梨香ちゃんへ。

2005年10月2日
取り急ぎ、メッセージです。

書きたいことはいくつかあるのですが、また忙しくなって参りました。やれやれ。

東京DOLL

2005年9月23日 読書
 読もうと思ったのは、彼が、ところどころでわたしを思い出す、と言ったからだ。
 その理由が知りたいと思った。
 
 いろんな読み方ができる本である。
 とりわけ「お金」に軸足をおいて筋を追うかどうかで、評価はずいぶんと変わるだろう。
 わたしは、この物語を、作者が東京に捧げたファンタジーだと思いながら読み進んだ。
 
 ヒロインは、ゲームの進行役をつとめる妖精のモデルとして登場する。「人形」ということばは、そこから引き出されている面も大きい。
 物語の中で、彼女は東京のあちこちに置かれ、自分自身と街とを最大限に彩る。
 隅々まで人間の手が入った空間では、人の手が入っている故に生命のリアリテイが感じられなくなるものだ。わたしは人工島に住んでいるので、その無機質な落ち着きの無さを実感として知っている。だから、誰かの演出が確実に施されている空間で躍動する彼女の姿はまぶしく、また痛快に感じられた。
 人工島のあちらこちらに現代彫刻が置かれているのだが、わたしはそのひとつひとつに、物語を捧げようと試みたことがある。そんなことを思い出した。彼女は、リアルな生き物の世界と、洗練という名で生を拒否した世界とをつなぐ、巫女のような存在なのだ。設定自体が「境界人」なのに、その上、彼女にはある特殊な能力があるときている。

 わたしは物語の中で、彼女がふたつの世界ーそれは、「リアル」と「バーチャル」という表現も可能なのだけどーを行き来するのを見守りながら、最終的に、このどちら側に身を寄せるのか、そればかり考えていた。
 そして、もしかしたら作者も、そのあたりで少し、物語の収束を揺れ動いたのではないか、などと想像したりもする。

 もちろん、普通のラブストーリーとしても楽しめる。本来はそうやって向き合うたぐいの物語かもしれない。
 わたしもある部分で胸がいっぱいになり、彼にそこを抜書きしたメールを送った。すると、相手が同じところで引っかかっていた。そして二人は納得し、その部分こそが本の隠れたキーワードだと指摘しあった。
 でも、そこが結末とはリンクしていないのである。リンクしていない部分なのに、そこは熱い真実を含んで重い。これほどの作者が平熱ではない文章を、結末とかみ合わない表現で組み入れる理由がわからない。あるいは、わたしが何か見落としているのだろうか。

 落ち着かない気持ちにさせられる本である。
 だけど、この曖昧さがわたしは割と気に入っている。

 彼は「ヨリ」の中にわたしを見たという。
 「入れ物」は違うが、「入っているもの」は酷似していると、それはわたしも認める。
 それは、すなわち、わたしがずっと追いかけてきた「現実」と「非現実」の境目についての物語なのだから。

 
  ミューズ@ベビーオイル嬢よりバトンをいただき、光栄です。。なので、早速。

  1.あなたは何フェチ?
     男性  指
     女性  声
    「指」については、さんざん書いてきたような(笑)
    「声」は、なんとなくキライだなと思うひとって、  
    大体、声がキライだったりして、余りにも勝手だと      わかっているけど、やっぱりダメなものはダメ。
  
  2.異性のどこをみる?
     ことば。
     もちろん、指は見るけど(笑)。
     どんなに生真面目でも、破天荒でもいい。
     「このひとらしいな」という、彼だけのことばを
     持っているかどうか。

  3.最近、プッシュできる部位は?
     気になるとこばっかりなので、逃げます(笑)。
     「舌」。
     わたしの舌は、相手を天国へ連れて行ったり、
     地獄へ叩き落したりする、らしい。
 
  4.異性の好きな部位を5つ。
    これ「好きな異性の部位」でないところが悩ましい。
    
    指。目。肩。肩から腰にかけての平たいライン。
     二の腕。
    
  5.フェチを感じる衣装。
     「白衣」
      これは、男女を問わない。
      なんでなんやろーと考えてみたのだけど、
      恐らく、
      「あくなき”理系への憧れ”」
      に、よるものであろうかと思う。

 電車なんか乗ったときには、ほとんど、女性を見ている。
 服装や、視線の行き先や、ちょっとした仕草など。
 彼女たちの裏側にあるドラマを想像すると、ドキドキする。
 とりわけ、発情の瞬間など思い描いてみたりするのが楽しい。 
         
 
  先日、「愛ルケ」のことを書いた。

  で、結局、

 「あれは爺さんたちのメルヘンなんだから、ヒロインの冬香さんにリアリテイを求めても仕方がない。」

 と思うようになった。冬サイドから物語を書く、いわゆる「裏愛ルケ」を書くのも楽しそうだが。冬香は夫と菊治を殺し、刑務所に服役中に看守と真実の恋に落ちるのだ!!

