
この人は、どこまで知ったのだろう。あの別れの日、あの後、滝は大田にどう説明したのだろう。
最も、からだの関係のある男と女のことは、当事者にしかわからないのだ、真実は。
いつか、滝がわたしのことを思い出したときに、愛し合った記憶が切なくていとしければそれでいい。
いつか、女としては存在しなくなる妻とは違い、記憶の中の恋人は、色褪せることは無いのだから。
熟さなくとも、青い実はつややかに光り続ける。
結婚に至らなくて終わってしまう恋は無数にある。嵐が通り過ぎた後に庭中に散らばる青い栗の実よりもたくさん。
でも、結婚することが、本当に一番幸せな恋のかたちなのだろうか。
かつてその胸の中で爆発しそうな欲望をぶつけあい、手のひらをかさねただけで、目がくらみそうになっていた相手を、生活が変えていく。
何も感じさせない、ただの同居人に。
それが、本当に、恋の成就の最高級のかたちと言えるだろうか。
背後でふいにケイタイが鳴り出した。わたしの恋の成就についての考察はそこで打ち止めになった。
電話は披露宴に出席していた同僚からのもので、とんでもない話だったのだ。
披露宴で、大田が新郎の滝に切り付けた、という。
花嫁のお色直しのときに、ビールを注ぐためにひな壇に近付いた大田は、握手を求めて、滝の手を握った。
その中に、カッターナイフが仕込んであったのだという。
勿論、命がどうこう、というようなことではないから、滝のからだのことは心配無用だけれど、大田がそのまま会場を出て連絡がつかなくなっているから注意しろ、ということだった。
「披露宴は、どうなったの。」
「中止よ、もちろん。だって、血まみれなのよ、そこらじゅう。」
「どうして、大田さんが滝さんに、そんなこと・・・。」
「あなたにも分からない?。」
「分からない。」
栗の木ごしには、国道が見える。
走るくるまの一台が、大田の車種と同じものであることに気が付き、わたしは目をこらす。
「あんなに誰かのものに、あっさりなるなんて思わなかった。」 ・・・ まさか、わたしは思い違いをしていたのだろうか。
郷村俊枝は、わたしにとっても、大田にとっても、敵だったということ・・・。
くるまが向かってくる。
もしかしたら、新郎を略奪して来たかもしれないなんて、ばかなことを一瞬考える。
「完」
氷の中の華
2002年7月9日 滝とのことークリの花(完結)滝は、くるまに乗り込むとすぐに、ハンドルの上にうつぶせの姿勢になる。
わたしは、気配でそれを感じる。うっすらと目を開けると、窓ごしに大田のくるまが見える。運転席を倒しているのか、大田の姿はみえない。ただ、排気口から灰色の煙と、水滴が二、三滴。エアコンをつけて、エンジンをかけて。乗っているのがそれで分かる。
大田は何を思っているのだろう。
あんなふうに待たされて。
「降りて、くれないか。」
滝の低い声がした。
うつぶせのままなので、くぐもった声。それも、どこか苦しそうなので、泣いているのかとさえ思った。
「頼む。降りてくれ。」
わたしには、「降りる」という意味が、単にこのくるまから、というのでは無く、滝の人生から、というふうに聞こえる。
降りてくれ、オレの人生から。
「どうして、わたしを抱いたの。」
そもそもそこからはじまったのだ。
「わたしを抱けば、いずれはこういうことになるのは分かっていたはずでしょう。それとも、わたしがあなたのところにお嫁にいく、と言っていれば、わたしと結婚したの。」
「あととり娘のあなたを、嫁にはできない。オレも養子にはいきたくない、とすれば、最初から近付かない方がいい。それは分かっていたよ。でも。」
滝は顔を上げる。前を向いたまま、
「抱きたかった。好きになった。」
と、つぶやいた。
「いっしょに仕事をしているうちに、次第に好きになっていった。そのうちに、抱きたくなった。そして、一度抱いたら、離れられなくなった。
あなたは、女だから分からないかもしれない、でも、たまらなく抱きたくて、欲しくて欲しくてたまらなくて、のめりこんだ。」
わたしは、滝を見た。
どうして、こんな言葉を、こんなに悲しそうに言うのだろう。
欲しくて欲しくて、たまらないから結婚しよう、という結論にどうしてつながらないのだろう。
「それは、とても怖いことだったんだ。自分がコントロールできなくなる・・・。まるで、ガキみたいにさ、いい年をして。
信じてもらわなくてもいいが、こんなことに、こんな風に女に何もかも盗っていかれそうになったのは、はじめてなんだ。
今日は、ハッキリ別れようと言おうと思った。
でも、あなたとふたりきりになったら、また自分がどうなるのか自信が無かった。だから、大田さんに来てもらった。自分が暴走しないために。」
「どうして、別れなければいけないの。」
声が震える。
「そんなにわたしを想ってくれているのに、どうしてなの。」
悲しい。そこまで自分を欲してくれている男が現れたのは初めてで、なのに、その男は今、別れを告げている。
「オレは、弱い。あなたは、そのことを分かっているか?。何もかも盗っていかれる、という意味が分かるか?。仕事が、手につかなくなりそうだったんだぞ。」
男が仕事が手に付かなくなる、ということは、女が悪いのか、女のせいなのか。
藤城が、滝と愛し合うようになる直前に言った言葉を思い出した。男にばかり罪を着せてはいけない。
ええ、わたしは、この人に罪を着せてはいない。
だけど、どうして、女に罪を着せるの。
「愛し合って・・・どうして、別れなきゃいけないのか、分からないわ。」
滝の言葉が、言い訳かもしれないという考えに、一瞬心を支配されながら、否定する。
別れの言い訳にしたくない、あなたの、愛の、言葉を。
愛の、言葉を。
初めてベッド以外で言ってくれた言葉たち。抱きしめたい。できれば拾い集めて仕舞い込みたい。貝殻のように。
ナニモカモトッテイカレルクライニアイシテイル。
わたしは、そっと滝の頬に手を当てる。
最初は、片手。
そして、もう片手。
両手で包み込む面長の顔は青ざめて、ととのった顔立ちによく似合う陰影をつくっている。
キス。
静かな、キス。
唇を合わせるだけのキス。まるで、中学生のフアーストキスのよう、舌を絡ませ合うでもなく、唇を貪り合うでもなく。
「痛っ。」
でも、その直後で男の両腕がわたしを引き離す。ものすごい力で。かつて両腿を思い切り引き寄せたのと、同じくらいの強さが、今度は引き離すのにつかわれる。
「離れてくれ。」
男はそれで終わらない。
片手でわたしを抱えたまま、もう一方の腕はドアに向けられ。
乾いた音でドアが開けられ、そしてわたしは地面に投げ出される。
「出ていってくれ、頼むから。」
絞り出すような声が聞こえた。スカートのすそを直し、打ち付けられて傷む膝を無意識になでながら、わたしは、茫然と滝を見た。
とても、結婚を控えた男とは思えない、苦悩に満ちた顔。
わたしは、滝の人生から出て行った。
ひとたびのキスは氷の中の華
わたしは、気配でそれを感じる。うっすらと目を開けると、窓ごしに大田のくるまが見える。運転席を倒しているのか、大田の姿はみえない。ただ、排気口から灰色の煙と、水滴が二、三滴。エアコンをつけて、エンジンをかけて。乗っているのがそれで分かる。
大田は何を思っているのだろう。
あんなふうに待たされて。
「降りて、くれないか。」
滝の低い声がした。
うつぶせのままなので、くぐもった声。それも、どこか苦しそうなので、泣いているのかとさえ思った。
「頼む。降りてくれ。」
わたしには、「降りる」という意味が、単にこのくるまから、というのでは無く、滝の人生から、というふうに聞こえる。
降りてくれ、オレの人生から。
「どうして、わたしを抱いたの。」
そもそもそこからはじまったのだ。
「わたしを抱けば、いずれはこういうことになるのは分かっていたはずでしょう。それとも、わたしがあなたのところにお嫁にいく、と言っていれば、わたしと結婚したの。」
「あととり娘のあなたを、嫁にはできない。オレも養子にはいきたくない、とすれば、最初から近付かない方がいい。それは分かっていたよ。でも。」
滝は顔を上げる。前を向いたまま、
「抱きたかった。好きになった。」
と、つぶやいた。
「いっしょに仕事をしているうちに、次第に好きになっていった。そのうちに、抱きたくなった。そして、一度抱いたら、離れられなくなった。
あなたは、女だから分からないかもしれない、でも、たまらなく抱きたくて、欲しくて欲しくてたまらなくて、のめりこんだ。」
わたしは、滝を見た。