  ・・・あほらしい。

 30代、それも後半、しかも専業主婦、というのは、爺さんたちの夢の中では、「相手役」にちょうどいいということらしい。
 となると、冬香さんは「アイドル」なわけだから、主婦とはいえ、あまり生活感があってはイケナイ。間違っても、菊治さんとの情事を終えてから、明日、コドモの弁当のおかずに今日の晩御飯のブロッコリーにチーズを乗せて焼いたのを入れて一品増やしたらいいやろか、などと知恵をしぼったりしてはダメ。そういうことらしい。

 なるほどね、と思いつつ、
「ワタシってまだ買い手がつくのか!」
 ということに気が付いた。
 でも、そんな考えがパッと頭をよぎった直後に、冬香姫の
 「色白、長身」
 というお姿に思い当たったのである。あ、無理だ、これは(笑)。

  でも、30代後半からの女性に妄想を抱く人々が存在するのならば、いっそ「高齢者向けGORO」みたいな雑誌を作ったらいいんじゃないのかな。
  もちろん、グラビアを飾るのは「30代以上」の女性。
  写真のコメントには「年上の男性にまだまだ可愛がられたいの」とか「キモチもカラダも大人になった今だからこそ、思い切りオモチャにして」とか付けたらいいんでは?
  
  マスコミのおじさまたちが連日おっしゃる通り、ほんとうに今の日本に元気が無いのならば、こんなふうに男性高齢者を元気付けて差し上げるのも、なかなか素敵かもよ。

 
 
  わたしは、どんなにナイスバデイだったとしてもぜーったいに遠慮させていただくけどね。
  
 
      天高し 天に届けと 加速する

  この夏、初めて子供二人を連れて、車を駆って実家まで帰った。

  3時間ばかりの距離だから、そう大したことは無い。愛車の調子は良く、加速は、気持ちがいいほどこちらの望み通り。北陸道で先が見えないほどの集中豪雨に見舞われたくらいが計算外の出来事だった、というそれだけのことだ。
  だから、夫から「これで運転に自信がついたやろ」というメールが来たときには、首をかしげた。
  田舎出身だから、生活にクルマは欠かせなくて、通勤で毎日ハンドルを握っていたわたしに、今更「自信がついた」とか言われても・・・。

  男はどうして、女に対し、自分が「上」であると思い込むのだろう。
  運転も、仕事も、そしてセックスも。
  「男が女を開発していく」という図式になるのは、なぜ?

  ここで、いきなり話が飛ぶのだけど、「愛の流刑地」という新聞小説がある。
  「失楽園」のワタナベ先生のお書きになっているもので、日経新聞の文化欄で連載中の「話題作」である。
  ヒロインは37歳、専業主婦、北陸出身、子持ち。
  この経歴がほぼわたしと同じなので、興味深く読み始めた。ものの、あまりのリアリテイの無さについていけなくなってしまった。
  イマドキ、こんな37歳女はいないであろう。
  と、思いつつ、それでも、不倫中で夫が横暴、というところなど、ほかにも共通項があることから、なるべく好意的に読んできたつもり、なんだけど・・
  やはり、どうしても理解できなかった。
  「こんな身体にされちゃって・・」
  などという言葉が、わからない。
  男は知らないけど、女の性的快感は、気持ちの部分が大きいように思う。言うまでもなく、「愛している」という大きな心のうねりがあってこその「快感」ではないのか。
  だから、「オレがあいつを開発してやったんだ」というようなことを思っている男の方は、そうではなくて「彼女はオレを愛してくれたからこそ、あんなに燃えたんだ」と、せめてそういうように解釈して欲しい。あるいは、彼女は単に動物のメスとしてオスを求めていただけなのかもしれないけど。
  ポイントは、快感のツボは女自身が握っているのだ、ということ。
  「こんな身体になっちゃって・・。」
  であったならば、少しは理解できるんだけどな。
  それでも、「なんでこのおっさんなん?」という疑問はずっと胸にわだかまっていた。かつての憧れのひとだから?ものすごくお金をつかって逢瀬をアレンジしてくれたから?まあ、恋愛とはそういう「なんやらわからんけど、このひとでないとあかんねん」というものだから、冬香サンもそうだとしよう。
  でも、ある一言で、わたしは「これは、わからん」と思い、好意的にとらえることを放棄した。それが、

  「愛で死なずに、なんで死ぬの?・・・」
 
   だった。

  あの一言は、正直キレた。
  なぜなら、ちょうどわたしが瀬戸際でふんばっていたからである。ここですべてをあきらめて、人形みたいに、心を殺してしまおうかな、と。
  子持ちの女は、愛に溺れてしまうというわけにはいかないのである。母親が存在している意味は、子を育てることにあるのだ。わたしがいなくなれば、明日のお弁当はだれがこしらえるのだ?体操服の名札がとれたのは誰が縫うのだ?幼稚園の送迎やら学校行事のサポートやら、そういうことが一気に滞ってしまう。わたしの人生は、弁当であり、泥だらけの体操服なのだ。夜中に何をされようと、朝には起きて、台所に立たねばならない。バス停で、お迎えの先生に笑いかけなくてはならない。
だから、無理やりにでも生きなくては、自分の命をつながなくては、いけない。

 「愛で、生きずに、なんで生きるの?」
  
  愛するひとがいるのなら、その心意気でなきゃやってられない。大体、冬香サンの末子は、わが娘チョーコと同じだったと思う。だったら、菊治サンのマンションを一歩出たら、そこで、子供の翌日の弁当のおかずのことが頭をよぎらないわけがない。夫から「子は置いて出て行け」と言われて泣き崩れているほど、大切にわが子を育てている女なら。

  男女の愛なんて、破滅に向かうほうが楽なんじゃないか。

  まして、不倫関係ならば。
  わたしも、このままこのひとに殺されたらしあわせだな、と思うこともある。そういう儚さがまったく似合わない自分であり、彼であるにも関わらず。

  それを、生きることに向けることの、なんとややこしいこと。なんとエネルギーを必要とすること。不毛の土地に作物を植えようとするみたいな辛抱強さと、その愛への信頼がなくては、とても不倫の恋はつらぬけない。中途半端で終わらせる気なら、最初からしないほうがいい。本気になればなるほど、破滅に近付く。そして、火遊びなら、それは恋ではない。

  
   で、結局、冬香サンは「愛で死ぬ」ことになった。
   と、いうか、「死なせられた」。
   この意味は、菊治サンによって、という意味もあるけれど、作者によって、そうして、「男」によって、そうなってしまった、と思う。

   男の大きな胸に包まれるのは、嬉しい。
   男の分厚い手のひらに、両手を預けるのも。
   男の力にかなわないのも、その力に護られる自分を感じれば、それは限りない幸福に包まれることだ。
  
   女は、男が好き。

   だから、そこに確実に愛があるならば、多少小バカにされようが、ないがしろにされようが、構わない。ただ、女にも今日まで生きてきた時間があって、それはミルフィーユのように丹念に積み重ねられた大切な月日である、ということを、男のひとには忘れないでほしい。
 
   あなたの上に流れた時間たちは、わたしの上にも流れたのよ。

   

 
      秋の風 もつれた糸も 赤い色

  
  誰かを傷つけて生きるのは嫌だ。
  誰かに傷つけられて生きるのも嫌だ。
  
  折り合いがつかない。
  どうすればいいのだろう。
  
  
  
  
     向日葵の もたれず伸びて 日に 殉ず

  それは台風の夜のことだった。
  車で暴風雨の中を帰宅する途中、住宅地のはずれに立つ白い人影を見た。
  ワイパーが役に立たないくらいの豪雨の中、すっくと立ち尽くす一人の女。
  目にしたとたん、ぞっとした。
  そこが、廃車置場で、その人の立っているのが事故車の上だと気が付いたから。

  由真は向日葵のような少女だった。
  生まれつき巻き毛の髪が、朗らかな丸顔を飾っていた。背が高く、中学三年にして豊満な胸はセーラー服のリボンを思い切りせり上げてはちきれそうだった。
  バドミントン部の副主将で、スポーツは何でも得意。特にハードル走や走り幅跳びは陸上部並に成績が良かった。立派な太ももを高々と上げ、次々とハードルを飛び越えて行くときの迫力に満ちた美しさは、今でもはっきりと目に浮かぶ。
  わたしは、彼女にあこがれていた。
  当時のわたしときたら、チビで貧相な体格、しかも度の強いめがねを時々かけなくてはならず、いじめにも遭って自信をなくし放題というありさま。教室のどこにいても聞こえてくる朗らかな由真の笑い声を耳にするたび、由真みたいになれたらな、とため息をついていた。
  
  由真の住む家とわたしの家とは同じ住宅地にあった。中二のときに引越しをしたわたしは長くそのことに気が付かず、だから一緒に登下校するようなことも無かったのだけれど、なんとなく途中で会ったときなどは、そのままためらわずに行動を共にしていた。ものすごく仲良しというわけではないが気が合わないわけでもなく、どちらかというと、タイプの全く違う相手に対し、それぞれが一目置いていたように思う。
  進学の話をしたこともある。
  「わたしは普通科に行きたいの。T校は無理でも、S校には行きたいな。体育の先生になりたいから。」
  彼女らしい、すっきりと将来を見通したクリアな話しぶりがまぶしかった。
  「音子はT校志望なんでしょ。テツガクと一緒に行きたいもんね。」
  「テツガク」というのが当時のわたしのBFのあだ名だった。成績のいい、理屈っぽい田舎の男の子だった。わたしは曖昧にうなずきながら、将来の職業まで考えて高校を選ぶ由真に比べて、自分はたかが付き合っている男のそばにいたいがために難関に挑もうとしているのか、と劣等感でつぶされそうだった。
  「うん、一応、行きたいとは思っているよ。でも、数学がめちゃめちゃダメだからなあ。」わたしが自信なさそうに言うと、
  「ああ、そんなん大丈夫。音子は国語ができるじゃん。それでカバーできるよ。わたしはどうも国語って苦手でさ、なんか小難しいこと考えることがキライだもん。」
  由真の声は初秋の夕方の空気を震わせて高かった。
  高くて、澄んでいた。