どうして、こんな言葉を、こんなに悲しそうに言うのだろう。
欲しくて欲しくて、たまらないから結婚しよう、という結論にどうしてつながらないのだろう。
「それは、とても怖いことだったんだ。自分がコントロールできなくなる・・・。まるで、ガキみたいにさ、いい年をして。
信じてもらわなくてもいいが、こんなことに、こんな風に女に何もかも盗っていかれそうになったのは、はじめてなんだ。
今日は、ハッキリ別れようと言おうと思った。
でも、あなたとふたりきりになったら、また自分がどうなるのか自信が無かった。だから、大田さんに来てもらった。自分が暴走しないために。」
「どうして、別れなければいけないの。」
声が震える。
「そんなにわたしを想ってくれているのに、どうしてなの。」
悲しい。そこまで自分を欲してくれている男が現れたのは初めてで、なのに、その男は今、別れを告げている。
「オレは、弱い。あなたは、そのことを分かっているか?。何もかも盗っていかれる、という意味が分かるか?。仕事が、手につかなくなりそうだったんだぞ。」
男が仕事が手に付かなくなる、ということは、女が悪いのか、女のせいなのか。
藤城が、滝と愛し合うようになる直前に言った言葉を思い出した。男にばかり罪を着せてはいけない。
ええ、わたしは、この人に罪を着せてはいない。
だけど、どうして、女に罪を着せるの。
「愛し合って・・・どうして、別れなきゃいけないのか、分からないわ。」
滝の言葉が、言い訳かもしれないという考えに、一瞬心を支配されながら、否定する。
別れの言い訳にしたくない、あなたの、愛の、言葉を。
愛の、言葉を。
初めてベッド以外で言ってくれた言葉たち。抱きしめたい。できれば拾い集めて仕舞い込みたい。貝殻のように。
ナニモカモトッテイカレルクライニアイシテイル。
わたしは、そっと滝の頬に手を当てる。
最初は、片手。
そして、もう片手。
両手で包み込む面長の顔は青ざめて、ととのった顔立ちによく似合う陰影をつくっている。
キス。
静かな、キス。
唇を合わせるだけのキス。まるで、中学生のフアーストキスのよう、舌を絡ませ合うでもなく、唇を貪り合うでもなく。
「痛っ。」
でも、その直後で男の両腕がわたしを引き離す。ものすごい力で。かつて両腿を思い切り引き寄せたのと、同じくらいの強さが、今度は引き離すのにつかわれる。
「離れてくれ。」
男はそれで終わらない。
片手でわたしを抱えたまま、もう一方の腕はドアに向けられ。
乾いた音でドアが開けられ、そしてわたしは地面に投げ出される。
「出ていってくれ、頼むから。」
絞り出すような声が聞こえた。スカートのすそを直し、打ち付けられて傷む膝を無意識になでながら、わたしは、茫然と滝を見た。
とても、結婚を控えた男とは思えない、苦悩に満ちた顔。
わたしは、滝の人生から出て行った。
ひとたびのキスは氷の中の華
微香水
2002年7月7日 滝とのことークリの花(完結)滝とは会わないまま、梅雨が明けた。
郷村俊枝は転勤して行き、予想通り、わたしはその引継ぎ業務で忙しくなった。
仕事が忙しいのは、都合がいい。
こんな風に気持ちがふさぎがちなときには。
滝には勿論、会いたくないわけではなかった。
でも、連絡できずにいた。
こわかった。
最終結論を出すということに怯えた。
男がひとたび仕事上に上昇気流をつかんだら、もうちょっとやそっとでは退かないだろう。
もともと滝は野心家だし、負けず嫌いだ。
すべてにおいて、勝ち、に行きたいタイプの男だ。わたしは、それをよく知っている。
そういうところを愛していたから。
愛しているから、離れたくはなかった。
でも、会えば、さよならを言い渡されるだろう。
そのとき自分がどうなってしまうのか、予想がつかない。
また、全てをうやむやにして抱かれてしまうのか。
今までそうしてきたように、波のように抱かれて。
だから、大田が、
「今日、滝にお前を連れてくるように言われているんだけど。」
と、声をかけてきたときには、完全にふいをつかれたと思った。
そういう手でくるのか、と思った。
大田を使って呼び出したくせに、滝は大田に席を外させる。
しかも、そこは、藤城から「事の真相」をこの前聞かされたばかりの喫茶店だったから、わたしは最初からダークな気分だった。
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
なぜか滝は微笑んでいる、その目はわたしを見ていない。この人は怯えているのだ。
「きのう、後輩たちが噂してたわ。あなたが・・・。」
「オレが?何?。」
「あなたが、あなたの家に、郷村さんが、ごあいさつに行ったらしいって。」
わたしは、一気に言った。
沈黙。
背中合わせのテーブルから、笑い声。主婦のグループ。家庭という、自分の根城を持ち得た女たちの、落ち着いた笑い声。
「・・・本当なのね。」
「・・・いや、本当とか、そういうことより・・・オレたちが結婚してもうまくいくかどうか分からないよ。」
その慌ただしく煙草に火を付ける仕種をわたしは静かに見守る。細長い、シルバーの、ダンヒルのライター。彼からネックレスをもらったときにわたしがお返しで贈ったものだ。
「オレたち、っていうのは、わたしとあなたなの。それとも。」
わたしは郷村俊枝の名前を口にしない。
それは、この期におよんで、わたしの意地みたいなものだった。
認めたくない。
「どうして、彼女を・・・。」
それだけは、分からなかった。
でも、別にそれが分かったからと言って、どうなるというわけでもない。
むしろ、彼女を選ぶ訳を聞かされる方が嫌だ。
「結婚なんか、したくなかったよ。」
「・・・。」
「でも、仕方が無かった。外堀を埋められた。」
気弱な声だった。
「もう、会わない方が、いいのね。」
そう言ったとき、彼の表情に何とも言えない安堵の表情が浮かんだ。
自分が言わなければいけないことを、相手が言ってくれたという安心感。
つまらない、男だ。
わたしは、自分のプライドを守ろうとしただけだった。
なぜか、なりふりかまわず、ということができない。
もしも、ここで大声で泣くことができれば。
そして、捨てないで、とかなんとかわめきながらすがりつくことができれば。
そうできれば、もしかしたら男は考えを変えるかもしれない。
でも、できない。
わたしは、明日からもこの町で暮らさなければならない。
誰かに取り乱したところを見られたら、今日とは違う目を向けられることになる。
それに。
自分がほんとうに欲しいものであっても、髪振りまだして獲るのでは無く、できればさりげなさを装って獲りたかった。
「・・・さよなら。」
辛うじて言いながら
「でも、最後にもう一度だけ、キスして。」
と付け加えた。
わたしがコトンと落としたわかれの言葉に、不覚にも微笑んでしまった男の顔を見たから。
「くるまに乗って。」
言い置いて席を立つ。
ため息交じりで後に続く滝は、いつもより小さく見える。
もう決して乗らぬくるまの微香水
キーを開ける軽い音、助手席の、座りなれた感覚。
わたしは、そっと目をつむる。
郷村俊枝は転勤して行き、予想通り、わたしはその引継ぎ業務で忙しくなった。
仕事が忙しいのは、都合がいい。
こんな風に気持ちがふさぎがちなときには。
滝には勿論、会いたくないわけではなかった。
でも、連絡できずにいた。
こわかった。
最終結論を出すということに怯えた。
男がひとたび仕事上に上昇気流をつかんだら、もうちょっとやそっとでは退かないだろう。
もともと滝は野心家だし、負けず嫌いだ。
すべてにおいて、勝ち、に行きたいタイプの男だ。わたしは、それをよく知っている。
そういうところを愛していたから。
愛しているから、離れたくはなかった。
でも、会えば、さよならを言い渡されるだろう。
そのとき自分がどうなってしまうのか、予想がつかない。
また、全てをうやむやにして抱かれてしまうのか。
今までそうしてきたように、波のように抱かれて。
だから、大田が、
「今日、滝にお前を連れてくるように言われているんだけど。」
と、声をかけてきたときには、完全にふいをつかれたと思った。
そういう手でくるのか、と思った。
大田を使って呼び出したくせに、滝は大田に席を外させる。
しかも、そこは、藤城から「事の真相」をこの前聞かされたばかりの喫茶店だったから、わたしは最初からダークな気分だった。
「・・・久しぶりだな。」
「ええ。」
なぜか滝は微笑んでいる、その目はわたしを見ていない。この人は怯えているのだ。
「きのう、後輩たちが噂してたわ。あなたが・・・。」
「オレが?何?。」
「あなたが、あなたの家に、郷村さんが、ごあいさつに行ったらしいって。」
わたしは、一気に言った。
沈黙。
背中合わせのテーブルから、笑い声。主婦のグループ。家庭という、自分の根城を持ち得た女たちの、落ち着いた笑い声。
「・・・本当なのね。」
「・・・いや、本当とか、そういうことより・・・オレたちが結婚してもうまくいくかどうか分からないよ。」
その慌ただしく煙草に火を付ける仕種をわたしは静かに見守る。細長い、シルバーの、ダンヒルのライター。彼からネックレスをもらったときにわたしがお返しで贈ったものだ。
「オレたち、っていうのは、わたしとあなたなの。それとも。」
わたしは郷村俊枝の名前を口にしない。
それは、この期におよんで、わたしの意地みたいなものだった。
認めたくない。
「どうして、彼女を・・・。」
それだけは、分からなかった。
でも、別にそれが分かったからと言って、どうなるというわけでもない。
むしろ、彼女を選ぶ訳を聞かされる方が嫌だ。
「結婚なんか、したくなかったよ。」
「・・・。」
「でも、仕方が無かった。外堀を埋められた。」
気弱な声だった。
「もう、会わない方が、いいのね。」
そう言ったとき、彼の表情に何とも言えない安堵の表情が浮かんだ。
自分が言わなければいけないことを、相手が言ってくれたという安心感。
つまらない、男だ。
わたしは、自分のプライドを守ろうとしただけだった。
なぜか、なりふりかまわず、ということができない。
もしも、ここで大声で泣くことができれば。
そして、捨てないで、とかなんとかわめきながらすがりつくことができれば。
そうできれば、もしかしたら男は考えを変えるかもしれない。
でも、できない。
わたしは、明日からもこの町で暮らさなければならない。
誰かに取り乱したところを見られたら、今日とは違う目を向けられることになる。
それに。
自分がほんとうに欲しいものであっても、髪振りまだして獲るのでは無く、できればさりげなさを装って獲りたかった。
「・・・さよなら。」
辛うじて言いながら
「でも、最後にもう一度だけ、キスして。」
と付け加えた。
わたしがコトンと落としたわかれの言葉に、不覚にも微笑んでしまった男の顔を見たから。
「くるまに乗って。」
言い置いて席を立つ。
ため息交じりで後に続く滝は、いつもより小さく見える。
もう決して乗らぬくるまの微香水
キーを開ける軽い音、助手席の、座りなれた感覚。
わたしは、そっと目をつむる。
未定
2002年7月5日 滝とのことークリの花(完結)このところ、「連載」を書いておりますが、考えてみれば、ちゃんとした名前が無いのですね。自分では、六月中に終わろうと思っていたのに、もう七月だし・・・。
どうしようかな。今更、通しタイトルをつけるってのもアレだし。
大体このところ「読み切り」ですらないし。
少し、反省・・・。
もう少しで、このお話は終わりです。
あと少しだけ、お付き合いくださいませ。
などと書きながら、今日は書く時間は無さそうですが。
メッセイジを書きますので、ちらっと見て行ってください。
どうしようかな。今更、通しタイトルをつけるってのもアレだし。
大体このところ「読み切り」ですらないし。
少し、反省・・・。
もう少しで、このお話は終わりです。
あと少しだけ、お付き合いくださいませ。
などと書きながら、今日は書く時間は無さそうですが。
メッセイジを書きますので、ちらっと見て行ってください。
熱風
2002年7月4日 滝とのことークリの花(完結)藤城からの電話をとりついでくれたのは、新人女子社員で、とても几帳面な人だった。
業界特有の略語を、略せずにきちんと発音し、そうして、会社で使われる用語の一つ一つをきちんと自分のものにしていこうと心がけているそんな人。
人は時々、自分が全く意識しないで、他人に影響を与えてしまうことがある。
彼女の几帳面さがわたしにもたらしたものも、そういうことの一つだろう。
机にもどり、その上に貼り付けられた、一枚のメモ。
「人事部 お客様相談室の藤城課長さまからお電話がありました。またかけ直す、とのことです。」
わたしは、しばらくそのメモを見ていた。
まるで、自分の知らない国の言葉で書かれたメモみたいに。
人事部。
藤城が人事部の人間だということを、どうして思いつかなかったのだろう。
わたしは、電話を取り上げ、藤城と会う約束をした。冷静な声をつくるのに少し苦心しながら。
営業開始五分前のオフイスは、郷村の机の辺りで妙に騒がしい。
そしてそれは、とても華やいでいて、入試の合格発表場で自分だけが落ちたような、そういう雰囲気をつくっていた。
「・・・きみが、そこまで分かったとは思わなかったよ。さすが、カンがいいな。」
いつかの、コンクリート打ちっぱなしの喫茶店。
藤城は、シルバーがかったネクタイをしていて、斜めに差し込む西日がそれを炎のように染めている。
「わかりますよ、それくらい。」
郷村俊枝を転勤させるように仕向けたのは藤城だった。
この二人が知り合いだったとは気付かなかった。
まったく。
だから、藤城から「愛している」というメールをもらったすぐ後にきたメール、「心配しないでください。あなたの悪いようにはいたしません。」というあの誤送信のメールが、ほんとうは郷村俊枝に宛てたものだというのにも思い当たらなかった。
更衣室でわたしと鉢合わせしたときに、郷村がメールを打っていた、あれも、相手は藤城だった。
「男が、あの営業所に転勤するとしたら、まあ栄転だろう。でも、女の子は別に、そう役に立たなくてもいいんだ。」
わたしは、黙ってアイスコーヒーに口をつけた。
ものすごく苦い。
「むしろ、郷村さんのように、まあはっきり言って長く会社にいるだけで大して貢献できない人には、はやく辞めてもらいたいんだな、会社としては。」
この会社の女子社員が、結婚したら退職するのは、不文律になっている。
「そこで、郷村さんを転勤させた・・・。」
滝のもとに、と思ったけれど、具体的に口にだすのも嫌だった。
「じゃあ、あなたは、滝さんが彼女を選ぶと思ったの。」
そんなことは、ないはずだ。
職場がまた同じになったからといって、郷村俊枝が「片想い」なのは変わらないはず。
「・・・それは、わからない。」
「わからないって・・・。」
「でも、きみは少々つらいかもそれないが、ハッキリ言っておこう。その方が後で傷つかなくてすむだろうからね。
滝は、きみを、選ばないよ。」
「どうして、そんなことが、あなたにわかるんですか。」
本気で腹を立てたので、声が低くなった。うなるように。猫のケンカがはじまる前の声だ。
「・・・彼の結婚観は、きみと結婚するようにはできていない。」
会社に骨を埋める気があるのか。
その言葉で「確認」は始まったのだそうだ。
滝の、結婚観。
そろそろ次代の幹部候補を絞りきらなくてはいけない。きみは、よくやってくれている。お客からの信頼も篤い。
ただ、きみには不安定な要素がひとつだけある。
まだ結婚していないということだ。
そしてきみは、婿養子に行くことも有り得る、ということだ。実際、そういう立場の女性と交際しているらしいじゃないか。
会社としては、きみが婿入りしてその家の家業を引き継ぐのだとしたら、そういう目できみを見るようになる。
それが、自然だろう。
ぼくは、会社に、骨を埋める覚悟です。
婿養子には行きませんし、そういう立場の女性とは交際しません。
今後、一切。
わたしは、目をつむった。
初めて滝とドライブをした、お見合いの日のことを思い出した。
わたしたちは、どこへ向かうともなく海をめざしていた。
水田が広々と続く中を海へとつながる農道。
ふいに、滝が言った。
「今、真横にものすごく大きな屋敷が見えるでしょう。」
水田越しに、長い長い松並木が見える。その奥にいかにも旧家らしい、どっしりした屋根が見える。
スピードをさほど落としていないのに、いつまでも並木が見えている。大きな家だ。
「この前、あの家の跡取り娘と見合いしたんですよ、でもね、ほんとうに一言もしゃべらない人だったんです。」
「ひとことも。」
「そう、ろくに返事もしない。」
「だから、・・・やめたんですか。」
「まあ、そういうことかな。」
「やっぱり、一緒にいて、全く話さないひととは、結婚できないかなあ。いくら条件が良くても。」
「ああ、女の人はそうかもしれませんね。でも、男は違いますよ。できます。
大切なのは、自分の生活していきたい方向に合っているかどうか。条件だけでも、まあ結婚はできますよ、男なら。」