  そして、一点の曇りもない秋の青空みたいに明るかった。

  
  そう、由真は明朗で、小難しいことをあれこれ考えるのがキライで、そして自信にあふれて、輝いていた。はずだ。

  そして、20年以上が過ぎた。

  この夏、実家の母に
 「コバヤシさんが、亡くなったんだよ。」
 と、聞かされたときには、誰のことかわからなかった。「コバヤシ ユマ」という名前を思い出したときには、
 「え?ユマのお父さん?お母さんの方かな?。」
 と口にした。それが、
 「違うよ。由真ちゃんだよ。」そして、母は声を不謹慎でない程度に声をひそめて続けた。
 「由真ちゃん、自殺したんだよ。」

  由真は30半ばで死んだ。
  去年の年末のことだという。講師という立場で子供たちに体育を教えていたものの、教師として本採用はされず、結婚もしていなかった。北陸の旧い常識に縛られた由真の親族たちがその生き方を責めた挙句の自死だった。
 「去年の年末・・・。」
  それは、ちょうどわたしもふらふらと死の誘惑に見舞われていた頃だ。
  「結婚してたって、子供がいたって、しあわせとは限らないのにね。」
  頭の中は、由真の笑顔でいっぱいだった。色白で、両方の頬にえくぼができたんだった。かっこよくて可愛い人だった。由真。いつもクラスじゅうの友達に笑いかけているような人だった。どうしても、どうしても、あの笑顔が自殺という行動に結びつかない。小難しいことは考えない主義じゃなかったの?人生について何か言われたところで、突っぱねていけばよかったのに。あなたの笑顔は天下無敵だったよ。
  無口になったわたしに、母が静かに言った。
  「結婚しろって、とやかく周りであせらせても、いいことはないんやね。」

  

  「離婚しても仕方がない」という雰囲気が実家から感じられるようになったのは、それからだ。父は相変わらず、なんとか我慢をしろというが、以前のような高圧的な感じではなくなった。同じ住宅地の中で、娘と同い年の女が「親族から生き方を責め立てられて自殺」したことが、わたしの両親の態度を変えた。
  わたしを、由真が護ってくれたかたちになった。
  はからずも。

  わたしは今も、その死が間違いのような気がしてならない。
  少なくとも自殺とは思えない。交通事故か何かか、あるいはー。

  わたしが見た、あちらの世界の人が、何かの間違いで由真を連れて行ってしまったのだ。その白い人がぼおっと立ち尽くしていたのが、彼女の父親が経営する工場の敷地内だったから、そんなふうにしか思えない。

  

シネマバトン

2005年8月23日 映画
  こんにちは。お久しぶりです。
  「コミック」と「シネマ」ふたつもバトンをいただいていたのに、ご無沙汰しておりました。コミックの方を先にいただいてたかもしれないけど、今日はシネマで。。
 
 ・購入済みのDVDまたは録画済みのビデオ本数。
 
    ありません。って思ってたけど、何本かはあった。
    基本的に映画は映画館で観たいほうかな。

 ・今、おもしろい映画
 
   子の付き合いで観る映画で感動するとおトク感あり。

 ・最後に観た映画
  
    「ポケットモンスター ミュウと波導の勇者」

 ・よく観る、あるいは特別な思い入れのある映画5本

    「オールウェイズ」1989 米
       映画は北陸時代、デートコースの王道だった。

    「シカゴ」 2002 米
    「ベニー・グッドマン物語」1955 米
       スィングは好き。というだけのことかも。音楽系       好きです。「ドアーズ」とかも泣いた。

    
    「ラマン 愛人」 1991 仏
       これは原作も好き。映画もお気に入りです。
       海の上のピアノのシーンがどちらもイイ。

    「死刑台のエレベーター」 1957 仏
       これも、マイルスの音楽がお気に入り。
       不倫ものなのでアレだけど。
    「ショコキ!」 2001 日本
       これは、マギーさんの初監督作品ってことで。
       エレベーターつながりというわけではない(笑) 