「・・・滝さんに、会ったの。」
瞑目を解いてわたしはたずねる。
「いや。ぼくはそれほどあいつと親しくない。滝の営業所の佐伯が話してくれた。」
佐伯、というのは所長である。
そして、藤城は、佐伯と同期だった。
わたしは、席を立った。
「教えていただき、ありがとうございました。」
「おい、オレは本当のことを言ったんだよ。」
藤城のうろたえたような顔が、おかしい。
自分で仕組んだくせに、何もかも。
何もかも。
うっかりすると泣いてしまいそうだ。
そして涙につけこまれそうだ。
その手には、乗らない。
わたしは、自分の勘定だけ払うと、外へ出た。
ドアを開けたとたんに熱い風が全身を包み込む。
もう、夏になるんだな。頭の芯が焼けそうだ。
熱風を恋の女神の息を浴ぶ
業界特有の略語を、略せずにきちんと発音し、そうして、会社で使われる用語の一つ一つをきちんと自分のものにしていこうと心がけているそんな人。
人は時々、自分が全く意識しないで、他人に影響を与えてしまうことがある。
彼女の几帳面さがわたしにもたらしたものも、そういうことの一つだろう。
机にもどり、その上に貼り付けられた、一枚のメモ。
「人事部 お客様相談室の藤城課長さまからお電話がありました。またかけ直す、とのことです。」
わたしは、しばらくそのメモを見ていた。
まるで、自分の知らない国の言葉で書かれたメモみたいに。
人事部。
藤城が人事部の人間だということを、どうして思いつかなかったのだろう。
わたしは、電話を取り上げ、藤城と会う約束をした。冷静な声をつくるのに少し苦心しながら。
営業開始五分前のオフイスは、郷村の机の辺りで妙に騒がしい。
そしてそれは、とても華やいでいて、入試の合格発表場で自分だけが落ちたような、そういう雰囲気をつくっていた。
「・・・きみが、そこまで分かったとは思わなかったよ。さすが、カンがいいな。」
いつかの、コンクリート打ちっぱなしの喫茶店。
藤城は、シルバーがかったネクタイをしていて、斜めに差し込む西日がそれを炎のように染めている。
「わかりますよ、それくらい。」
郷村俊枝を転勤させるように仕向けたのは藤城だった。
この二人が知り合いだったとは気付かなかった。
まったく。
だから、藤城から「愛している」というメールをもらったすぐ後にきたメール、「心配しないでください。あなたの悪いようにはいたしません。」というあの誤送信のメールが、ほんとうは郷村俊枝に宛てたものだというのにも思い当たらなかった。
更衣室でわたしと鉢合わせしたときに、郷村がメールを打っていた、あれも、相手は藤城だった。
「男が、あの営業所に転勤するとしたら、まあ栄転だろう。でも、女の子は別に、そう役に立たなくてもいいんだ。」
わたしは、黙ってアイスコーヒーに口をつけた。
ものすごく苦い。
「むしろ、郷村さんのように、まあはっきり言って長く会社にいるだけで大して貢献できない人には、はやく辞めてもらいたいんだな、会社としては。」
この会社の女子社員が、結婚したら退職するのは、不文律になっている。
「そこで、郷村さんを転勤させた・・・。」
滝のもとに、と思ったけれど、具体的に口にだすのも嫌だった。
「じゃあ、あなたは、滝さんが彼女を選ぶと思ったの。」
そんなことは、ないはずだ。
職場がまた同じになったからといって、郷村俊枝が「片想い」なのは変わらないはず。
「・・・それは、わからない。」
「わからないって・・・。」
「でも、きみは少々つらいかもそれないが、ハッキリ言っておこう。その方が後で傷つかなくてすむだろうからね。
滝は、きみを、選ばないよ。」
「どうして、そんなことが、あなたにわかるんですか。」
本気で腹を立てたので、声が低くなった。うなるように。猫のケンカがはじまる前の声だ。
「・・・彼の結婚観は、きみと結婚するようにはできていない。」
会社に骨を埋める気があるのか。
その言葉で「確認」は始まったのだそうだ。
滝の、結婚観。
そろそろ次代の幹部候補を絞りきらなくてはいけない。きみは、よくやってくれている。お客からの信頼も篤い。
ただ、きみには不安定な要素がひとつだけある。
まだ結婚していないということだ。
そしてきみは、婿養子に行くことも有り得る、ということだ。実際、そういう立場の女性と交際しているらしいじゃないか。
会社としては、きみが婿入りしてその家の家業を引き継ぐのだとしたら、そういう目できみを見るようになる。
それが、自然だろう。
ぼくは、会社に、骨を埋める覚悟です。
婿養子には行きませんし、そういう立場の女性とは交際しません。
今後、一切。
わたしは、目をつむった。
初めて滝とドライブをした、お見合いの日のことを思い出した。
わたしたちは、どこへ向かうともなく海をめざしていた。
水田が広々と続く中を海へとつながる農道。
ふいに、滝が言った。
「今、真横にものすごく大きな屋敷が見えるでしょう。」
水田越しに、長い長い松並木が見える。その奥にいかにも旧家らしい、どっしりした屋根が見える。
スピードをさほど落としていないのに、いつまでも並木が見えている。大きな家だ。
「この前、あの家の跡取り娘と見合いしたんですよ、でもね、ほんとうに一言もしゃべらない人だったんです。」
「ひとことも。」
「そう、ろくに返事もしない。」
「だから、・・・やめたんですか。」
「まあ、そういうことかな。」
「やっぱり、一緒にいて、全く話さないひととは、結婚できないかなあ。いくら条件が良くても。」
「ああ、女の人はそうかもしれませんね。でも、男は違いますよ。できます。
大切なのは、自分の生活していきたい方向に合っているかどうか。条件だけでも、まあ結婚はできますよ、男なら。」
「・・・滝さんに、会ったの。」
瞑目を解いてわたしはたずねる。
「いや。ぼくはそれほどあいつと親しくない。滝の営業所の佐伯が話してくれた。」
佐伯、というのは所長である。
そして、藤城は、佐伯と同期だった。
わたしは、席を立った。
「教えていただき、ありがとうございました。」
「おい、オレは本当のことを言ったんだよ。」
藤城のうろたえたような顔が、おかしい。
自分で仕組んだくせに、何もかも。
何もかも。
うっかりすると泣いてしまいそうだ。
そして涙につけこまれそうだ。
その手には、乗らない。
わたしは、自分の勘定だけ払うと、外へ出た。
ドアを開けたとたんに熱い風が全身を包み込む。
もう、夏になるんだな。頭の芯が焼けそうだ。
熱風を恋の女神の息を浴ぶ
トルコ桔梗
2002年7月2日 滝とのことークリの花(完結)滝の営業所がオープンになる月曜日は朝からよく晴れていた。
わたしは、滝のために、よかった、と思った。
前日、ひさしぶりに休日デートらしいデートをして、恋人の余韻はからだのあちこちに残っている。
海を見た後のベッドの中で、勇気を出して聞いてみた。
「この前、あなたのくるまの中で、わたしのじゃない紅筆を拾ったんだけど。」
「ベニフデ?。」
「口紅をつけるときに使う筆。誰の?。」
「えっ・・・。いやあ、知らない・・・あなた以外に乗せたのはうちの義姉だけだから、たぶん義姉だろうな。」
「そう。」
それだけだった。
それだけのことなのだ。もっと早く聞いてもよかったのに。
滝のキスはその後も変わらず熱くて、彼の抱きしめる腕の力は強くて、わたしのからだを上にしたり下にしたり、いつも通りのしたたかさを持った愛しかたで、何も疑わしいことは無かった。
月曜日には、花を生ける。
毎週、近所の花屋が配達してくれるのを、きちんと花瓶に生けることになっている。火曜日から金曜日には、水を替えたり、傷んだ花を処分したりする。
女子社員が交代でこの仕事をしていて、わたしはその日の当番だった。
花束の入った新聞紙を開くと、たっぷりとトルコ桔梗が入っている。クリーム色と、ピンク色と、白地に紫が入っているものと。
そのうちの紫で縁取りされた一本を取り上げ、水を張ったバケツに茎を付けて、水切りをする。
暑くなってきたから、花を長持ちさせる工夫をしなければならない。
社員のための喫煙室がすぐ隣りにあり、男性社員たちのしゃべり声が聞こえる。ところどころ怠惰で、でも、少しずつ仕事向きの人格をつくりあげていく、月曜日の朝。
滝がいた頃は、いつも彼の声がした。
話の輪の中心にいて、よく冗談を言って、男たちの太い笑い声を、そこらじゅうに響かせていた。
今頃、開店の準備も終わり、普通にしていても引き締まった口元を一層引き締めて、営業所の入り口をみつめている・・・。
わたしは、滝のことばかり考えていた。
ともすると、昨日の記憶に溺れそうになりながら。
だから、大田が入ってきて、わたしに何か言いたげに一瞥をくれたときにも、すぐに問いかけができなかった。
大田は、そのまま、喫煙室に入った。
そして、こちらにもはっきり聞こえる大きな声で、
「辞令が下りたぞ。」
と、言った。そして、その後に続いた言葉は、わたしの、しあわせな朝を粉々にしてしまった。
「新営業所に、郷村さんが行くことになった。」
手にしていたトルコ桔梗は、花のところでパッチリと切れて水に落ちた。
花びらがゆらりと揺れるのを、息をのんで見つめる。
郷村俊枝が、滝のいる営業所へ転勤する。
二人は、また毎日顔を合わせるようになる。
滝のことを疑ってはいけない、わたしたちは恋人
なのだ、そのことに間違いはないのだ。
だから、郷村がまた滝に近付いても、何も変わらないはず・・・。
でも、嫌だ。もう誰もそばにいて欲しくない。
わたしだけの男で、あって欲しい。
あの、奥二重の少しつりあがり気味の目も、細長い指も、柔らかな髪も・・・郷村俊枝がまた毎日目にするのか。それは、嫌。
どうしても、嫌。
だが、会社の命令である。彼女がそこへ、滝のそばへ行くのは、彼女のわがままではなく、会社が決めたことなのだ。
迷宮がトルコ桔梗の中にある
「あの・・・お電話です。」
背後から声をかけられ、冷静を装ってふりかえる。
「本所の、藤城課長さんですが。」
「・・・ごめんね、お花を生けてから折り返しかけるから。」
答えながら、藤城は、この転勤のことで慰めるつもりなのかな、とぼんやり思った。
わたしは、滝のために、よかった、と思った。
前日、ひさしぶりに休日デートらしいデートをして、恋人の余韻はからだのあちこちに残っている。
海を見た後のベッドの中で、勇気を出して聞いてみた。
「この前、あなたのくるまの中で、わたしのじゃない紅筆を拾ったんだけど。」
「ベニフデ?。」
「口紅をつけるときに使う筆。誰の?。」
「えっ・・・。いやあ、知らない・・・あなた以外に乗せたのはうちの義姉だけだから、たぶん義姉だろうな。」
「そう。」
それだけだった。
それだけのことなのだ。もっと早く聞いてもよかったのに。
滝のキスはその後も変わらず熱くて、彼の抱きしめる腕の力は強くて、わたしのからだを上にしたり下にしたり、いつも通りのしたたかさを持った愛しかたで、何も疑わしいことは無かった。
月曜日には、花を生ける。
毎週、近所の花屋が配達してくれるのを、きちんと花瓶に生けることになっている。火曜日から金曜日には、水を替えたり、傷んだ花を処分したりする。
女子社員が交代でこの仕事をしていて、わたしはその日の当番だった。
花束の入った新聞紙を開くと、たっぷりとトルコ桔梗が入っている。クリーム色と、ピンク色と、白地に紫が入っているものと。
そのうちの紫で縁取りされた一本を取り上げ、水を張ったバケツに茎を付けて、水切りをする。
暑くなってきたから、花を長持ちさせる工夫をしなければならない。
社員のための喫煙室がすぐ隣りにあり、男性社員たちのしゃべり声が聞こえる。ところどころ怠惰で、でも、少しずつ仕事向きの人格をつくりあげていく、月曜日の朝。
滝がいた頃は、いつも彼の声がした。
話の輪の中心にいて、よく冗談を言って、男たちの太い笑い声を、そこらじゅうに響かせていた。
今頃、開店の準備も終わり、普通にしていても引き締まった口元を一層引き締めて、営業所の入り口をみつめている・・・。
わたしは、滝のことばかり考えていた。
ともすると、昨日の記憶に溺れそうになりながら。
だから、大田が入ってきて、わたしに何か言いたげに一瞥をくれたときにも、すぐに問いかけができなかった。
大田は、そのまま、喫煙室に入った。
そして、こちらにもはっきり聞こえる大きな声で、
「辞令が下りたぞ。」
と、言った。そして、その後に続いた言葉は、わたしの、しあわせな朝を粉々にしてしまった。
「新営業所に、郷村さんが行くことになった。」
手にしていたトルコ桔梗は、花のところでパッチリと切れて水に落ちた。
花びらがゆらりと揺れるのを、息をのんで見つめる。
郷村俊枝が、滝のいる営業所へ転勤する。
二人は、また毎日顔を合わせるようになる。
滝のことを疑ってはいけない、わたしたちは恋人
なのだ、そのことに間違いはないのだ。
だから、郷村がまた滝に近付いても、何も変わらないはず・・・。
でも、嫌だ。もう誰もそばにいて欲しくない。
わたしだけの男で、あって欲しい。
あの、奥二重の少しつりあがり気味の目も、細長い指も、柔らかな髪も・・・郷村俊枝がまた毎日目にするのか。それは、嫌。
どうしても、嫌。
だが、会社の命令である。彼女がそこへ、滝のそばへ行くのは、彼女のわがままではなく、会社が決めたことなのだ。
迷宮がトルコ桔梗の中にある
「あの・・・お電話です。」
背後から声をかけられ、冷静を装ってふりかえる。
「本所の、藤城課長さんですが。」
「・・・ごめんね、お花を生けてから折り返しかけるから。」
答えながら、藤城は、この転勤のことで慰めるつもりなのかな、とぼんやり思った。
恋猫 弐
2002年6月28日 滝とのことークリの花(完結)大田をくるまに乗せてしまった後で、もしも店に着いたときに、滝がいなければどうしようかなと思った。
或いは、郷村俊枝が同席しているということだって考えられた。
大田と話すこともそれほどは無く、店までの二十分ほどを黙々と運転した。
だからその居酒屋のカウンターに滝の姿を見たときには、嬉しかった。
「・・・ひさしぶりだな。」
あの、なつかしい香がする。
特別な関係にある男の身体の香は、ふと感じただけでめまいがしそうになる。
そして、その香をかいだときに自分がとても疲れているのに気が付いた。
さっき郷村俊枝と対決し、藤城からメールをもらった。
そのふたつの事件の後で一番会いたかった男に会えた。
もう、今日はこれでいい。
「営業所の開店日、近付きましたね。毎日、お忙しいんでしょう。」
わたしは、素直に滝をねぎらった。
「うん。雑用ばかりが次々に沸いて出て。」
そして、小さな声で、
「ずっと会たかったんだけど。」
と、ささやき、カウンターの下のわたしの太股をぎゅっ、とつかんだ。
その手を上から握り締めながら、
「わたしも。」
と答える。
目は合わせない。
滝の目をまともに見たら、絶対に言ってしまう。
どうして紅筆がくるまの中にあったの。
それは、疲れたこの人を責めることにつながる。
わたしは、ほんとうは滝を責めたいのだ。
そして、疑惑を晴らしたいのだ。
でも、怖かった。
もしもその答えが。
恋猫の渡りきれない大通り
交通量の多い道路の向こうに、恋する相手が住んでいる。でも、臆病な猫は渡れない。勇気を奮い立たせてみても、こわいのだ。ひっきりなしに走りすぎる車にふきとばされそうになって。
わたしの心は、滝の心に踏み込めない、一匹の猫だ。
「滝さん。」
「何。」
「・・・ただ、会いたかった。」
滝の手がわたしのスカートの中に入る。
そして、細長い指先が静かに核心のところへ迫ってくる。
わたしは、足を開いてゆく。
そして、腰をすこし浮かせる。
男の指が、蜜をすりつけてゆき、ふと顔を見ると、滝は静かに微笑んでいる。
やがて指がぬかれる。
男がその指を口元に持っていき、そっと舌で舐める。
「お前ってやつは。」
淫乱だな、と言いたいのか。
わたしはほとんど怒りをこめて相手の股間を愛撫する。
わたしは、この人をほとんど憎んでいるのだ。
そして、たまらなく欲しているのだ。
大田は何も見ていないふりをしていた。
いや、本当に何も見ていなかったのかもしれない。
滝はその行き付けの店のトイレが男女共有であるのをいいことに、わたしをそこへ誘い込み、そしてすぐさま、後ろから、仕掛けてきた。
今夜はこれで、いい。
ずっと、これが、いい。
だが、滝とわたしの間に転機が迫っていた。
それは、快楽の声を抑えるのに懸命だったそのときには、思いもしなかったことだった。
或いは、郷村俊枝が同席しているということだって考えられた。
大田と話すこともそれほどは無く、店までの二十分ほどを黙々と運転した。
だからその居酒屋のカウンターに滝の姿を見たときには、嬉しかった。
「・・・ひさしぶりだな。」
あの、なつかしい香がする。
特別な関係にある男の身体の香は、ふと感じただけでめまいがしそうになる。
そして、その香をかいだときに自分がとても疲れているのに気が付いた。
さっき郷村俊枝と対決し、藤城からメールをもらった。