 最近は子供たちに付き合って観ることが多く、自分が観たくても観に行く時間が無かったりする。
  それでも、いろいろ思い出すと心に残る映画はあるもんだなあと。
  日本の映画ではアニメが多いことに気が付いたり。
  観に行った相手をよーく思い出したら「お見合い」だったりね。一度しか会ってない人と、一度きりの映画を観る。
  そんなこともあったな。

    
   ・・・と、思いませんか(笑)

 「ミュージックバトン」ありがとうございます。
 作者サンの「横顔」を見ることができて、楽しんで読んでいたら、バトンを回していただきました。ここ半年ばかり、わたしの音楽生活がいかに変わったか、をあらためて思いました。

 で、
 1.PCに入っている曲。
   「彼」が運んでくれた音楽は、ほとんど(時々ミスしてとりそこなった)入れています。トータルで13時間くらい。      つまり、それだけで半日楽しめるということ。仕事中は流しっぱなしだったりします。
   アルバムが二枚以上入っているものだけ書くと、
   U2
   Led Zeppelin
   あとは洋楽ばかり、いろいろ。わたしが自分で入れたのは
   GREEN DAY
   のみです。わたしは好きですが「彼」はキライらしい。

  2.今、聴いてる曲
    今聴いているアルバムは
    ”Achtung Baby” U2
  

  3.最後に買ったCD
    ”Paper Tigers” Caesars

  4.思い入れのある曲
     
    ”SIR DUKE” STEVIE WONDER
     
   クラリネット担当のわたしは、トランペット担当の先輩に密かな憧れを抱いていたが、二人の一生がからんだのは、この曲のソロの部分何小節か、だけだった。
   
    ”クレイジー フォー ユー” マドンナ
 
   恋人の部屋に朝までいたのに、二人でイケナイことは何ひとつせず、ひたすら市販のバンドスコアをブラスバンドスコアに作り替える作業に熱中していた。そのとき使ったキーボードは今でも持っているが、すっかり娘たちのおもちゃになっている。

    ”ハートをロック” 松田聖子
 
    「この曲の女の子って、音子さんに似てるんだ。」
わざわざ部室にラジカセを持って来て聴かせてくれた。そのせいかどうか、バンドで唯一、ボーカルをちゃんととれたのがこれ。

    ”My Foolish Heart” BILLE EVANS    
    
   まだ「彼」と知り合ったころ、一番好きな曲を聞かれて答えた曲。恋をするたびにピアノで弾いてた。今もここにピアノがあれば弾きたい、かも。。
 
   そして、わたしにロックを教えた「彼」に、わたしはこの歌の真実を教えてしまうことになった、かもしれない。
    
  "Love ?s Blindness" U2     

・・・こんなところでしょうか。
   音楽的ルーツは、佐野元春さんです。彼の音楽なしに、わたしは青春を語ることはできません。
   それから、直接思いを歌詞にぶつけるのではなく、風や空や季節の移り変わりで思いを語る素晴らしさを教えてくれたのは、ユーミンです。
   
   「彼」と話していても、よく思うのですが、わたしは吹奏楽部とピアノという二本柱で音楽と関わってきたのだけど、これはどちらも、
  「向こうから来る音楽」
なんですよね。指導者が選んだ曲を自分のものにしようとするという。
   自分でバンド組むなり、CD買うなりして自発的に動いてきた人たちには、良い音楽を求める貪欲さがあって、それって、与えられたものを楽しんできた人間にはない強烈な光があるみたい。

   さて、次に回す方ですが・・・ここは、なんだかんだ言っても大好きなピアノつながりでいこうかな。
   村松健さんを通して、ピアノの素晴らしさを再認識させてくださった「みゆ」さん、
   ビートルズの弾き語り体験を話してくださった「つとむ」 さん、よろしければお願いします。 
 
 「かわれて、みませんか。私に。あなたとなら、息の合った関係がつくれそうだ。」

  電話の向こうから聞こえてきたのは、あくまでも冷静な声。
  わたしは、「かわれる」を頭の中で漢字に変換しようとして、おろかにも沈黙してしまっていた。つまり「買われる」のか、「飼われる」のか。
 
  「もちろん、あなたを監禁しようなんて、思っていませんよ。こういうのは信頼関係あってこそなんだ。お互いに、まずはことばから、相手を信じて初めて成り立つ関係なんだ。」

  男は、30才だと言った。職業をたずねると、医者だと答えた。唐突にかかってきた電話。新手の「イタ電」だった。受話器を取ったとたんに、耳元にこぼれてきたのは、
  「今から言うことを繰り返してください。」
  という、少し高めのトーン。冷静な口調で、静かに、
  「ご主人様。これから、わたしを思いのままにしてください。それが、わたしのよろこびです。」とゆっくり言って、
  「さあ、繰り返してください。」
  と、続けた。それは、「パートナー探し」をしている「S」の男性からの「イタ電」だった。よりによって、三十過ぎの、子持ちの女に引っかかったわけだ。わたしは、とっさに受話器をフックにかけようとしたのだが、怒りにかられた弾みで口走ってしまった。
  「一方的に暴力をふるって快楽を得ることは、どんなタイプの趣味であれ、興味がありません。」
   

   
   「SMを、勘違いしてますね。あれは、バカがやるとただの暴力になるんだ。そうじゃない。身体にも、もちろん、心にも、いっさい傷はつけない。まずは、信頼関係。ことばの積み重ねこそ、たいせつなんですよ。」
  いつしか、男の話き聞き入っていた。
  ことばの積み重ねによる信頼関係の構築、だって、それは、わたしが結婚生活で最も渇望していたものだったから。わたしは、パートナーからなんらことばをもらえないまま、夜毎にいたぶられてきたのだった。おそらく、「緊縛」という、その趣味があれば相当の快楽をもたらす方法で。
  「でも、いためつけられて快感を得ることは、わたしには無いと思います。」
  どんなに愛している相手でも、暴力的な目つきをされただけで怯えてしまう、それをわたしは身を以って知っている。でも、もちろん、そんなことは電話の向こうの男は知らない。
  「それは、興奮の相乗効果を知らないからです。
   あなたが興奮すると、私は興奮する。そして、双方が高まっていく。
   そういうものなんですよ。」
   わたしは、ため息をついた。
  「興奮することで、お互いを刺激しあうことは、知っています。だけど、それは、ごく普通の恋愛でも起こりえること。あなたのいうような、主従関係とは違う気がします。」
  「主従関係とも違うんです。」

  結局、「S」なその男とは、20分近く話した。最後にメルアドを聞かれて、答えなかったときに言われたのが、私にかわれてみませんか、だったのだ。
  「あなたは、私もを理解してくれようとしている気がする。そして、私も、そんなあなたに惹かれるものがあります。もしもあなたが金銭的に困っているなら、私はあなたをかってもいい。」
   このひとさびしいのだな、と感じた。孤独な心は、無意識に孤独な心と共鳴するのだろうか。
  「わたしはDVに遭いました。だから、あなたの言うことに興味を示してしまいました。でも、今、傷ついています。」

  男は、メルアドを告げた。そして、電話は切られたのだが、その直前にもう一度、
  「SMは、暴力とはまったく別なものです。それは高度に知的な遊びと思ってもらっていい。それを理解して、私のパートナーになってください。」
  と、繰り返すのを忘れなかった。

  電話を切ったあと、無性にむなしくなって、それから怖くなった。どこからか届けられた男の声に簡単に傷つけられる自分の心を嫌悪した。
  蒸し暑い夜風が、薄汚れたカーテンを押し倒すようにして部屋に入り込んできていた。

  
 俳句ができません。
 どうしてもだめです。しばらく、俳句なしで書いていくことにします。自分では、俳句なしなら、この日記を付けている意味が無いように思えてなりません。
 でも、だめです。
   

    居場所なきままに逝く春 またいくつ

  
  実家の母親に、離婚したいと話したところ、子供のために耐えろの一点張りの答えであった。
  「この年になって、どうしてそんな面倒を押し付けられなくてはいけないのか」
  そういうことだ。
  子持ちの出戻り娘は「面倒」なのだ。ま、実に正直でよろしい。早く孫の顔を見せろというので結婚して、その孫を里帰り出産したところ「どうしてこんなに大変な苦労をかけるのか」となじったひとである。そういうことだ。
  
  
  「いい年をして相手のいない娘を抱えていることが、どんなに恥か、考えたことある?」
  
  ・・・思い出した。あのときの居場所の無さを。何かにつけて、結婚しろ結婚しろしない女は恥だ、と言われ続けていた日々。誕生日やお正月はもちろん、芸能人の婚約のニュースや友人の出産や飼い猫の病気や近所の老人の死にいたるまで、過剰反応気味に「結婚しなさい」に結び付けられていた日々。

  そっか。
  そもそも、わたしはあの場所に居場所は無かったんだな。

  そうして、離婚を考えている今、あえて結婚の利益を考える。多少、自虐的に。
  
  どう考えても、一つしか浮かばない。
  「社会的な居場所を確保した」ことである。
  わたしは、会社名を言えば、ああ、あそこねーという返事をもらえる会社の会社員の妻であり、二児の母親である。一人は小学生。一人は幼稚園児。どちらもまだ幼いから、仕事を持っていなくても、とりあえずは認知してもらえる、誰に?社会的に。
  結婚しているので、「早く結婚しろ」と脅迫されることは無くなった。子供を平均値よりも若干多く生んだので「お子さんは?」攻撃も無い。なんてありがたい人生。そんな感じ。
  そう、たとえ家の中で何が起こっていようとも、世間様から見れば、あそこは安心して放っておいていい、そういう家庭に、わたしは生きている。

  そして、結婚していることの不幸、いや、短所とは?