そのふたつの事件の後で一番会いたかった男に会えた。
もう、今日はこれでいい。
「営業所の開店日、近付きましたね。毎日、お忙しいんでしょう。」
わたしは、素直に滝をねぎらった。
「うん。雑用ばかりが次々に沸いて出て。」
そして、小さな声で、
「ずっと会たかったんだけど。」
と、ささやき、カウンターの下のわたしの太股をぎゅっ、とつかんだ。
その手を上から握り締めながら、
「わたしも。」
と答える。
目は合わせない。
滝の目をまともに見たら、絶対に言ってしまう。
どうして紅筆がくるまの中にあったの。
それは、疲れたこの人を責めることにつながる。
わたしは、ほんとうは滝を責めたいのだ。
そして、疑惑を晴らしたいのだ。
でも、怖かった。
もしもその答えが。
恋猫の渡りきれない大通り
交通量の多い道路の向こうに、恋する相手が住んでいる。でも、臆病な猫は渡れない。勇気を奮い立たせてみても、こわいのだ。ひっきりなしに走りすぎる車にふきとばされそうになって。
わたしの心は、滝の心に踏み込めない、一匹の猫だ。
「滝さん。」
「何。」
「・・・ただ、会いたかった。」
滝の手がわたしのスカートの中に入る。
そして、細長い指先が静かに核心のところへ迫ってくる。
わたしは、足を開いてゆく。
そして、腰をすこし浮かせる。
男の指が、蜜をすりつけてゆき、ふと顔を見ると、滝は静かに微笑んでいる。
やがて指がぬかれる。
男がその指を口元に持っていき、そっと舌で舐める。
「お前ってやつは。」
淫乱だな、と言いたいのか。
わたしはほとんど怒りをこめて相手の股間を愛撫する。
わたしは、この人をほとんど憎んでいるのだ。
そして、たまらなく欲しているのだ。
大田は何も見ていないふりをしていた。
いや、本当に何も見ていなかったのかもしれない。
滝はその行き付けの店のトイレが男女共有であるのをいいことに、わたしをそこへ誘い込み、そしてすぐさま、後ろから、仕掛けてきた。
今夜はこれで、いい。
ずっと、これが、いい。
だが、滝とわたしの間に転機が迫っていた。
それは、快楽の声を抑えるのに懸命だったそのときには、思いもしなかったことだった。
熱帯夜
2002年6月27日 滝とのことークリの花(完結)藤城の電話は留守電サービスに切り替わり、わたしは何もメッセージを残さずに切った。
相手が電話に出ないことが、冷静にさせた。
もう少し、落ち着こう。
滝との出会い。
藤城は、わたしの方から断った、と書いている。
でも、それは違う。
彼の方から断られた。
理由は、「婿養子には行きたくない」というものだった。
わたしは、旧家のひとり娘で、ゆくゆくは婿養子を迎える立場にある。でもそれが少女の頃からとても嫌で、あまりにもわたしが嫌がるものだから、両親とも、「長男でなければ嫁に出しても仕方がない」というところまで妥協した。
滝は次男であった。わたしが二十四、滝が二十九、のときの話である。
同じ会社でも、支所が違えば顔も知らないということはよくある。滝とは初対面だった。
お客の紹介で、見合いの場所もそのお客の応接間、ふたりでドライブでもしていらっしゃい、と送り出されてしばらく滝の運転するくるまで走った。
事前に写真の交換もなく、「釣り書」を交わしたわけでも無く、わたしも彼も結婚したいという意志がある時期でもない、というお見合い。
ただ、せっかくだから、ということで食事をして、終わりである。
もし、滝のいる支所へわたしが転勤しなければ、わたしたちはその日限りで別れ、後には何も残らなかっただろう。
「お前と、こういうことになるなんて、な。」
ベッドでわたしを上に乗せてゆすりあげ、顔をじっとみつめながら、滝はよくそう言った。
あるときは、うめくように。
あるときは、優しく。
出会いの日のことに触れてしまうのは、本当はこわかった。
わたしは、一度彼から否定されているのである。
理由はどうあれ。
わたしも、別に初めて会って恋に落ちた、という訳ではない。
見合いの前日だって、藤城に抱かれた。
薄寒い、田んぼの真ん中にあるラブホテルで。
わたしは、店を出た。
いろいろ、考えるべきことがあるような気がした。
滝との将来。
彼にいつかぶつからなくてはならないのだった。
ほんとうは、結婚するとかしないとか、そんな面倒くさいことは避けて通りたい。
そのとき、そのときに愛したい男を愛して何が悪いのだろう。
くるまに乗り込もうとしたとき、一匹の猫が目を光らせて前を横切った。わたしの愛しかたは、動物みたいだ。猫になったらちょうどいいのだ。
そのとき、その場で恋を選んで。
「どこか、行くのか。」
「えっ・・・。」
ふいに背後から声をかけられ、思わず立ち止まった。
「・・・大田さん・・・。」
「・・・別にさ、後を付けてたわけじゃないさ。国道を走ってたら、お前のくるまが停まってたから。」
大田の笑顔は善良そのものだ。とにかくわたしは微笑みかえした。
「少し、お茶しようかと思って。まっすぐ帰るのも気が向かなかったし・・・。」
「そうか。」
わたしのケイタイが鳴り出す。
「また、メールだ。」
藤城から。ドキドキする。
でも、その内容は全然考えてもいなかったものだった。
「さっきの件、了承しました。あなたの悪いようにはいたしません。」
間違いメール。これは、仕事の相手かも。
「・・・誰か、誘いか。」
「いいえ・・・出会い系です。」
「ははは、お前のケイタイ、まだそんなもの入るようになってんのか。」
「ええ。」
蒸し暑い夜だ。大田はハンカチで、短い首をさかんにふいている。
「・・・飯でも食おうぜ。」
「でも。」
「そう嫌がるなよ。・・・滝も誘ってあるから。」
「 じゃあ、行こうかな。」
「現金だなあ、お前。でも、まあいいさ。
ところで、おれは呑むから、店まではお前が乗せてってくれよ。」
「軽だから、狭いですよ。」
「かまわないさ。」
仮面ども恋に恋する熱帯夜
出会い系サイトは、こんな夜にはにぎわうだろう。
藤城に返事をどうやって返そうかと思いながら、見知らぬ男女どうしの恋に少しあこがれた。
家も、過去も無く、ただ恋に恋していられれば、どんなにしあわせだろう。
相手が電話に出ないことが、冷静にさせた。
もう少し、落ち着こう。
滝との出会い。
藤城は、わたしの方から断った、と書いている。
でも、それは違う。
彼の方から断られた。
理由は、「婿養子には行きたくない」というものだった。
わたしは、旧家のひとり娘で、ゆくゆくは婿養子を迎える立場にある。でもそれが少女の頃からとても嫌で、あまりにもわたしが嫌がるものだから、両親とも、「長男でなければ嫁に出しても仕方がない」というところまで妥協した。
滝は次男であった。わたしが二十四、滝が二十九、のときの話である。
同じ会社でも、支所が違えば顔も知らないということはよくある。滝とは初対面だった。
お客の紹介で、見合いの場所もそのお客の応接間、ふたりでドライブでもしていらっしゃい、と送り出されてしばらく滝の運転するくるまで走った。
事前に写真の交換もなく、「釣り書」を交わしたわけでも無く、わたしも彼も結婚したいという意志がある時期でもない、というお見合い。
ただ、せっかくだから、ということで食事をして、終わりである。
もし、滝のいる支所へわたしが転勤しなければ、わたしたちはその日限りで別れ、後には何も残らなかっただろう。
「お前と、こういうことになるなんて、な。」
ベッドでわたしを上に乗せてゆすりあげ、顔をじっとみつめながら、滝はよくそう言った。
あるときは、うめくように。
あるときは、優しく。
出会いの日のことに触れてしまうのは、本当はこわかった。
わたしは、一度彼から否定されているのである。
理由はどうあれ。
わたしも、別に初めて会って恋に落ちた、という訳ではない。
見合いの前日だって、藤城に抱かれた。
薄寒い、田んぼの真ん中にあるラブホテルで。
わたしは、店を出た。
いろいろ、考えるべきことがあるような気がした。
滝との将来。
彼にいつかぶつからなくてはならないのだった。
ほんとうは、結婚するとかしないとか、そんな面倒くさいことは避けて通りたい。
そのとき、そのときに愛したい男を愛して何が悪いのだろう。
くるまに乗り込もうとしたとき、一匹の猫が目を光らせて前を横切った。わたしの愛しかたは、動物みたいだ。猫になったらちょうどいいのだ。
そのとき、その場で恋を選んで。
「どこか、行くのか。」
「えっ・・・。」
ふいに背後から声をかけられ、思わず立ち止まった。
「・・・大田さん・・・。」
「・・・別にさ、後を付けてたわけじゃないさ。国道を走ってたら、お前のくるまが停まってたから。」
大田の笑顔は善良そのものだ。とにかくわたしは微笑みかえした。
「少し、お茶しようかと思って。まっすぐ帰るのも気が向かなかったし・・・。」
「そうか。」
わたしのケイタイが鳴り出す。
「また、メールだ。」
藤城から。ドキドキする。
でも、その内容は全然考えてもいなかったものだった。
「さっきの件、了承しました。あなたの悪いようにはいたしません。」
間違いメール。これは、仕事の相手かも。
「・・・誰か、誘いか。」
「いいえ・・・出会い系です。」
「ははは、お前のケイタイ、まだそんなもの入るようになってんのか。」
「ええ。」
蒸し暑い夜だ。大田はハンカチで、短い首をさかんにふいている。
「・・・飯でも食おうぜ。」
「でも。」
「そう嫌がるなよ。・・・滝も誘ってあるから。」
「 じゃあ、行こうかな。」
「現金だなあ、お前。でも、まあいいさ。
ところで、おれは呑むから、店まではお前が乗せてってくれよ。」
「軽だから、狭いですよ。」
「かまわないさ。」
仮面ども恋に恋する熱帯夜
出会い系サイトは、こんな夜にはにぎわうだろう。
藤城に返事をどうやって返そうかと思いながら、見知らぬ男女どうしの恋に少しあこがれた。
家も、過去も無く、ただ恋に恋していられれば、どんなにしあわせだろう。
夏の月
2002年6月25日 滝とのことークリの花(完結)藤城からのメールは、長かった。
そろそろ社内に社員がいなくなる時刻なので、ケイタイをかばんに仕舞い込み、残りは後で読むことにする。
駐車場に着く頃、ようやく西日は勢いを無くし始めていた。
もうすぐ夏だ。
夏の間に、この恋は決着するのか。
郷村と対決して明らかになったのは、わたしたちがふたりとも、滝を愛しているということ、だけ。
最も、郷村サイドから見れば、わたしが滝のくるまに乗った、という事実も分かったということになるが・・・。
わたしは、ゆっくりくるまを出した。
なんとなく、まっすぐ帰りたくない気分だった。
今にも落ちそうな大きな夕日と平行に、国道沿いに走る。無意識のうちに、この前藤城と会った喫茶店へ向かっていた。
夕方の店は空いていた。
どこからか、ハーブの香がした。
その香に誘われて、わたしもジャスミンテイーを頼むことにする。ウェイトレスが下がるとすぐに、ケイタイを取り出す。
「ぼくがあれこれきみの恋愛について、口を出せないということは、自分でもよくわかっている。
それでも、近頃のきみの憔悴ぶりには、元の上司としても黙ってはいられない。
きみは、滝といて、幸せなのか。
そもそもきみたちは、結婚を前提とした出会いかたをしたのでは無かったか。まだ、きみが100パーセントぼくのものだった頃、きみはお客の紹介で見合いをすることになったと言っていた。具体的に名前を聞いたわけでは無いけれど、あのときの相手は、滝だったのだろう。
そうして、きみは結局その話をことわった。でも、見合いの席には行っているわけだから、きみたちは一応そういうかたちで一度出会っているはずだ。
運命のいたずら、という陳腐な言い方をすれば、きみが彼の営業所に転勤したのは、まさに運命だったね。そこで、きみらは出会い直して、そして意識しあって、愛し合うようになった。そして、今がある。
だけど、考えてごらん。
見合いした男女が再会して、お互い憎からず思っているのに、どうしてそんなにきみは不幸な顔をしているのか。
恐らく、彼からのプロポーズが無いんだろう。
ぼくは、滝のことをそれほど良く知っているわけでは無い。でも、あの男は社内では目立つし、あれこれ噂も耳に入る。その中には、まあ、ハッキリ言ってきみの耳には入れたくないというものもあるんだ。男同士にしか分からないこともある、この前、滝ばかり責めるなとぼくが言ったのは・・・滝がきみの望むようなゴールを用意しているとは、思えなかったからだ。
きみのことは、今でも本当に愛している。
家庭があろうと無かろうと真実は、きみしか愛していない、の一言に尽きるんだ。
だから、幸せになって欲しい。
きみに、最高の笑顔を与えてくれるようでなければ、ぼくは滝を認めない。」
わたしは、ジャスミンのやわらかい香に包まれて、そのメールを読んだ。
何度も、何度も。
滝とお見合いをしたことがあるのを、やはり藤城は知っていたんだ。
そして、そういう「結婚を前提とした」交際の筈なのに、まるで結婚、という言葉を避けているかのように、ふたりの間が身体を求め合うことだけに終始しているのも。
わかったんだ。
藤城には、隠し事はできない。
そして、藤城さん、あなたなら、この、郷村とのことも、分かってもらえますか。
わたしは、ケイタイの番号を押した、懐かしい、不倫相手の番号を。
呼び出し音が耳元で零れだし、その音に耳ばかりでなく、体中を預けながら、窓の向こうにのぼる月を見た。
夏の月赤さで情を占いぬ
藤城の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
でも、泣いてみたって、かまわないだろう。
わたしのことを、こんなに愛してくれる男の胸でなら。
そろそろ社内に社員がいなくなる時刻なので、ケイタイをかばんに仕舞い込み、残りは後で読むことにする。
駐車場に着く頃、ようやく西日は勢いを無くし始めていた。
もうすぐ夏だ。
夏の間に、この恋は決着するのか。
郷村と対決して明らかになったのは、わたしたちがふたりとも、滝を愛しているということ、だけ。
最も、郷村サイドから見れば、わたしが滝のくるまに乗った、という事実も分かったということになるが・・・。
わたしは、ゆっくりくるまを出した。
なんとなく、まっすぐ帰りたくない気分だった。
今にも落ちそうな大きな夕日と平行に、国道沿いに走る。無意識のうちに、この前藤城と会った喫茶店へ向かっていた。
夕方の店は空いていた。
どこからか、ハーブの香がした。
その香に誘われて、わたしもジャスミンテイーを頼むことにする。ウェイトレスが下がるとすぐに、ケイタイを取り出す。
「ぼくがあれこれきみの恋愛について、口を出せないということは、自分でもよくわかっている。
それでも、近頃のきみの憔悴ぶりには、元の上司としても黙ってはいられない。
きみは、滝といて、幸せなのか。
そもそもきみたちは、結婚を前提とした出会いかたをしたのでは無かったか。まだ、きみが100パーセントぼくのものだった頃、きみはお客の紹介で見合いをすることになったと言っていた。具体的に名前を聞いたわけでは無いけれど、あのときの相手は、滝だったのだろう。
そうして、きみは結局その話をことわった。でも、見合いの席には行っているわけだから、きみたちは一応そういうかたちで一度出会っているはずだ。
運命のいたずら、という陳腐な言い方をすれば、きみが彼の営業所に転勤したのは、まさに運命だったね。そこで、きみらは出会い直して、そして意識しあって、愛し合うようになった。そして、今がある。
だけど、考えてごらん。
見合いした男女が再会して、お互い憎からず思っているのに、どうしてそんなにきみは不幸な顔をしているのか。
恐らく、彼からのプロポーズが無いんだろう。
ぼくは、滝のことをそれほど良く知っているわけでは無い。でも、あの男は社内では目立つし、あれこれ噂も耳に入る。その中には、まあ、ハッキリ言ってきみの耳には入れたくないというものもあるんだ。男同士にしか分からないこともある、この前、滝ばかり責めるなとぼくが言ったのは・・・滝がきみの望むようなゴールを用意しているとは、思えなかったからだ。
きみのことは、今でも本当に愛している。
家庭があろうと無かろうと真実は、きみしか愛していない、の一言に尽きるんだ。
だから、幸せになって欲しい。
きみに、最高の笑顔を与えてくれるようでなければ、ぼくは滝を認めない。」
わたしは、ジャスミンのやわらかい香に包まれて、そのメールを読んだ。
何度も、何度も。
滝とお見合いをしたことがあるのを、やはり藤城は知っていたんだ。
そして、そういう「結婚を前提とした」交際の筈なのに、まるで結婚、という言葉を避けているかのように、ふたりの間が身体を求め合うことだけに終始しているのも。
わかったんだ。
藤城には、隠し事はできない。
そして、藤城さん、あなたなら、この、郷村とのことも、分かってもらえますか。
わたしは、ケイタイの番号を押した、懐かしい、不倫相手の番号を。
呼び出し音が耳元で零れだし、その音に耳ばかりでなく、体中を預けながら、窓の向こうにのぼる月を見た。