  幸福は似通っているけれども、不幸はひとつひとつ違う、そんな感じ、そういう答えしかできない。結婚した方が孤独になったーなんてありえないと思うひとも多いだろうから。

  これから結婚するひとには、ひとつだけ書いておきたい。これは、失敗した人間だから言うのである。だから、そう重く受け止めないで欲しいのだけれど、

  「ひとを選ぶべき」
  
  ということ。年齢でも条件でも圧力でもない、「このひとだ」と思える相手が現れなかったら、するな!と言いたい。
  わたしは母親に「あんたには赤い糸は無い」と断言されていた。赤い糸があれば、もうその年まで独り者でいるはずがないと。27だった。わたしはいろいろな理由で地元を出たくてたまらず、都会の男性との結婚を望んだ。父親に「お前がその気でも、都会の男が田舎育ちのお前など相手にしないかもしれない」と笑ったから、見事に引っかかった男を放さなかった。それが、今の夫。思えば彼にも気の毒なことをした。
  わたしは、運命のひとがいない自分が、「世間並みに」結婚はできたのだから良しとしようと考えた。まさか、自分の小指にも赤い糸が、しかもほかの男のひとと結ばれていることに結婚してから気が付くとは。

  世間なんか、どうでもよかったんだ。
  わたしの人生なんだから自己責任をとる、と、どうして強く言い切れなかったのだろう。何も恥ずかしいことはしていなかったはずなのに、どうして恥をかかせるなと言われて、本当に自分を恥だと思いこんでしまったのだろう。

  誰にも、赤い糸はあるのだ。
  運命のひとは存在するのだ。
  とにかく、自分は何が好きで、自分に必要なものは何で、不必要なものは何なのか、自分をとことん知ることが先。何も自信を持つ必要は無い。自分に欠けているものが何かを追求してもいい。そして、それは欠けていてもいいのか、それでは嫌なのか考えてみて。
  結婚を意識するような恋をするなら、それからの方がほんとうはいい。なかなかそうはいかないけれども。お見合いだろうが、紹介だろうが出会い方はどうだっていい。ただ、出会うときに「自分」を持っている方が間違えないように思う。

  失敗した者があれこれ説教じみたことを書くのもどうかと思うけれど、わたしは30才を過ぎて、ようやく、自分の好きなものや必要なものを選別できるようになった。迷いがあるのなら、30才になってから考えてもいいのじゃないかなと思う。30代半ばを過ぎてリセットしようとする方が、つらいからね。

  
  

 
      背徳は紅のいろして桜蘂

  葉桜の季節。
  桜の花びらが降りしきる駅のホームで電車を待つ。
  風の手触りが優しくなった。
  若葉の季節が近い。

  木々の枝から柔らかな葉が萌え出すころ、なぜか毎年、不安になる。
  さかんに伸びて、日々濃くなる緑に生きる力を吸い取られていくような。
  春の始まりには穏やかに感じた花々の香さえ、この季節には濃厚で息苦しくなる。

  桜は花びらを地面いっぱいに散り敷いてのちに、今度は桜蘂をふりまいて、わたしの心を波立たせる。確実に時は流れ、花も実もいつしか無になる。
  わたしが、無になるのは、いつだろう。

  背徳と呼ばれる行為でも、貫き通せば果実になるはず。
  果実になる前に腐らなければの話だ。この調子では、実る前にわたしが消えてしまうかもしれない。
  
  花の終わった枝先に、無数の紅色の尖端。
  今日は、桜が恐ろしい。

  


  
      白蝶の追いつ追われつ大空へ

  二匹の白い蝶々が、ふざけるように、じゃれるように、空へ空へと舞いながら飛んで行く。
  
  後には、淡い青一色の空。

 
 
  80年代のロックを聴くと、なぜだか空を思い出す。
  あの頃のわたしは、音楽を聴きながら、やたらと空ばかり眺めて生きていたらしい。

  あの頃になりたかった30代でいるだろうか。
  いくつかのことはクリアした。でも、まだまだ青いんだよね。
  わたしって、死んでも、いい女、にはなれないタイプみたいだ。
  そんなことを考えた今日も、空をうち眺めていたわたしである。
     ときに手をさしのべられて桜かな

  花の季節に生まれてしまったので、花の季節に年をとらなければならない。
  若い頃は、頬にふれる風が柔らかくなり、桜の幹が甘く発情し始めると、ああ、またひとつ年をとるんだな、という憂鬱だけを感じた。
  でも、いつの頃からだろう、この「年をとる」という感覚に加えて、もうひとつの想いが加わった。
  
  あと何回、この花を迎えられるのだろう。
 
  そんな想い。

 「誕生日プレゼントは何も買わなくていい。だから、一日、完全なお休みをください。」
  そうして得た「誕生日特別休日」に、桜を見に行った。
  山の桜は、静かに咲いていた。
  晴天に恵まれた週末の真昼、山道は人々の笑い声と、屋台の呼び込みの声であふれていたけれど、花は、ただ、咲いていた。やるべきことを、文字通り自然にこなしている生きものの自信を感じた。
  この一年、激しい雨に打たれることも、根こそぎ倒されようかという強風に煽られたこともあっただろうに。
  重い雪に枝をおしつぶされそうにもなったかもしれない。凍てつく夜には枝も幹も凍りついていただろう。
  それでも、受けたダメージを微塵にも出さずに、今はただ、花を枝先からこぼれんばかりに咲かせている。ある木は薄紅色に、またある木は鮮やかな桃色に。雪のように白い花を付けている木もある。それぞれが、それぞれに、それぞれの想いをあふれさせるように、周りの空気を自分の色で染め上げながら、小さな花々を枝いっぱいに揺らしている。
  激しくも、淡々と。

  だが止まることの無い時の流れの中で、間も無く、桜は散る。
  そして、わたしもいつしか死んでいく。生きものとして悩みながら喜びながら、なすべきことは何かをつかんだりつかみそこねたりして、それを繰り返しながら、いつかは散る。
  わたしは、命が消える年まで毎春、桜に出会い、桜にあこがれて生きるのだろう。山にあふれる桜を求めて訪れた多くの人々と同じように。そして、わたしやここにいる人のすべてが花を見送らなくなっても、繰り返し、繰り返して桜の木々は花々をあふれさせるのだ。

  それが自然というものなのだろう。
  
  ならば、年をとることを、怖がらないで生きたい。時という悠長な流れの中の、ちいさな生きものの一つとして、しなやかに生きて、死にたい。

  それでも。
  わたしは、肩に置かれている手のひらの温かさに願をかける。愛という感情を抱いて生きる生きものとして、この時間だけは永遠であってくれたら、と。
 
 そして、それでもわたしは「季節のいいもの探し」は続けていこうと思っています。
 よろしければ、時々読みに来てください。
 ただ、浮気や駆け引きについては書けないかもしれません。しばらく恋の楽しみを表現することは難しそうです。
  書きかけで字数オーバーしてしまいました。ごめんなさい。
  昨日の続きです。

  相変わらず、秘密にて。
   春の青空に抱かれて柔らかく柔らかくなれ
                 蕾も わたしも

  
  ご無沙汰しております。みなさまの日記は、少しずつ読ませていただいております。
  メッセージいただいた方、ありがとうございます。お返事が遅れてごめんなさい。こちらも、少しずつ・・・。

  少しずつ、自分のペースを取り戻そう。
  そんなことを「決意」したりする。
  
  現実が、非現実を超えてしまった気がした。
  でも、それをそのまま書くと、思い切り自分に酔っているみたいな文章になって、嫌気がさして、書いては消して、書いては、消して。

  で、決めた。
  
      風花や 逢ふと別れは同じ数

  年末に北野で聴いたライブで、村松健さんが話していたこと。
  「逢えてよかった」だったか「出逢いと別れ」だったか、どちらかの曲のときだった。

  「考えてみれば、出逢いと別れとは、必ず同じ数なんですよね。たとえ、あるひとと、一生そばにいようと思っても、必ず最期には、死という別れがある。」

  晩秋から冬にかけて、なぜか心がものすごく不安定だった。
  仕事が立て込み、慢性的に睡眠不足が続いていたこともあるだろう、しかも、不慣れな仕事だから、力の抜きどころが分からず、気持ちの休まる暇が無かった。もちろん、実力不足だから負担になるわけだけれど、会社がまるでこちらを試すみたいに、違う種類の仕事をくれ続けたことも、緊張の原因だったと思う。

  そんな中で、大切に思っていたひととも音信不通になってしまった。

  
  出逢いと別れとは、同じ数。

  だけど、悔いの残る別れとそうでない別れというのはあるだろう。
  ほんとうは離れたくなかったのに、まるで見えない力で引き裂かれるように、あるいは、大事なものを無理やり取り上げられるように、いきなり別れの時が訪れることもある。

  だけど、あえてこう考えたい。

  出逢いにはすべて、何かしら意味があるのだ。
  意味の無い出逢いなど、ひとつも無いのだ。
  
  しかし、自分がその出逢いから得られるダイヤモンドの鉱脈は、出逢った相手そのひとの中には存在しないかもしれない。

  宝物は、そのひとではない。
  出逢ったこと自体の中に大切なものはある。

  もしかしたら、別れてからずっと後になって、輝石はみつかるのかもしれない。
  そのひとの、はるか向こう側に静かに埋もれているのかもしれない。

  そう、宝物は、あなたでは無かった。

  今なら、わたしはそう言い切ることが、できる。
  さよなら。

  そうして、あなたに逢えたから得られるはずの宝石を、わたしはもう捜し始めているのです。

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