夏の月赤さで情を占いぬ
藤城の顔を見たら、泣いてしまいそうだった。
でも、泣いてみたって、かまわないだろう。
わたしのことを、こんなに愛してくれる男の胸でなら。
灼く
2002年6月24日 滝とのことークリの花(完結)誰もいないと思っていたのに、更衣室には明かりがついていた。
「失礼します。」
消し忘れかな、と思ったけれど、念の為に声だけかける。
返答は無い。
が、自分のロッカーの鍵を回した時、ふいに人の気配を感じた。
「あ、郷村さん・・・お疲れ様です。」
郷村俊枝は彼女自身のロッカーの前にしゃがみこんで、どうやらケイタイでメールを打っているところらしい。
あいさつに答えが無いのは彼女ならやりかねないことだし、一応相手は先輩だから、さほど気にしない。
それより、余り気の合わない人間と二人で更衣室にいる方が息苦しい。
もう着替えは終えているのだから、早く帰ってくれないかしら、と思った。
梅雨だというのに、雨の無い日が続いている。
向かい側のビルに、西日がまともに当たってギラギラと眩しい。わたしは、西日からも、郷村からも顔を背ける位置で着替えをはじめた。
制服から黒いカットソーに着替えたとき、ふと、郷村が口紅を直しているのに目がいった。
「お出かけですかあ。」
明るい口調をつくってたずねる。
答えは無い。ただ、笑っている。
「もしかして、大田さんから誘われましたか。」
「ううん、太田さんからは今日は何も。」
「そうですか。」
口紅を見る。きついピンク色。
ピンク。
紅筆を見る。・・・新しいのか、古いのか、よく分からない。
「・・・大田さんじゃない人と、デート、ってことですか。」
「・・・。どうして。」
「なんとなく。メイクに力、入っているから。」
「そう。」
「彼氏、ですよね。」
わたしは、勝負に出る気は無かった。
ただ、心の黒雲を少しでも晴らしたかった。
もし、郷村俊枝が、滝のことを、彼氏では無いと認めれば、わたしの悩みはひとつ減らせるのだ。
「彼氏って、滝さんですか。」
「・・・。」
一瞬、口紅を塗る手が止まった。
「・・・滝さんだったら、どうなの。」
口調は平坦で、特に激したものは無い。
「・・・滝さんだったら、あなた、どうするの。・・・大田さん、最近よくあなたのこと噂しているみたいだけど、大田さんと付き合ってみる。」
カチンときた。
大田の名前を出され、大田とひとくくりにされたことに腹が立った。自分は滝と付き合っているという噂を流し、わたしは大田と付き合っているという噂を流す。許せなかった。
自分の好みでは無い男とはたとえ噂でもくっつきたくない、しかも、わたしは、現に滝と何度も寝ている関係なのに。
わたしは、自分のかばんを開けた。
そして、拾った紅筆を取り出した。
「これ、郷村さんのですか。」
沈黙が返ってきた。
また黙って、それでやり過ごすのか。
それなら、いい。
教えてあげる。
「・・・それ、滝さんのくるまの中に落ちていたんです。」
また、沈黙。
まだエアコンの入っていない更衣室は暑く、汗が首筋を伝うのを感じる。
負けるものか。
「・・・そう、滝さんの。」
「はい。」
「じゃあこれは、わたしのものだわ。滝さんのくるまの中にあったのなら。」
ゆっくりと、でも、有無を言わさぬ強さで、わたしの手の中の紅筆がもぎとられた。
「彼と、ご飯でも食べに行ったの。」
わたしは返事をしなかった。
相手の出方を見ようと思ったのだ。
これで、郷村とは、滝を巡ってライバルであるということが分かった。
二人とも、同じ男を愛している。
でも、わたしと滝との関係をまだ知られてはいない。
いや、わたしの態度から分かったか。それでも自分の負けは認めずにいるのか。
恋に不慣れな少女の頃なら、取っ組み合ってケンカをする場面である。
わたしたちは、ゴールを目指してし烈に闘う結婚したい大人の女同士だった、譲れない。だから、迂闊なことは、できない。
わたしのケイタイが鳴り出す。
滝のことがすぐに浮かんだけれど、相手は藤城だった。
メールには「無理するなよ。でもオレにできることなら、なんでもするから。」と、あった。
でも、って、何が、でも、なんだろう、と引っ掛かっている間に、お先に、のあいさつも無く敵は姿を消した。
サラダ油のごとく灼かれて窓並ぶ
西日はまだ勢いが止まらない。
ほんとうは、あの筆はだれのものだったのだろう。郷村の答えかたには、真相が無かった。
わたしの雨雲は当分晴れそうにない。
「失礼します。」
消し忘れかな、と思ったけれど、念の為に声だけかける。
返答は無い。
が、自分のロッカーの鍵を回した時、ふいに人の気配を感じた。
「あ、郷村さん・・・お疲れ様です。」
郷村俊枝は彼女自身のロッカーの前にしゃがみこんで、どうやらケイタイでメールを打っているところらしい。
あいさつに答えが無いのは彼女ならやりかねないことだし、一応相手は先輩だから、さほど気にしない。
それより、余り気の合わない人間と二人で更衣室にいる方が息苦しい。
もう着替えは終えているのだから、早く帰ってくれないかしら、と思った。
梅雨だというのに、雨の無い日が続いている。
向かい側のビルに、西日がまともに当たってギラギラと眩しい。わたしは、西日からも、郷村からも顔を背ける位置で着替えをはじめた。
制服から黒いカットソーに着替えたとき、ふと、郷村が口紅を直しているのに目がいった。
「お出かけですかあ。」
明るい口調をつくってたずねる。
答えは無い。ただ、笑っている。
「もしかして、大田さんから誘われましたか。」
「ううん、太田さんからは今日は何も。」
「そうですか。」
口紅を見る。きついピンク色。
ピンク。
紅筆を見る。・・・新しいのか、古いのか、よく分からない。
「・・・大田さんじゃない人と、デート、ってことですか。」
「・・・。どうして。」
「なんとなく。メイクに力、入っているから。」
「そう。」
「彼氏、ですよね。」
わたしは、勝負に出る気は無かった。
ただ、心の黒雲を少しでも晴らしたかった。
もし、郷村俊枝が、滝のことを、彼氏では無いと認めれば、わたしの悩みはひとつ減らせるのだ。
「彼氏って、滝さんですか。」
「・・・。」
一瞬、口紅を塗る手が止まった。
「・・・滝さんだったら、どうなの。」
口調は平坦で、特に激したものは無い。
「・・・滝さんだったら、あなた、どうするの。・・・大田さん、最近よくあなたのこと噂しているみたいだけど、大田さんと付き合ってみる。」
カチンときた。
大田の名前を出され、大田とひとくくりにされたことに腹が立った。自分は滝と付き合っているという噂を流し、わたしは大田と付き合っているという噂を流す。許せなかった。
自分の好みでは無い男とはたとえ噂でもくっつきたくない、しかも、わたしは、現に滝と何度も寝ている関係なのに。
わたしは、自分のかばんを開けた。
そして、拾った紅筆を取り出した。
「これ、郷村さんのですか。」
沈黙が返ってきた。
また黙って、それでやり過ごすのか。
それなら、いい。
教えてあげる。
「・・・それ、滝さんのくるまの中に落ちていたんです。」
また、沈黙。
まだエアコンの入っていない更衣室は暑く、汗が首筋を伝うのを感じる。
負けるものか。
「・・・そう、滝さんの。」
「はい。」
「じゃあこれは、わたしのものだわ。滝さんのくるまの中にあったのなら。」
ゆっくりと、でも、有無を言わさぬ強さで、わたしの手の中の紅筆がもぎとられた。
「彼と、ご飯でも食べに行ったの。」
わたしは返事をしなかった。
相手の出方を見ようと思ったのだ。
これで、郷村とは、滝を巡ってライバルであるということが分かった。
二人とも、同じ男を愛している。
でも、わたしと滝との関係をまだ知られてはいない。
いや、わたしの態度から分かったか。それでも自分の負けは認めずにいるのか。
恋に不慣れな少女の頃なら、取っ組み合ってケンカをする場面である。
わたしたちは、ゴールを目指してし烈に闘う結婚したい大人の女同士だった、譲れない。だから、迂闊なことは、できない。
わたしのケイタイが鳴り出す。
滝のことがすぐに浮かんだけれど、相手は藤城だった。
メールには「無理するなよ。でもオレにできることなら、なんでもするから。」と、あった。
でも、って、何が、でも、なんだろう、と引っ掛かっている間に、お先に、のあいさつも無く敵は姿を消した。
サラダ油のごとく灼かれて窓並ぶ
西日はまだ勢いが止まらない。
ほんとうは、あの筆はだれのものだったのだろう。郷村の答えかたには、真相が無かった。
わたしの雨雲は当分晴れそうにない。